『昭和天皇の終戦史』(吉田裕、岩波新書、19921221)
内容
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頁 |
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序 |
「天皇独白録」とは何か |
1 |
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I |
太平洋戦争時の宮中グループ |
9 |
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|
1 開戦をめぐる宮中グループの動向 |
11 |
|
|
2 戦局の悪化と近衛グループの台頭 |
18 |
|
|
3 ポツダム宣言の受諾 |
23 |
|
Ⅱ |
近衛の戦後構想 |
39 |
|
|
1 「自主裁判」構想とその挫折 |
41 |
|
|
2 保守勢力の敗戦への対応 |
47 |
|
|
3 占領期の近衛 |
55 |
|
III |
宮中の対GHQ工作 |
65 |
|
|
1 宮中グループによる政治工作の開始 |
67 |
|
|
2 高松宮の政治活動 |
72 |
|
|
3 GHQの対天皇政策 |
78 |
|
IV |
「天皇独白録」の成立事情 |
85 |
|
|
1 東久迩宮発言の波紋 |
87 |
|
|
2 GHQの対応 |
92 |
|
|
3 宮中グループの動き |
98 |
|
|
4 寺崎英成の虚像と実像 |
103 |
|
|
5 松平康昌の役割 |
109 |
|
V |
天皇は何を語ったか |
123 |
|
|
1 2つの参考資料 |
125 |
|
|
2 「独白録」の論理構成1 |
13 |
|
|
3 「独白録」のなかの天皇像 |
146 |
|
|
4 「独白録」・その後 |
156 |
|
|
5 「独白録」をめぐる人脈 |
163 |
|
VI |
東京裁判尋問調書を読む |
171 |
|
|
1 ニュルンベルク裁判との相違 |
173 |
|
|
2 尋問への協力 |
181 |
|
|
3 公判廷における証言 |
196 |
|
VII |
行動原理としての「国体護持」 |
209 |
|
|
1 陸軍との対立 |
211 |
|
|
2 英米との協調の重視 |
215 |
|
|
3 国体至上主義 |
219 |
|
|
4 宮中グループの人脈 |
224 |
|
結 |
再び戦争責任を考える |
231 |
|
|
あとがき |
243 |
|
|
|
|
止
「原爆の子 沖原豊解説」
出典:『原爆の子 広島の少年少女のうったえ 上・下』(長田新編、岩波書店、19900618)
原爆の子(下)-広島の少年少女のうったえ- 7
あとがき 243
解説(沖原豊) 247
地図
解説
| 頁 |
|
|
| 247 |
1 |
被爆の体験 |
| 249 |
2 |
書斎から街頭へ |
|
|
燃ゆる向学心 |
|
|
ペスタロッチ―研究の世界的権威 |
|
3 |
『原爆の子」』の意義 |
|
|
編集から出版まで |
|
|
平和を想像する力 |
|
4 |
子どもを守る運動 |
|
|
原爆の子友の会 |
|
|
原爆孤児精神養子運動 |
|
5 |
海外における反響 |
|
|
1 エスペラント語訳 |
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|
2 ノルウェー |
|
|
3 デンマーク |
|
|
4 ドイツ |
|
|
5 英語 |
|
|
6 英語 |
|
|
7 ドイツ |
|
|
8 ドイツ |
|
|
9 フィンランド |
|
|
10 ギリシャ |
|
|
11 中国語 |
|
|
12 スウェーデン |
|
|
13 ロシア |
|
|
|
止
『教科書の社会史―明治維新から敗戦まで』(中村紀久二〈きくじ〉、岩波新書、19920619)
内容
| 章 |
|
|
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|
まえがき |
|
| プロローグ 江戸時代の初等教育 |
|
| 1 |
近代教育の揺籃期 |
|
|
1 |
明治初年の初等教科書と教材 |
|
|
2 |
教科書政策の転換点 |
|
|
3 |
教科書はいくらだったか |
|
| 2 |
教育勅語体制下の教科書 |
|
|
1 |
明治の教科書検定方針 |
|
|
2 |
天皇教材はどう扱われたかー歴史教科書から |
|
| 3 |
国定教科書の時代 |
|
|
1 |
教科書疑獄事件 |
|
|
2 |
国定教科書と「お古」の使用 |
|
| 4 |
教科書教材の時代相(1) |
|
|
1 |
メートル法か、尺貫法か―算術/読本/地理/理科 |
|
|
2 |
「お母さん」という表現―読本 |
|
|
3 |
「数え歌」の拒否と採用―唱歌 |
|
|
4 |
何桁でくぎるか―算数 |
|
| 5 |
教科書教材の時代相(2) |
|
|
1 |
教科書伝記教材の操作 |
|
|
2 |
二宮金次郎教材の非政治性 |
|
|
3 |
ジェンダー教材の歪曲 |
|
| エピローグ 敗戦と「墨ぬり」教科書 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
止
戦後80年に寄せて( 令和7年10月10日内閣総理大臣所感)
(内閣総理大臣所感)
<作業中>
(はじめに)
戦後80年に寄せて
先の大戦の終結から、80年が経ちました。
この80年間、我が国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者を始めとする皆様の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。
私は、3月の硫黄島訪問、4月のフィリピン・カリラヤの比島戦没者の碑訪問、6月の沖縄全戦没者追悼式出席及びひめゆり平和祈念資料館訪問、8 月の広島、長崎における原爆死没者・犠牲者慰霊式出席、終戦記念日の全国戦没者追悼式出席を通じて、先の大戦の反省と教訓を、改めて深く胸に刻むことを誓いました。
これまで戦後50年、60年、70年の節目に内閣総理大臣談話が発出されており、歴史認識に関する歴代内閣の立場については、私もこれを引き継いでいます。
過去三度の談話においては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点にはあまり触れられておりません。戦後70年談話においても、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節がありますが、それ以上の詳細は論じられておりません。
国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。
第一次世界大戦を経て、世界が総力戦の時代に入っていた中にあって、開戦前に内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦は必然でした。多くの識者も戦争遂行の困難さを感じていました。
