栗原登 くりはら・みのる<作業中>
19261130生20160907没 | 享年90歳 | 広島大学原爆放射能医学研究所所長(1985年4月1日~1987年3月)。 |
止
栗原登 くりはら・みのる<作業中>
19261130生20160907没 | 享年90歳 | 広島大学原爆放射能医学研究所所長(1985年4月1日~1987年3月)。 |
止
『広島原爆とアメリカ人 ある牧師の平和行脚 』(谷本清著、日本放送出版協会 、19760720)
内容
章節 | タイトル | 備考 |
序にかえて | ||
1 | 原爆に生き残って | |
1-1 | 運命の八月六日 | |
1-2 | 廃墟の中で | |
1-3 | 一牧師のビジョン | |
2 | 和解の旅 | |
1948年9月~1950年1月(15ケ月間)、31州、256都市、472の教会その他の団体で講演582、聴衆約160000名、旅行距離約65800マイル | ||
2-1 | ピース・センターの構想 | |
2-2 | 第一印象 | |
2-3 | メンジスト教会ミッション・ボードと私 | |
2-4 | 本格的巡回始る | |
2-5 | ピース・センター独自の途を歩む | |
2-6 | 被爆地ヒロシマをどうするか | |
2-7 | 平和請願運動 | |
2-8 | 平和請願運動潰される | |
2-9 | 真珠湾記念日とヒロシマ・デー | |
2-10 | 東京裁判と死刑執行への反応 | |
3 | 嵐の中の平和行脚 | |
1950年9月~1951年7月(8ケ月間)、24州、201都市、242団体 講演295、聴衆約5600名、旅行距離約34500マイル | ||
3-1 | 朝鮮戦争下のアメリカへ | |
3-2 | 講演の新内容を求めて | |
3-3 | ニューヨーク入り | |
3-4 | カズン氏は極めて多忙である | |
3-5 | ヒロシマ・ピース・センター理事会 | |
3-6 | 今回の巡回旅行の特色 | |
3-7 | 嵐の中の平和運動 | |
4 | 原爆乙女アメリカに往く | |
1955年5月5日~同年12月20日(7ケ月間)、26州、195都市、212団体 講演245、聴衆約47500名、テレビ・ラジオ・新聞64、行程約38100マイル | ||
4-1 | 日本における原爆乙女治療始る | |
4-2 | 米国での治療運動始る | |
4-3 | 資金はどのようにして集められたか | |
4-4 | ニューヨークの受容態勢 | |
4-5 | ホスト・ファミリー訪問とカウンセリング | |
4-6 | 原爆乙女の渡米はアメリカに何をもたらしたか | |
〇ヒューストン市の1週間 | ||
〇原爆悲劇に対する読みが深くなった | ||
〇国際時局に対する読みも深くなった | ||
〇募金活動の実情 | ||
〇協力を申し出る4つの病院 | ||
〇一日本人医師の批判とその影響 | ||
4-7 | ピース・センターはどこへ行く | |
4-8 | 平和の営み | |
5 | 「傷痕」の伴をして | |
1975年9月25日~同年12月15日(80日間)、19州、89都市、105協会その他団体 講演148、聴衆約28800名、旅行約38400マイル | ||
5-1 | 「傷痕」ダイジェスト | |
5-2 | 講演後の質問応答 | |
5-3 | 核兵器使用に際して新しい倫理の確立が要請されている | |
5-4 | 「傷痕」のどこに感動したか | |
5-5 | 被爆者治療問題の隘路 | |
5-6 | 被爆者の悩みは被爆者以外には判ってもらえない | |
5-7 | アメリカ講演旅行の総括 |
原爆乙女の会
代表者 | |
谷本清 | |
設立年月日 | |
1950年3月 | |
目的及び事業 | |
当初、原爆障害者が聖書を研究することにより、精神的に立ち上がることを目的として、「原爆障害者更生会」として発足した。会員は原爆乙女の外、男子障害者や高年齢の女子障害者も加わっていた。 | |
<中略> | |
組織内容 | |
会員数約80名 | |
その他の参考事項 | |
この会は、上記のような経過から、現在では男子会員及び女子高齢者会員は徐々に少数となり、現在の原爆乙女の会となった。 | |
『原水爆関係団体名簿』(広島市衛生局原爆被害対策課、19670201) |
原爆傷害者更生会 設立:1951年8月27日
書名コード | 書名 | 編著者 | 発行所 |
49081501 | 平和のともしび-原爆第一號患者の手記 | 吉川清・富田勝己(補註) | 京都印書館 |
50072501 | ヒロシマの十字架を抱いて | 谷本清 | 大日本雄弁会講談社 |
76072002 | 広島原爆とアメリカ人-ある牧師の平和行脚 | 谷本清 | 日本放送出版協会 |
81072401 | 「原爆一号」といわれて | 吉川清 | 筑摩書房 |
サイド・オマール
19450903没 | オマール、サイド | マレーシア出身の南方特別留学生、広島文理科大学在学中被爆、昭和20年9月3日京都で死亡 |
資料
宇吹暁「第29回オマール氏法要」(『広大フォーラム 22期5号』1990年11月20日)https://home.hiroshima-u.ac.jp/forum/1990-11/51.pdf
献花(9月)
![]() |
くず 撮影場所:散歩道、撮影日 9月2日 |
![]() |
ほうづき(倉庫に咲いた) 撮影場所:自宅、撮影日 9月5日 |
![]() |
撮影場所:散歩道、撮影日 9月8日 |
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市) |
小野増平
