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ドキュメント:1975年8月6日

ドキュメント:1975年8月6日<作業中

できごと 備考
倉本寛司北カリフォルニア被爆者協会会長と据石和南カリフォルニア被爆者協会代表世話人、ホワイトハウスを訪れ、在米被爆者に対する連邦政府の援助を求めるフォード大統領宛ての直訴文を渡す。
田中正巳厚相、外国人被爆者への原爆医療法の適用について、治療目的のビザに限らず適用するとの方針表明。
米オハイオ州ウィルミントン大学で開かれた「広島・長崎30年後」会議で、倉本寛司、据石和、在米被爆者の救いのない実情を訴え、参加者の支援を求める。
田中厚生大臣、平和式典終了後、広島原爆養護ホーム・原爆病院・放射線影響研究所を訪問。
韓国原爆被害者援護協会、日本政府に在韓被爆者の治療と補償を求める声明を発表。
大阪市の被爆二世の高校生、白血病で死亡。
旧陸軍兵器学校広島分校所の元学徒兵19人、広島市内で開催。
広島県公安委員会・広島市、午前7時から3時間、平和記念公園前の平和大通り900メートルを車両通行止めとする。(初)
広島市、原爆死没者慰霊式・平和祈念式を挙行。約4万人が参列。88人が流れ献花。式中、糾弾状を持った男が荒木市長にかけ寄ったが制止される。
大阪・西成あいりん地区の「釜ケ崎被爆者の会」代表13人、広島平和式典に参加。
ラロック米海軍退役少将、広島市の平和式典に参列。
荒木広島市長平和宣言。(被爆の惨状を述べたあと)「今や世界が、無秩序な核戦略時代という人類の滅亡を招く重大危機に突入しつつあることは、広島市民として絶対に黙視できないところである」と訴え
式典出席の田中厚相、外国人被爆者の治療で「治療目的のビザでなくても正規の手続きで入国、一定期間滞在すれば原爆医療法を適用」の方針を表明
中核派の学生、早朝広島平和公園の原爆慰霊碑を「占拠」、平和宣言を読み上げる直前の市長に突進し、それぞれ逮捕される。
浄土真宗本願寺派築地別院(東京)で「原爆被爆30周年追悼法要。約150人が参列。江戸屋猫八(落語家)・佐々木久子(雑誌「酒」編集長)らの発起。
広島県庄原市山内町で元広島第1陸軍病院庄原分院山内病棟で死亡した軍関係被爆者の慰霊祭と死没者追悼座談会。
広島市立中学慰霊碑除幕式。約300人が参列(小網町・天満川岸)
極楽寺山地蔵尊(佐伯郡廿日市町)
被爆者青年同盟のメンバー、原爆ドームに上がり、軽犯罪法違反などの疑いで逮捕される。
福島菊次郎の写真展「30年目のゲンバク-放射能遺伝障害の恐怖」、東京・赤坂で開催。
山田典吾監督の映画「はだしのゲン」の撮影が、広島市で始まる。
阿部野人監督の日本とポーランドの合作映画「灯は生きている」の撮影が、広島市で始まる。
「丸木位里・俊原爆の図展」、広島市の福屋デパートで開催。-14日。約4万5000人が入場。
反戦集会「ヒロシマ+1」(核実験抗議船フリーのよびかけ)、広島市内で開催。約200人が参加。
第3回原爆と科学・教育・文化を考える集い実行委員会、「原爆30年を考える長崎市民の集い」を開催。
広島市の安田女子高校、栗原貞子の詩「生ましめん哉」のモデルになった平野美貴子の被爆体験を聞く。
広島県三次市の高杉小学校、集団疎開した広島市袋町国民学校の疎開児童6人を招き、体験を聞く。

 

 

 

 

 

 

被爆三〇年広島国際フォーラム・コミュニケ(19750804) 

被爆三〇年広島国際フォーラム・コミュニケ (19750804)

出典:『核廃絶か破滅か-被爆30年広島国際フォーラムの記録』(時事通信社、19760520)

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被爆三〇年広島国際フォーラム・コミュニケ

被爆三〇年広島国際フォーラムは、飯島宗一(広島大学学長)、江口朴郎(東京大学名誉教授)、小野周(東京大学教授)、具島兼三郎(長崎大学学長)、上代たの (元日本女子大学学長)、関関治(東京大学教授)、藤井日達(日本山妙法寺山主)、三宅泰雄(日本学術会議会員)の八氏がよびかけ、吉野源三郎(評論家)を代表とする準備委員会によって組織され、一九七五年八月三、四日広島において開催された。

