07 | 1990 | 大原亨 | おおはら・とおる | 74 | 元社会党代議士(広島選出)。党原爆対策特別委員会などを歴任。衆議院議員。 |
出典:『志あるところ必ず道あり』(大原亨追悼録・遺稿集発行編纂委員会、1991/08/06)
目次
大原亨 経歴 | ||
第1部I 社会保障の大原 | ||
第2部I 地元が語る政治家大原 | ||
第2部II 身近な人が語る大原像 | ||
第3部I 最後の論文 | ||
第3部II 国会における演説・質疑 |
07 | 1990 | 大原亨 | おおはら・とおる | 74 | 元社会党代議士(広島選出)。党原爆対策特別委員会などを歴任。衆議院議員。 |
出典:『志あるところ必ず道あり』(大原亨追悼録・遺稿集発行編纂委員会、1991/08/06)
目次
大原亨 経歴 | ||
第1部I 社会保障の大原 | ||
第2部I 地元が語る政治家大原 | ||
第2部II 身近な人が語る大原像 | ||
第3部I 最後の論文 | ||
第3部II 国会における演説・質疑 |
秦野裕子
没年月日 | 読み | 享年 | 備考 |
19920417 | はたの・ひろこ | 1952年生。1975年広島大学教育学部心理学科卒業後、原医研資料センターに勤務。広島大学事務官。職場の同僚。 |
『新研ニュース No.11』(中国新聞労組新研部、1984年3月21日刊)
遺稿
広島大学原爆原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センタ-の新聞切り抜きの現状と課題
広大原医研 秦野裕子
広島大学原医研原爆被災学術資料センタ-(以下、センター)の新聞切り抜きは、1967年頃から始められた。当初は、地元の中国新聞を中心に、被爆者問題についての主要記事をピックアップしておく程度の収集だった。1975年からは、中国・朝日・毎日・読売・長崎新聞の5紙を対象に、被爆者・被爆問題についての記事を網羅的に収集している。
原爆被爆以後、被爆者・被爆問題は、社会問題として、継続して報道されてきた。被爆者の個人情報から、国・地方自治体による被爆者対策、8月6日を中心にした慰霊行事、原爆ドームに代表される被爆遺跡問題、原爆をテーマにした映画・演劇などの文化活動、平和教育等々、様々な角度から取り上げられ、記事にされている。このような多岐にわたる
報道は、その「間口」の広さから、被爆問題を考えていく上での「入門書」としての役割を担うことができる。反面、新聞報道の性格上、その内容の詳細さなどの点では、いわゆる「第一次資料」には劣る。例えば、被爆者行政の当事者である国・県・市が作成する行政資料、あるいは原水禁団体が発行する原水禁大会資料などとは比較にならない。このようなことから、従来、新聞切り抜きの資料としての価値を低く評価する傾向があった。しかし、新聞記事は、それらの「第一次資料」の「索引」として有効に機能するものである。また、被爆問題は現在も進行中の社会問題であり、今なお日々新たに展開している。これらの新しい情報を得るには、新聞はまさに最適の情報源である。さらに、新聞は、報道記事にとどまらず、連載・企画記事として、「原爆・戦争・平和」について、夏場を中心に積極的に紙面に盛り込み、被爆問題についての世論喚起に大きな役割を果たしてきている。このように、新聞は、被爆問題を考えていく上で必要不可欠な資料である。
さて、広島市では資料センタ-以外にも、原爆問題に関心を持つ機関や図書館などで切り抜きを実施している機関がある。広島市平和文化センター・資料保存会・広島市中央図書館広島資料室・中国新聞社・放射線影響研究所・広島原爆障害対策協議会(原対協)などである。このうち、広島資料室は、1976年3月で収集を中止している。分類・保存については、資料保存会・広島資料室・放影研では内容別の分類はされておらず、切り抜き記事は日付順にスクラップブックに貼付されている。平和文化センター・中国新聞社・原対協では独自の分類表によって分類・整理している。対象にしている新聞は、資料保存会では中国・朝日の2紙、原対協では、各記事毎に、中国・朝日・毎日・読売のうちから適当な1紙を選び、採録するという方法をとっている。他機関では中・朝・毎・読と日経などを対象にしている。資料保存会・広島資料室では、個人が収集した新聞スクラップの寄贈を受け、それをもとに収集を開始している。しかし、これらの個人の資料は掲載紙名・日付などが不明のものが多く、資料としての有効性に欠ける。また、広島資料室以外の機関では、主として内部資料として収集・保存さ れており、一般利用者向けのレファレンスの態勢は整っていない。センターでも、切り抜き開始当時は内部資料として用いられていたが、1975年から系統的な収集が開始され、以来15年にも及ぶ収集によって、切り抜き資料の有用性は次第に高められており、外部からの利用も増加している。さらに、センターでは、切り抜き記事をもとに作成した「年表」を冊子にまとめ、広島市内外に配布するという情報サービスの態勢を整えている。また、後に紹介するように、被爆問題記事は地元のニュースとして、広島版に掲載されることが多い。新聞というマスメディアであっても、地方版となると、配布は県内・市内に限られており、他地域には届きにくい。各新聞社が発行している縮刷版でも、地方版は入手も困難である。このような観点から、センターでは、地元紙のほか朝日・毎日・読売から記事を収集している。加えて、同じ被爆地である長崎市の新聞も取り寄せ、長崎側の情報も収集し、より有用性の高い「資料」となることを目指している。広島市にある国立の機関として、被爆地であるという利点を最大限に生かして情報を細大漏らさず収集し、集まった情報を被爆地だけに閉じこめることのないよう に、他地域にも広く提供していきたい考えている。
以下に、センターの新聞切り抜き業務を紹介し、併せて、今後取り組むべき課題について整理してみようと思う。
-新聞切り抜き資料の紹介-
1.切り抜き資料の形態と分類
該当記事は、半年毎の切り抜き作業実施時にまとめて切り抜かれ、A4またはA3判の台紙に貼付される。台紙には切り抜き記事の掲載年月日・掲載紙名・分類番号が記入される。それらの切り抜きは、テーマによって分類され、バインダーにファイルされる。分類項目及び各項目の切り抜き枚数は、表1の通りである。
分類表は、切り抜き開始当初から便宜的に用いていた分類をもとに、中国新聞社などの分類表を参考に作成したものである。利用者にとって、捜したいテーマに沿って分類されていれば都合が良いが、そういう場合ばかりではない。例えば、昨年1990年韓国大統領の訪日とともに話題になった韓国人原爆犠牲者慰霊碑の記事は、分類表のⅡ-25「朝鮮人被爆者」ではなく、Ⅱ-73慰霊祭・碑に分類されている。また、同年8月に、広島市在住の朱碩氏が「被爆朝鮮人教師の戦後史-歳月よ!アリランよ!」を出版したが、それもⅡ-25ではなくⅡ-83「出版」に分類されている。このように切り抜き記事の多くのものは、複数の分類項目に関連しており、そのうちの1つに分類するのは、無理な面もある。担当者としては、分類に優先順位を付け、それに従っているのだが、利用者には不便で、利用しにくい場合も多いと思う。被爆問題の大きな流れを把握するのに役立つ分類を念頭に、作業を進めたいと考えている。また、6.「利用・検索について」の項で紹介するように、パソコンによる複数の分類番号の入力・検索で、これらの分類の欠点を克服するよう努力している。
2.バインダーを開いてみると・・・
センターの切り抜きに対して、具体的イメージを持っていただくため、バインダーを開いて紹介してみる。例として、Ⅱ-13「遺骨」のバインダーを開き、ファイルされた切り抜き記事の日付・紙名・記事見出しを列挙してみる。
・1990. 8.23 被爆者の遺骨千体眠る?旧陸中国 軍馬焼却炉跡見つかる 似島
・1990. 8.23 似島の元陸軍馬匹検疫所 被爆者1000人の遺骨なお?・・ 朝日 広島版
・1990. 8.23 似島の原爆犠牲者遺骨 45年ぶり発掘調査へ 広島市 読売
・1990. 8.23 旧陸軍の焼却炉跡発 被爆者の遺骨1000人分眠る? 長崎
・1990. 8.24 被爆者遺骨調査へ 似島の旧陸軍検疫所跡 毎日 広島版
・1990. 9. 1 原爆犠牲者を発掘 似島で7日から 読売 広島版
・1990. 9. 3 1000人の遺骨埋まる? 7日から発掘調査 似島の陸軍検疫所跡 中国 広島版
・1990. 9. 4 似島の検疫所跡地で遺骨発掘へ準備作業 朝日 広島版
・1990. 9. 7 被爆者1000人の遺骨に「光」 広島市似島で発掘調査 朝日
・1990. 9. 8 骨片など40点発掘 被爆者遺骨調査始まる 中国
このように、見出しを追っていくだけで、被爆から45年を経た1990年の時点でも、被爆問題は決して過去の出来事、解決済みの事ではないことが判る。いわゆる「戦争を知らない世代」の人々でも、被爆問題に取り組もうとすれば、これらの切り抜きの集積から「現在の問題」としてのテーマを見いだすことができる。また、上記の切抜き10件のうち5件は広島版に掲載されたものである。先にも述べたように、原爆問題は、地元のニュースとして、広島版に掲載されることが多い。
3.「被爆問題年表」の作成
センタ-では、新聞記事をもとに、1977年より「被爆問題年表」を作成している。1986年9月からはパソコンによるデータ・ベース化を行なっている。年表は図1のような形式で、M=月、D=日、NEWS=事項、CODE=分類番号、PAPER=掲載紙名・掲載月日がそれぞれ入力される。「年表」は、1月毎にまとめられ、センター発行の冊子「資料調査通信」に収録される。
4.「被爆問題年表」紹介
以下に、「資料調査通信」91号に掲載した今年1月の「被爆問題年表」の一部を紹介する。
1991年
1. 4 中国新聞社、広島都市圏住民意識調査結果を発表。それによると、被爆都市の行動として、46%が「核兵器廃絶の訴え」、37%が「被爆者の援護と被爆者援護法の制定」を指摘。
1. 4 米ネバダ州ラスベガスで、核実験禁止国際集会開催(20カ国の海外代表を含め約1500人参加)。7日からの国連本部での部分的核実験禁止条約改定会議に向けて開催。
1. 5 「広島文学資料 新収資料展」、広島市中央図書館で開催(20日まで)。丸木俊の鉛筆画「峠三吉像」・峠三吉の詩「8月6日」などを展示。
1. 6 「中曽根句碑はいらない!広島連絡協議会」代表者会議、広島市で開催。句碑の撤去を求める署名が1万人に達したことなどを報告。
1. 7 朝日新聞社など、チェルノブイリ原発事故の被災者救援のため「朝日チェルノブイリ救援募金」を開始。被災者の受け入れには、広島県・市、広大原医研などが協力。
1. 8 韓国原爆被害者協会の辛泳洙会長、海部首相の訪韓に関連して声明を発表。日本政府が在韓被爆者援護のための拠出金40億円を一括無条件で支払うよう要求。
1. 9 北海道の江川善次教諭ら、来広し、平和教材作成のため取材を開始。「ヒロシマを語る会」の被爆者原広司の案内で原爆資料館などを見学。
1. 9 広島・長崎両市長、国連の部分的核実験禁止条約改定会議で、世界平和連帯都市市長会議の代表として発言。広島市長、自らの被爆体験を紹介し、核実験の全面禁止を訴え。
1.10 原爆被害者相談所、被爆者手帳交付申請のための被爆証人捜しの1人を公表。
1.10 長崎市長、米ワシントン市のホワイトハウスを訪れ、大統領の長崎訪問を文書で要請。
1.10 日本被団協、米とイラクの外相会談が不調に終ったのを受け、「武力行使はヒロシマ・ナガサキの悲劇につながり絶対反対」との電報を米・イラクなどに打つよう、全都道府県の被団協に要請。
1.10 原水禁国民会議、米・イラク外相会談が不調に終ったのを受け、「広島・長崎に原爆を投下した時と同じ論理が見える」と米を批判する緊急アピールを発表。
1.- 長崎市、北米在住被爆者を対象に実施している渡日治療を、南米在住被爆者にも実施する方針を決定。3月に1人を招請の予定。
以上、少し長くなったが、1991年1月10日までの事項の一部を紹介した。数の多さに驚かれたのではないだろうか。原水禁・平和運動、原爆文学、韓国人被爆者問題、平和教育、被爆証人捜し、平和都市、在米被爆者問題など、多岐にわたる事象が今なお生起している。また、記憶に新しい「湾岸戦争」を懸念する被爆地からの動きや、チェルノブイリ原発のヒバクシャに対するヒロシマからの救済活動など、従来の「被爆問題」の枠を越えた新たな展開も見られる。月別の事項の件数は表2に示した通りである。それによると、1986-1990年の5年間で、年間2000件前後の事項を採録している。このうち、慰霊行事・原水禁大会などが開催される7・8月の合計が、年間の約三分の一を占めている。
5.社説・投書等
社説・投書、コラム、連載記事についても「年表」と同様に、データ・ベース化を実施している。社説・投書・連載については一年分をまとめて「資料調査通信」で紹介している。社説・連載については中国・朝日・毎日・読売・長崎新聞の他、政党紙(自由新報・社会新報・週間民社・公明新聞・赤旗)についても調査し、公明・赤旗については必要記事を切り抜き・保存し、それ以外のものは原紙で保存している。さらに、広島・長崎以外の地域での「原爆報道」について探るため、1986年より国会図書館所蔵の全国主要地方紙50紙を対象に、7.8月掲載の社説・連載の調査を実施している。1986-1990年に掲載された連載記事の件数は表3に示す通りである。
6.利用・検索について
