布川弘
ぬのかわ・ひろし |
1958**生20190927没 |
享年61歳 |
山形県生まれ。広島大学大学院総合科学研究科教授。広島市被爆70年史編集研究会で同席。 |
著書:『“近代都市”広島の形成』(吉川弘文館、2018年)
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はじめに(勝部眞人) |
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1 |
近代日本の秩序形成(近代日本社会における「外来」と「在来」の構造的な連関;歩兵第四十一連隊の福山転営と市制施行への動き;戦間期国際秩序構想と日本―太平洋問題調査会における論議を中心として;国際平和運動における新渡戸稲造と賀川豊彦の役割) |
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2 |
片隅から見た日本の近代(「片隅」に込めた意味;広島藩における海防の端緒と砲術;戦争と神機隊;救民の構想と軍事;武一騒動;成立した新政府への対抗;第五師団の成立;片隅から見た現在) |
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世界の片隅からの視座(勝部眞人) |
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止
資料年表:福島菊次郎<作業中>
年月日 |
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19210315 |
福島菊次郎誕生。 |
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19610801 |
「被爆者の苦悩みつめる福島菊次郎の写真集「ピカドン』」(『中国新聞(夕刊)』平岡敬・記) |
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1963 |
(写真)ヒロシマみやげをつくるのもひと苦労。福島菊次郎氏撮影。<『「原爆一号」といわれて ちくまぶっくす36』(吉川清、筑摩書房、19810724)所収> |
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196608 |
福島菊次郎「原爆白書」(『アサヒカメラ』) |
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19750806 |
福島菊次郎(下関出身のフリーカメラマン)写真展「30年目のゲンバク―放射能遺伝傷害の恐怖」、ギャラリー「アメリア」(東京)で開催。 |
C |
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19820701 |
福島菊次郎「ヒバクシャの戦後」<『原爆展 忘れまい、この惨禍』(朝日新聞東京本社企画部 )所収> |
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19870830 |
『戦争がはじまる 福島菊次郎全仕事集』(福島菊次郎、社会評論社) |
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19890722 |
写真家福島菊次郎の写真展「天皇の戦争責任とヒロシマ」、広島市で開催(小西のぶ子記念館主催、24日まで)。 |
C |
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199508 |
反原発団体「原発いらん!下関の会」主催「反原発写真展」下関市の旧英国領事館で開催。福島菊次郎らの写真。 |
C |
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19950921 |
東京都写真美術館(主催・会場)「核―半減期(広島・長崎の写真)」 |
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19990806 |
原爆・原発・差別などを写した社会派写真家・福島菊次郎の作品を常設展示する写真資料館、下関市内に開館。 |
C |
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20110615 |
「被爆者の苦悩みつめる福島菊次郎の写真集「ピカドン』」<『時代と記憶 メディア・朝鮮・ヒロシマ』(平岡敬、影書房)> |
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20120806 |
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C |
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20121110 |
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C |
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20130201 |
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C |
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20130827 |
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C |
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20130901 |
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C |
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20141019 |
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C |
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20150620 |
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C |
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20150708 |
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C |
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20150714 |
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C |
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20150924 |
福島菊次郎死去 |
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20150926 |
「反原発・反戦貫く 関係者悼む 福島菊次郎氏が死去」(道免雅良・井上龍太郎) |
C |
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20150927 |
「天風録」 |
C |
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20150930 |
那須圭子「福島菊次郎さんを悼む」 |
C |
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20151001 |
『論』写らなかった戦後 私たちが読み取る番(佐田尾信作・論説主幹) |
C |
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20151121 |
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C |
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20151223 |
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C |
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20170626 |
『ピカドン ある原爆被災者の記録』(福島菊次郎著、復刊ドットコム) |
