「04 できごと」カテゴリーアーカイブ

ノー句碑・句集

 

『ノー句碑 句集 霜月おんな』(デルタ女の会、19890319)

内容

表紙・裏 「句碑反対」の句会計画
俳句 風見鶏 鳩をまねても 右を向き (布美子作)
短歌 地中より あまたの拳突きあげよ 見せかけの句碑 倒さんがため (布美子作)
あとがき 1989年2月24日 大喪の礼の日に 浜村匡子(デルタ・世話人)
新聞報道
首相の句碑も”任期切れ” 広島市 反対相次ぐ建立計画 朝日新聞19881108
強行に波紋広がる 前首相句碑据え付け 中国新聞19871113
「息長く前首相句碑反対運動」 16団体、抗議座り込み 読売新聞19871115
栗原さんが抗議の詩 市民グループ、市役所で朗読 読売新聞1987119
<句碑建立に抗議して市役所前で座り込み> 毎日新聞19871122

 

 

原爆資料のデータベース

「原爆資料のデータベース」(『新聞記事データベースの相互利用に関する調査研究 データベース構築促進及び技術開発に関する報告書』<委託先:中国新聞社、発行:財団法人データベース振興センター、1989年3月>所収)

内容概要

データベース振興センター
「データベースは、わが国の情報化の進展上、重要な役割を果たすものと期待されている。・・・しかしながら現在わが国で流通しているデータベースの中でわが国独自のものは1/4に過ぎないのが現状・・・」
1 調査研究の経緯
2 新聞各社を結ぶデータベース網
8 新聞記事データベースと図書館情報の連携
9 原爆資料のデータベース
10 資料
委員名簿
新聞データベースを考える会
田坂亮三中国新聞社開発局データベース部長など19名
同技術委員会
池田秀人広島大学総合情報処理センター次長など7名
中国地域推進協議会標準化部会
部会長:田坂亮三中国新聞社開発局データベース部長
委員:宇吹暁原爆放射能医学研究所学術資料センター助手など17名
1989

 

 

 

つぐない 原爆補償

『つぐない 原爆補償』創刊号(原爆被災者補償法の制定を期する市民の会、19731206)

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項目 著者
01 発刊を祝して 志水清(理事長)
02 裁判所の法技術論と原爆補償 畑博行(広島大学政経学部教授)
04 原爆補償の思想 今堀誠二(広島大学教養部部長)
06 無縁仏の遺族さがしを通して 佐伯敏子(主婦)
08 署名運動に参加して 矢野庫雄()
09 奉仕国家建設をめざそう 相原和光(広島YMCA総主事)
10 憲法九条から地球市民へ 小谷鶴次(広島大学元政経学部長)
12 どこまで国の責任か 村上忠敬(女学院大学学長)
13 原爆被災者補償法を考える 久保正直(事務局長)
15 被爆者援護のあゆみ 志水清(理事長)
18 事務局報告
20 編集後記 末永

 

 

原爆被災者補償法の制定を期する市民の会

原爆被災者補償法の制定を期する市民の会 1972年6月2日発足

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被爆者に国家補償を

法の制定を要求。市民組織が発足
原爆被爆者に対する国家補償法の制定を要求して運動を進めようという市民組織が二十日、広島市で発足した。さっそく市内で署名運動を始め、政府に要求してゆく。
この運動を進めているのは同市皆実町四丁目、無職久保正直さん(64)。久保さんは四十五年ごろから補・補償制定要求署名運動を続け、昨年八月六日佐藤首相が広島を訪れたさい、七千百人分の署名を山田広島市長を通じて提出した。
その後、この運動を推進する人々が広がったため、正式に会を結成した。
広島市基町の広島YMCAで開いた結成会には、久保さんのほか、志水清ABCC医科社会学部長、村上忠敬核禁広島県民会議議長ら九人が出席し、今後の運動の進め方を話し合った。
この結果①六一九月の間に署名運動に全力をおける②現在百一人の会員を二百三十人にふやし、署名運動の中心になってもらう③国家補償要求を理論的に裏づける科学的資料の収集、補償法の骨子を決める研究会の開催に努めるなどの運動方針を決めた。
組織の名称は「原爆被災者補償法の制定を期する市民の会」とし、理事長に志水清氏、事務局長に久保正直氏をそれぞれ選んだ。
久保さんは「生存者、死没者を問わず、原爆被災者に国家補償するのは、政府の当然の責務。それが原爆投下は国際法違反であることを確認し、世界平和実現の第一歩につながると確信すると話している。 『中国新聞』(1972年6月21日)

 

 

反核運動1998

反核運動1998


5月11日、インドが1974年5月以来24年ぶりに地下核実験を実施、さらに、同月28日にはパキスタンがこれに対抗し初の地下核実験を行った。また、アメリカが、前年に続き第3・4回目の臨界前核実験を3月25日と9月28日に実施し、核開発の意志を放棄していないことを示した。印パ両国は、1996年9月の国連総会において採択された包括的核実験禁止条約(CTBT)に加盟しておらず、また、臨界前核実験は同条約で禁止されていないものであった。そのため、これら一連の実験は、同条約に基づき核軍縮をめざそうとする国際社会に大きな衝撃を与えた。

