「05 原爆被災資料」カテゴリーアーカイブ

マンハッタン・プロジェクトのプレス・リリーズ(1945年)

[解題]

 マンハッタン・プロジェクトは、1942年8月13日、原子爆弾製造を目的として米合衆国陸軍の管下に作られた組織である。47年1月1日、米国原子力委員会(46年1月24日設置)に吸収移転されることにより、4年有余の特異な歴史を閉じた。

 その歴史は、同プロジェクト自身によって『マンハッタン・プロジェクト-公的歴史とその諸資料』(MANHATTAN PROJECT – Official History and Documents)としてまとめられている。

 ここに紹介する資料は、この中に含まれていたプレス・リリーズ(報道向け発表、計712ページ)の目次である。

 101点のメモと6点の参考資料(番号にAまたはBを付記)からなるこの資料は、時期的には、広島原爆攻撃直後から同プロジェクト廃止までのもので、発表源は、ホワイト・ハウス、国務省などのものが若干あるが、ほとんどは陸軍省である。

 内容は、原爆開発を推進した立場からの公式見解として、あるいは原爆情報統制下の公式発表として、いずれも重要な資料である。

1945年

番号 月日 資料タイトル メモ
001 08.06 Statement by the President of the United States トルーマン合衆国大大統領声明(ホワイトハウス発表)
002 08.06 Statement by the Secretary of War スチムソン陸軍長官声明(陸軍省発表)
002A 08.06 British Statement Relating to the Atomic Bomb 原子爆弾に関する英国声明
002B 08.06 Canadian Statement カナダの声明
003 08.06 Memorandum Regarding Report on Damage at Hiroshima 広島の被害報告に関するメモランダム(偵察機は、雲が目標地域を覆っていると報告。結果が明らかになり次第、陸軍省から公表する)
004 08.06 First Test Conducted in New Mexico ニューメキシコで行われた最初の実験(ニューメキシコ地域に発表)
005 08.06 Atomic Energy Source of Inexhaustible Power 無限の力としての原子力資源
006 08.06 Atomic Power Usage Once Thought Impossible 一旦は不可能とみられていた原子力使用
007 08.06 Labor Plays Vital Role in Activity of Manhattan District 労働者は、マンハッタン管区の活動において重要な役割を演じた
008 08.06 Atomic Energy Harnessed 利用された原子力
009 08.06 MED Projects Lead to Townsite Growth マンハッタン技術管区プロジェクトは、都市の発展をもたらした。(テネシー地域に発表。オークリッジの解説)
010 08.06 Security Message and General Information to the Press プレスに対する情報防衛上の注意および取材に有益な一般情報(ニコルス大佐署名の一般情報および防衛注意の2通。オークリッジおよびクリントン工場の解説)
011 08.06 Background Information on Electromagnetic Plant 電磁工場の解説
012 08.06 Background Information on Gaseous Diffusion 気体拡散工場の解説
013 08.06 Background Information on Thermal Diffusion 熱拡散工場の解説
014 08.06 Background Information on H.E.W ハンフォード工場の解説(ワシントン州に発表)
015 08.06 Background Information on Los Alamos Townsite ロスアラモスの解説
016 08.06 Hiroshima 広島の解説
017 08.06 Major General L. R. Groves L.R.グローブズ少将の紹介
018 08.06 Brigadier General T. F. Farrell T.F.ファーレル准将の紹介
019 08.06 Colonel K. D. Nichols K.D.ニコルズ大佐の紹介
020 08.06 Colonel F. T. Matthias F.T.マチアス大佐の紹介
021 08.06 Colonel S. L. Warren S.L.ワレン大佐の紹介
022 08.06 Manhattan District Officers マンハッタン管区の職員(グローブズが40名について紹介)
023 08.06 Manhattan District Officers マンハッタン管区の職員(ニコルズが44名について紹介)
024 08.06 Dr. J. B. Conant J.B.コナント博士の紹介
025 08.06 Dr. R. C. Tolman R.C.トルマン博士の紹介
026 08.06 Scientists Associated with Manhattan District マンハッタン管区に協力した科学者たち(H.C.ユーレイ、V.B.ブッシュ、A.H.コンプトン、E.O.ローレンスの紹介)
027 08.06 Dr. J. R. Oppenheimer J.R.オッペンハイマー博士の紹介J.R.オッペンハイマー博士の紹介
028 08.08 Comment Regarding Dr. Jacobson’s Speculation Concerning Radioactivity ジェイコブソン氏の放射能に関する推測に対するコメント(放射能の持続的存在の否定)
029 08.09 Comment by Security of War on Use of Atomic Bomb 陸軍長官の原子爆弾使用についてのコメント
030 08.11 Elaborate Security Measures Protected Secret of Atomic Bomb 原子爆弾の秘密を守った十全の防衛手段
031 08.11 Release of Smyth Report スマイス報告の公表
031A 08.11 A General Account of the Development of Methods of Using Atomic Energy for Military Purposes under the Auspies of the United States Government (Smyth Report) 合衆国政府の監督下1940年から1945年にかけて行われた軍事目的に原子力を使用する方法の開発に関する概括約説明(通称スマイス報告)
032 08.13 WACS ( Women’s Army Corps ) Assigned to Manhattan Project マンハッタンプロジェクトに従事した陸軍婦人部隊
033 08.15 Security to be Uneffected by Cessation of Hostilities 終戦は、原爆情報防衛政策を何ら変更ぜず
034 09.09 Eye Witness Account of Atomic Mission over Nagasaki 原爆調査隊の長崎上空における目撃談(8月9日打電したニューヨークタイムズ科学記者W.L.ローレンスの記事が一カ月後に陸軍省から公表されている)
035 09.12 General Groves Awarded DSM ( Distributed Service Medal ) グローブズ将軍に殊功章が贈られる(殊功章=Distinguished Service Medal)
036 09.14 President’s Request that Unreleased Information be Withheld from Publication 未発表情報を公表することを差控えるよう大統領要請(「秘・・・公表禁止・・・編集者への注意」との注意書が初めにある)
037 09.19 Final News Conference of Secretary Stimson スチムソン陸軍長官の最終記者会見
038 09.29 Remarks by Secretary of War at Army-Navy “E” Ceremonies at Oak Ridge 陸海軍E記念式におけるパターソン陸軍長官の演説
039 10.09 Statement of General Groves before the House Military Affairs Committee 下院軍事委に際しグロ-ブス将軍の声明
040 10.09 Statement of Secretary of War before the House Military Affairs Committee 下院軍事委に際しパターソン陸軍長宮の声明
041 10.18 Statement of Dr. J. R. Oppenheimer before the House Military Affairs 下院軍事委に際しオッペンハイマー博士の声明
042 10.20 Secretary of War Welcomes Public Discussion of Atomic Science if Continued to Subject Matter of Smyth Report 陸軍長官、スマイス報告の内容に限定された原子科学の公開議論は歓迎されると言明
043 10.30 General Farrell Awarded DSM ファーレル将軍に殊功章が送られる
044 11.14 Statement to the Press by Secretary of War Concerning May-Johnson Bill メイ・ジョンソン法に関する陸軍長官声明
045 11.26 Awards to Officers of Manhattan District マンハッタン管区の職員に功労章が送られる(52人に対し3種の功労章)
046 12.10 Announcement of Contemplated Joint Test of Atomic Bombs 陸海合同原子爆弾実験に関する発表。

