「04月忌」カテゴリーアーカイブ

都築正男

都築正男(つづき・ まさお)略歴

1892(明治25)年10月20日 兵庫県姫路市に生まれる。
1913(大正2)年7月1日 第一高等学校卒業
1917(大正6)年12月6日 東京帝国大学医科大学医学科卒業
1917(大正6)年12月19日 海軍中軍医
1923(大正12)年4月1日 海軍軍医学校選科学生。東京帝国大学大学院入学
1925(大正14)年2月16日 東京帝国大学助教授、高等官5等に叙せらる。歯科口腔外科研究のため満2年間ドイツ・アメリカ合衆国に留学。
1929(昭和4)年2月6日 東京帝国大学教授(歯科学講座担当)
1934(昭和9)年3月31日 歯科学講座を免ぜられ、第2外科学講座を担任。
1936(昭和11)年9月10日 アメリカ合衆国へ出張。
1939(昭和14)年11月15日 海軍軍医少将に任ぜらる。12月21日、海軍予備役編入。
1940(昭和15)年6月14日 ドイツへ出張。

 

1946(昭和21)年8月3日 文部教官を免ぜらる(海軍将官のため公職・教職追放)。
1947(昭和22)年7月16日 都築正男を原子爆弾傷害調査委員会より解任。
1952(昭和27)年10月10日 東京大学名誉教授
1954(昭和29)年9月30日 日本赤十字社中央病院長。同社輸血研究所長。
1958(昭和33)年9月17日 姫路市初の名誉市民の称号を贈られる。
1958(昭和33)年月日 西独赤十字功労章。
1959(昭和34)年7月2日 日本放射線影響学会初代会長。
1960(昭和35)年6月日 発病。
1961(昭和36)年4月5日 死去。

出典:『都築正男研究業績目録 1925-1960-都築正男大人命20年祭』(広島市史編纂室編、都築正和発行、19810405)

著書

書名コード 書名 編著者 発行所
54023301 医学の立場から見た原子爆弾の災害 都築正男 医学書院
81033104 広島新史・資料編Ⅰ-都築資料 広島市(編) 広島市
81040501 都築正男研究業績目録 1925-1960-都築正男大人命20年祭 広島市史編纂室 都築正和

 

論文

Y M D ZASSIMEI TITLE メモ
45 10 01 日本医事新報 原子爆弾による広島市の損害に就いて 5P以下欠
45 10 01 総合医学 所謂「原子爆弾傷」に就いて-特に医学の立場からの対策 ゲタバキ部分あり。「昭和20年9月8日米国原子爆弾損害調査団を案内して広島市へ向ふ時記す」
54 01 25 日本週報 赤十字精神で原爆を禁止せよ
54 06 広島医学 外科臨床の立場から考察した原子爆弾傷、特にその後遺症状に就て
54 08 思想 歐米に於ける原子力と放射能障害との問題
54 08 改造 キューリー夫妻を訪ねて
54 08 外科 (座談会)放射能症の権威に聞く-ビキニの灰をめぐって 都築正男・中泉正徳・筧弘毅・清水健太郎・石川浩一・柳壮一
54 08 05 思想 欧米に於ける原子力と放射能障害との問題
54 10 15 日本医師会雑誌 慢性原子爆弾症の診断と治療について
54 11 中央公論 水爆傷害死問題の真相
54 11 01 日本医師会雑誌 放射能障害について
54 11 15 日本医師会雑誌 原爆熱傷後の瘢痕異状に対する皮膚移植成形術について
54 12 保健医学雑誌 放射能障害の予後について
55 01 自警 医学的に見た原水爆の災害 「原水爆禁止運動資料集第4巻」の情報。
55 02 東京医学雑誌 広島長崎の被爆とビキニの被灰
55 04 平和 原子力医学のために
55 08 01 婦人朝日 特集・原子力とはどういうものか-女性として知りたい疑問のかずかず 崎川範行・武谷三男・都築正男(解答者)
55 11 学術月報 生物学並びに医学領域の話題と感想
56 04 01 世界 原水爆と放射能禍
56 08 学術月報 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会に出席して
57 01 学術月報 原子放射線影響調査に関する国連科学委員会第2回会議に出席して
57 04 総合医学 核爆発に伴う人工放射性物質の影響-国際連合科学委員会を中心として
57 05 01 世界 核爆発と放射能
57 06 学術月報 原子放射線影響調査に関する国連科学委員会第3回会議に出席して
58 02 学術月報 わが国における放射能影響調査の研究体制について-問題点提起ならびに討 都築正男[座長]
58 02 学術月報 国連科学委員会について
58 05 学術月報 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第四回会議に出席して
58 08 10 週刊朝日 (徳川夢声連載対談)問答有用 都築正男・徳川夢声
58 09 学術月報 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第5回会議に出席して
58 10 国連評論37-10 国連科学委員会に関する報告
58 12 日本臨床外科医会雑誌 原子爆弾傷害の本態とその後遺症
59 03 学術月報 「原子力時代の人類への放射線影響に関するシンポジウム」について
59 07 学術月報 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第6回会議に出席して
59 07 学術月報 ICRP新勧告の意義
59 11 01 原子爆弾後障害研究会講演集[第1回] 原子爆弾による障害の研究経過について(総括講演)