**国内の動き**

この1年、日本の反核運動は、印パ両国の核実験問題を中心に展開された観があった。直後から国内のさまざまな団体が、抗議行動を繰り広げた。これを受け、衆参両院が両国の実験にたいする抗議の決議(参議院:5月13日、29日、衆議院:5月14日、6月4日)を採択した。今年初めから原爆展が印・パ両国内でつぎつぎに開催されるが、これらの多くは、広島・長崎両市や日本の反核団体などが現地の平和団体に働きかけて実現したものであった。実験前の1月と4月、インドのムンバイおよびニューデリーで広島・長崎両市の協力により原爆展「ヒロシマ・ナガサキ・ネバーアゲイン」が開催された。両国の核実験実施後には、ピース・ボート、原水爆禁止広島県協議会(広島県原水禁)、連合などの協力による原爆展も開催された。また、政府も原爆展に関心を示し、12月に、パキスタン日本文化協会主催(在パキスタン日本大使館後援)の原爆展が首都イスラマバードで開催された。

原爆記念日前後に広島・長崎両市を中心に開催された諸行事においても印パ両国の関係者への働きかけが行われた。その結果、広島・長崎両市の平和記念式典に両国の駐日大使の参列が実現したが、外国大使の式典への参加は初めてのことであった。また、原水爆禁止日本協議会(広島・長崎それぞれ7300人、3300人規模)および原水爆禁止国民会議(4500人、3000人規模)を中心に開催された二つの原水爆禁止世界大会に、印パ両国から代表が参加し、それぞれ、国内での反核運動の困難な実情を伝えるとともに、国際的な支援を訴え、注目を集めた。

8月30-31日に米ロなど核保有5か国と印パ両国を含む18か国の軍備管理・軍縮専門家らによる東京フォーラム「核軍縮・不拡散に関する緊急行動会議」の初会合が東京で開催された。印パの核実験直後、日本政府が核軍縮に関する国際フォーラムの開催を提唱していたが、これが具体化したものであった。12月18-19日、広島で2回目の会合が開催され、来年には、核軍縮に向けた具体的提案がまとめられる予定である。

このほか、11月24-25日、国連軍縮長崎会議(日本での開催は10回目、長崎では2回目)が、「核兵器のない世界に向けて」を基調テーマとして開催された。印パ両国を含む24カ国の政府の軍縮担当者・研究者・非政府組織(NGO)代表など71人が参加したこの会議では、宣言やアピールの採択はしないとのこれまでの慣例を破って初めて「長崎を最後の被爆地に」との決議が採択された。

**海外の動き**

6月6日、国連安全保障理事会が印・パ両国の核実験を非難し、核不拡散体制の堅持を求める決議を採択。また、同月9日には、スウェーデン・アイルランド・南アフリカ・ブラジル・メキシコ・エジプト・ニュージーランド・スロベニアの非核保有8か国(新アジェンダ連合)が、米ロなど核保有5大国と印パ両国およびイスラエルにたいし、核兵器と核製造能力を廃絶し放棄する意志表明を即刻行うよう求める共同声明を発表した。この声明の趣旨は、その後、8か国を中心に「核兵器のない世界に向けて-新しい課題(アジェンダ)の必要性」という決議案にまとめられ第53回国連総会に提案、11月4日に採択された。このほか、ジュネーブ軍縮会議(CD)の兵器用核分裂性物質の生産禁止(カットオフ)条約を交渉するための特別委員会設置の決定や、ドイツの新政権によるNATOでの核先制不使用を求める動きなど、核軍縮をめぐる新たな動きが見られた。

印パ両国の核実験を契機とする国内外での反核運動の盛り上がりにもかかわらず「核兵器のない21世紀」を迎える展望は未だ見えていない。国内では、広島・長崎への修学旅行の減少や平和教育の衰退などが懸念されている。原爆展の海外での継続的な開催とともに、国内での「被爆体験継承」の積極的な取り組みが期待される。

反核運動1997

反核運動1997


アメリカが7月と9月に臨界前核実験を実施、11月には、ロシアが昨年と今年それぞれ2回づつ同実験を実施していたことが判明した。また、湾岸戦争で使用され帰還兵の間でその影響による障害が問題となっている劣化ウラン弾が米海兵隊機により沖縄の射撃場で誤射されていたこと(2月)や、新たに開発された地下直撃型B61核爆弾が米国内に配備ずみであること(6月)が明らかになった。

包括的核実験禁止条約(CTBT)の国連総会での採択(1996年9月)後、核実験反対運動の国際的な盛り上がりは姿を消した。しかし、核兵器の廃絶を求める地道な運動は、引き続き展開された。

