「22 平和記念都市」カテゴリーアーカイブ

原爆供養塔合同慰霊祭(平和式典の関連行事)

平和式典の関連行事
(1)原爆供養塔合同慰霊祭
1947年(昭和22年)8月6日、前年に引き続いて慈仙寺鼻の戦災供養礼拝堂で広島宗教連盟主催のもとに慰霊祭が執行された。慰霊祭は、午前7時に仏式から始まり、キリスト教、教派神道、神社庁式の順に正午まで続いた。49年のこの行事の式次は広島市戦災死没者供養会が発行した「広島市戦災死没者慰霊祭執行について」と題する案内状により詳細に知ることができる。これによれば、8月6日午前6時半から7時半の1時間、宗教連盟主催の行事を行ない、平和式典開催時間(8時15分-9時15分)の中断後、9時半に再開、新教(プロテスタント)、天理教、浄土宗、旧教(カトリック)、日蓮宗、真宗本派、真宗大派、真言宗、曹洞・臨済宗の各派の順にそれぞれ1時間ずつ法要を執行し、午後6時半に終了することになっている。この行事は、平和祭の中断した50年にも執行されており、平和記念日の諸行事の中で、翌年から現在まで開催され続けている唯一のものである。
原爆被爆直後、広島から重傷者約2、000人が宇品港から海上約6キロメートル沖の似島の陸軍検疫所に送られた。7日朝までの死亡者約400人は、火葬に付されたが、相ついで死亡した約1、500人の死体は、火葬が間に合わず、同島南岸の横穴と露天の防空壕に土葬されていた(「中国新聞」47年10月14日)。1947年9月25日、広島市議会は、「広島市戦災死歿者似島供養塔」(千人塚)の建設費30万円を可決し、似島に眠る無縁仏を弔うこととした。発掘作業は、9月下旬から開始され(この時行われた放射能調査では、掘り出された骨から放射能が検出された)、11月13日、供養塔の除幕式および追悼法要が、日本宗教連盟広島県支部と広島市戦災死没者供養会の共催で死没者遺家族約300人の参列のもとに開催された。翌48年の平和記念日からは、宗教連盟広島県支部と広島市戦災死没者供養会が、中島の供養礼拝堂と似島供養塔の両所で慰霊祭を行なうようになり、54年まで続けられた。
1950年3月、それまで宗教連盟とともに慰霊祭を行ない、戦災供養塔を管理していた広島市戦災死没者供養会が、政教分離を求めるポツダム政令にもとづいて広島市の管理からはずされることになった(「中国新聞」55年2月15日)。そこで、同年5月、これに代わる民間団体として広島戦災供養会が結成された。同会は、分散している無縁仏を一か所に納骨するための堂の建設や戦災死没者名簿作製、祭祀法要の執行などを計画し、50年11月8日につぎのような請願書を広島市長に提出した。
現在市内数ケ所にある戦災者の遺骨は約30万柱あるが、これを一ケ所に  集め明年の8月6日には、この新納骨塔で戦災供養を行ない霊を慰めたい。  場所は、広島城、大本営跡の西側で、建設に要する費用約500万円を県およ  び市で負担し、この納骨堂の傍らへ平和会館(仮称)を建設し、平和に関  する研究所、図書館、会議場などを設けてもらいたい。
(「中国新聞」50年11月9日)
この請願書を付託された市議会の建設委員会は、同地が文化財保護法の適用を受けているので、使用を認めず、現在地への再建を認めた。しかし、市当局は、中島公園を平和記念公園として建設する計画から、墓地と同性格の納骨堂の公園内建設に難色を示し、この問題は停滞状態を続けることとなった(「中国新聞」53年11月25日)。
原爆犠牲者の遺骨については、講和条約発効前後から、大きな社会問題となっていた。新聞には、つぎのような動きが取り上げられている。
51年2月20日、山口県熊毛郡伊保庄村専唱寺で保管されていた元陸軍病院跡     で発掘された1、288柱の遺骨が広島県世話課と復員連絡局広島支部に     引き取られる。53年3月24日、中島供養塔[戦災供養塔のこと]で合     同慰霊祭を執行。終了後、原爆死没者分1,232柱は、中島供養塔に、     外地戦没者分56柱は、比治山納骨堂に納骨。
52年7月4日、金輪島で原爆犠牲者の遺骨29柱が見つかる。7月10日、坂村に     160体以上の遺骨が眠るとの情報。29日、千田町で42体、31日、二葉     山麓で52体発掘。これらの内、引取り手の無い遺骨506柱が、中島の     供養塔に合祀されることになり、8月5日、納骨法要を供養会主催で     執行。
53年2月、市内己斐西本町の善法寺に数百の無縁仏のあることが判明。
53年8月6日、安芸郡府中町、龍仙寺の遺骨143柱を広島市に移管。
54年4月19日、県病院職員の遺骨66柱を中島供養塔へ移す。
こうした動向は、納骨場所としての原爆供養塔建設問題に新たな進展をもたらした。1954年、広島市は、建設から8年を経過し、くち果てた姿になっている戦災供養塔の再建を検討するため、広島市供養塔建設対策委員会(委員長:坂田修一助役)を設置した。5月29日に初会合が開かれ、以後協議を重ねたが、50年当時と同様の問題から、なかなか結論に達しなかった。55年2月14日に開催された第5回委員会で、原爆供養塔の敷地は、市民感情と既成事実を尊重して、現在地を可とするとの市長への答申を決定した。一方、広島戦災供養会も、6月3日の理事会で原爆供養塔再建問題を協議し、荘厳なものを条件に市に一任し、再建資金45万円を市に寄付することを決定した。これを受けた市は、予算150万円で8月6日までに再建することとした。
原爆供養塔(設計は市立浅野図書館設計者の石本喜久治が担当)は、6月15日の地鎮祭を経て、7月20日に完成した。8月4日に、似島(約2,000柱)、己斐(約500柱)などの遺骨が移管、収納され、5日に完工式と開眼法要が挙行された。また、広島戦災供養会も、原爆供養塔の建立に合わせて供養塔北側に新塔婆を建立し、8月5日、開眼法要を執行した。塔婆に使用された木は、宮崎県の有志から寄贈された160年の古杉で、周囲3尺、高さ33尺、重量4トンという大きなものであった。
広島市社会課は、1957年にかけて、市内および市周辺の遺骨の掘り起こしと移管を行ない、遺骨の収納をほぼ終了し終えた(「中国新聞(夕刊)」61年8月13日)。しかし、遺骨は、その後も、市内の工事現場から発見されたり、被爆直後犠牲者の収容作業に当たった人々の証言などにより新たに発掘された。特に71年に広島市が実施した似島での発掘作業では、220体分という大量の遺骨が発掘された。こうした遺骨は、その都度、原爆供養塔に収納されている。現在、氏名の判明している948人の遺骨と、約7万人の無縁仏の遺骨が納められている。

(2) 原爆罹災者名簿等の公開
原爆死没者慰霊碑に奉納された原爆死没者名簿は、当初、公開されていた。また、原爆供養塔開眼を目前に控えた1955年8月1日、原爆供養塔の氏名判明遺骨2,432人の氏名が市の社会課によって公表された。これらの名簿の公表は、それぞれ関係者の大きな関心をあつめた。
被爆から20年ほど経過した広島では、原爆被災の実態を改めて見直す動きが、さまざまな形で生まれた。主な動きだけでも、1964年10月の談和会による原水爆被災白書作成の提唱、12月の広島市内11団体による広島市への原爆ドーム永久保存の要請、同月の厚生省による原爆被爆者実態調査費の65年度予算への要求、66年8月放送のNHKテレビ番組「カメラリポート・爆心半径500メートル」放映を契機に始まった原爆爆心地復元運動、同月から始まった広島原爆戦災誌の執筆、68年2月の原爆被災資料広島研究会の結成などがあげられる。こうした被災実態への関心の高まりを背景として、68年には、被爆直後に作成された原爆罹災者名簿がつぎつぎに発掘された。広島市は、これらの名簿14点、1万5,922人分を、68年7月20日から8月5日まで、広島平和記念館で公開した。名簿公開は、翌年以降も続けられ、公開される名簿は、年々増加し、90年には、83点(2万3,039人分)となっている。
被爆30年の1975年、広島市は、原爆供養塔に納骨されている犠牲者の遺骨の名簿を全国に送付することとし、7月28日から全国3,379の市町村あてに発送を始めた。この名簿は、55年に初めて公表され、68年に始まった名簿公開の会場で閲覧に供されていたが、広島市が積極的に全国に働きかけたのは初めてのことであった。その背景には、戦後30年経過し、遺家族や関係者が全国に散在しているとの判断があった。名前や収集場所の分かっている遺骨は2,432柱であったが、このうち、91年までの名簿公開で1,487人の遺骨の身元が判明した。
1985年、広島市が、市内の区役所、出張所、公民館に、一枚の紙に印刷した名簿を掲示したところ、12月下旬までに16家族が遺骨を引き取り、26家族が名乗り出るなどの成果があった。このため、広島市は、名簿の全国公開を、被爆40年の85年にふたたび実施することとした。85年7月3日、全国約890の自治体に「原爆供養塔納骨名簿」(1,080人分)を発送し、同月15日から10月31日まで全国一斉に掲示してもらうよう依頼した。全国公開は、この年以後、毎年実施されるようになった。91年には、948人分の名簿が発送された。

(3) 灯ろう流し
1947年(昭和22年)7月14日、広島市内の日蓮門下寺院8か寺の僧侶13人と広島立正婦人協会員1、000人が中島本町慈仙寺鼻の供養塔で臨川大施我鬼法要を執行した。供養塔での読経終了後、3隻の発動機船に分乗し、本川の三篠橋から播磨橋の間を往復、原爆犠牲者の戒名、俗名などをしたためた経木を川に流して、水供養を行なった。こうした特定の宗派による爆心地付近の川での慰霊行事は、これ以外にも、同年8月5日(広島県宗教連盟)、翌48年7月31日(日蓮宗)、51年7月11日(日蓮宗)、54年8月6日(本願寺広島別院)の行事が、新聞で紹介されている。
1948年の平和祭行事の一つに東部商店連盟が猿猴川で開催した「川祭」(8月6-7日)があった。その模様は、つぎのように報じられている。
広島市的場大通商店街では、戦災死者および幾多の死没者の霊を弔うた  め6日、的場町太陽館前広場に「法界万霊戦死者供養塔」を建て、午前11時  と午後9時法要を厳修、また午後7時からは猿猴川で川施餓鬼を催し華やか  な灯篭流しに平和祭の偉観をそえる。   (「中国新聞」48年8月3日)
翌49年にも同所で同様の行事が行なわれ、50年(または51年)からは、中国商店街連合会が、元安川で灯ろう流しを始めた(「中国新聞」1956年8月5日)。また、49年には、江波青年会が、8月6日に河川で死没した原爆犠牲者の「霊を慰めますと同時に其冥福を祈り且つ平和への犠牲に対する感謝の祈りを捧」げるため川供養を計画している(江波青年会革新同盟の広島平和協会長あて「助成金申請」49年7月16日)。これが実行されたかどうかは、不明であるが、52年の平和記念日の夜に、本川青年団が、相生橋下で灯ろう400個を流したことは、新聞で報道されている。
宗教団体、商店街、青年団などにより始められた灯ろう流しは、1952年からは、「ひろしま川祭委員会」により、大規模に実施されるようになった。この委員会は、広島市、市教委、市観光協会、広島商工会議所、FK、国際文化協会、中国新聞社が、「原爆犠牲者の霊を慰めるとともに大衆への慰安をも併せ行い、春の広島まつりとともに広島の2大年中行事」にしようとの意図で結成したもので(「中国新聞」52年7月23日)、第1回の「ひろしま川祭」は、52年8月9日と10日の両日開催された。9日の行事は花火大会と灯ろう流しで、午後7時半から10時半まで、供養塔前と本川橋側水上で、大小500発の打ち上げ花火と仕掛花火20数掛が使用され、また、相生橋河畔で、満潮時に2、000個の灯ろうが流された。10日の行事は市民水上音楽会であり、午後7時から10時半過ぎまで、原爆ドーム前の元安川に浮かべられた船を舞台に開催された。出演したのは、広島邦楽研究会、銀声会合唱団、広島放送管弦楽団、広島フィルハーモニー、花柳寿鶴社中であった。
1953年の第2回の川祭では、6日から8日の夜の満潮時に、元安川と本川で2、000個の灯ろうが流され、8日に、水上音楽会と花火大会が開催された。54年の第3回川祭では、8月6日と7日の両日、平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑前で花火大会が開催され、6日から8日にかけて七つの川で灯ろう流しがおこなわれた。その実施状況はつぎのようなものであった。
中部地区=6-8日、大仏殿前元安川河畔、2、000灯
横川地区=7-8日、横川橋下、700灯
己斐地区=6-7日、己斐橋、1、000灯
十日市地区=6日、本川小学校横河畔、300灯
鷹野橋地区=6日、明治橋下、700灯
駅前地区=6-7日、駅前橋下北側、800灯
段原地区=7日、大正橋下、300灯
この年には、8月6日午後8時から、世界平和広島仏舎利塔建設会、広島大仏奉賛会や本願寺広島別院による灯ろう流しも実施され、平和記念日の夜の広島の川は、多数の灯ろうで彩られた。
1955年の第4回からの川祭の行事は、8月6日夜の灯ろう流しと7日夜の平和公園内での慰霊花火大会となった。6日夜の灯ろう流しは、その後も続けられ、現在に至っている。91年には、広島祭委員会、中国新聞社、広島市商店街連合会の共催により、つぎの5か所で、計9,200個の灯ろうが流された。
駅前地区(駅前大橋北詰の西)  400個
中央地区(原爆ドームの南側) 7,000個
鷹の橋地区(明治橋東詰の南側) 700個
福島地区(新己斐橋東詰の南側) 600個
己斐地区(新己斐橋西詰の南側) 500個
広島祭委員会は、1959年から灯ろう流しと花火大会のほかに、市民盆おどり大会を市民球場で開催するようになった。また、65年からは、盆踊大会と花火大会が、灯ろう流しとは切り離され、太田川夏祭として開催されている。

(4) 平和集会・シンポジウム
戦後の平和記念日には、被爆の翌年から毎年、さまざまな行事が、繰り広げられてきた。その中には、平和記念公園内の供養塔で執行される慰霊祭や灯ろう流しなどのように、平和式典と連携して開催された行事のほかに、独自に、あるいは対抗して開催されたものもある。1949年(昭和24年)8月6日の平和式典終了後児童文化会館で広島平和婦人連盟主催の平和婦人大会が開催されているが、これは、式典に連携して開催された初めての平和集会であった。翌50年8月6日の式典は中止された。しかし、広島平和擁護委員会などは、独自に8・6反戦平和大会(非合法)を開催した。また、51年から毎年、労組や市民団体などによる平和集会が開催されるようになった。これらの集会の開催は、式典とは独立した、あるいは、対抗的な意図をもつものであった。しかし、54年以降、式典と連携した多様な原水爆禁止大会・集会が開かれるようになった。
1967年10月、広島市は、「ヒロシマの心を根底として、世界の平和を推進する機関」とするため、市の一局として広島平和文化センタ-を発足させる(1976年4月1日に財団法人に改組)とともに、平和に関するさまざまな行事を展開するようになった。68年8月5日に平和記念館講堂で開催された「平和を語る市民の集い」は、そうした行事の一つである。式典の前夜祭行事として企画されたこの集会には、市民300人が参加した。この集会のテーマは「ヒロシマはいかに平和を訴えるべきか」であった。69年8月2日には、第2回の集会が「被爆体験の継承と平和教育」をテーマとして、また、70年7月31日には、第3回集会が開催された。
1971年以後、式典に連携した平和集会の開催は、途絶えていたが、85年からふたたび平和集会が国際的な規模で開催されるようになった。
1970年代に入ってからの国連における核軍縮への関心の高まりは、78年・82年・88年の国連軍縮特別総会開催に結実した。82年の総会で発言の機会を得た荒木広島市長は、その演説や同年の平和宣言の中で諸外国の都市が連帯して、核兵器廃絶のため共に努力することを呼びかけ、翌83年1月20日には、本島等長崎市長と連名で、「核兵器廃絶のための都市連帯」を呼びかける書簡を世界各国の都市に送付した。最初に呼びかけたのは23か国の72都市であったが、その後、184都市が追加された。86年3月末までに、58か国256都市に呼びかけがおこなわれたが、そのうち、33か国131の都市が賛同の回答を寄せた。被爆40周年の85年8月5日から9日の5日間、この呼びかけに賛同する世界各国の都市の市長が、広島・長崎に集まり第1回世界平和連帯都市市長会議(基調テーマ=核廃絶をめざして-核時代における都市の役割)を開催し、22か国67都市の市長および国内の33自治体の首長が参加した。広島市での会議は、8月5日と6日の両日開催された。これは、広島市が平和記念日に開催した初めての国際会議であった。  この年以後、広島市は、毎年平和記念日に国際会議(シンポジウム)を開催するようにな った。86年以降のシンポジウムの概要は、つぎのようなものである。
1986年 平和サミット
テーマ=国際平和を求めて
海外からの参加者=ライナス・ポーリング(米)、ドロシー・ホッジキ     ン(英)、デズモンド・ツツ(南アフリカ)、パウル・クルッツェ     ン(西独)、明石康(国連)、フランク・ブラッカビー(英)、ラ     ドミール・ボグダノフ(ソ連)
1987年 ジャーナリスト国際シンポジウム
テーマ=核・平和問題とジャーナリストの役割
海外からの参加者=ヴィクトル・G・アフェナシェフ(ソ連、プラウダ)     、ティグビー・C・アンダーソン(英、ザ・タイムズ)、ジャン-マ     リー・デュポン(仏、ル・モンド)、セイモア・トッピング(米、     ニューヨーク・タイムズ)、席林生(中国、人民日報)
1988年 青年国際平和シンポジウム
テーマ=核時代における青年の役割
海外からの参加者=アン・サウスウィック、シェリル・コハシ(米、ホ     ノルル市)、コンスタンチン・シェプトゥーキン、ラリッサ・アン     トノバ(ソ連、ボルゴグラード市)、ハルトムート・ゼレ、ウルリ     ケ・アンネッテ・シュナイダー(西独、ハノーバー市)、張臨台、     丁素紅(中国、重慶市)
1989年 第2回世界平和連帯都市市長会議
テーマ=核兵器廃絶をめざして-核時代における都市の役割
参加者=海外26国81都市、国内38自治体
1990年 女性国際平和シンポジウム
テーマ=世界平和を考える-国際平和と核軍縮達成のために
海外からの参加者=ハンネロア・クンツェ(西独・来賓)、エレナー・     コア(米)、カトリン・フックス(西独)、スヴェトナーナ・サビ     ツカヤ(ソ連)、マイ・ブリット・テオリン(スウェーデン)、周     士琴(中国)
1991年 第7回世界テレビ映像祭国際平和シンポジウム
テーマ=地球の時代・平和の創造
海外からの参加者=パベル・スティングル(チェコスロバキア)、ハイ     ンツ・ヘミング(独)

市民の関心(平和式典への関心)