政府及び軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦争を回避するという決断ができないまま、無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜の命を犠牲とする結果となってしまったのか。
米内光政元総理の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう注意願いたい」との指摘もあった中、なぜ、大きな路線の見直しができなかったのか。
戦後80年の節目に、国民の皆様とともに考えたいと思います。
(大日本帝国憲法の問題点)
まず、当時の制度上の問題が挙げられます。戦前の日本には、政治と軍事を適切に統合する仕組みがありませんでした。
大日本帝国憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権は独立したものとされ、政治と軍事の関係において、常に政治すなわち文民が優位でなくてはならないという「文民統制」の原則が、制度上存在しなかったのです。
内閣総理大臣の権限も限られたものでした。帝国憲法下では、内閣総理大臣を含む各国務大臣は対等な関係とされ、内閣総理大臣は首班とされつつも、内閣を統率するための指揮命令権限は制度上与えられていませんでした。
それでも、日露戦争の頃までは、元老が、外交、軍事、財政を統合する役割を果たしていました。武士として軍事に従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解した上で、これをコント
ロールすることができました。丸山眞男の言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」が、国家意思の一元化において重要な役割を果たしていました。
元老が次第に世を去り、そうした非公式の仕組みが衰えたのちには、大正デモクラシーの下、政党が政治と軍事の統合を試みました。
第一次世界大戦によって世界に大きな変動が起こるなか、日本は国際協調の主要な担い手の一つとなり、国際連盟では常任理事国となりました。1920年代の政府の政策は、幣原外交に表れた
ように、帝国主義的膨張は抑制されていました。
1920 年代には、世論は軍に対して厳しく、政党は大規模な軍縮を主張していました。軍人は肩身の狭い思いをし、これに対する反発が、昭和期の軍部の台頭の背景の一つであったとされていす。
従来、統帥権は作戦指揮に関わる軍令に限られ、予算や体制整備に関わる軍政については、内閣の一員たる国務大臣の輔弼事項として解釈運用されていました。文民統制の不在という制度上の問題を、元老、次に政党が、いわば運用によってカバーしていたものと考えます。
(政府の問題)
しかし、次第に統帥権の意味が拡大解釈され、統帥権の独立が、軍の政策全般や予算に対する政府及び議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきました。
政党内閣の時代、政党の間で、政権獲得のためにスキャンダル暴露合戦が行われ、政党は国民の信頼を失っていきました。1930 年には、野党・立憲政友会は立憲民政党内閣を揺さぶるため、海軍の一部と手を組み、ロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って、統帥権干犯であると主張し、政府を激しく攻撃しました。政府は、ロンドン海軍軍縮条約をかろうじて批准するに至りました。
しかし、1935年、憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉の天皇機関説について、立憲政友会が政府攻撃の材料としてこれを非難し、軍部も巻き込む政治問題に発展しました。ときの岡田啓介内は、学説上の問題は、「学者に委ねるより外仕方がない」として本問題から政治的に距離を置こうとしましたが、最終的には軍部の要求に屈して、従来通説的な立場とされていた天皇機関説を否定する国体明徴声明を二度にわたって発出し、美濃部の著作は発禁処分となりました。
このようにして、政府は軍部に対する統制を失っていきます。
(議会の問題)
本来は軍に対する統制を果たすべき議会も、その機能を失っていきます。
その最たる例が、斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でした。斎藤員は1940年2月2日の衆議院本会議において、戦争の泥沼化を批判し、戦争の目的について政府を厳しく追及しました。いわゆる反軍演説です。陸軍は、演説は陸軍を侮辱するものだとこれに激しく反発し、斎藤議員の辞職を要求、これに多くの議員は同調し、賛成296票、反対7票の圧倒的多数で斎藤議員は除名されました。これは議会の中で議員としての役割を果たそうとした稀有な例でしたが、当時の議事録は今もその3分の2が削除されたままとなっています。
議会による軍への統制機能として極めて重要な予算審議においても、当時の議会は軍に対するチェック機能を果たしていたとは全く言い難い状況でした。1937年以降、臨時軍事費特別会計が
設置され、1942 年から45年にかけては、軍事費のほぼ全てが特別会計に計上されました。その特別会計の審議に当たって予算書に内訳は示されず、衆議院・貴族院とも基本的に秘密会で審議が行われ、審議時間も極めて短く、およそ審議という名に値するものではありませんでした。
戦況が悪化し、財政がひっ迫する中にあっても、陸軍と海軍は組織の利益と面子をかけ、予算獲得をめぐり激しく争いました。
加えて、大正後期から昭和初期にかけて、15年間に現役首相3人を含む多くの政治家が国粋主義者や青年将校らによって暗殺されていることを忘れてはなりません。暗殺されたのはいずれも国際協調を重視し、政治によって軍を統制しようとした政治家たちでした。
五・一五事件や二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会や政府関係者を含む文民が軍の政策や予算について自由に議論し行動する環境を大きく阻害したことは言うまでもありません。
(メディアの問題)
もう一つ、軽視してはならないのはメディアの問題です。
1920 年代、メディアは日本の対外膨張に批判的であり、ジャーナリスト時代の石橋湛山は、植民地を放棄すべきとの論陣を張りました。しかし、満州事変が起こった頃から、メディアの論調は、積極的な戦争支持に変わりました。戦争報道が「売れた」からであり、新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。
1929 年の米国の大恐慌を契機として、欧米の経済は大きく傷つき、国内経済保護を理由に高関税政策をとったため、日本の輸出は大きな打撃を受けました。
深刻な不況を背景の一つとして、ナショナリズムが昂揚し、ドイツではナチスが、イタリアではファシスト党が台頭しました。主要国の中でソ連のみが発展しているように見え、思想界にお
いても、自由主義、民主主義、資本主義の時代は終わった、米英の時代は終わったとする論調が広がり、全体主義や国家社会主義を受け入れる土壌が形成されていきました。