以上、紹介してきたように、資料センタ-の新聞切り抜きは、切り抜きファイルとパソコン入力データの二本立てで整理されている。ある特定のテーマについて調べる場合はファイルの利用が適しており、「年表」では時系列を追って被爆問題全般について概観できる。また、入力データでは、パソコン機能を利用した検索ができる。「年表」の事項には、3つの分類番号が与えられており、実際の切り抜きファイルへの分類は第1番目の分類番号によって分類されているが、パソコンでは第2番目、3番目の分類番号の事項も検索できる。また、事項の中に含まれる単語=キイワードでの検索もできる。複数のキイワードの組合せ、あるいは分類番号とキイワードとの組合せも可能である。例えば、Ⅱ-102「映画・演劇」とキイワード「黒い雨」を組み合わせると、映画「黒い雨」に関する事項を検索できる。このようにパソコン機能を利用すれば、従来のテーマ別分類の欠陥を補うことができる。但し、それらの事項を掲載した切り抜き記事を見ようとすれば、第1番目の分類番号と、年月日によって、切り抜きファイルから捜し出さねばならない。第2・3分類で検索した場合、あるいは分類番号と キイワードの組合せなどで検索した場合には、必ずしも同一分類番号のファイルに分類されていないこともあるので、現状では実際の記事を捜し出す作業が煩雑になるという欠点がある。
7.「資料調査通信」について
「資料調査通信」は1981年8月に創刊され、センターで受け入れた文献・図書資料と、「被爆問題年表」を中心に紹介している。新聞関係では、先に紹介した社説・投書、連載記事の他に、新聞記事ならではの今日的な話題を取り上げて、「トピック」として紹介している。例えば、「国連軍縮週間」(1981年10月号掲載)・「『老人保健法』と原爆医療法」(1981年12月号)・「反核・軍縮の決議・意見書・宣言を採択した途方議会一覧」(1882年3月号)・「ビキニ被災30周年-新聞記事によるビキニデーの変遷」(1984年3月号-5月号)・「厚生省の被爆者実態調査結果の報道」(1987年5月号)・「新聞記事による被爆韓国人・朝鮮人問題年表」(1990年2・3・4月号-7月号)などである。「通信」は、原則として毎月発行され、広島市内・外の120余の関係機関・個人に送付している。
-今後の課題-
1.資料整理に関して
「被爆問題年表」のパソコン入力は、1982年まで完了している。さらに、1977-1981年(「年表」は作成済み)については逐次入力していく予定である。1976年以前については、「年表」の作成から取り組まねばならない。センター所蔵の1967-1976年分の切り抜き枚数は約1万枚に上り、これらを年表化していく作業はかなりの人手と時間を要することから、現在まだ未着手の状態である。しかし、現在の資料を生かすためにも、今後はさらに過去にさかのぼって資料を整理していくことが大きな課題である。
次にそれらの資料の検索システムについても改善の余地がある。6.「利用・検索について」の項で言及したように、現在のシステムでは、入力デ-タと切り抜きファイルが必ずしもスムーズに対応しない場合がある。これに関しては、現在開発の進んでいる光ディスクの利用で、かなりの改善が期待できる。光ディスクに限らず、飛躍的に進歩している情報管理システムに対して、迅速に対応していく態勢を整えることも大きな課題として挙げられる。
また、切り抜きファイルは新聞記事を切り抜き、台紙に貼付したもので、台紙で補強しているため強度の面では現在にところ、十分使用に耐え得る。しかし、新聞紙は劣悪な紙質の再生紙であることから、長期にわたる保存は難しい。従って、将来的には切り抜きのマイクロ・フィルム化などの対策が必要となってくる。
2.利用面での改善
資料センタ-では、これまでのところ、一般の図書館のようなレファレンスやコピーサービスといったサービスシステムが確立されていないという状態であった。しかし、センターの設立の当たっては、被爆者・市民らの「広島に原爆被災の資料センタ-を」との世論が大きな役割を果たしたという経緯があり、センターとしては、これらの被爆者・市民の声に積極的に応えて行かねばならない立場にある。また、被爆問題の社会性という側面から、センター所蔵の資料は、大学内だけでなく、広く一般に活用されるものである。現在でも、6月から8月にかけて、マスコミ関係者、一般の研究者・学生など多数に利用されているが、今後はさらに、被爆地からの情報発信の場として、資料閲覧スペースの整備、コピーサービス・システムの確立などが望まれる。また、入力データについて、パソコンネットワークを利用すれば、より広範囲に手軽に情報の提供が行えることになる。このような機器の導入も併せて検討している。
[中略]
原爆遺跡年表
(原爆ドーム)
58 06 - 広島市が総理府などに依頼した観光診断の報告書がまとまる。それによると、原爆ドームは永久保存すべきと言明。
60 12 01 日本原水協主催の「原水爆禁止、被爆者激励大会」で、広島県・市原水協が原爆ドーム取り壊し反対の緊急動議を提出し、満場一致で採択。
60 12 02 日本原水協代表、原爆ドーム保存を広島市に要請。
61 08 - 建築学の京大名誉教授近藤泰夫、原爆ドームについて緊急に調査・補強工事をすべきであると警告。
63 10 - 広島商工会議所、同会議所新築工事に伴う原爆ドームへの影響調査を広大工学部に依頼。
64 04 11 広島市、原爆ドームが風化現象によって自然崩壊の危険が強いと、ドーム西側の民家1戸に立ち退きを指示。
64 06 - 丹下健三東大工学部教授、来広し、原爆ドームの保存策を考えて欲しいとコメント。
64 07 13 映画監督市川昆ら、東京オリンピックの記録映画撮影のため来広。国内でのトップシーンに原爆ドームを使うことを計画。
64 07 21 原爆ドームの存廃をテーマにしたラジオドラマ「ドームの歌」(NHK広島放送局製作)、放送。
64 12 22 社会・共産党系など11の平和団体代表、浜井広島市長に原爆ドームの永久保存を要請(分裂以来初の共同行動)。市長、保存の意向を表明。
64 44 26 広島市原水協、原爆ドームを永久保存すべきとの方針を決定。
65 01 01 広島折鶴の会、原爆ドーム保存募金運動を開始(15日まで)。
65 01 06 広島折鶴の会、原爆ドーム保存募金と署名簿を広島市長に提出。
65 02 11 広島市、原爆ドーム保存調査費100万円を計上。
65 03 29 京大名誉教授近藤泰夫、広島市長に、原爆ドーム保存を要請する要望書を提出。要望書は湯川秀樹ら8人の連名。
65 07 02 広島市、広大工学部に依頼して原爆ドームの基礎調査を実施。
65 08 06 テレビ番組「現代の映像“ドームの20年”」(NHK)、放送。
65 09 - ソ連の子供たちから、原爆ドーム保存を訴える手紙が広島市長に届く。
65 11 15 広大工学部佐藤重夫教授、原爆ドームは補強すれば保存できるとの中間報告を発表。
66 07 11 広島市議会、「原爆ドーム保存の要望」を満場一致で決議。
66 07 20 「原爆資料保存会」、広島市に、原爆ドーム保存募金約7万円を寄贈。
66 07 24 広島市被団協(田辺勝理事長)、広島市での被爆者集会で、原爆ドームは市費で永久保存の方策をとるよう要求する方針を決定。
66 07 - 広島市、原爆ドームを一般からの募金で保存することを検討中。
66 08 01 広島市、原爆ドームを保存し、工事費4000万円を募金でまかなうことを決定。6 08 02 高梁市の老人グループ、中国新聞社に原爆ドーム保存募金を寄託。
66 08 06 広島市、「原爆ドーム保存の訴え」を発表し、募金活動を開始。原爆ドーム保存募金事務局を設置。
66 08 16 広島市議会の共産党議員団、原爆ドームを市費で保存するよう広島市に申し入れ。
66 08 17 広島市長、市議会各派代表者会議で、原爆ドームの保存募金を決めた経緯について説明。
66 08 17 広島市議会で、市が決めた原爆ドーム保存募金について、議会側に説明がなかったなどの批判が続出。このため募金要領なども未定のまま。
66 08 22 女優吉永小百合ら、広島市に原爆ドーム保存募金を寄贈。
66 08 - 「広島折鶴の会」、東京で開催中の総評定期大会に、原爆ドーム保存募金に協力を要請するメッセージを送付。
66 08 - 広島市の原爆ドーム保存事務局の体制が整わず、募金体制が足踏み。
66 09 - 9月広島市議会で、原爆ドーム保存募金問題について論議されず、募金活動進まず。
66 10 06 広島市議会の各派代表者会議で、原爆ドーム保存募金に対する結論持ち越し。
66 10 17 インドの国際法学者パール博士からの原爆ドーム保存募金が、広島市に届く。
66 10 21 広島市長、11月1日から原爆ドーム保存募金を実施すると発表。
66 10 28 広島市議会、原爆ドームを文化財保護法による国の史跡指定を受け、永久に保存する運動を進めることを決議。
66 10 - 広島市、原爆ドーム保存募金への協力を呼びかける英文の趣意書を、国内に先立ち、26カ国に発送。
66 10 - 原爆ドーム保存募金として103件・86万円余が寄せられる。
66 11 01 広島市の原爆ドーム保存募金、開始。67年2月末まで、目標額4000万円。
66 11 05 総評、原爆ドーム保存募金について、広島市長らと協議。1000万円の募金を約束。
66 11 07 実践倫理宏正会、原爆ドーム保存募金に100万円を寄付。
66 11 11 原爆ドーム保存の街頭募金スタンド、市役所など4ヵ所に設置。
66 11 13 原水禁国民会議の代表、インドでの「戦争の危険に反対する国際会議」で原爆ドーム保存募金への協力を呼びかけ。
66 11 14 自民党県連、原爆ドーム保存募金に10万円を寄付。自民党県議団48人も一人1000円ずつ募金。
66 11 21 米のヒロシマ・ピースセンター協力会から、原爆ドーム保存募金18万円が届く。海外からの募金第一号。
66 11 22 世界平和アピール七人委員会、建設相に原爆ドーム保存募金への政府の協力を要請。
66 11 25 広島市で開催中の世界連邦西日本大会で、原爆ドーム保存募金への協力を付帯決議。
66 11 25 呉市の呉港高校生徒会、原爆ドーム保存募金に協力。この他、油木町の中学生、呉商業高校生徒、賀茂郡入野中学校生徒・島根県大和中学校生徒、船越小学校生徒、安佐郡原小学校生徒、尾道工業高校、三原東高校生徒らも協力。
66 11 28 広島市、自民・社会・民社・公明等150団体を招いて、原爆ドーム保存募金の趣旨説明をし、協力を要請。
66 12 03 日本原水協、原爆ドーム保存募金運動に積極的に参加することを決定。
66 12 06 日本原水協代表、広島市長に、原爆ドーム保存募金運動への協力を申し入れ。
66 12 09 社会党、党大会で、原爆ドーム保存決議を満場一致で採択。
66 12 19 中国新聞社、原爆ドーム保存募金に金一封を寄付。
66 12 - 原爆ドーム保存募金に、497件500万円余が寄せられる。
66 12 - 広島市、国からの公園整備補助を断念し、原爆ドーム保存の補修費を、全額募金で集めることを決定。
67 01 27 中国国税職員組合、原爆ドーム保存募金に寄金(約9万円)。
67 01 30 広島市長ら、原爆ドーム保存の街頭募金を実施(1時間で約3万円)。
67 01 - 元NHK会長、英紙タイムズに、原爆ドーム保存募金への協力を要請。
67 02 13 広島市長、上京し、平和アピール7人委員会に、ドーム保存募金への協力を再要請。
67 02 19 広島市のボーイスカウト・被爆者団体など(130人)、ドーム保存の街頭募金を実施(23万円余)。広島市長も参加。
67 02 25 島根大学平和委員会など、ドーム保存の街頭募金を実施。
67 02 25 広島市長、上京し、都内で、ドーム保存の街頭募金を実施(27日まで)。43万円余が集まる。
67 02 26 ドーム保存募金、2000件、1300万円。
67 02 27 広島市、2月末で終了する予定だったドーム保存募金を、目標額の4000万円が集まるまで延期することを決定。
67 02 28 広島市、ドーム保存募金を集計。2680件、1666万円余。
67 02 - 東京都の会社員、ドーム保存のための社内募金を実施 。
67 02 - 社会奉仕グループ「広島国際青少年協会」、ドーム保存の街頭募金を毎日実施(3月2日までで、募金額90万円を越える)。
67 02 - ドーム保存募金、低調。2月末までの目標額4000万円に対して、現在高は1000件、800万円。
67 02 - 原爆ドーム保存募金に、連日100万円以上の寄付が届く。
67 03 02 広島県婦協、ドーム募金65万円を広島市に寄付。この他、国泰寺高校・高田郡の老人クラブ・安佐郡の児玉病院などからも寄付。
67 03 03 広島市、市議会に、原爆ドーム保存第一期分補強工事費3000万円を追加提案。
67 03 03 広島市、原爆ドーム保存のための第一期補強工事費3000万円を広島市議会に提案。
67 03 05 尾道ロータリークラブ会長、ドーム保存募金に10万円を寄付。
67 03 05 府中市の青年ら、同市内で、ドーム保存の街頭募金を実施。
67 03 06 原爆ドーム保存募金、3000万円を突破。
67 03 08 広島県知事、県議会で、ドーム保存募金に対して、募金運動の成功を念願するとの態度を表明。積極的関与の考えは無し。
67 03 08 岩国市東小学校生徒ら、ドーム保存募金に寄付。この他、賀茂郡の酒造会社・御調中学校生徒・三次市十日市小学校生徒・竹原市竹原中学校生徒・山県郡の殿賀小学校生徒・世羅郡の西大田中学校生徒・賀茂郡の高屋中学校生徒らも。