 

川手健

川手健

かわて・たけし 19310213生
19600428没
広島市大手町生まれ。県立忠海中学校在学中に広島の工場に動員中被爆。広島高等学校理科を経て広島大学文学部を専攻。1952年、原爆被害者の会を結成。東京都内で自殺。29歳。

資料

文献
19521101 川手健「七年後の廣島」(『新日本文学』)
19530625 『原爆に生きて 原爆被害者の手記』(原爆手記編纂委員会、三一書房)
19540215 『風のように炎のように-峠三吉追悼集』
19550109 川手健「原爆被害者の青年クラブのこと」(『われらのうたの会』第3号)
19950806 『川手健を語る』(川手健を語る会編、ウイウド・岡本智恵子)

資料

川手健=「原爆被害者自身の口から全世界に向って原爆の惨禍と平和の必要を訴えるその意義は大きい。原爆の投下が世界史的な大事件であるなら、その被害者が立上がって原爆の反対を叫ぶこともまさに世界史的な出来事である。このことの重要性についてはまだまだ本当に考えている人は少ない様に思う。」
(「半年の足跡」、『原爆に生きて』、三一書房、1953年、所収)

4月忌(一覧)

 

没年 氏名 読み 享年 備考
01 2012 森亘 もり・わたる 86 元東京大学総長。原爆死没者慰霊等施設基本問題懇談会座長。<投稿
01 2016 藤村耕市 ふじむら・こういち 86 元三次地方史研究会会長。<投稿
01 2020 山西義政 やまにし・よしまさ 97 (株)イズミ(広島県広島市、山西泰明社長)創業者。1997年、個人コレクションを中心に泉美術館を開設。<資料年表:山西義政
02 1984 渡辺漸 わたなべ・すすむ 80 広島大学原医研初代所長。自宅を訪問、面談、資料閲覧・借用。
02 2005 ヨハネ・パウロ二世 ぱうろ 84 4月2日(日本時間3日)。1981年2月25日広島訪問。<『教皇訪日公式記録 ヨハネ・パウロⅡ世』主婦の友社、19810402><投稿
02 2008 大北威 おおきた・たけし 83 広島大原爆放射線医科学研究所所長。ノーベル平和賞を受賞(1985年に)した「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」のメンバー。<投稿><資料年表:大北威
02 2016 居森清子 いもり・きよこ 82 広島の本川国民学校で被爆、児童で唯一の生存者。西本雅実「評伝」(『中国新聞』2016.4.5)
03 2011 長崎源之助 ながさき・げんのすけ 87 児童文学作家。『広島県現代文学事典』(瀬崎圭二・記)
04 0984 伊藤実雄 いとう・じつお 1946年4月の総選挙で広島全県区(当時)から初当選、1期。『古稀を越えて 伊藤實雄』(1982.2.25)<投稿
04 1997 杉村春子 すぎむら・はるこ 91 女優。本名:石山春子。広島市出身で、被爆ドラマに出演。。映画吹き込み場に立ち会う。『広島県現代文学事典』(九内悠水子・記)。<投稿
05 1958 岡本尚一 おかもと・しょういち 66 弁護士。広島・長崎の被爆者とともに原爆求償同盟を組織し、1955年4月、東京地裁に、原爆投下の国際法違反を明確にし、被害の賠償を求める訴訟を起こす。<『原爆民訴或問』
05 1960 楮山ヒロ子 かじやま・ひろこ 17 広島で被爆。急性リンパ性白血病のため広島市民病院で死亡。<投稿>。<原爆ドームと楮山ヒロ子
05 1961 都築正男 つづき・まさお 68 東京帝国大学教授。遺族宅を調査<投稿