フォーラムは、核抑止の理論が核軍縮への道をきりひらくものではなく、核開発・核軍拡のとどまるところを知らない悪循環をもたらしていること、また、核保有国による核軍備の管理とその下での核の傘が諸国人民の安全を直ちに保障するものでないことを認識し、こんにちまでの核軍縮をめぐる政府間交渉の限界と問題点を諸国人民の意思によってどのように突破すべきかを、被爆三〇年にあたって明らかにすることを目的に、つぎの四項目を討議の主題に設定した。

一、被爆三〇年、核軍拡と核拡散の現状について - それは、いかなる危険と被害を現在と未来の人類にもたらしつつあるか。

二、軍縮、安全保障、エネルギー問題に関する政府間交渉に含まれている問題点は何か。

三、核兵器の完全禁止と廃絶に向かって、私たちはいかなる展望をもつことができるか。

四、私たちはいま何をなすべきか、何をすることができるか、広島から何を訴えるべきか。

上記の趣意は多くの賛同を得、フォーラムには海外二二カ国(オーストラリア、カナダ、チリ、キューバ、フィジー、東ドイツ、グァム、インド、アイルランド、イタリア、ミクロネシア、ニュージーランド、PLO、フィリピン、ポーランド、ルーマニア、スリランカ、スウェーデン、イギリス、アメリカ、北ベトナム、南べトナム)から六六名と、日本国内各界から一二八名、計一九四名が参加した。このフォーラムの全経費は、フォーラム参加者の登録料と、フォーラムを支持した広範な個人、団体(四七六名、二〇団体) の醸金によってまかなわれた。

フォーラムでは、広島・長崎への原爆投下以後三〇年間にわたる原水爆禁止運動、とりわけビキニ事件以降の日本における国民的規模での運動の発展が、広島・長崎の被爆の実相とその後遺、被爆者の現状と問題点とともに報告された。

三〇年経過したこんにち、一方では、ベトナム人民を先頭とするインドシナ諸国人民の崇高な闘争が勝利し、それに勇気づけられて第三世界で民族解放闘争がもりあがり、それらへの支持・連帯を示す世論がアメリカを含め各国でたかまっているが、他方では、平和と軍縮に反対する勢力は、歴史から正しい教訓をくみとることなく、産軍複合体をますます強化してきており、核戦争の危機はかえつて増大してきている面もあるといえよう。そして、いまや世界的に拡大しつつある原子力発電も、核兵器の完全禁止を実現しない限りきわめて危険な面をもち、放射能被害の面からも各国民にとつて脅威となっている。

こうした情勢評価をふまえて、フォーラムにおいては、いかにして核兵器の廃絶を実現するかという問題について、多くの提言がおこなわれた。

全面軍縮をめざす世界軍縮会議を開催させることが重要であり、それに国連のNGO (非政府組織) の意見を正しく反映させていかねばならないこと、太平洋非核武装地帯の設置、海洋法のなかで原子力潜水艦の航行を禁止すること、などが提起されるとともに、こんにちのように膨大な核が貯蔵・配備され、核の拡散がすすんでいる状況のもとでは、核兵器の完全禁止こそがもっとも緊急であり、かつ現実的な措置であることが指摘された。軍備管理ではなく真の軍縮へ向かって発想を転換すべきことが、討論全体の基調をなしており、とりわけ国際的レベルで核兵器禁止の条約を実現することの重要性が強調された。

討論のなかでは、人間性の追求を含め心の問題をあらためて深くふりかえり、考え方の根本的転換が求められていることが確認された。科学者・知識人は、こんにちの科学技術革命の時代についての正しい認識にたって、戦争を目的とする科学には従わないという決意を新たにするとともに、自然科学者、教育者、宗教者が相互に連帯し、国際連帯を強化しつつ、核抑止の信仰を打破するための具体的な研究をすすめ、その知識を広く大衆に伝えることによって運動の発展に寄与すべきことが確認された。

広島・長崎の事実を広く世界に知らせるとともに、運動の縦承発展のためにも平和教育を重視し、核兵器をもつことがみずからの利益にならない大衆の間における核廃絶の意識をさらに強め、大衆とともにたたかうことによって核兵器完全禁止の展望がひらけることが確認された。