【原水爆禁止世界大会】

原爆記念日前後、例年どおりさまざまな反核団体が広島・長崎両市で大会を開催した。原水爆禁止日本協議会(原水協)系の原水爆禁止世界大会は、それぞれ3300人、7000人規模で開催された。国際会議には15カ国から海外代表52人が参加し、前年と同様に「核兵器のない21世紀」をめざす取り組みについて論議を深めた。

一方、原水爆禁止国民会議(原水禁)系の大会は、「核廃絶への新しい一歩を」をメインテーマに、それぞれ5000人、2000人規模で開催した。連合・原水禁・核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)の合同集会(1995年に続き3回目)、生活協同組合連合会の集会なども同じ時期に両市で開催されている。

【原爆展】

広島・長崎両市が計画し被爆50周年から実施されている海外での原爆展が、今年はイタリアのペルージア・アッシジ両市(3月)とアメリカ・ニューヨーク市立大学リーマン校(9月-10月)において開催された。また両市それぞれによるドイツ・ビュルツブルグ(2月、長崎市)、スペイン・バルセロナ(5月、広島市)での原爆展も開かれた。6月には日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がパネル「原爆と人間展」を完成し、国内外での同展の開催が始まった。

日本の加害展示を含む「戦争と原爆展」も、広がりを見せた。韓国・ソウル市での初開催(1995年7月)以後2年間に開かれた日韓両国の会場数は23に及んでいる。8月には、マレーシア中華大会堂総商会によりクアラルンプールで「戦争の恐怖-すべての戦争と核兵器のない世界を目指して」展が開催された。

【原爆遺跡保存運動】

前年に始まった長崎市爆心地公園にある原爆落下中心碑の撤去・建て替え問題は、2月に同市が計画の撤回を表明したことにより、一応の解決をみた。一方、広島市では、ユネスコ世界遺産センター代表(7月)や文化庁(8月)などが、平和公園内のレストハウス(元大正屋呉服店、被爆遺跡)を解体し新設するという同市の方針(1995年末発表)に対し、現状維持や保存を求めた。その主な理由は、同建物が原爆ドームの世界遺産化にともなって設定されたバファーゾーン(緩衝地帯)内に存在していることであった。これにより、広島市は新たな対応をせまられることとなった。このほかに、昨秋和歌山の海底から引き上げられた第五福龍丸のエンジンを保存する運動が始まり、10月には、「第五福龍丸エンジンを東京・夢の島へ都民運動」の結成集会が開かれている。

【原爆被爆者対策】

原爆被爆者援護法に基づく特別葬祭給付金の請求が6月末に締め切られた。厚生省は、支給者を25万人と予想していたが、8月末現在では半数に止まっていることが判明した。10月、同じく同法に基づき広島・長崎に建設される原爆死没者追悼平和祈念館(仮称)の事業の一環として、原爆被爆手記のデータベース化が始まった。これは、広島市が厚生省から委託を受け行うもので、当面厚生省が被爆50周年に集めた広島・長崎の被爆体験記約8万9000人分の入力が行われることになった。しかし、同館自体の建設は、両市の被爆者団体が強く求める核兵器廃絶の建設理念をめぐり調整がつかず、10月、当初予定の1998年(広島)・99年(長崎)の開館が遅れることが明らかになった。

11月7日、福岡高裁が、長崎原爆松谷訴訟(1988年長崎地裁に提訴)の控訴審で、国側の控訴を棄却する判決を下した。この裁判は、松谷英子(長崎の被爆者)が医療特別手当の受給に必要な原爆症認定申請を却下した国(厚生大臣)に処分の取り消しを求めたものであるが、同時に原爆被害を過小評価しがちな国の姿勢を問う性格を持っており、被爆者だけでなく原水禁運動関係者も大きな関心を寄せていた。しかし、国は、同月20日、判決を不服として最高裁に上告した。

12月2日には、金順吉(在韓被爆者)が戦時中に強制連行され三菱重工業長崎造船所で働かされ被爆したとして、三菱重工と国に未払い賃金支払いと損害賠償を求めた訴訟(1992年提訴)に対する判決が長崎地裁であった。国の徴用を不法行為と認定する初めての判断が下されたが、請求そのものは棄却された。

【国内の動向】

7月、国連軍縮会議が札幌市で開かれた。32か国から約100人が参加し、CTBTの発効への道筋などをめぐり意見の交換を行った。この会議は今回が9回目に当たるが、同市では初めての開催である。また、この会議に先立ち第5回非核自治体全国草の根交流大会も同市で開かれた。こうした自治体を中心とした軍縮問題への取り組みは、「冷戦」終了後も着実に進展しており、日本非核宣言自治体協議会(事務局・神奈川県藤沢市)の調査によれば、7月現在で「非核宣言自治体」の数は全自治体数の3分の2を超える2774に上っている。