こうした状況において、関東軍の一部が満州事変を起こし、わずか1年半ほどで日本本土の数倍の土地を占領しました。新聞はこれを大々的に報道し、多くの国民はこれに幻惑され、ナショナリズムは更に高まりました。
日本外交について、吉野作造は満州事変における軍部の動きを批判し、清沢洌は松岡洋右による国際連盟からの脱退を厳しく批判するなど、一部鋭い批判もありましたが、その後、1937年秋
頃から、言論統制の強化により政策への批判は封じられ、戦争を積極的に支持する論調のみが国民に伝えられるようになりました。
(情報収集・分析の問題)
当時、政府を始めとする我が国が、国際情勢を正しく認識できていたかも問い直す必要があり
ます。例えば、ドイツとの間でソ連を対象とする軍事同盟を交渉している中にあって、1939年8月、独ソ不可侵条約が締結され、ときの平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を
生じた」として総辞職します。国際情勢、軍事情勢について、十分な情報を収集できていたのか、得られた情報を正しく分析できていたのか、適切に共有できていたのかという問題がありました。
(今日への教訓)
戦後の日本において、文民統制は、制度としては整備されています。日本国憲法上、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないと定められています。また、自衛隊は、自衛隊
法上、内閣総理大臣の指揮の下に置かれています。
内閣総理大臣が内閣の首長であること、内閣は国会に対して連帯して責任を負うことが日本国憲法に明記され、内閣の統一性が制度上確保されました。
さらに、国家安全保障会議が設置され、外交と安全保障の総合調整が強化されています。情報収集・分析に係る政府の体制も改善されています。これらは時代に応じて、更なる進展が求められます。
政治と軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権の独立の名の下に軍部が独走したという過去の苦い経験を踏まえて、制度的な手当ては行われました。他方、これらはあくまで制度であり、
適切に運用することがなければ、その意味を成しません。
政治の側は自衛隊を使いこなす能力と見識を十分に有する必要があります。現在の文民統制の制度を正しく理解し、適切に運用していく不断の努力が必要です。無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持と責任感を持たなければなりません。
自衛隊には、我が国を取り巻く国際軍事情勢や装備、部隊の運用について、専門家集団としての立場から政治に対し、積極的に説明し、意見を述べることが求められます。
政治には、組織の縦割りを乗り越え、統合する責務があります。組織が割拠、対立し、日本の国益を見失うようなことがあってはなりません。陸軍と海軍とが互いの組織の論理を最優先として対立し、それぞれの内部においてすら、軍令と軍政とが連携を欠き、国家としての意思を一元化できないままに、国全体が戦争に導かれていった歴史を教訓としなければなりません。
政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的判断を心がけねばなりません。責任の所在が明確ではなく、状況が行き詰まる場合には、成功の可能性が低く、高リス
クであっても、勇ましい声、大胆な解決策が受け入れられがちです。海軍の永野修身軍令部総長は、開戦を手術にたとえ、「相当の心配はありますが、この大病を癒すには、大決心をもって、国
難排除に決意するほかありません」、「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である」と述べ、
東條英機陸軍大臣も、近衛文麿首相に対し、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったとされています。このように、冷静で合理的な判断よりも精神的・
情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはなりません。
政府が誤った判断をせぬよう、歯止めの役割を果たすのが議会とメディアです。
国会には、憲法によって与えられた権能を行使することを通じて、政府の活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます。政治は一時的な世論に迎合し、人気取り政策に動いて国益を損なうような党利党略と己の保身に走っては決してなりません。
使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要です。先の大戦でも、メディアが世論を煽り、国民を無謀な戦争に誘導する結果となりました。過度な商業主義に陥ってはならず、
偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。
安倍元総理が尊い命を落とされた事件を含め、暴力による政治の蹂躙、自由な言論を脅かす差別的言辞は決して容認できません。
これら全ての基盤となるのは、歴史に学ぶ姿勢です。過去を直視する勇気と誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靭な民主主義が何よりも大切です。
ウィンストン・チャーチルが喝破したとおり、民主主義は決して完璧な政治形態ではありません。民主主義はコストと時間を必要とし、ときに過ちを犯すものです。
だからこそ、我々は常に歴史の前に謙虚であるべきであり、教訓を深く胸に刻まなければなりません。
自衛と抑止において実力組織を保持することは極めて重要です。私は抑止論を否定する立場には立ち得ません。現下の安全保障環境の下、それが責任ある安全保障政策を遂行する上での現実です。
同時に、その国において比類ない力を有する実力組織が民主的統制を超えて暴走することがあれば、民主主義は一瞬にして崩壊し得る脆弱なものです。一方、文民たる政治家が判断を誤り、戦争に突き進んでいくことがないわけでもありません。文民統制、適切な政軍関係の必要性と重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。政府、議会、実力組織、メディアすべてがこれを常に認識しなければならないのです。
斎藤隆夫議員は反軍演説において、世界の歴史は戦争の歴史である、正義が勝つのではなく強者が弱者を征服するのが戦争であると論じ、これを無視して聖戦の美名に隠れて国家百年の大計を誤ることがあってはならないとして、リアリズムに基づく政策の重要性を主張し、衆議院から除名されました。
翌年の衆議院防空法委員会において、陸軍省は、空襲の際に市民が避難することは、戦争継続意思の破綻になると述べ、これを否定しました。
どちらも遠い過去の出来事ではありますが、議会の責務の放棄、精神主義の横行や人命・人権軽視の恐ろしさを伝えて余りあるものがあります。歴史に正面から向き合うことなくして、明る
い未来は拓けません。歴史に学ぶ重要性は、我が国が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に置かれている今こそ、再認識されなければなりません。
