財団法人放射線影響研究所年報に見る放影研の「国際化」
| 年度 |
内容(抄) |
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| 75-78 |
「研究所の名称で、放射線影響学会及び日本学術会議よりクレームが出されていました」
「吸血鬼とか、禿鷹のような異名まで付けられ、比治山で睥睨[へいげい=周囲をにらみすえて威勢を示すこと]しているのはけしからん、早く山より下りて、もっと被爆者の福祉につながる仕事をしろというような声が高くて、それを打ち消すのにもかなりの期間と隠忍自重と努力とを要しました。」 |
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| 85-86 |
第13回放影研専門評議員会議事録(昭和61年3月18日-20日)
非公開会議
「その第1は、調査対象となり得る被爆者の数が徐々に減少しているという自明の事実であった。この事実により、放影研の将来を検討しなければならない問題が生じてくる。放影研は、その使命が次第に終結に近づくにつれて、厚生省が支援する他の団体に吸収合併されれば理想的である。言及されたように、加齢研究所が設立されれば、放影研はそこに同質の棲家を見いだすかもしれない。日米双方の専門評議員がこの問題の対策をたてられるように真剣に取り組む必要があるという点で意見が一致した。」 |
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| 86-87 |
重松逸造理事長「緒言」「昭和61年度における重要ニュースの一つは、4月に突如起こったソ連Chernobyl原子力発電所の爆発事故である。これに関連して、昭和62年1月11日から21日まで5名のソ連視察団が日本に派遣され、その一行は1月13日と14日の両日放影研の調査研究を見聞するために来訪した。広島・長崎の長年にわたる協力によって得られた当所の経験とデータは、原発事故被害者の保健福祉に役立つものと確信しているが、これはまた被爆者各位の御意向に沿うものと考えている。」 |
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| 87-88 |
重松逸造理事長「緒言」
「現在、放影研で進行中の研究課題は67件あり、そのうち29件(43%)が実験研究である。20年前に実験室研究が占める割合は10%に過ぎなかった。」 |
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| 88-89 |
J.W.Thissen副理事長「緒言」
「本年報で報告の対象となっている昨年度は、放影研の学術活動が極めて盛んに行われた記念すべき年であった。[中略] 世界の舞台において増大しつつある放影研の役割の一つに「国際化」がある。外国からの来訪者が増加しているばかりでなく、放影研の科学者に対し、世界保健機関、国際放射線防護委員会(ICRP)、欧州共同体委員会などの国際的機関が主催する活動への参加依頼が増加している。この原因の一端は、1986年のソ連Chernobylの原子炉事故と、ソ連における医学的追跡調査研究計画を作成するにあたり放影研をモデルにしていることにあるが、より大きな原因は、ICRPや国連科学委員会(UNSCEAR)等の機関の報告書や勧告に繰り込まれている人体に対する放射線リスクの測定に関する当研究所の所見の重要性が認められていることではなかろうか。」 |
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| 90-91 |
重松逸造理事長「緒言」
「最近では、当研究所で調査・研究してまいりました後影響の問題が重要視され、WHO(世界保健機関)、IAEA(国際原子力機関)などの国際機関のほか、日ソ政府間協力事業を通して協力が要請されております。」
「国際協力」の項
「放影研は、1979年に世界保健機関(WHO)の「放射線の人体影響に関する研究協力センター」に指定されている・・・」
「ソ連政府は、Chernobyl事故の健康影響についての科学的調査を国際原子力機関(IAEA)に依頼し、これを受けてIAEAは各国の専門家で構成された諮問委員会を組織し、重松逸造理事長がその委員長に任ぜられた。」
「日ソ両政府の間で1990年9月にChernobyl原発事故被害対策で協力することに合意し、それに基づく日ソ専門家会議が1990年12月に東京で、続いて1991年3月4-5日の両日、Moscowで開催された。重松逸造理事長は日本政府派遣専門家(9人)の団長としてこの会議に出席し、長期的な健康被害疫学調査に関する日本政府の協力内容の細部についてソ連専門家と協議した。」
「広島県が中心となって、人類初の原爆被爆地の使命として、世界各地の放射線被爆者の医療援助に資するため、県、市、医療・研究機関が参加して「放射線被曝者医療に関する国際協力検討委員会」を設立することになり、重松逸造理事長がその会長に選任された。原爆後40数年の経験について世界各国から情報提供、助言、医療面での援助などの要請が数多く寄せられており、関係各機関や行政が連係をとりながら、窓口を統一してより効率的に対応するための協力体制を検討することが目的であり、放影研も大きな役割を果たすことが期待されている。」 |
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『平和に生きる』(村上経行後援会、19721001)
内容
| 頁 |
見出し |
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口絵 |
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| 02 |
まえがき |
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| 03 |
少年のころ |
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/米騒動の年/小さな正義派 |
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| 08 |
学生時代 |
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/早稲田へ/冬の時代/学友とマルクス主義 |
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| 12 |
敗戦前後 |
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/銃剣よさらば/三菱広船へ/結婚/被爆、父の死/待ちのぞんだ朝 |
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| 17 |
党を求めて |
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/党本部へ/地区委員会を結成/三菱の組合づくり///// |
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| 23 |
日鋼闘争 |
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/たたかいの火の手/広船の仲間と/血と怒りと/広がる支援/カチューシャのうた |
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| 27 |
たたかいの軌跡 |