8月5日-9日、広島・長崎両市を舞台に第4回世界平和連帯都市市長会議が「平和・公正・自由-世界の調和を目指して」を基調テーマとし、32か国・地域75都市から参加して開催された。このほかに11月には、長崎市で核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の初の北アジア会議が開かれた。6か国から約100人が参加し、「21世紀の核依存からの脱皮」をメインテーマに討議を行った。また、長崎平和研究所(鎌田定夫所長、1月)や平和資料協同組合(梅林宏道代表、11月)が設立され、市民レベルでの新たな取り組みが始まった。

【海外の動き】

期限を切った核兵器廃絶のプログラムを求める声が、これまで核軍縮と無縁であった分野の運動や団体の間に拡がりを見せた。1996年12月に公表された世界17か国60人の退役将軍などによる共同声明で中心的役割を果たしたバトラー元米戦略空軍司令官は、1月のワシントンでの講演でも、核兵器廃絶を求める重要性や核抑止論の誤りを指摘した。3月には、米国医師会・米国公衆衛生協会・内科医師会の3団体が期限を切って段階的に核兵器を廃絶する条約の交渉を開始するよう求める宣言を発表した。8月、ノルウェー・リレハンメルで開かれたパグウォッシュ会議第47回年次会議で、評議会が、核兵器廃絶条約の交渉、締結をめざして作業を始めるようよびかける声明を発表、また、10月にはロートブラットやIPPNWなどノ-ベル平和賞を受賞した6名と3団体が中・東欧に非核地帯の設置をよびかける声明を発表した。

反核運動1996

反核運動1996


フランスが、1月27日に南太平洋ムルロア環礁で核実験(昨年の核実験再開以来6回目)を実施したが、終了後、実験終結を宣言、その後ムルロアの核実験場の閉鎖に着手した。また、中国も、6月8日と7月29日に、ウィグル自治区ロプノルで核実験を実施、7月の実験後、核実験を凍結するとの声明を発表した。これにより、前年に引き続いて展開された両国の核実験に対する反対や抗議の運動は終息した。

今年には、世界の非核化に大きな進展があった。仏・米・英の3つの核保有国の南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)への調印(3月25日)、ロシアを除く核保有4カ国のアフリカ非核化条約(ペリンダバ条約)への調印(4月11日)がなされた。これにより、これまでに調印された南極(1959年)・中南米(トラテロルコ条約、67年)・東南アジア(95年)の各非核地帯条約と合わせ、南半球の大半が非核地帯で覆われることとなった。さらに、9月10日には、国連総会であらゆる核兵器の爆発実験やその他のあらゆる核爆発を禁止する包括的核実験禁止条約(CTBT)が158カ国の賛成で採択された。

【核実験反対運動】

日本国内ではさまざまな団体が、仏・中両国の在日大使館への抗議デモや抗議文の送付を実施した。1月4-14日には、広島の市民グループによる「市民のフランス原爆展」が、パリ・リヨン・グルノーブルの3都市で開催され、約1000人の観客を集めた。また、2月6日-17日、連合や広島・長崎の被爆者団体など主催の「ヒロシマ・ナガサキ原爆資料展」が、パリで開催され、期間中に約9000人が見学した。

このほかに、長崎大学医学部有志が、ルモンド紙(1月27日付)に、1面を使った反核意見広告を掲載している。また、6月には衆議院(14日)と参議院(17日)が中国の核実験に抗議する決議案をいずれも全会一致で採択した。

【原水爆禁止世界大会】

原爆記念日前後、広島・長崎両市で原水爆禁止日本協議会(原水協)系の原水爆禁止世界大会が、それぞれ7500人、3000人規模で開催された。国際会議では「核兵器のない21世紀を=国際共同行動」を提唱した宣言が採択された。また、大会には核保有5カ国の核開発・実験・使用によって生じた放射線被曝者の代表が参加し、交流を深めた。

一方、原水爆禁止国民会議(原水禁)系の大会も、「CTBTから核廃絶へ」をメインテーマに、それぞれ5500人、2800人規模で開催された。連合・原水禁・核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)の合同集会(前年に続き2回目)、生活協同組合連合会の集会なども同じ時期に両市で開催されている。

【被爆体験の普及と継承】

広島・長崎両市は、昨年のスミソニアン協会航空宇宙博物館の被爆資料展示の中止問題を契機に、被爆の実相を伝えるため国内外の団体に原爆展の開催を呼びかけていたが、7月26日には政府主催による海外での原爆展開催を外務省に要請した。アメリカでは平和をめざす退役軍人の会が、広島・長崎両市の呼びかけに応え、8月20日から13日間、コロンビア市のスティーブン大学で原爆展を開催した。また、広島市は、8月27日-9月1日に新潟市で「ヒロシマ原爆展」が開催した。両市は、こうした国内外での原爆展を来年以降も継続的に開催することを計画している。