67 03 09 広島市、ドーム保存の補強工事を前に、接着剤の注入テストを実施。建設省建築研究所部長ら、視察。
67 03 11 テレビタレント永井智雄ら、東京で、ドーム保存の街頭募金を実施(4万6千円余)。
67 03 12 広島県原水協・県被団協など、平和記念公園で、ドーム保存の街頭募金を実施(1万7千円)。
67 03 13 原爆ドーム募金、目標の4000万円を達成。14日、募金を終了。
67 03 14 浜井広島市長、原爆ドーム募金が目標の4000万円に達したので募金を終了すると発表(7364件、4025万円)。
67 03 - 松江市、原爆ドーム保存募金に協力し、市民に一人一円募金を呼びかけ。
67 03 - 国会議員の一部、原爆ドーム保存募金に協力することを決定。
67 08 05 原爆ドーム保存工事、完成し、完工式開催(山田広島市長ら約500人参加)。
67 08 05 広島市の原爆ドーム補強工事の完成式、開催(山田広島市長ら、約500人参列)。全国からの募金額は668万円(目標額4000万円)。
68 12 02 広島市、原爆ドーム保存募金運動の母体となった「原爆ドーム保存協力会」(会長、山本広島商工会議所会頭)を解散することを決定。
70 04 05 原爆ドームの設計者である故ヤン・レツルの血縁者から、ドームの写真を送ってほしいとの手紙が広島折鶴の会に届く。
72 08 - 広島市の藤本為吉、原爆ドームの噴水口の人面像を保管。
75 08 05 原爆ドーム(旧産業奨励館)、建設以来60年を迎える。85 07 - 岡山大学近藤義郎教授、原爆ドームを国の史跡として保存するよう呼びかけ。
86 02 - 日本考古学協会、原爆ドームを国の特別史跡に指定するよう求める運動を開始。100団体に賛同署名を求める文書を送付。
86 03 08 広島折り鶴の会、日本考古学協会の原爆ドームの特別史跡指定運動に呼応して、広島市で署名運動を開始。
87 01 22 広島市、原爆ドームを20年ぶりに補修することを決定。
87 07 11 「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」、原爆ドームの保存調査を開始。
87 11 04 「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」、一部補修の必要があるとの調査結果を発表。
88 01 20 「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」、原爆ドーム補修工事の工法などを決定。
88 03 - 外務省、日本が批准の準備をしている「世界の文化遺産・自然遺産保護条約保護条約」の指定遺産として原爆ドームを検討中。
88 08 - 「広島折鶴の会」、原爆ドームの設計者ヤン・レツルのめいに被爆写真集などを寄贈。
88 10 06 広島市、1989年秋に原爆ドーム補修工事を実施することを決定。補修費用を全国募金で調達することを検討中。
(原爆遺跡)
69 01 17 広島市の堀川町の久保田本店の煙突、取り壊し工事、開始。煙突上部は広島平和記念資料館に保存。
69 03 - 広島市の「縮景園」に薬草園、開園。被爆したエノキも同園で保存。
70 06 - 広島市教委、基町地区の再開発で破壊される恐れのある旧陸軍輜重隊倉庫・陸軍病院門柱などを、保存するよう広島市に要請。
71 01 25 広島市の住友銀行広島支店、老朽化で取り壊し工事を開始。同支店の「死の人影」は、切り取られて広島平和記念資料館に移設。
71 12 - 広島市基町で、旧護国神社の鳥居の礎石の1つを発見。
72 02 - 広島郵政局局舎(昭和8年建設、広島市東白島町)、建て替えの検討を開始。
72 09 - 旧被服支廠(出汐町)の赤レンガべい、原爆資料館に移設。
73 03 13 御幸橋(昭和5年建設)、取り壊し工事開始。
73 03 - 常盤橋(昭和2年建設)、取り壊し工事開始。
73 04 - 中国郵政局の建て替えで、同局の被爆アオギリ、広島平和記念公園に移植。
73 05 11 相生橋(昭和7年建設)の架け替え、決定。
73 07 30 元安橋、欄干の親柱・石灯ろうなどが欠落したまま放置される。
74 02 - 山陽記念館(昭和9年建設)、荒れ放題のまま放置され、改築の見通しも立たず。
74 07 - 旧燃料会館(大正年間に建設、中島町平和記念公園内)、老朽化のため取り壊しが決定。
76 01 - 旧陸軍被服倉庫、周辺住宅の除去で全容を現し、存廃についての論議が始まる。
76 04 30 基町住民による「基町明治会」、旧陸軍被服倉庫と柳の木の保存を、広島市に要請。
76 06 23 広島市、旧陸軍被服倉庫の保存問題について検討を開始。
76 06 - 広島県被団協(森滝市郎理事長)、旧陸軍被服倉庫の保存運動に乗り出すことを決定。
76 07 - 映画監督楠木徳男ら、旧陸軍被服倉庫を記録する映画の撮影を開始。
76 09 - 広島市、市営アパート建設の計画を練り直し、基町大クスの木の保存を決定。
76 09 - 広島逓信病院の旧病棟(昭和10年建設、東白島町)の取り壊し、開始。
77 01 13 広島市、旧陸軍被服倉庫の撤去を決定。「被爆当時と外形が異なり被爆の惨状を残す建物としての保存は適当でない」との見解。
77 04 - 広島城公園のユーカリ(樹齢80年)、異常寒波で葉枯れ。
77 08 06 舟入公園の老松3本(樹齢60ー70年)、護岸工事のため切り倒し。
77 10 12 相生橋の架け買え工事、開始。
77 11 - 広島市、相生橋の親柱を保存することを決定。
78 07 - 広島地方貯金局、移転に伴い、取り壊しが確定。
78 04 - 広島市役所本庁舎外壁のケロイドの塗り替え工事、開始。
79 04 - 広島市、原爆遺跡選定会議を設置。
78 06 01 旧陸軍被服倉庫の取り壊し、開始。
79 01 - 広島市基町太田川沿いの大エノキ(樹齢約100年)、河川改修工事のため切り倒し。一部は原爆資料館で保存。
79 06 - 広島市立基町小学校児童ら、基町本川沿いのエノキの保存運動を開始。
79 09 17 広島市の「原爆遺跡選定会議」、初会合(原田東岷・庄野直美ら市民代表14人出席)。
79 10 16 広島市の原爆遺跡選定会議、原爆遺跡説明板設置予定地7ヵ所を選定(島病院・広島駅・万代橋・御幸橋など)。
80 01 - 旧被服廠(出汐町)の保存検討中。
80 01 28 原爆遺跡選定会議、「原爆遺跡」として説明板を設する10ヵ所を最終決定(島病院・旧革屋町・広島駅・元安橋・旧中国軍管区司令部・広島赤十字病院・広島大学本部・袋町小学校・原爆ドーム・市役所)。
80 06 10 広島市、架け替え工事中の相生橋のデザイン募集を開始(130点が応募、一席作品は該当無し)。
80 08 08 広島市が、似島に、レクリエーション施設を建設する計画を進めていることが判明。
80 08 20 広島県原水協、広島市に、似島の原爆遺跡保存を要望。
80 09 - 自治体問題研究所・広島研究会、広島市の似島へのレクリエーション施設建設計画について批判。
80 09 - 相生橋の記録映画「生まれ変わる相生橋」(中国地方建設局製作)、完成。
80 09 05 公明党広島県本部など、広島市の似島へのレクリエーション施設建設計画に対して、充分な事前調査を広島市に要望。
80 09 09 社会党広島市議団など、似島のレクリエーション施設建設予定地を視察。
80 09 15 平和を語る青年の集い、似島の原爆遺跡などを見学。
80 12 02 広島市、市役所本庁舎の建て替え計画で、新庁舎のデザインをコンペ方式で採用することを決定。
81 01 27 広島市、「原爆被災説明板」第1号を設置し、原爆ドーム前で除幕式(広島市長ら約50人参加)。
81 04 23 広島市、新庁舎の入選設計を決定。原爆遺跡として玄関石段などを保存することを決定。
81 06 25 新庄の宮神社のクスノキの枝、切り落とし。
81 07 25 旧相生橋の橋げたの一部、被爆資料として広島原爆資料館で展示。
81 11 20 広島市、原爆被災説明板を新たに10ヵ所設置することを決定(1980年に続く第2弾)。
81 11 21 元安橋の欄干の一部、元安川左岸で36年ぶりに発掘。
81 12 28 万代橋の架け替え工事、終了。旧橋の親柱を橋のたもとに保存。
81 12 19 相生橋の新橋のデザイン、決定。
82 01 - 袋町小学校の校舎(大正11年建設)の壁の塗り替え、実施。
82 02 - フコク生命ビル(昭和11年建設)の取り壊し、開始。
82 04 - 旧広島中電話局の庁舎(昭和3年建設)の取り壊し、開始。電通遺族会、被爆タイルの保存・慰霊碑建立などを要望。
82 05 - 広島市の矢野公民館、旧広島中電話局の被爆タイルを用いて平和教育活動を計画。中国電通局・電通遺族会も協力。
82 06 23 中国電通局、旧広島中電話局の跡地に、被爆タイルを用いて慰霊碑を建立することを決定。
82 07 08 旧広島中電話局の被爆タイル、広島原爆資料館に寄贈される。
82 08 04 相生橋の平和記念公園に通じる連絡橋の架け替え工事が終了し、開通。
82 09 - 広島市、旧陸軍糧秣支廠(明治44年建設、宇品)を郷土資料館として保存することを決定。
82 09 11 広島市教委、解体修理中の広島東照宮(1648年建立、二葉の里)について、市民向け説明会を開催。
82 09 18 「似島平和遺跡を保存する会」、似島の原爆遺跡の保存などを広島市に要望。
83 02 03 広島市の新庁舎建設に伴い、庁舎の取り壊し作業開始。
83 08 20 旧陸軍糧秣支廠の改修工事、開始。
83 09 - 牛田浄水場の予備ポンプ室(大正13年建設)が、「水道資料館」として保存されることが決定。
83 11 02 相生橋の架け替え工事、終了し、完成式開催(約400人参加)。
83 10 - 山陰合同銀行広島支店(昭和11年建設、立町)、老朽化のため取り壊し決定。
83 10 26 横川橋(大正12年架橋)の架け替え工事、開始。
84 03 - 旧相生橋の親柱、平和記念公園内に復元し、説明板を設置。
84 10 - 広島市役所の桜の木、新庁舎完成後も現在の場所に残されることが決定。。
84 05 17 御幸橋(昭和6年建設)の架け替え工事、開催。
84 04 - 工兵橋(明治22年建設)の改修、決定。
84 05 - 広島県、旧広島県港湾事務所の保存問題について検討中。
84 08 - 原爆資料館、被爆樹木の選定・保存方法の検討などを開始。
84 08 - 広島市中区役所、被爆樹木についての情報収集に協力を呼びかけ。
84 08 21 基町の被爆エノキ(旧第二陸軍病院跡地)、台風で倒壊。同エノキは、基町小学校生徒らが平和学習の一環として保存運動を推進。
84 08 24 広島市、台風で折れた基町のエノキの保存作業を開始 。折れた幹は平和教育教材・研究資料として提供。
84 09 03 安田女子高校生徒ら、広島城内の被爆ユーカリの保存策を求める要望書を広島市に提出。
84 09 - 鶴見橋のヤナギ(樹齢約120年)、台風で亀裂が入り南区役所が保護作業を実施。
84 09 - 広島県高校生平和ゼミナール、台風で倒れたエノキの枝などを全国の平和資料館などに送付。
84 09 - 大阪府の小学生から、台風で倒れたエノキを見舞う手紙が届く。同小学生らは、5月に修学旅行でエノキを囲んで平和学習。
84 12 20 中国電力本店2号館(昭和4年建設、小町)、老朽化ため取り壊し開始。
84 10 - 広島市中区役所へ、被爆樹木26本の情報が寄せられる。
84 10 - 被爆翌年に広島城跡にあった被爆ヒイラギが、大竹市で保存されていることが判明。
84 12 04 広島県被団協(佐久間澄理事長)など、被爆遺跡である現庁舎を保存するよう求める陳情書を提出。
85 01 25 広島市役所の本庁舎の取り壊し、決定。
85 01 26 広島県原水協など、広島市役所本庁舎の取り壊し決定に対して、広島市に抗議。
85 02 - 広島市平和文化センター、被爆建物の写真撮影作業を実施中。
85 03 - 広島市役所の被爆桜、新庁舎の建設に伴い移設され、残された1本が開花。
85 05 11 旧陸軍糧秣支廠を改造した広島市郷土資料館、完成し開館。
85 04 30 広島市議会、現本庁舎の部分的な保存方法を検討する協議会を発足させることを決定。
85 05 16 広島市役所の新庁舎、完成し、定礎式開催。
85 05 16 広島市、旧庁舎の一部を平和学習教材として全国の小・中学校に寄贈することを決定。
85 05 20 広島市原水協、新本庁舎の定礎箱に被爆資料を入れることや、現庁舎の保存などを要望。
85 05 - 広島市立基町小学校生徒ら、1984年に台風で倒れた被爆エノキの新芽を確認。
85 05 28 広島市、旧慈仙寺の墓石に、「原爆遺跡」であることを示す説明板を設置。
85 06 - 広島東照宮の石積みに、被爆経緯を記した「原爆誌」が設置される。
85 06 12 広島市議会の庁舎検討委員会、初会合。
85 07 - 広島市役所の桜、新庁舎建設のため、一時移転。
85 07 21 広島市役所本庁舎親子スケッチ大会、開催(「市庁舎を保存させる会」主催、約80人参加)。
85 08 15 広島市議会の旧庁舎検討協議会、旧庁舎を取り壊し、正面玄関の石段と地下室の一部のみを保存することを決定。
85 08 19 千葉県我孫子市被爆者の会代表、広島市役所旧庁舎の被爆敷石を展示するため、広島市に譲渡を申し入れ。(兵庫県美方郡なども申し入れ。)
