葉佐井博巳
はさい・ひろみ |
1931****:生20190126没 |
享年87歳 |
広島大名誉教授。広島の原爆被爆時、広島一中2年生。学徒動員先の兵器製作所(現廿日市市)できのこ雲を目撃。翌日に入市被爆。被曝線量推定方式を見直す日米合同研究グループの日本側座長。2002年、新しい推定方式「DS02」をまとめる。「生きて・核物理学者 葉佐井博巳さん(1931年~)」(『中国新聞』15回連載<担当:西本雅実編集委員>)2015年。 |
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「被爆建物等継承方策検討委員会」(広島市が1991年7月24日に設置)で同席。 |
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止
『社会調査家 石忠さん 石田忠先生(1916~2011) 生誕100年を記念して』(著者:廣澤昌、編集発行:沓石会 <一橋大学石田忠ゼミナール卒業生の会>)<作業中>。
内容
章 |
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序に代えて |
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1 |
一橋大学と石忠さん |
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1 一橋リベラリズム
2 暗い谷間の時代に抗して
3 卒論「社会政策の理論構想」
4 戦争の体験
5 貧困研究とブース
6 石田ゼミナール |
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コラム ゼミナリステンの思い出 |
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2 |
1 被爆者との出会い |
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2〈立場〉と想像力 |
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3 反原爆の(立場) |
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4 生活史調査票の成立 |
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5 1985年 |
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6 原爆死をどう考えるか |
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7「石田忠統計集〈原爆体験の思想化〉」 |
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コラム 石忠さんを支えた人々 |
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終章 |
誰か故郷を想はざる |
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1 生い立ち |
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「ドマーニ神戸」にて |
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眺ぶのです |
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石田忠著作目録 |
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年譜《抄》 |
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19160203 島根県越智郡美里生まれ |
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193906**** 治安維持法により検挙、秋まで拘留。 |
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19401201 現役兵として野砲兵第一連隊留守隊入隊。 |
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1945** |
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あとがき |
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止
石田忠
いしだ・ただし |
19160203生20110125没 |
享年94 |
一橋大名誉教授・社会学、元日本原水爆被害者団体協議会専門委員)。 |
主著書一覧
年月日 |
資料名 |
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19730825 |
『反原爆 長崎被爆者の生活史』(石田忠編著、未来社刊) |
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19740801 |
『反原爆 長崎被爆者の生活史 続』(石田忠編著、未来社刊) |
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19830520 |
『原爆と人間 被爆 者援護法とはなにか』( 石田忠、機関紙連合通信社) |
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19860720 |
『原爆体験の思想化 反原爆論集Ⅰ』 (石田忠、 未来社 ) |
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19860820 |
『原爆被害者援護法 反原爆論集Ⅱ』 (石田忠、 未来社 ) |
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20160715 |
『社会調査家 石忠さん 石田忠先生(1916~2011)生誕100年を記念して』廣澤昌(著者)沓石会(編集発行) |
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止