このフォーラムは、当初、文書の採択を予定していなかったが、例外として、ショーン・マクプライド氏によつて提案され、満場の共感を得た、核兵器不使用国際協定締結に関する次の特別決議を採択した。

特別決議
被爆三〇年広島国際フォーラムは、軍拡、とりわけ核軍拡のかつてない重大なエスカレーションについて審議した結果、国際連合に対して緊急の問題として次のような国際法規を採択するよう要請する。
--どのような状況のもとで、どのような核兵器を使用しようとも、これを国際法と人道に対する犯罪とすること。
この決議は、マクプライド氏を通じてただちに国連事務総長に手渡すとともに (マクプライド氏からのその後の連絡によるとこの決議はすでに国連NGO加盟の全組織に配布されたとのことである)、フォーラムの全参加者がそれぞれの国の政府にはたらきかけ、この決議を国連の場にもちこませるよう努力すること、また、それぞれの組織を通じてもこの決議の実現のため広くよびかけとはたらきかけをおこなうことを申し合わせた。

一九七五年八月四日

本コミュニケは、国際フォーラムで採択された最終議長のまとめにもとづき、よびかけ人と準備委員会の責任で成文化されたものである。

ヒロシマ HIROSHIMA (広島平和文化センター)

『ヒロシマ HIROSHIMA 』(広島平和文化センター編・刊、19750718)

目次

<表紙説明>原爆慰霊碑
碑文は、広島大学教授雑賀忠義氏の筆によるもので、碑文の意味は、世界恒久平和を希求するヒロシマの心であり、人類としてあの過ちを再び繰り返してはならない、という反省と平和への誓いが込められている。
1 まえがき 荒木武(広島市長)
2 原爆被災の記録<写真>
爆心地上空から
市中心部を上空から
御幸橋の上で
御幸橋の上で
専売局電停角
焼け野原
原爆ドーム
萬代橋の人影と荷車の影
元安橋
日赤広島支部ビル
本通りの時計台
旧護国神社の石灯ろう
横河駅前付近
自動車の残がい
丸焼けの市内電車
皆実町のガスタンク
ダイダイ
明治橋のヤツデ
被爆者の伝言板
第2陸軍病院
大芝国民学校救護所
救援トラックの上で
広島逓信病院
広島赤十字病院
目の治療
広島赤十字病院の治療
脱毛した婦人
死亡前の被爆兵士
焼きついた着物の柄
帽子の跡
心外景
頸部
平瓦
人骨と瓦礫
3 広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式

 

 

年表:原爆展(1975年)

年表:原爆展(1975年)