平和式典への関心

平和記念式典の歩み
平和式典への関心
(1)市民の関心
広島市は、1950年(昭和20年)2月、平和祭についての原爆体験者の世論調査(市調査課「広島原爆体験者についての産業奨励館保存の是非と平和祭への批判と希望に関する世論調査」49年10月実施)の結果を公表した。「いままでの平和祭についてどう思うか」との問いにたいして、「今の通りでよい」と答えた者は23%にすぎず、67%の者は「今の通りではいけない」と答え、その理由として、「お祭りさわぎすぎる」(64%)、「関係者だけで形式的だ」(14%)「ムダな費用で意義ない」(14%)などをあげた。また、「これからの平和祭に対する希望」としては、61%が「地味にやる」と答え、「お祭りのようにやる」との答えは25.5%にすぎなかった(「中国新聞」50年2月11日)。この結果は、広島市民が、平和祭に必ずしも満足していなかったことを示している。
1954年以降、原水爆禁止運動が全国的に展開されるようになり、平和記念日前後に広島で大会を開催するようになった。大会参加者の多くが、平和式典に参列したことにより、式典は全県的あるいは全国的性格を帯びるようになった。一方、8月6日の平和祭や大会に困惑し、この日を静かに過ごしたいという気持ちは、市民の間に根強く存在していた。広島市は、50年3月2日、広島市議会の「8月6日を平和の日として国民の祝祭日に加えられるよう要望の件」という決議(49年2月1日)の趣旨を具体化するため国会に提出する草案を完成した。しかし、この草案にたいして、8月6日は祝日ではなく、「全市民の哀悼の日」、「なくなった人々をしのび、平和を祈念する日」とすべきであるとの投書が新聞に寄せられた(「中国新聞」50年3月16日、6月14日)。こうした市民の声は、原水爆禁止運動が高揚する56年には、組織的な動きに発展した。同年4月19日、宇野正一、相原はる、島本正次郎ら5人は、つぎのように呼びかけた。
・・・さて、「原爆の日」のあり方について例年8月6日には、平和祭が行  われ原水爆禁止、世界平和運動等いろいろな集会が催されて居りますが、  一方では競輪、モーターボートも開催され、一部の市民は祭日気分になり、  一部の市民は犠牲者の供養をし、一部の市民労働組合はメーデーの二番煎  じの様な行事をやる等の状態であって、何か原爆被災の地広島市民の原爆  投下の悲しき日の送り方としてそぐわぬものを感じますので吾々発起人有  志を以って種々協議の結果、8月6日を「犠牲者に対する追悼自粛の日」と  して市民各戸に半旗(弔旗)を掲げて27万人の犠牲者に対し哀悼の意を表  する市民運動を致し度いと思います・・・
(宇野正一など「(協議会への)案内状」56年4月19日)
1956年6月13日には、宇品地区原爆被害者の会(会長相原はる)が同様の主旨の請願書を広島市議会に提出した。第5回原水爆禁止世界大会の開催された59年には、この動きは、大きな広がりを見せた。広島県宗教連盟は、7月の理事会で世界大会に連盟として参加しないことを決めるとともに、8月6日を「この日の追憶を新たにして亡き人々へ心から敬弔の意を表明するとともに、平和開顕の念願をさらに強調するため」「全市各戸ごとに弔旗を掲げる運動」を提唱した(広島県宗教連盟、広島市仏教会、広島県神社庁など「趣意書」)。
平和式典の性格は、1952年以降、「慰霊」と「平和」の両面を持っていた。8月6日を祈りの日にとの声は、「慰霊」の側面の強化を求めたものと理解できる。これとは逆に、60年安保改定反対闘争の高揚を反映し、60年の式典に対しては、「平和」の立場からの批判が表面化した。60年7月29日、全日自労広島分会の代表は、浜井広島市長に、この年の県・市共同主催の式典が、来賓中心である、一部勢力の一方的な政治行事化するおそれがある、8月6日が単なる“祈りの日”に後退するのではないか、などの危惧を申し入れた。また、7月31日の広島県原水協の全県協議会でも「知名士を招いて、単に“祈り”の行事に後退したもので原水爆禁止の目標や行動が不明確だ」との批判が出されている。
平和式典に対する市民の関心は、占領期と1960年前後を除き、表面化することはなかった。1967年以降、広島市市長室公聴課に寄せられた意見の統計によれば、67年以降5年間に「原爆」、「平和」、「慰霊碑文」については、それぞれ233件、201件、74件となっているが、平和式典に関するものは9件にすぎない(広島市市長室公聴課「市民の声」)。
1960年代後半から、マスコミが原爆に関する市民の世論調査を行なうようになった。中国新聞の調査(68年)は、被爆者、非被爆者500人ずつの計1,000人を対象として実施されたが、67年の平和式典への出席状況に対する回答は、「参加した」は32%(被爆者)、20%(非被爆者)であり、「公園には出かけたが式には出ない」は、10%(被爆者)、12%(非被爆者)であった。RCC(70年実施、対象者520人)、NHK(72年実施、対象者1,000人)の調査では、8月6日の過ごし方が質問されたが、「記念式典に出席する」(RCC)、「平和記念式典や慰霊祭に参加した」(NHK)との回答は、それぞれ11.5%、11.6%であった。また、NHKが、1975年からも5年ごとに同様の世論調査を実施しているが、その結果は、表9のとおりであった。
中国新聞の調査では、式典への参加者が多いが、NHKとRCCの調査では、式典に参加する市民の割合は、ほぼ1割にとどまっている。また、NHKの継続調査の結果は、年の経過とともに、「『原爆の日』と関係なく過ごした」の割合が増加するのと逆に、「式典などへの参加」は、確実に減少している様子を示している。
NHKによる継続調査の結果によれば、市民の半数以上が8月6日に「祈り」という行動を行なっているが、このことは、市民の多くが、式典に参加はしないものの、この日に対して無関心ではないことを示している。このような市民の消極的関心は、平和式典の存廃についての態度にも現れている。1968年の中国新聞、75年と80年のNHKの世論調査の結果によれば、「やめたほうがよい」との回答は数%にすぎず、87%から96%の市民は、「平和式典を続けるべきだ」あるいは「形を変えて続けるべきだ」と回答している。式典を「形を変えて続けるべきだ」との回答は、1968年の中国新聞の調査では、被爆者で11%、非被爆者で16%であり、75年のNHKの調査では25%、80年のNHKの調査では20%であった。
式典の改善策については、広島市の平和文化推進審議会(1967年12月発足)の中で、様々な意見が述べられている。ここでは、式典の形式主義、形骸化、マンネリ化が批判され、「被爆者を全面に出すべき」、「被爆体験継承の場に」、「平和宣言に具体的な内容を盛り込め」などの具体的な改善策が出された。広島市は、こうした批判を踏まえ、式典にさまざまな工夫を加えてきた。しかし、世論調査の結果が示しているように、式典への参加者の減少傾向と原爆の日への無関心層の増大傾向を止めることはできていない。

(2) 黙とうのひろがり
「8月6日を祈りの日に」との声は、1963年(昭和38年)の第9回原水爆禁止世界大会の混乱を契機に、大きな動きに発展した。広島県議会は、64年3月23日、「原爆記念日を静かな祈りの日にしよう」との意見書を採択した。この意見書は、自民党議員会所属の議員が提出したものである。社会党など所属の6人の議員は、意見書に「昨年の8月6日は広島県、市民の感情をよそに慰霊碑前広場が赤旗に埋まった・・・・」などの表現があることや議事手続きに誤りがあるとして、議決に加わらなかったが、自民党議員会、県政刷新クラブ(民社系)、公明会の3派で可決した。また、3月31日には、広島県原爆被爆者援護対策協議会(略称=県原援協)が主催した原爆被爆者援護対策懇談会でも、県内各市町村から参集した被爆者代表約200人が、平和式典は「被爆市民の哀情にそって敬けん厳粛に執行すること」などを要望した決議を行ない、国や関係団体に送付した。県原援協は、6月13日にも、県内の原水禁運動、被爆者、婦人団体の代表に参集を求め、8月6日の行事について協議を行なった。その結果、この年は、各団体とも静かな慰霊行事を中心とした大会を計画し、平和公園広場は使用しないという方針と原 爆投下時刻に1分間の黙とうをささげる県民運動を呼びかけることを申し合わせた。
この年、広島県は、8月6日の8時15分(7月24日、知事名)と8月15日の正午(8月10日、民生労働部長名)に、それぞれ1分間の黙とうを行なうよう県民に呼びかけた。7月24日の知事の呼びかけは、県原援協などの要望を受け入れてなされたものと思われる。一方、8月10日の民生労働部長の呼びかけは、政府の要請(1964年4月24日の閣議で、8月15日に第2回全国戦没者追悼式を靖国神社境内で開催することとし、8月15日正午の黙とうを国民に呼びかけることを決定)によるものであった。同年6月14日、日本原水爆被害者団体協議会の全国理事会も、広島・長崎への原爆投下日に日の丸の半旗を掲げ、被爆時刻に1分間の黙とうをする国民運動を起こすことを決定した。この決定は、「対立した原水禁運動を超越する国民運動のおんどを日本被団協がとる方法として8月6日から同18日までを国民総反省旬間とし、旬間中は日の丸の半旗を掲げる運動を起こそう」との関東甲信越代表理事の提案が具体化したものであった。提案には8月15日の黙とうも含まれていたが、疑義が出され、原爆投下日の黙とうのみが決まった。
広島県知事は、1964年から毎年、県民に原爆投下時刻の黙とうを呼びかけるようになった。また、広島市は、73年7月20日に、8月9日の原爆投下時刻に1分間の黙とうを市民に呼びかけることを決定した。長崎市が前年8月6日に実施し、広島に呼びかけていたもので、この年から広島・長崎両市の「黙とうの連帯」が始まった。また、73年には、埼玉県庁が、被爆地以外の県庁としては初めて、広島・長崎の原爆被爆時刻に黙とうを実施した。
一部の原水禁団体や労働組合は、早い時期に「黙とう」を取り上げていた。高知県原水協は、1957年に8月6日の原爆投下時刻に県民が一斉に黙とうをささげるよう、県内の諸団体に呼びかけた。また、59年には、国鉄労組と機関車労組が、広島の平和記念日の正午に一斉に列車と電車の汽笛を鳴らして黙とうをささげるよう各支部に指令し、炭労は、同日の一番方の入坑前に、また、全国税は、当日午前9時に、それぞれ1分間の黙とうを実施している。こうした呼びかけは、原水禁運動の分裂を契機に途絶えていたが、70年代後半に、ふたたび復活した。78年7月26日、県労会議と県労被爆連(正式名称:広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会)は、広島県知事と市長に、8月6日午前8時15分から1分間、①県内すべての職場、家庭に呼びかけ、平和祈念の黙とうをささげる、②道路上のすべての車もストップさせる、③全市町村は一斉にサイレンなどの合図で、住民に平和祈念を呼びかける、④この運動は少なくとも隣接県にも呼びかけ協力を求めることを申し入れた。この年には市内の市関係施設87か所のサイレンと寺院・教会130か所の鐘が鳴らされ、市民に黙とうが呼びかけられた。また、55年に始ま った広島電鉄と広島バスの車両の黙とうへの参加は、64年以降中断していたが、この年復活した。電車70台とバス約300台が、黙とうに参加した。
広島県知事と市長は、1979年には黙とうの呼びかけを県内のみでなく中国地方5県と愛媛と香川をあわせた7県にひろげた。さらに、翌80年には47都道府県知事と9政令指定都市長あてに「原爆死没者の慰霊並びに平和祈念の黙とうについて」と題する文書を発送し、黙とうを呼びかけた。こうした呼びかけに対して、いくつかの県が応じた。79年には、鳥取県が行政無線を通じて各市町村に伝達している。また、共同通信社の調査によれば、80年には17県と1政令市(川崎市)、翌81年には25道府県と2政令市が呼びかけに応じた(「中国新聞(夕刊)」81年8月1日)。
1982年6月8日の全国市長会理事・評議員合同会議は、広島・長崎両市長の要請に応えて、両市の原爆被爆時刻に1分間の黙とうをすることを決定した。また、広島市は、翌83年から毎年、全国の都道府県市長会および広島県町村会に黙とうを呼びかけるようになった。これにより、82年の黙とう実施自治体は、487自治体(呼びかけた772自治体の63%)に急増、83年には703自治体(呼びかけた865自治体の81%)にまでなった。以後、自治体の黙とうへの取組み実施率は、80%台で定着し、現在に至っている。
黙とうへの取組みは、さまざまな形でなされている。京都府八幡市は、1983年8月6日、広島市の要請に応えて、広島市から取り寄せた「平和の鐘」の録音テープ(平和式典で録音されたもの)を市役所屋上のスピーカーから流した。京都府原爆被災者の会は、85年の平和記念日に先立ち、府内3,096の寺院、110の教会に対し、8月6日と9日の両日、「平和の鐘」を鳴らすよう要請した文書を郵送した。また、86年7月10日、奈良市も、同市議会が85年12月に非核平和都市宣言を行なったことを受けて、広島・長崎両市の原爆被爆時刻に鐘を鳴らし1分間の黙とうを行なうよう、市内と県内の非核平和都市宣言を行なっている7市の寺院、教会および各官庁、民間企業、家庭に呼びかけている。90年には、全国で751自治体が黙とうを周知させる取組みを行なったが、周知方法で最も多いのは、「広報紙で周知」(52%)であり、「サイレン」(32%)、「有線・無線放送」(29%)と続いている。

(3) 日本政府の関心
片山哲内閣総理大臣は、1947年(昭和22年)の第1回平和式典に対し、つぎのようなメッセージを寄せた。
広島の市民諸君、原子爆弾2周年の記念日はまさに本日である。しかし諸  君はこの事より深く三たび平和記念の年を迎えた事を心から祝福している  であろう。古来戦争こそは暗黒の世界に国民を導入する。しかも多くの惨  禍と犠牲の伴う事を吾々に訓えている。かつて軍都として栄えた広島市が  僅か一箇の原爆によってヴェールを吹き飛ばしかつ日本を平和へ導いた、  あの感慨深き回顧の数々は吾々日本国民のみに止らず、世界の人々にまで  こよなき教訓となったと私は確信するものである。
すなわち世界平和発祥の地広島の未来永劫に記念さるべきは当然であり、  第2のメッカと称さるるも故なきに非ずと私は思う。その広島市が、今日の  記念すべき日を卜して平和祭を挙行し世界平和礼賛のシンボルとなり、か  つ平和の旗幟を妙なる聖鏡愉楽のメロデーと共に高く掲げた事は一広島、  一日本としてでなくその意義は深淵にしてかつ高遠であると感激に堪えな  い。(後略)
中国新聞は、このメッセージに「世界の誇り広島 賛えん平和のメッカ」との見出しを付して掲載した(「中国新聞」1947年8月6日)。この式典には、松岡駒吉衆議院議長や松平恒雄参議院議長も、メッセージを寄せており、それを報じた中国新聞の見出しは、それぞれ「新日本建設の先駆」、「微笑め十万犠牲者 霊に誓わん文化日本」である。これらは、いずれも広島の被害を国家的・世界的なものととらえ、廃墟の中から復興に立ち上がる広島市民の意欲に敬意を表するとともに、復興への努力を期待している。総理のメッセージには、原爆被害への同情や弔意の言葉を見ることができないが、衆参両院議長は、いずれも犠牲者に同情を寄せ、参議院議長は、死者の霊に弔意を示した。
その後平和式典にメッセージを寄せるか、式典で挨拶(代理出席を含む)をおこなった総理は、芦田均(1948年)、吉田茂(49年・51-54年)、鳩山一郎(55-56年)、岸信介(57-59年)、池田勇人(60-64年)、佐藤栄作(65-71年)、田中角栄(72-74年)、三木武夫(75-76年)、福田赳夫(77-78年)、大平正芳(79年)、鈴木善幸(80-82年)、中曽根康弘(83-87年)、竹下登(88年)、宇野宗佑(89年)、海部俊樹(90-91年)と続いた(式典への参列状況は、表70)。これらの挨拶の内容から、日本政府が式典に寄せた関心を伺うことができる(挨拶は、全文か要旨かは不明のものが多いが、63と64の両年を除き新聞紙上に紹介されている。また、原文が確認できる最も早いものは、52年の式典へのメッセージである)。
1952年のメッセージは、原爆犠牲者への弔意を表明するとともに、日本国憲法の理想を世界に明らかにしようとする広島市の平和都市建設を進めつつある広島市民に敬意を表した。後者は、それまでのメッセージにも見ることができた。しかし、前者つまり犠牲者への弔意は、この年が初めてであり、これ以後常に盛り込まれるようになった。
「原爆被害国」と「誓う」という表現も関心の変化を示している。「原爆被害国」という表現は、1959年までは見あたらないが、60年には「わが国は世界最初の原爆被害国として今後も原水爆の禁止を世界に訴えねばなりません」という形であらわれ、以後、ほぼ毎年確認することができる。この表現は、広島・長崎の原爆被害を地方レベルと被害としてではなく、国家レベルの被害としてとらえることを意味している。それゆえ政府が、この表現を採用したことは、採用前と比べ、より主体的に式典にかかわっていると理解することができよう。一方、「誓う」という表現が初めて使用されたのは、65年である。それまでは「世界に訴えねばなりません」といった教訓調が一般的であった。ところが、65年には「原爆犠牲者の霊前に人類恒久平和確立のため最前の努力を尽すことを誓う」という形で、自らの決意を明らかにした。
このほかに、「被爆者」への言及が1969年に現れた。69年のあいさつは、「当市には10万に近い原爆被爆者が今なお生命の不安に脅かされながら生活し、また多数の原爆死没者の遺族が忘れえない悲しみを秘めて生活しておられます」と述べている。さらに、71年からは被爆者に対する「福祉の増進をはかる」決意を明らかにするようになった。
1991年の海部総理のあいさつは、(a)原爆犠牲者への弔意表明、(b)都市建設と平和に努力する広島市民への敬意表明、(c)国際状勢と日本平和外交の紹介、(d)被爆者対策充実の決意表明、(e)恒久平和達成への努力の誓いの五つの要素から構成されているが、こうした挨拶が確立したのは71年のことであった。
総理大臣の式典への参列状況(本人か代理か)や、式典参列のため広島に来訪した時の行動からも、政府の式典に対する関心を知ることができる。前述したように、政府は、1965年(被爆20周年)以降、広島県と地縁関係のない閣僚クラスを総理代理として式典に派遣するようになった。このことは、政府の式典に対する関心の強度が、以前と比べて高まったと理解することができよう。
一方、総理代理を閣僚の誰が務めたかは、政府の関心の内容を示している。初期の総理のメッセージは、広島平和記念都市建設法に基づく広島市の復興に敬意を表していた。同法の所管が建設省であることからすれば、建設大臣の代理も考えられる。また、浜井市長は、被爆20周年の式典にあたり平和宣言を総理自身に読み上げて欲しいとの希望を持っていたが、そのためであれば外務大臣の代理も不自然ではない。しかし、総理代理を務めたのは、総務長官や官房長官以外はすべて厚生大臣である。このことは、政府が、総理の式典でのあいさつに含まれるさまざまな要素の中で、「被爆者対策」や「原爆犠牲者への弔意」を特に重視していることを示している。
式典に参列した大臣の行動は、1970年以降、マスコミで詳しく取り上げられるようになった。70年の内田厚生大臣は、式典参列を機会に、広島原爆病院(現、広島赤十字・原爆病院)と原爆被爆者養護ホームの慰問、71年の佐藤総理大臣は、平和記念資料館の見学と原爆養護ホームの慰問を行なっている。このように、式典参列に際し市内の平和記念資料館や被爆者の医療・援護機関を見学あるいは慰問するという総理(もしくは代理)の広島での行動は、その後も続けられ、現在にいたっている。また、76年の三木総理大臣の時、「被爆者代表から要望を聞く会」が開かれ、以後、恒例となった。91年に来広した海部総理は、式典参列後、原爆養護ホーム(神田山やすらぎ園)を慰問し、在日本大韓国居留民団広島県地方本部原爆被害者対策特別委員会、広島県原爆被害者団体協議会(森滝市郎理事長)、広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会、広島県原爆被害者団体協議会(佐久間澄理事長)、財団法人広島市原爆被害者協議会、広島県朝鮮人被爆者協議会、広島被爆者団体連絡会議の7団体代表の要望を聞いた後、離広した。
式典の中に直接現れるわけではないが、1979年以降、式典に国庫から補助金が支出されるようになったことも、政府の式典への関心の変化を示すものである。補助金は、79年度は約300万円であったが、81年度には、全国の原爆遺族の招へい旅費など補助対象が拡大され、約600万円に増額された。さらに、85年に約900万円に増額され、現在に至っている。

(4) マスコミの関心
日本のマスコミは、平和式典を初期の段階から積極的に報道した。NHKは、1947年(昭和22年)の第1回から実況放送を行なっている。47年は、ローカル放送であったが、48年と49年には、全国中継がなされた。51年と52年は、ローカルに戻ったが、53年以降、再び全国放送となり現在に至っている。広島局のテレビ放送が、56年3月に開始され、16ミリフィルムなどで取材された式典の模様がニュースとして放映された。テレビ中継は、開局から3回目に当たる58年から始まった。当時、広島局にはテレビ中継車は配備されておらず、中継は、福岡から派遣された中継車と技術スタッフが担当した(『NHK広島放送局60年史』)。
広島の民間放送局は、1952年10月に中国放送(ラジオ)が開局したのを手はじめに、59年4月の同局のテレビ、62年9月の広島テレビ放送、70年12月の広島ホームテレビ、75年10月のテレビ新広島と続いた。中国放送は、53年8月6日午前8時から30分間、平和式典を実況放送したが、これは、大阪朝日放送、ラジオ九州、ラジオ長崎などに中継された。テレビ各局も、開局直後の平和式典から中継を継続的に行ない、系列局を通じて全国各地に放映されている。
中国放送は、1970年の式典の模様を、8時13分から17分までの4分間、米国CBS系を通じて衛星中継した。この中継は、式典の衛星中継としては初めてのものであり、中国放送-TBS-国際電電十王無線局(茨城県)-インテルサット3号-CBSのルートで送られた。NHKは、89年の8月5日午後3時から7日午前0時までの33時間、衛星第2放送で「BSサマースペシャル-ヒロシマから世界へ、世界からヒロシマへ」を放送し、この中で式典の模様を世界に伝えた。NHK衛星第2による同様の放送は、90年と91年にも実施されている。
新聞各社も、式典の模様を報道し続けてきた。報道は、地元紙のみでなく、全国紙においても行なわれた。たとえば、朝日新聞(東京版)は、すべての式典を報じており、しかも、そのほとんどは、夕刊一面のトップかそれに準ずる扱いをしている。また、各紙は、早い時期から、8月6日前後の社説で平和記念日に言及している。朝日、読売、毎日、日経各紙の社説を追ってみると、この日に関連した社説は、1949年8月6日の朝日(「広島に残る“生きた影”」)、毎日(「平和のいしずえ」)、日経(「原爆4周年を迎う」)の社説を始めとして、51年朝日「原爆6周年」、52年朝日「“力による平和”への反省」、53年朝日「原爆貯蔵量と国際情勢」、毎日「原爆の日に思う」、54年朝日(「原子兵器の使用禁止」)、読売(「原爆記念日に答えるの道」、毎日(「原子力を平和の道へ」)と続き、55年以降は、4紙が、ほぼ毎年、8月6日前後に、広島・長崎に関連した社説を掲げ続けている(日経の場合、8月6日前後に原爆に関連した社説の無い年は、56年・66年・68年の3年)。これらから、日本の全国紙が、戦後の早い時期から原爆被害や平和記念日を特別の被害あるいは特別の日として意義づけてきた ことを知ることができる。こうした意義付けは、現在では多数のローカル紙においても見ることができる。表10は、91年8月6日前後のローカル紙の社説である。

