柿手春三年譜<作業中>
年月日 | |||
1909 | |||
0316 | 広島県双三郡三良坂村で誕生。 | ||
1921 | |||
04 | |||
1991 | |||
05 | 三良坂平和美術館へ油絵62点(自己作品45点、所有作品21点)、素描外160点、オブジェ20点を寄贈。 | ||
0630 | 『柿手俊三受贈記念誌』 (三良坂平和美術館(刊)) | ||
1993 | |||
0204 | 没。享年83歳。 |
止
柿手春三年譜<作業中>
年月日 | |||
1909 | |||
0316 | 広島県双三郡三良坂村で誕生。 | ||
1921 | |||
04 | |||
1991 | |||
05 | 三良坂平和美術館へ油絵62点(自己作品45点、所有作品21点)、素描外160点、オブジェ20点を寄贈。 | ||
0630 | 『柿手俊三受贈記念誌』 (三良坂平和美術館(刊)) | ||
1993 | |||
0204 | 没。享年83歳。 |
止
黒川万千代
くろかわ・まちよ | 1929生20110217没 | 享年81 | 旧姓富永。広島女専1年生のとき校内で被爆。日本被団協事務局次長など。 |
著書など
書名 | 編・著者(発行所) | 備考 | |
1976/08/06 | 原爆の碑 広島のこころ | 黒川万千代 | |
1981/04/29 | いのちある限り 被爆者運動35年のあゆみ | 神奈川県原爆被災者の会 | |
1982/04/30 | 「アンネの日記」への旅 | 黒川万千代著(労働旬報社) | |
1982/07/15 | 原爆の碑 広島のこころ | 黒川万千代著(新日本出版社) | |
1983/02/25 | 猫ちゃんは帰らない 何よりも平和を | 黒川万千代(民衆社) | |
1983/08/20 | 原爆を裁く | 東京都原爆被害者団体協議会編(労働教育センター) | |
1984/01/01 | 総合学習「ヒロシマ」 和光小学校の実践 | 和光学園教育実践シリーズ出版委員会(明治図書出版) | |
1984/06/30 | 世界の反核運動 | 佐藤昌一郎著編(新日本出版社) | |
1988/04/22 | 核抑止か核廃絶か | 非核の政府を求める会 | |
1988/06/20 | 鳩の使いの旅 広島のこころを世界へ | 黒川万千代著(新日本出版社) | |
1991/11/16 | 明日を創る 婦人民主クラブと私 | 婦人民主クラブ | |
1998/04/11 | ヒロシマの女たち 続 | 広島女性史研究会編著(ドメス出版) | |
2001/04/10 | 核のない21世紀を ヒロシマからのメッセージ | シネ・フロント社 | |
2002/09/20 | 原水爆禁止2002年世界大会の記録 核兵器のない平和で希望ある世界を | 原水爆禁止世界大会実行委員会 | |
2007/08/06 | 原爆被災証言記 忘れられた学徒たち | 県立広島女子大学同窓有志、広島県立広島第二高等女学校同窓有志 | |
坪井直追悼(新聞コラム要約)
掲載日 | < 紙名(コラム名)>要約 |
20211029 | <朝日(天声人語)>オバマ大統領、ネバーギブアップ。 |
20211029 | <中国(天風録)>毎年の賀状〈九十才代でお迎えが来たら、も少し待ってくれと泣きつこう/百才になってお迎えが来たら、そろそろOKしようかなと思う/平和の仕事が残っている。も少し生かしてほしいね〉。日本被団協代表委員。96歳での訃報。「ヒロシマの顔」。20歳で被爆。オバマ氏と対面。 |
20211029 | < 赤旗(潮流)> 当時20歳の学生「アメリカの野郎、よくもやったな。このお返しは、きっとするぞ」。御幸橋のたもとで記した「坪井はここに死す」。遺言のつもりが周りの人から助けられ、その恩返しと命のありがたさが被爆者運動の原点。みずから「ピカドン先生」。96歳の生涯で入退院を10回以上、抱えるがん二つ。その遺志を受け継ぐ人々のたたかいはこれからも。彼の締め言葉のように「ネバーギブアップ」。 |