記事
01 29? 広島市、今年全国で巡回被爆資料展を開催することを計画。
02 20 カナダ在住の節子・サーローら、「ヒロシマ・ナガサキ被爆30周年トロント委員会」発足。
02 26 長崎市、原爆被災写真展の開催を申し入れていた米・セントポール市から、承諾の連絡を受ける。
03 15 広島県・広島市・中国新聞社・NHK中国本部、「ヒロシマ・原爆の記録展」の開催実行委員会設立総会を県庁で開く。関係者約30人が出席。
03 19? イタリアの詩人ダニエル・ドルチ、同国内での原爆展を開催するための準備会議を組織する意向のあつことを広島市に伝える。
04 10 宮沢広島県知事、オーストラリアから帰国。キャンベラの戦争記念館で、広島の被爆写真の提供を要請されたことを明らかにする。
04 13? 長崎市、米サンアントニオ市のバプテスト教会の牧師から原爆写真展開催のための資料提供を求められる。
05 13? 広島市、9月に被爆資料展が予定されているボルゴグラード市へ資料を送付。
05 23 中国新聞「広島の惨状-被爆30周年相次ぎ海外展示」
05 26 広島市、海外被爆資料展の今年の開催を断念。
06 27 原爆資料保存会、総会を開催。今秋、イタリアのシシリー島で被爆資料展を開催することを決める。
07 02 広島市、今秋カナダ・トロントで開催予定の被爆資料展のために被爆写真91点を送付。
07 04 長崎県・市、「長崎原爆の記録展」を北九州市小倉で開催。-8日。
07 09? 毎日新聞「ヒロシマの心伝えたい-アフリカで原爆写真展-被爆二世の青年、単身で」
07 11 「ヒロシマ・原爆の記録展」札幌市で開催。-16日まで。3万9594人入場。
07 16 長崎県・市、「長崎原爆の記録展」を福岡市で開催。-20日。
07 24 長崎市など、長崎展を米サン・アントニオ市で開催。-27日。諸谷長崎市長が出席。
07 24 カナダ・トロント市在住の被爆者サーロ節子、長崎市を訪れ、カナダで開催を計画シテイル原爆展への協力を依頼。8月25日、長崎市が資料98点を送付。
07 24 「ヒロシマ・原爆の記録展」、仙台市で開催。-26日。2万4496人入場。
07 26 長崎県・市、「ながさき原爆の記録展・世界平和祈念ポスター標語展」を長崎市で開催。-8月6日。
07 27 朝日新聞「「ヒロシマ」「ナガサキ」の認識深めよう-米に広がる平和の心-各地で原爆展や慰霊祭」
07 27 日本キリスト教団広島流川教会、「被爆30年史資料展」を開催。五日市方面(?)から撮影した新しい原子雲の写真を展示。
07 28 長崎市など、長崎展を米セントポール市で開催。-8月3日。
07 29 カナダのトロント市在住の被爆者サーロー・節子来広。荒木広島市長をトロントで開催する被爆写真展に招待。
07 31 高知新聞社、広島市から資料Wを借りだし、資料被爆資料展を高知市で開催。-8月6日。
08 01 長崎市など、長崎展を米ウィルミントン市で開催。-5日。
08 05 「ヒロシマ・原爆の記録展」(広島県、市、NHK中国本部、中国新聞社など主催)東京日本橋・三越で開催。-15日。入場者は5万7485人。
08 06 「丸木位里・俊原爆の図展」、広島市の福屋デパートで開催。-14日。約4万5000人が入場。
08 06 千葉県市原市青年団、被爆写真展を市民会館で開催。-10日。
08 15 「ヒロシマ・原爆の記録展」、,大阪市・心斎橋・そごう百貨店で開催。-20日。入場者4万3136人。
08 23 「ヒロシマ・原爆の記録展」、名古屋市・丸栄デパートで開催。-28日。入場者6万2106人。
08 29 中国新聞「ヒロシマ展全日程終わる-体験継承に大きな成果-5会場23万人入る」
08 29 長崎県・市、「長崎原爆の記録展」を熊本市で開催。-9月2日。
08 31 西宮市・市教委・市原水協、被爆資料展を市役所展示室で開催。-9月4日。
09 17 カナダ・トロントの「よみがえる広島・長崎」委員会、原爆写真展を同市役所で開催。-10月15日。
09 21 長崎新聞「核兵器の廃絶と平和の貴さ訴える-被爆30周年記念「ながさき原爆の記録展」から」
09 25 ソ連ボルゴクラード市で原爆資料展。広島の使節団訪問中。
09 27 「ヒロシマ・原爆の記録展」開催実行委員会、県庁で会合し、解散。
12 13 横田工原爆資料保存会会長ら2人、ダニロ・ドルチと移動原爆展の欧州での開催について相談するため、イタリアに向け出発。1月17日、帰国の記者会見。

被爆30年広島国際フォーラムの記録

『市民の学術双書 核廃絶か破滅か-被爆30年広島国際フォーラムの記録』(飯島宗一・具島兼健三郎・吉野源三郎編、時事通信社、19760520)

内容

著者 タイトル
具島兼三郎 はじめに
飯島宗一 はじめに
Ⅰ 核の脅威はここまできている
服部学 核の脅威はここまできている
ロバート・オルドリッジ 兵器の技術的高度化、核拡散と抑止の崩壊
デービッド・ジョンソン ジーン・ラロック 核軍備競争は規制されていない
ペギー・ダフ 中東-核戦争の新たな脅威
エンゾ・アニョレッティ ヨーロッパにおける核問題
グラハム・ベインズ 南太平洋海域の放射能汚染
三宅泰雄 核拡散と環境放射能汚染の諸問題
小野周 原子力開発をめぐる諸問題
Ⅱ 軍備管理に代わる真の核軍縮
関寛治 軍備管理に代わる真の核軍縮を-分析と提案をつなぐ理論-
アーサー・ブース ブラッドフォード提案と軍備管理の部分措置
山田英二 核兵器全面禁止への展望
川崎昭一郎 核兵器全面禁止国際協定実現の緊急性
佐藤行通 核拡散防止条約再検討会議からの報告
オーエン・ウィルクス 太平洋非核化をめざすたたかい
岡本三夫 軍備縮小から軍備撤廃へ-平和研究の視点-
Ⅲ 被爆30周年広島国際フォーラムは訴える
庄野直美 広島・長崎の原爆被害と後遺症
フィリップ・ノエルベイカー 1つの国家、1つの人類、1つの共同体をめざして
ショーン・マクブライド 完全軍縮と世界平和に敵対するもの
江口朴郎 平和運動における人民の位置
藤井日達 人類を絶滅から救うために
上代たの 核問題に免疫になることこそ危険
丸山益輝 被爆体験の継承を訴える
被爆30年広島国際フォーラム・コミュニケ
吉野源三郎 関寛治 服部学 川崎昭一郎 座談会・核廃絶をめざして、私たちは今、何をなすべきか
あとがき
著者紹介

