総評20年史04編 闘争の前進(1951-54年)
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01 |
51年秋の闘争 |
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講和・安保両条約の批准/総評の反対闘争方針/「非常事態宣言」の発出/炭労の対角線交渉/電産、全纎、三越、京都市電闘争/ |
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02 |
新たなたたかいの高まり |
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52年春の闘争方針/”ニワトリからアヒルヘ”/賃金綱領の策定/宇部窒素首切り反対闘争/私鉄、全鉱のたたかい/ |
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03 |
破防法ゼネスト |
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破防法案の出現/総評、法案撤回申入れ/ 破防法スト、第一波、第二波/血のメーデー事件/労働関係諸法改正案/第三波破防法スト/ |
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04 |
総評第3回定期大会 |
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労働運動弾圧の法体系/主要単産の動向/国際自由労連一括加盟を否決/左派社会党支持を決定/労闘ストの評価と反省/当面する基本的課題/( |
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05 |
局面の変化 |
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革新政党の動向/総選挙で両社会党躍進/総評の52年秋季闘争方針/電産、炭労の要求/ |
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06 |
電産、炭労の長期スト |
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経営者の組織攻撃/ストライキの強化/緊急調整の壁破れず/炭労の自己批判/長期ストをめぐる評価/ |
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07 |
長期ストにつづくもの |
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4単産声明/総評批判にたいする反批判/相次ぐ反動立法/左派社会党の進出/53年春の賃闘/ |
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08 |
総評路線と組織問題 |
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電産の分裂と反省/国際自由労連からの脱退傾向/ 「重光首班論」をめぐって/対外路線の拡大/内灘「基地反対闘争」/ |
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09 |
総評第4回定期大会 |
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「平和勢力論」の登場/左右の対立と分解/大会の終幕/右派勢力の結集/スト規制法反対闘争/ |
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10 |
MSA下の諸闘争(上) |
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日産自動車闘争の敗北/全駐労の労務契約闘争/三鉱連の職場闘争方針/”英雄なき113日のたたかい”/公労協の結成と闘争/ |
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11 |
MSA下の諸闘争(下) |
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国鉄処分反対闘争/日教組、教育二法反対闘争/炭労などの賃闘/私鉄、最大のスト/ |
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止
総評20年史03編 総評の発足と発展(1949-51年)
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01 |
産別会議、全労連の解体 |
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国鉄塩原大会の方向転換/全逓二つの大会/日教組の教育防衛闘争/ |
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02 |
民同勢力の主導権 |
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総同盟の民主化、新産別結成/官公労の結成とハンスト/統一戦線の準備活動/規約・綱領の討議/新産別の異論/「産報化」の危険への抵抗/ |
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03 |
総評結成前後の情勢 |
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中国革命の成立、コミンフォルム批判/共産党の内的対立/社会党内の紛争/国会共闘の賃上げ闘争/総評結成準備大会/ |
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04 |
朝鮮戦争の勃発 |
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電産、全日通の転換/日立、トヨタ、私鉄の諸闘争/朝鮮戦争の前夜/朝鮮戦争にたいする労働組合の態度/国際平和運動/ |
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05 |
総評第1回結成大会 |
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大会の開幕/基本綱領/規約/機関と運営/当面の行動綱領/組織強化方針/当面の闘争方針/大会の終幕/ |
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06 |
レッド・パージの嵐 |
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総評の朝鮮戦争にたいする態度/戦争体制下の闘争方針/全労連の解散指令/パージ反対の方針/日経連の「職場防衛運動」 |
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07 |
全面講和の要求 |
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特需ブームと労働運動/労働戦線の再編/「全闘」の結成とそのたたかい/炭労などの賃上げ闘争/講和問題をめぐる動き/ |
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08 |
総評第2回定期大会 |
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平和4原則と行動綱/平和闘争方針をめぐる討論/組織強化方針/国際自由労連一括加盟案を否決/大会の終幕とその意義/ |
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09 |
総評のたたかいの前進 |
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第2回大会前後の賃闘/メーデー会場問題/”教え子をふたたび戦場に送るな”/国労の内部対立/平和推進国民会議/ |