05 1964 マッカーサー、ダグラス・ 84 連合国軍最高司令(1945~50年)
07 1971 椎尾弁匡 しいお・べんきょう 94 全日本仏教会副会長、大正大学学長、増上寺大僧正[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。
07 1990 大原亨 おおはら・とおる 74 元社会党代議士(広島選出)。党原爆対策特別委員会などを歴任。衆議院議員。『志あるところ必ず道あり 大原亨追悼録・遺稿集』(発行編纂委員会、19910806)。宇吹の高校時代の同級生の父。
07 1957 羽仁もと子 はに・もとこ 83 自由学園長・全国友の会会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。
08 1982 上代タノ じょうだい・たの 95 「世界平和アピール七人委員会」のメンバー。1956年から9年間、日本女子大学学長。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。
09 2010 井上ひさし いのうえ・ひさし 75 日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任。<投稿
10 1959 瀬戸奈々子 せと・ななこ 27 『かえらぬ鶴』(瀬戸奈々子・林田みや子、二見書房、19611012)
10 2004 小黒薫 おぐろ・かおる 90 1974~1978年、広島女学院大学長<投稿
11 2001 稲賀敬二 いなが・けいじ 73 国文学者。平安文学。1947年(昭和22年)広島高等学校文科甲類卒業。広島大学名誉教授。『明日何方ぞ迷い猫 稲賀敬二遺文集』<資料年表:稲賀敬二
11 2016 ユソフ、ペンギラン ゆそふ、ぺんぎらん 94 元南方特別留学生として広島文理科大学に在学中被爆。元ブルネイ首相。<投稿
12 2017 葉山、ペギー はやま、ぺぎー 83 歌手。祖父が広島で被爆死。1965年広島賛歌「ああ広島」を歌い、レコード化。第1回「広島平和音楽祭」に出演。
13 1980 蜂谷道彦 はちや・みちひこ 76 「ヒロシマ日記」の著者で被爆者。<投稿
14 1986 ボーボワール、シモーヌ・ド・ ぼーぼわーる 78 仏の作家。1966年10月、来広し、原爆資料館などを見学。<宇吹=京都での講演会を聞く
14 2001 勅使河原宏 てしがわら・ひろし 74 映画監督、草月流家元。<投稿>。
15 1980 サルトル、ジャン・ポール・ さるとる 仏の哲学者。1966年来広し、原爆病院など訪問。長崎も訪問。
15 19895 調来助 しらべ・らいすけ 長崎大名誉教授(被爆者)。「医師の証言・長崎原爆体験」などの著者。長崎市栄誉市民。
16 1972 川端康成 かわばた・やすなり 72 日本ペンクラブ会長[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。<投稿
17 1992 秦野裕子 はたの・ひろこ 広島大学原医研事務官。職場の同僚
17 1996 藤居平一 ふじい・へいいち 80 日本被団協初代事務局長。聞き書きを作成
18 1955 アインシュタイン、アルバート あいんしゅたいん 76 理論物理学者。ユダヤ系ドイツ人。ナチスに追われて渡米。ルーズベルト大統領に原爆開発を提言。Albert Einstein