85 08 - 広島電鉄、被爆電車156号を全面修理し、動態保存する方針を決定。
85 08 30 広島市、旧本庁舎の壁の一部を切取り保存・展示することを決定。
85 10 07 広島市役所旧本庁舎の解体工事、開始。
85 09 - 広島地方気象台の移転に伴い、気象台本館の保存を求める声が高まり、陳情・署名運動など開始。
85 11 09 横川橋の架け替え工事、終了し、開通式開催(広島市長ら450人出席)。
85 11 28 広島市役所旧庁舎の敷石、我孫子市の被爆者団体と兵庫県美方郡温泉町などに寄贈。(このほかにも、譲渡の申し出が相次ぐ。)
85 12 10 広島市、市役所新庁舎の玄関前広場の整備計画を決定 。旧庁舎の地下室を被爆資料展示室とすることなどを計画。
86 07 02 構内整備のため、倉掛小学校に一時移植していた広島市役所の被爆桜、同構内に植え戻し。同小学校には被爆桜の苗木を寄贈。
86 05 06 工兵橋の改修工事、終了し、開通。
86 09 11 御幸橋の取り壊し作業、開始。広島市、親柱と飾り柱の保存を決定。
86 10 - 「中区の文化を考える会」日本銀行広島支店を保存し、文学館などに利用するよう求める運動を開始。
86 11 - 「頼山陽先生遺蹟顕彰会」、頼山陽記念館を復元することを決定。
86 11 - 比治山のクロマツ(樹齢約300年)、枯死。
86 12 27 御幸橋の被爆石、東京都葛飾区に寄贈され、平和モニュメントにされることが決定。
87 01 - 広島市、広島気象台を「気象資料館」保存することを決定。
87 02 - 広島市、元安橋の架け替えを計画。
87 04 - 広島市役所の被爆桜、移植後初めて市役所構内で開花。
87 04 08 旧広島文理大の被爆タイル壁、説明板を付けて広大理学部正面玄関に設置。
87 04 25 旧中国逓信局のアオギリ(1973年に平和記念公園に植え替え)の枝が折られているのが発見される。
87 06 11 広島市立本川小学校の東側校舎(昭和3年建設)の解体工事、開始。校舎の一部を保存し、「平和資料室」として利用する計画。
87 06 - 広島市、旧燃料会館(現在の平和記念公園レストハウス)の建て替えを検討中。
87 06 27 旧逓信局のアオギリが、枯死寸前であることが判明。
87 08 - 広島逓信病院の庭で被爆したヒマラヤ杉、健在。
87 08 - 広島城跡発掘調査で、被爆の跡を残す礎石などを発見。
87 09 21 広島市、広島地方気象台の被爆庁舎の保存について検討する委員会を開催。
87 12 - 国前寺本堂・庫裏(1656年建立)、広島市の重要文化財に指定される。
87 12 - 広島地方気象台、新庁舎へ移転。現庁舎は気象資料館として利用することを計画。
88 03 - 旧中国逓信局で被爆したアオギリの二世作り、広島市植物公園で実施。
88 09 28 広島銀行銀山町支店(昭和12年建設)、建て替えのため解体作業を開始。
88 04 - 旧広島市庁舎の被爆石、1989年にオープンする市現代美術館の玄関前広場に敷設。
88 04 - 広島市平和記念公園の被爆アオギリ、広島県の「花と木の百選」に選定される。
88 05 - 広島駅構内のこ線橋(大正14年建設)が被爆遺跡であることが判明。
88 06 - 鶴見橋の被爆ヤナギ、同橋の架け替えのため一時移植される。
88 09 - 日本銀行広島支店の移転、決定。
88 05 - 基町の被爆エノキ、新芽が出ず枯死の心配される。福岡県の小学生ら、エノキを切らないよう広島市に手紙を送付。
88 09 - 旧広島地方気象台の建物を活用した「気象資料館」の基本構想、決定。
88 10 - 御幸橋の欄干のデザイン、決定。旧橋を模したデザインで飾り柱などを復元。
88 10 - 料亭「佐々木別荘」(明治の建築)、都市再開発のため建て替えが決定。
88 11 11 「中区の文化を考える会」、日銀広島支店の保存を求めて署名運動をすることを決定。
88 11 28 旧広島貯金支局(昭和12年建設)の解体作業、開始。被爆タイルなどは原爆資料館に寄贈。
原爆遺跡年表[解題]
秦野裕子(広大原医研)
新聞は、「原爆遺跡」について、様々な機会に多種多様の報道をしてきた。広島大学原医研資料センター所蔵の新聞資料によって作成したのが「原爆遺跡年表」(1958年ー1988年)である。この年表をもとに、「原爆遺跡」について概観し、取り組むべき課題などについて考えてみたい。
(ドーム保存について)
広島市で「原爆遺跡」について考える場合、まず第一に挙げられるのが「原爆ドーム」であろう。1989年のドーム保存募金の全国的な盛り上がりは記憶に新しい。しかし、このドームにしても、初めからこのような「遺跡」の代表として確固たる位置を占めていた訳ではない。以下に新聞報道によるドーム存廃の論議を紹介していく。
1958年に、ドーム存廃について、「市民の意見は半々 撤去論“悲劇を売物にするな” 保存論“忘れられない象徴”」(中国)という見出しで特集記事を掲載している。同記事では撤去論として「あのままドームを残して原爆の威力を伝えるにはあまりにも貧弱だ。外国人にもあの程度の被害かと誤認されたくない。」との当時の広島市議会議長任都栗司の意見を紹介している。また、広島財界の指導者の意見として、「ドームを観光の一助にするという考えは悲劇を売物にするのと同じことだ。」との意見を紹介している。さらに、60年には「存廃論議される“原爆ドーム”」(中国・夕)との見出しで特集されている。撤去論として上記の他に、「いつまでも不快な記憶を留めたくない。」「市の美観をそこなう。」などの理由を挙げ、被爆者の中にも撤去論者は多いようだと報じている。これに対する存置論として、「平和のシンボルとして置くべきだ。」「戦争の惨禍を忘れないためにも必要。」との意見を紹介している。さらに、田宮虎彦、大江健三郎、ロベルト・ユンクら著名人の存置論も紹介し、「存置論者 外部関係に多い」との見出しを付している。このような中で、浜井広島市長は、「積 極的に壊す気はないが、存廃はすべて世論にしたがって決める。」との見解を表明し、補強費1000万円のねん出も困難と財政面での苦労も訴えている。この時点では、広島市さえも、ドーム保存について確固たる方針を持っていなかった訳である。しかし、1960年12月1日には、広島市で行なわれた日本原水協主催の「原水爆禁止、被爆者激励大会」で、原爆ドーム取り壊し反対の緊急動議が満場一致で採択されている。これを受けて翌日、日本原水協代表は、広島市に保存を訴える要請書を提出したが、市側は、「検討中」とのみ回答している。
京大近藤泰夫名誉教授は、翌年1961年8月に来広し、原爆ドームが「非常に危険状態に陥っている。」と指摘している。「一日も早く専門的な調査をし補強工事をすべき」で、「これ以上放置できない限界にきている。」と警告を発したが、市は、危険防止のため周囲に金網をめぐらしてあることや、工事費に多額の費用を要するとの理由で、依然、調査にさえ着手しない。
1963年10月、電車通りをへだてた向いの広島商工会議所のビル新築に伴って、同会議所が、原爆ドームへの工事の振動の影響調査が実施される。この時にも浜井広島市長は、「ドームにはサクが張ってあるので大丈夫ではないか。」とのんきな意見を吐いている。さらに、「私としてはドームを補強してまで保存する価値はないと思う。」とコメントしている。ところで、同月6日のコラムはドームについて、「永久保存」・「即刻取り壊し」・「成行き任せ」の3つの意見があると紹介している。遺跡の存廃論議において、「成行き任せ」というのは、何とも奇妙な意見だが、同コラムは「複雑な両論にはさまれていずれにも決めかねている。」と広島市の「成行き任せ」論を説明し、振動の影響調査では、一応崩壊の心配はないとの結論を得ている。しかし、64年4月には、ドーム西側の民家に自然崩壊の危険が強いと立ち退きを指示た。
・保存への動き
1964年11月に広島市原水協(会長・浜井広島市長)は、原爆ドームは永久保存すべきとの方針を決定し、県原水協総会に、1965年の被爆20周年記念行事としてドーム保存運動を起こすことなどを提案する。翌月12月には分裂以来初めて、社会党・総評系、共産党系、保守・民社党系の3原水禁団体を含めた11の平和団体が大同団結し、広島市にドームの永久保存を要請した。これに対して、浜井広島市長は、「来年度予算案に調査研究費を計上して専門家に保存方法を研究させる。」と答えている。広島市は、被爆後19年にして初めてドーム保存の意志を表明した訳である。被爆20周年に当たる65年には、1月から広島折鶴の会がドーム保存を訴える署名と募金運動を開始する。また、広島市観光協会も、同月広島市に、ドーム保存の要望書を提出している。このような動きの中で、市はやっとドームの強度調査費100万円を計上する。この時点でのドームの保存状態は「昨年春には降り続いた春雨がしみ込んで正面4階部分のヒビが大きく割れ、近くでビル工事も始まったため、内部に30数本のワイヤーや補強サクを取り付けて自然崩壊を防いだ。」(65.2.12中国)という状態で、崩壊寸前だったことがうかが える。3月は、
1961年にもドーム保存について早期補修を進言した京大近藤泰夫名誉教授が、再び来広し、広島市長にドーム保存の要望書を提出する。要望書は湯川秀樹・丹下健三ら8名の連名であった。同教授は、「小っちゃな地震でもすぐこわれるほど危険な状態になっている。」と、ドーム補修が緊急を要することを強調た。さらに、同教授は中国新聞に「原爆ドームの保存を訴える 建築学上もむずかしくない」(4.30)との一文を寄せた。その中で、西ベルリンの戦災を受けた教会の修復の例を引き、ドーム保存の意義を訴え、また、建築学の専門家として、ドーム補修が技術的に可能であると発言している。新聞投書欄に、「原爆ドーム撤去せよ」(65.5.4)との投書が掲載されたのがきっかけで、7・10・12・13日とそれに対する反論が次々と掲載され、投書欄にも「5月1日以降、原爆ドーム保存を求める投書8通。撤去を求める投書は既掲以外にはありません。」(5.13)という状況で、保存を求める意見が主流となっていく。
こうして、65年7月に、市の依頼を受けた広大工学部が基礎調査を開始するが、市は、この調査結果によって、存廃についての結論を出す考えであった。広大佐藤重雄教授は、接着剤で固めれば半永久的に保存でき、費用は約4000万円と報告した。これを受けて、広島市長は、「保存することになろう。」と発言している。
・保存決定と募金運動
66年7月11日、広島市議会は、「原爆ドーム保存の要望」を満場一致で決議する。その内容は、「原爆ドームを完全に保存し後生に残すのは、原爆でなくなった20数万の犠牲者と世界の平和を願う人たちにたいして広島市議会が果たす義務の1つである。ドーム保存について万全の措置をとるようにすべきだ。」というものであった。市長は、同月「一般募金で、保存工事に着手する方法を検討する。」と発言している。さらに、8月1日には、市幹部会議で、ドーム保存と、工事費を募金でまかなうことを決定する。その理念として、「戦争のない世界にする反省の起点としてドームを保存し、これを平和な未来建設の出発点とする。」とし、「その意味で一般募金は意義がある。」としている。この時点では、浜井市長は、「原爆ドームは時点を高くし、視野を広げれば保存するのが当然ということになる。募金は私の責任でする。募金方法はもう少し検討するが、十円募金は協力団体がしてくれれば別だが市がする考えはない。」との見解を披露している。市は、当初8月6日からの募金開始を企図していたが、議会側から募金実施について事前に相談がなかったことや募金計画がずさんであるとの批判が相次 ぎ、趣意書の作成や発送などもできず、運動は凍結されたまま2カ月余が空費された。この間の市と議会との確執は、「宙に浮く原爆ドーム保存 一部に募金中止論 市長選とからませて」(9.30中国)、「感情的対立の様相」(10.5同)などの見出しで報道されている。このような対立の中で、市長は議会の意志決定を待たず、11月1日から募金開始を決定し、趣意書の発送なども開始する。開始時にはこのようなつまずきがあったが、総評・平和七人委員会・自民党県連・日本原水協・社会党など幅広い層からの支持を得て、期限の2月末を13日延長したものの、3月13日に目標の4000万円を達成した。浜井市長は、14日に募金終了を発表するが、以後も募金が相次ぎ、結局目標を大きく上回る6800万円余(68.2.22)が集まった。保存工事は4月10日に着工し、8月5日に完工式を挙行した。浜井前市長は、同式の中で、「募金が目標を達成できたのは、ヒロシマを繰り返すなという悲願が世界に燃え続けていることを証明した。このドームは戦争の悲惨な事実を刻みつけている。」と述べている。
・20年後の再補修
広島市は、1967年の補修から20年を経て、87年1月にドーム再補修を計画し、同年設置された「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」の調査結果をもとに、89年秋にドーム補修工事を実施することを決定する。2億円の工事費について、市長は、募金で行なうことは「昭和42年当時、募金をした人の気持ちに反することでもあると思う。」と、消極的な姿勢を示していた。しかし、市民団体などの募金実施の要望を受けて、89年2月には2億円のうち1億を市費で、残り1億を募金でという折衷案を打ち出す。募金は5月1日にスタートし、初日には、当初募金に消極的だった荒木市長も街頭に出て募金を呼びかけた。12月25日の締め切りまでに募金総額は3億7000万円を超え、市長は「今後ともドームの永久保存に努める。」とのコメントを発表する。
