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森滝日記1962年

森滝日記1962年<作業中>

『ヒロシマ40年 森滝日記の証言』(中国新聞社編、平凡社、19850710)所収

月日
基本原則貫く、社党・総評路線の色濃し
0125
0305
0306
大学に辞表出し、米核実験再開に抗議
0419
「悟り」精神的原子の連鎖反応こそ力
0501
第8回世界大会のさなか、ソ連が核実験 反対巡り、社共激しく対立
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社会党系団体で、原水禁世界大会
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核戦争阻止・原水爆禁止第8回世界大会中国ブロック・県内平和行進参加のしおり

『核戦争阻止・原水爆禁止第8回世界大会中国ブロック・県内平和行進参加のしおり』(原水爆禁止広島県協議会、1962.7.20)

内容

01 はじめに
02 平和行進について
03 平和行進県内コース
04 平和行進とりくみの要領
05 市内行進(8月5日)
中国ブロック・県内行進歓迎集会(8月5日17時 於原爆慰霊碑前)
06・07 世界大会広島集会(8月6日)
08 広島集会への地域原水協代表割当数
09 世界大会広島代表団
10・11 世界大会
12 原爆を許すまじ
13 宣伝カーの放送文句

原水爆禁止世界大会(第8回)日程

原水爆禁止世界大会(第8回)日程 1962年8月1日~9日

行事 会場 備考
1 予備会議(第1日) 東京・高羽輪プリンスホテル
2 予備会議(第2日) 東京・高羽輪プリンスホテル
3 予備会議(第3日)  東京・高羽輪プリンスホテル
4 予備会議(第4日)
平和行進歓迎集会  東京・隅田公園野球場
本会議開会総会  東京・台東体育館
5 分散会の討論  都内30会場
 1  隅田公民館
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6 原爆犠牲者慰霊祭  東京虎ノ門・社会事業会館
本会議閉会総会   東京・台東体育館
5 平和行進ヒロシマ歓迎集会 平和公園原爆慰霊碑前
 6 広島集会  広島市
9 長崎集会  長崎国際体育館

出典:『第8回原水爆禁止世界大会議事要録』

資料:平和行進

資料:平和行進

資料名 年月日 備考
『広島・アウシュビッツ-平和行進青年の記録』(加藤祐三、梶村慎吾著、弘文堂刊) 19650815
『ザ・歩く』(原水爆禁止愛知県協議会) 198610
『こうしてすすめよう国民平和大行進』 198905
『平和行進』(菊池定則) 19911024
『こんにちは平和行進です!!』 199204

平和行進(1958~63年)

平和行進(1958~63年)

日本原水協は,1958年6月16日に開催した「核武装と核実験停止を要求する請願大会」において,第4回世界大会にむけて6月20日から広島-東京をむすぶ1,000キロ平和行進を行うことを決定した。同年4月,アメリカのペンシルベニア州など5州の都市や村からニューヨークの国連本部まで百数十キロ,5日間の平和行進が行われ,また,イギリスでもロンドンからオルダマストンの原子兵器研究所まで80キロ,4れて,世界中に大きな反響を呼んでいた(「朝日新聞」1958年6月22日)。日本原水協の決定は,こうした欧米に生まれた原水爆禁止行動の形態を日本に取り入れようとしたものであった。

平和行進は,6月20日午前10時,森滝広島原水協理事長の出発宣言,渡辺広島市長の激励の言葉を受愛けて平和公園内の原爆慰霊碑前を出発した。この行進の県内での状況は,次のようであった。

広島市(6月20日)
150名が行進に参加,スーダン代表ママドウ氏,森滝広島原水協理事長もこの行進に参加,呉市へ向かった。
呉市(6月21日)
市長夫人以下10数名が吉浦まで出迎え,21日は約100名が市中行進を行った。市では宣伝カーを出し,市内に宣伝,市長を始め多数が歓迎に協力した。一行は,安浦町,竹原を通過し,23日三原市に到着した。
三原市(6月24日)
三原では労組中心に約300名が行進し,市長も歓迎に出向いた。
尾道市(6月25日)
尾道では,300名が出迎え共に行進に参加した。地区労・婦人団体・遺族会・被害者団体が積極的に協力した。市では助役以下が出迎え,夜は一行を囲んで懇談会を開いた。尾道-福山間は降雨にも不拘,20名が行進に参加した。
(日本原水協「第27回常任理事会議事及決定」)