18 1961 長田新 おさだ・あらた 75 広島大学教授。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。[51広島大学平和問題研究会理事]。[日本原水協代表委員]。<「原爆の子」の父長田新
18 1971 大木正夫 おおき・まさお 69 作曲家。交響曲「ヒロシマ」。
18 1993 羽原好恵 はばら・よしえ  47 RCC勤務。研究会で面識。<投稿
18 2016 金子満広 かねこ・みつひろ 91 日本共産党書記局長、衆議院議員など歴任。
22 1981 ダフ、ペギー だふ・ 71 イギリス生まれの平和運動家。「軍縮と平和のための国際連合」(ICPP)書記長。1977年以降の原水爆禁止統一世界大会の大会宣言起草委員長を務める。
22 1985 原田勉 はらだ・つとむ 1953「酔心」旗揚げ。『なに糞経営愕』(原田勉、朝日書院、19650625)
22 2000 武谷三男 たけたに・みつお 88 理論物理学者で素粒子論の第一人者。戦時中、理化学研究所で仁科芳雄に協力し原爆開発研究に従事。<投稿予定>
23 1960 賀川豊彦 かがわ・とよひこ 72 [50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。国際平和協会会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。キリスト教社会運動家。『広島県現代文学事典』(田辺健二・記)
23 1973 阿部知二 あべ・ともじ 69 小説家。1950年?イギリスで開かれた世界ペン大会に参加、田辺耕一郎から託された被爆アルバムや資料をもとに広島の惨状を訴える。
23 2011 森井忠良 もりい・ちゅうりょう 81 『明日を創る―提言・新世紀の社会保障』(森井忠良、NTT出版、1996.6.6)。1972年、旧広島2区で旧日本社会党から衆議院議員に初当選、1996年に落選するまで7期。村山富市改造内閣で厚生大臣。社会党原爆被爆者対策特別委員長など。宇吹と同郷。
23 2012 山田浩 やまだ・ひろし 87 広島大学教授。専攻は政治史・国際関係論。<資料年表:山田浩
24 1988 広瀬ハマコ ひろせ・はまこ 83 元広島女学院理事長。<投稿
24 2017 藤居みえ ふじい・みえ 藤居平一夫人。<投稿予定>
24 2008 深川宗俊 ふかがわ・むねとし 87 歌人。本名:前畠雅俊=まえはた・まさとし)。旧三菱重工業の韓国人徴用工の指導員。三菱広島・元徴用工被爆者裁判を支援する会共同代表。<投稿
25 1951 藤野七蔵 ふじの・しちぞう 65 『藤野七蔵氏追懐録』(藤野七蔵氏追懐録編纂委員会、広島瓦斯株式会社内、1952年4月25日)<投稿
28 1960 川手健 かわて・たけし 県立忠海中学校在学中に広島の工場に動員中被爆。広島高等学校理科を経て広島大学文学部を専攻。1952年、原爆被害者の会を結成。偲ぶ会に参列。『広島県現代文学事典』(小宮山道夫・記)<資料年表:川手健
28 1962 西本敦 にしもと・あつし 日本山妙法寺僧侶。日ソ協会支部事務局長。1958年原水禁世界大会で、広島-東京間の第1回平和大行進の全コースを歩く。
28 2009 粟津潔 あわづ・きよし 80 「ヒロシマ・アピールズ」ポスター第2作を制作。
30 1977 森脇幸次 もりわき・こうじ 68 中国新聞論説委員、取締役編集局長、中国地方経済連合会常務理事。<投稿