文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会

1945年9月14日設置(文部大臣名の発令は10月24日)

委員長:林春雄(学術研究会議会長、東京帝国大学名誉教授)

9科会(科会長はすべて東大教授)

科会名

科会長
1.物理学化学地学 西川正治
2.生物学 岡田要
3.機械金属学 真島正市
4.電力通信 瀬藤象二
5.土木・建築 田中豊
6.医学 都築正男
7.農学水産学 雨宮育作
8.林学 三浦伊八郎
9.獣医学畜産学 増井清

第1回報告会。 1945年11月30日、於東京帝国大学。

山崎匡輔科学教育局長挨拶「今回原子爆弾の災害調査につきまして、各般の権威の有る方々に御調査をお願い致すことを決定致しましたところが、学研の方でこの問題を喜んでお取上げ下さいました。いま少し小規模な御研究を願いたいと思いましたのでございますが、皆様の非常な御熱誠の結果非常に完璧な研究団ができまして、私ども非常に衷心より感謝致している次第であります。」

第2回報告会。1946年2月28日、於東京帝国大学。
「昭和22年度末まで3カ年にわたって作業を継続したが、主要な調査研究は昭和20年度(昭和21年3月まで)に行われた。」

日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編『原子爆弾災害調査報告書』

(日本学術振興会、1953年5月5日)

理工学編 38編
生物学編 6編
医学編 130編

「医学科会は特別委員会中最大の科会であり、約30名の委員、150名の研究員、1,000名の助手から成り、日本の全ての主要な医学部、研究所及び病院を代表している。」