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10 |
対日講和条約、日米安保条約 |
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アメリカの野望/社会党左右の対立/総評、総同盟の対立する方針/「労闘」の結成/反動的国家体制の再編/ |
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止
総評20年史02編 総評結成にいたるまで(1948-49年)
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01 |
組合民主化運動のひろがり |
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細谷・高野ライン/民主化運動の考え方/ 産別・産別民同の応酬/産別会議の分解 |
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02 |
全官公の三月闘争 |
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2920円ベースの問題/職階制導入の意味/全逓の反対闘争方針/戦闘の開始/全官公労の体制/ふたたびたたかいの挫折/民間単産の闘争終結/ |
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03 |
反動期の襲来 |
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三月闘争ののこしたもの/組合活動にたいする制限/労働協約への攻撃/権力的弾圧の強化/東宝撮影所スト/ |
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04 |
初期占領政策の終末 |
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公安条令、在日朝鮮人への抑圧/経済政策の転換/官公労の5200円要求/夏季闘争の態勢/私鉄など民間単産のたたかい/ |
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05 |
政令201号の破紋 |
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労働戦線の亀裂/マ書簡と政令/政令をめぐる国労、全逓の態度/民同派の態度/中労委の立場/ |
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06 |
するどい政令反対闘争 |
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全労連、民同のたたかい/国鉄、全逓の職場離脱闘争/斜闘争、さみだれ戦術、職場闘争/指導権の問題/復金疑獄事件/社会党、労農党、共産党の動向/ |
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07 |
暗い時代へ |
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教育委員選挙への干渉/体系的な労働法規の改悪/賃金三原則、経済九原則/占領政策、ストを禁止/民間労組の越年闘/官公労の年末闘争/ |
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08 |
「ドッジ旋風」 |
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全労会議準備会の発足/総選挙と社会党の敗北/社会党の反省と再建/行政整理の開始/ |
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09 |
産業防衛闘争の展開 |
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補給金廃止と賃上げストップ/東交の公安条令制定反対闘争/国電スト、人民電車事件/広島日鋼闘争/平事件/国鉄熱海中央委員会/ |
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10 |
行政整理、企業整備 |
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下山事件、三鷹事件/大量首切りの実施/国鉄民同の0号指令/二つの国鉄中闘/成田中央委員会の成立/松川事件/(全逓の分裂、整理の終了/ |
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止
総評20年史01編 戦後労働運動の原点(1945-48年)
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01 |
労働運動の再生 |
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敗戦と焦土のなかから/外からの、上からの民主化/政党の活動開始/労働運動の再出発/生産管理闘争の展開 |
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02 |
全国組織の結成へ、総同盟の発足 |
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第17回・復活メーデー/食糧メーデー総同盟の結成総同盟の方針と陣容 |
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03 |
産別会議結成とその方向 |
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産業別組織化の進行/産別会議の発足とその方針/民主戦線への主張/二つの大会の対比 |
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04 |
九月闘争、十月攻勢 |
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悪性インフレーション/「日本国憲法」など/ストライキ戦術への転換/国鉄・海員の人員整理反対闘争/「十月攻勢」の展開/電産協、全炭のたたかい/ |
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05 |
二・一ゼネストに向けて |
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たたかいの「環」/民主戦線結成の挫折/吉田内閣打倒・統一戦線の成立/「共闘」「全闘」の確立/産業復興会議と経済復興会議/極東委員会の一六原則/ |
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06 |
高揚する二・一闘争 |
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ゼネスト宣言/闘争のプログラム/総司令部、政府の動向/劇的なスト中止/共闘体制の解体 |
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07 |
全労連の結成 |
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二・一ストの評価と反省/組織の再編と全労連/世界労連日本視察団の来訪/日経連結成の事情/四月総選挙の結果 |
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08 |
片山社会党首班内閣の功罪 |
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産別会議の自己批判/産別臨時大会の逆転/片山内閲の成立/低賃金/耐乏政策の続行/石炭国管案の後退/独占禁止法の制定 |
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09 |