(5) 海外での関心
広島市の平和へのよびかけは、世界中に大きな関心を呼び起こした。このような関心の高まりは広島市長に送られてくる海外からの書簡の増加にも見ることができる(表11)。市長あての書簡数は、第3回平和祭が開催された1949年(昭和24年)末までに300通を超えた。また、平和祭が中断を余儀なくされた50年1年で315通もの書簡が届いていることは、この時期の広島への関心がいかに高かったかを示している。書簡の内容は、同情・激励的なものから、次第に具体的な協力・支援・要望となった。国別では、アメリカからのものが大半であるが、ドイツ平和協会、ベルギー・ストップ・ウォー協会、オーストラリア平和誓約同盟、デンマーク・ノー・ウォー協会などヨーロッパの平和団体からのものも見られた。また、これらの書簡は、MRA大会(スイス)、世界連邦政府樹立運動の会議(スウェーデン)、世界平和主義者会議(インド)といった世界的な平和会議における広島への関心やニューヨークにおける広島ピース・センタ-建設準備委員会の結成の動きなどを伝えた。
平和宣言が、初めて海外に送られたのは1948年のことである。広島市あての海外からの書簡には、これに対する返書が多く含まれていた。49年の宣言に対する返書は、1月後に約30通あった(「中国新聞」48年9月10日)。また、占領期の書簡の多くは、「ノーモア・ヒロシマズ運動」関係者のものであった(「第2回平和祭」、「第3回平和祭」参照)。52年の平和記念日に中国新聞社の要請に応えて、アルフレッド・パーカー、ノーマン・カズンズ、パール・バックなど8人が広島市民にメッセージを送っているが、そのほとんどは、この運動の関係者であった(「中国新聞」52年8月6日)。
1952年には、チェコのプラーグ市平和委員会も、広島市の平和式典に電報を寄せた。広島市が平和宣言を社会主義諸国に初めて送ったのは、54年のことであるから、平和・独立・民主主義のための共同闘争を呼びかけたこの電文は、広島市への返信ではなく、独自のものであった。54年には、インドネシア平和委員会、北カリフォルニア平和会議をはじめ、日本放送協会の働きかけでエレノア・ルーズベルト夫人からも原爆記念日へのメッセージが寄せられた。また、
社会主義国の諸都市や世界各国の平和団体から平和宣言への返書が、続々広島市に届いた。これらのほとんどは、原水爆禁止についての広島のメッセージに賛同するという内容のものであった。都市からの返書には、ホノルル、シカゴ、サンフランシスコ(アメリカ)、バンクーバー(カナダ)、ジュネーブ(スイス)など欧米の諸都市をはじめ、モスクワ、スターリングラード、レニングラード、北京、プラーグ、ドレスデン、ソフィア、カール・マルクスなど社会主義諸国の諸都市からのものがあった。
原爆10周年の1955年には、前年以上に多くの関心が式典に寄せられた。8月15日までに海外から広島市に届いた書簡は、約60通にも及んでいる。また、翌年1月に宣言への反響をまとめたところ、238通(うち社会主義国からは82通)という宣言発送数151通をはるかに上回る書簡が届いていた。寄せられた書簡を国別に見ると、フランス88通、東独62通、米国とオーストリア17通、ハンガリー15通などとなっている(「中国新聞」56年5月2日)。
1956年8月6日の日本向けモスクワ放送は、つぎのような内容の「再び広島の悲劇を繰り返させるな」と題する解説を放送した。
今日では8月6日は悲しみの日であるだけでなく、闘いの日となった。    「広島の悲劇を繰り返させるな」という言葉は、文明とこどもの幸福な   将来を尊ぶすべての人々のスローガンとなった。原子兵器の禁止を要求   する人類の声はいま世界のいたるところで響いている。(以下略)
(「中国新聞」1956年8月7日)
この年には、11月下旬までに、世界各国の都市長、平和団体やヘレン・ケラーなど著名人から20通の返書が届いた。また、57年の宣言の返書は17通、60年には40通あったことが報じられている。
広島市は、1968年6月下旬、ノーモア・ヒロシマの訴えを一層盛り上げるために平和記念日に向けてメッセージを送るよう海外29人、国内17人の著名人に要請した。この要請に海外15人、国内11人、合わせて26人が応えた。また、この年には、山田市長が5月27日にローマ法王パウロ6世に会見し、式典への招待状を渡したことから、法王より式典にメーッセージが届けられた。
1960年代後半から、世界の関心はベトナムに向けられた。69年の平和記念日に広島に寄せられたメッセージは、3通だけという低調ぶりである。74年以降、広島市は前述のように平和宣言の普及に様々な工夫をこらすようになった(「平和宣言の普及」参照)。80年には、海外の172人を対象に平和宣言についてのアンケート調査を実施し、宣言への意見や提言を求めた。その結果、17国47人から宣言の内容を支持する感想や意見が寄せられた。同様の調査は、翌81年にも実施されたが、33国128人から感想や意見が寄せられている。
海外の新聞も、式典に大きな関心を寄せてきた。ニューヨーク・タイムズは、毎年、平和記念日に関連した報道を行なっている。1947年には、マッカーサーのメッセージを中心とした東京発のAP電を掲載し、91年には、海部総理の式典でのあいさつを紹介したAP電を紹介した。ザ・タイムズ(ロンドン)が、広島の式典を初めて報道したのは51年である。これ以後、ほぼ毎年、広島または長崎への原爆投下日に関連した報道を行なっている。91年には、8月6日に広島の平和記念公園で祈りを捧げる人々を取材した写真を掲載した。
被爆40年(1985年)の広島の式典は、世界的に反核運動が高まっていたことと節目の年であることから、テレビ20社、新聞13社、通信8社、ラジオ4社など計49の海外のマスコミが取材した。米国3大ネットワークであるCBS、NBC、ABCが、それぞれ中国放送、広島テレビ、NHKの協力を得て、式典の模様を衛星中継した。このうちNBCとABCのものは、自局のニュースキャスターを広島に派遣しての放映であった。

市民の関心(平和式典への関心)

平和式典への関心

(1)市民の関心

広島市は、1950年(昭和20年)2月、平和祭についての原爆体験者の世論調査(市調査課「広島原爆体験者についての産業奨励館保存の是非と平和祭への批判と希望に関する世論調査」49年10月実施)の結果を公表した。「いままでの平和祭についてどう思うか」との問いにたいして、「今の通りでよい」と答えた者は23%にすぎず、67%の者は「今の通りではいけない」と答え、その理由として、「お祭りさわぎすぎる」(64%)、「関係者だけで形式的だ」(14%)「ムダな費用で意義ない」(14%)などをあげた。また、「これからの平和祭に対する希望」としては、61%が「地味にやる」と答え、「お祭りのようにやる」との答えは25.5%にすぎなかった(「中国新聞」50年2月11日)。この結果は、広島市民が、平和祭に必ずしも満足していなかったことを示している。
1954年以降、原水爆禁止運動が全国的に展開されるようになり、平和記念日前後に広島で大会を開催するようになった。大会参加者の多くが、平和式典に参列したことにより、式典は全県的あるいは全国的性格を帯びるようになった。一方、8月6日の平和祭や大会に困惑し、この日を静かに過ごしたいという気持ちは、市民の間に根強く存在していた。広島市は、50年3月2日、広島市議会の「8月6日を平和の日として国民の祝祭日に加えられるよう要望の件」という決議(49年2月1日)の趣旨を具体化するため国会に提出する草案を完成した。しかし、この草案にたいして、8月6日は祝日ではなく、「全市民の哀悼の日」、「なくなった人々をしのび、平和を祈念する日」とすべきであるとの投書が新聞に寄せられた(「中国新聞」50年3月16日、6月14日)。こうした市民の声は、原水爆禁止運動が高揚する56年には、組織的な動きに発展した。同年4月19日、宇野正一、相原はる、島本正次郎ら5人は、つぎのように呼びかけた。
・・・さて、「原爆の日」のあり方について例年8月6日には、平和祭が行  われ原水爆禁止、世界平和運動等いろいろな集会が催されて居りますが、  一方では競輪、モーターボートも開催され、一部の市民は祭日気分になり、  一部の市民は犠牲者の供養をし、一部の市民労働組合はメーデーの二番煎  じの様な行事をやる等の状態であって、何か原爆被災の地広島市民の原爆  投下の悲しき日の送り方としてそぐわぬものを感じますので吾々発起人有  志を以って種々協議の結果、8月6日を「犠牲者に対する追悼自粛の日」と  して市民各戸に半旗(弔旗)を掲げて27万人の犠牲者に対し哀悼の意を表  する市民運動を致し度いと思います・・・
(宇野正一など「(協議会への)案内状」56年4月19日)
1956年6月13日には、宇品地区原爆被害者の会(会長相原はる)が同様の主旨の請願書を広島市議会に提出した。第5回原水爆禁止世界大会の開催された59年には、この動きは、大きな広がりを見せた。広島県宗教連盟は、7月の理事会で世界大会に連盟として参加しないことを決めるとともに、8月6日を「この日の追憶を新たにして亡き人々へ心から敬弔の意を表明するとともに、平和開顕の念願をさらに強調するため」「全市各戸ごとに弔旗を掲げる運動」を提唱した(広島県宗教連盟、広島市仏教会、広島県神社庁など「趣意書」)。
平和式典の性格は、1952年以降、「慰霊」と「平和」の両面を持っていた。8月6日を祈りの日にとの声は、「慰霊」の側面の強化を求めたものと理解できる。これとは逆に、60年安保改定反対闘争の高揚を反映し、60年の式典に対しては、「平和」の立場からの批判が表面化した。60年7月29日、全日自労広島分会の代表は、浜井広島市長に、この年の県・市共同主催の式典が、来賓中心である、一部勢力の一方的な政治行事化するおそれがある、8月6日が単なる“祈りの日”に後退するのではないか、などの危惧を申し入れた。また、7月31日の広島県原水協の全県協議会でも「知名士を招いて、単に“祈り”の行事に後退したもので原水爆禁止の目標や行動が不明確だ」との批判が出されている。
平和式典に対する市民の関心は、占領期と1960年前後を除き、表面化することはなかった。1967年以降、広島市市長室公聴課に寄せられた意見の統計によれば、67年以降5年間に「原爆」、「平和」、「慰霊碑文」については、それぞれ233件、201件、74件となっているが、平和式典に関するものは9件にすぎない(広島市市長室公聴課「市民の声」)。
1960年代後半から、マスコミが原爆に関する市民の世論調査を行なうようになった。中国新聞の調査(68年)は、被爆者、非被爆者500人ずつの計1,000人を対象として実施されたが、67年の平和式典への出席状況に対する回答は、「参加した」は32%(被爆者)、20%(非被爆者)であり、「公園には出かけたが式には出ない」は、10%(被爆者)、12%(非被爆者)であった。RCC(70年実施、対象者520人)、NHK(72年実施、対象者1,000人)の調査では、8月6日の過ごし方が質問されたが、「記念式典に出席する」(RCC)、「平和記念式典や慰霊祭に参加した」(NHK)との回答は、それぞれ11.5%、11.6%であった。また、NHKが、1975年からも5年ごとに同様の世論調査を実施しているが、その結果は、表9のとおりであった。
中国新聞の調査では、式典への参加者が多いが、NHKとRCCの調査では、式典に参加する市民の割合は、ほぼ1割にとどまっている。また、NHKの継続調査の結果は、年の経過とともに、「『原爆の日』と関係なく過ごした」の割合が増加するのと逆に、「式典などへの参加」は、確実に減少している様子を示している。
NHKによる継続調査の結果によれば、市民の半数以上が8月6日に「祈り」という行動を行なっているが、このことは、市民の多くが、式典に参加はしないものの、この日に対して無関心ではないことを示している。このような市民の消極的関心は、平和式典の存廃についての態度にも現れている。1968年の中国新聞、75年と80年のNHKの世論調査の結果によれば、「やめたほうがよい」との回答は数%にすぎず、87%から96%の市民は、「平和式典を続けるべきだ」あるいは「形を変えて続けるべきだ」と回答している。式典を「形を変えて続けるべきだ」との回答は、1968年の中国新聞の調査では、被爆者で11%、非被爆者で16%であり、75年のNHKの調査では25%、80年のNHKの調査では20%であった。
式典の改善策については、広島市の平和文化推進審議会(1967年12月発足)の中で、様々な意見が述べられている。ここでは、式典の形式主義、形骸化、マンネリ化が批判され、「被爆者を全面に出すべき」、「被爆体験継承の場に」、「平和宣言に具体的な内容を盛り込め」などの具体的な改善策が出された。広島市は、こうした批判を踏まえ、式典にさまざまな工夫を加えてきた。しかし、世論調査の結果が示しているように、式典への参加者の減少傾向と原爆の日への無関心層の増大傾向を止めることはできていない。

(2) 黙とうのひろがり

「8月6日を祈りの日に」との声は、1963年(昭和38年)の第9回原水爆禁止世界大会の混乱を契機に、大きな動きに発展した。広島県議会は、64年3月23日、「原爆記念日を静かな祈りの日にしよう」との意見書を採択した。この意見書は、自民党議員会所属の議員が提出したものである。社会党など所属の6人の議員は、意見書に「昨年の8月6日は広島県、市民の感情をよそに慰霊碑前広場が赤旗に埋まった・・・・」などの表現があることや議事手続きに誤りがあるとして、議決に加わらなかったが、自民党議員会、県政刷新クラブ(民社系)、公明会の3派で可決した。また、3月31日には、広島県原爆被爆者援護対策協議会(略称=県原援協)が主催した原爆被爆者援護対策懇談会でも、県内各市町村から参集した被爆者代表約200人が、平和式典は「被爆市民の哀情にそって敬けん厳粛に執行すること」などを要望した決議を行ない、国や関係団体に送付した。県原援協は、6月13日にも、県内の原水禁運動、被爆者、婦人団体の代表に参集を求め、8月6日の行事について協議を行なった。その結果、この年は、各団体とも静かな慰霊行事を中心とした大会を計画し、平和公園広場は使用しないという方針と原 爆投下時刻に1分間の黙とうをささげる県民運動を呼びかけることを申し合わせた。
この年、広島県は、8月6日の8時15分(7月24日、知事名)と8月15日の正午(8月10日、民生労働部長名)に、それぞれ1分間の黙とうを行なうよう県民に呼びかけた。7月24日の知事の呼びかけは、県原援協などの要望を受け入れてなされたものと思われる。一方、8月10日の民生労働部長の呼びかけは、政府の要請(1964年4月24日の閣議で、8月15日に第2回全国戦没者追悼式を靖国神社境内で開催することとし、8月15日正午の黙とうを国民に呼びかけることを決定)によるものであった。同年6月14日、日本原水爆被害者団体協議会の全国理事会も、広島・長崎への原爆投下日に日の丸の半旗を掲げ、被爆時刻に1分間の黙とうをする国民運動を起こすことを決定した。この決定は、「対立した原水禁運動を超越する国民運動のおんどを日本被団協がとる方法として8月6日から同18日までを国民総反省旬間とし、旬間中は日の丸の半旗を掲げる運動を起こそう」との関東甲信越代表理事の提案が具体化したものであった。提案には8月15日の黙とうも含まれていたが、疑義が出され、原爆投下日の黙とうのみが決まった。
広島県知事は、1964年から毎年、県民に原爆投下時刻の黙とうを呼びかけるようになった。また、広島市は、73年7月20日に、8月9日の原爆投下時刻に1分間の黙とうを市民に呼びかけることを決定した。長崎市が前年8月6日に実施し、広島に呼びかけていたもので、この年から広島・長崎両市の「黙とうの連帯」が始まった。また、73年には、埼玉県庁が、被爆地以外の県庁としては初めて、広島・長崎の原爆被爆時刻に黙とうを実施した。
一部の原水禁団体や労働組合は、早い時期に「黙とう」を取り上げていた。高知県原水協は、1957年に8月6日の原爆投下時刻に県民が一斉に黙とうをささげるよう、県内の諸団体に呼びかけた。また、59年には、国鉄労組と機関車労組が、広島の平和記念日の正午に一斉に列車と電車の汽笛を鳴らして黙とうをささげるよう各支部に指令し、炭労は、同日の一番方の入坑前に、また、全国税は、当日午前9時に、それぞれ1分間の黙とうを実施している。こうした呼びかけは、原水禁運動の分裂を契機に途絶えていたが、70年代後半に、ふたたび復活した。78年7月26日、県労会議と県労被爆連(正式名称:広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会)は、広島県知事と市長に、8月6日午前8時15分から1分間、①県内すべての職場、家庭に呼びかけ、平和祈念の黙とうをささげる、②道路上のすべての車もストップさせる、③全市町村は一斉にサイレンなどの合図で、住民に平和祈念を呼びかける、④この運動は少なくとも隣接県にも呼びかけ協力を求めることを申し入れた。この年には市内の市関係施設87か所のサイレンと寺院・教会130か所の鐘が鳴らされ、市民に黙とうが呼びかけられた。また、55年に始ま った広島電鉄と広島バスの車両の黙とうへの参加は、64年以降中断していたが、この年復活した。電車70台とバス約300台が、黙とうに参加した。
広島県知事と市長は、1979年には黙とうの呼びかけを県内のみでなく中国地方5県と愛媛と香川をあわせた7県にひろげた。さらに、翌80年には47都道府県知事と9政令指定都市長あてに「原爆死没者の慰霊並びに平和祈念の黙とうについて」と題する文書を発送し、黙とうを呼びかけた。こうした呼びかけに対して、いくつかの県が応じた。79年には、鳥取県が行政無線を通じて各市町村に伝達している。また、共同通信社の調査によれば、80年には17県と1政令市(川崎市)、翌81年には25道府県と2政令市が呼びかけに応じた(「中国新聞(夕刊)」81年8月1日)。
1982年6月8日の全国市長会理事・評議員合同会議は、広島・長崎両市長の要請に応えて、両市の原爆被爆時刻に1分間の黙とうをすることを決定した。また、広島市は、翌83年から毎年、全国の都道府県市長会および広島県町村会に黙とうを呼びかけるようになった。これにより、82年の黙とう実施自治体は、487自治体(呼びかけた772自治体の63%)に急増、83年には703自治体(呼びかけた865自治体の81%)にまでなった。以後、自治体の黙とうへの取組み実施率は、80%台で定着し、現在に至っている。
黙とうへの取組みは、さまざまな形でなされている。京都府八幡市は、1983年8月6日、広島市の要請に応えて、広島市から取り寄せた「平和の鐘」の録音テープ(平和式典で録音されたもの)を市役所屋上のスピーカーから流した。京都府原爆被災者の会は、85年の平和記念日に先立ち、府内3,096の寺院、110の教会に対し、8月6日と9日の両日、「平和の鐘」を鳴らすよう要請した文書を郵送した。また、86年7月10日、奈良市も、同市議会が85年12月に非核平和都市宣言を行なったことを受けて、広島・長崎両市の原爆被爆時刻に鐘を鳴らし1分間の黙とうを行なうよう、市内と県内の非核平和都市宣言を行なっている7市の寺院、教会および各官庁、民間企業、家庭に呼びかけている。90年には、全国で751自治体が黙とうを周知させる取組みを行なったが、周知方法で最も多いのは、「広報紙で周知」(52%)であり、「サイレン」(32%)、「有線・無線放送」(29%)と続いている。