『人類は生きねばならぬ 森瀧市郎の歩み 核時代を乗り越えて 森瀧市郎追悼集』(森瀧市郎追悼集刊行委員会<広島平和会館内>19950720)
内容
章節 |
見出し |
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第1章 |
森瀧市郎とヒロシマの歩み 13 |
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第1節 |
原爆地獄を乗り越えて 15 |
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新制広島大学 15
平和問題研究会 18
手記集『原爆の子』 21
精神養子運動 23
ビキニ・第五福竜丸事件 27
百万人署名運動 29
広島原水協の発足 30
原水禁大会広島準備会 32
英国への「語り部」派遣 33
世界大会へ広島の準備 34
直前まで紛糾した海外代表入国 36
初の原水禁大会 37
日本原水協の発足 38
広島県被団協の結成 40
日本被団協発足 42
援護法要求と原爆医療法 44
英国核実験への抗議 47
「政治的行動」 50
1960年安保闘争の中で 52
第6回世界大会 54 |
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第2節 |
統一を願い続けて 56 |
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分裂への前兆 56
ソ連核実験 59
核実験に抗議して座り込む 61
シュバイツァー博士との出会い 64
分裂前夜 67
再生の努力むなしく 70
原水禁運動ついに分裂へ 73
被災三県連絡会議の結成 77
原水禁国民会議の結成 81
被爆者援護法を求めて 83
海外への平和行脚 86
運動統一への動き 89
総・共合意 91
五・一九合意 93 |
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第3節 |
ヒロシマの世界化と非核未来を求めて 99 |
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非核太平洋 99
地獄の答申 102
ローマ法王来広 104
戦域核配備 106
広がる反核の波 109
第2回国連軍縮特別総会 111
非核都市宣言 113
ゴルバチョフ政権誕生 115
旧ソ連、核実験凍結 117
初の中国訪問 120
ヒバクシャ連帯 122
核軍縮へ 124
チェルノブイリ原発事故 126
INF全廃 128
核被害者世界大会 131
核燃料サイクル反対 134
核実験全面禁止を 137
東欧民主化の波 140
病床と核実験制限の報 142
湾岸戦争 144
プルトニウム輸送 146
START調印 147
核拡散 150
「頑張って」の言葉残して 152
ヒロシマとともに 156
心よ、届け!158 |
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第2章 |
遺稿 161 |
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被爆30周年を迎えて 163
1、核絶対否定 163
2、援護法 165
3、非核武装宣言、全面核停 168
4、統一 170
四国電力伊方原発訴訟における原告側「準備書面(一二)」の意味するもの 172
ヒロシマ74往復書簡 178
―生へのあいさつ―
「力より愛の原理を」
哲学者、原水禁国民会議代表委員 森瀧市郎 178
「互いに手をとろう」
ノーベル平和賞受賞者 フィリップ・J・ノエルベーカー 180
死者の記憶 185
座り込み10年・その前史と理念 186
二学生の死―アデモラ・トーマス君への手紙― 194
短歌遺作 203 |
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第3章 |
森瀧さんを偲ぶ |
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ここに哲学者がいる 大江健三郎 213
森瀧先生を追想して 伊藤満 215
原水禁運動での森瀧先生とのかかわり 安部一成 219
森瀧市郎先生の思い出 行安茂 227
森瀧先生と原水禁運動 若松繁俊 231
森瀧市郎先生を追悼する 坂本国明 240
森瀧先生と私 船田民雄 247
森瀧市郎先生 金子一夫 252
平和への一筋の道 松岡敬八 256
幻の平和会談 李実根 260
弱輩、森瀧先生にソクラテスを講義する 鶴寂 266
森瀧先生の想い出 廣野房一 271
枚方の小学生に”反核”を語りかけて下さった森瀧先生 関山域子 273
森瀧先生、こんにちは 田村順美江 278 |
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第4章 |
お別れ会に寄せられた追悼の言葉 283 |
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村山富市(日会党中央執行委員長) 285
平岡敬(広島市長) 287
本島等(長崎市長) 287
上杉佐一郎(部落解放同盟中央本部委員長) 288
韓徳銖(在日本朝鮮人総聯合会中央常任委員会議長) 288
丹光節子(広島県被爆教職員の会事務局長) 289
石黒寅毅(牧師) 289
佐々木本晃(広島県立三次中学校時代の教え子) 290
梶山敏子(広島子どもを守る会代表) 291
武内利忠(原爆の子友の会) 292
ジャネット・ゴードン(国際平和と自由のための女性同盟共同議長・全米被曝者協会会長・ネバダ「市民の声」会長) 294
口ザリー・バーテル(国際公衆衛生問題研究所所長) 296
コリン・アーチャー(国際平和ビューロー=IPB=事務局長) 297
デイビット・マクレイノルズ(戦争抵抗者同盟事務局) 297
リディア・ポポバ(社会・環境同盟=SEU=) 298
サーロー・節子(JFSカナダ・トロント) 298
カール・フィッシャー(アメリカ社会党=SPUSA=共同議長) 299
ソランジュ・フェルネ(欧州議会議員・国際平和ビューロー=IPB=副会長) 299
デリー・レフリー(イギリス核軍縮運動=CND=事務局長) 300
ジャッキー・カバソ(アメリカ西部諸州法律財団) 301
パトリシア・チルトン(欧州核軍縮運動=END=、欧州公共政策研究所) 301
