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仁科芳雄博士追悼特集(『自然』1951年04月)

仁科芳雄博士追悼特集(『自然』1951年04月)

頁など 記事 備考
表紙写真:原爆投下直後の広島の空中写真
仁科芳雄博士追悼特集
61 略歴
62 仁科芳雄先生の思い出 湯川秀樹
64 仁科先生を偲んで(座談会) 朝永振一郎・山崎文男・竹内柾・坂田昌一・中山弘美・玉木英彦
77 こわかった「親方」 小林稔
78 宇宙線と「親方」 関戸弥太郎
79 時代の子か 伏見康治
82 仁科先生の御病歴 武見太郎
84 ジャーナリズムの片隅で 金関義則
85 先生と私 小倉真美
80 仁科博士学術論文目録 科学研究所仁科研究室提供

仁科芳雄『原子力と私』

仁科芳雄『原子力と私』(学風書院 19500810)

bk19720331-s31-01
11 原子力について
原子爆弾 14
原子力の管理 45
原子力問題 62
台本における原子力研究の條件 92
原子弾と肥料 96
原子力と平和 100
原子力問題の新段階 106
原子力・今後の課題 117
ラジオアイトーブが輸入されるまで 121
127 ボーア
湯川理論の発展
136 日本再建と科學
科学活動と経済復興
国際平和の基礎
政治の科学性
組織の力
発明と研究
188 わが科学者のつとめ
われらは如何に前進すべきか
廿世紀前半における物理學の歩みとその後半の夢
199 国際学術会議への旅
外から見た日本
私はなにを読んだか
bk19720331-s31-02

日本無罪論-真理の裁き( パール述 田中正明編)

『日本無罪論-真理の裁き』(パール述 田中正明編、太平洋出版社、19520503)

内容

 部  頁
 <近藤儀一(極東軍事裁判補佐弁護人)推薦文?>
  パール判事の判決文を読んで <田中正明>  1
  1 予備的法律問題 38
 基本的な問題 38
平和と殺人と人道 38
共同謀議の目的と目標 40
戰爭は國家の罪か個人の罪か 42
 裁判所の構成 43
戰勝國が戰敗國を裁き得るか 43
弁護側の2つの異議 46
 裁判所の管轄権外の事項 47
ポツダム宣言は法的價値ありや 47
 適用されるべき法 50
検察側の主張する法 50
無條件降伏の意味するもの 52
 裁判所條例-これは戰爭犯罪を定義しているか 54
法は遡のぼらず 54
單なる権力の表示 56
戰勝國は犯罪を定義し得るか 58
戰勝國は法律を制定し得るか 61
戰勝國の主権と戰敗國の主権 63
数世紀の文明を抹殺するもの 67
征服と占領とは違う 69
権力の簒奪は許されるか 71
本裁判所の「越権」問題 73
 侵略戰爭は犯罪であるか 76
第1次大戰以降の戰爭は不法であったか 76
慣習國際法より見た侵略戰爭 76
慣習法は法の領域外の問題 78
國際法は進歩するものである 79
人道的観念の絶えざる拡大 82
原子爆彈の汚点 84
世界政治を学ぶ者の夢 85
法の究極の主体は何か 87
創造的裁量は許されるか 90
自然法によっても処罪できない 91
 2  『侵略戰爭』とは何か 93
 定義の必要 93
各時代に提案された各種の定義 95
イ クインシー・ライトの定義 95
ロ ラウターパクトの定義 98
ハ ジャックソンの定義 99
これらの定義の問題点 102
被支配民族の解放は侵略か 104
自衛の判定は誰がする 106
裁判に付し得ない問題 108
中國における共産主義の脅威 109
中國のボイコット 112
米國は中國を援助した 113
アメリカの対日経済制裁 115
日本が違反した條約 118
宣戰布告と眞珠湾攻撃 121
背信的企図 124
 3  証拠及び手続に関する規則 126
 証拠の價値判断 126
「木戸日記」の信憑性 128
「原田日記」の信憑性 130
西園寺回顧録はかくして作られた 131
4  全面的共同謀議 138
 諸言(省略)138
第1段階-満州の支配獲得(省略)138
第2段階-満州より中國全土にわたる支配制覇の拡張(省略)138
 第3段階-侵略戰爭のための國内態勢の整備 138
人種的感情 138
A 民族的優越感 138
B 西欧人の選民意識 139
C 日本の人種平等案 141
D 有色民族の排斥 143
教育の軍國主義化 145
政権の獲得 149
一般的戰爭準備 150
枢軸國との同盟 152
ソ連に対する侵略 157
最終段階-日米交渉決裂まで 158
期待は裏切られた 158
日本の誠意 161
日米の予備的ケ解 163
微妙な米國の『自衛』 166
日本の讓歩 167
3國同盟の「死文」化 169
南方資源をめぐる外交戰 172
日本軍の中國駐屯問題 174
ゆがめられた傍受電報 181
佛印進駐で局面急変す 187
窮地に追いこまれた日本 190
絶望的な噤@194
『対日包囲政策』なる 195
島田被告の供述 198
共同謀議は認められず 201
 結論 204
推定的價値しかもたない 204
愛國的動機 207
共同謀議は犯罪であるか 210
共同謀議はメンタル・オフェンス 213
 5  本裁判所の管轄権218
 どの期間を範囲とするか 218
蘆溝橋事件か眞珠湾か 221
 6   厳密なる意味における戰爭犯罪 225
 殺人ならびに共同謀議 225
 一般人に対する残虐行為 230
訴追の理由 230
『命令し・授権し・許可せり』 232
戰時宣傳の影響@2R6
南京における強姦事件 238
すでに『嚴重な裁判』を受けた 241
どの被告に関係あるか 242
 諸地域における残虐行為 244
 原子爆彈の責任 252
いわゆる『南京残虐事件』 254
中國諸地域における残虐行為 259
いわゆる『マニラ残虐事潤x 262
これらの事件の責任者 263
イ 松井大将の場合 268
ロ その他の司令官の場合 268
俘虜に対する戰爭犯罪(略)269
 7  勧告 270