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三菱造船を首に/妻のたたかい/わたしと原水禁運動/署名のない手紙 |
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| 28 |
[コラム]夫を語る 身内も難題もずばっ(妻 須美子) |
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| 30 |
[コラム]理路整然、純粋な人(山口勇子) |
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止
『広島のねがいを国政へ 活躍する、村上経行さん』(村上経行後援会、1975.12.25)<抄>
止
資料年表:村上経行<作成中>
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| 1918 |
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| 04 |
広島市大須賀町で生まれる。 |
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| 1942 |
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| 09 |
広島高等師範附属中学校卒 |
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| **** |
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| **** |
早稲田大学政経学部卒。この間広島鉄道局へ約1年勤務。 |
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| 1944 |
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| 03 |
三菱重工業(株)広島造船所勤務。労組結成に尽力。 |
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| 1945 |
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| 08 |
広島市南観音町で被爆。 |
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| 1946 |
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| 01 |
日本共産党に入党。 |
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| 1949 |
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| 1022 |
三菱を解雇される。長女2歳、長男は生まれて1カ月。 |
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<以上の出典=『平和に生きる』(1972)、『広島のねがいを国政へ』(1975)> |
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<宇吹は大学時代、同郷ということで長女(薬学部)・長男(医学部)と面識あり> |
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| 1972 |
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| 1001 |
『平和に生きる』(村上経行後援会) |
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| 1975 |
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| 1225 |
『広島のねがいを国政へ』(村上経行後援会) |
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| 1982 |
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| 0111 |
『黒い雨』(広島県「黒い雨・自宅看護」原爆被害者の会連絡協議会) |
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「黒い雨」降雨地域住民に被爆者手帳を 住民の不満や疑問 「赤旗」社会面トップに-35-<集まったのは10人ほど。民家の一室を借りておこなわれました。これには、共産党を代表して、村上経行党県経済委員長、屋敷一字広島市議らの姿も見えました> |
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連絡協議会役員一覧<顧問:村上経行> |
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| 1986 |
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| 0806 |
『核兵器廃絶を訴える被爆者国際遊説の記録 Hibakusha Peace Tour(原水爆禁止日本協議会、19860806)』 |
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被爆者国際遊説団名簿
●オランダA班 19850625~0708
村上経行 被爆者(広島) |
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| 1989 |
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| 0806 |
『黒い雨』(広島県「黒い雨・自宅看護」原爆被害者の会連絡協議会) |
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「まえがき」<会長:**、副会長**、事務局長 村上経行>。「あとがき」(事務局長 村上経行) |
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| 1991 |
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| 0607 |
藤居会社へ。村上経行も来る。 |
U |
| 1026 |
村上経行より電話。党史についての問い合わせ。ソ連の評価が再び問題となる。 |
U |
| 1992 |
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| 0302 |
村上経行より電話。今日午後来所予定であったが忘れていたとのこと。70周年党史の編さんについて。 |
U |
| 1110 |
村上経行より電話。原爆文献の数の問い合わせ。約6000件と答える。 |
U |
| 1222 |
藤居より電話。12時40分-13時20分。先日、村上経行が来た。 |
U |
| 1993 |
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| 0804 |
藤居より電話。約30分ほど話す。先日送った資料について感想を求めたら、今朝、村上経行が来た。村上がかって「ソ連の放射能で死ぬのなら本望」と言ったことがあるだろうと確認したら、認めた。竹内は、村上のようなものと一緒にやることは出来ないと言っていた。 |