戦争の記憶を持っている人々の数が年々少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている今だからこそ、若い世代も含め、国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的に考え、将来に生かしていくことで、平和国家としての礎が一層強化されていくものと信じます。
私は、国民の皆様とともに、先の大戦の様々な教訓を踏まえ、二度とあのような惨禍を繰り返すことのないよう、能う限りの努力をしてまいります。
令和7年10月10日
内閣総理大臣
石破茂
『技術開発の昭和史』(森谷正規、朝日文庫〈朝日新聞社〉、19901120)
内容<作業中>
| 章 |
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|
はしがき |
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|
| 1 |
軍事化の中で電子・高分子の萌芽 |
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|
―戦前(昭和元~20年)の技術 |
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1 写真電送 |
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2 無装荷ケーブル |
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3 フェライト |
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4 零戦 |
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5 石炭液化 |
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|
証言 テレビジョンの開発 |
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|
高柳健次郎 前・日本ビクター顧問 |
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|
| 2 |
大型革新技術の導入 |
|
|
|
―復興期(昭和20年代)の技術 |
|
|
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|
| 3 |
生産・改良向上技術で国際水準 |
|
|
|
―産業躍進期(昭和30年代)の技術 |
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|
|
| 4 |
応用型新製品技術で国際水準 |
|
|
|
―高度成長期(昭和40年代)の技術 |
|
|
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|
|
|
| 5 |
先端技術の開発で国際水準 |
|
|
|
―自立の時代(昭和40年代)への技術 |
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|
|
|
|
| 補 |
昭和が終わり平成へ |
|
|
|
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|
|
止
『ナチス追及』(望田幸男〈もちだゆきお〉、講談社現代新書1015、19900820)
内容
| 章 |
|
|
|
|
|
| 序 |
いまドイツのなにを問うべきか |
|
|
いまドイツにを問う意味 |
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|
アウシュヴィッツは終わらない |
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|
美少年ゆえの数奇な半生 |
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|
問われる国民の戦争責任 |
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|
二つのファッショ体制の相違 |
|
|
「ヴァイツゼッカー演説」を貫くもの |
|
|
ナチス追及の広がりと深さ |
|
|
本書の構成 |
|
| 1 |
追う者と追われる者 |
|
|
逃亡14年――アイヒマンとモサド
「他者」による追及と裁き
時効なき「みずから」による裁き |
|
| 2 |
「ワルトハイム」たちの悩み |
|
|
「過去」を捨てられなかったワルトハイム
「過去」を墓場に埋葬したカラヤン
「庶民のなかのワルトハイム」とその家族たち |
|
| 3 |
西ドイツにおける極右=ネオナチの流れ |
|
|
生きている「ナチスの残党」
旧ネオナチから新ネオナチへ
ヒトラーの孫たち |
|
| 終 |
ナチス追及の未来 |
|
|
日本における「ナチス追及」論の二つの流れ |
|
|
道徳的リゴリズム |
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|
道徳的な非政治の世界 |
|
|
道徳的な非政治の落とし穴 |
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|
ナチス追及史における新たな問題状況 |
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|
熱望と不安のなかの「ドイツ統一問題」 |
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|
ドイツ統一問題と「過去の克服」 |
|
|
ナチスなきナチス追及 |
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|
「ナチス追及」が日本に問いかけるもの |
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|
<沼田鈴子、日本の原水爆禁止運動、・・・> |
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|
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|
|
あとがき |
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|
止
『象徴天皇制への道-米国大使グルーとその周辺』(中村政則、岩波書店〈新書〉、19891020)
内容
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| 序 |
『滞日十年』の成立事情…1 |
|
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| Ⅰ |