 

都築正男「原子爆弾災害調査研究班に就て」(1952年9月)

都築正男「原子爆弾災害調査研究班に就て」

今般、科学研究費交付金総合研究計画に基いて、新に『原子爆弾災害調査研究班』が設けられることとなり、過日、研究班の編成を終わり愈々その作業を始めることになった。就ては、その発足に当り、新研究班が設けられるに至った動機と経緯とを述べ且つ研究班運営の方針を考察し、以て関係各位の御参考に供したい。

昭和20年8月上旬広島市及び長崎市に落とされた原子爆弾によって発生した災害に就いては、当時設けられた文部省学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会に於て詳しい調査研究が行われ、我邦学界の総力を挙げて、その真相を明らかにすべく努力せられたのであった。特別委員会の仕事は前後3ケ年に亘って継続せられ、その間、アメリカ側から派遣せられた原子爆弾調査団とも協力し、理学、生物学、工学、医学、農学等の領域に亘って、広汎研究が行われ、多くの報告が出来上がった。

そこで、原子爆弾災害調査研究特別委員会は、その後、調査研究報告を発表し且つ刊行しようとしたが、色々な事情で、ことが円滑に進行せず且つ刊行費の調達に就いても困難があり、ために延々となっていたことは遺憾なことであった。ところが、その後新しく発足した日本学術会議はこの刊行事業を学術研究会議から引継ぎ、幸にして、刊行費の調達に就いても見透しがついたので、昭和26年8月先づ『総括篇』として概要を記した部分を刊行し、次で『各論篇』として報告書全部を刊行し得る配となったのであって、各論篇は昭和27年秋頃発刊の予定である。

原子爆弾災害に関する総合的の調査研究は前述のように、約3ケ年に亘る特別委員会の作業によって大略終了し、昭和23年以後は特に興味を持つ研究者が夫々の立場から、原子爆弾災害そのもの、或いはそれと直接間接に関連のある事項に就いて、個別的に調査研究をせられていたばかりであったので、纏った報告として発表せられたものは多くない。

一方アメリカ側は昭和22年6月原子爆弾の災害に就て、主として医学的の立場から長期に亘る調査研究を行うことを計画し、日本側としては予防衛生研究所がその世話をすることとなり、昭和23年2月以来準備を始め、昭和24年2月広島市に原子爆弾影響研究所(Atomic Bomb Casualty Commission, Laboratory-略名ABCC)を新設し、次で長崎市にも研究分室を設けて調査研究を開始した。

爾来、広島及び長崎に於けるABCC研究所の職員は熱心に調査研究せられて、夫々成績を挙げておられるようではあるが、もともと、原子爆弾の被爆者を主な対象としての仕事であるために、色々と困難な事情があり且つ研究所の行き方が純アメリカ式であるために、被検者との間に意志の疎通を欠き或は誤解を生ずる等のことも起ったようであった。しかし、時と共に互の理解も出来又互の気持もわかって来て、作業は大体に於て計画通り円満に進んでいるようである。それだけに、他面、仕事の面で或る程度の偏位を余儀なくされている点があるのではなかろうか。他国に於けるこの種の文化事業が甚だ困難なことであることは云うまでもない。ABCC研究所の前所長 Dr.Tessmer もその点に就ては色々と考慮せられていたが、現所長 Dr.Taylor は特にこの点に就ては多大の関心を持ち、熱心にことに当たっていられるようである。

日本側としては、原子爆弾災害に関する医学的調査研究は前述のように、昭和22年度で一先ずその総合的研究を終了したのであったが、その後、広島及び長崎を初めとし、その他の地区に於ても、原子爆弾の被爆者間に色々の後遺症が残されていることが注意せられるようになり、その内でも、既に注目せられているものとしては、貧血症、白血病、白内障等を挙げることが出来よう。又関係医家の間では、被爆生存者が時々異常な病像を示すことがあることが認められ、或は次のような機転によるのではないかとも考えられ始めている。即ち、強力な放射能による傷害の結果として、生存者にも、色々の内臓の障碍が残されており、平素は特別の故障はないにしても、何等か異常の状況が起って病的現象の発現を見る場合には、それ等内臓の機能障碍が、これに関連して、特殊な病像を示すのではなかろうかとの考え方である。