原爆展以外にも被爆体験の普及と継承をめぐる新たな動きが見られた。長崎市の原爆資料館が、4月1日に新装開館した。同館に展示された南京大虐殺など日本の加害を示す資料は、国内外に反響を呼び起こした。中国からは、新華社通信が開館を報道するなど好意的な反応が示されたが、同月23日、開館前からこの展示に反対していた長崎日の丸会などが「長崎の原爆展示をただす市民の会」を結成した。

平岡広島市長が8月6日の平和宣言の中で、「被爆資料の集大成」と「平和文化」の創造を訴えたが、宣言の中でこうした問題が取り上げられたのは、初めてのことである。広島では、12月に原爆ドームの世界遺産化の実現し、被爆体験の国際化が新たな形で進められようとしている。

広島・長崎両市は、数年前から平和公園一帯の整備を進めている。しかし、その一環として計画されたレストハウス解体(広島)、原爆落下中心地碑の撤去・立て替え(長崎)について、両市民の間で、これらの計画を撤回し保存を求める集会や署名運動が広がりを見せた。

【国際司法裁判所】

オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)は、世界保健機構(WHO、1993年11月決議)と国連総会(94年12月決議)の要請に基づき核兵器使用と威嚇が国際法に違反するかどうかの審理を続けていたが、7月8日、その判断を示した。それは、WHOの要請については、要請を提出する資格がないとして却下する一方、国連総会決議に対しては「核兵器使用または核兵器による威嚇は一般的には国際法違反」との勧告的意見を示したものであった。

この意見が、自衛目的の使用についての判断を避けたものであったことから、広島・長崎両市では、否定的な評価が目立った。しかしその一方で、ICJの意見を、核兵器廃絶を求める国際世論に応えたものとして評価し、これを足がかりとして核兵器廃絶をめざす動きが見られた。マレーシアなど非同盟23カ国は、10月31日、ICJの勧告的意見に基づき核兵器禁止条約交渉の早期開始を求める決議案を国連総会第1委員会(軍縮)に提出した。この案は、同月14日の委員会において圧倒的多数で採択された(日本政府は棄権)。

【チェルノブイリ10周年】

チェルノブイリ原発事故10周年のさまざまな行事が催された。4月9-12日には、IAEAと世界保健機構(WHO)・欧州連合(EU)の共催による同事故の影響と今後の対策について話し合う国際会議が、ウィーンで開催された。世界各国から約700人が参加したこの会議では、事故により放出された放射線が当初推計の3-4倍に及ぶことや事故後に発生した小児甲状腺がんの増加状況などが報告され、改めて事故の被害の大きさが確認された。

同月20日には主要7カ国(G7)とロシア首脳がモスクワで原子力安全サミットを開き、原子力平和利用で安全性を最優先させることやCTBTの早期締結などを柱とする声明と宣言を採択した。事故当日に当たる26日には、ロシアやウクライナなどで事故犠牲者の追悼行事が催された。ロシアでは事故犠牲者27人が眠るモスクワ郊外の墓地において、ロシア第一副首相ら約2000人が参列して追悼式典が挙行された。

【海外の動き】

4月1日から4日間、米・ネバダ大学ラスベガス校で米内外の反核・平和団体35組織から500人余が参加して核廃絶サミットが開かれた。また、4月24-25日にはNGO(非政府組織)国連軍縮会議が、「1996年-重大な転機にある軍縮」との全体テーマのもとにアメリカ・ニューヨークの国連本部で開催された。日本から、前者には原水協や日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の代表が、また後者には広島・長崎両市の代表が参加した。このほかに7月25-28日には、米マサチューセッツ州ウースターで核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の第12回世界大会が、42カ国から400人が参加して開催された。

反核運動1995

反核運動1995


被爆50周年を迎え、広島・長崎両被爆地はもちろん海外でも、例年になく多彩な行事が催された。また、核軍縮をめぐっても、大きな動きが見られた。核拡散防止条約(NPT)延長・再検討会議(4月-5月、ニューヨークで開催)は、投票無しの全会一致で無期限延長という結果に終わった。同時に、1996年中に包括的核実験禁止条約(CTBT)の締結に向けた合意を達成することが決められたが、その直後の5月15日に中国が新彊ウイグル自治区のロプノル実験場で核実験を実施、6月13日にはフランスが核実験再開の意向を表明した。その後、8月17日に中国(今年第2回目)が、また、9月5日、10月1日、27日、11月22日とフランスが南太平洋ポリネシアのムルロア環礁で核実験を実施した。

【核実験反対運動】

フランスの核実験再開声明に対し、スウェーデン・デンマーク・ドイツなどでフランス製品のボイコット運動が始まり、その他のヨーロッパ諸国や日本にも広まった。また、オーストラリア・日本やフランスなどで、数千人から1万人を超える集会が、繰り返し開催された。国際的な反核団体グリーピースは、9月1日に「虹の戦士2」のボートによるムルロア環礁のフランス領海突入といった直接行動を実施した。また、同フランス支部は、10月28日に世界約30か国から集まった核実験反対の署名約700万人分をシラク大統領あてに送った。