都築正男メモ

医学科会への最初の協力者都築正男(科会長)、中泉正徳(東京大学)、菊池武彦(京都大学)、大野省三(九州大学)、井深健次(日本陸軍軍医総監)、福井信立、石黒茂夫、横倉誠次郎、金井泉(海軍軍医)、勝俣稔、古屋芳雄(厚生省公衆衛生官)、高折茂(鉄道医官)

1945年10月任命

田宮猛雄、都築正男、佐々貫之、中泉正徳、三宅仁(東京大学)、木村廉、船岡省吾、真下俊一、菊池武彦、森茂樹(京都大学)、高木耕三、木下良順、布施信義、福島寛四(大阪大学)神中正一、中島良貞、小野興作、沢田藤一郎(九州大学)、林道倫(岡山医大)、古屋野宏平(長崎医大)、井深健次、平井正民(陸軍軍医)、横倉誠次郎、金井泉(海軍軍医)、勝俣稔、古屋芳雄(厚生省公衆衛生官)、高折茂(鉄道医官)

主たる参加機関

東京帝国大学医学部、京都帝国大学医学部、大阪帝国大学医学部、九州帝国大学医学部、長崎医科大学、岡山医科大学、熊本医科大学、金沢医科大学、京都府立医科大学、山口医学専門学校、陸軍軍医学校、海軍軍医学校、広島陸軍病院、大野陸軍病院、呉海軍病院、岩国海軍病院、佐世保海軍病院、大村海軍病院、東京帝国大学伝染病研究所、厚生研究所。

1945年の調査対象

1.被害の統計学的調査、2.有害エネルギーの医学的調査

3.被災者の臨床的調査、4.人体に及ぼす残存エネルギーの影響調査

1946年度の調査の主要テーマ

1.死傷者の統計的調査、2.被災者の臨床的調査、

3.病理解剖的調査4.残存放射能の影響調査、

5.人間の遺伝調査

合同調査団の設置と日本側の研究調査の成果の吸収

都築の公職追放

1946年8月15日、公職追放(理由:6年間海軍軍医であったこと)

1947年3月24日、半年間の公職追放規定の免除の覚書(ウィットニィ軍政局長)

1947年7月16日、3月24日の覚書の取り消しの覚書(ウィットニィ軍政局長)

***1957年まで日本側の原爆症研究は中断

1947年4月、第12回日本医学会総会演説

菊池武彦(京都帝国大学教授)木本誠二(東京帝国大学助教授)「原子爆弾症の臨床」

参考文献

日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編『原子爆弾災害調査報告書』(日本学術振興会、1953年5月5日) B5版 1642頁

広島市役所編『広島原爆戦災誌 第5巻 資料編』(1971年)

広島県編『広島県史 原爆資料編』(1972年)

仁科記念財団編『原子爆弾-広島・長崎の写真と記録』(光風社書店、1973年)

広島市編『広島新史 資料編1 都築資料編』(1981年)

核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会編『医師たちのヒロシマ-原爆災害調査の記録』(機関紙共同出版、1991年)

原爆被災資料広島研究会(原災研)

1968年2月15日発足

あゆみ

1967.10.02  ピカ資料研究所(ピカ研)が「原爆資料の調査・研究」について提言。全井利博賛同して、「ピカ研を母体」で合意、以後具体化をめぐって七回会談。
1968.01.16 結成準備会五回開く。出席、今堀誠二、金井、山崎与三郎、ピカ研。
1968.02.15 『原爆被災資科広島研究会』発足。
1968.07.30  役員会 人事、企画、運営方針を決定。
1968.12.06 金井利博事務所開設。所内に原災研「編集部室」設置。(1970.3.28閉所)
1969.08.06 原爆被災資料総目録第一集を発刊。
1970.03.04 ピカ研 原災研「編集部室」を長崎に移設。
1970.08.06 総目録第二集を発刊。
1970.11.24 編集部会文沢隆一、ピカ研が第三集専任。
1972.10.25  総目録第三集を発刊。
1974.06.16 金井利博死去。
1975.04.30 ピカ研・長崎「第一~三集」の作成による累積債務で一時閉鎖。
1977.12.17 役員会 企画、運営をめぐり討議。分裂決定。
1980.08.25   編集部会 編集企画会議。
1982.07.23 ピカ研・長崎書庫冠水害
 続刊=第五集以降企画編集進行占領下の文献解説・占領下の新聞・著作選集録・原爆史詳細年表・写真、映像・長崎の手記・広島の手記・教育児童文学・社会科学評論…(順不同)

出典:原爆被災資料広島研究会『原爆被災資料総目録』第4集