原子爆弾被爆生存者はその大部分が現在も猶広島及び長崎地区に居住しているが、昭和25年10月の国勢調査の結果から判断しても、意外に多くの人々が、日本内各地に転住して、ちらばっているようである。

従って、それ等の人々に就て適切な健康管理を行うことは我邦医学徒の責務であらねばならない。

昭和23年以来、一時下火になっていた我邦における原子爆弾災害の調査研究熱が、そのような関係から、最近、再び盛んとなり、それ等と関連する熱、光、放射能等による傷害に関する研究と共に、各学会等に発表せられるものが漸くその数を増して来たようである。特に、この方面には密接な関係を持つ病理学会、血液病学会、放射線医学会等に於ては、夫々の立場から放射線傷害対策委員会を設けて総合研究を始めるに至った。

そこで、昭和26年暮頃から、有志の間で、この際再び原子爆弾災害調査研究の統合機関を設けてはとの話合が進められていた。ところが昭和27年1月26日広島ABCC研究所々長 Dr.Taylor 初め主要研究員の方々が東京に来られ、日本学術会議の肝入で、ABCCの事業の紹介並に業績発表の講演会が開かれ、同時にABCC及び予防衛生研究所関係の方々と、日本学術会議関係者との懇談も行われた。その結果、統合研究機関設立の議が急に具体化し、塩田広重博士を代表者として原子爆弾災害調査研究班が組織せられることとなったのである。

今般設立を見た原子爆弾災害調査研究班は上述のような事情で生れ出でたものであるから、その発足に当っては、特に次の諸点に就て、特別の考慮が払われなければならない。

1.本研究班の研究項目は純学問的の点だけでなく、あらゆる面で、国際的の性質を帯びていること。

2.アメリカ側の研究所が広島市及び長崎市で研究所を設け、充実した陣容で、すでに3ケ年余研究に従事しており、その初めから、日本側としては予防衛生研究所がその世話係をしていること。

3.広島市及びその付近では、広島医科大学及び日本赤十字社広島支部病院、広島県立病院、広島逓信病院等が従来からの関係で引続いて研究していること。

4.長崎市及びその付近では長崎大学医学部が従来の関係から引続いて研究をしていること。

5.病理学会、血液病学会及び放射線医学会では何れも放射線傷害対策委員会を設けて、夫々の立場から研究が始められたこと。

従って、原子爆弾災害調査研究班はその運営にあたって、特に次の諸点を強調すべきものと思う。

1.本研究班は今後我邦学会独自の立場で運営せられるべきこと。

2.本研究班は今後我邦に於ける原子爆弾災害調査研究の権威ある機関として存在し、既存研究団体間の統合連絡機関として活動するように運営せらるべきこと。

3.本研究班は予防衛生研究所を通じ、アメリカABCC研究所とは常に密接な連絡をとり、相互に協力し得るように運営せらるべきこと。

本研究班の編成にあたっては、上述の事情が考慮され、研究事項に関しては、権威ある独自の研究が十分に行われ得ると共に、各方面との円滑な連絡、相互の協力が支障なく達成し得られるように注意されて、別紙のような研究員の構成によって編成せられたのである。

本研究班の研究項目は最もその重要性が認められている医学部門に於けるものから着手するよう計画されており、第一年度(昭和27年度)に於ける研究計画項目は次の通りに定められた。

1.原子爆弾災害に関する未完結調査及び研究の継続

2.被爆者後遺症に関する調査研究

3.被爆者屍体の病理学的研究

4.原子爆弾災害に関連する基礎的研究

第二年度(昭和28年度)以降に於ては、次の方針で運営せられることとなる予定である。

1.第1年度の研究を継続し且つ増強する。

2.本研究を更に生物学的分野に拡大する。

3.研究成果の出版計画。

[以下略]

藤居平一

 

ふじい へいいち 19150807生 19960417没

 