ウラジミール・ヤキメツ(ネバダ・セミパラチンスク運動) 301 |
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第5章 家族が語る「森瀧市郎」 303 |
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夫・市郎への思い 森瀧しげ 305
父の遺志を継いで 森瀧健一郎 311
お義父さん・お祖父さん・モリタキさん 寺尾浩次 316
慈の源 寺尾安子 321
父と生きて 森瀧春子 331 |
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付録1 |
森瀧市郎演説・報告関係資料 343 |
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分裂大会となった第9回原水爆禁止世界大会で広島県原水協理事長として行った「広島県原水協の提案による基調報告」 343
原水爆被災三県連絡会議主催による「原水爆禁止・被爆者救援・核武装阻止・軍備全廃を世界に訴える広島・長崎大会」で広島県原水協理事長として行った基調演説 352
被爆20周年原水爆禁止世界大会で大会代表委員として行った基調演説 363
被爆30周年原水爆禁止世界大会・国際会議で日本側代表として行った基調演説 369
被爆40周年原水爆禁止世界大会で行った主催者あいさつ 373 |
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付録2 |
年表 378 |
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あとがき 422 |
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森瀧市郎追悼集刊行委員会 1995年7月 |
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宮崎安男、近藤幸四郎、金子哲夫、下畠準三、栗栖武士郎、森滝春子、河野道宏、横原由紀夫 |
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止
吉川清略歴
年 |
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事項 |
1911 |
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福岡県に生まれる。 |
1945 |
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8月6日 夜勤明けの帰宅時に妻もろとも被爆。白島にあった自宅は全壊・全焼し、同居の父は避難先の救護所で死亡した。
可部に設けられた救護所での避難生活の後、親戚宅に身を寄せる。 |
1947 |
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広島赤十字病院入院 ケロイド治療のため数度に渡る皮膚移植手術を受ける。
入院中に外国記者団の取材を受けた際、ケロイドのあまりのむごさに一行の一人が「原爆患者ナンバーワン」と声をあげ、以来「原爆一号」と呼ばれる。 |
1951 |
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広島赤十字病院退院後、原爆ドーム前に「原爆一号の店」と自ら名付けたみやげ物店を開店する。観光客の求めに応じ自らのケロイドを見せ原爆の悲惨さと平和を訴える。 |
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初の被爆者による団体組織「原爆傷害者更正会」を結成。原爆乙女治療運動の母体となるが、谷本清氏らとの意見の相違で間もなく身を引く。 |
1952 |
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峠三吉らと「原爆被害者の会」を結成。 |
1954 |
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原水爆禁止広島市民大会開催。以後、原水禁運動に積極的に参加 |
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妻 生美がABCCの検査により肝臓障害で入院。ABCCとの交渉により治療と補償を勝ち取る。これが、ABCCに対する被爆者による初の交渉となる。 |
1955 |
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河本一郎氏らと「広島8・6友の会」を結成 |
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原水爆禁止広島大会開催 |
1956 |
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原爆被害者広島県大会開催 |
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初の被爆者援護法制定国会請願に代表の一員として参加 |
1957 |
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来広したネール首相と面会 |
1961 |
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「原水爆の禁止と平和をうったえる遊説団」として東南アジア諸国歴訪 |
1963 |
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原爆ドーム前のみやげ物店が不法建築物として撤去させられる。 |
1969 |
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中区流川にバー「原始林」を開店 |
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映画監督の新藤兼人氏をはじめ、郷土の文化人のサロンとして親しまれる。 |
1977 |
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脳卒中で倒れ、国立畑賀病院へ入院
病床からも、被爆者援護法制定、原水爆全面禁止を訴え続けた。 |
1986 |