6月29日には、核実験場となるポリネシアの政庁所在地タヒチ島パペーテで、同島始まって以来の約1万2000人による実験反対デモが行われ、実験直前の9月2日には、10数か国の国会議員約100人を含む約2000人による国際抗議集会が開催された。しかし、実験直後の6日に発生した約3000人のタヒチ島ファーア空港への乱入・放火事件後、ポリネシア領内での運動は鎮静化した。

こうした市民レベルの運動と並行して、7月14日の欧州議会(EU)、30日の東南アジア諸国連合(ASEAN)外相会議、9月14日の南太平洋諸国会議(SPF)首脳会議、22日の国際原子力機関(IAEA)第39回総会、11月10日の英連邦首脳会議などで核実験への憂慮や遺憾の意が表明された。また、11月16日には国連第1委員会で日本・オーストラリアなど41か国が共同提案した核実験停止決議案が採択された。国内では、8月4日、参・衆両院の本会議で、それぞれ中国・フランスの核実験に反対する決議が採択され、国内の県市町村議会でも、核実験反対決議があいついだ。

【被爆50周年】

広島・長崎両市では、国連軍縮長崎会議(6月12日-16日、テーマ「過去半世紀における軍縮努力と将来への展望」)、世界平和連帯都市市長会議アジア太平洋地域会議(6月28日-30日、広島、テーマ「アジア太平洋地域の平和と都市の役割-核兵器廃絶を目指して」)、第45回パグウォッシュ会議(7月24日-29日、広島)、国連非政府組織(NGO)軍縮特別委員会主催「被爆50年国際シンポジウム」(7月31日-8月2日、広島)などの国際会議が開催された。長崎での国連軍縮会議(日本での開催としては7回目)と日本でのパグウォッシュ会議の開催は、被爆50周年を記念して初めて開催されたものであった。両者ともに、これまで核管理や核軍縮を中心テーマとしたものであったが、今回はとくに核廃絶が取り上げられた。

海外のマスコミも被爆50周年に大きな関心を寄せた。広島・長崎両市長は、3月15日、日本外国特派員協会に招かれて講演、広島市の平和記念式典を取材した報道機関は、同市が把握しただけでも21か国95社に及んだ。両市は、こうした関心に応え、NPT延長・再検討会議などの会議への代表派遣、8月6日付ワシントン・ポスト紙への意見広告の掲載(広島市)といった海外への働きかけも積極的に行った。このほか9月28日に、外務省が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会に広島の原爆ドームの推薦書を提出しているが、これも被爆50周年の実現をめざして、政府が前年から準備していたものであった。

【原爆展】

スミソニアン協会航空宇宙博物館は、原爆投下50周年を記念して原爆資料の展示を企画したが、退役軍人会などの圧力に屈して1月に展示の中止を決定、6月28日に広島原爆投下機エノラ・ゲイを中心とした展示を開始した。この問題を契機にアメリカ国内では、原爆投下の正当性をめぐる論議が高まり、ワシントンのアメリカン大学(7月8日-27日)などで原爆展やシンポジウムが開催された。韓国でも、ソウル市(7月25日-31日)などで「侵略と原爆展」が開かれた。アメリカ国内で見られた「侵略者である日本が被害者として描かれる」という批判を考慮した新しい試みであった。

【国内の動き】

原爆記念日前後、広島・長崎両市で原水爆禁止日本協議会(原水協)を中心にそれぞれ9000人、6000人規模の、また、原水爆禁止国民会議(原水禁)を中心に6000人、3000人規模の原水爆禁止世界大会が開催された。NGOが日本で「国際シンポジウム(正式名称:広島・長崎への原爆投下と核軍拡競争による被害の実態と補償ならびに核兵器廃絶についての被爆50年国際シンポジウム)」を開催するのは、1977年以来のことである。今回は、原水協と日本原水爆被害者団体協議会が中心となって準備をおこなったもので、23か国40団体77人の海外代表が参加した。シンポジウムでは、日本の原爆被害だけでなく、アメリカ・ロシア・カザフスタン・マーシャルなどでの核開発にともなう被害の実態が明らかにされた。このほか、連合が、原水禁と核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)と「協催」の形で、1万人、3500人規模の集会を広島・長崎両市で開催している。

急速に普及しているインターネットを利用した反核の動きが日本にも現れた。東京大学の大学院生が呼びかけたフランスの核実験への抗議署名には、8月15日までに102か国から約6万人が応じた。また、広島・長崎両市長は、ホームページを設け、その中で、原爆記念日の読み上げた平和宣言などを世界に発信している。このほかにも、原爆被害情報を中心として発信する試みがいくつか試行されている。