20211031 | < 毎日(余録)>坪井直:20歳で被爆、60歳で教員を退職、79歳2005年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の際ニューヨークで4万人デモの先頭に立つ。91歳広島を訪れたオバマ氏に語りかける、4年前に冊子「にんげん坪井直 魂の叫び」を作る。96歳で亡くなるまで「ネバーギブアップ」を貫いた坪井さん。その精神を受け継ぐことが鎮魂の道。 |
坪井直関係資料一覧<作業中>
年月日 | 資料名 | 種類 | 備考 |
19750310 | 『かけはし 父母が語る戦争体験記』( 翠町中学校PTA文化部編 翠町中学校PTA) | 刊本 | |
19790701 | 『この子らに語りつぐもの 広島原爆被爆教職員の手記 第1集』 (広島県原爆被爆教職員の会、広島県高校原爆被爆教職員の会編・刊) | 刊本 | |
坪井直
坪井 直(つぼい すなお、1925年5月5日生 – 2021年10月24没)
日本原水爆被害者団体協議会代表委員。広島県原水爆被害者団体協議会理事長。元中学校教諭。
広島市名誉市民 | ||
つぼい すなお 坪井 直 |
平成30年(2018年) 3月27日 |
長年にわたる被爆体験証言及び国内外での核兵器廃絶に向けた活動により平和の推進に貢献するとともに、被爆者援護施策の充実にも貢献(令和3年(2021年)死亡) |
広島市名誉市民 – 広島市公式ホームページ https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/7/17967.html
『法廷に立つ歴史学 家永教科書論争と歴史学の現在』(鹿野政直 ・加藤友康・三宅明生・安田浩編、大槻書店、19930520)
内容
No. | 事項 | 著者 | 備考 |
はじめに | |||
1 | 歴史をささえる民衆・庶民 | 鹿野政直 | |
2 | 中央集権をめざした聖徳太子の政治 | 吉村武彦 | |
3 | 大友皇子の即位問題 | 荒木敏夫 | |
4 | 古事記・日本書紀編纂の意図と史料批判 | 笹山晴生 | |
5 | 駅の設備と農民 | 青木和夫 | |
6 | 蝦夷の征討は「征服」ではなかったのか | 熊谷公男 | |
7 | 最澄の生年と「通説」の理解 | 佐伯有清 | |
8 | 神皇正統記執筆の意図 | 佐藤和彦 | |
9 | 江戸時代の天皇の地位 | 三鬼清一郎 | |
10 | 男尊女卑と妾-江戸時代の女性の地位- | 菅野則子 | |
11 | 島原の乱の主体は誰か | 高木昭作 | |
12 | 尊譲派志士と民衆-明治維新の基本的性格- | 高木俊輔 | |
13 | 五か条の誓文と五榜の高札 | 横山伊徳 | |
14 | 不平等条約締結の評価-条約改正交渉の時期における- | 小野正雄 | |
15 | 明治憲法制定過程における秘密性 | 松永昌三 | |
16 | 明治憲法の発布と金色の菊の紋章 | 猪飼隆明 | |
17 | 明治憲法制定の意義 | 永井秀夫 | |
18 | 教育勅語と内村鑑三不敬事件 | 高嶋伸欣 | |
19 | 日清戦争と軍人遺族-松井昇の絵- | 田中日佐夫 | |
20 | 明治後期の地主の寄生性 | 西田美昭 | |
21 | 張作霖爆殺事件の写真は「陰惨」か | 江口圭一 | |
22 | 日独防共協定締結の動機 | 木畑洋一 | |
23 | 抗日戦争における中国民衆の役割 | 石島紀之 | |
24 | 日ソ中立条約締結と関特演 | 荒井信一 | |
25 | 戦前の国家主義思想と国史教科書 | 岩井忠熊 | |
26 | 太平洋戦争は「無謀」ではなかったのか | 安田浩 | |
27 | 清沢 冽日記と戦時下の民衆 | 今井清一 | |
28 | 学童疎開の目的 | 逸見勝亮 | |
29 | 傷痍軍人の写真は残酷か | 若桑みどり | |
30 | 戦時下の科学 | 三宅明正 | |
31 | 労働運動の抑圧とその記述-下山・松川事件 | 竹前栄治 | |
32 | 米軍「施設」とは「基地」ではないのか | 古関彰一 | |
33 | 「再軍備に反対する人々」と憲法の擁護 | 古関彰一 | |
34 | デモの写真は子供に悪影響をあたえるか | 古関彰一 | |