U |
| 1117 |
村上経行、来所。民医連に来たついで。-15時45分。ニュースステーションの「黒い雨」特集の話。矢野記者が放影研の重松に会ったら「取材のスタンスを間違えている」という不見識なことを言った。放影研関係者が、黒い雨地域の住民の話を聞いたことは一度もない。 |
U |
| 1994 |
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| 1212 |
村上経行より電話。藤居のところで詳しい年表を見た。欲しい。宇吹=13日、自宅に郵送。 |
U |
| 1215 |
村上経行より電話。資料(被爆者運動年表)の礼。 |
U |
| 1995 |
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| 0322 |
村上経行から電話。風邪で入院中。予め郵送されていた「95年平和のための広島の戦争展」について。広島で、戦争展をやることには抵抗があったが、今回、やっと意志統一ができたとのこと。前面に出ることは求めないが、相談に乗って欲しいとのこと。****より頼まれた。 |
U |
| 1030 |
村上経行、来所。-15時半。****茂美「ことりもカラスもいなくなった」を持参、センターに寄贈。****が参加した国会請願について調査(何市何郡が参加したか)を依頼される。藤居を土曜日に見舞ったとのこと。インターネットを見せる。 |
U |
| 1116 |
村上経行へ1956年3月の国会請願の資料(***茂美関係)を送る。 |
U |
| 1221 |
村上経行より電話。「占領下のヒロシマ」について。藤居平一が胃ガンで手術をした由。 |
U |
| 1996 |
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| 0419 |
藤居通夜。田中(中国新聞)=昨年9月後も退院したり上京していた。宇吹は、大変良い仕事(「まどうてくれ」)をした。村上経行=亡くなる数日前に会った。もうあまり持たないということは、医者から言われていた。本人は死にたくない、と言っていた。 |
U |
| 0426 |
村上経行より電話。藤居夫人より読売新聞社(東京)が15日午後に取材に来るとの連絡があり、二人ほど立ち会って欲しいとのことであった。自分は出ないほうが良いと思う。宇吹を考えている。検討しておいて欲しい。 |
U |
| 0426 |
[つづき]村上経行=庄野は、吉田嘉清が弔辞を読むように勧めていたが、体調が悪いとか何とか言って、葬儀の途中で帰ってしまった。田中(中国)は、藤居のことを本にするつもりでいる。****が弔辞の朗読を申し入れたが、藤居夫人が断った。****も同様。 |
U |
| 0430 |
村上経行来所。5月15日の読売の藤居取材について相談。-11時。村上の話=4月14日に****と藤居夫人と3人で藤居を見舞った。廊下に出たら号泣していた。低空飛行3人組、村上孝太郎ETC。 |
U |
| 0509 |
村上経行より電話。読売の藤居夫人取材の手順についての相談。村上も藤居夫人もあまりに大げさに考えすぎると言うと、村上は「慣れていないから」と素直に返答していた。 |
U |
| 1997 |
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| 0121 |
村上経行より電話。山崎文男の日記、藤居追悼集の進捗状況について。 |
U |
| 1206 |
元大正屋呉服店(レストハウス)の保存・活用を「みんなで話し合う集い」。於国際会議場コスモス。 参加者150人。この会議では、最高の数(楠発言)。マスコミの取材多数。金沢・藪井も。松本寛・佐藤重夫・植木研介・村上経行・森脇勝義・安藤夫人らの顔を見る。 |
U |
| 1998 |
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| 1209 |
下村仁一画集「ヒロシマ-鎮魂と怒り」刊行を祝う会。於法華クラブ10F。-8時半。司会:小笠原伸江、チェロ演奏:庄司有子、挨拶:増田勉・吉野誠・石口俊一・橋詰由美子・中村俊博・久保浩之・石川・堂垣内崇雅など。[自由発言]宇吹=30年前、下村と一緒に資本論やレーニンを読んだ。楠=下村は、レッドパージになった3人の教員の1人。徳毛宜策・村上経行・若林節美・武田寛などの顔を見かける。 |
U |
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| 2000 |
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| 0714 |
村上経行、来所。13:00~13:30。広島大学医学部年史。 |
U |
| 0718 |
村上広島県「黒い雨・自宅看護」原爆被害者の会連絡協議会に医学部史を郵送。 |
U |
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| 2004 |
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| 0501 |
『黒い雨 ヒロシマからの証言』(広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会) |
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71p「黒い雨」と私(増田善信)<私がこの卵形の地域以外にも、「黒い雨」が降っていたことを知ったのは、1985年夏の原水爆禁止世界大会でした。当時の「黒い雨」の会の事務局長村上経行氏から教えられたもので、****> |
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95p <広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会名簿>の名誉役員欄に「村上経行」あり |
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| 2011 |
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| 07 |
村上経行没。享年93歳 |
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| 2012 |
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| 0930 |
『黒い雨 内部被曝の告発』(広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会) |
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103p「 村上経行さんが「黒い雨の調査結果には迷惑をこうむっている」という趣旨の発言をされた。」、「村上さんは開口一番「気象の専門家として、あんなに激しい雨があんなにきれいな卵型をした地域だけに降ると思いますか」と質問された」(増田善信) |
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止
原爆放射能医学研究所沿革(抄)<宇吹勤務期:1976年5月~2001年3月> 沿革 | 広島大学 (hiroshima-u.ac.jp)
| 年月日 |
事項 |
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| 195804 |