【海外の動き】

10月30日-11月15日、オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)で核兵器の使用やそれによる威嚇が国際法違反に当たるかどうかに関する口頭弁論が開催された。これは、国際平和ビューロー(IPB)・核戦争防止国際医師会議(IPPNW)・反核兵器国際法律家協会(IALANA)などが提唱した世界法廷運動が、前年12月の第49回国連総会の決議を経て実現したもので、22か国が陳述した。広島・長崎両市長は、日本政府の代表として参加し、11月7日の陳述で、核兵器の使用の違法性の主張を避ける方針を示していた日本政府の方針とは異なり、ともにその違法性を明言した。

放射線被曝者の実態が、前年に続き明らかになってきた。ウラル放射線医学研究センター(1月、ロシア・チェリャビンスク市)・世界保健機構(WHO、ジュネーブ、11月)が開催した会議では、それぞれ旧ソ連下の核開発とチェルノブイリ原発事故による放射線被曝の実態が明らかにされた。また、8月にはアメリカ・エネルギー省が、対象者が1万6000人に及んだとする放射線による人体実験に関する最終報告書を公表した。

反核運動1994

反核運動1994


1995年3月の核拡散防止条約(NPT)期限切れにともなう同条約の改定問題をめぐる論議など、核拡散をめぐる問題がクローズアップされた1年であった。6月には、朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の核開発疑惑に対するアメリカを中心とした経済制裁の動きがあり、緊張の高まりが見られた。その一方で、11月にはウクライナ最高会議の核拡散防止条約(NPT)加盟決議、カザフスタンのウラニウムのアメリカへの移送など核不拡散に向けての動きも存在した。また、被爆50周年という節目の年を1年後に控え、国内外で原爆開発や投下、被爆の意味を問い直す動きが見られた。被爆地広島・長崎では、原爆犠牲者50回忌を迎え、慰霊・追悼行事が多数催された。

【核兵器使用への意見陳述】

国際司法裁判所がWHO加盟国に求めていた核兵器使用に関する意見陳述問題で、広島・長崎両県知事・両市長は、4月、日本政府に核兵器使用の違法性を訴える陳述書の提出を求めた。原水禁団体や平和団体なども、6月以降同様の要請を行った。外務省は当初、「核兵器使用は国際法に違反せず」との陳述書案を準備していたが、羽田内閣の内部でも問題となり、6月10日、政府は違法性に言及しない陳述書を提出した。この問題は、11月に国連総会第一委員会が、非同盟諸国が提出した核兵器使用が違法であることについて国際司法裁判所に勧告的意見を求める国連決議案を採択したことにより、引き続き国際的な問題として検討されることになった。

【原水爆禁止世界大会】

原爆記念日を中心に、さまざまな団体が恒例の集会を開いた。原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)は、8月2日~9日に、広島・長崎で、それぞれ、7500人、3000人規模の大会を開催した。大会では、NPT改定問題が取り上げられ、アメリカなど核保有国が意図する同条約の無期限延長への反対が決議された。原水禁国民会議(原水禁、社会党系)の大会にも、両地で同じ規模の代表が参加した。この大会には、6月末に社会・自民・さきがけ3党による村山内閣が発足したのを受けて、自民党の代表が初めて参加した。

【国内の動き】

細川政権のもとで連立与党による原爆被爆者援護法に関するプロジェクトチームが作られ、援護法の精神・内容についての検討が始まっていた。これは村山内閣の連立与党3党の課題として引き継がれ、11月に政府案がまとまった。一般空襲による被害や海外の戦後補償問題への波及を避けるため「国家補償の精神」が取り入れられないなど、被爆者の要求を満たすものでなく、被爆者団体やその支援団体から強い反発が示されたが、12月に成立した。

広島市を中心に進められていた原爆ドームを世界遺産条約の遺産リストに登録するよう求める請願が、参議院(1月)を衆議院(6月)で採択された。9月には、登録への前提となる文化財指定のための文化庁による遺跡について指定基準の見直し作業が始まった。

NPT改定問題は、5月に開催された第2回国連軍縮広島会議(19か国から61人が参加)でも議論が集中した。また、原爆記念日の広島・長崎両市の平和宣言は、いずれも無期限延長への反対を明確に表明した。

【海外の動き】

前年11月、アメリカの新聞アルバカーキ・トリビューン紙が核開発過程で行われた放射性物質による人体実験の事実を詳細に報道した。これが発端となり、今年早々、クリントン政権による実態究明が始まるとともに、実験の被検者やその遺族による損害賠償請求訴訟がつぎつぎと起こされた。

アメリカのスミソニアン航空宇宙博物館は、原爆投下50周年を記念する企画展示として、広島への原爆投下機エノラ・ゲイ機と併せて広島・長崎の被爆資料の展示を計画した。このシナリオが明らかになると、アメリカ国内では退役軍人協会を中心に、同機と被爆資料の同時展示に反対する動きが起こり、9月には上院が全会一致で同博物館に企画の修正を求める決議をおこなうまでに発展した。同博物館は、シナリオの大幅な修正を加え、こうした動きへの妥協を図ったが、その一方で、国内の著名な歴史学者やジャーナリストらが原爆投下を賛美するものとして、修正を求めている。