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1月25日 10年に近い闘病生活の後 逝去 |
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吉川清著「原爆一号といわれて」を参考に作製 |
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出典:『 吉川清氏資料概要(中間報告)』(広島平和記念資料館、20030317) |
止
灘尾弘吉「政界への道」(『泉 次代への贈りもの』(19931030)所収)
内容
頁 |
見出し |
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233 |
戦後、官界から政界に(対談の聞き手は評論家・草柳大蔵) |
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234 |
公職追放 |
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238 |
浪人生活 |
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241 |
政界へ |
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242 |
政界入り―緒方竹虎 |
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248 |
バンドン会議 |
日本が参加した初めての国際会議 |
250 |
厚生大臣 |
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254 |
ギャンブル法案 |
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257 |
出会った人々 |
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264 |
私と社会事業 |
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(全国社会福祉協議会刊『灘尾弘吉先生と語る』より抄録) |
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止
灘尾弘吉
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18991221生19940122没 |
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なだお・ひろきち |
94 |
江田島市出身。元衆議院議長。『灘尾弘吉先生追悼集』(中国新聞社メディア開発局出版部/編集協力、1996.12) |
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広島県名誉県民 灘尾 弘吉(なだお・ひろきち) – 顕彰 | 広島県 (hiroshima.lg.jp) |
明治32年12月21日佐伯郡大柿町に生まれる。
明治32年12月21日佐伯郡大柿町に生まれる。
昭和27年から31年間にわたり,衆議院議員として活躍。
この間,文部大臣(6回),厚生大臣(1回)を歴任,また,昭和54年には第61代衆議院議長に就任。
全国社会福祉協議会会長として社会福祉の充実に努める。
- 昭和57年 勲一等旭日桐花大綬章受章
- 平成6年1月22日 逝去
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止
相原秀次年賀状1998
関連資料
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1998年年賀状(相原➔宇吹) |
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止
相原秀次
あいはら・ひでつぐ |
****生20080123没 |
享年98 |
日本映画社の企画部員として広島・長崎への原爆投下直後から記録映画の製作に従事。来広時、原医研来訪。広島の被爆写真撮影者の動向について質問<宇吹メモ>。 |
止
相原秀次
宇吹メモ<作業中>
年月日 |
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19750320 |
相原秀次、原医研来訪。 |
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19940302 |
RCC。**(報道局報道製作センタ-副部長)、**(報道局国際ニュースセンタ-外信担当記者)、相原秀次、中川、?(女性)。日映に残っていたフラッシュを繋合わせたフィルムを一緒に見る。-7時。 |
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映画「ヒロシマ母の祈り」に使われているフィルムに長崎のものがあるとの相原の指摘にはショック。昨日、高橋昭博らも見た由。 |
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19950309 |
**(RCC)より電話。1945年Ⅺ月に合同調査団が長崎を撮影したフィルムがまもなく入手出来る。GHQ-AFPACのディコージーが撮影したもの。入手出来たら見て欲しいとのことだが、断る。 |
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20060208 |
**?(原爆資料館)、来室。4月の文化財審議会で原爆資料館の文化財指定が審議される予定。現在までの審議経過について説明を受ける。相原秀次が資料を埼玉県立平和資料館に預けていたが、同館を通して原爆資料館に寄贈されることになった由。 |
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202008 |
久保田明子「広島における原爆被災の映像と資料相原秀二資料について」(『広島平和記念資料館調査研究会研究報告第16号』2020年8月) |
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止
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