医学部附属原子放射能基礎医学研究施設設置
原子放射能医学理論の部門を置く。 |
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| 195901 |
原子放射能傷害医学の部門を置く。 |
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| 196101 |
原爆放射能医学研究所設置
医学部附属原子放射能基礎医学研究施設廃止
研究部門:障害基礎、病理学・癌、疫学・社会医学、臨床第一(内科)が置かれた。
医学部附属病院に診療科「(原爆放射能医学研究所)内科」増設 |
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| 19610401 |
初代所長(渡邊漸 わたなべ・すすむ) |
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| 196109 |
医学部附属病院に病床50床設置 |
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| 196204 |
研究部門:血液学、遺伝学・優生学、化学療法・生化学、臨床第二(外科)増設
医学部附属病院に診療科「(原爆放射能医学研究所)外科」増設 |
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| 196302 |
研究所第1期建物竣工 196403研究所第2期建物竣工 196503研究所第3期建物竣工 |
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| 196504 |
医学部附属病院に病床40床増設 |
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| 19670401 |
第2代所長(志水清 しみず・きよし) |
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| 196706 |
附属原爆医学標本センター設置 |
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| 196903 |
附属原爆医学標本センター竣 |
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| 196904 |
生物統計学研究部門増設 |
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| 197004 |
病理学・癌研究部門を病理学に改称し、放射線誘発癌研究部門増設 |
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| 19700401 |
第3代所長(岡本直正 おかもと・なおまさ) |
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| 197103 |
研究所第4期建物竣工 |
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| 197404 |
附属原爆医学標本センターを附属原爆被災学術資料センターに改称 |
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| 19770401 |
第4代所長(大北威 おおきた・たけし) |
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| 19810401 |
第5代所長(横路謙次郎 よころ・けんじろう) |
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| 198303 |
トリチウム実験棟竣工 |
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| 198403 |
放射線照射動物実験棟竣工 |
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| 19850401 |
第6代所長(栗原登 くりはら・みのる) |
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| 198603 |
RI実験棟その他竣工(RI-A、B、C棟完成) |
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| 19870401 |
第7代所長(服部孝雄 はっとり・たかお) |
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| 19890401 |
第8代所長(藏本淳 くらもと・あつし) |
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| 19950401 |
第9代所長(佐藤幸男 さとう・ゆきお) |
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| 199606 |
附属原爆被災学術資料センターを附属国際放射線情報センターに改組
10研究部門から「環境生物、分子生物、社会医学、病態治療」の4大研究部門に改組 |
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| 19960401 |
第10代所長(峠哲哉 とうげ・てつや) |
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| 19970401 |
第11代所長(鎌田七男 かまだ・ななお) |
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| 199806 |
放射線先端医学実験施設設置(所内措置による。) |
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| 19990401 |
第12代所長(早川式彦 はやかわ・のりひこ) |
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<以下略> |
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止
資料年表:吉田治平<作業中>
| 年月日 |
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| 1922 |
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| ****生 |
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| 1945 |
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| 0815 |
未明、部隊の命で福岡から神奈川に向う途中、広島入り。 |
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| 1977 |
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| 0720 |
『わしらの被爆体験 100人の証言』(全日自労広島分会・自労被爆者の会編、全日自労広島分会刊) |