 

 

『核時代の平和学』(目次)

『核時代の平和学』(日本平和学会編、時事通信社刊、 19760815)目次(抄)

川田侃 まえがき
関寛治
核に覆われた世界の危険性
進藤榮一・(討論者)白鳥令 国際危機と核抑止
森利一・(討論者)西川潤 第三世界への核拡散
丸山益輝・(討論者)袖井林二郎 平和的核開発の限界
山田浩・(討論者)関寛治 米ソ核戦略の展開と批判
D・ゼングハース・(討論者)鴨武彦 軍拡力学と軍縮
核抑止論からの脱出
木村修三・(討論者)増田祐司 核拡散防止条約体制を超えるもの
岸田純之助・(討論者)小山内宏 非核武装地域の可能性
R・フォーク・(討論者)田畑茂二郎 非核未来秩序計画
文沢隆一・庄野直美(補論)・行宗一(討論者) 被爆者の現状と問題点
永井秀明・(討論者)浮田久子 平和教育の構造と平和研究の課題
核軍縮と平和研究の課題
坂本義和 核軍縮と平和研究の課題
関寛治 報告・討論のまとめ-核時代の平和学における争点の展開
付録 D・ゼングハース 欧米の平和研究の成果と課題
R・フォーク 非核世界の実現は幻想か
夏の核問題会議から
被ばく30年・広島国際フォーラム 8月3日・4日 広島
パグウォッシュ国際シンポジウム―完全軍縮への新しい構想 8月28日―9月1日 京都
日本平和学会―核と平和 9月3・4日、広島

 

年表:平和教育(1975年)

年表:平和教育(1975年)

04 30 広島平和教育研究所、平和教育カリキュラムの第一案をまとめる
06 14 第3回全国平和教育シンポジウム、広島市・幟町中学校で開催。全国18都道府県から1000人近くが参加。-15日。
07 03 広島市教委、「平和教育の指導例集・小学校編」まとめる
08 06 広島県三次市の高杉小学校、集団疎開した広島市袋町国民学校の疎開児童6人を招き、体験を聞く。
08 06 広島市の安田女子高校、栗原貞子の詩「生ましめん哉」のモデルになった平野美貴子の被爆体験を聞く。
09 25 愛知県名古屋市の立花高校2年生209人、修学旅行で広島を訪問。平和公園の慰霊碑前で合唱・詩の朗読などを実施。同校が修学旅行で来広するのは今回で5回目。
10 23 愛知県立佐屋高校2年生256人、修学旅行で広島を訪問。平和公園の原爆慰霊碑前で平和式典を開く。

 

 

国際連合訪問の経緯(1975~76年 )

国際連合訪問の経緯(1975~76年 )
出典:『国連訪問レポート-1976 ヒロシマ・ナガサキ 核兵器の廃絶と全面軍縮のために-国連事務総長への要請 』(広島市・長崎市編 ・刊、19770331 )
概要
昭和50年、ちょうど原爆投下後30年目の記念にあたり、広島と長崎両市は、姉妹都市の提携を結び、しっかり手を組んで核兵器のもたらす悲劇を進んで世界に知らせることを誓い合った。
その第一歩として昭和51年度に、まず現存する国際機構のもっとも確立されている国際連合に、核兵器の廃絶と全面軍縮を訴えることを決意した。
両市とも広く市民の賛同を得、市議会の賛同を得て、国連事務総長に会う準備を始めたが、この事業を進めるに当って考えなくてはならないことは、国連という場へ地方自治体が臨めるかどうかという点であった。
もともと国際連合は、世界146力国が加盟している組織で、日本もその加盟組織の一単位に過ぎない。各都市は、国連に対しては直接的には関係がない存在である。
そこで両市は、まず外務省の国連局を通じて手続きを始めるのが順序となる。そのためには十分な根まわしが必要で、外務省の指導と自治省の了解を求める必要があった。
つぎに国連側の事務局との連絡は、東京の出先機関として東京に駐在している国際連合広報センターと折衝した。
幸いなことに国連事務次長で、事務総長の下で広報活動をする部の長である赤谷源一氏(外務省から出向している大使級で、国連広報センターの直接上司)が、たまたま、神戸に帰国した機会をとらえて、ワルトハイム事務総長との連絡を依頼した。
赤谷氏の好意的な尽力により、事務総長との会見日が12月1日と決定されたのは8月23日であった。
この段階で、訪問の今一つの大きな内容である主要国代表部の大使との会見、すなわち核保有国、核保有の可能性のある国および核反対を表明している国の大使こ直接訴えることが考えられた。そこで、会見の希望を伝える書簡を14カ国に送った。また、現地での日時設定は、ニューヨークの日本政府国連代表部に依頼した。