・67年から87年
1967年にドーム保存を決定するまでは「原爆被害の過小評価になりかねない。」・「思い出したくない」など、様々な理由でドーム撤去を唱える人もいた。それらの意見も、一概に否定されるべきものではなく、それなりの根拠を持つものであった。しかし、87年の再補修の際には、ドームの永久保存は前提で、少なくとも撤去論を持ち出す人はいなかった。これは、20年の間に、ドームが撤去論を乗り越えるだけの働きをしてきたことを証明する。広島市民はもとより、平和学習の修学旅行生、内外の観光客・政治家・文化人らに、ドームは、その被爆体験を言葉を越えて語りかけ、戦争・平和について考えるよすがとしての役目を果たしてきたのである。そのようなドームを、今後も永久に保存していこうと、広島市民のみならず日本国内また海外の人々が決意を新にし、その熱意が89年の補修募金4億円となって結実した。しかし、我々は、67年当時には、ドームすら、撤去しようとしたことがあることを忘れてはなるまい。また、その論拠をも思い返してみる必要がある。美観・経費・原爆被害の過小評価・・・等。現在、我々は再び、そのような理由を挙げて、残り少ない「原爆遺跡」を取り壊そうとし ているのではないか。
もし、67年の時点でドーム撤去を決意していたとしたら・・・。その跡地に近代的ビルを建てていたとしたら・・・。平和都市ヒロシマの役割を我々はドームなしで果たせていただろうか。
次に、「原爆遺跡年表」を見ていく。この年表で、取り壊し・撤去が確認されたのは、「死の人影」のあった住友銀行・中国郵政局・御幸橋・常盤橋・相生橋・旧陸軍被服倉庫・舟入公園の老松・「生めましめんかな」の舞台になった旧広島貯金支局・広島市役所・万世橋・フコク生命ビル・旧広島中電話局・山陰合同銀行広島支店・横川橋・中国電力本店2号館・本川小学校東側校舎・広島銀行銀山町支店など17件にも及ぶ。銀行などの企業、官公庁の建物、橋などが次々に広島市街から消されていった。この時期は、ほぼドームの第1回の補修から第2回補修が実施されるまでの期間に当たる。次々に建て替えられていく多くの建物・橋などは、被爆後補修を重ねながら、使用されてきており、「原爆遺跡」であると同時に銀行・学校などの建物であるという二面性を待っているわけである。老朽化した建物は居住性・美観などの面で劣り、時には危険ですらある。「遺跡」という側面を無視して、建物・橋としての機能を優先させれば、「老朽化」-「建て替え」ということになってしまう。そのような例として、「市役所」の例を検討してみる。
(市役所の場合)
広島市は、1980年12月に、昭和3年に完成した市役所本庁舎を、手狭で老朽化が激しいとの理由で、取り壊し・建て替えることを決定する。この決定がなされた時にも、「また消える“被爆証人”」(80.12.3朝日)との記事の中で、「被爆の事実をかき消すかのような新しがり屋には怒りさえ覚える。」と、詩人栗原貞子の批判が取り上げられている。81年4月にはコンペ方式による新庁舎のデザインの入選作が決定され、原爆遺跡として正面玄関の石段・縁石などを保存することが計画されている。83年2月には、東側の三階建ての庁舎が取り壊され、新庁舎の建設が始まる。84年、新庁舎の建設が進むにつれて、老朽化の激しい本庁舎の存廃が話題にされる。新聞報道にも、「保存か撤去か 原爆“証人”ぜひ いや美観損なう」(84.4.21)との見出しで取り上げられている。その中で、撤去論として「全部取り壊した方がすっきりする。」との美観重視論、「原爆遺跡としては原爆ドームがあるので、金をかけてまで保存しなくても・・・」との意見などを紹介している。それに対して、「傷ついた市民も避難した場所。利便性や美観論だけで壊さないで欲しい。」との職員OBの意見、「古い本庁舎は、市 役所を訪れた外国人らの目にも奇異に映るはず。そこで荒木市長が残した意味を話せば、世界平和の訴えも説得力を増す。」との社会党議員の保存論を紹介している。この時点では、市も「保存にかかる費用や利便性、市民感情などを総合的に判断し、本年度中に存廃に着いて結論を出したい。」と態度を保留している。同年12月に広島県被団協(佐久間理事長)などの市民団体が、広島市に庁舎保存を陳情した際には、市は補修費が高額(13億円)であることなどを理由に、保存に消極的な態度を表明している。翌年1月25日に、広島市長は、本庁舎は取り壊し、玄関石段など被爆の傷跡を明確に残す部分だけを保存する方針を発表する。これに対して、市民団体は、翌日、「被爆地の市長自らが原爆遺跡の破壊を決めたことは、世界の反核・平和の世論に水をさし、市の基本方針である“被爆の実相の普及”に矛盾する」との抗議文を提出している。さらに、2月28日には、市議会で、自民党議員が市側に再考を求めている。このような声を受けて、市は、庁舎の正面玄関石段などの部分的保存を検討し、5月には庁舎の一部を被爆遺跡として全国の平和団体・学校などに寄贈することを発表する。この時には、 すでに庁舎の9月取り壊しが決定されている。県被団協などは5月20日に、3回目の庁舎保存の申し入れをする。
6月には、市議会の「旧庁舎検討協議会」が、①正面玄関の石段・敷石を残す(経費3800万円)、②石段と地下室の一部を残す(同1億1800万円)、③一階部分を縮小して保存する(9300万円)の3案を提示した。8月に、結局②案の採用を決定し、10月には、庁舎の解体工事が開始される。ところで、市が、5月に庁舎の一部譲渡を発表して以来、全国の小中学校・自治体などから申し入れがあり、平和学習教材や平和の碑建設に利用されることになった。翌年1986年2月までには、約30件の申し込みが寄せられ、被爆都市の庁舎への全国的な関心の高さを示している。
このように、市役所庁舎は、結局取り壊されてしまった訳である。これは、市側が、「原爆遺跡」としてより庁舎としての機能を優先させた結果であるが、この他にも市民団体などによる保存運動がドームの時ほど盛り上がらなかったことが指摘される。庁舎保存を申し入れたのは県被団協などの限られた団体で、ドームの場合のような禁・協・保守団体の大同団結は見られなかった。また、市が本庁舎の取り壊しを決定した1985年1月から取り壊し工事の開始される10月までに中国・朝日・毎日・読売各紙に寄せられた庁舎保存を求める投書は1件のみであったことは、市民の関心の低さをうかがわせる(「広島市本庁舎永久保存を望む」1.29中国)。
市庁舎取り壊しに関しては、逆に、市側の対応に目新しいものがあった。調査の石畳などの寄贈呼び掛けである。北海道から九州まで約30件の申し込みがあり、兵庫県美方郡で、「夢千代日記」の被爆二世夢千代像の台座、千葉県八千代・野田両市、東京都中野区の平和記念碑などの他、平和教育教材・展示資料として譲渡された。市の関係者は、「反核を願う動きが広がっているあかし」とコメントしている。
市庁舎は、謂わば市の「表玄関」である。広島市を訪れる内外の政治家・要人を迎えて、その表玄関に「原爆遺跡」を配することは、市が発する平和への提言を単なる美辞麗句で終わらさず、その影響力を高めた筈である。また、外来者だけでなく、被爆の記憶が年々薄らいでいく我々広島市民に対してもその存在は重い警鐘となり得たのではないだろうか。保存に多額の費用を要するとの理由で庁舎を撤去したのは正しい選択だったのだろうか。保存に要する費用13億円は、85年に開館した広島市郷土資料館改修費と同額である。政令指定都市広島にとってその額は無理な額であったのだろうか。被爆40周年だった1985年に、市民の間に庁舎保存についての論議がいま一つ盛り上がらなかったことが悔やまれる。
(「原爆遺跡」の転用-旧陸軍糧抹支廠・旧広島地方気象台・日銀広島支店)
次に、「原爆遺跡」を改修し、転用した例をみていく。
広島市は、82年9月に、旧陸軍糧抹支廠を改修し、郷土資料館として保存することを決定する。同支廠は明治44年の建物で、れんが造りの外壁をそのまま残し、市重要文化財にも指定されている。85年5月には、江戸以降の歴史・生活資料など約300点を展示して開館した。建設費は約13億円であった。
広島地方気象台は、1987年の移転が決定され、「江波地区社会福祉協議会」・「中区の文化を考える会」が、1985年に「平和学習ができる博物館施設として、市が跡地を取得して整備してほしい。」と、市に陳情した。市は、これを受けて、「広島市博物館資料調査収集検討委員会」で検討を開始する。同委員会の広島大工学部鈴木充教授は、「被爆の証人として極めて貴重だ」と発言している。87年1月には「気象資料館」として保存されることが決定され、1990年に、開館している。
これらは、被爆建物を補修し、「資料館」に転用した例であるが、いずれも「原爆遺跡」としての意義を特に強調している訳ではない。また、展示内容も、それぞれ郷土の歴史資料や気象に関する資料と、直接原爆をテーマにしたものではない。(但し、気象資料館の一室は、被爆の被害をそのまま残し、平和学習用として利用されている。)他都市には見られない貴重な被爆建物を再生したのだから、その意義を際立たせる工夫がなされてもよいのではないだろうか。例えば、日本銀行広島支店の場合である。前出の「中区文化を考える会」は、88年10月、同支店の保存を求めると同時に峠三吉などの原爆文学を中心にした文学館としての利用を提唱している。これに対して、日銀は、「跡地は売る方針」としながらも、「市民らの署名運動が起これば県や市と相談しなくてはならないだろう」との見解を表明している。もし、これが実現すれば、「原爆遺跡」を再生・利用した初の原爆文学を中心にした資料の展示館として、内外の注目を集めることになるだろう。これは、遺跡の保存という観点からだけでなく、原爆をテーマにした文学・演劇・映画・絵画などの芸術分野にとっても重要な課題である。 被爆以来、我々は、原爆をテーマにした創作活動から多くの成果を得ている。峠三吉・井伏鱒二・原民喜らによる文学作品、「原爆の子」・「はだしのゲン」・「黒い雨」などの映画、平山郁夫・増田勉・丸木位里・俊らの絵画、東松照明・福島菊次郎らの写真、細川俊夫・芥川也寸志らの音楽作品など、枚挙に暇がない。さらに、毎年8月6日を中心に放送される原爆番組も数多い。このように分野は様々だが、一貫して原爆をテーマにした作品群がある。「原爆遺跡」とともに、これらの芸術分野の作品の収集・整理・保存なども、我々の責務である。このような多くの作品が、一堂に集められ、展観できるとしたら、その迫力は個々の作品の持つ力を倍加するに違いない。また、それらの作品群の「容れ物」として、日銀広島支店のような「原爆遺跡」が使われるとしたら、それは被爆地ヒロシマが誇り得る「モニュメント」になるに違いない。
(被爆樹木と平和教育)
「原爆遺跡年表」に見られるように、広島市には被爆した樹木が残されている。広島市は、79年に河川改修工事のため、そのうちの1本である太田川左岸堤防の大エノキを切り倒す。しかし、皮肉なことに、それがきっかけとなって基町小学校の生徒らによる別のエノキの保存運動が開始されることになる。同校生徒が世話をしているエノキの前の立て札には、「原爆は罪のないエノキまで見苦しい姿にした きょうまでほんとによく生きてきた 生命の力強さと尊さを知ったかわいそうなエノキ 基町に住む私達はこの木を守っていく義務がある 基町小学校児童会」と記されている。84年には、台風でエノキが倒壊し、台風シーズンを前にせん定を怠っていた市の姿勢に批判の声が起き、市は、遅ればせながら、エノキの保存作業を開始する。折れたエノキの幹の部分は、平和教育教材や研究資料として提供され、寄贈を受けた県高校生ゼミナールはそれらを全国6カ所の平和施設に送付する。また、修学旅行で来広した大阪などの小学生らは、このエノキをめぐって基町小学校生徒と交流を続けている。
倉掛小学校では、同校庭に一時移植されていた市役所の被爆桜を植え戻す際には、同校生徒らの要望で、接き木した桜の“二世”を贈っている。同小学校でも、木の根元に被爆の由来を書いた立て札を立て、平和教育の教材として活用されている。88年には、同小学校で、初めて“二世”の桜の花が咲いたことが報道されている。
平和記念公園に移植されていた被爆アオギリは、被爆の語り部沼田鈴子らによって、修学旅行生らに感銘を与えてきたが、87年には木が弱り始め、市は、植物公園で“二世”作りを開始している。88年7月には、二世アオギリの誕生が確認され、市は修学旅行生らに苗木を贈ることを計画中である。
このように、被爆樹木は平和教育に活用され、広島は勿論、広島を訪れる全国の修学旅行生が平和に着いて考えるきっかけとなっている。しかし、先の基町のエノキも、89年2月には枯死が確認されるなど、その数はだんだんと減っていくことが予想される。また、被爆樹木であることが知られていなかったり、個人の所有の樹木もあるため、保護されていない場合もある。行政による被爆樹木の総点検と、樹木の保護・二世作りなどがなされる必要がある。
献花(4月)
ぼけ(木瓜) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家 |
むすかり 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家 |
スノーフレーク 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家 |
さくらそう(桜草) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家 |
?? 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家 |