地域闘争の展開 |
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一八〇〇円ベースの破綻/地域闘争方式の出現/全官公労の要求/理論生計費、労働協約の改悪/全逓の集団欠勤、山猫争議/政府の弾圧方針/ |
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10 |
労働者状態の悪化 |
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左右の対立激化/産別会議の組織動揺/片山内閣の退陣/芦田内閣と社会党/占領政策の転換/ |
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止
『総評20年史(上・下)』(日本労働組合総評議会、労働旬報社、1974年4月1日)
内容概略
編 |
期間 |
見出し |
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1 |
1945-48 |
戦後労働運動の原点 |
(上) |
2 |
1948-49 |
総評結成にいたるまで |
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3 |
1949-51 |
総評の発足と発展 |
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4 |
1951-54 |
闘争の前進 |
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5 |
1954-57 |
春闘方式の提起と発展 |
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6 |
1957-59 |
守勢から攻勢へ |
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7 |
1959-61 |
「大」安保・三池闘争 |
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8 |
1961-63 |
労働戦線の流動化 |
(下) |
9 |
1963-64 |
険悪な情勢下、春闘の前進 |
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10 |
1965-67 |
日韓条約、ベトナム反戦闘争 |
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11 |
1967-69 |
闘争局面の拡大と深化 |
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12 |
1969-70 |
70年安保闘争 |
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止
『ヒロシマあの時、原爆投下は止められた いま、明らかになる悲劇の真実』(TBSテレビ「ヒロシマ」制作スタッフ編、毎日新聞社、20060730)
内容
頁 |
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001 |
はじめに 筑紫哲也 |
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002 |
綾瀬はるか 祖母に原爆の話をきく |
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012 |
プロローグ セーラー服の少女 |
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014 |
原爆はなぜつくられたのか |
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014 |
マンハッタン計画 |
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原子爆弾のしくみ 放射能と放射線 第三帝国 |
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018 |
日本はどんな時代だったのか? |
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年表 |
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025 |
あの時原爆投下は止められた 原爆投下への分かれ道 画・つぼいこう |
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026 |
運命の2人 |
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分かれ道1 力への誘惑 031
分かれ道2 中心科学者の反対 035
分かれ道3 推進派vs反対派 039
分かれ道4 和平工作の誤算 043
分かれ道5 幻の12条 051 |
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057 |
1945年夏あの日広島で |
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058 |
1945年8月6日 |
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なぜ広島は選ばれたか 太平洋戦争のころのヒロシマ |
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060 |
エノラ・ゲイ |
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062 |
あのとき せん光が |
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065 |
爆心の街 |
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爆心の街を再現 |
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068 |
その時地下で |
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077 |
手記『ヒロシマ・ナガサキ 死と生の証言』より
黒い雨 |
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手記『ヒロシマ・ナガサキ 死と生の証言』より
ヒロシマ被爆地図 078 |
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079 |
消えた夢 学徒たちの遺品 |
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080 |
遺品は語る |
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085 |
日記 |
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086 |
戦争終結へ |
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088 |
原爆症、原爆後遺症 |
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090 |
いまも続く核の恐怖 |
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092 |
原爆をめぐる日本の意識、アメリカの意識 |
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きのこ雲を撮影したハロルド・アグニュー博士が広島を訪れた |
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094 |