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20220710 |
「書評 福島菊次郎」あざなえる記憶」(那須圭子) |
C |
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止
栗原登 くりはら・みのる<作業中>
19261130生20160907没 |
享年90歳 |
広島大学原爆放射能医学研究所所長(1985年4月1日~1987年3月)。 |
止
『広島原爆とアメリカ人 ある牧師の平和行脚 』(谷本清著、日本放送出版協会 、19760720)
内容
章節 |
タイトル |
備考 |
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序にかえて |
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1 |
原爆に生き残って |
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1-1 |
運命の八月六日 |
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1-2 |
廃墟の中で |
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1-3 |
一牧師のビジョン |
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2 |
和解の旅 |
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1948年9月~1950年1月(15ケ月間)、31州、256都市、472の教会その他の団体で講演582、聴衆約160000名、旅行距離約65800マイル |
2-1 |
ピース・センターの構想 |
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2-2 |
第一印象 |
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2-3 |
メンジスト教会ミッション・ボードと私 |
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2-4 |
本格的巡回始る |
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2-5 |
ピース・センター独自の途を歩む |
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2-6 |
被爆地ヒロシマをどうするか |
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2-7 |
平和請願運動 |
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2-8 |
平和請願運動潰される |
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2-9 |
真珠湾記念日とヒロシマ・デー |
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2-10 |
東京裁判と死刑執行への反応 |
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3 |
嵐の中の平和行脚 |
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1950年9月~1951年7月(8ケ月間)、24州、201都市、242団体 講演295、聴衆約5600名、旅行距離約34500マイル |
3-1 |
朝鮮戦争下のアメリカへ |
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3-2 |
講演の新内容を求めて |
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3-3 |
ニューヨーク入り |
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3-4 |
カズン氏は極めて多忙である |
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3-5 |
ヒロシマ・ピース・センター理事会 |
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3-6 |
今回の巡回旅行の特色 |
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3-7 |
嵐の中の平和運動 |
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4 |
原爆乙女アメリカに往く |
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1955年5月5日~同年12月20日(7ケ月間)、26州、195都市、212団体 講演245、聴衆約47500名、テレビ・ラジオ・新聞64、行程約38100マイル |
4-1 |
日本における原爆乙女治療始る |
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4-2 |
米国での治療運動始る |
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4-3 |
資金はどのようにして集められたか |
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4-4 |
ニューヨークの受容態勢 |
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4-5 |
ホスト・ファミリー訪問とカウンセリング |
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4-6 |
原爆乙女の渡米はアメリカに何をもたらしたか |
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〇ヒューストン市の1週間 |
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〇原爆悲劇に対する読みが深くなった |
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〇国際時局に対する読みも深くなった |
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〇募金活動の実情 |
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〇協力を申し出る4つの病院 |
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〇一日本人医師の批判とその影響 |
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4-7 |
ピース・センターはどこへ行く |
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4-8 |
平和の営み |
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5 |
「傷痕」の伴をして |
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1975年9月25日~同年12月15日(80日間)、19州、89都市、105協会その他団体 講演148、聴衆約28800名、旅行約38400マイル |
5-1 |
「傷痕」ダイジェスト |
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5-2 |
講演後の質問応答 |
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5-3 |
核兵器使用に際して新しい倫理の確立が要請されている |
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5-4 |
「傷痕」のどこに感動したか |
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5-5 |
被爆者治療問題の隘路 |
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5-6 |