ふきのとう 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家 |
スイセン(水仙) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家 |
チューリップ 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家 |
イチゴ(苺) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家 |
サンシュユ(サンシュユ) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家 |
タンポポ(蒲公英) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家 |
さくら(桜) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家 |
さくら(桜) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家 |
レンギョウ(連翹) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家 |
スミレ(菫) 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家 |
はなにら 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家 |
カラスノエンドウ(烏野豌豆) 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家 |
ダイコン(大根) 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家 |
?? 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家 |
ハナズオウ 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家 |
ヤマブキ(山吹) 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家 |
ヤマブキ(山吹) 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家 |
ショカツサイ(諸葛菜) 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家 |
ショカツサイ(諸葛菜) 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家 |
アスパラ 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家 |
スナックエンドウ(豌豆) 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家 |
もも(桃) 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家 |
つつじ(躑躅) 撮影日時 2018.4.7 撮影場所:実家 |
つばき(椿) 撮影日時 2018.4.7 撮影場所:実家 |
サクラソウ? 撮影日時 2018.4.7 撮影場所:実家 |
??撮影日時 2018.4.12 撮影場所:実家 |
モクレン(木蓮) 撮影日時 2018.4.12 撮影場所:実家 |
ナノハナ(菜の花) 撮影日時 2018.4.12 撮影場所:実家 |
撮影日時 2018.4.12 撮影場所:実家 |
シャガ 撮影日時 2018.4.12 撮影場所:実家 |
ボタン(牡丹) 撮影日時 2018.4.12 撮影場所:実家 |
?? 撮影日時 2018.4.12 撮影場所:実家 |
** 撮影日時 2018.4.15 撮影場所:呉市・灰が峰 |
** 撮影日時 2018.4.15 撮影場所:呉市・灰が峰 |
ジャスミン 撮影日時 2018.4.19 撮影場所:自宅 |
君子ラン 撮影日時 2018.4.19 撮影場所:自宅 |
スズラン?撮影日時 2018.4.19 撮影場所:自宅 |
チューリップ 撮影日時 2018.4.19 撮影場所:自宅 |
ハルノノゲシ() 撮影日時 2018.4.19 撮影場所:自宅付近 |
ビワ(枇杷) 撮影日時 2018.4.19 撮影場所:実家 |
?? 撮影日時 2018.4.19 撮影場所:実家 |
?? 撮影日時 2018.4.19 撮影場所:自宅付近 |
?? 撮影日時 2018.4.19 撮影場所:自宅付近 |
オダマキ 撮影日時 2018.4.22 撮影場所:自宅 |
つつじ(躑躅) 撮影日時 2018.4.22 撮影場所:実家 |
撮影日時 2018.4.22 撮影場所:実家 |
ボタン(牡丹) 撮影日時 2018.4.22 撮影場所:実家 |
こでまり 撮影日時 2018.4.23 撮影場所:実家 |
ふじ(藤) 撮影日時 2018.4.23 撮影場所:実家 |
モッコウバラ 撮影日時 2018.4.25 撮影場所:自宅 |
ナルコラン(鳴子蘭) 撮影日時 2018.4.25 撮影場所:実家 |
ミニトマト 撮影日時 2018.4.25 撮影場所:実家 |
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市) |
都築正男(つづき・ まさお)略歴
1892(明治25)年10月20日 | 兵庫県姫路市に生まれる。 |
1913(大正2)年7月1日 | 第一高等学校卒業 |
1917(大正6)年12月6日 | 東京帝国大学医科大学医学科卒業 |
1917(大正6)年12月19日 | 海軍中軍医 |
1923(大正12)年4月1日 | 海軍軍医学校選科学生。東京帝国大学大学院入学 |
1925(大正14)年2月16日 | 東京帝国大学助教授、高等官5等に叙せらる。歯科口腔外科研究のため満2年間ドイツ・アメリカ合衆国に留学。 |
1929(昭和4)年2月6日 | 東京帝国大学教授(歯科学講座担当) |
1934(昭和9)年3月31日 | 歯科学講座を免ぜられ、第2外科学講座を担任。 |
1936(昭和11)年9月10日 | アメリカ合衆国へ出張。 |
1939(昭和14)年11月15日 | 海軍軍医少将に任ぜらる。12月21日、海軍予備役編入。 |
1940(昭和15)年6月14日 | ドイツへ出張。 |
1946(昭和21)年8月3日 | 文部教官を免ぜらる(海軍将官のため公職・教職追放)。 |
1947(昭和22)年7月16日 | 都築正男を原子爆弾傷害調査委員会より解任。 |
1952(昭和27)年10月10日 | 東京大学名誉教授 |
1954(昭和29)年9月30日 | 日本赤十字社中央病院長。同社輸血研究所長。 |
1958(昭和33)年9月17日 | 姫路市初の名誉市民の称号を贈られる。 |
1958(昭和33)年月日 | 西独赤十字功労章。 |
1959(昭和34)年7月2日 | 日本放射線影響学会初代会長。 |
1960(昭和35)年6月日 | 発病。 |
1961(昭和36)年4月5日 | 死去。 |
出典:『都築正男研究業績目録 1925-1960-都築正男大人命20年祭』(広島市史編纂室編、都築正和発行、19810405)
著書
書名コード | 書名 | 編著者 | 発行所 |
54023301 | 医学の立場から見た原子爆弾の災害 | 都築正男 | 医学書院 |
81033104 | 広島新史・資料編Ⅰ-都築資料 | 広島市(編) | 広島市 |
81040501 | 都築正男研究業績目録 1925-1960-都築正男大人命20年祭 | 広島市史編纂室 | 都築正和 |
論文
Y | M | D | ZASSIMEI | TITLE | メモ |
45 | 10 | 01 | 日本医事新報 | 原子爆弾による広島市の損害に就いて | 5P以下欠 |
45 | 10 | 01 | 総合医学 | 所謂「原子爆弾傷」に就いて-特に医学の立場からの対策 | ゲタバキ部分あり。「昭和20年9月8日米国原子爆弾損害調査団を案内して広島市へ向ふ時記す」 |
54 | 01 | 25 | 日本週報 | 赤十字精神で原爆を禁止せよ | |
54 | 06 | 広島医学 | 外科臨床の立場から考察した原子爆弾傷、特にその後遺症状に就て | ||
54 | 08 | 思想 | 歐米に於ける原子力と放射能障害との問題 | ||
54 | 08 | 改造 | キューリー夫妻を訪ねて | ||
54 | 08 | 外科 | (座談会)放射能症の権威に聞く-ビキニの灰をめぐって | 都築正男・中泉正徳・筧弘毅・清水健太郎・石川浩一・柳壮一 | |
54 | 08 | 05 | 思想 | 欧米に於ける原子力と放射能障害との問題 | |
54 | 10 | 15 | 日本医師会雑誌 | 慢性原子爆弾症の診断と治療について | |
54 | 11 | 中央公論 | 水爆傷害死問題の真相 | ||
54 | 11 | 01 | 日本医師会雑誌 | 放射能障害について | |
54 | 11 | 15 | 日本医師会雑誌 | 原爆熱傷後の瘢痕異状に対する皮膚移植成形術について | |
54 | 12 | 保健医学雑誌 | 放射能障害の予後について | ||
55 | 01 | 自警 | 医学的に見た原水爆の災害 | 「原水爆禁止運動資料集第4巻」の情報。 | |
55 | 02 | 東京医学雑誌 | 広島長崎の被爆とビキニの被灰 | ||
55 | 04 | 平和 | 原子力医学のために | ||
55 | 08 | 01 | 婦人朝日 | 特集・原子力とはどういうものか-女性として知りたい疑問のかずかず | 崎川範行・武谷三男・都築正男(解答者) |
55 | 11 | 学術月報 | 生物学並びに医学領域の話題と感想 | ||
56 | 04 | 01 | 世界 | 原水爆と放射能禍 | |
56 | 08 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会に出席して | ||
57 | 01 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国連科学委員会第2回会議に出席して | ||
57 | 04 | 総合医学 | 核爆発に伴う人工放射性物質の影響-国際連合科学委員会を中心として | ||
57 | 05 | 01 | 世界 | 核爆発と放射能 | |
57 | 06 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国連科学委員会第3回会議に出席して | ||
58 | 02 | 学術月報 | わが国における放射能影響調査の研究体制について-問題点提起ならびに討 | 都築正男[座長] | |
58 | 02 | 学術月報 | 国連科学委員会について | ||
58 | 05 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第四回会議に出席して | ||
58 | 08 | 10 | 週刊朝日 | (徳川夢声連載対談)問答有用 | 都築正男・徳川夢声 |
58 | 09 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第5回会議に出席して | ||
58 | 10 | 国連評論37-10 | 国連科学委員会に関する報告 | ||
58 | 12 | 日本臨床外科医会雑誌 | 原子爆弾傷害の本態とその後遺症 | ||
59 | 03 | 学術月報 | 「原子力時代の人類への放射線影響に関するシンポジウム」について | ||
59 | 07 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第6回会議に出席して | ||
59 | 07 | 学術月報 | ICRP新勧告の意義 | ||
59 | 11 | 01 | 原子爆弾後障害研究会講演集[第1回] | 原子爆弾による障害の研究経過について(総括講演) |
川手健
かわて・たけし | 19310213生 19600428没 |
広島市大手町生まれ。県立忠海中学校在学中に広島の工場に動員中被爆。広島高等学校理科を経て広島大学文学部を専攻。1952年、原爆被害者の会を結成。東京都内で自殺。29歳。 |
資料
文献 | ||
19521101 | 川手健「七年後の廣島」(『新日本文学』) | |
19530625 | 『原爆に生きて 原爆被害者の手記』(原爆手記編纂委員会、三一書房) | |
19540215 | 『風のように炎のように-峠三吉追悼集』 | |
19550109 | 川手健「原爆被害者の青年クラブのこと」(『われらのうたの会』第3号) | |
19950806 | 『川手健を語る』(川手健を語る会編、ウイウド・岡本智恵子) | |
資料
川手健=「原爆被害者自身の口から全世界に向って原爆の惨禍と平和の必要を訴えるその意義は大きい。原爆の投下が世界史的な大事件であるなら、その被害者が立上がって原爆の反対を叫ぶこともまさに世界史的な出来事である。このことの重要性についてはまだまだ本当に考えている人は少ない様に思う。」
