フェリス女学院「2003年度ジャパンスタディーツアー(広島)」との交流 2003年9月19日
参加者:一行(フィリピン、アメリカ、中国、韓国、台湾からの留学生17名、日本人学生12名=広島市立大学・広島工業大学など、教職員2名)31名+女学院学生3名、他大学学生7名、教職員5名、計46名。
時間 |
日程 |
09:20 |
広島アステールプラザで、丹土(たんど)美代子氏の証言を聞く。~9時50分。 |
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09:50 |
宇吹が講演。「原爆の被害とその後」、「広島女学院を世界遺産学の研究拠点に」。~11時40分。 |
13:30 |
広島城跡公園へ。高橋信雄先生のガイドで原爆遺跡めぐり。大本営跡-師団司令部地下壕(地下室見学)-被爆ユーカリ-重営倉跡。アンデルセン前を歩いて袋町小学校へ。袋町小学校平和資料館。レストハウス(地下室見学)。2陣に別れて入る。 |
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15:30 |
アステールプラザに帰る。 |
17:00 |
交流会。各国ごとに自分が受けてきた平和教育についての報告。~7時。中国、インドネシア、台湾、アメリカ、フィリピン、韓国。 |
広島女学院大学第37回原爆講座-8・6の意味するもの
朗読構成劇「夏雲」 2003年7月8日
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『中国新聞(夕刊)』(20030715) |
広島女学院大で原爆朗読劇
先輩の手記題材 スライドも上映
「あの友もこの友もみんな死んだ みんな死んだ!」。あの日(八月六日)を風化させないよう広島女学院大学(広島市東区)で八日、朗読構成劇「夏雲は忘れない」が上演された。
<中略>
同校では三十六年前から毎年一回、原爆講座を開いている。ことしは職員の石谷忠之さん(48)らが学生参加型の講座を呼びかけ、朗読サークル「ブルースカイ」を結成。二月から練習に取り組んだ。構成と演出を担当した職員の土屋時子さん(55)は「平和を考えるきっかけになったのでは」と、満足そうだった。
(福井宏史) |
キリスト教主義大学ジョイント8・6平和学習 20020806
広島女学院被爆57周年平和祈念式 2002年8月6日
ランドルフ・メイコン女子大学との合同セミナー2001
2001年5月24~29日、広島女学院大学
宇吹暁「原爆の被害とその後」 |
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2001年5月24日午前9~11時 於:人文館502教室 |
「原水爆禁止世界大会に関する覚書」(『広島県史研究』第8号 1983年)
内容
章 |
タイトル |
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はじめに |
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1 |
世界大会の継続開催 |
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表1 |
世界大会の開催地・参加者数(第1~9回) |
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表2 |
世界大会の日程 |
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表3 |
新しい潮流による大会開催状況 |
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表4 |
原水禁3団体による大会の開催地・参加者数(昭和39~51年) |
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表5 |
統一大会の開催地・参加者数 |
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2 |
大会の課題 |
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表6 |
第1回大会の分科会における代表の発言内容 |
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表7 |
各大会の正式名(昭和30~38年) |
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表8 |
分科会一覧(第2~4回) |
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表9 |
大会本会議(総会)における意見発表者 |
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表10 |
世界大会で採択された宣言・決議・勧告(第1~9回) |
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表11 |
原水協・原水禁の大会でとりあげられた主要議題(昭和39~51年) |
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3 |
大会の基盤(国民運動性・大衆性・国際性) |
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表12 |
平和行進の概要 |
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表13 |
平和行進歓迎集会の概要 |
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表14 |
原水協大会・統一大会の平和行進の概要 |
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表15 |
原水協による大会内外での対外活動 |
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表16 |
統一大会に参加したアメリカ代表の所属団体一覧 |
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表17 |
各大会に厳守・議長などがメッセージを寄せた国一覧 |
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おわりに |
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注 |
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付記 |
大会関係資料の収集に当たっては、北西允・佐久間澄・竹内武・藤居平一・三宅登・宮崎安男の各氏、および平和会館。平和親善センター・日本原水協の各機関のご協力を得ました。末尾ながら、記して謝意を表します。 |
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はじめに
昭和29年3月1日のビキ二水爆被災事件を直接の契機として生まれた日本の原水爆禁止運動は、今日まで絶えることなく展開されている。昭和30年以降毎年8月6日に前後して開催される原水爆禁止世界大会は、各年の運動の頂点に位置するものであった。各大会は、マスコミにより大きく取りあげられ、各方面からさまざまな論評が加えられている。また、これまでにも、この運動に関する著書がいくつか出版されてきた。今堀誠二『原水爆禁止運動』(潮出版社 昭和49年)は、第1回から第10回までの大会への参加記をまとめたものであるが、同時にこの間の大会の分析を通して日本における原水爆禁止運動の特質の解明を試みた書ということができる。熊倉啓安『原水爆禁止運動』(労働教育センター 昭和53年)は、原水爆禁止日本協議会の指導的立場からの、また伊藤茂(編著)『平和運動と統一戦線―原水禁運動の歴史と