 略歴
広島市民生委員連盟理事
広島市社会福祉協議会理事
1954.09 原水爆禁止運動広島協議会常任委員
1955.05 原水爆禁止世界大会広島準備会財政副委員長
1955.09 原水爆禁止日本協議会常任理事
1955.11 原水爆禁止広島協議会事務局次長
1955.11 原水爆禁止広島協議会原爆被害者救援委員会幹事長
1956.02 広島県原爆被害者大会実行委員会事務局長
1956.05 広島県原爆被害者団体協議会代表委員・事務局長
1956.05 全国社会福祉協議会原爆被害者救援特別小委員会代表
1956.08 日本原水爆被害者団体協議会事務局長

 

原爆被害問題研究の恩師

 「先生は、原水爆禁止運動について、どう思われますか」、「忘れた」。「先生は、第1回原水爆禁止世界大会の中で重要な役割を果たされています。何か思い出されることは、ありませんか」、「忘れた」。1995年12月のある日、原爆医療法制定当時に広島市の医師会の幹部だったドクターのお宅で、数回繰り返されたQ&Aです。それまで、「原爆医療法の成立」(広島大学テレビ公開講座用の1テーマ)過程について、打ち解けてお話してくださっていたドクターの顔が、突然無表情になりました。私のシナリオでは、原水禁運動が原爆医療法成立に果たした積極的な役割(藤居さんから学んだことです)が予定されています。カメラは回り続けています。窮地に立った私は、「藤居さんをご存知ですか」と話題を変えてみました。ドクターの表情が緩みました。「良く知っている。快男児だった」。会話がつながりました。シナリオどおりにはなりませんでしたが、インタビューを無事終えることができました。

私自身が藤居さんに初めてお会いした(熊田重邦先生の紹介)のは、1980年(昭和55)4月26日のことです。しかし、その3年前の1977年に「藤居資料」に出会っています。それは、広島大学法学部の北西允研究室の2箱の段ボールの中にありました。当時、私は、日本人の核意識をテーマとする文部省の研究班(庄野直美班長)の仕事で同研究室に出入りしていました。この研究が一段落ついた7月、北西教授は、私に、この資料を生かして欲しいと託されました。聞けば、それは、石井金一郎教授が日本の原水爆禁止運動の歴史をまとめるために藤居さんから借用したもので、石井教授の死(1967年)後、同教授が預かっていたとのことでした。

私は、大学卒業後約6年間、広島県史編さん室に勤務し、今堀誠二・熊田の両先生の指導の下で、『広島県史・原爆資料編』編纂業務に従事しており、原爆問題に関する資料は、かなりのものに目を通していたつもりでいました。しかし、「藤居資料」(簿冊13冊、一点資料も含めた総点数は429点)のほとんどは、初めて目にするものでした。学生時代、数人の先輩から、歴史研究を志すものにはいつか自分の研究を方向づける資料との運命的な出会いが訪れると聞かされていました。「藤居資料」と出会った私は、とっさに「これだ!」と思いました。早速、勤務先の原爆放射能医学研究所で、整理に取りかかり、8月末には目録を作成しました。この経緯を熊田先生に伝えたところから、資料の主であった藤居さんとの出会いが実現したわけです。

それから15年の間の私の原爆被害問題研究の歩みは、藤居さんとともにありました。翌年から始まった藤居さんへの聞き取りは、1984年まで続きました。その録音テープは、120分テープで60本に及んでいます。その成果は、広島大学原爆被災学術資料センター資料調査室発行の『資料調査通信』に「まどうてくれ-藤居平一聞書」として8回(第5号1981年12月号から第29号1984年1月号)にわたり、まとめさせていただきました。

この作業の中で、藤居さんは、原爆被爆者運動草創期に活躍された多くの人々に紹介してくださいました。中でも忘れられないのは、原水爆禁止日本協議会が製作した映画「生きていてよかった」の関係者との出会いです。1982年3月には、草月流の勅使河原宏家元(この映画の助監督)が出席された同派の広島支部の会合に、原爆乙女の会の会員だった人たちと一緒に参加させていただきました。また、同年7月には、藤居さんの発案で、映画に出演された主だった方々を招いて、広島市の平和記念館で同映画の上映会を開催しました。関係者の招待に奔走されたのは竹内武さんでしたが、私も映写技師として裏方を勤めさせていただきました。