こうして始まった日本の平和行進は,その後欧米とは比較にならないほどの規模と動員力を持つものに成長した。次表は,1963年までの平和行進の概要をまとめたものであるが,最大の盛り上がりを示した1961年の規模は,延べ距離数2万km,参加人員2億5千万人,歓迎集会への参加著者2万人であった。

表1 平和行進の概要

回大会 距離(延べkm) 参加人員(万人) コース
1956月20日)⇒東京(8月12日) 20日)⇒東京(8月12日)
1959 5 6383 1032 東京(6.1),新潟(6.10),沖縄(6.16)
1960 6  10000 2200 与論島平和島(4.12),北海道沖縄(6.4),北海道稚内(6.14),青森(6.14),
(6.4),北海道稚内(6.14),青森(6.14),
1962 8 高松(5.1),沖縄(6.22),北海道稚内(7.10)
1963 9 24000 1200

出典:『原水爆禁止世界大会宣言・決議集 第1回~第20回』

表1 平和行進歓迎集会の概要

開催年月日 概要
1959.8.4 原水爆禁止・核武装阻止・6,000キロ国民平和大行進,国際平和巡礼歓迎集会。於広島平和公園。20,000人参加。
1960.8.5 国民平和大行進歓迎集会。於東京日比谷野外音楽堂。15,000人参加。
1961.8.12 平和行進歓迎中央集会。於東京江東区猿江公園。21,000人参加。
1962.8.4 核戦争阻止・原水爆禁止国民平和大行進歓迎集会。於東京台東区隅田公園野球場。15,000人参加。
1962.8.4 原水爆禁止・被爆者救援国民平和大行進歓迎集会。於広島平和公園。10,000人参加。

出典:各大会『議事録』

平和行進は,このような動員力において世界大会の大衆的基盤を確保するとともに,その他多くの成果を生んだ。たとえば1961年の平和行進の成果は,次のように総括されている。

一、行進は,原水爆禁止運動の当面の基本的スローガンを普及し,国民的な大結集をうち出し,第七回大会の成功を用意した。
二、行進は,地方・地域の平和のたたかいを,国民運動に発展させる上で,重要な役割を果した。
三、行進は,原水禁運動に対するひぼう,中傷,最近とくに著しくなった原水協の分裂策動を封じ込め,運動と組織の統一のために貢献した。
四、行進は,全国に網の目のような支線をくみ,今までの「空白」地帯に大きな足跡を残し,運動の拡大のために重要な教訓をもたらした。
五、行進は,原水爆禁止運動・平和運動の未来を担う,若い世代を大きなよりどころとし,同時にその世代に深い影響力をおよぽした。
六、行進は,地域に原水協運動・平和運動の新しい組織を生み出し,運動のマンネリズムを克服する,いきいきとした問題意識を提示した。
(『原水爆禁止・国民平和大行進報告』)

アフガニスタン国際戦犯法廷民衆法廷第9回公聴会(広島)

アフガニスタン国際戦犯法廷民衆法廷第9回公聴会(広島)20030615開催

資料

『アフガニスタン国際戦犯法廷民衆法廷第9回公聴会』(アフガニスタン国際戦犯法廷民衆法廷実行委員会、2003年9月)

 1  開会あいさつ 前田朗(アフガニスタン国際戦犯民衆法廷実行委員会共同代表)
2  歓迎あいさつ 岡本三夫(アフガニスタン国際戦犯民衆法廷広島公聴会実行委員会)
  原爆被害とウラニウム兵器の危険性
 (1)  翻訳  提起されているイラク戦争における疑惑のウラニウム兵器の危険性 ダイ・ウィリアムズ(英国、ウラニウム兵器研究者)
 (2)  証言  イラクにおける劣化ウラン兵器使用実態についての調査報告  藤田祐幸(慶応大学物理学教室助教授)
 (3)  関連証言  原爆被害と国際法違反について 石田明(全国被爆教職員の会会長)
 (4)  証言  放射線の人体に与える影響と劣化ウラン兵器 横路謙次郎( IPPNW日本支部事務総長、広島大学名誉教授)
 (5)  解説  放射線とウラニウム兵器について  横原由紀夫(アフガニスタン国際戦犯民衆法廷広島公聴会実行委員会)
 4  アフガ二スタンへの軍事攻撃と国際法
 (1)  証言  米英軍によるアフガニスタン攻撃の国際法違反性 糟谷英之( 摂南大学法学部助教授)
 (2)  証言  アフガニスタンにおける無差別爆撃の実態と犯罪性 田中利幸(広島市立大学平和研究所教授)
 閉会あいさつ 横原由紀夫( アフガユスタン国際戦犯民衆法廷広島公聴会実行委員会)
資料
(1) アフガニスタン国際戦犯民衆法廷の経過と今後の予定
(2) イラク国際戦犯民衆法廷の呼びかけ