展望-(増補版)』(ありえす書房 昭和50年)は、原水爆禁止国民会議の指導的立場からの運動の一つの総括である。また、岩垂弘『核兵器廃絶のうねり―ドキュメント原水禁運動-』(連合出版、昭和57年)は、昭和52年以降の統一大会に関する詳細な報告書である。しかし、これらの著書は、いずれも対象とする時期が限定されたり、分裂した運動の一方の立場に立った総括であり、日本で30年近くにわたって展開されてきた原水爆禁止運動の全体を対象としたものではない。一般的に、大会が分裂して開かれた昭和39年から51年までの期間の運動の意義は、分裂した大会の一方の当事者によっては無視され、第三者からは、両者ともに極めて不当に軽視されている。また、運動の総括は、しばしば、
分裂の責任あるいは運動の正統性に集中する傾向があり、そのことは運動の実態の把握を困難なものとしている。
本稿は、原水爆禁止世界大会の分析を対象とするものであるが、大会の論議に立ち入ることは意識的に避け、主としてその形式的側面からのアプローチを試みた。また、大会が分裂していることにではなく、大会が分裂してではあれ開催されつづけてきたことを重視する立場をとった。こうした方法によって明らかにできる日本の原水爆禁止運動の性格や意義は、おのずと限られたものであろう。本稿の意図は、すでに28回を数える大会を、大会の継続開催、大会の課題、大会の基盤という三点から整理し、今後の運動の本格的な分析に資そうとするものである。
「被爆体験」の展開――原水爆禁止世界大会の宣言・決議を素材として(『芸備地方史研究 140・141合併号』、芸備地方史研究、19830531)
内容
章 |
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はじめに |
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Ⅰ |
原水爆禁止と被爆者救援 |
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第1図 |
第1回大会宣言における原水爆禁徒と原爆被害の関連 |
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Ⅱ |
運動分裂後の展開 |
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2-1 |
原水爆被害者 |
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第1表 |
宣言・決議(1955~62年の大会)に現れた原水爆被害者の用例 |
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第2表 |
宣言・決議(1963~76年の大会)に現れた原水爆被害者の用例 |
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2-2 |
原爆投下責任の追求 |
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第2図 |
第14回大会における原水爆禁止と原爆被害の関連 |
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第3表 |
大会決議の標題にみえる救援と援護法 |
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2-3 |
「被爆体験」の新展開 |
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第4表 |
大会宣言・決議に現れた原水爆被害者(被爆者およびABCCなど被爆者関連機関・制度を除く) |
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おわりに |
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第3図 |
原爆手記の掲載書・誌数と手記数の年次別変遷(『原爆被災資料総目録第3集』原爆被災資料広島研究会、1972年 より作成) |
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第5表 |
原爆手記の掲載書・誌数と手記数の発行主体別変遷 |
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註 |
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はじめに
「被爆体験」を原爆被害の組織化と思想化を契機に形成される社会的体験としてとらえるならば<1>、ビキニ水爆被災事件は、その全国的展開の出発点であった。1954年3月以降国会をはじめ全国の議会で採択された決議や全国各地で展開された署名運動は、そのほとんどが水爆実験禁止ではなく原水爆禁止を訴えていた<2>。また、1955年8月に開催された第1回原水爆禁止世界大会は、原水爆被害者救援運動を原水爆禁止運動と密接不可分のものとして位置づけた。こうした中で原爆被爆者自身による原爆被害の組織化と組織化か急速に進んだ。たとえば、広島県内の原爆被害者の組織状況をみると、1955年5月頃には約300名(原爆被害者の会々員数)ほどであったが、56年2月には「数個の団体、二千名程度」となり、同年一一月には「一七郡市及び広島市(12団体)約2万名」が組織されている。こうした55年5月から11月にかけての原爆被害者の組織化の急速な発展は、原水爆禁止運動の力によるものであった<3>。一方、広島県原爆被害者団体協議会の結成(1956年5月27日)につながる広島県原爆被害者大会(56年3月18日)および日本被団協の結成総会となった原水爆被害者全国大会(56年8月10日)の決議は、その第一項でそれぞれ「原・水爆禁止運動を促進しよう」、「原水爆とその実験を禁止する国際協定を結ばせよう」と述べていた。これは、原爆被害者レベルでの「被爆体験」が原水爆禁止と密接に結合していることか示すものである。原水爆禁止運動は、一方で、原爆被害者の「被爆体験」形成の契機になるとともに、原爆被害者の「被爆体験」を核にしながら、独自の「被爆体験」を発展させていく。本稿の課題は、原水爆禁
止世界大会の宣言・決議を素材として、日本における原水爆禁止運動の中で展開された「被爆体験」をあとづけることである<4>。なお、1977年以降の統一大会および独自大会は、本稿の対象としなかった。
註
<1>拙稿「日本における原水爆禁止運動の前提-『被爆体験』の検討-」(『日本史研究』236 1982年)。
<2>拙稿「日本における原水爆禁止運動の出発一1954年の署名運動を中心に―」 (広島大学平和科学研究センター『広島平和科学5』1982年)。
<3>「原爆医療法の成立」(『広島大学原爆放射能医学研究所
年報』23号 1982年)。
<4> 被爆者問題については、田沼肇『原爆被爆者問題』(新日本出版社 1971年)、伊東壮『被爆の思想と運動』(新評論 1975年)の労作がある。また拙稿「原水爆禁止世界大会に
関する覚書」(『広島県史研究』第8号 1983年)は、日本の原水爆禁止運動を大会の形式的側面から検討したものであり、これを総論とすれば、本稿はその各論に当たる。
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