35 | 核兵器の「洗礼」-政治的言語の操作- | 佐々木隆爾 | |
1980年12月15日東京高裁 証言 平田嘉三(元文部省教課調査官、広島大学教授) |
|||
36 | 六〇年安保闘争は全国的運動ではなかったのか | 梅田欽治 | |
三・一六最高裁判決と歴史学-あとがきにかえて | |||
冽
『田沼肇全活動 付・田沼肇著作集DVD』(田沼肇全活動・著作集編集委員会編・刊、日本評論社(発売)、20080704)
内容
頁 | |||
006 | はじめに | ||
1部 | |||
010 | 田沼肇 全活動 著作・執筆年表 10 | ||
田沼肇の執筆活動について 83 〔付記〕民主主義科学者協会(民科)の活動 90 |
藤新太郎 | ||
田沼肇について 92 | 上田誠吉 | ||
慎獨寮時代 97 | 高野源明 | ||
調査統計局のなかま 105 | 浅野径 | ||
田沼肇 略年譜 田沼肇 アルバム 110 | |||
田沼さんの優しさと強さ 114 | 橋本進 | ||
2部 | |||
120 | 労組、民主的組織の講師・助言者活動など | ||
田沼先生と私 142 | 伊藤和子 | ||
千葉県職労女性部と田沼先生 144 | 藤しず江 | ||
「現代社会研究所」をつくられた頃 146 | 三階泰子 | ||
忘れ得ぬ「二つのこと」 149 | 葛岡章 | ||
田沼先生から教わったこと 151 | 前田啓一郎 | ||
154 | 原水爆禁止・被爆者援護・第五福竜丸保存の活動 | ||
「被爆者とともに」の運動 164 | 赤松宏一 | ||
被爆者とともにあることの意味 168 | 山村茂雄 | ||
「被爆者を友人に」の言葉をかみしめて 175 | 安田和也 | ||
人生を決めた出会い 177 | 伊藤直子 | ||
長崎の被爆者に聞く 179 | |||
186 | 日本フィル・日本ふぃる協会闘争支援 「ハート」を大事にした人 198 |
||
200 | 平和と革新をめざす東京懇話会の活動 | ||
この手に革新統一を! 206 | 角倉洋子 | ||
210 | 田沼肇の学究生活について | 竹下睿騏 | |
研究所研究員として 210 大学教員として 212 大学紛争の解決をめざして 213 学部長として多摩移転に取り組む 216 教務関係のの仕事も 220 二つの組合の役員として 221 兼務校での仕事その他 229 むすびにかえて 230 |
|||
232 | 田沼肇先生の研究業績について | 嶺学 | |
1 調査統計論 232 2 階級構成論 234 3 社会政策・労働問題一般 235 4 労働運動史 236 |
|||
239 | 「二世」の息苦しさ | 田沼正平 | |
244 | 肇さんありがとう | 田沼祥子 | |
254 | あとがき | ||
『私の中の平和と人権』(田沼肇、草の根出版会、19950530)
内容
初出 | 年 | ||
序にかえて(上田誠吉) | |||
1 | 戦争と私 | ||
青山暮色 | 青山師範附属小学校同窓会「つくし」卒業30周年記念号 | 1976 | |
「私たちの時代」と言えること | 学協運動 | 1981 | |
『戦争責任』に想う | 全国革新懇ニュース | 1983 | |
2 | 被爆者とともに | ||
原爆被爆者の現状 | 日本原水協の英文機関誌 No more Hiroshimas’ | 1982 | |
大阪の被爆婦人たちのねがい | 「文化評論」9月号 | 1975 | |
被爆者に励まされて | 「現実と文学」10月号 | 1964 | |
被爆者の苦しみを思う | 「民主文学」8月号 | 1966 | |
みなさんの健康を願いつつ | 大阪市原爆被害者の会『被爆婦人の集い』第3集 | 1971 | |
返還直後の沖縄にて | 日本原水協「6・9行動ニュース」 | 1973 | |
被爆者救援運動と故・峠一夫さん | 『民医連医療』9月号 | 1981 | |
3 | ビキニ水爆実験被災から | ||
ビ十二水爆実験被災から | 日本原水協「日本と本半洋が核戦場になる」 | 1984 | |
第五福竜丸の値段 | 「福竜丸」だより | 1986 | |