(3) 日本政府の関心

片山哲内閣総理大臣は、1947年(昭和22年)の第1回平和式典に対し、つぎのようなメッセージを寄せた。
広島の市民諸君、原子爆弾2周年の記念日はまさに本日である。しかし諸  君はこの事より深く三たび平和記念の年を迎えた事を心から祝福している  であろう。古来戦争こそは暗黒の世界に国民を導入する。しかも多くの惨  禍と犠牲の伴う事を吾々に訓えている。かつて軍都として栄えた広島市が  僅か一箇の原爆によってヴェールを吹き飛ばしかつ日本を平和へ導いた、  あの感慨深き回顧の数々は吾々日本国民のみに止らず、世界の人々にまで  こよなき教訓となったと私は確信するものである。
すなわち世界平和発祥の地広島の未来永劫に記念さるべきは当然であり、  第2のメッカと称さるるも故なきに非ずと私は思う。その広島市が、今日の  記念すべき日を卜して平和祭を挙行し世界平和礼賛のシンボルとなり、か  つ平和の旗幟を妙なる聖鏡愉楽のメロデーと共に高く掲げた事は一広島、  一日本としてでなくその意義は深淵にしてかつ高遠であると感激に堪えな  い。(後略)
中国新聞は、このメッセージに「世界の誇り広島 賛えん平和のメッカ」との見出しを付して掲載した(「中国新聞」1947年8月6日)。この式典には、松岡駒吉衆議院議長や松平恒雄参議院議長も、メッセージを寄せており、それを報じた中国新聞の見出しは、それぞれ「新日本建設の先駆」、「微笑め十万犠牲者 霊に誓わん文化日本」である。これらは、いずれも広島の被害を国家的・世界的なものととらえ、廃墟の中から復興に立ち上がる広島市民の意欲に敬意を表するとともに、復興への努力を期待している。総理のメッセージには、原爆被害への同情や弔意の言葉を見ることができないが、衆参両院議長は、いずれも犠牲者に同情を寄せ、参議院議長は、死者の霊に弔意を示した。
その後平和式典にメッセージを寄せるか、式典で挨拶(代理出席を含む)をおこなった総理は、芦田均(1948年)、吉田茂(49年・51-54年)、鳩山一郎(55-56年)、岸信介(57-59年)、池田勇人(60-64年)、佐藤栄作(65-71年)、田中角栄(72-74年)、三木武夫(75-76年)、福田赳夫(77-78年)、大平正芳(79年)、鈴木善幸(80-82年)、中曽根康弘(83-87年)、竹下登(88年)、宇野宗佑(89年)、海部俊樹(90-91年)と続いた(式典への参列状況は、表70)。これらの挨拶の内容から、日本政府が式典に寄せた関心を伺うことができる(挨拶は、全文か要旨かは不明のものが多いが、63と64の両年を除き新聞紙上に紹介されている。また、原文が確認できる最も早いものは、52年の式典へのメッセージである)。
1952年のメッセージは、原爆犠牲者への弔意を表明するとともに、日本国憲法の理想を世界に明らかにしようとする広島市の平和都市建設を進めつつある広島市民に敬意を表した。後者は、それまでのメッセージにも見ることができた。しかし、前者つまり犠牲者への弔意は、この年が初めてであり、これ以後常に盛り込まれるようになった。
「原爆被害国」と「誓う」という表現も関心の変化を示している。「原爆被害国」という表現は、1959年までは見あたらないが、60年には「わが国は世界最初の原爆被害国として今後も原水爆の禁止を世界に訴えねばなりません」という形であらわれ、以後、ほぼ毎年確認することができる。この表現は、広島・長崎の原爆被害を地方レベルと被害としてではなく、国家レベルの被害としてとらえることを意味している。それゆえ政府が、この表現を採用したことは、採用前と比べ、より主体的に式典にかかわっていると理解することができよう。一方、「誓う」という表現が初めて使用されたのは、65年である。それまでは「世界に訴えねばなりません」といった教訓調が一般的であった。ところが、65年には「原爆犠牲者の霊前に人類恒久平和確立のため最前の努力を尽すことを誓う」という形で、自らの決意を明らかにした。
このほかに、「被爆者」への言及が1969年に現れた。69年のあいさつは、「当市には10万に近い原爆被爆者が今なお生命の不安に脅かされながら生活し、また多数の原爆死没者の遺族が忘れえない悲しみを秘めて生活しておられます」と述べている。さらに、71年からは被爆者に対する「福祉の増進をはかる」決意を明らかにするようになった。
1991年の海部総理のあいさつは、(a)原爆犠牲者への弔意表明、(b)都市建設と平和に努力する広島市民への敬意表明、(c)国際状勢と日本平和外交の紹介、(d)被爆者対策充実の決意表明、(e)恒久平和達成への努力の誓いの五つの要素から構成されているが、こうした挨拶が確立したのは71年のことであった。
総理大臣の式典への参列状況(本人か代理か)や、式典参列のため広島に来訪した時の行動からも、政府の式典に対する関心を知ることができる。前述したように、政府は、1965年(被爆20周年)以降、広島県と地縁関係のない閣僚クラスを総理代理として式典に派遣するようになった。このことは、政府の式典に対する関心の強度が、以前と比べて高まったと理解することができよう。
一方、総理代理を閣僚の誰が務めたかは、政府の関心の内容を示している。初期の総理のメッセージは、広島平和記念都市建設法に基づく広島市の復興に敬意を表していた。同法の所管が建設省であることからすれば、建設大臣の代理も考えられる。また、浜井市長は、被爆20周年の式典にあたり平和宣言を総理自身に読み上げて欲しいとの希望を持っていたが、そのためであれば外務大臣の代理も不自然ではない。しかし、総理代理を務めたのは、総務長官や官房長官以外はすべて厚生大臣である。このことは、政府が、総理の式典でのあいさつに含まれるさまざまな要素の中で、「被爆者対策」や「原爆犠牲者への弔意」を特に重視していることを示している。
式典に参列した大臣の行動は、1970年以降、マスコミで詳しく取り上げられるようになった。70年の内田厚生大臣は、式典参列を機会に、広島原爆病院(現、広島赤十字・原爆病院)と原爆被爆者養護ホームの慰問、71年の佐藤総理大臣は、平和記念資料館の見学と原爆養護ホームの慰問を行なっている。このように、式典参列に際し市内の平和記念資料館や被爆者の医療・援護機関を見学あるいは慰問するという総理(もしくは代理)の広島での行動は、その後も続けられ、現在にいたっている。また、76年の三木総理大臣の時、「被爆者代表から要望を聞く会」が開かれ、以後、恒例となった。91年に来広した海部総理は、式典参列後、原爆養護ホーム(神田山やすらぎ園)を慰問し、在日本大韓国居留民団広島県地方本部原爆被害者対策特別委員会、広島県原爆被害者団体協議会(森滝市郎理事長)、広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会、広島県原爆被害者団体協議会(佐久間澄理事長)、財団法人広島市原爆被害者協議会、広島県朝鮮人被爆者協議会、広島被爆者団体連絡会議の7団体代表の要望を聞いた後、離広した。
式典の中に直接現れるわけではないが、1979年以降、式典に国庫から補助金が支出されるようになったことも、政府の式典への関心の変化を示すものである。補助金は、79年度は約300万円であったが、81年度には、全国の原爆遺族の招へい旅費など補助対象が拡大され、約600万円に増額された。さらに、85年に約900万円に増額され、現在に至っている。

(4) マスコミの関心

日本のマスコミは、平和式典を初期の段階から積極的に報道した。NHKは、1947年(昭和22年)の第1回から実況放送を行なっている。47年は、ローカル放送であったが、48年と49年には、全国中継がなされた。51年と52年は、ローカルに戻ったが、53年以降、再び全国放送となり現在に至っている。広島局のテレビ放送が、56年3月に開始され、16ミリフィルムなどで取材された式典の模様がニュースとして放映された。テレビ中継は、開局から3回目に当たる58年から始まった。当時、広島局にはテレビ中継車は配備されておらず、中継は、福岡から派遣された中継車と技術スタッフが担当した(『NHK広島放送局60年史』)。
広島の民間放送局は、1952年10月に中国放送(ラジオ)が開局したのを手はじめに、59年4月の同局のテレビ、62年9月の広島テレビ放送、70年12月の広島ホームテレビ、75年10月のテレビ新広島と続いた。中国放送は、53年8月6日午前8時から30分間、平和式典を実況放送したが、これは、大阪朝日放送、ラジオ九州、ラジオ長崎などに中継された。テレビ各局も、開局直後の平和式典から中継を継続的に行ない、系列局を通じて全国各地に放映されている。
中国放送は、1970年の式典の模様を、8時13分から17分までの4分間、米国CBS系を通じて衛星中継した。この中継は、式典の衛星中継としては初めてのものであり、中国放送-TBS-国際電電十王無線局(茨城県)-インテルサット3号-CBSのルートで送られた。NHKは、89年の8月5日午後3時から7日午前0時までの33時間、衛星第2放送で「BSサマースペシャル-ヒロシマから世界へ、世界からヒロシマへ」を放送し、この中で式典の模様を世界に伝えた。NHK衛星第2による同様の放送は、90年と91年にも実施されている。
新聞各社も、式典の模様を報道し続けてきた。報道は、地元紙のみでなく、全国紙においても行なわれた。たとえば、朝日新聞(東京版)は、すべての式典を報じており、しかも、そのほとんどは、夕刊一面のトップかそれに準ずる扱いをしている。また、各紙は、早い時期から、8月6日前後の社説で平和記念日に言及している。朝日、読売、毎日、日経各紙の社説を追ってみると、この日に関連した社説は、1949年8月6日の朝日(「広島に残る“生きた影”」)、毎日(「平和のいしずえ」)、日経(「原爆4周年を迎う」)の社説を始めとして、51年朝日「原爆6周年」、52年朝日「“力による平和”への反省」、53年朝日「原爆貯蔵量と国際情勢」、毎日「原爆の日に思う」、54年朝日(「原子兵器の使用禁止」)、読売(「原爆記念日に答えるの道」、毎日(「原子力を平和の道へ」)と続き、55年以降は、4紙が、ほぼ毎年、8月6日前後に、広島・長崎に関連した社説を掲げ続けている(日経の場合、8月6日前後に原爆に関連した社説の無い年は、56年・66年・68年の3年)。これらから、日本の全国紙が、戦後の早い時期から原爆被害や平和記念日を特別の被害あるいは特別の日として意義づけてきた ことを知ることができる。こうした意義付けは、現在では多数のローカル紙においても見ることができる。表10は、91年8月6日前後のローカル紙の社説である。

(5) 海外での関心

広島市の平和へのよびかけは、世界中に大きな関心を呼び起こした。このような関心の高まりは広島市長に送られてくる海外からの書簡の増加にも見ることができる(表11)。市長あての書簡数は、第3回平和祭が開催された1949年(昭和24年)末までに300通を超えた。また、平和祭が中断を余儀なくされた50年1年で315通もの書簡が届いていることは、この時期の広島への関心がいかに高かったかを示している。書簡の内容は、同情・激励的なものから、次第に具体的な協力・支援・要望となった。国別では、アメリカからのものが大半であるが、ドイツ平和協会、ベルギー・ストップ・ウォー協会、オーストラリア平和誓約同盟、デンマーク・ノー・ウォー協会などヨーロッパの平和団体からのものも見られた。また、これらの書簡は、MRA大会(スイス)、世界連邦政府樹立運動の会議(スウェーデン)、世界平和主義者会議(インド)といった世界的な平和会議における広島への関心やニューヨークにおける広島ピース・センタ-建設準備委員会の結成の動きなどを伝えた。
平和宣言が、初めて海外に送られたのは1948年のことである。広島市あての海外からの書簡には、これに対する返書が多く含まれていた。49年の宣言に対する返書は、1月後に約30通あった(「中国新聞」48年9月10日)。また、占領期の書簡の多くは、「ノーモア・ヒロシマズ運動」関係者のものであった(「第2回平和祭」、「第3回平和祭」参照)。52年の平和記念日に中国新聞社の要請に応えて、アルフレッド・パーカー、ノーマン・カズンズ、パール・バックなど8人が広島市民にメッセージを送っているが、そのほとんどは、この運動の関係者であった(「中国新聞」52年8月6日)。
1952年には、チェコのプラーグ市平和委員会も、広島市の平和式典に電報を寄せた。広島市が平和宣言を社会主義諸国に初めて送ったのは、54年のことであるから、平和・独立・民主主義のための共同闘争を呼びかけたこの電文は、広島市への返信ではなく、独自のものであった。54年には、インドネシア平和委員会、北カリフォルニア平和会議をはじめ、日本放送協会の働きかけでエレノア・ルーズベルト夫人からも原爆記念日へのメッセージが寄せられた。また、
社会主義国の諸都市や世界各国の平和団体から平和宣言への返書が、続々広島市に届いた。これらのほとんどは、原水爆禁止についての広島のメッセージに賛同するという内容のものであった。都市からの返書には、ホノルル、シカゴ、サンフランシスコ(アメリカ)、バンクーバー(カナダ)、ジュネーブ(スイス)など欧米の諸都市をはじめ、モスクワ、スターリングラード、レニングラード、北京、プラーグ、ドレスデン、ソフィア、カール・マルクスなど社会主義諸国の諸都市からのものがあった。
原爆10周年の1955年には、前年以上に多くの関心が式典に寄せられた。8月15日までに海外から広島市に届いた書簡は、約60通にも及んでいる。また、翌年1月に宣言への反響をまとめたところ、238通(うち社会主義国からは82通)という宣言発送数151通をはるかに上回る書簡が届いていた。寄せられた書簡を国別に見ると、フランス88通、東独62通、米国とオーストリア17通、ハンガリー15通などとなっている(「中国新聞」56年5月2日)。
1956年8月6日の日本向けモスクワ放送は、つぎのような内容の「再び広島の悲劇を繰り返させるな」と題する解説を放送した。
今日では8月6日は悲しみの日であるだけでなく、闘いの日となった。    「広島の悲劇を繰り返させるな」という言葉は、文明とこどもの幸福な   将来を尊ぶすべての人々のスローガンとなった。原子兵器の禁止を要求   する人類の声はいま世界のいたるところで響いている。(以下略)
(「中国新聞」1956年8月7日)
この年には、11月下旬までに、世界各国の都市長、平和団体やヘレン・ケラーなど著名人から20通の返書が届いた。また、57年の宣言の返書は17通、60年には40通あったことが報じられている。
広島市は、1968年6月下旬、ノーモア・ヒロシマの訴えを一層盛り上げるために平和記念日に向けてメッセージを送るよう海外29人、国内17人の著名人に要請した。この要請に海外15人、国内11人、合わせて26人が応えた。また、この年には、山田市長が5月27日にローマ法王パウロ6世に会見し、式典への招待状を渡したことから、法王より式典にメーッセージが届けられた。
1960年代後半から、世界の関心はベトナムに向けられた。69年の平和記念日に広島に寄せられたメッセージは、3通だけという低調ぶりである。74年以降、広島市は前述のように平和宣言の普及に様々な工夫をこらすようになった(「平和宣言の普及」参照)。80年には、海外の172人を対象に平和宣言についてのアンケート調査を実施し、宣言への意見や提言を求めた。その結果、17国47人から宣言の内容を支持する感想や意見が寄せられた。同様の調査は、翌81年にも実施されたが、33国128人から感想や意見が寄せられている。
海外の新聞も、式典に大きな関心を寄せてきた。ニューヨーク・タイムズは、毎年、平和記念日に関連した報道を行なっている。1947年には、マッカーサーのメッセージを中心とした東京発のAP電を掲載し、91年には、海部総理の式典でのあいさつを紹介したAP電を紹介した。ザ・タイムズ(ロンドン)が、広島の式典を初めて報道したのは51年である。これ以後、ほぼ毎年、広島または長崎への原爆投下日に関連した報道を行なっている。91年には、8月6日に広島の平和記念公園で祈りを捧げる人々を取材した写真を掲載した。
被爆40年(1985年)の広島の式典は、世界的に反核運動が高まっていたことと節目の年であることから、テレビ20社、新聞13社、通信8社、ラジオ4社など計49の海外のマスコミが取材した。米国3大ネットワークであるCBS、NBC、ABCが、それぞれ中国放送、広島テレビ、NHKの協力を得て、式典の模様を衛星中継した。このうちNBCとABCのものは、自局のニュースキャスターを広島に派遣しての放映であった。

平和式典の参列者

平和式典の参列者
(1) 参列者数
中国新聞は、1949年(昭和24年)8月6日に広島市外から市内に入り込んだ人の数を、広島駅の4万人、横川駅の8,000人、己斐駅の3,500人の利用者数から、約7万人と推定した。また、当日の市内の模様を、「平和式典終了後アミューズメント・タウン、本通り、流川通り、駅付近や繁華街は100度[華氏]を超える炎暑にもめげず人の波はあとをたたず、正午をすぎたころからは劇場、各催し場は超満員のいも洗いぶり」と報じている(「中国新聞」49年8月7日)。しかし、この年の平和式典の参列者数は、市発表によれば約3,000人であった。こうした参加者数の落差は、参加者の関心が、式典以外の平和祭関連の諸種の催しに向いていたことを示すものであろう。
その後の式典の参列者数は、中国新聞の報道によれば、1951年約2,000人、52年約1,000人、53年約3,000人となっている。51年10月19日に児童文化会館前広場(49年の平和式典会場)で開催された戦後初めての広島県戦没者合同慰霊祭(広島県遺族厚生連盟主催)には、県内約7万の戦没者を追悼するため1万2,000人が参列し、翌52年5月2日に同所で開催された独立後初の戦没者追悼式(広島県・市主催)には約1万人、呉市で開催された追悼式(呉市主催)には、5,000人が参列している。これらと比較すれば、広島市の平和式典は、参列者の規模からみて、県レベルのものとは言えず、広島市の行事にすぎないものであった。
ある市民は、1952年8月6日の平和記念公園には、四つの群が存在したと書き残している。
第1の群=「慈仙寺鼻の仮の堂や、その周辺に設けられていた様々な供養碑    の前に、線香の束をたき、花をそなえて、あの日に死んで行った人達    の霊をとむらう老若男女が数百人、引きも切らず夫々の思いをこめて    頭を垂れていた。」
第2の群=第1の群から200メートルほど離れた位置に設営された平和記念式    典会場。「一杯入れば4、5万人は収容出来ると云われる緑の芝生の上    に参会した市民の数は僅かにほぼ200名」。
第3の群=「之を傍観する数百人である。広い芝生の周囲には鉄条網がはり    めぐらされ通路の正面が一カ所開いているだけであるが、見物人はこ    れをとりまいて遠くから眺めるのである。」
第4の群=広島平和市民大会への参加者。
(朝野明夫「四つの群」、『広島平和問題懇話会会誌創刊号』1952年12月)
1953年の状況については、森戸辰男広島大学長(元文相)の証言がある。8月6日午前10時35分から20分間、読売新聞社の飛行機上から広島市内を観察した森戸は、その印象をつぎのように記した。
眼をうつすと慰霊碑に参拝する人々の列が長く続いている。その北方の  児童文化会館広場では働く人たちの集い、総評主催の広島平和大会が開か  れている。そして先ほど終了した平和まつり[平和式典=筆者注]と合せ  て三様の人波がそれぞれ特色をもってこの日の広島を表現していた。
(「読売新聞」1953年8月7日)
ところが、1954年には、式典への参列者数は2万人となった。この年3月1日に南太平洋ビキニ環礁で発生した日本のまぐろ漁船第五福龍丸の水爆被災事件を契機に、全国各地で原水爆禁止の運動が沸き起こった。広島県内でも婦人団体、労組、民主団体などが、7月2日に原・水爆禁止広島県民運動本部を発足させ、原水爆禁止を求める100万人の署名運動を展開した。8月6日には、同本部が、平和式典に引き続いて、原爆・水爆禁止広島平和大会を開催することを計画した。また、広島県労会議(正式名称:広島県労働組合会議)が中心となって結成した8・6平和週間実行委員会も、8月3日の会合で、6日には「広島市・広島平和協会共催の平和式典、県民運動本部主催の原・水爆禁止広島平和大会には約4万名が家族連れで参加する」ことを決定している(「中国新聞」54年8月5日)。参列者数が、数千台から数万台へ飛躍したのは、これらへの参加者が式典に参列したためであった。52年、53年の状況と比較すれば、52年の第3・第4の群や53年の平和大会の「人波」が、平和式典に合流したと考えることができる。
1955年には、8月6日から3日間、広島市を舞台に原水爆禁止世界大会(第1回)が開催され、平和式典への参列者数は5万人を数えた。54年の式典の基盤が、全県レベルのものであるとすれば、55年のそれは、全国レベルあるいは国際レベルのものであった。
その後、式典の参列者数は、2万から5万人の間で推移し、85年以降は5万人台で定着している。91年の参列者数は、広島市の発表によれば5万5,000人であった。

(2) 来賓
占領軍当局、政府、議会は、広島市の平和式典に高い関心を寄せた。第1回から第3回(1947-49年)には、連合軍総司令官、英連邦軍司令官、内閣総理大臣、衆参両院議長がメッセージを寄せている。
連合軍総司令官のメッセージは、第1回には、日本文で約320字という長さであった。しかし、第2回は、「広島市の復興計画が着々と実現されつつある状態を見て大いに敬意を表する」という簡単なものとなり、第3回も同様であった。英連邦軍司令官のメッセージは、1952年と53年にもあったが、それ以後は、見られなくなった。
1954年(昭和29年)の式典は、高松宮夫妻を式典に迎えた。当日午後4時から市内で挙行される世界平和記念聖堂の完工式への出席にともなう参列であった。「一市民としての参列」とされているが、皇族の初の式典参列であった。高松宮が全国鳩協会名誉会長である関係から、同協会傘下の中国地方競翔部は、歓迎と犠牲者の慰霊をかねて鳩700羽を、平和宣言終了と同時に式典会場で放した(「中国新聞(夕刊)」54年8月7日)。57年には、8月7日から3日間開催された第11回全国レクリエーション大会に出席の三笠宮夫妻、58年には、8月7日から開催予定の天皇賜杯第13回全日本軟式野球大会に出席の高松宮夫妻と皇族の参列が続き、60年には皇太子明仁親王(現天皇)を迎えている。54年、57年、58年の式典では、皇族の「あいさつ」はなかったが、60年には、「皇太子殿下追悼の言葉」が式次に設定された。その内容は、つぎのようなものであった。
15年前の本日、原子爆弾により尊い生命を失った数多くの方々とその遺  族を思うとき、まことに哀惜の念にたえません。いまこの慰霊碑の前に臨  み、感慨切なるものがあります。ここに深く追悼の意を表するとともに今  後ふたたび、このようなことのないよう、世界の平和を念願してやみませ  ん。
こうした来賓の参列は、広島市の強い要請に応えてのことであった。広島市は、この行事を単に地方的行事とは考えず、要路の人に対し積極的に式典への参加を求めた。開催はされなかったが、1950年の第4回平和祭の案内状発送先が残っている。それによれば、発送先は、占領軍関係者、内閣総理大臣、衆参両院議長のほかに、国務大臣(15人)、衆議院議員(453人)、参議院議員(256人)、県会議員(57人)、市会議員(38人)、商工会議所議員(69人)、各都道府県知事(46人)、全国都市長(233人)、県内市町村長(347人)、在広新聞社(19人)、市戦災孤児収容所(6人)、市政功労者(23人)、県下市会議長(5人)であった。これが、91年には、表6のようになっている。「被爆者・遺族代表」や「平和問題調査会」、「広島平和文化センタ-」、「平和団体関係」は、50年当時には見られなかったものであり、これらから、広島市の式典に対する意義づけの変化を読み取ることも可能である。