(「半年の足跡」、『原爆に生きて』、三一書房、1953年、所収)
日 | 没年 | 氏名 | 読み | 享年 | 備考 |
01 | 2012 | 森亘 | もり・わたる | 86 | 元東京大学総長。原爆死没者慰霊等施設基本問題懇談会座長。<投稿> |
01 | 2016 | 藤村耕市 | ふじむら・こういち | 86 | 元三次地方史研究会会長。<投稿> |
01 | 2020 | 山西義政 | やまにし・よしまさ | 97 | (株)イズミ(広島県広島市、山西泰明社長)創業者。1997年、個人コレクションを中心に泉美術館を開設。<資料年表:山西義政> |
02 | 1974 | 福田須磨子 | ふくだ・すまこ | 52 | 長崎の詩人。 |
02 | 1984 | 渡辺漸 | わたなべ・すすむ | 80 | 広島大学原医研初代所長。自宅を訪問、面談、資料閲覧・借用。 |
02 | 2005 | ヨハネ・パウロ二世 | ぱうろ | 84 | 4月2日(日本時間3日)。1981年2月25日広島訪問。<『教皇訪日公式記録 ヨハネ・パウロⅡ世』主婦の友社、19810402><投稿> |
02 | 2008 | 大北威 | おおきた・たけし | 83 | 広島大原爆放射線医科学研究所所長。ノーベル平和賞を受賞(1985年に)した「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」のメンバー。<投稿><資料年表:大北威> |
02 | 2016 | 居森清子 | いもり・きよこ | 82 | 広島の本川国民学校で被爆、児童で唯一の生存者。西本雅実「評伝」(『中国新聞』2016.4.5) |
03 | 2011 | 長崎源之助 | ながさき・げんのすけ | 87 | 児童文学作家。『広島県現代文学事典』(瀬崎圭二・記) |
04 | 0984 | 伊藤実雄 | いとう・じつお | 1946年4月の総選挙で広島全県区(当時)から初当選、1期。『古稀を越えて 伊藤實雄』(1982.2.25)<投稿> | |
04 | 1997 | 杉村春子 | すぎむら・はるこ | 91 | 女優。本名:石山春子。広島市出身で、被爆ドラマに出演。。映画吹き込み場に立ち会う。『広島県現代文学事典』(九内悠水子・記)。<投稿> |
05 | 1958 | 岡本尚一 | おかもと・しょういち | 66 | 弁護士。広島・長崎の被爆者とともに原爆求償同盟を組織し、1955年4月、東京地裁に、原爆投下の国際法違反を明確にし、被害の賠償を求める訴訟を起こす。<『原爆民訴或問』> |
05 | 1960 | 楮山ヒロ子 | かじやま・ひろこ | 17 | 広島で被爆。急性リンパ性白血病のため広島市民病院で死亡。<投稿>。<原爆ドームと楮山ヒロ子> |
05 | 1961 | 都築正男 | つづき・まさお | 68 | 東京帝国大学教授。遺族宅を調査<投稿> |
05 | 1964 | マッカーサー、ダグラス・ | 84 | 連合国軍最高司令(1945~50年) | |
07 | 1971 | 椎尾弁匡 | しいお・べんきょう | 94 | 全日本仏教会副会長、大正大学学長、増上寺大僧正[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。 |
07 | 1990 | 大原亨 | おおはら・とおる | 74 | 元社会党代議士(広島選出)。党原爆対策特別委員会などを歴任。衆議院議員。『志あるところ必ず道あり 大原亨追悼録・遺稿集』(発行編纂委員会、19910806)。宇吹の高校時代の同級生の父。 |
07 | 1957 | 羽仁もと子 | はに・もとこ | 83 | 自由学園長・全国友の会会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。 |
08 | 1982 | 上代タノ | じょうだい・たの | 95 | 「世界平和アピール七人委員会」のメンバー。1956年から9年間、日本女子大学学長。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。 |
09 | 2010 | 井上ひさし | いのうえ・ひさし | 75 | 日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任。<投稿> |
10 | 1959 | 瀬戸奈々子 | せと・ななこ | 27 | 『かえらぬ鶴』(瀬戸奈々子・林田みや子、二見書房、19611012) |
10 | 2004 | 小黒薫 | おぐろ・かおる | 90 | 1974~1978年、広島女学院大学長<投稿> |
11 | 2001 | 稲賀敬二 | いなが・けいじ | 73 | 国文学者。平安文学。1947年(昭和22年)広島高等学校文科甲類卒業。広島大学名誉教授。『明日何方ぞ迷い猫 稲賀敬二遺文集』<資料年表:稲賀敬二> |
11 | 2016 | ユソフ、ペンギラン | ゆそふ、ぺんぎらん | 94 | 元南方特別留学生として広島文理科大学に在学中被爆。元ブルネイ首相。<投稿> |
12 | 2017 | 葉山、ペギー | はやま、ぺぎー | 83 | 歌手。祖父が広島で被爆死。1965年広島賛歌「ああ広島」を歌い、レコード化。第1回「広島平和音楽祭」に出演。 |
13 | 1980 | 蜂谷道彦 | はちや・みちひこ | 76 | 「ヒロシマ日記」の著者で被爆者。<投稿> |
14 | 1986 | ボーボワール、シモーヌ・ド・ | ぼーぼわーる | 78 | 仏の作家。1966年10月、来広し、原爆資料館などを見学。<宇吹=京都での講演会を聞く> |
14 | 2001 | 勅使河原宏 | てしがわら・ひろし | 74 | 映画監督、草月流家元。<投稿>。 |
15 | 1980 | サルトル、ジャン・ポール・ | さるとる | 仏の哲学者。1966年来広し、原爆病院など訪問。長崎も訪問。 | |
15 | 19895 | 調来助 | しらべ・らいすけ | 長崎大名誉教授(被爆者)。「医師の証言・長崎原爆体験」などの著者。長崎市栄誉市民。 | |
16 | 1972 | 川端康成 | かわばた・やすなり | 72 | 日本ペンクラブ会長[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。<投稿> |
17 | 1992 | 秦野裕子 | はたの・ひろこ | 広島大学原医研事務官。職場の同僚 | |
17 | 1996 | 藤居平一 | ふじい・へいいち | 80 | 日本被団協初代事務局長。聞き書きを作成 |
18 | 1955 | アインシュタイン、アルバート | あいんしゅたいん | 76 | 理論物理学者。ユダヤ系ドイツ人。ナチスに追われて渡米。ルーズベルト大統領に原爆開発を提言。Albert Einstein |
18 | 1961 | 長田新 | おさだ・あらた | 75 | 広島大学教授。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。[51広島大学平和問題研究会理事]。[日本原水協代表委員]。<「原爆の子」の父長田新> |
18 | 1971 | 大木正夫 | おおき・まさお | 69 | 作曲家。交響曲「ヒロシマ」。 |
18 | 1993 | 羽原好恵 | はばら・よしえ | 47 | RCC勤務。研究会で面識。<投稿> |
18 | 2016 | 金子満広 | かねこ・みつひろ | 91 | 日本共産党書記局長、衆議院議員など歴任。 |
22 | 1981 | ダフ、ペギー | だふ・ | 71 | イギリス生まれの平和運動家。「軍縮と平和のための国際連合」(ICPP)書記長。1977年以降の原水爆禁止統一世界大会の大会宣言起草委員長を務める。 |
22 | 1985 | 原田勉 | はらだ・つとむ | 1953「酔心」旗揚げ。『なに糞経営愕』(原田勉、朝日書院、19650625) | |
22 | 2000 | 武谷三男 | たけたに・みつお | 88 | 理論物理学者で素粒子論の第一人者。戦時中、理化学研究所で仁科芳雄に協力し原爆開発研究に従事。<投稿予定> |
23 | 1960 | 賀川豊彦 | かがわ・とよひこ | 72 | [50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。国際平和協会会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。キリスト教社会運動家。『広島県現代文学事典』(田辺健二・記) |
23 | 1973 | 阿部知二 | あべ・ともじ | 69 | 小説家。1950年?イギリスで開かれた世界ペン大会に参加、田辺耕一郎から託された被爆アルバムや資料をもとに広島の惨状を訴える。 |
23 | 2011 | 森井忠良 | もりい・ちゅうりょう | 81 | 『明日を創る―提言・新世紀の社会保障』(森井忠良、NTT出版、1996.6.6)。1972年、旧広島2区で旧日本社会党から衆議院議員に初当選、1996年に落選するまで7期。村山富市改造内閣で厚生大臣。社会党原爆被爆者対策特別委員長など。宇吹と同郷。 |
23 | 2012 | 山田浩 | やまだ・ひろし | 87 | 広島大学教授。専攻は政治史・国際関係論。<資料年表:山田浩> |
24 | 1988 | 広瀬ハマコ | ひろせ・はまこ | 83 | 元広島女学院理事長。<投稿> |
24 | 2017 | 藤居みえ | ふじい・みえ | 藤居平一夫人。<投稿予定> | |
24 | 2008 | 深川宗俊 | ふかがわ・むねとし | 87 | 歌人。本名:前畠雅俊=まえはた・まさとし)。旧三菱重工業の韓国人徴用工の指導員。三菱広島・元徴用工被爆者裁判を支援する会共同代表。<投稿> |
25 | 1951 | 藤野七蔵 | ふじの・しちぞう | 65 | 『藤野七蔵氏追懐録』(藤野七蔵氏追懐録編纂委員会、広島瓦斯株式会社内、1952年4月25日)<投稿> |
28 | 1960 | 川手健 | かわて・たけし | 県立忠海中学校在学中に広島の工場に動員中被爆。広島高等学校理科を経て広島大学文学部を専攻。1952年、原爆被害者の会を結成。偲ぶ会に参列。『広島県現代文学事典』(小宮山道夫・記)<資料年表:川手健> | |
28 | 1962 | 西本敦 | にしもと・あつし | 日本山妙法寺僧侶。日ソ協会支部事務局長。1958年原水禁世界大会で、広島-東京間の第1回平和大行進の全コースを歩く。 | |
28 | 2009 | 粟津潔 | あわづ・きよし | 80 | 「ヒロシマ・アピールズ」ポスター第2作を制作。 |
30 | 1977 | 森脇幸次 | もりわき・こうじ | 68 | 中国新聞論説委員、取締役編集局長、中国地方経済連合会常務理事。<投稿> |
都築正男「原子爆弾災害調査研究班に就て」
今般、科学研究費交付金総合研究計画に基いて、新に『原子爆弾災害調査研究班』が設けられることとなり、過日、研究班の編成を終わり愈々その作業を始めることになった。就ては、その発足に当り、新研究班が設けられるに至った動機と経緯とを述べ且つ研究班運営の方針を考察し、以て関係各位の御参考に供したい。
昭和20年8月上旬広島市及び長崎市に落とされた原子爆弾によって発生した災害に就いては、当時設けられた文部省学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会に於て詳しい調査研究が行われ、我邦学界の総力を挙げて、その真相を明らかにすべく努力せられたのであった。特別委員会の仕事は前後3ケ年に亘って継続せられ、その間、アメリカ側から派遣せられた原子爆弾調査団とも協力し、理学、生物学、工学、医学、農学等の領域に亘って、広汎研究が行われ、多くの報告が出来上がった。
そこで、原子爆弾災害調査研究特別委員会は、その後、調査研究報告を発表し且つ刊行しようとしたが、色々な事情で、ことが円滑に進行せず且つ刊行費の調達に就いても困難があり、ために延々となっていたことは遺憾なことであった。ところが、その後新しく発足した日本学術会議はこの刊行事業を学術研究会議から引継ぎ、幸にして、刊行費の調達に就いても見透しがついたので、昭和26年8月先づ『総括篇』として概要を記した部分を刊行し、次で『各論篇』として報告書全部を刊行し得る配となったのであって、各論篇は昭和27年秋頃発刊の予定である。
原子爆弾災害に関する総合的の調査研究は前述のように、約3ケ年に亘る特別委員会の作業によって大略終了し、昭和23年以後は特に興味を持つ研究者が夫々の立場から、原子爆弾災害そのもの、或いはそれと直接間接に関連のある事項に就いて、個別的に調査研究をせられていたばかりであったので、纏った報告として発表せられたものは多くない。
一方アメリカ側は昭和22年6月原子爆弾の災害に就て、主として医学的の立場から長期に亘る調査研究を行うことを計画し、日本側としては予防衛生研究所がその世話をすることとなり、昭和23年2月以来準備を始め、昭和24年2月広島市に原子爆弾影響研究所(Atomic Bomb Casualty Commission, Laboratory-略名ABCC)を新設し、次で長崎市にも研究分室を設けて調査研究を開始した。