このほか、それぞれ100人、4000人という小規模ではあったが、カザフスタン共和国セミパラチンスクで8月末から9月初めにかけて核兵器廃絶と核実験被害者への補償を求める国際会議が開かれ、10月にはイギリスの核軍縮運動(CND)による集会がロンドンで数年ぶりに開催された。

反核運動1993

反核運動1993


1993年の年頭(1月3日)に、第2次戦略兵器削減条約(START2)がアメリカとロシア両国首脳の間で調印された。また、フランス(1月)やアメリカ(7月)が核実験停止(モラトリアム)延長の声明を行ったことにより、核軍縮への大きな期待が寄せられた。しかし、いっぽうでは、北朝鮮の核拡散防止条約からの脱退声明(3月)、西シベリアの軍事閉鎖都市「トムスク7」の放射能汚染事故(4月)、中国の約1年ぶりの核実験実施(10月)、ウクライナの核兵器保有継続の意志表明(11月)などがあり、核軍縮の困難さが改めて明らかになった1年であった。

【原水爆禁止世界大会】

欧米の反核運動が退潮する中でも、日本においては、被爆体験に基づく運動が展開され続けている。原爆記念日を中心に、さまざまな団体が恒例の集会を開いた。原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)は、8月3日~9日に、広島・長崎で、それぞれ、3500人、8000人規模の大会を開催し、「核兵器全面禁止・廃絶国際条約締結」と「原爆被害と核実験被害などの実相調査と補償」を求める特別決議を採択した。また、原水禁国民会議(原水禁、社会党系)の大会にも、両地合わせて1万人近くが参加し、細川連立政権に、原爆被爆者援護法の制定や戦後責任を明確にし戦後補償を果たすことなどを求める行動決議を採択している。このほかに、日本生活協同組合連合会と連合が、両地合わせて数千人規模の集会を開いた。

【放射線ヒバクシャ問題】

海外のヒバクシャとの交流が活発に行われた。原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)は、3・1ビキニデー前後に、アメリカ、マーシャル、カザフの核実験被害者を招いて、東京・広島・長崎などで国際シンポジウムを開催するとともに、10月にはネバダ核実験場に訪問交流団を派遣した。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)も、代表をセミパラチンスク(5月)・ネバダ(7月)に送り、放射線ヒバクシャとの交流を行った。また、全国各地の市民団体により、チェルノブイリ原発事故被災者の招請も見られた。行政レベルでも、発足して3年目の放射線被爆者医療国際協力推進協議会(広島県・市を中心に組織)に加えて、今年には外務省や長崎・ヒバクシャ医療国際協力会(1992年発足)による放射線医療関係者の招へい事業も始まった。

【国内の動き】

国連軍縮局は、4月13日~16日、国連軍縮京都会議を開催した。国内での開催としては5回目となるこの会議に、37か国から約90人の軍縮専門家が参加した。会議では、核拡散や核流出問題が話し合われた。また、8月5日~9日には、広島・長崎両市で、「平和の構築と都市の役割-核兵器廃絶をめざして」をテーマに、第3回世界平和連帯都市市長会議が開催され、海外37か国81都市、国内41都市、合計38か国122都市の市長や市議会議長などが参加した。

広島では、数年前から活発になった原爆遺跡保存をめぐる動きに新たな進展が見られた。広島市は、5月に被爆建物の保存に補助金を交付するための要綱を制定し、その第1号として広島日赤の被爆窓枠の保存に3000万円を交付した。また、6月には連合広島など13団体が「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」を結成した。100万人を目標に署名運動を開始し、10月に約134万人分の署名を衆参両院議長に提出した。

【海外の動き】

世界保健機構(WHO)は、5月の第46回年次総会で、核兵器の使用が国際法違反かどうかの判断を国際司法裁判所に求める決議案を賛成多数で採択した(賛成73、反対40、棄権10か国で、日本政府は棄権)。これは、国際平和ビューローが1992年5月に発足させた「世界法廷プロジェクト」の働きかけによるもので、11月には、決議が国連総会第1委員会(軍縮・安全保障)に提出された。このプロジェクトに加わっている核戦争防止国際医師会議(IPPNW)は、第11回世界大会を、9月30日~10月3日にメキシコ市で開催(73か国から約1200人が参加)し、「核兵器は、化学・生物兵器と同様に、国際条約によって禁止すべきだ」とする声明を発表した。

10月17日、ロシア海軍の船舶が日本海に液体放射性廃棄物の投棄を行った。この動向に対する国際環境保護団体グリーンピースによる追跡・抗議行動は、世界的な反響を呼びおこし、液体放射性廃棄物海洋投棄中止のロシア政府声明(10月21日)を引き出すことに成功した。さらに、11月18日には、海洋汚染を防止するための「ロンドン条約」の締約国定例会議が、低レベル放射性廃棄物の海洋投棄を全面禁止する条約改正案を圧倒的多数で採択した。