(3) 政府、議会関係者
総理大臣は、初期の段階では、式典にメッセージを寄せたり、広島県選出の国会議員や閣僚を総理代理として派遣した。広島県に地縁関係のない閣僚が、総理代理として出席したのは、1960年(昭和35年)の中山マサ厚生大臣が最初であった。この年には、広島県議会と自民党広島県連が、各政党党首への出席を強力に働きかけた結果、一時、池田総理大臣の出席の可能性も取り沙汰されたが、結局、中山厚相の代理出席となった。
広島市が、総理大臣本人の出席を強く働きかけるようになるのは、1965年以降のことである。この年6月23日、浜井広島市長は、「ことしは被爆20周年に当たるので、来賓としてよりも、例年市長が読上げている平和宣言を佐藤首相にやってほしい」という意向を明らかにし、永野広島県知事を通じて出席を強く要請することを発表した。この年、総理の出席は実現しなかったが、初めて閣議で取り上げられ、橋本登美三郎内閣官房長官が代理として出席した。この後、66年と67年、総理府総務副長官、68年、内閣官房副長官、69年、床次徳二総務長官、70年、内田常雄厚生大臣と、広島県と地縁関係のない閣僚が派遣され、71年には、佐藤栄作総理大臣が、歴代総理の中で初めて式典に参列した。
山田市長は、1968年以降、佐藤総理大臣に会い、直接出席を要請していた。これに対し、総理は出席の意向を示していたが、国務の多忙が理由で実現しなかった。しかし、71年には、5月11日に首相官邸を訪ねた山田市長に、万難を排して出席することを約束した。こうした決意の背景について、佐藤総理は、山田市長に「天皇・皇后両陛下も慰霊碑を参拝されたことであり、どうしても行きたい」と語っている。これ以後、表7のように、三木、鈴木、中曽根、宇野、海部の各総理の参列が実現している。91年の海部総理の式典への参列は、総理大臣自身のものとしては、9回目に当たるものであった。
衆参両院議長についても、初期には、広島県選出の国会議員の代理出席であった。当初、総理大臣、衆参両院議長の「あいさつ」や「献花」が、本人と代理の参列の区別なく、常に式次に設けられていた。しかし、1972年からは、代理の「あいさつ」や「献花」は、内閣総理大臣のみとし、衆参両院議長については廃止された。清瀬一郎衆議院議長が、60年に皇太子とともに参列したが、これが議長本人が出席した最初である。その後、ふたたび広島県選出の議員の代理出席が続いていたが、70年には衆参両院の副議長(荒船清十郎、安井謙)が参列した。71年以降の衆参両院議長の参列状況は、表7のとおりである。
この外の国会関係者としては、国際軍縮促進議員連盟の代表が、1981年と82年の式典に参列している。同連盟は、ライシャワー発言を契機に目だちはじめた「非核三原則見直し論」に危機感を感じた議員が81年5月13日に超党派で発足させたもので、被爆体験を持つ日本の立場を改めて内外に示す目的から広島・長崎の式典への参列を決定した(「毎日新聞」1981年6月2日)。

(4) 長崎市など他都市からの参列者
広島・長崎両市は、同じ被爆地あることから、当初からお互いの式典に対して関心を持っていた。浜井信三広島市長と大橋博長崎市長は、被爆から3周年目の式典を前にした1948年(昭和22年)7月31日に、新聞社の求めに応じ電話で対談している(「中国新聞」1948年8月1日)。また、翌49年7月28日、浜井市長は、東京からの帰途立ち寄った大橋市長につぎのように提案した。
8月6日を世界平和デーとする動きは世界的なものとなりつつあるので、  このさい6日から5日間を世界平和週間とすると長崎の方も9日が入るのでよ  いが、検討して欲しい。 (「中国新聞」1949年7月29日)
1954年には、広島市青年連合会の代表が、広島市の平和宣言、市長および市議会議長のメッセージを持って長崎の式典に参列、翌55年にも、広島市長は、長崎の式典にメッセージを寄せた。こうした両市の式典の関係は、72年の長崎市の卜部壮一助役らの広島市の式典への参列を契機に、式典への相互参列という形に発展した。翌73年には、広島市が、諸谷義武長崎市長、宮崎勝美長崎市議会議長、被爆者代表を初めて招待し、山田節男広島市長らが、初めて長崎の式典に参列した。
長崎市のような継続的な参列ではないが、多くの自治体の代表が、平和式典に自主的に参列している。1955年および59年に広島で開催された原水爆禁止世界大会には、全国各地から自治体の首長が参加しており、その多くは平和式典にも参列したと推定される。74年には屋良朝苗沖縄県知事が参列した。これは、広島県知事の訪問要請に応じたもので、他府県の知事としては初めての公式参列であった。反核運動が大きな盛り上がりを示した82年以降、式典会場には非核宣言を行なった自治体の首長の姿が見られるようになった。82年には、全国で15の非核宣言自治体のうち8自治体の首長らが参列し、86年には、非核都市宣言自治体連絡協議会代表100人が、協議会として初めて式典に参列した。

(5) 海外からの参列者
1955年(昭和30年)の原水爆禁止世界大会(第1回)には、14か国52人の海外代表が参加した。この中のインドから参加した夫妻が、平和式典において「花輪奉呈」を行なった。この後、広島市が再び世界大会の会場となった59年(第5回)および61年から63年(第7-9回)にかけても、「花輪奉呈」という形で、世界大会参加の海外代表が式典に公式に参列していた。しかし、広島市は、63年の世界大会の混乱を契機に、世界大会外国代表の「花輪奉呈」を廃止した。
1967年4月に広島市長となった山田節男は、同年6月2日に開かれた平和式典実施要項を検討する市の幹部会議で、世界の著名人を式典に招く構想を明らかにした。しかし、在任中に、この構想が具体化することはなかった。ところが、この構想は、つぎの荒木市長により、国連関係者の参列という形で実現された。70年代中ごろから、非同盟諸国や国際的な平和団体は、核軍縮への関心を高め、そのイニシアティブを国連に求めるようになっていた。広島・長崎両市長も、76年12月1日、国連本部を訪問し、ワルトハイム事務総長とH.S.アメラシンゲ国連総会議長に核兵器廃絶への措置を要請した。さらに、両市長は、翌77年5月15日、式典への招請状を発送した。こうした両市の働きかけに応え、77年の式典には、アメラシンゲ総会議長と国連事務総長代理(マイケル・クラーク国連広報センタ-所長)が両市の式典に参列した。その後も、85年にはヤン・モーテンソン国連事務次長が、また86年と89年には明石康国連事務次長が、それぞれ国連事務総長代理として出席している。
広島市は、1984年から名誉市民および特別名誉市民を招へいするようになった。84年には、フロイド・シュモーとメアリー・マクミラン、85年にノーマン・カズンズとバーバラ・レイノルズと、復興期の広島に救済の手をさしのべたアメリカ人が、特別名誉市民として招へいされている。また、85年以降、広島市は、国際会議(シンポジウム)を毎年開催するようになったが、会議(シンポジウム)参加者は、来賓として式典に参列した。
外国人の参列は、式典の中で目だち、マスコミはこれを大きく取り上げた。1969年の式典には、約30人の広島在住の韓国婦人が民族衣装で参列した。同年3月14日にソウルの韓国原爆被害者援護協会と広島折鶴の会が姉妹団体となったことが、この参列の契機となった。その後も、日米学生会議の90人(75年)、婦人国際平和自由連盟一行60人(77年)などの海外からの参列者が見られた。84年には、580人という多数の外国人が参列した。原水爆禁止1984年世界大会参加の90人、7月下旬東京で開催された国際自由宗教者世界大会で来日中の宗教者265人などであった(「朝日新聞」1984年7月28日)。外国人の参列者は、この後も例年300人を超えている。広島市に配席の希望があったものだけでも、85年252人、86年521人、87年354人、88年299人、89年388人、90年312人となっている。広島市は、91年の式典において、こうした外国人参列者のためにレシーバーを貸し出し、英語の同時通訳を流すという試みを初めて採用した。なお、91年の外国人の参列状況は、表8のとおりであった。

(6) 遺族、被爆者、市民、平和団体代表
当初の式典は、占領軍関係者、政府代表を中心とした官製色の強いものであった。しかし、遺族代表の花輪奉呈(1954年)、「原爆乙女」の平和の鐘点打(57年)、被爆者代表の献花(61年)など、市民的色彩を強める工夫が徐々になされた。
1970年(昭和45年)の式典で採用された「流れ献花」は、市民的色彩の強化という点では、画期的な試みであった。この年、市長、総理大臣代理などの献花に引き続いて、10才から75才までの市民代表男女各25人計50人が、白と黄の菊を各3輪計6輪ずつ原爆死没者慰霊碑に献花した。50人の大半は、市内の各地区社会福祉協議会などから推薦された日本人であったが、在日本大韓民国居留民団広島地方本部と在日本朝鮮人総連合広島県本部から推薦された韓国人・朝鮮人代表の姿もあった。この式次は、被爆25周年という節目の年にあたり広島市が採用したものであった。しかし、その後も続けられ現在に至っている。参加する市民の数は、70年に倍増された。91年には市内の地区社会福祉協議会(67人)、広島市原爆被爆者協議会(6人)、広島被爆者団体連絡会議(6人)、日本原水爆被害者団体協議会(1人)、在日本大韓民国居留民団広島地方本部(1人)、広島県朝鮮人被爆者協議会(1人)、日本労働組合総連合会広島県連合会(2人)から推薦された84人が、流れ献花を行なった。
このほか、1981年からは全国の各都道府県から毎年1人ずつ原爆犠牲者の遺族代表が招へいされるようになった。厚生省は、80年12月の原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申に沿う犠牲者に対する特別な弔意として、81年度予算に式典参列に対する補助金394万円(うち広島分169万円)を計上したが、この招へいは、これに伴う措置であった。広島市は、厚生省の予算に市費57万円を上積みして実施した。81年には、47都道府県から参列した遺族のうち、北海道と沖縄から参列した遺族2人が、全国の遺族代表として「献花」を行なった。なお、遺族代表の枠は、被爆40周年の85年のみ1県1人から3人に増やされている。これは、被曝40周年記念事業として「原爆被爆者援護事業功労者厚生大臣表彰」が広島市で行なわれたためである。
原水禁運動関係者の公式の参列は、1964年以降途絶えていたが、68年から再び見られるようになった。同年6月24日、山田広島市長は、原水禁運動を進めている3団体(原水協、原水禁、核禁会議)の代表を3団体の統一を願って特別来賓として招待すると発表した。また、世界連邦主義者である山田市長は、この年から、原水禁団体の代表とともに世界連邦諸団体(世界平和アピール7人委員会、世界連邦建設同盟、世界連邦宣言自治体全国協議会)の代表も招待している。91年の式典には、原水禁3団体、世界連邦諸団体(世界平和アピール7人委員会、世界連邦日本国会委員会、世界連邦建設同盟)のほかに核戦争防止国際医師会議日本支部、原水爆被害者団体協議会の代表が、「平和団体関係者」として招待された。このほかに、最近では、広島平和文化センタ-、核軍縮を求める22人委員会、平和問題調査会の関係者やメンバーも、招へいされている。

(7) 一般参列者
平和式典への参列者の顔ぶれは、広島市当局の招待者と同様、一般参列者も、年ごとに多彩となってきた。賀茂郡西条町(現西広島市)の原爆被害者の会は、1958年(昭和33年)に地元で第1回慰霊祭を開催したが、翌59年には、第5回原水爆禁止世界大会への参加をかねて、貸切りバスで式典に参列した。こうした被爆者団体の組織的な式典への参加は、その後も見ることができる。73年には西宮市原爆被害者の会の会員44人が参列した。この旅費は、原水爆禁止西宮市協議会が結成15周年を記念して全額負担していた。被爆40年にあたる85年には、被爆者団体の全国組織である日本原水爆被害者団体協議会が、墓参団を組織し、平和記念式典に参列した。
甲府市は、1984年の平和式典に市民代表約50人を派遣した。甲府市議会は、82年7月に県庁所在地の都市としては初めて「核兵器廃絶平和都市宣言」を決議したが、広島の式典への市民の派遣は、宣言に基づく具体的な行動の一つとして企画されたものであった。自治体による式典への市民派遣は、非核宣言自治体の増加とともに増えていった。広島市に連絡された限りの数(配席要望数)であるが、89年24団体422人、90年36団体603人、91年38団体1,005人となっている。91年の式典に多くの市民を派遣した自治体としては、東大阪市(「広島平和バスツアー」100人)、甲府市(80人)、藤井寺市(「平和バス」50人)、高知市(「広島平和のバス」50人)、藤沢市(「広島平和ツアー」48人)などがあった。

宣言の主体、対象、形式(平和宣言)

平和宣言

(1) 宣言の主体、対象、形式

平和式典の中で、平和宣言を読み上げたのは、浜井信三(1947-54年、59-66年)、渡辺忠雄(55-58年)、山田節男(67-74年)、荒木武(75-90年)、平岡敬(91年)の5人の広島市長であった。歴代市長のうち、浜井、渡辺、荒木の3市長は、原爆の直接体験者であった。
平和宣言は、1950年(昭和25年)には、式典の中止により読み上げられることはなかった。また、翌51年には、宣言は発表されず、そのかわり、市長のあいさつがなされた。
宣言の主体は、慣例として、市長個人ではなく、「広島市民の代表としての広島市長」あるいは「被爆体験を持つ広島市民の代表としての広島市長」であった。例えば、「われら広島市民」(1947年)、「原爆を体験したわれわれ」(55年)という表現が用いられている。ところが、91年の宣言は、「平和への不断の努力を市民の皆様とともにお誓いする」と結ばれている。英文では、この主語は、「We」ではなく、「I」であり、市長個人が主体として宣言に登場した初めての例であった。なお、54年までは、宣言主体の肩書に、「広島市長」の他に、「広島平和祭協会長」(47年)、あるいは「広島平和協会長」(48年、54年)が付されている。
1947年と48年の宣言は、最後をそれぞれ、「ここに平和塔の下、われらはかくの如く平和を宣言する」、「戦災3周年の歴史的記念日に当り、我等はかくの如く誓い平和を中外に宣言する」と結んだ。当初の宣言は、このように自らの誓いを内外に明らかにするということを目的としていた。ところが、51年以降、宣言の対象が、具体的に文面に表現されるようになった。51年には、「犠牲者の霊を慰めるとともに・・・平和都市建設の礎とならんことを誓うものである」と結んでおり、慰めの対象として「犠牲者の霊」が現れた。また、翌52年には「・・・尊い精霊たちの前に誓うものである」と結び、「精霊」が宣言の対象の一つとして明確に表現された。さらに、54年には、宣言の対象として「全世界に訴える」という表現が使用された。これ以後、宣言の中には、この三つの要素(「誓い」、「慰霊」、「世界への訴え」)が、常に盛り込まれるようになった。
宣言の長さは、読み上げる市長により大きく変化している。字数で見ると、1947年の最初の宣言は、約830字であった。これは、47年から66年までの浜井、渡辺両市長の宣言の中では、最も長いものであった。最も短いのは、54年の320字であり、最初のものと比べて半分以下となっている。しかし、67年から74年の山田市長の時期には、字数はほぼ800字代で定着した。75年以降の荒木市長の時期には、字数は更に増え、88年から90年の3年間は、1,500字前後にまでなっている。最も短い54年のものと比較すると、5倍近くなったことになる。
このほか、元号で表記されていた宣言の日付に1991年に初めて西暦が併記されたことも、宣言の形式に現れた変化の一つである。

(2) 原爆被害観

平和宣言の内容は、その原爆被害観に大きな特色を持っている。1947年(昭和22年)の最初の宣言は、原爆被害をつぎの2種類の論理で平和と関連づけた。
(a)これ(原爆被害=筆者注)が戦争の継続を断念させ、不幸な戦を終結に   導く要因となったことは不幸中の幸であった。この意味に於て8月6日は   世界平和を招来せしめる機縁を作ったものとして世界人類に記憶されな   ければならない。
(b)この恐るべき兵器は恒久平和の必然性と真実性を確認せしめる「思想革   命」を招来せしめた。すなわちこれ(原爆被害)によって原子力をもっ   て争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界   の人々に明白に認識せしめたからである。
(a)は、原爆被害を終戦の根拠とし、「終戦=平和」という論理で、一方、(b)は、原爆被害は人類破滅を示唆しているから、人類破滅を避けるためには平和を選択しなければならないという論理で、それぞれ原爆被害を平和とつないでいる。(a)は、「終戦詔書」において用いられた論理で、被爆直後から今日まで根強く残っているものである。しかし、平和宣言においては、翌年には消え、今日まで現れたことはない。一方、(b)は、原爆投下直後に、世界連邦主義者など一部の間で唱えられていたものであり、マーカーサーも、同年の式典にこの論理を盛り込んだメッセージを寄せた。この人類破滅観は、ニュアンスの差はあるものの、その後の宣言の中に一貫して盛り込まれてきた。1991年の宣言の中では、それは、「ヒロシマはその体験から、核戦争は人類の絶滅につながることを知り・・・」と表現されている。
人類破滅観は、当初は将来の可能性として取り上げられていた。しかし、ビキニ水爆被災事件を経験した1954年の宣言では、「今や・・・滅亡の脅威に曝されるに至った」と、現在の可能性として表現された。
1947年の宣言は、広島の原爆被害を「わが広島市は一瞬にして壊滅に帰し、十数万の同胞は、その尊き生命を失い、広島は暗黒の死の都と化した」と述べた。調査報告では、被害は「爆心地から半径何メートル以内の建物は云々、人間、生物は云々」という表現が一般的である。宣言が、それを「全市壊滅」というイメージで捉えたことは、注目に値する。宣言の人類破滅観は、このイメージを世界規模に拡大したものであり、その意味で、広島の具体的被害の裏付けを持っているということができる。
一方、広島の原爆被害の表現形式は、時代とともに変化している。1947年の宣言は、被害を都市の壊滅と大量死の二つの要素で把握しているが、53年の宣言では、それを「原爆下の惨状」と表現し、新たに「原子爆弾が残した罪悪の痕は、いまなお、消えるべくもなく続いている」と原爆の後遺症を付け加えた。以後、宣言は、原爆の被害を、都市の壊滅、大量死、後遺症の3要素で表現するようになった。とはいえ、常に3要素を具体的に述べているわけではなく、3要素を総括する表現として、「原爆の惨禍」、「ヒロシマ」、「被爆体験」を併用するようになった。
宣言が、原爆被害の実相について詳細に述べるということはなく、また、被害の3要素も年を経るにしたがって抽象的な表現に変わった。しかし、被爆30周年に当たる1975年の宣言は、例外的に宣言のほぼ半分をそれにあて、詳細に被害の実相を述べている。これは、山田節男に替わって市長に就任した荒木武が初めて読み上げたものであったが、その内容は、つぎのようなものである。
昭和20年8月6日、広島市民の頭上で、突然、原子爆弾が炸裂した。爆弾  は灼熱の閃光を放射し、爆発音が地鳴りのごとく轟きわたった。その一瞬、  広島市は、すでに地面に叩きつぶされていた。
死者、負傷者が続出し、黒煙もうもうたるなかで、この世ならぬ凄惨な  生き地獄が出現したのであった。
倒壊した建物の下から、或は襲い来る火焔の中から、助けを求めつつ、  生きながらに死んでいった人々、路傍に打ち重なって、そのまま息絶えた  人々、川にはまた、浮き沈みしつつ流される人々、文字通り狂乱の巷から  一歩でも安全を求めて逃げまどう血だるまの襤褸の列、「水、水」と息絶  え絶えに水を求める声・・・・・・・・・。今もなお脳裡にあって、三十年を経た今  日、惻々として胸を突き、痛恨の情を禁じ得ない。
更に被爆以来、今日まで一日として放射能障害の苦痛と不安から脱し切  れず、生活に喘ぐ人々が多数あり、その非道性を広島は身をもって証言す  る。