“Report from Tokyo” ―日本軍国主義批判―…11 |
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|
| Ⅱ |
和平のテーマ ―鍵としての天皇制―…25 |
|
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|
|
| Ⅲ |
シカゴ演説 ―集中砲火をあびる―…37 |
|
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|
|
| Ⅳ |
『滞日十年』の刊行…63 |
|
|
|
|
| Ⅴ |
穏健派とは何か ―牧野伸顕・樺山愛輔・吉田茂―…75 |
|
|
|
|
| Ⅵ |
対日戦後計画の形成 ―グルーの遠図―…109 |
|
|
|
|
| Ⅶ |
ポツダム宣言 ―奮闘するグルー…127 |
|
|
|
|
| Ⅷ |
グルーとマッカーサー…147 |
|
|
|
|
| Ⅸ |
「象徴」の由来 ―三つの流れ―…161 |
|
|
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|
|
おわりに―象徴天皇制の成立…201 |
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|
参考文献…211 |
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|
あとがき…215 |
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|
止
『”ぼくたちの軍隊” 武装した日本を考える 岩波ジュニア新書』(前田哲男、岩波書店、19881220)
内容
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|
プロローグ-3つの「事故」 1 |
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| Ⅰ |
日本を点検する-ぼくたちの今いるところ 25 |
|
|
1 海の核戦争 26
2 C3I〈シー・スリー・アイ〉とは何か 44
3 日本の中の外国 57
4 「神話」はつくられる 64 |
|
| Ⅱ |
もうひとりでは歩けない-世界戦略の中の自衛隊 83 |
|
|
1 世界にひろがる共同演習 84
2 盾にされる日本 109 |
|
| Ⅲ |
ぼくたちの軍隊 自衛隊の長く太い道のり 121 |
|
|
1 日本再武装 122
2 ぶっちぎりで高度成長 カネ・モノ・ヒト 133
3 そして「歯どめ」はなくなった 162
4 軍事化する日本 180 |
|
| Ⅳ |
もうひとつの世界、もうひとつの日本 199 |
|
|
1 新しい潮も流れている 200
2 ”ぼくたちの、未来” 215 |
|
|
|
|
|
あとがき 227 |
|
|
|
|
|
|
|
止
『現代社会主義を考える―ロシア革命から21世紀へ』(渓内謙〈たにうち・ゆずる〉、岩波新書、19880120)
内容
| 章 |
|
|
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|
|
|
|
| 1 |
ロシア革命70年 |
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1 本書の意図 |
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2 社会主義 |
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3 思想・運動・体制 |
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4 本書の構成 |
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ナショナリズム |
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1 いまなぜナショナリズムか? |
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2 ロシア革命と民族問題 |
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3 一国社会主義 |
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4 ナショナリズムを超えて |
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| 3 |
国家 |
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1 問題の所在 |
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2 なぜ「党」を問題にするか? |
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3 一党支配 |
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4 一枚岩としての党 |
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5 党の「国際化」 |
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6 社会から国家へ |
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| 4 |
現代社会主義 |
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1 ロシア革命―「二重の性格」 |
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2 スターリン主義 |
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3 非スターリン化 |
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| 5 |
展望 |
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1 E・H・カーのロシア革命観 |
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2 歴史的展望の中の社会主義 |
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止
『現代社会100面相 これだけは知ってほしい』(鎌田慧〈かまた・さとし〉、岩波ジュニア新書121)
内容
| 頁 |