 

1975(昭和50年)8月1日

国際連合に対するアピールについて審議
荒木市長は昭和50年度第2回平和文化推進審議会(広島市平和文化センター所管)で「平和宣言の精神を基調として具体的行動を考えたい。それにはまずヒロシマを世界に広めるため、国連にアピールすることを思っている
が、これについて各委員の意見を伺いたい。」と発言した。
同審議会は小委員会を設置して検討を始めることとなった。
小委員会の委員はつぎの通りである。
今堀誠二(広島大学総合科学部長)
岡崎怒一(弁護士)[岡咲恕一]
小谷鶴次(広島大学教授)
坂田修一(元広島市助役)
原田東岷(原田外科病院院長)
丸山益輝(広臭大学教授)
森脇幸次(中国地方経済連合会専務理事)


1975(昭和50年)9月2日

平和文化推進審議会小委員会の各委員に対し、ヒロシマ・アピールに関する意見書の提出を依頼した。
各委員の意見の要点はつぎのとおりである<以下未入力>

1975(昭和50年)9月9日

平和文化推進審議会小委員会の開催
協議要旨は、つぎのとおりである。
<以下未入力>

1975(昭和50年)10月31日

<未入力>

1976(昭和51年)2月4日

<未入力>

1976(昭和51年)2月19日

<未入力>

1976(昭和51年)2月27日

1976(昭和51年)3月8日

1976(昭和51年)3月17日

1976(昭和51年)3月30日


1976(昭和51年)4月1日

広島市平和文化センター局、財団法人広島平和文化センターとして発足する。

1976(昭和51年)4月16日

1976(昭和51年)4月26日

1976(昭和51年)4月28日

1976(昭和51年)5月8日

1976(昭和51年)5月10日

1976(昭和51年)5月11日

1976(昭和51年)5月12日

国連訪問支持決議<内容未入力>

広島憩いの家原爆被災者の会一同(代表 田辺耕一郎)

1976(昭和51年)5月10日

1976(昭和51年)5月13日

1976(昭和51年)5月15日

1976(昭和51年)5月21日

1976(昭和51年)5月27日

1976(昭和51年)5月29日

1976(昭和51年)5月31日

国連訪問支持決議<内容未入力>

広島県原爆被害者団体協議会 理事長 森滝市郎

1976(昭和51年)6月1日

1976(昭和51年)6月9日

1976(昭和51年)6月14日

1976(昭和51年)6月16日

1976(昭和51年)6月17日

1976(昭和51年)6月24日

国連訪問支持決議<内容未入力>

明るい釈迦づくり広島県民大会 宮沢弘

1976(昭和51年)6月25日

第5回6月定例長崎市議会において、ナガサキーヒロシマ国連アピール準備委員会に対する負担金220万円を予算計上する。

1976(昭和51年)6月26日

林田国際文化会館館長 広島市へ出張する。 (広島市側国連アピール資料編集専門委員会委員選定の件、広島市長国連訪問支持決議の件)

1976(昭和51年)6月29日

佐野外務省事務次官、同政治課長らに国連訪問の主旨および折衝経過等を説明し、協力を要請する。(荒木市長、諸谷市長、広島・長崎両東京事務所長ほか)

1976(昭和51年)6月30日

第1回国連アピール市民懇談会の開催(世話人=岡咲恕一、小谷鶴次、原田東岷、広瀬ハマコ、丸山益輝、森脇幸次の在広各氏)
市長への要望事項
1、核兵器と戦争廃絶のために世論の流れを変える努力をして来てほしい。
2、核兵器を過少評価する動きがある。広島の生の声をぶっつけて来てほしい。
3、在米市民運動団体にも働きかけてほしい。