(3) 原水爆禁止

宣言は、当初、人類破滅観にもとづいて絶対平和の創造や戦争放棄を訴えた。しかし、原爆の禁止を訴えることはなかった。ビキニ水爆被災事件の発生した1954年(昭和29年)においても、「一切の戦争排除と原子力の適当なる管理を全世界に訴える」という表現にとどまっていた。ところが、57年の宣言では、「原水爆の保有と実験を理由づける力による平和が愚かなまぼろしにすぎない」と指摘し、翌58年には、「われわれは更に声を大にして世論を喚起し、核兵器の製造と使用を全面的に禁止する国際協定の成立に努力を傾注し、もって人類を滅亡の危機から救わなければならない」と初めて明確に原水爆禁止を主張した。68年には、「核兵器を戦争抑止力とみることは、核力競争をあおる以外のなにものでもなく、むしろ、この競争の極まるところに人類の破滅は結びついている」という明確な核抑止論批判に発展した。さらに、73年には、「全世界の強い抗議を無視して、南太平洋において核実験を強行したフランス政府をはじめ、いまもなお核実験を続ける米・ソ・中国など、国家主権を楯として、自国の安全のためにのみ、核実験を正当化しようとしていることは、まさに時代錯誤であり、全人 類に対する犯罪行為でもある」と、名指しで核保有国を厳しく非難するまでになった。
1973年の宣言は、「核兵器の速やかなる廃絶と核実験の即時全面禁止」という表現で、核兵器廃絶の課題のうちまず核実験禁止を要請している。それまでにも、「核実験停止決議や査察専門家会議開催」(1958年)、「米、英、ソ3国による部分的核実験停止条約の締結」(63年と64年)など核実験の制限、管理をめぐる国際動向に歓迎の意を表していたが、核実験禁止を緊急の課題として要請したのは、この時が初めてである。その後、79年には、「相次ぐ核実験の強行」が新たに提起した「放射能被曝の問題」を指摘し、「すべての核実験はただちに停止し、これ以上新たな被曝者をつくってはならない」と強く訴えた。また、82年以降、核実験の即時停止を求め続けている。
1965年の宣言は、核兵器の「保有国が漸次その数を増して、事態をいよいよ混乱させている」ことに憂慮を表明した。その後、宣言が、核拡散の問題を独自に取り上げることはなかったが、74年になって、宣言の中心テーマを、核拡散防止にあてた。この年の宣言は、米ソ両大国が、核の拡散を助長していることを指摘し、核拡散の阻止を国連に期待するとともに、日本政府へも「核拡散防止条約の速やかなる批准」を求めている。この後、核拡散についての言及は、75年、76年、80年、88年の宣言でもなされた。
1974年の宣言は、政府の外交政策に対して具体的要請を表明した最初のものである。同年の宣言は、日本政府に対し「核拡散防止条約の速やかなる批准を求め」た。以後、政府に対し、核軍縮に積極的な役割を果たすよう求め続けている。78年には、つぎのように政府に要請した。
いまこそ唯一の被爆国であるわが国は、国際社会における平和の先覚者  として国際世論の喚起に努め、核兵器の廃絶と戦争放棄への国際的合意の  達成を目ざして、全精力を傾注すべきときである。
こうした核兵器廃絶への日本政府のイニシアティブの要望は、1980年の宣言でも現れ、81年には、「平和国家の理念を掲げ、非核三原則を国是とするわが国がその先導者となることを期待する」と、その根拠として「非核三原則」に触れた。81年の宣言に初めて言及された「非核三原則」は、以後、90年まで毎年宣言の中に現れており、83年からは、政府に、その堅持あるいは厳守を要望するようになった。なお、89年と90年の宣言は、政府に「非核三原則の厳守」とともに、「アジア・太平洋地域の国際的非核化の実現」に向けての外交努力も要望している。

(4) 国連

宣言が、国連に初めて言及するのは、1972年(昭和47年)のことである。この年の宣言は、つぎのように述べた。
さきの国連人間環境会議は、自然環境の破壊と人口の増加、資源の枯渇  により人類が陥りつつある多面的な危険に対し、70年代を生きる人間活動  の理念を明らかにし、核兵器の完全な破棄をめざす国際的な合意を急ぐよ  う宣言した。
ここに現れた国連の役割の積極的評価は、74年には、「国連において、核保有国のすべてを含む緊急国際会議を開き、核兵器の全面禁止協定の早期成立に努めるよう」にとの国連に対する提唱に発展する。71年の宣言で「核不使用協定の締結」を要請したことはあるが、要請対象は明確ではない。74年の宣言は、具体的な国際政治への提唱を行なった最初のものであった。さらに76年から80年代初めにかけて毎年、国連への期待あるいは国連を軸とした行動の提唱が行なわれるようになった。その後の宣言における国連への言及は、つぎのようなものである。
1976年「このときにあたり、広島市長は、長崎市長とともに国連に赴き、  被爆体験の事実を、生き証人として証言し、世界の国々に、これが  正しく継承されるよう提言すると同時に、国連総会が議決した核兵  器使用禁止、核拡散防止、核実験停止に関する諸決議のめざす、核  兵器廃絶への具体的措置が早急に実現されるよう、強く要請する決  意である。」
1977年「昨年、広島市長は、被爆都市の市長として、長崎市長とともに国  連に赴き、永年にわたる両市民の胸深くうっ積した悲願をこめて、  被爆体験の事実を生き証人として証言し、核兵器の廃絶と戦争の放  棄を強く訴えてきた。
われわれのこの訴えに対し、ワルトハイム事務総長、並びにアメ  ラシンゲ総会議長は、それぞれ国連を代表し、広島・長崎の苦しみ  は人類共通の苦しみであり、広島・長崎の死の灰の中から新しい世  界秩序の概念が生まれるであろうと強調し、心から共鳴するととも  に、広島・長崎を訪問したいとの意志を披瀝した。本日ここに、ア  メラシンゲ総会議長をこの地に迎えたことは、ヒロシマの声が直接  国連に反映されると思われ、その国際的意義はまことに深いものが  ある。
国連は、明年5月、国連軍縮特別総会の開催を予定している。世界     は、その成果に大いなる期待を寄せているのである。」
1978年「このヒロシマの願いは、ようやく世界の良心を動かし、本年5月、  国連加盟149か国による史上初の軍縮特別総会が開催された。
広島市長は、長崎市長とともに、両市民を代表してこの軍縮特別  総会に列席し、あわせて国連本部で画期的な「ヒロシマ・ナガサキ  原爆写真展」を実現した。この写真展は、被爆の実相を生々しく再  現し、国連加盟国代表はもちろん、国連を訪れた人びとに大きな衝  撃を与えた。
今回の軍縮特別総会では、全面的かつ完全な軍縮を究極の目標と     し、この目標を達成するため国連全加盟国で構成する新しい軍縮機     構の設置を取り決めた。その意義はまことに大きい。」
1979年「もとより、今日まで、世界では数多くの平和への努力が試みられ     ている。特に、国際連合は、昨年、史上初の軍縮特別総会を開催し、     核兵器の廃絶を究極の目標とした軍備の縮小をめざして、その第一     歩を踏み出した。さらにこれに応えて、軍縮委員会は、英知を結集     し3年後の軍縮特別総会に向かって討議を続けている。」
1980年「もとより、今日まで核兵器の増大を憂え、人類を破滅から救おう     とする努力は、部分核実験禁止条約、核不拡散条約、米ソによる戦     略兵器制限交渉等にも見ることができる。特に、国連初の軍縮特別     総会では、国家の安全は、軍備の拡大よりも軍縮によってこそ保た     れるとの合意を見、廃絶を目標とする核兵器の削減が軍縮の最優先     課題であるとの決議がなされた。
1981年「来る第2回国連軍縮特別総会において全加盟国は、この精神に立脚     し、核兵器保有国率先の下に、核兵器の不使用・非核武装地帯の拡     大・核実験全面禁止など、核兵器廃絶と全面軍縮に向けて具体的施     策を合意し、すみやかに実行に移すべきである。」
1982年「この時開催された第2回国連軍縮特別総会は、遺憾ながら国家間の     不信を克服しえず、「包括的軍縮計画」の合意には至らなかった。   しかし、核戦争の防止と核軍縮が最優先課題であるとの第1回軍縮     特別総会の決議を再確認するとともに、新たに、軍縮への世論形成     を目的とする「世界軍縮キャンペーン」の実施に合意し、さらに、  日本政府が提案した広島・長崎への軍縮特別研究員派遣を採択した。  」
1983年「国際連合は、第2回軍縮特別総会で採択した軍縮キャンペーンの一     環として、今年秋の各国軍縮特別研究員の広島派遣、国連本部での     原爆被災資料の常設展示など、被爆実相の普及と継承への新たな努     力を始めた。」
1986年「国連事務総長は、米ソ両首脳の広島訪問を積極的に働きかけると  ともに、第3回軍縮特別総会を速やかに開催すべきである。」
1987年「折しも、本年は、国連軍縮週間創設十周年を迎え、来年は、第3回     国連軍縮特別総会が開催される。ヒロシマは、その実りある成果を     切望してやまない。」
1988年「こうしたさ中、第3回国連軍縮特別総会が開催され、広島市長は世     界の恒久平和を願う「ヒロシマの心」を強く訴えた。
軍縮総会は、過去最多の政府首脳と非政府組織の代表が参加して  行われ、核実験禁止や核不拡散について具体的な議論を尽くしなが  らも、関係国が自国の利害に固執するあまり、世界の包括的軍縮へ  の展望を示す最終文書の採択に至らなかったことは、極めて遺憾で  ある。
ヒロシマは主張する。核兵器廃絶こそが人類生存の最優先課題で  あり、俊巡は許されない。いまこそ、国連の平和維持機能を強化し、  活性化することを各国に強く要請するとともに、今後、国連主催に  よる平和と軍縮の会議が被爆地広島で開催されることを望むもので  ある。」
このように、宣言は、1970年代半ばから、核兵器禁止のイニシアティブを国連に求め続けている。その一方で、80年代に入ると、米ソ核超大国のイニシアティブへの期待も現れるようになった。82年の宣言では、第2回国連軍縮総会の結果に遺憾の意を表明する一方で、「核保有国の元首をはじめ各国首脳」に「広島で軍縮のための首脳会議」を開催することを訴えた。また、翌83年から87年米ソ首脳会談を求めるという形で、両国のイニシアティブに期待を寄せている。

(5) 国際動向への憂慮

1965年(昭和40年)の宣言は、「ベトナムを初め世界各所において、大いなる危険を冒しつつ武力構想が繰り返されていることは真に憂慮に堪えない」と述べた。これ以後、宣言の中で、核戦争につながりかねない紛争についての憂慮が表明されるようになった。宣言が触れたものは、ベトナム戦争(66年、70-72年)、中東問題(66年、70年、80年)、東南アジアの紛争(80年)、イラクのクェート侵攻と湾岸戦争(91年)である。また、「ヨーロパにおけるSS20の配備、パーシングⅡの配備計画」(83年と84年)、「宇宙空間にまで拡大された核戦略」(84-88年)、チェルノブイリ原発事故(86年と91年)、海洋の核戦略(88年)、米軍水爆搭載機水没事件(89年)といった核問題をめぐる国際動向にも憂慮が表明されている。
1970年代以降の宣言は、国連への期待を表明する一方で、平和の問題を、単に戦争のない状態としてではなく、環境・資源問題、飢餓・貧困問題、人権抑圧問題など、平和を脅かす要因の除去という積極的な立場から取り上げるようになった。この点については、1972年の宣言では、国連人間環境会議の紹介に関連して初めて触れ、翌73年の宣言では、つぎのように述べている。
戦争は人間の心のなかに芽生えるものであるが、今日、世界をおおう環  境の破壊、人口増加の圧力、食糧危機、枯渇への速度をはやめる資源消耗  の現実を直視するとき、ここにも人間精神の荒廃と、世界平和を脅す要因  が潜在することを憂えるものである。
1976年にも同様の指摘が見られ、79年には「おろかにも地球の限りある資源を軍備の拡張に浪費し、飢えと貧困を拡大させている現実」という表現で、こうした問題を軍縮との関連で取り上げた。80年の宣言は、「拡大し続ける世界の軍事費はついに一日10億ドルを超え、また、軍備拡大の波は発展途上国にも及んでいる」と述べるとともに、「中東や東南アジアの相つぐ紛争」によって生じた「多数の難民の問題」に憂慮を表明した。そして、85年からは、飢餓(85年-)、貧困(85年、88年-)、人権抑圧(86年-)、難民(86-88年、90年-)・地球環境破壊(89年-)・暴力(91年)の問題が、ほぼ継続的に取り上げられるようになった

(6) 被爆者援護対策への要望

宣言は、1974年(昭和49年)以降、核拡散防止条約批准や非核三原則堅持など外交政策に関連した要望を、日本政府へ行なうようになっていた。その後、79年からは、原爆被爆者援護対策に関連した要望も、宣言に盛り込まれた。79年の宣言は、原爆被爆者対策基本問題懇談会(79年6月厚生大臣の諮問機関として設置)に期待し、つぎのように述べた。
今や、原爆被爆者の問題と放射能被曝者の問題は、世界的課題として緊  急な解決を迫られている。この時にあたり、日本政府において、被爆者援  護対策の基本理念と制度の見直しが始められたことに、われわれは大きな  期待を寄せるものである。
翌1980年には「原爆被爆者援護対策が国家補償の理念に基づいて一日も早く法制化されることを念願」した。この年12月に懇談会の答申が出されたが、その内容は、被爆者団体が強く要望していた原爆被爆者援護法の制定や広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(略称「八者協」、広島・長崎両県市および議会で構成)が要望していた「被爆者及びその遺族の年金制度の創設」については、否定的なものであった。81年の宣言は、「国家補償の精神に基づく原爆被爆者及び遺族への援護対策の拡充強化を求める」という表現で、被爆者援護対策への要望を改めて表明した。91年の宣言では、「国家補償の精神に基づいた被爆者援護法を速やかに実現しなければならない」という表現が使用されたが、「被爆者援護法」という表現が宣言に使用されたのは、初めてのことであった。また、この年の宣言は、原爆被爆者以外の「ヒバクシャの救援」について言及したが、これも初めてのことであった(「被曝者」への言及はすでに79年になされている)。宣言は、これについて、つぎのように述べている。
人類はきょうまで、かろうじて核戦争は回避してきたが、無謀な核実験  の続行や原子力発電所の事故などで、放射線被害が世界の各地に拡がりつ  つある。もうこれ以上、ヒバクシャを増やしてはならない。
ヒロシマはいま、新たにチェルノブイリ原発事故の被害者らに医療面か  らの救援を始めたが、ヒバクシャはぼう大な数にのぼっている。ヒロシマ  は国際的な救援を世界に訴え、その先頭に立ちたいと思う。

(7) 世論への期待

1949年(昭和24年)の宣言は、前年から海外で展開された広島への関心を、つぎのように紹介した。
・・・いまやわれら広島市民の過去の小さな努力は漸く世界の人々の共  感を呼び、8月6日を世界平和日に指定し広島を世界平和センターたらしめ  ようとする運動が広く全世界に展開せられ、また永遠に戦争を防止する強  力な世界組織樹立運動が漸次拡大されつつあることは実に欣快にたえない。
初期の宣言が、国内外の動向に具体的に触れることは極めてまれであったことを考えれば、この表現は、広島の訴えに呼応する動きへの広島市長の熱い思いを示したものといえよう。
1955年の平和記念日には、広島を舞台に原水爆禁止世界大会(第1回)が開催され、57年4月には、原爆医療法が施行された。こうした国内外の広島への関心の高まりは、広島を大いに励ますものであった。56年の宣言は、つぎのように述べている。
凄惨を極めたあの運命の日の体験に基づいて、「広島の悲劇をくりかえ  すな」と叫びつづけてきたわれわれの声に応じ、今日漸く世界各地より共  鳴と激励が寄せられ、原水爆禁止運動は次第に力強い支持を得ており、ひ  いては、永く充分な医療も受け得ず相次いで斃れて行きつつあった被爆生  存者に対する救援も漸次軌道に乗りつつあることは、われわれに新たな勇  気を与えるものである。
1968年と70年の宣言は、世論への強い期待を表明した。68年には、「広島の声を広く世界の声とすることこそ、市民に課せられた任務」と述べ、70年には、「このヒロシマの叫びは、世界の輿論に支えられ、少なくとも核兵器の使用を阻止することができた。われわれはこの成果をふまえて国民的悲願を結集しつつ、ヒロシマの体験をすべての人間の心に深く定着させ、核兵器の全廃と世界恒久平和の実現にむかって前進をつづけよう」と述べている。
こうした世論への期待は、1970年代後半から、宣言の中にしばしば現れるようになった。78年に、「国際政治の潮流は、イデオロギーを越えた良識ある国際世論の結集によって、変革されなければならない」と述べ、世界的な反核運動が盛り上がった82年には、各国政府が「世界各地で澎湃として高まっている核兵器廃絶への熱望を真摯に受け止め」軍縮を促進するよう訴えた。さらに、83年の宣言では、核兵器廃絶の声が、「国際的世論にまで高まっている」と述べた。こうした国際的世論の評価は、84年と86年の宣言でも示され、87年の宣言では、「東西両陣営が米ソの欧州中距離核ミサイル廃絶の方向で同意したこと」を、国際世論の成果と位置づけた。その後、88年、89年、90年の宣言でも、世論への言及がなされている。

(8) 被爆体験の継承

宣言の主張の根拠は、被爆体験である。1962年(昭和37年)の宣言は、そのことについて、「爾来、わたくしたちは機会あるごとに、全世界に、わたくしたちの体験を伝え、核兵器の禁止と戦争放棄の必要とを訴えつづけてきた」と、述べている。また、67年には、つぎのような表現で、被爆体験に対する注意を喚起した。
眼から去るものは心からも去る。22年前、一瞬にして二十数万の生命を  失い、今なお多くの被爆者が生命の不安におののきつつある広島の悲劇を  忘れることなく、これを世界の体験として受けとめ、全人類が戦争の完全  放棄と核兵器の絶対禁止を目ざし全智全能を傾注することを強く訴えるも  のである。
この宣言は、山田節男が市長になって初めて発した宣言である。山田市長は、1968年、70-73年の宣言の中でも、被爆体験の継承の必要性を訴えた。このうち、71年の宣言は、「次の世代に戦争と平和の意義を正しく継承するための平和教育が、全世界に力をこめて推進されなければならない。これこそ、ヒロシマの惨禍を繰り返さないための絶対の道である」と述べている。同じ時期、学校現場においても、平和教育の必要性が認識されるようになっていた。68年には、広島市教育委員会が、また、翌69年には広島県教育委員会と総務部が、それぞれ「『原爆記念日』の取扱いについて」・「八月六日の『原爆の日』の指導について」と題する通知を学校あてに送り、平和記念日の意義の理解の徹底を図った。「広島県被爆教職員の会」が結成されたのは69年のことであり、72年6月には、「広島平和教育研究所」が設立されている。
被爆体験の継承の必要性は、その後、1976年、77年、82年、83年、85年の宣言でも言及され、87年からは毎年触れられるようになった。87年の宣言は、過去10年間で日本全国からヒロシマを訪れた児童・生徒が500万人に達したことを紹介し、「大きな希望」であると評価している。

(9) ヒロシマの動向と決意

1975年(昭和50年)以降、宣言は、ヒロシマを巡る重要な動きを逐一盛り込むようになった。この部分を見れば、ヒロシマの核兵器廃絶への努力と決意の足跡を知ることができる。
1975年から78年までの宣言は、広島・長崎両市長の国連訪問を盛り込んでいる。また、78年のものは、国連本部で画期的な「ヒロシマ・ナガサキ原爆写真展」が実現し、これが、「国連加盟国代表はもちろん国連を訪れた人びとに大きな衝撃を与えた」ことを報告した。その後、80年の米国上院議員会館での原爆展の開催、81年2月のローマ法王ヨハネ・パウロ二世の広島訪問、82年の「軍縮と安全保障問題に関する独立委員会」(パルメ委員会)の広島での会議開催と広島市長の国連軍縮特別総会への出席を盛り込んだ。
1983年1月、広島・長崎両市長は、核兵器廃絶に向けての「世界平和都市連帯」を呼びかけたが、83年の宣言では「世界の各地から熱い賛同のメッセージが寄せられ、国境を越えて連帯の輪が広がりつつある」と報告し、84年と85年には、「都市連帯による新しい平和秩序を探求する」(84年)、「平和を希求する世界のあらゆる都市が、国境を越え、思想・信条の違いを超えて連帯し、恒久平和確立への国際世論を喚起しようとするものである」(85年)と会議の意図と会議に向けての決意を表明した。
1970年代半ばから国連という舞台を通じて急速に進展したヒロシマの国際化は、85年の世界平和連帯都市市長会議を契機に、広島を舞台にしても推進されるようになった。その状況は、宣言の中では、つぎのように報告されている。
1986年「ノーベル平和賞を受賞した「核戦争防止国際医師会議」のメンバ  ーが、本年6月広島を訪れ、被爆の実相に驚愕し、核実験即時停止を     強く訴えた。
本日、世界各地でヒロシマ・デーが開催され、メキシコでは、非  同盟6カ国首脳が相集い、核軍縮を世界に訴える。
時あたかも国際平和年。
ヒロシマは、ここに、「平和サミット」を開催し、核兵器廃絶と  恒久平和実現への国際世論を喚起する。」
1987年「本日、核保有国の代表的ジャーナリストによるシンポジウムをこ  こ広島で開催し、核兵器廃絶の更なる国際世論の醸成を図る。」
1988年「本日、ここ広島において、姉妹・友好都市の青年による「国際平  和シンポジウム」を開催し、「ヒロシマの体験」を継承すべく、市  民とともに討議する。」
1989年「広島市は、本年、市制施行100周年、「広島平和記念都市建設法」  施行40周年を迎えた。この意義ある年に、今ここ広島で「第2回世界     平和連帯都市市長会議」を開催している。世界三十数か国、約130都     市の市長らが、体制の違いや国境を乗り越えて相集い、「核兵器廃     絶を目指して-核時代における都市の役割」を基調テーマに、活発     な討論を交わしている。
10月には、「核戦争防止国際医師会議」の第9回世界大会が、「ノ     ーモア・ヒロシマ この決意永遠に」をテーマに、広島市で開催さ     れる。
去る4月に、日本で初めて京都市において「国連軍縮会議」が開催     された。その参加者が被爆地広島を訪れ、核兵器がもたらした被害     の実相に触れ、その凄まじさを改めて認識し、核兵器廃絶への思い     を強くした。
時恰も、核兵器による人類絶滅の危機を警告し続けてきた原爆ド  ームの保存募金には、国の内外から大きな反響が寄せられている。  原爆資料館の昨年度の入館者数が140万人を超え、過去最高を記録し     た。これらの事実は、「ヒロシマの心」が着実にひろがっている証     左である。」
1990年「本年3月、原爆ドーム保存工事が、国の内外から寄せられた多くの     浄財と平和への熱い思いに支えられて、完成した。広島平和記念資  料館の来館者は、初めて一年間に150万人を突破するに到った。核兵     器廃絶を求める世界平和都市連帯推進計画に賛同する都市も50か国、     287都市に達した。これらの事実は、強く平和を願う多くの人々の意     志を示すものである。
本日は、ここ広島において、女性国際平和シンポジウムを開催し、  平和への実現や核兵器廃絶のために、女性が果たすべき役割を討議  する。」