竹内さんから日本原水爆被害者団体協議会の初期資料である「平和会館資料」を借用したのは、この上映会から5日後のことでした。この資料との格闘は、1985年6月まで続きました。この間に整理した資料(1963年の原水爆禁止運動分裂までのもの)は、単行本・パンフレット・逐次刊行物合わせて901点4373冊、文書綴・ノート類は55冊3897点、一点資料1287点に及ぶものでした。

1995年10月26日夜、藤居さんから自宅に電話がありました。日赤病院からとのことで、7月下旬に広島で開催されたパグウォッシュ会議のことや、広島大学原医研に新たに導入された機器のことを話されました。しかし、突然、すごい剣幕で怒鳴られたかと思うと、電話が切れてしまいました。病室の電話の接続にトラブルが生じたものと思い、再び電話がかかるのを待っていましたが、かかっては来ませんでした。そして、これが、私が聞いた藤居さんの最後の声となりました。「藤居平一聞書」のために録音テープを取り始めたのは日赤病院の病室でした。そして、最後の声も同病院内からのもの。私には、入院生活の合間に藤居さんからお話を伺っていたような印象があります。今では、翌朝すぐにお見舞いにゆくべきだったと悔やんでいますが、その時は、死につながる病とは思ってもいませんでした。

藤居さんの原爆被害に対する関心は、この15年間に、大きく変りました。「まどうてくれ」の作業に応じてくださった気持ちを、「紙の碑を残したい」と語られていました。いわば関心は、「過去」あったわけです。ところが、その後、関心が「現在・未来」へ移りました。時期的には、1990年前後と記憶しています。この頃から藤居さんは、私にしばしば原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申に対する批判や原爆被害を調査・研究する「医者・科学者グループ」の組織化への協力を要請されました。しかし、私には、荷が重すぎて積極的な回答ができません。その度に励ましとお叱りを受けました。藤居銘木に残された資料を1996年7月30日に頂いて帰りましたが、同社の高瀬さんが丁寧に準備されたその資料からは、お亡くなりになる直前まで、藤居さんがこれらの問題と取り組まれていた様子が伝わってきました。

藤居さんは、私に多くの宿題を残して逝かれました。「庶民の歴史を世界史にする」、これは藤居さんから私が聞いた好きな言葉の一つです。過去10年間、私は原爆手記の収集と分析を行ってきましたが、この作業を私は藤居さんへのレポートと考えています。

1996年5月のある夜、私は広島駅前の飲み屋で、二人の先生と同席していました。広島在住のA先生が、友人であるB先生(日本の平和運動のリーダーの一人)に、原水爆禁止運動に関心を持つ私を引き合わしてくださったのです。何から話してよいか迷った私は、「藤居さんをご存知ですか」と聞いてみました。即座に出た答は、「日本被団協を作った人でしょ」でした。1955年当時、B先生にとって藤居さんは雲の上の存在だったそうです。しかし、しばしば原水爆禁止運動関係の会合でお目にかかったことがあるとのことでした。初対面の会話が、これを機にはずんだことは言うまでもありません。

同じ年の7月、私は、信濃毎日新聞社に1956年当時の長野県内の被爆者組織について問い合わせの電話を入れました。「藤居資料」では、日本被団協は、広島・長崎・愛媛・長野の4県の被爆者組織で出発したことになっています。しかし、藤居さんは、長野の組織の状況をご存知なかったのです。同社からは、オリンピック関連の取材で手一杯であるが、あなたが長野に調査に来れば、そのこと自体を記事にすることができる、それによって当時の状況を知る手がかりが得られるのでは、との親切な回答をいただきました。

私は、藤居さんの「現在・未来」の課題にはお役に立つことができませんでした。しかし、私の「過去」との取り組みは、これからも藤居さんととともに続きます。