パール、ラダビノード

パール、ラダビノード

18860127生19670110没 パール、ラダビノードRadhabinod Pal 享年71歳 インド人法律家。東京裁判でインド代表判事を務める。彼の原爆慰霊碑の碑文についての発言をめぐり論争が起こる。『日本無罪論』、『平和の宣言』

関連資料

年月日 資料名 作成者など 備考
19520503 日本無罪論-真理の裁き パール述 田中正明編、太平洋出版社
19530410 平和の宣言 田中正明編、ラダビノード・パール著、東西文明社
198003 島津邦弘「東京裁判とヒロシマ-原爆投下責任論をめぐって-」 『広島市公文書館紀要第3号(昭和55年3月発行)』所収
東京裁判とヒロシマ | ヒロシマ遺文 (hiroshima-ibun.com)

 

 

山田節男年譜 1946年~

山田節男先生年譜 1898~1946年<出典:『山田節男追想録』(山田節男追想録刊行委員会編・刊、19760715)><作業中

年月日 事項
1946 (昭和21)
0408 復員
0912  日本労働組合総同盟国際部長
1947
0425
 第1回参議院議員選挙通常選挙に当選(広島地方区、社会党公認)
 0503  日本国憲法施行により参議院議員となる。
 1017
 1020
1948 
 1012
1949
 0725
 1201
 1950
0604   第2回参議院議員選挙通常選挙に当選(広島地方区、社会党公認)
 1952
0801
 1954
 0901
 1202
 1955
 0323
 1005
 1956
 0708   第4回参議院議員選挙通常選挙に当選
 0710  日本ユネスコ国内委員会委員
 1959
 0124
1960
 0124  民主社会党結成に伴い、 民主社会党広島県支部連合会会長
 1962
 0901
 0913
 1005
1963
 0206  株式会社ラジオ中国役員顧問
 1964
 0509  日本世界連邦建設同盟副会長。
 1965
 0904  衛星通信世界機構創立委員会出席のためワシントンに派遣
 1967
 0430  広島市長に就任。
0516  広島県市長会会長。
 0628  国際親善都市連盟副会長
 0828  世界連邦宣言自治体全国協議会会長
1968  世界連邦都市宣言世界本部理事長
 0111
 1970
 0109  国際親善都市連盟会長
 1971
 0430  広島市長に再任。
 1974
 0419  連合都市協会(UTO)共同議長
 0624  世界連邦都市宣言世界本部会長
 1975  (昭和50)
 0108  死亡(肺癌兼左癌性肋膜炎)76歳

 