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| 2010 |
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| 05 |
『生きて 労働運動家 吉田治平さん』(『中国新聞 連載』15回0518~0609)(担当:西本雅実・編集委員) |
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| 2018 |
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| 0131 |
没 |
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| 0209 |
西本雅実「評伝・吉田治平さん」(『中国新聞』) |
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| 2023 |
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| 1206 |
『被団協 第539号』(日本原水爆被害者団体協議会) |
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「ヒロシマの闘士」の歩みに学ぶ 広島 先人を語る会<9回目> |
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| よしだ・じへい |
1922****生20180131没 |
享年95歳 |
1845年8月6日の広島壊滅を福岡で聞く。軍命令で神奈川へ向かう途次の5日、上幟町の実家跡を掘り返す。1950年に広島自由労組を結成。1977年失対労働者100人の証言『わしらの被爆体験』を編む(西本雅実「評伝・吉田治平さん」『中国新聞』2018.2.9)<別記予定> |
止
資料年表:藤居平一<作業中>
| 年月日 |
事項 |
備考 |
| 1915 |
0807 広島市の銘木店の長男として誕生。 |
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| 1922 |
広島高等師範学校附属小(碧空会)に入学 |
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| 1928 |
同付属中学校入学 |
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| 1935 |
平壌飛行連隊整備隊に入る |
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| 1939 |
航空兵中尉に任じられる |
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| 1941 |
満州国の航空通信第一連隊の第一大隊本部付 |
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| 1943 |
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| 02 |
満州国の航空教育隊に転属。日本へ復員。 |
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| 04 |
早稲田大学専門部商科に入学 |
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| 1127 |
篠崎美枝子と結婚 |
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| 1944 |
日本鋼管横浜鶴見造船所に勤労動員 |
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| 1945 |
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| 0806 |
原爆投下で、父完一、妹、二人の甥などを失う |
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| 1946 |
早大卒。家業の銘木店を継ぎ、広島県銘木森林組合(現広島県銘木事業協同組合)を設立。組合長に就任 |
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| 1947 |
日本銘木林産組合(その後全国銘木連合会に改称)を設立。副会長に就任。早大校友会広島県支部幹事長。広島高師同窓会のアカシア会設立を提唱。 |
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| 1949 |
近隣に神崎保育園を設立し、後援会長に。 |
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| 1951 |
早大商議員に就任し、晩年まで務める。 |
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<以上1915~1951年の事績は『人間銘木―藤居平一追想集』> |
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| 1954 |
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| 1955 |
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| 1956 |
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| 1959 |
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|
| 1965 |
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| 1981 |
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| 1201 |
『広島県原水協・日本被団協年表(稿)1954~1958』(宇吹暁、広島大学原爆放射能医学研究所) |
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| 1982 |
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| 0126 |
「まどうてくれー藤居平一聞書(1)」(『資料調査通信 5号』広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室)【〈聞き手〉宇吹暁、〈聞書作成〉石田典子・寺井裕子】 |
|
| 0226 |
「まどうてくれー藤居平一聞書(2原水爆禁止世界大会)」(『資料調査通信6号別冊』広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
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| 0331 |
「まどうてくれー藤居平一聞書(3原爆被害者の救援と組織化)、資料、藤居メモ(1)1955年11月~56年3月」(『資料調査通信7号別冊』広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
|
| 0531 |