(10) 宣言内容の変遷

宣言に盛り込まれてきた要素は、実に多様である。しかし、「人類破滅観」のように当初より一貫して存在するものや、ある年以降継続的に盛り込まれている要素、ある時期にのみに存在する要素もある。1991年(平成3年)の宣言の構成は、(a)被害の実相、(b)ヒロシマの願い、(c)国際動向、(d)日本政府への要望、(e)ヒロシマの動向と決意、(f)ヒロシマの訴え、(g)結語となっている。結語では、国際協力のあり方、平和教育の推進、被爆者援護法の実現、海外の被爆者への援護についての注意を喚起し、原爆犠牲者への追悼の意の表明と、平和への不断の努力の誓いが述べられた。これら各要素の変化の概要は、前述の通りである。
これまで触れなかったが、マスコミが大きく取り上げた要素もいくらか存在する。たとえば、1969年(昭和44年)の宣言は、「人間の月着陸という人類の夢はついに実現した」と述べたが、これを中国新聞は「アポロ11号の英知を 人類の平和建設に 平和祈念式 広島市長の平和宣言」との見出しで報じた(「中国新聞」69年7月30日)。また、各紙は、79年の宣言が「核実験被曝」に初めて言及したとして大きく取り上げた。このほか、広島への平和と軍縮に関する国際的な平和研究機関の設置が、82年の平和宣言で初めて提唱された。この提唱は、88年から90年の宣言にも盛り込まれたが、91年の宣言では消えた。
宣言内容は、時代とともに大きく変化してきた。浜井市長の時期(前期)の宣言では見ることのできなかった原水爆禁止の直接的訴えが、渡辺市長の時期には明確に現れるようになった。こうした変化は、市長の交代にともなう変化というより、基本的には式典を取り巻く環境の変化によりもたらされたものである。これは、山田市長の時期に現れた「被爆体験の継承」についても同様のことがいえる。
とはいえ、市長の交代による変化と思われるものも存在する。山田市長の時期の宣言では、「世界法」(1967年と70年)、「正義と世界新秩序の支配する社会の建設」(68年)、「世界市民意識」(69-71年、74年)、「一切の軍備主権を人類連帯の世界機構に移譲し、解消すべきである」(71年)、「世界国家」(73年)といった表現が使用されている。これらは、いずれも世界連邦主義に基づくものと考えられ、山田市長以外には使用していない。また、平岡市長は、「日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人びとに、大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う」という表現で、日本がもたらした戦争被害への謝罪の気持ちを述べた。この気持ちは、81年、87年、89年の宣言が原爆死没者慰霊碑の碑文の「過ち」や89年の「戦争の過ち」について触れることで間接的に表わされてきたとの解釈がある(「毎日新聞」87年8月7日)。しかし、それが明確な表現で盛り込まれた背景には、市長の強い意向があった。

(11) 平和宣言の普及

1948年(昭和43年)の宣言は、世界160都市に浜井市長のメッセージとともに送付された。宣言の海外への送付は、これ以後も続けられ、54年には、世界主要都市市長へ98通、平和団体へ29通、計127通を原水爆禁止決議文とともに郵送されている。この年には、初めて共産圏に13通が送られたが、これは、占領解除の翌年にあたる前年に計画されながら中止となっていたものであった。その後の海外への送付総数は、新聞報道によれば、55年には151通、56年179通、58年300通、59年258通、60年265通、61年275通、66年170通、69年257通、71年281通、72年257通、74年236通、75年250通、76年247通、77年362通となっている。また、国別では、56年には、アメリカ64通、イギリス15通、ドイツ11通、フランス・カナダ・南米各8通、オーストラリア6通などであり、61年には、アメリカ81通、西独28、イギリス21通、フランス15通、オーストラリア10通、カナダ9通、東独8通などとなっている。
海外への送付先は、都市長や平和団体、個人あてであったが、1974年には初めてインドを含む核保有国を始め、19か国の首相、大統領が送付先に加えられた。さらに、翌75年には、在日大使館、領事館や在日海外特派員(100人)など国内の海外機関・個人への送付とともにニューヨークタイムス、ルモンド、BBC、プラウダ、人民日報など海外の新聞、放送通信社108社への送付が行なわれた。その後、国連加盟国161国の国連代表部への送付も加えられ、82年には英文の宣言の送付数は、国内外合わせて1,170通にものぼっている。
一方、国内への送付数も、次第に増加してきた。1955年420通、72年422通、75年926通、76年1,335通、77年1,918通と報じられている。76年から77年にかけての送付先の増加は、送付先をそれまでの広島・長崎両県選出の衆・参両院議員から全議員(723人)に拡大したためであった。77年には、海外送付分も115通増加し、国内外合わせて2,280通が送られた。
1975年には、平和宣言を印刷したパンフレットが5万部が印刷され、そのうちの約2万5,000枚が、「ひろしま平和の歌」のパンフレットとともに、平和式典開式前にボーイスカウトによって配布された。また、76年からは1枚のパンフレットに作成された「平和宣言・平和の歌・式次第」が、会場で配布されるようになり、78年からは、英文のパンフレットも作成され、会場で参列の外国人に配布されるようになった。このほかに広島市による宣言普及の努力は、平和宣言文パネルの設置という形でも行なわれている。83年12月28日、広島市は市役所本庁や市議会棟の玄関、広島平和記念資料館の展示ロビー、市内7区役所の計10か所に、平和宣言文のパネル板を設置した(91年には12か所)。
最近では、平和宣言普及が、市民の奉仕活動としても行われるようになった。
広島市視力障害者福祉協議会は、87年の宣言から、点訳を行い、会員と日本盲人会連合に加盟している56団体に送るようになった。また、88年からは、国際青少年友好センタ-主宰のコンピュ-タ-・ネットワーク「カモメ」が、平和宣言を日英2か国語で発信している。

式次第

平和式典の式次第
(1) 式次第
式次第の要素の中には、最初から一貫して存在するもの、当初には存在していたのに消えたものや、ある年のみに存在したもの、新たに加わったものがある。表2は、1947年(昭和22年)・52年・91年の式典の式次第を比較したものである。これにより、「平和の歌合唱」、「平和宣言」、「平和の鐘・黙とう(47年では平和の祈り)」、「放鳩」、「メッセージ(91年ではあいさつ)」といった要素が、順序は異なるものの、共通に存在しているがわかる。このうち「放鳩」以外は、最初から一貫して式次第に存在しているものである。
「放鳩」は、1947年の第1回平和祭から存在した。この年には、「平和のシンボル白鳩10羽が中村商工会議所会頭によって手放された」と報じられている(「中国新聞」47年8月7日)。48年には、ミスヒロシマの手によって鳩が放たれた。また、49年の鳩10羽は、くす玉に入れられており、前年同様、ミスヒロシマがくす玉を開いて、鳩を放している。当時、広島には鳩は居らず、その入手には、苦労をした模様で、放鳩に使用されたのは白鳩ではなく黒い鳩であったとか、鳩は九州の新聞社から借用したといったエピソードが伝えられている。「放鳩」は、51年から53年の式次第では消えたが、54年に再び現れた。放たれた鳩の数は、54年から59年にかけては500羽から700羽、60年から66年には1、000羽、67年と68年には1、400羽、69年以降は1、500羽と報じられている。
1947年の式次第にある「平和記念樹植樹」は、これ以後3回存在して姿を消した。「祝電披露」という表現は、51年以降は、用いられていない。単年のものとしては、「平和塔除幕」(47年)以外に、「詩・ヒロシマを思いて(大木惇夫作)」朗読、「くす玉開き」、「平和記念館設計当選者発表」(49年)、「慰霊祭」(51年)、「原爆死没者慰霊碑除幕」(52年)、「皇太子殿下追悼の言葉」(60年)、「扇ひろ子の原爆の子の像の歌」(64年)、「原爆死没者名簿引渡し」(90年)などがある。
「献花」は、1951年に現れているが、翌52年には存在せず、53年から「花輪奉呈」との名称で現れた。その後、68年に「献花」と改称され現在に至っている。また、70年以降は、「献花」に引き続いて「流れ献花」が設定された。「式辞」は、52年に現れ、現在に至っている。広島市議会議長が述べるのが通例であるが、広島県との共催で開催された60年の式典のみ、県知事が述べた。また、52年には、原爆死没者慰霊碑への「原爆死没者名簿奉納」が始まった。
開式の前であり、正確には式次第の要素とは言えないが、「献水」の行事が1974年から取り入れられた。これは、前年の長崎の式典に参列した山田広島市長が、長崎で採用されていたこの行事に感銘し、広島でも実施することとしたものである(「中国新聞」1974年7月2日)。広島市は、同年7月29日に献水の要領を決定したが、それによると、平和記念日当日早朝、市内の清流から水を集め、木曽さわら杉を使った水桶二つに入れ、式典直前に原爆死没者慰霊碑前に供え、式典後「平和の池」に注ぐことになっている(「毎日新聞」1974年7月30日)。清水を採る場所は、発足時は10か所であったが、91年には東区牛田新町浄水場、牛田新町天水、温品町清水谷、西区田方斉神、三滝町三滝、己斐上町滝の観音、安佐南区上安町荒谷山、緑井町権現山、沼田町大塚、安佐北区安佐町小河内、可部町福王寺、高陽町中深川、白木町秋山、安芸区矢野町尾崎、阿戸町景浦山、佐伯区五日市町屋代の16か所となっている。
1952年と91年の式次第は、「原爆死没者名簿奉納」→「式辞」→「献花(52年では欠)」→「黙とう・平和の鐘」→「平和宣言」→「放鳩」→「あいさつ」→「ひろしま平和の歌」である。ここでは、8時15分の「黙とう・平和の鐘」を、慰霊式と平和記(祈)念式の変わり目と理解することができる。ところが、54年から67年までは、「平和宣言」が「黙とう」より前に設定されており、式次第の上では、慰霊式と平和記念式の区別があいまいとなっていた。68年には、これがはっきり区別されるように変更された。しかし、この年からの式次第では、「ひろしま平和の歌」→「あいさつ」となっており、91年と完全に同じでない。現在の形式が定着するのは、1971年以降のことである。
平和式典の開催時間は、当初は(1947ー52年)、1時間が普通であった。ただ、慰霊祭が式次第に組み込まれた51年の式典は、8時半から11時(夏時間で、実際は7時半から10時)までの2時間半開催され、式典時間の中では最も長時間である。ところが、53年からは30分間が普通となり、70年以降は、40分間から50分の間で実施された。開始時刻は、49年以外はすべて原爆被爆時刻の午前8時15分を挟んで設定され、その時刻に「平和の鐘・黙とう」が行なわれた。49年の式典では、午前8時15分が開始時刻であり、「平和の鐘」から始められた。

(2) 原爆死没者名簿の奉納
広島市調査課は、1951年(昭和26年)5月、原爆死没者調査を実施した。再三のGHQへの陳情の結果実現したもので、7回忌(51年8月6日)を期して慰霊堂に合祀するための全死没者名簿作成を目的とするものであった。調査は、「広島に投下された原子爆弾により直接に、又は原爆の影響を直接の原因として死没された方全部」を対象としており、調査の内容としては、「1.死没者の氏名、2.性別、3.死没時の年齢、4.死没者の当時の住所、5.死没者の当時の職業(勤務先)、6.死没年月日、7.直接の原因、8.死没の場所、9.被爆時にいた場所」の9項目があげられていた。その方法は、関連者からの申告によるものとし、「広島市内及び広島県下については特別に徹底を期して、調査票も市内は全世帯に配布、県下も多量配布し、個人票以外に事業体、学校、団体、病院、寺院等には連記制調査票も配布」した。また、県外については、「各県の地方課から各市町村役場の関係課係を通じて連絡員(部落の世話人)、前国勢調査員、学校の生徒達の御協力により、或は告知板の利用等により申告者に調査票を入手させ、記入して貰う」こととした(広島市役所「広島市原爆による死没者調査についての趣意 書」)。慰霊堂の建設は、51年の式典には間に合わなかった。しかし、式典前日までに確認された氏名は、いろは別にカーボン紙に記載され、式典会場の戦災供養塔に供えられた(広島市『市勢要覧昭和26年版』、「中国新聞」54年8月6日)。
1952年7月上旬、広島市は、市内の能筆家20人に委嘱して過去帳への記載を始めた。5万7,902人の原爆犠牲者の名前を謹記した15冊の「広島市原爆死没者名簿」は、8月6日の式典で、浜井広島市長の手によって原爆死没者慰霊碑の中に設けられた奉納箱に納められた。広島市調査課は、この名簿の写しを、式典当日、原爆死没者慰霊碑と戦災供養塔前で公開し、記帳洩れの届出の受け付けを行なった。53年の式典では、この日以降新たに確認された391人の追加者の名簿が奉納され、以後、追加名簿の奉納が式典の慣例となった。
広島市は、1951年の調査に先だって、死没者の総数を20数万人と想定していた(「中国新聞」51年4月14日)。この根拠は、被爆当時の広島市内の人口を42万人(市内在住者約25万人、軍関係者約8万人、市外からの来広者約9万人)と推定、それから、50年に国勢調査付帯調査で明らかになった生存者数15万7,575人を差し引くという大雑把なものであった。ところが、51年の調査の結果は、6万人にも達せず、広島市調査課長は、53年7月に、死没者数は十数万が妥当との見解を発表した(「中国新聞」53年7月22日)。
原爆死没者名簿作成当時、この中への記帳者は、原爆被爆時またはその直後に死亡したもののみが対象との理解があった。翌1954年の式典での追加記入は212人に過ぎず、こうした結果を踏まえて、今後の追加者を加えても、名簿記帳者数は、6万人程度にとどまるのではないかとの見解が報じられている(「中国新聞」54年8月6日)。しかし、その後、被爆後数年経過した時点での死没者も記帳対象と考えられるようになった。57年には22人、58年には34人、59年には38人(原爆病院で死亡した人)が、過去1年間の死没者として名簿に追加されている。
表3は、現在までの追加数と名簿奉納総数を年別にみたものである。名簿への記帳は、遺族からだけでなく、関係団体からの申し出によってもなされた。1955年と56年には、県婦協の調査により確認された死亡者が追加され、記帳者数が増加した。69年の9,211人という増加は、市長が、被爆者健康手帳所持者で届出の無い死亡者6,844人を職権で記載したためである。また、この年には、原爆供養塔の無縁仏のうち氏名判明分1,071柱の名前が、広島戦災供養会の申し出により記入された。追加奉納された犠牲者のうち、過去1年間の死亡者の人数は、67年までは、100人未満、68年は121人であった。しかし、広島市が、市内の死亡者の中から被爆者を調査して追加奉納を行なうようになった69年以降は、1、000人を超えるようになった。
広島市は、市外の死亡者については、自動的に名簿に記載するという措置を取ることができないでいた。原爆医療法(1957年3月31日公布、正式名称:原子爆弾被爆者の医療等に関する法律)、原爆特別措置法(68年5月20日公布、正式名称:原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律)にもとづく行政事務は、広島・長崎両市を除き都道府県が担当しているからである。77年の場合、7月13日現在で名簿追加記帳予定者数は、1,664人(最終的には2,282人)であったが、そのうち、広島市の措置による数は、1,489人であり、遺族と名簿記入運動を進めている広島県原爆被害者団体協議会の届出分は、175人に過ぎない。この年、広島市を除く広島県内の被爆者健康手帳1,141人分が、所持者の死亡により県に返還されていた。しかし、広島県が、記帳の申し出は遺族の自主判断に任せるという方針を採っていたため、県から市へ記帳対象者として連絡されることはなかった(「読売新聞」1977年7月22日)。このような死亡時の居住地による名簿記帳手続き上の差異を無くするため、広島市は、80年、全国の原爆被爆者対策担当窓口に死没者名簿登載申請書を送った。また翌81年には、長崎市と連名で、知事 、政令市市長などを通じて、全国の遺族に犠牲者の名簿記載を呼びかけ、さらに82年には各地の被爆者団体にも働きかけを行なった。
年々の追加奉納数は、表3のように1972年と83年を画期として、それぞれ2,000人、4,000人を超えるようになっており、85年と90年には顕著な増加を示した。85年の急増は、前年、被爆者関係のデ-タ処理をそれまでの片仮名処理から漢字処理に変更した広島県が、被爆者健康手帳が交付されるようになった57年以降の死亡による手帳返還者2万865人の名前を広島市に提供したことによる。また、90年の急増は、85年に厚生省が実施した死没者調査で新たに判明した5,551人の犠牲者名が加えられたためである。
原爆死没者名簿の奉納は、一貫して市長の役割であった(ただし、1960年のみ県知事と共同で行なった)。その補助者を、69年までは市の職員が務めていたが、翌年からは遺族代表が務めるようになった。70年の補助者に選ばれたのは、この年に新たに名簿に追加された2人の死没者の遺族であった。その後、補助者は、2人(男女)が通例となった。ただ、追加者数の多かった85年と90年には3人が務めている。
原爆死没者名簿(仏式で「過去帳」とも呼ばれる)には、俗名・死没年月日・享年が記入されている。奉納された簿冊の数は、1952年の15冊から始まり、91年には、57冊となった。

(3) 献花
1947年(昭和22年)から49年の平和祭には、式典で花を供える式次は存在しなかった。ところが、51年の式典からは、花を供える行事が取り入れられた。51年には、岩国基地所属のアメリカ軍機から花輪が、52年には、岩国基地と新聞社の飛行機から花輪と花束が式典上空から投下され、戦災供養塔や原爆死没者慰霊碑に供えられた。このような飛行機からの献花は、式次の中の行事ではないが、慰霊という要素が、式典に取り入れられていることを現している。また、1951年の式典では、「キリスト教の献花祈祷」、「浜井平和協会長の献花」が行われた。いずれも式典の前半に行われた慰霊祭の中の行事で、前者は、「教派神道の修祓」、「仏教の敬白文奏上・読経回向」などと、また、後者は、「藤田供養会会長の焼香」、「遺族代表の玉串拝礼」などと並んで行われており、「献花」として特別に設定された式次ではなかった。特別の式次として式典に初めて登場するのは、53年のことである。当初、名称は「花輪奉呈」であったが、68年に「献花」と改称された。
1953年の式典では、原爆死没者名簿の奉納に続いて、「花輪」が、市長、市議会議長、県知事、県議会議長によって原爆死没者慰霊碑に奉呈された。翌54年の「花輪奉呈」には、前年の4人に新たに内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長と遺族代表が加わった。「遺族代表」の参加は、浜井市長の発意で、毎年各施設に収容されている原爆孤児のなかから男女各1人の代表を選ぶことになった。54年には、新生学園(中学2年の男子)と広島戦災児育成所(中学2年の女子)が選ばれた。その後、55年は広島修道院、似島学園、56年は新生学園、光の園、57年は広島戦災児育成所、似島学園、58年戦災児育成所、新生学園、59年戦災児育成所、広島修道院、60年は広島戦災児育成所、童心園から「遺族代表」が選ばれている。しかし、61年からは、「遺族代表」の選出は、孤児収容施設からではなくなり、63年からは、「平和の鐘」を打つ役目の遺族代表が、「献花」の役目も受け持っている。
1961年には、「被爆者代表」が献花に加わった。この年の代表は、大内義直広島市原爆被爆者協議会副会長が務め、以後76年まで、慣例として同協議会の代表が「被爆者代表」に選ばれた。77年以降、「被爆者代表」は2人に増やされ、86年からは、男女2人ずつの4人となって現在に至っている。例外的に85年の「被爆者代表」は6人であったが、このうち4人は日本人であり、残りの2人は、在外被爆者の倉本寛司(米国原爆被爆者協会会長)と郭貴勲(韓国原爆被害者協会)である。さらに、73年からは献花に長崎市民代表が、また、81年からは全国都道府県から式典に招待された遺族の中から2人の代表が献花に加わるようになった。
このほか、1955年、59年、61-63年には、原水爆禁止世界大会に海外から出席した代表が、献花に加わっている。また、皇族(57、58、60年)、国連総会議長(77年)などの参列があった年には、こうした来賓による献花が行なわれた。
「献花」の順序は、当初、「市長、市議会議長」(市)→「内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長」(国)→「県知事、県議会議長」(県)→「被爆者代表」→「遺族代表」となっていたが、1968年からは、市→「遺族代表」→「被爆者代表」→国→県の順に変更され、現在に至っている。こうした改善は、70年から始まる「流れ献花」とともに、式典の市民的色彩を強めようとした措置であった。