小野増平 | おの・ますへい | 20110918没 | 享年64 |
中国新聞社入社(1970年4月)、ニューヨーク支局長(1990年8月)・東京支社長(2002年2月)・編集局長(2005年)、広島経済大学メディアビジネス学科教授 (2007年9月)を歴任。 |
関連資料
広島大学文書館蔵 小野増平関係文書目録(広島大学文書館、2017年」2月刊) | ||
谷本清
たにもと・きよし | 19090627生 19860928没 | 享年77 |
日本基督教団広島流川教会牧師。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。原爆乙女の米での手術実現などに尽力。86アキバ・プロジェクト」で来日した米記者、被爆牧師死去の記事(60行余)を掲載。AP通信を通じて米の各メディアに配信。[69原爆被災資料広島研究会]。『広島県現代文学事典』。教会で面談 |
資料
谷本清賞 | |
原爆手記追加 | |
谷本清「原爆とヒロシマ」(『住みよいまちを!通信』、発行:住みよいまちをめざす会(広島大学理学部付)、連絡先:広島大学工学部建築学科都市計画研究室 その1=通信第15号(1975.7.15)~その6=通信第32号(1979.3.15)完 |
原爆手記追加
9月に亡くなった人々
日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | |
02 | 1994 | 門秀一 | かど・しゅういち | 79 | 核禁広島県民会議初代議長。広島大学名誉教授。西洋倫理哲学専攻。 |
02 | 1999 | 尾津訓三 | おづ・くんぞう | 65 | 劇作家。広島で被爆。 |
02 | 2017 | 土山秀夫 | つちやま・ひでお | 92 | 元長崎大学長。 |
04 | 1965 | シュバイツァー、アルベルト・ | 90 | 1952年度のノーベル平和賞受賞。1962年6月30日、赤道直下のランバレネの病院で森瀧市郎氏の訪問を受ける。出典:http://www.ne.jp/asahi/nozaki/peace/data/gen_moritaki.html 森瀧宅で、当時のアルバムを前にこの時の話を聞く(宇吹) | |
06 | 1998 | 黒沢明 | くろさわ・あきら | 88 | 「生きものの記録」・「八月の狂詩曲」などを生み出した映画監督。 |
08 | 1981 | 湯川秀樹 | ゆかわひでき | 1949年日本人として初のノーベル物理学賞受賞。[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。「世界平和アピール七人委員会」メンバーとして平和運動にも尽力。[70ヒロシマ会議] | |
15 | 1990 | 土門拳 | どもんけん | 80 | 写真家。1958年に被爆者を写した写真集「ヒロシマ」を発表。『広島県現代文学事典』 |
15 | 2010 | 秋信利彦 | あきのぶ・としひこ | 75 | 元中国放送常務。 |
18 | 2011 | 小野増平 | おの・ますへい | 64 | 中国新聞社入社(1970年4月)、ニューヨーク支局長(1990年8月)・東京支社長(2002年2月)・編集局長(2005年)、広島経済大学メディアビジネス学科教授 (2007年9月)を歴任。 |
19 | 2002 | 好村冨士彦 | こうむら | 71 | 広島文学資料保全の会代表。『広島県現代文学事典』 |
20 | 1981 | 竹下健児 | たけしたけんじ | 55 | 広島大学原医研教授、死去。 |
21 | 2017 | 森本順子 | もりもとじゅんこ | 85 | オーストラリア在住の絵本作家。広島女学院高女在学中にl被爆。 |
23 | 1954 | 久保山愛吉 | くぼやまあいきち | 40 | 第5福龍丸無線長。1954年3月1日にアメリカが南太平洋ビキニ環礁で実施した水爆実験で被曝。 |
27 | バーチェット、ウィルフレッド・ | 72 | ジャーナリスト。広島の被爆のもようを世界に最初に報道。 | ||
27 | 2019 | 布川弘 | ぬのかわ・ひろし | 61 | 広島大学大学院総合科学研究科教授。広島市被爆70年史編集研究会で同席。 |
28 | 1986 | 谷本清 | たにもときよし | 77 | 『広島県現代文学事典』 |
日本基督教団広島流川教会牧師。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。原爆乙女の米での手術実現などに尽力。86アキバ・プロジェクト」で来日した米記者、被爆牧師死去の記事(60行余)を掲載。AP通信を通じて米の各メディアに配信。[69原爆被災資料広島研究会]。教会で面談 | |||||
28 | 1991 | 佐久間 澄 | さくま・きよし | 80 | 広島県原水協理事長・同県被団協理事長。広島大学構内で被爆。お宅で面談、資料を閲覧。 |
佐久間澄
|
さくま・きよし | 19910928生19910928没 | 享年80 |
広島大学名誉教授。広島県原水協理事長・同県被団協理事長。広島大学構内で被爆し、原水禁運動に貢献。広島大学。お宅で面談、資料を閲覧 |
資料
死亡記事 | 1991年9月29日付、中国・朝日・読売・長崎・赤旗 |
追悼文 | 庄野直美(広島女学院大学名誉教授)「佐久間澄氏を悼む 核兵器廃絶に尽力」(掲載新聞不明) |
佐久間澄さんをしのぶ会
日時 | 1992年12月26日 | |
会場 | 広島国際会議場・ダリア(広島平和公園内) | |
資料 | 会への案内(呼びかけ人:) | |
式次第 | ||
遺族礼状 | ||
宇吹宛佐久間書簡(8月26日付) | ||
報道 | 不明紙、赤旗 | |