 

 

ヒロシマの記録 核実験抗議の座りこみ10年

『ヒロシマの記録 核実験抗議の座りこみ10年』(核実験禁止広島県議会協議会(広島県原水禁)、19840320)

目次

1 核実験に抗議する詩 栗原貞子
2 「座りこみ10年」の「前史」と理念 森瀧市郎
3 核実験抗議座りこみ10年 宮崎安男
4 核実験抗議連続座りこみ10年ヒロシマからのアピール
5 座りこみ10年一最初の経過などについて 近藤幸四郎
6 非暴力の理論と連帯 永田守男
7 資料編 座りこみ10年の歩み
座りこみ年●月●日と抗議先
核実験を行った国と最初の実験年月日
核実験抗議座りこみを行っている場所
抗議電の宛先
8 座りつづけて(参加者の声)
9 海外からのメッセージ
10 資料編 Ⅱ
座りこみ報道記事
11 編集後記 横原由紀夫

目次

「被爆体験」の展開ー原水爆禁止世界大会の宣言・決議を素材として

「被爆体験」の展開ー原水爆禁止世界大会の宣言・決議を素材として<工事中
『芸備地方史研究』(第140・141号、19830531)

宇吹暁
はじめに
「被爆体験」を原爆被害の組織化と思想化を契機に形成される社会的体験としてとらえるならば、ビキニ水爆被災事件は、その全国的展開の出発点であった。一九五四年三月以降国会をはじめ全国の議会で採択された決議や全国各地で展開された署名運動は、そのほとんどが水爆実験禁止ではなく原水爆禁止を訴えていた。また、一九五五年八月に開催された第一回原水爆禁止世界大会は、原水爆被害者救援運動を原水爆禁止運動と密接不可分のものとして位置づけた。こうした中で原爆被爆者自身による原爆被害の組織化と思想化か急速に進んだ。
たとえば、広島県内の原爆被害者の組織状況をみると、一九五五年五月頃には約三〇〇名(原爆被害者の会々員数)ほどであったが、五六年二月には「数個の団体、二千名程度」となり、同年一一月には「一七郡市及び広島市(一二団体)約二万名」が組織されている。こうした五五年五月から一一月にかけての原爆被害者の組織化の急速な発展は、原水爆禁止運動の力によるものであった。一方、広島県原爆被害者団体協議会の結成(一九五六年五月二七日)につながる広島県原爆被害者大会(五六年三月一八日)および日本被団協の結成総会となった原水爆被害者全国大会(五六年八月一〇日)の決議は、その第一項でそれぞれ「原・水爆禁止運動を促進しよう」、「原水爆とその実験を禁止する国際協定を結ばせよう」と述べていた。これは、原爆被害者レベルでの「被爆体験」が原水爆禁止と密接に結合していることか示すものである。原水爆禁止運動は、一方で、原爆被害者の「被爆体験」
形成の契機になるとともに、原爆被害者の「被爆体験」を核にしながら、独自の「被爆体験」を発展させていく。本稿の課題は、原水爆禁止世界大会の宣言・決議を素材として、日本における原水爆禁止運動の中で展開された「被爆体験」をあとづけることである。なお、一九七七年以降の統一大会および独自大会は、本稿の対象としなかった。
<以下骨子>

一 原水爆禁止と被爆者救援

第1図 第1回大会宣言における原水爆禁止と原爆被害の関連

二 運動分裂後の展開

1 原水爆被害者

第1表 宣言・決議(1955~62年の大会)に現れた原水爆被害者の用例

第2表 宣言・決議(1963~76年の大会)に現れた原水爆被害者の用例

2 原爆投下責任の追及

第2図 第14回大会における原水爆禁止と原爆被害の関連

第3表 大会決議の標題にみえる救援と援護法

3 「被爆体験」の新展開

第4表 大会宣言・決議に現われた原水爆被害(被爆者およびABCCなど被爆者関連機関・制度を除く)

おわりに

第5表 原爆手記の掲載書・誌数と手記数の年次別変遷(『原爆被災資料総目録第3集』(原爆被災資料広島研究会1972年)より作成)

第3図 原爆手記の掲載書・誌数と手記数の発行主体別変遷