(4) 平和の鐘と黙とう
平和の鐘は、式典の中で8時15分に黙とうの合図として鳴らされるのが常であった。式典が中止となった1950年(昭和25年)にもこの鐘だけは鳴らされた。ただ、翌51年には、式次の中に「平和の鐘」が盛り込まれず、黙とうはサイレンを合図に実施された。
平和塔に設置された洋風の鐘は、当時、広島のシンボルとして扱われた。第1回平和祭で初めて鳴らされた後、この鐘は、47年12月の天皇行幸の際の天皇の相生橋通過の時、また48年2月に日本文化平和協会などが「文化国家建設学生大会」を平和塔の下で開催した時、さらに第2回平和祭において鳴らされた。広島逓信局は、第2回平和祭にあたり、平和塔、鐘、鳩の3点を図案化した記念スタンプを作成した。また、この鐘は、49年4月に東京日本橋・三越本店で開催された「広島県観光と物産展示会」の会場でも鳴らされた。
1949年6月、広島銅合金鋳造会(広島県銅合金鋳造工業組合の市内在住者を中心とした20人で結成)は、平和記念都市建設法の国会通過を記念して、「平和の鐘」を広島市に寄贈することを計画した。山本博広島工業専門学校教授の設計による鐘は、直径1.2メートル、高さ1.4メートル、重量760キログラムの洋風の鐘であった。意匠の八つがいの鳩は片田天玲画伯が筆をとり、市章と「ノー・モア・ヒロシマズ」(英文)が織り込まれた。また、49年8月4日、平和式典会場の市民広場に10メートルの鐘楼が完工した。鐘は、49年の式典前日、横川町の鋳造会事務所から花で飾った牛10頭と馬2頭に運ばせ、鐘楼に取り付けられた。
この鐘は、1949年の式典で鳴らされた。しかし、翌年以降は、式典の中止や式典会場の変更などにより、式典での役割を与えられることはなかった。52年から再開した式典での「平和の鐘」には、市内の寺から借用した鐘が使用された(「中国新聞(夕刊)1977年8月12日)。また、67年の式典からは、香取正彦(日本工芸会副理事長)が広島市に寄贈した鐘(高さ77センチ、直径55センチ、重さ100キロ。吉田茂元首相の書「平和」が刻まれている)が用いられるようになり、現在に至っている。
第1回から第3回(1947-49年)までの式典で鐘を鳴らしたのは浜井市長であった。第1回と3回では14回点打されたと報じられている。しかし、52年以降は、だれの手によって鳴らしたかは、報道されなくなった。鐘の点打者が、ふたたび、注目を浴びたのは、57年の式典においてであった。この年、来賓の三笠宮夫妻に奉呈用の花輪を手渡す役と平和の鐘を点打する役に、それぞれ若い被爆女性が起用された。これをマスコミは「原爆乙女が慰霊式に参列」と報じ、以後毎年、鐘の点打を式典の大役として大きく報道するようになった。それによれば、翌58年から60年には2人の「原爆乙女」が、61年と62年には1人の若い被爆女性が「平和の鐘」を鳴らしている。63年からは、この役は、「被爆者」に代わり男女1人ずつの「遺族」が勤めるようになった。69年には初めて既婚の男女が、80年には胎内被爆の男女が、また、81年には被爆二世の男女が、「遺族」として選ばれている。

(5) 演奏と合唱
1947年(昭和22年)の第1回式典では、平和の塔の除幕と平和宣言の間で、FK(NHK広島放送局の略称)放送管弦楽団・同混声合唱団により「ひろしま平和の歌」が合唱され、式典の最後でも、市内男女中等学校生徒100余人により「ひろしま平和の歌」が合唱された。これ以後、演奏と合唱は、平和式典に欠かせないものとなっている。
合唱は、FK混声合唱団(1947年)、広島放送合唱団(49年と52年)、YMCA合唱団(51年)、市内の職場の合唱団(55年と56年)、市内の学校と職場の合唱団(57年と58年)、市内の学校の合唱団(59~61年)などさまざまな団体によってなされた。しかし、62年からは、広島少年合唱隊によって合唱がなされるようになり、68年からはこの合唱隊に、市内の大学、高校、職場、同好会、婦人などの合唱団が加わるようになった。合唱団の規模は、広島少年合唱隊のみの場合は100~200人であったが、その後、500~600人規模へと増加している。なお、91年の合唱団は、表4のような19団体所属の約500人によって構成されていた。
演奏は、当初、FK放送管弦楽団(47年)、NHK管弦楽団(48年)、広島吹奏楽団(49年)、広島フィルハーモニー(51年)、広島交響楽団(53年)、天理スクールバンド(55年)、広島放送管弦楽団(56年)など専門的な楽団によってなされていた。ところが、56年からは、地元のアマチュア楽団が演奏を担当するようになった。同年は、広島市職員組合ブラスバンドが担当し、翌57年からは市内の学校のブラスバンドが担当するようになった。当初のブラスバンドを構成したのは、国泰寺、段原、観音、江波、宇品などの中学校のものであり、68年からは、市立基町高校が加わった。91年の式典では、市立の中、高等学校4校(国泰寺中、宇品中、基町高、舟入高)の吹奏楽部が演奏している。なおこの間、皇太子明仁親王(現天皇)を来賓として迎えた60年の演奏は、広島県警本部のブラスバンドが、また、64年から67年にかけてはエレクトーンの演奏が採用された。
表5は、第1回式典で合唱された「ひろしま平和の歌」(重園贇雄作詩、山本秀作曲)の歌詞である。この歌は、これ以後現在に至るまで歌い継がれている。55年、56年、58年には、この歌とともに「原爆許すまじ」が合唱された。また、64年には、コロンビア専属の新人歌手扇ひろ子(本名=重松博美)が式典の最後に「原爆の子の像の歌」を独唱した。扇は、生後6か月で広島で被爆、建物疎開に動員中の父親を失っていた。「原爆20回忌には、おとうさんの眠る広島で歌いたい」という扇の熱意に、石本美由起と遠藤実が、この歌を無報酬で作詞、作曲、レコード会社もテスト版を作成しただけで市販せず、版権を広島市に寄贈することとした。これを受けた広島市は、平和式典を延長するという異例の措置で、この歌の独唱を取り入れた。
「ひろしま平和の歌」には慰霊の要素は無い。しかし、演奏では、慰霊の曲が採用された。曲目は、「霊祭歌」(55年)、「鎮魂曲」(56年と57年)、ショパン作曲「葬送曲」(58年と59年)、ベートーベン作曲「憂いの曲」(60年)、賛美歌「日暮れて四方は暗く」(61年)、「仏教賛歌」(62年と63年)、シューマン作曲「祈祷曲」(65年)と年々変えられていたが、68年からは、式の開始時に「慰霊の曲」(大築邦雄作曲)が、また、献花時に「礼拝の曲」(清水修作曲)が演奏されるようになった。その後、75年に献花時の演奏曲が川崎優作曲の「祈りの曲第一哀悼歌」に変更され、現在に至っている。

平和式典の主催者

平和式典の主催者

平和式典の初期の主催者は、広島平和祭協会(1948年6月広島平和協会と改称)であった。広島平和祭協会は、会則により、事務所を広島市役所内に置き(第1条)、会長は広島市長が就任することになっていた。しかし、副会長は「広島商工会議所会頭、市会議長及委員会デ選任セラレタルモノ」の3人(第4条)とされ、また、協会独自の予算をもっており、広島市とは独立した組織であった。第2回平和祭が開催された48年度(昭和23年度)決算の場合、分担金収入は158万7,800円であり、その内訳は、広島市60万円、広島県30万円、正会員分担金 68万7,800円(289口)となっている(「昭和23年度広島平和協会事業報告」)。また、50年度予算では、収入総額250万円のうち、広島市が150万円、広島県が50万円をそれぞれ分担することになっていた(「昭和25年度広島平和協会収支予算書(案)」)。

マスコミは、毎年8月6日が近付くと平和協会の平和式典への取組を報道していたが、1952年以降、そうした報道は見られなくなった。平和式典は、52年から54年までは、広島市と平和協会で共催されたことになっている。しかし、平和協会はすでに有名無実化しており、54年に改組の動きが見られた。7月13日、原・水爆禁止広島県民運動連絡本部は、平和記念日の行事に関する第1回準備委員会を開催し、その中で、広島平和協会を解消し、「民主、婦人、PTA、労組、宗教、文化、教組など平和につながる各種団体を網らした新しい平和協会を8月6日までに結成」することを申し合わせた(「中国新聞」54年7月15日)。浜井広島市長は、この動きを了解するとともに、平和式典の市との共催を止め、当初のように平和協会のみで開催したい意向も持っていたと伝えられる(「中国新聞」54年7月25日)。しかし、これは、市議会の反対により実現しなかった。平和協会は、7月29日、委員会を開催し、これまでどおり広島市と平和協会の共催で式典を開催することと、平和式典の予算32万7,000円(広島市が20万円、県が10万円を助成)を決定した。

平和式典は、1955年からは、広島市が単独で主催するようになった。その後、60年のみ、県と共催で開催された。これは、県からの強い働きかけの結果であり、その経緯はつぎのようなものであった。
1960年1月21日、平塩五男広島県議会議長は、木野広島市議会議長に対し、8月6日に県・市合同の原爆死没者慰霊祭を開きたい旨の申し入れを行なった。そして、翌22日には、広島県・市両議会の正副議長名で、同様の声明を発表した(「中国新聞」60年1月23日)。2月17日、この慰霊祭について県・市、県・市両議会の4者代表者会議が持たれ、まず県議会側からつぎの説明がなされた。
①昨年12月の県会で、原爆15周年の県慰霊祭開催を決議している。
②できれば、県・市合同で開きたい。
③同慰霊祭には皇太子殿下[明仁親王、現天皇]をお招きするほか、岸首相、衆・参両院議長、各党党首の参列を求める。
④慰霊祭は全県民の祈りにふさわしく、8月6日の午前8時15分を中心に開きたい。

これに対し、市と市議会側は、「8月6日の平和記念式典は9年間の歴史的行事なので、8時15分は避けて開くことはできない。合同慰霊祭の趣旨には賛成だが、二つの集会の場所や時間的な問題を検討したうえで次回の会議で結論を出したい」と即答を避けた(「中国新聞」1960年2月18日)。
2回目の会合は2月26日に開かれ、4者の間で、(1)慰霊祭と平和記念式を共同主催で行なう、(2)開催時刻は原爆が投下された午前8時15分を中心に午前7時半ごろから同8時半までとし、平和記念公園(原爆死没者慰霊碑前を予定)で開く、(3)具体的な計画は四者の代表で準備委員会をつくってすすめる、との3点が確認された。3月28日には、準備委員会の構成と式典に皇太子を始め岸首相、衆参両院議長、各政党代表を招待することを決定した。5月8日の第1回準備委員会では、式典の正式名称を「原爆15周年慰霊式並びに平和記念式典」とすること、当日弔旗を掲げること、式典には政治的・思想的な団体の参加をいっさい認めず、静かに原爆犠牲者の冥福を祈る日とするなどの方針が決定された。その後、5月9日、大原知事による皇太子夫妻の参列要請、7月中旬、県議会3党(自民、社会、民社)派代表による党首参列折衝、県教委と県体協による原爆15周年平和記念総合体育大会および県内4コースからの線香リレーの具体化など、それまでの式典前にはみられなかった大規模な準備が進められた。

平和式典の原型

平和式典の原型

(1) 1952年の式典

1951年(昭和26年)9月9日、サンフランシスコで対日講和条約が調印され、翌52年4月28日発効した。これにより、占領下においてタブーとなっていたさまざまな動きが一気に噴き出すこととなった。51年10月19日、戦後初の広島県戦没者合同慰霊祭が広島県遺族厚生連盟により行われ、翌52年5月2日には、広島県主催の戦没者追悼式が開催された。東京の出版社は、51年10月『原爆の子-広島の少年少女のうったえ』(長田新編、岩波書店)、52年4月『原爆の図』(丸木位里・赤松俊子、青木文庫)、6月『原爆詩集』(峠三吉、青木文庫)、8月『原爆第一号 ヒロシマの写真記録』(海野彪、田島賢裕、朝日出版社)、『広島-戦争と都市』(岩波写真文庫)、9月『詩集原子雲の下より』(峠三吉編、青木文庫)など、原爆被害の実態を取り上げた書物をつぎつぎに出版した。また『アサヒグラフ』(52年8月6日号、「原爆被害の初公開」)、『改造』(52年11月増刊号、「この原爆禍」)といった雑誌が、原爆特集を行なった。

独立後初の平和式典は、平和記念公園内に新設された原爆死没者慰霊碑前広場で午前8時から1時間、つぎの式次で開催された。
開式の辞 (坂田助役)
慰霊碑除幕(戦災孤児5名)
広島市原爆死没者過去帳奉納(浜井市長)
焼香   (戦災孤児2名)
式辞 (永田市会議長)
平和の鐘、黙とう(午前8時15分)
平和宣言 (浜井市長)
放鳩
メッセージ朗読 吉田首相(代読:河野副知事)、岩本衆院副議長(代読:佐竹代議士)、三木参院副議長、英連邦軍呉基地司令官パットン代将、大原広島県知事(代読:河野副知事)、山中県会副議長
平和の歌合唱 (NHK広島放送局合唱団)
閉式の辞

式典には、前年同様、空からの参加が見られた。岩国基地駐留英連邦軍機が、山口県岩国渉外局長、毎日新聞記者ら6名を同乗させて式場上空を旋回し、三色の花輪をパラシュートに付けて投下、朝日新聞本社機「さちかぜ」も花束と同社村山会長のメッセージを投下した。また、NHKは、飛行機と地上を結ぶ二元放送による式典の実況放送を行ない、その途中で花束を投下した。

(2) 慰霊と平和
1947年(昭和22年)に始まった平和式典は、50年の中断はあったが、その後毎年開催された。初期の式典の名称は、広島市の文書や報道では、さまざまに表現されている。たとえば広島市の『市勢要覧』は、48年のものを「第2回平和祭」と呼んでおり、これによれば翌年のものは第3回に当たるはずであるが、「第4回平和祭」と表現している。こうした混乱は、46年の平和復興祭を平和式典の最初と考えるか、あるいは「第何回」という表現を「被爆何周年」の意味で使用したために起こったものである。91年の式典は、47年を第1回とすれば、44回目に当たるものであった。
式典の式次を、平和祭とそれ以後で比較すると、多くの共通点がある(後出「平和式典の式次第」参照)。しかし、式典の性格は、平和祭とそれ以後では大きく異なっている。平和祭の式典は、主催者により「平和運動」と意義づけられ、平和祭の諸行事の中で、広島市戦災死没者慰霊祭と並ぶ中心行事と位置づけられていた(『原爆市長』)。したがって、平和祭の式次には、慰霊の要素はみられず、平和宣言の中にも慰霊の言葉は含まれていない。ところが、1951年以降は、名称、式次、平和宣言それぞれに慰霊の要素が見られるようになった。特に、51年には、式次に「賛美歌合唱、献花、焼香、玉串礼拝」が加えられた一方で、平和宣言のかわりに市長の挨拶があったにとどまり、式典の雰囲気は慰霊祭に近いものであった。
1952年には、平和記念公園の中に原爆死没者慰霊碑(正式名称は広島平和都市記念碑)が建立され、式典をこの碑前で開催し、式典の中でこの慰霊碑に名簿を奉納するという形式が始まった。また、この年に復活した平和宣言には、「尊い精霊たちの前に誓う」という式典と原爆死没者との関係を示す言葉が盛り込まれた。これ以後、「慰霊」と「平和」という二つの性格を有する式典が開催されるようになった。

平和式典の会場-平和記念公園(市民の奉仕活動)

平和式典の会場-平和記念公園(市民の奉仕活動)

(3) 市民の奉仕活動

式典に備えての会場の清掃は、広島市の重要な業務であった。早い時期から市の幹部が先頭に立って実施することが慣例となっている。1965年(昭和40年)には7月31日に浜井広島市長始め市職員200人が、また、翌66年には8月1日に市職員500人からなる広島市都市美化推進本部(本部長:加藤政夫助役)が清掃を行なった。70年からは、7月5日にスタートした広島市の「シティ・クリーニング作戦」の一つとして清掃が行なわれるようになった。7月28日、山田広島市長を始め、市内38学区から約400人が集まって平和記念公園を清掃している。この時母体となったのは、広島市公衆衛生推進協議会(61年7月17日結成)で、これ以後、同協議会のメンバーと広島市の幹部職員とによる一斉清掃がなされるようになった。
平和記念日前に平和記念公園を清掃する人々の中には、さまざまな市民グループの姿も見られた。1953年8月5日には、戦災供養塔周辺を清掃する天理教信者など市民170人の姿があった。平和の灯奉賛会の人々は、64年に点灯して後、平和記念日前と年末に「平和の池」の清掃を実施している。また、69年からは、神崎小学校学区子供会が保護者とともに清掃奉仕活動を行なうようになった。このほかに、ローターアクトクラブ、金光教信者、安佐地区身体障害者連合会、共同石油広島支店社員、出光興産社員、西古谷子供会、老人クラブ、被爆者や遺族のグループなどが、一斉清掃に加わったり、独自に清掃作業を行なったことが、新聞報道により確認できる。
式典当日にも、多くの市民の協力が見られる。ボーイスカウト広島県連盟広島地区のメンバーは、、1968年に参道両側に花垣が設置されるまでは、式場中央に設けられる参道の警備に協力した。また、それ以後も、参列者が原爆死没者慰霊碑に供えるための花の手渡し(70年以降)や平和宣言パンフレットの配布(75年以降)を担当している。91年の式典では、400人のボーイスカウトが、式典会場での奉仕作業に参加した。広島茶業協同組合は、65年から会場での茶の接待を開始し、91年には、30人が1万杯の湯茶を提供した。また、広島市青年連合会も、68年以降、おしぼりの接待を行なっている。
広島花木地方卸売市場の株式会社「花満」は、「流れ献花」で使用される花100束を、この式次が1970年に採用されてから寄贈し続けている。また、同年には、市民一人一人が花一輪ずつを持参し、原爆死没者慰霊碑に供えようという「花一輪運動」が始まったが、広島県生花商組合は、花を持参しなかった参列者のために大量の花を寄贈している。91年には、キク、グラジオラス、ケイト、ユリ、バラなど17種類の花約2万本を寄贈した。
1954年から毎年、式典の中で大量の放鳩が行なわれている。この時使用される鳩は、各種の競翔団体から借り受けているが、91年には、広島中央競翔連合会、広島平和競翔連合会、山陽競翔連合会、日本伝書鳩協会(広島支部・広島北支部・呉支部)の提供によるものであった。

平和式典の会場-平和記念公園(設営)

平和式典の会場-平和記念公園(設営)

(2)
平和記念公園で初めて開催された1952年(昭和27年)の場合、式典会場には、わずかの椅子しか準備されておらず、大部分の人々は、座り込むか、立ったまま参列していた。64年以降、来賓や主催者以外の参列者への椅子席が設けられるようになった。64年に、遺族や老齢者のための椅子席が設けられ、その後、一般席(66年)、特別被爆者席(68年)、障害者席(81年)が設置された。椅子席の数は、新聞報道によれば、68年以後、約1万人分が設営されるようになっている。91年の場合、椅子席の合計は、1万2,945席で、その内訳は、特別来賓・主催者用480席、被爆者・遺族用3,000席、都道府県遺族代表用84席、認定被爆者用456席、身体障害者用54席、流れ献花者用96席、一般用8,775席であった。これらの椅子は、市内小中学校28校から借り集められた。
1991年の設営では、原爆死没者慰霊碑から広島平和記念資料館の間の広場のほぼ全面に椅子席が設けられた。しかし、それでも多くの参列者は、立ったまま参列しなければならなかった。この年の参列者は5万5,000人と発表されており、この年には、4万人以上が、式場周辺で立ったままの参列していたことになる。78年から、こうした参列者のために、式典モニターテレビが設置されるようになった。当初は、6台であったが、その後増設され、91年には16台が設置された。
このほか、合唱団・吹奏楽団用の山台の設置(1969年)、式台・鐘つき台の設置(70年)、献花台の設置(76年)などの改良が加えられた。また、70年に式典表示パネル「25周年広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が原爆資料館壁面に掲示され、75年からは、毎年掲示されるようになっている。