1976(昭和51年)7月1日

長崎市国連アピール資料編集専門委員会委員を選任する。

1976(昭和51年)7月3日

国連アピール資料編集専門委員会初会合協議内容
アピール内容は、事務総長へ要請する事項と被害資料とする。被害資料は物理的破壊、身体的障害、社会的破壊および今後の課題の4部とし、すべて歴史的事実に基づいて執筆することを申し合わせた。
構成メンバーは、つぎのとおりである。
顧問  飯島宗一 広島大学学長
貝島兼三郎 長崎大学学長委員長 今堀誠二 広島大学総合科学部長
〔広島側〕
副委員長 原田東岷 原田外科病院々長
委員   石田定  広島原爆病院内科部長
岡本直正 広島大学原爆放射能医学研究所長
庄野直美 広島女学院大学教授
湯崎稔  広島大学原爆放射能医学研究所助教授
〔長崎側〕
副委員長 秋月辰一郎 聖フランシスコ病院医長
委員   市丸道人 長崎大学医学部教授
岡島俊三 長崎大学医学部教授
島内八郎 長崎原爆資料協議会副会長
西森一正 長崎大学医学部教授
宮城重信 長崎原子爆弾被爆者対策協議会医療部会長
国連訪問医師  大内五良広島県医師会長

 

 

参考資料:『ヒロシマ・ナガサキ 核兵器の廃絶と全面軍縮のために-国連事務総長への要請』(広島市・長崎市 1976年10月)』
無題
<上記の抄録> 専門委員会は,今年7月上旬に発足以来,今回の問題に関心ある諸方面と連絡をとりながら、熱心な討議を重ね短期日の間にこの要請書並びに資料編を作成し。国連事務総長への要請項目の起草は、当初から,広島・長崎の被爆者を中心とする市民とくに被爆者団体と平和運動団体の代表者の意見を受けてまとめられた。またこれには財団法人・
広島平和文化センター」の理事会の意見も反映されている。
特にその資科編『原爆被害の実態-広島・長崎』の作成にあたっては、「原爆による物理的破壊」および「原爆による身体的障害に閔する原案を、庄野直美氏が石田田定氏の協力で起草し、また、「原爆による社会的破壊」の原案は湯崎稔氏が起草し宇吹暁氏(広島大学助手)の協力を得た。これらの原案に基づき.専門委員全体で検討を加えて資料編が完成された。
この要請書並びに責料編の英文翻訳にあたっては、「財団法人・放射線影響研究所(旧ABCC)の協力を得た。

 

1976(昭和51年)8月24日(宇吹メモ)
 19760824

1976(昭和51年)7月5日

国連訪問支持決議<内容未入力>

日本原水爆被害者団体協議会 代表委員 行宗一

1976(昭和51年)7月13日

1976(昭和51年)7月19日

1976(昭和51年)7月16日

1976(昭和51年)7月22日

1976(昭和51年)8月2日

外務省政治課長と打ち合せる。(広島市東京事務所長)
国連広報センターと打ち合せる。(同)

1976(昭和51年)8月3日

 広島市側国連アピール資料編集専門委員会第一回会合の資料の送付を受け、長崎市国連アピール資料編集専門委員に配布する

1976(昭和51年)8月6日

  広島三十一年目の「原爆記念日」
参拝した三木内閣総理大臣に対し、「国際連合訪問に関する要望書」を提出(荒木市長)
提出した要望書の全内容
人類史上初の被爆体験をした広島市民は、この凄惨な体験をみつめながら、ひとたび核戦争がはじまれば人類の滅亡と文明の終えんは明らかであることを予見し、一切の悲しみと憎しみを越えて、ヒロシマを再び繰り返さないよう、全世界に訴え続けてきました。
しかしながら、世界における核軍備の情勢は、全人類をせん滅して余りある巨大な量の核兵器が蓄積されつつあり、人類の安全にとって危険な兆候にあります。
広島市民は、こうした危険な事態を憂慮し、このうえは国際連合に対し、核兵器の廃絶を訴えなければならないとする機運が盛りあがってまいりました。
もちろん、国際連合および政府における核軍縮へのご努力は、広島市民としてまことに喜ばしいことではありますが、この際、ヒロシマーナガサキの立場において、国際連合総会が議決した核兵器の使用禁止・核拡散防止・核実験停止に関する諸決議の目ざす核兵器廃絶への具体的措置が早急に実現されるよう要請いたしたく、広島市民の総意と支持のもとに、長崎市長と共に、今秋国際連合に赴くことを決意した次第であります。
国際連合訪問計画および要請事項等については、現在、外務省当局のご指導を得ながら進めておりますが、政府におかれても、非核三原則の国是に立脚され、別添の要望事項について絶大なご指導とご協力を賜わりたく、お願い申しあげます。
昭和五十一年八月六日
広島市長 荒木武
内閣総理大臣 三木武夫殿
(別紙)国際連合訪問に関する要望事項(未入力)