アグニュー博士と被爆者との対面 |
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096 |
アグニュー博士ヒロシマ行取材記 萩原豊 |
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098 |
対談 原爆をめぐる過去、現在、未来 筑紫哲也×藤原帰一 |
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嶌暢大 |
マンハッタン計画同窓会取材記 |
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110 |
あとがき 「ヒロシマ」取材班 萩原豊 |
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111 |
参照文献 |
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参考資料
2005年8月5日放送 |
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被爆60年特別番組「戦後60年特別企画 ヒロシマ …あの時原爆投下は止められた …いま、明らかになる悲劇の真実」 (rcc.co.jp) |
番組内容 |
人類初めての原爆投下から今年60年を迎える。
広島・長崎では、少なくとも10数万人が命を落とし、現在に至るまで、放射能の影響で健康被害が続いている。そして、この原爆投下がその後の核開発の幕開けとなってしまった。米・ソの冷戦終了後10年以上時が過ぎても、地球上には数万発の核兵器が存在していると指摘されている。つまり原爆投下は過去の問題だけでなく、現在の問題でもあるのだ。
番組では 原爆開発や投下決定にかかわった当事者、被爆者の方々の貴重な新証言、膨大な数の史料を集めたドキュメント、さらに証言から忠実に制作した再現映像やCGなどによって60年目に初めて明らかになる事実から人類最大の悲劇の“全体像”を描いていく。 |
番組からのメッセージ |
・“継承”筑紫世代から綾瀬世代へ
・“核廃絶”
・“歴史からの教訓” |
番組の流れ |
・プロローグ(原爆ドーム前)
・戦争の基礎経緯~日米対立の構図
・テニアンから広島に飛び立ったエノラ・ゲイ物語(BBC制作ドラマより)
・なぜ原爆投下をとめることができなかったのか
原爆開発から投下までの歴史事実の紐解き
・ついに原爆投下
当時の広島は(資料からCGで完全再現)
被爆前の広島の人々
その瞬間広島の町はどうなったのか
・原爆の実態
原爆の破壊力を検証。キノコ雲の実態とは
・惨劇の全貌
被爆者の手記で語るあのとき(手記朗読:吉永小百合)
・エピローグ
筑紫、綾瀬からのメッセージ
広島から発するメッセージ |
キャスト |
ナビゲーター:筑紫哲也、綾瀬はるか(広島出身)
被爆者手記朗読:吉永小百合
ナレーター:森本毅郎
主題歌:平原綾香 with 久石譲 |
スタッフ |
制 作: |
TBSテレビ 報道局・制作局
プロデューサー |
戸田郁夫(制作局)
佐々木卓(報道局)
遠藤千鶴子(制作局) |
総合演出 |
萩原豊(報道局) |
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共同制作: |
BBC(イギリス) |
制作協力: |
RCC中国放送(広島) |
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止
原子爆弾後障害研究会で取り上げられた海外のヒバクシャ
年 |
回 |
報告者 |
タイトル |
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1964 |
06 |
熊取敏之 |
ロンゲラップ島被曝住民の調査報告(特別報告) |
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1987 |
28 |
蔵本淳 |
チェルノブイリ原発事故における医療の実態 |
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1989 |
30 |
蔵本淳 |
チェルノブイリ原発事故における医療の実態(第2報)-骨髄移植の適応と再評価 |
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1991 |
32 |
佐々木英夫ほか |
IAEA国際チェルノブイリ計画検診報告 |
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パネルディスカッション:放射線被曝者医療の国際協力 |
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平田克己 |
放射線被曝者医療の国際協力:広島県医師会の立場から |
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迎英明 |
過去の経験をふまえての被曝者への海外協力の問題点 |
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石野誠 |
放射線被曝者医療の国際協力:長崎における国際協力 |
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蔵本淳 |
放射線被曝者医療の国際協力:チェルノブイリの場合(医療サイドから) |
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河合護郎 |
医療推進事業への願いと提言 |
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矢野周作 |
放射線被曝者医療の国際協力:行政としての立場から |
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本間泉 |
放射線被曝と国際協力 |
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寺崎昌幸ほか |
腫瘍登録による国際協力-長崎市医師会腫瘍統計・組織登録 |
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1993 |
34 |
竹岡清二ほか |
ヒューマンカウンターによるチェルノブイリ周辺地域から来日した子供の137Cs体内放射能測定 |
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難波裕幸ほか |
チェルノブイリ周辺地域住民の尿中ヨード測定 |
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武市宣雄ほか |
チェルノブイリ原発事故と小児甲状腺癌-広島の原爆被爆者例と比べて |
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武市宣雄ほか |
広島の胎内原爆被爆者にみられた甲状腺癌の経験、チェルノブイリ原発事故の胎内被爆症例も含めて |
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佐藤幸男ほか |
WHOのInternational Program on the Health Effects of the Chernobyl Accident (IPHECA) のプロジェクト “Brain Damage in Utero” 紹介 |
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1994 |
35 |
久住静代ほか |
チェルノブイリ原発事故による広域放射能被曝の心理的影響(国際シンポジウム報告) |
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島崎達也ほか |
チェルノブイリ原発周辺住民の内部被曝線量の測定 |
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伊東正博ほか |
チェルノブイリ原発周辺地域における小児甲状腺疾患の形態学的検討 |