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はじめに |
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| 002 |
国家秘密法 |
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| 004 |
自衛隊 |
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| 006 |
基地 |
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| 008 |
沖縄 |
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| 010 |
日の丸・君が代 |
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| 012 |
靖国神社 |
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| 014 |
教科書検定 |
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| 016 |
金権政治 |
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| 018 |
長期政権の退廃 |
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| 020 |
首相と文相の暴言 |
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| 022 |
教育改革 |
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| 024 |
偏差値 |
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| 026 |
「乱塾」 |
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| 028 |
いじめ |
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| 030 |
「浮浪者」狩り |
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| 032 |
管理教育 |
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| 034 |
夜間中学 |
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| 036 |
障害児の就学 |
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| 038 |
在日朝鮮人 |
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| 040 |
指紋押捺 |
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| 042 |
中国残留日本人 |
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| 044 |
南京大虐殺 |
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| 046 |
東南アジアの日本人 |
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| 048 |
アジアへの経済侵略 |
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| 050 |
パック旅行 |
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| 052 |
ジャパゆきさん |
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<作業中> |
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| 174 |
健康産業 |
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| 178 |
人材派遣あ安 |
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| 180 |
パートタイマー |
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| 182 |
男女雇用機会均等法 |
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| 184 |
労働組合 |
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| 186 |
団結権 |
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| 188 |
ストライキ |
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| 190 |
働きがい |
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| 192 |
労働時間 |
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| 194 |
余暇 |
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| 196 |
労働災害 |
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| 198 |
航空機事故 |
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| 200 |
FF現象 |
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| 202 |
テレビの現在 |
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| 205 |
タレント発掘 |
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| 206 |
記者クラブの弊害 |
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止
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。