被爆者の悩みは被爆者以外には判ってもらえない |
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5-7 |
アメリカ講演旅行の総括 |
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原爆乙女の会
代表者 |
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谷本清 |
設立年月日 |
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1950年3月 |
目的及び事業 |
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当初、原爆障害者が聖書を研究することにより、精神的に立ち上がることを目的として、「原爆障害者更生会」として発足した。会員は原爆乙女の外、男子障害者や高年齢の女子障害者も加わっていた。 |
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<中略> |
組織内容 |
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会員数約80名 |
その他の参考事項 |
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この会は、上記のような経過から、現在では男子会員及び女子高齢者会員は徐々に少数となり、現在の原爆乙女の会となった。 |
『原水爆関係団体名簿』(広島市衛生局原爆被害対策課、19670201) |
原爆傷害者更生会 設立:1951年8月27日
書名コード |
書名 |
編著者 |
発行所 |
49081501 |
平和のともしび-原爆第一號患者の手記 |
吉川清・富田勝己(補註) |
京都印書館 |
50072501 |
ヒロシマの十字架を抱いて |
谷本清 |
大日本雄弁会講談社 |
76072002 |
広島原爆とアメリカ人-ある牧師の平和行脚 |
谷本清 |
日本放送出版協会 |
81072401 |
「原爆一号」といわれて |
吉川清 |
筑摩書房 |
サイド・オマール
19450903没 |
オマール、サイド |
マレーシア出身の南方特別留学生、広島文理科大学在学中被爆、昭和20年9月3日京都で死亡 |

資料
宇吹暁「第29回オマール氏法要」(『広大フォーラム 22期5号』1990年11月20日)https://home.hiroshima-u.ac.jp/forum/1990-11/51.pdf
小野増平
小野増平 |
おの・ますへい |
20110918没 |
享年64 |
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中国新聞社入社(1970年4月)、ニューヨーク支局長(1990年8月)・東京支社長(2002年2月)・編集局長(2005年)、広島経済大学メディアビジネス学科教授 (2007年9月)を歴任。 |
関連資料
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広島大学文書館蔵 小野増平関係文書目録(広島大学文書館、2017年」2月刊) |
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谷本清
たにもと・きよし |
19090627生 19860928没 |
享年77 |
日本基督教団広島流川教会牧師。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。原爆乙女の米での手術実現などに尽力。86アキバ・プロジェクト」で来日した米記者、被爆牧師死去の記事(60行余)を掲載。AP通信を通じて米の各メディアに配信。[69原爆被災資料広島研究会]。『広島県現代文学事典』。教会で面談 |
資料
谷本清賞 |
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原爆手記追加 |
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谷本清「原爆とヒロシマ」(『住みよいまちを!通信』、発行:住みよいまちをめざす会(広島大学理学部付)、連絡先:広島大学工学部建築学科都市計画研究室
その1=通信第15号(1975.7.15)~その6=通信第32号(1979.3.15)完 |
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原爆手記追加
9月に亡くなった人々
日 |
没年 |
名前 |
よみ |
享年 |
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02 |
1994 |
門秀一 |
かど・しゅういち |
79 |
核禁広島県民会議初代議長。広島大学名誉教授。西洋倫理哲学専攻。 |
02 |
1999 |
尾津訓三 |
おづ・くんぞう |
65 |
劇作家。広島で被爆。 |
02 |
2017 |
土山秀夫 |
つちやま・ひでお |
92 |
元長崎大学長。 |
04 |
1965 |
シュバイツァー、アルベルト・ |
90 |
1952年度のノーベル平和賞受賞。1962年6月30日、赤道直下のランバレネの病院で森瀧市郎氏の訪問を受ける。出典:http://www.ne.jp/asahi/nozaki/peace/data/gen_moritaki.html 森瀧宅で、当時のアルバムを前にこの時の話を聞く(宇吹) |
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06 |
1998 |
黒沢明 |
くろさわ・あきら |
88 |
「生きものの記録」・「八月の狂詩曲」などを生み出した映画監督。 |
08 |
1981 |
湯川秀樹 |
ゆかわひでき |
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1949年日本人として初のノーベル物理学賞受賞。[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。「世界平和アピール七人委員会」メンバーとして平和運動にも尽力。[70ヒロシマ会議] |
15 |
1990 |
土門拳 |
どもんけん |
80 |
写真家。1958年に被爆者を写した写真集「ヒロシマ」を発表。『広島県現代文学事典』 |
15 |
2010 |
秋信利彦 |
あきのぶ・としひこ |
75 |
元中国放送常務。 |
18 |
2011 |
小野増平 |
おの・ますへい |
64 |
中国新聞社入社(1970年4月)、ニューヨーク支局長(1990年8月)・東京支社長(2002年2月)・編集局長(2005年)、広島経済大学メディアビジネス学科教授 (2007年9月)を歴任。 |
19 |
2002 |
好村冨士彦 |
こうむら |
71 |
広島文学資料保全の会代表。『広島県現代文学事典』 |
20 |
1981 |
竹下健児 |
たけしたけんじ |
55 |
広島大学原医研教授、死去。 |
21 |
2017 |
森本順子 |
もりもとじゅんこ |
85 |
オーストラリア在住の絵本作家。広島女学院高女在学中にl被爆。 |
23 |
1954 |
久保山愛吉 |
くぼやまあいきち |
40 |
第5福龍丸無線長。1954年3月1日にアメリカが南太平洋ビキニ環礁で実施した水爆実験で被曝。 |
27 |
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バーチェット、ウィルフレッド・ |
72 |
ジャーナリスト。広島の被爆のもようを世界に最初に報道。 |
27 |
2019 |
布川弘 |
ぬのかわ・ひろし |
61 |
広島大学大学院総合科学研究科教授。広島市被爆70年史編集研究会で同席。 |
28 |
1986 |
谷本清 |
たにもときよし |
77 |
『広島県現代文学事典』 |
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日本基督教団広島流川教会牧師。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。原爆乙女の米での手術実現などに尽力。86アキバ・プロジェクト」で来日した米記者、被爆牧師死去の記事(60行余)を掲載。AP通信を通じて米の各メディアに配信。[69原爆被災資料広島研究会]。教会で面談 |
28 |
1991 |
佐久間 澄 |
さくま・きよし |
80 |
広島県原水協理事長・同県被団協理事長。広島大学構内で被爆。お宅で面談、資料を閲覧。 |
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