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瀬山敏雄ほか |
チェルノブイリ事故汚染地域における小児甲状腺癌の遺伝子変化 |
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高木昌彦 |
セミパラチンスク医科大学における第1回国際会議(環境・放射線・健康)の報告 |
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<以下未調査> |
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止
財団法人放射線影響研究所年報に見る放影研の「国際化」
年度 |
内容(抄) |
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75-78 |
「研究所の名称で、放射線影響学会及び日本学術会議よりクレームが出されていました」
「吸血鬼とか、禿鷹のような異名まで付けられ、比治山で睥睨[へいげい=周囲をにらみすえて威勢を示すこと]しているのはけしからん、早く山より下りて、もっと被爆者の福祉につながる仕事をしろというような声が高くて、それを打ち消すのにもかなりの期間と隠忍自重と努力とを要しました。」 |
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85-86 |
第13回放影研専門評議員会議事録(昭和61年3月18日-20日)
非公開会議
「その第1は、調査対象となり得る被爆者の数が徐々に減少しているという自明の事実であった。この事実により、放影研の将来を検討しなければならない問題が生じてくる。放影研は、その使命が次第に終結に近づくにつれて、厚生省が支援する他の団体に吸収合併されれば理想的である。言及されたように、加齢研究所が設立されれば、放影研はそこに同質の棲家を見いだすかもしれない。日米双方の専門評議員がこの問題の対策をたてられるように真剣に取り組む必要があるという点で意見が一致した。」 |
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86-87 |
重松逸造理事長「緒言」「昭和61年度における重要ニュースの一つは、4月に突如起こったソ連Chernobyl原子力発電所の爆発事故である。これに関連して、昭和62年1月11日から21日まで5名のソ連視察団が日本に派遣され、その一行は1月13日と14日の両日放影研の調査研究を見聞するために来訪した。広島・長崎の長年にわたる協力によって得られた当所の経験とデータは、原発事故被害者の保健福祉に役立つものと確信しているが、これはまた被爆者各位の御意向に沿うものと考えている。」 |
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87-88 |
重松逸造理事長「緒言」
「現在、放影研で進行中の研究課題は67件あり、そのうち29件(43%)が実験研究である。20年前に実験室研究が占める割合は10%に過ぎなかった。」 |
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88-89 |
J.W.Thissen副理事長「緒言」
「本年報で報告の対象となっている昨年度は、放影研の学術活動が極めて盛んに行われた記念すべき年であった。[中略] 世界の舞台において増大しつつある放影研の役割の一つに「国際化」がある。外国からの来訪者が増加しているばかりでなく、放影研の科学者に対し、世界保健機関、国際放射線防護委員会(ICRP)、欧州共同体委員会などの国際的機関が主催する活動への参加依頼が増加している。この原因の一端は、1986年のソ連Chernobylの原子炉事故と、ソ連における医学的追跡調査研究計画を作成するにあたり放影研をモデルにしていることにあるが、より大きな原因は、ICRPや国連科学委員会(UNSCEAR)等の機関の報告書や勧告に繰り込まれている人体に対する放射線リスクの測定に関する当研究所の所見の重要性が認められていることではなかろうか。」 |
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90-91 |
重松逸造理事長「緒言」
「最近では、当研究所で調査・研究してまいりました後影響の問題が重要視され、WHO(世界保健機関)、IAEA(国際原子力機関)などの国際機関のほか、日ソ政府間協力事業を通して協力が要請されております。」
「国際協力」の項
「放影研は、1979年に世界保健機関(WHO)の「放射線の人体影響に関する研究協力センター」に指定されている・・・」
「ソ連政府は、Chernobyl事故の健康影響についての科学的調査を国際原子力機関(IAEA)に依頼し、これを受けてIAEAは各国の専門家で構成された諮問委員会を組織し、重松逸造理事長がその委員長に任ぜられた。」
「日ソ両政府の間で1990年9月にChernobyl原発事故被害対策で協力することに合意し、それに基づく日ソ専門家会議が1990年12月に東京で、続いて1991年3月4-5日の両日、Moscowで開催された。重松逸造理事長は日本政府派遣専門家(9人)の団長としてこの会議に出席し、長期的な健康被害疫学調査に関する日本政府の協力内容の細部についてソ連専門家と協議した。」
「広島県が中心となって、人類初の原爆被爆地の使命として、世界各地の放射線被爆者の医療援助に資するため、県、市、医療・研究機関が参加して「放射線被曝者医療に関する国際協力検討委員会」を設立することになり、重松逸造理事長がその会長に選任された。原爆後40数年の経験について世界各国から情報提供、助言、医療面での援助などの要請が数多く寄せられており、関係各機関や行政が連係をとりながら、窓口を統一してより効率的に対応するための協力体制を検討することが目的であり、放影研も大きな役割を果たすことが期待されている。」 |
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『平和に生きる』(村上経行後援会、19721001)
内容
頁 |
見出し |
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口絵 |
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02 |
まえがき |
|
03 |
少年のころ |
|
|
/米騒動の年/小さな正義派 |
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08 |
学生時代 |
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|
/早稲田へ/冬の時代/学友とマルクス主義 |
|
12 |
敗戦前後 |
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/銃剣よさらば/三菱広船へ/結婚/被爆、父の死/待ちのぞんだ朝 |
|
17 |
党を求めて |
|
|
/党本部へ/地区委員会を結成/三菱の組合づくり///// |
|
23 |
日鋼闘争 |
|
|
/たたかいの火の手/広船の仲間と/血と怒りと/広がる支援/カチューシャのうた |
|
27 |
たたかいの軌跡 |
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|
三菱造船を首に/妻のたたかい/わたしと原水禁運動/署名のない手紙 |
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|
|
|
28 |
[コラム]夫を語る 身内も難題もずばっ(妻 須美子) |
|
30 |
[コラム]理路整然、純粋な人(山口勇子) |
|
|
|
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『広島のねがいを国政へ 活躍する、村上経行さん』(村上経行後援会、1975.12.25)<抄>
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ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。