山田節男年譜 1898~1946年

山田節男先生年譜 1898~1946年<出典:『山田節男追想録』(山田節男追想録刊行委員会編・刊、19760715)>

年月日 事項
1898 (明治31)
1226 広島県賀茂郡高屋町大字溝口429番地で出生。
1917 (大正6)
03 修道中学校卒業
1920 (大正9)
07 第六高等学校<岡山市>卒業
1923 (大正12)
04 東京帝国大学経済学部経済科卒業。マスター・オブ・アーツの称号。
1930 (昭和5)
03 英国オックスフォード大学政経学部卒業。マスター・オブ・アーツの称号。
1931 (昭和6)
0701 ジュネーブ国際連盟付属機関国際労働機関(ILO)調査委員。
1933 (昭和8)
03 東京市社会局本所第一方面事務所長
1938 (昭和13)
03 東京市嘱託 東京市電気局労務課勤務
05 日本厚生協会常務理事
1939 (昭和14)
06 明治学院高等部講師
07 中央社会事業研究所海外研究員
1942 (昭和17)
0505 陸軍司政官北ボルネオ守備軍軍政部総務部長兼調査局長
1945 (昭和20)
0213 陸軍司政官高等官3等
09 豪州軍第9師団軍事裁判戦犯者主任弁護士任命
1946 (昭和21)
0408 復員

 

伊藤サカエ年表

伊藤サカエ年表 <作業中

月日 事項
 広島県呉市生まれ。矢野町議会議員、同町婦人会長などを歴任。
1945 0806 広島市鶴見橋で建物疎開作業の勤労動員中に被爆。
1965
1977 0304 伊藤サカエ広島県被団協理事、「日米首脳会談で米大統領に核廃絶に踏み切るよう要請して欲しい」と福田首相に手紙。(中国新聞)
1978 0302 広島県被団協、5月の国連軍縮特別総会に5人の代表を派遣。桧垣益人事務局長・伊藤サカエ・高橋昭博・下江武介・小野田百合子。(中国新聞)
0526
0806
1979 1206
1981 0621 日本被団協、伊藤サカエ(初の女性代表委員)・山口仙二・伊東壮が代表委員に、桧垣益人、小佐々八郎、行宗一は顧問に就任。
1982 0818 伊藤サカエ・李実根、日本被団協の「欧州語り部の旅」の広島代表として参加。
0819 ~30 日本被団協「欧州語り部の旅」に伊藤サカエら27人を派遣。(日本被団協 (www.ne.jp)
1983 0308
1984 0228
0617 日本被団協定期総会。代表委員に伊藤サカエ・山口仙二・伊東壮を再任
0621 広島県被団協理事会、桧垣益人事務局長の辞任を了承、後任に伊藤サカエ。
  • 特集 被爆者医療の今日的課題-第4回全日本民医連被爆者医療交流集会から- 第4回全日本民医連被爆者医療交流集会の発言から 伊藤サカエ(日本被団協代表委員)/鈴木頌(北海道・勤医協札幌病院医師)/本庄庸(福岡・千鳥橋病院院長)/加藤文裕(神奈川民医連集健小委員・汐田病院事務)/上戸真弓(長崎・大浦診療所MSW)/坂本キミ子(福岡県被爆者相談所事務局長)/大場敏明(千葉・船橋二和病院医師)(『民医連医療』6月号)
1985 0626
0805
1986 0301
0729
0929
1987 0131
0623
1989 0906
1990 0115 伊藤サカエ「エッセイ 被爆45周年を前に」(『福竜丸だより』141号)
0604
1024
1994 0709 広島県被団協、故森滝市郎の後任理事長に事務局長の伊藤サカエを決める。
1101
1130 衆議院厚生労働委員会、広島市内で被爆者援護法案についての公聴会。陳述人は、重松逸三・小林寛治・石田明・伊藤サカエ。
1223  緊急全国代表者会議(「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」制定直後)での伊藤サカエ代表委員あいさつ「政府与党の、私たちの希望を欠いた提案が可決され、もっともっと大きな荷物を抱えた。私たちの後ろには、34万人の死んだ人と、一般戦災者もいる。国がした戦争の責任をなぜ国民が、政府がとらないのに私たちがとらなくてはならないのか。…もっともっと固く団結して、私たちがこれだけやったんだという証拠を挙げたい」。出典:濱谷正晴「“日本被団協 1994.12.23 緊急全国代表者会議”~「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」の成立をうけて~」
1995 0817 伊藤サカエ理事長、中国核実験に抗議電報。
1997 0627 伊藤サカエ理事長、広島県被団協(金子一士理事長)総会に初めて出席。分裂から33年、連帯を確認(中国新聞)
2000 0105  伊藤サカエ(日本被団協代表委員・広島県被団協理事長)死去。88歳。
itosakae
 0606  偲ぶ会(伊藤サカエ・伊東壮)
 2019
2016 0416 「伊藤サカエさんを語る会」(広島市原爆被害者の会主催「先人を語る会」第4回)。会場:大手町平和ビル。参加者65名。
 0816 「祖母、母から孫娘へ 三世代で語り継ぐ広島の被爆体験」( 『週刊女性』8月16日号)