1976(昭和51年)8月9日

  長崎三十一回目の「原爆記念日」
参拝した三木総理大臣に対し、広島市長が提出したように「国際連合訪問に関する要望書」を提出する。(諸谷市長)
内容は広島市とほぼ同一のため省略

1976(昭和51年)8月10日

1976(昭和51年)8月11日

1976(昭和51年)8月13日

1976(昭和51年)8月16日

1976(昭和51年)8月18日

1976(昭和51年)8月21日

1976(昭和51年)8月23日

1976(昭和51年)8月24日

1976(昭和51年)8月26日

1976(昭和51年)8月27日

1976(昭和51年)8月31日

1976(昭和51年)9月3日

1976(昭和51年)9月4日

1976(昭和51年)9月6日

1976(昭和51年)9月8日

1976(昭和51年)9月10日

1976(昭和51年)9月13日

1976(昭和51年)9月14日

1976(昭和51年)9月15日

1976(昭和51年)9月16日

国連訪問支持決議<内容未入力>

日本ペンクラブ会長 石川達三

1976(昭和51年)9月18日

1976(昭和51年)9月24日

1976(昭和51年)9月27日

1976(昭和51年)9月29日

1976(昭和51年)9月30日

1976(昭和51年)10月1日

1976(昭和51年)10月2日

1976(昭和51年)10月4日

1976(昭和51年)10月5日

1976(昭和51年)10月7日

1976(昭和51年)10月15日

国連訪問支持決議<内容未入力>

財団法人広島市連合母子会長 栗栖ミツヨ、財団法人安佐連合未亡人会長 西山春子

1976(昭和51年)10月24日

国連訪問支持決議<内容未入力>

第25回広島市民生委員・児童委員大会会長 宮本福松

1976(昭和51年)10月25日

国連訪問支持決議<内容未入力>

広島市地域婦人団体連絡協議会会長 藤野考子

1976(昭和51年)10月30日

1976(昭和51年)11月1日

国連訪問支持決議<内容未入力>

日本自動車産業労働組合連合会日産プリンス販売労働組合(中国・四国地区長沖実)

1976(昭和51年)11月4日

1976(昭和51年)11月5日

1976(昭和51年)11月8日

1976(昭和51年)11月9日

1976(昭和51年)11月10日

1976(昭和51年)11月13日

国連訪問支持決議<内容未入力>

(長崎)世界平和祈念旬間行事実行委員会

1976(昭和51年)11月14日

1976(昭和51年)11月15日

1976(昭和51年)11月17日

国連訪問支持決議<内容未入力>

広島ユネスコ協会総会

1976(昭和51年)11月19日

広島市渉外課長先発する。
同日
外務省および国連広報センターに渡米あいさつ回りをする。(広島市渉外課長)
同日
外人記者クラブに英文資料を提供する。(同)

1976(昭和51年)11月23日

荒木市長、大内県医師会長は渡米報告のため慰霊碑に参拝。同日夕刻、荒木市長広島を新幹線で出発。出発に先立ち、広島駅で壮行会を開催する。
511123(昭和51年11月23日)
諸谷市長一行は、杉本長崎原爆遺族会長、宮城原対協医療部会長、江角原爆老人ホーム理事長ら関係者多数の見送りと激励を受けこれに対し市長は「核廃絶の声が、国際世論となるよう全力を挙げて来たい」と決意をひ歴し、出発する。

1976(昭和51年)11月24日

大内県医師会長は広島空港から上京する。

1976(昭和51年)11月25日

両市長は、「スタジオ102」に出演したのち、東京を発ち、ニューヨーク経由でワシントンに到着した。
511125(昭和51年11月25日)
ブリュセルで開かれた第六回国際自由労連執行委員会は、両市長の国連に対するアピールをとりあげ、これを支持することを決定し、つぎのようにワルトハイム事務総長に打電した。