「まどうてくれー藤居平一聞書(4広島県被団協の結成)、資料、藤居メモ(2)1956年3月~7月」(『資料調査通信8号別冊』広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
|
| 0630 |
「まどうてくれー資料特集」(『資料調査通信9号別冊』広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
|
|
『資料調査通信9号別冊1』 |
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|
『資料調査通信9号別冊2』くずれぬ平和を 8・6広島大会、被害者大会議事録[抄] |
|
|
『資料調査通信9号別冊3』第2回原水爆禁止世界大会議事速報[抄] |
|
| 1983 |
|
|
| 1031 |
「まどうてくれー藤居メモ(3)1956年8月~9月」 |
|
|
『資料調査通信25号別冊1』(『広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
|
|
「まどうてくれー資料特集」1956年8月~9月」 |
|
|
『資料調査通信25号別冊2』(広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
|
| 1130 |
「まどうてくれー資料特集」1956年10月~12月 |
|
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資料1:藤居メモ
資料2~8:日本被団協の発行文書
資料9~15:藤居故人・日本被団協に寄せられた書簡
資料16~26:原爆被害者救援をめぐる動向) |
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『資料調査通信26号別冊2』(広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
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| 1223 |
「まどうてくれー藤居メモ」1957年1月~2月 |
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資料1~4:藤居あて書簡
資料5~11:日本被団協結成後初めて開かれた全国代表者会議の資料。
資料12~23:藤居故人あるいは日本被団協に寄せられた書簡
資料24・25:日本被団協に関する新聞記事 |
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『資料調査通信27号別冊1』(広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
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| 1984 |
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| 0127 |
「まどうてくれー藤居メモ及び関連資料資料」1957年3月~5月 |
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資料1~6:藤居あて書簡、
資料7:藤居論文
資料8~23:日本被団協および広島の動向を示す資料。
資料24~32:広島原爆障害研究会、日本原水協などの諸団体資料。 |
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『資料調査通信28号別冊1』(広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室) |
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| 0229 |
「まどうてくれー資料資料」1957年3月~5月 |
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1957年8月
12日 開会総会
13日 階層別協議会
14日 分科会
15日 閉会総会 |
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| 1996 |
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| 0714 |
病のため死去。80歳。藤居銘木株式会社を閉店。 |
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| 1997 |
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| 0417 |
『人間銘木 藤居平一追想集』(藤居美枝子) |
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『広島平和科学』(広島大学平和科学研究センター、1997) |
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船橋喜恵「原水爆禁止世界大会「第一回」 : 藤居平一氏に聞く」 |
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| 2006 |
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| 0703 |
『被爆者運動50年 生きていてよかった<1>~<5>』(『中国新聞』西本雅実編集委員~20060708) |
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| 2011 |
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| 0708 |
『まどうてくれ 藤居平一・被爆者と生きる』(大塚茂樹、旬報社) |
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| 0723 |
大塚『まどうてくれ』出版記念会。リーガロイヤルホテル。宇吹。出席者:大塚夫妻。木内洋育(旬報社社長)。河野一郎(中国新聞文化事業社専務取締役)。阿部静子、池田精子(広島県被団協副理事長)、村戸由子。舟橋。若林節美。石田。松井。安藤。澤野。森田裕美。・・・ |
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2次会:吉田治平(広島市南区皆実町1丁目平和住宅自治会)、籔井和夫(中国新聞経営企画局担当局長兼メディア企画室長)。・・・ |
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| 0726 |
<出版記念会報道>(RCC-N6 被爆者救援運動の原点)「まどうてくれ 藤居平一・被爆者と生きる」 06:41~06:47 |
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止
いとこ会
| 1999年9月25日 会場:ヤスの実家 |
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| 撮影:宇吹暁 |
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ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。