爾来、広島及び長崎に於けるABCC研究所の職員は熱心に調査研究せられて、夫々成績を挙げておられるようではあるが、もともと、原子爆弾の被爆者を主な対象としての仕事であるために、色々と困難な事情があり且つ研究所の行き方が純アメリカ式であるために、被検者との間に意志の疎通を欠き或は誤解を生ずる等のことも起ったようであった。しかし、時と共に互の理解も出来又互の気持もわかって来て、作業は大体に於て計画通り円満に進んでいるようである。それだけに、他面、仕事の面で或る程度の偏位を余儀なくされている点があるのではなかろうか。他国に於けるこの種の文化事業が甚だ困難なことであることは云うまでもない。ABCC研究所の前所長 Dr.Tessmer もその点に就ては色々と考慮せられていたが、現所長 Dr.Taylor は特にこの点に就ては多大の関心を持ち、熱心にことに当たっていられるようである。
日本側としては、原子爆弾災害に関する医学的調査研究は前述のように、昭和22年度で一先ずその総合的研究を終了したのであったが、その後、広島及び長崎を初めとし、その他の地区に於ても、原子爆弾の被爆者間に色々の後遺症が残されていることが注意せられるようになり、その内でも、既に注目せられているものとしては、貧血症、白血病、白内障等を挙げることが出来よう。又関係医家の間では、被爆生存者が時々異常な病像を示すことがあることが認められ、或は次のような機転によるのではないかとも考えられ始めている。即ち、強力な放射能による傷害の結果として、生存者にも、色々の内臓の障碍が残されており、平素は特別の故障はないにしても、何等か異常の状況が起って病的現象の発現を見る場合には、それ等内臓の機能障碍が、これに関連して、特殊な病像を示すのではなかろうかとの考え方である。
原子爆弾被爆生存者はその大部分が現在も猶広島及び長崎地区に居住しているが、昭和25年10月の国勢調査の結果から判断しても、意外に多くの人々が、日本内各地に転住して、ちらばっているようである。
従って、それ等の人々に就て適切な健康管理を行うことは我邦医学徒の責務であらねばならない。
昭和23年以来、一時下火になっていた我邦における原子爆弾災害の調査研究熱が、そのような関係から、最近、再び盛んとなり、それ等と関連する熱、光、放射能等による傷害に関する研究と共に、各学会等に発表せられるものが漸くその数を増して来たようである。特に、この方面には密接な関係を持つ病理学会、血液病学会、放射線医学会等に於ては、夫々の立場から放射線傷害対策委員会を設けて総合研究を始めるに至った。
そこで、昭和26年暮頃から、有志の間で、この際再び原子爆弾災害調査研究の統合機関を設けてはとの話合が進められていた。ところが昭和27年1月26日広島ABCC研究所々長 Dr.Taylor 初め主要研究員の方々が東京に来られ、日本学術会議の肝入で、ABCCの事業の紹介並に業績発表の講演会が開かれ、同時にABCC及び予防衛生研究所関係の方々と、日本学術会議関係者との懇談も行われた。その結果、統合研究機関設立の議が急に具体化し、塩田広重博士を代表者として原子爆弾災害調査研究班が組織せられることとなったのである。
今般設立を見た原子爆弾災害調査研究班は上述のような事情で生れ出でたものであるから、その発足に当っては、特に次の諸点に就て、特別の考慮が払われなければならない。
1.本研究班の研究項目は純学問的の点だけでなく、あらゆる面で、国際的の性質を帯びていること。
2.アメリカ側の研究所が広島市及び長崎市で研究所を設け、充実した陣容で、すでに3ケ年余研究に従事しており、その初めから、日本側としては予防衛生研究所がその世話係をしていること。
3.広島市及びその付近では、広島医科大学及び日本赤十字社広島支部病院、広島県立病院、広島逓信病院等が従来からの関係で引続いて研究していること。
4.長崎市及びその付近では長崎大学医学部が従来の関係から引続いて研究をしていること。
5.病理学会、血液病学会及び放射線医学会では何れも放射線傷害対策委員会を設けて、夫々の立場から研究が始められたこと。
従って、原子爆弾災害調査研究班はその運営にあたって、特に次の諸点を強調すべきものと思う。
1.本研究班は今後我邦学会独自の立場で運営せられるべきこと。
2.本研究班は今後我邦に於ける原子爆弾災害調査研究の権威ある機関として存在し、既存研究団体間の統合連絡機関として活動するように運営せらるべきこと。
3.本研究班は予防衛生研究所を通じ、アメリカABCC研究所とは常に密接な連絡をとり、相互に協力し得るように運営せらるべきこと。
本研究班の編成にあたっては、上述の事情が考慮され、研究事項に関しては、権威ある独自の研究が十分に行われ得ると共に、各方面との円滑な連絡、相互の協力が支障なく達成し得られるように注意されて、別紙のような研究員の構成によって編成せられたのである。
本研究班の研究項目は最もその重要性が認められている医学部門に於けるものから着手するよう計画されており、第一年度(昭和27年度)に於ける研究計画項目は次の通りに定められた。
1.原子爆弾災害に関する未完結調査及び研究の継続
2.被爆者後遺症に関する調査研究
3.被爆者屍体の病理学的研究
4.原子爆弾災害に関連する基礎的研究
第二年度(昭和28年度)以降に於ては、次の方針で運営せられることとなる予定である。
1.第1年度の研究を継続し且つ増強する。
2.本研究を更に生物学的分野に拡大する。
3.研究成果の出版計画。
[以下略]
ふじい へいいち | 19150807生 | 19960417没 |
略歴 | |
広島市民生委員連盟理事 | |
広島市社会福祉協議会理事 | |
1954.09 | 原水爆禁止運動広島協議会常任委員 |
1955.05 | 原水爆禁止世界大会広島準備会財政副委員長 |
1955.09 | 原水爆禁止日本協議会常任理事 |
1955.11 | 原水爆禁止広島協議会事務局次長 |
1955.11 | 原水爆禁止広島協議会原爆被害者救援委員会幹事長 |
1956.02 | 広島県原爆被害者大会実行委員会事務局長 |
1956.05 | 広島県原爆被害者団体協議会代表委員・事務局長 |
1956.05 | 全国社会福祉協議会原爆被害者救援特別小委員会代表 |
1956.08 | 日本原水爆被害者団体協議会事務局長 |
原爆被害問題研究の恩師
「先生は、原水爆禁止運動について、どう思われますか」、「忘れた」。「先生は、第1回原水爆禁止世界大会の中で重要な役割を果たされています。何か思い出されることは、ありませんか」、「忘れた」。1995年12月のある日、原爆医療法制定当時に広島市の医師会の幹部だったドクターのお宅で、数回繰り返されたQ&Aです。それまで、「原爆医療法の成立」(広島大学テレビ公開講座用の1テーマ)過程について、打ち解けてお話してくださっていたドクターの顔が、突然無表情になりました。私のシナリオでは、原水禁運動が原爆医療法成立に果たした積極的な役割(藤居さんから学んだことです)が予定されています。カメラは回り続けています。窮地に立った私は、「藤居さんをご存知ですか」と話題を変えてみました。ドクターの表情が緩みました。「良く知っている。快男児だった」。会話がつながりました。シナリオどおりにはなりませんでしたが、インタビューを無事終えることができました。
私自身が藤居さんに初めてお会いした(熊田重邦先生の紹介)のは、1980年(昭和55)4月26日のことです。しかし、その3年前の1977年に「藤居資料」に出会っています。それは、広島大学法学部の北西允研究室の2箱の段ボールの中にありました。当時、私は、日本人の核意識をテーマとする文部省の研究班(庄野直美班長)の仕事で同研究室に出入りしていました。この研究が一段落ついた7月、北西教授は、私に、この資料を生かして欲しいと託されました。聞けば、それは、石井金一郎教授が日本の原水爆禁止運動の歴史をまとめるために藤居さんから借用したもので、石井教授の死(1967年)後、同教授が預かっていたとのことでした。 私は、大学卒業後約6年間、広島県史編さん室に勤務し、今堀誠二・熊田の両先生の指導の下で、『広島県史・原爆資料編』編纂業務に従事しており、原爆問題に関する資料は、かなりのものに目を通していたつもりでいました。しかし、「藤居資料」(簿冊13冊、一点資料も含めた総点数は429点)のほとんどは、初めて目にするものでした。学生時代、数人の先輩から、歴史研究を志すものにはいつか自分の研究を方向づける資料との運命的な出会いが訪れると聞かされていました。「藤居資料」と出会った私は、とっさに「これだ!」と思いました。早速、勤務先の原爆放射能医学研究所で、整理に取りかかり、8月末には目録を作成しました。この経緯を熊田先生に伝えたところから、資料の主であった藤居さんとの出会いが実現したわけです。 それから15年の間の私の原爆被害問題研究の歩みは、藤居さんとともにありました。翌年から始まった藤居さんへの聞き取りは、1984年まで続きました。その録音テープは、120分テープで60本に及んでいます。その成果は、広島大学原爆被災学術資料センター資料調査室発行の『資料調査通信』に「まどうてくれ-藤居平一聞書」として8回(第5号1981年12月号から第29号1984年1月号)にわたり、まとめさせていただきました。 この作業の中で、藤居さんは、原爆被爆者運動草創期に活躍された多くの人々に紹介してくださいました。中でも忘れられないのは、原水爆禁止日本協議会が製作した映画「生きていてよかった」の関係者との出会いです。1982年3月には、草月流の勅使河原宏家元(この映画の助監督)が出席された同派の広島支部の会合に、原爆乙女の会の会員だった人たちと一緒に参加させていただきました。また、同年7月には、藤居さんの発案で、映画に出演された主だった方々を招いて、広島市の平和記念館で同映画の上映会を開催しました。関係者の招待に奔走されたのは竹内武さんでしたが、私も映写技師として裏方を勤めさせていただきました。 竹内さんから日本原水爆被害者団体協議会の初期資料である「平和会館資料」を借用したのは、この上映会から5日後のことでした。この資料との格闘は、1985年6月まで続きました。この間に整理した資料(1963年の原水爆禁止運動分裂までのもの)は、単行本・パンフレット・逐次刊行物合わせて901点4373冊、文書綴・ノート類は55冊3897点、一点資料1287点に及ぶものでした。 1995年10月26日夜、藤居さんから自宅に電話がありました。日赤病院からとのことで、7月下旬に広島で開催されたパグウォッシュ会議のことや、広島大学原医研に新たに導入された機器のことを話されました。しかし、突然、すごい剣幕で怒鳴られたかと思うと、電話が切れてしまいました。病室の電話の接続にトラブルが生じたものと思い、再び電話がかかるのを待っていましたが、かかっては来ませんでした。そして、これが、私が聞いた藤居さんの最後の声となりました。「藤居平一聞書」のために録音テープを取り始めたのは日赤病院の病室でした。そして、最後の声も同病院内からのもの。私には、入院生活の合間に藤居さんからお話を伺っていたような印象があります。今では、翌朝すぐにお見舞いにゆくべきだったと悔やんでいますが、その時は、死につながる病とは思ってもいませんでした。 藤居さんの原爆被害に対する関心は、この15年間に、大きく変りました。「まどうてくれ」の作業に応じてくださった気持ちを、「紙の碑を残したい」と語られていました。いわば関心は、「過去」あったわけです。ところが、その後、関心が「現在・未来」へ移りました。時期的には、1990年前後と記憶しています。この頃から藤居さんは、私にしばしば原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申に対する批判や原爆被害を調査・研究する「医者・科学者グループ」の組織化への協力を要請されました。しかし、私には、荷が重すぎて積極的な回答ができません。その度に励ましとお叱りを受けました。藤居銘木に残された資料を1996年7月30日に頂いて帰りましたが、同社の高瀬さんが丁寧に準備されたその資料からは、お亡くなりになる直前まで、藤居さんがこれらの問題と取り組まれていた様子が伝わってきました。 藤居さんは、私に多くの宿題を残して逝かれました。「庶民の歴史を世界史にする」、これは藤居さんから私が聞いた好きな言葉の一つです。過去10年間、私は原爆手記の収集と分析を行ってきましたが、この作業を私は藤居さんへのレポートと考えています。 1996年5月のある夜、私は広島駅前の飲み屋で、二人の先生と同席していました。広島在住のA先生が、友人であるB先生(日本の平和運動のリーダーの一人)に、原水爆禁止運動に関心を持つ私を引き合わしてくださったのです。何から話してよいか迷った私は、「藤居さんをご存知ですか」と聞いてみました。即座に出た答は、「日本被団協を作った人でしょ」でした。1955年当時、B先生にとって藤居さんは雲の上の存在だったそうです。しかし、しばしば原水爆禁止運動関係の会合でお目にかかったことがあるとのことでした。初対面の会話が、これを機にはずんだことは言うまでもありません。 同じ年の7月、私は、信濃毎日新聞社に1956年当時の長野県内の被爆者組織について問い合わせの電話を入れました。「藤居資料」では、日本被団協は、広島・長崎・愛媛・長野の4県の被爆者組織で出発したことになっています。しかし、藤居さんは、長野の組織の状況をご存知なかったのです。同社からは、オリンピック関連の取材で手一杯であるが、あなたが長野に調査に来れば、そのこと自体を記事にすることができる、それによって当時の状況を知る手がかりが得られるのでは、との親切な回答をいただきました。 私は、藤居さんの「現在・未来」の課題にはお役に立つことができませんでした。しかし、私の「過去」との取り組みは、これからも藤居さんととともに続きます。 |