ビキニ水爆被災の全容 | 「平和新聞」 | 1983 | |
第五福竜丸と故・広田重道氏 | 「赤旗」 | 1982 | |
4 | 核兵器と人類の未来 | ||
「原爆」と「原発」 | 「日高教情報」 | 1987 | |
被爆者は実験のために使われた | No more Hiroshimas’ | 1983 | |
「憤りにまかせて」という論理 | 「原水協通信」 | 1975 | |
核兵器廃絶はなぜ必要か | 「草の根から革新の風を」 | 1983 | |
人類は核戦争によって自滅するか | 岩波書店『これからどうなる』 | 1983 | |
「平和とは戦争がないことか」 | 「赤旗」 | 1981 | |
非核自治体宣言の意義と地方自治 | 『平和教育』 | 1984 | |
教科書の核・平和問題の記述を読む | われら高校生 | 1986 | |
5 | 草の根からの平和運動 | ||
母親運動と平和の問題 | 母親新聞 | 1975 | |
原水爆禁止運動と社会科学者の立場 | 東京理科大学新聞 | 1960 | |
高校生の平和ゼミ | 原水協通信 | 1983 | |
唐津原水協を訪ねて | 原水協通信 | 1983 | |
企業社会と平和運動 | 平和運動 | 1992 | |
6 | 歴史と文化と学問と | ||
三井三池争議の教訓 | 教育大学新聞 | 1960 | |
人間らしく働くということ | 労働旬報社「わたしの選択あなたの未来」 | 1986 | |
払の余暇 | 『前衛』7月号 | 1979 | |
松川事件と映画 | わかもの | 1960 | |
労働者と学問 | 労働 生活 学習 | 1968 | |
7 | 病を得て想うこと | ||
車椅子から見た社会問題 | 1994 | ||
原爆被害者援護法への道のり | 1994 | ||
あとがき | |||
初出一覧 | |||
広島県立図書館《広島県出身・ゆかりの女性たちの紹介》平成21年10月現在[抄]<作業中>
https://www.hplibra.pref.hiroshima.jp/ct/other000000700/hiroshima-josei-list.pdf
氏名 | 生没年 | 事項 | |
金井 時子(かない ときこ) | 明治22(1889)年~昭和34(1959)年 | 作家。岡山県から三次市に嫁ぎ,三次市の歌誌『くれない』などに短歌や随筆を寄稿。没後,知人らがまと めた作品集『ひとすじの道』(序文を武者小路実篤が執筆)がある。 | |
大田 洋子(おおた ようこ) | 明治36(1903)年~昭和38(1963)年 | 小説家。広島市出身。爆心地から1.4キロの妹の婚家で被爆。被爆体験から『屍の街』『人間襤褸(らんる)』を執筆。「大田洋子集(日本図書センター)」全4巻 | |
山代 巴(やましろ ともえ) | 明治45(1912)年~平成16(2004)年 | 作家。芦品郡栗部村(現府中市)出身。戦前に治安維持法違反幇助で三次刑務所へ収監される。戦後,そ こで見聞・体験したことから『蕗のとう』『囚われの女たち』を,広島県北部の農村の女性の生き方を描いた 『荷車の歌』などを執筆。 「山代巴文庫」シリーズ(径書房)第1期全9巻第2期全8巻 | |
正田 篠枝(しょうだ しのえ) | 明治43(1910)年~昭和40(1965)年 | 歌人。江田島町(現江田島市)出身。爆心地から1キロの自宅で被爆。アメリカ占領下の言語統制がきびしい中で,原爆歌集『さんげ』などを自費出版した。 | |
栗原 貞子(くりはら さだこ) | 大正2(1913)年~平成17(2005)年 | 詩人。広島市出身。爆心地から4キロの自宅で被爆。原爆詩「生ましめんかな」を「中国文化」創刊号(1946.3)に発表。原爆文学を代表する作家のひとり。 「栗原貞子全詩篇(土曜美術社)」全1巻。 | |
バーバラ・レイノルズ | 1915年~1990年 | アメリカ人。戦後まもなく,夫の原爆被害調査研究によって広島を訪れる。「ヒロシマ」を世界に訴え,核実験抗議や平和巡礼の活動を続けた。 | |
佐々木 久子(ささき ひさこ) | 昭和2(1927)年~平成20(2008)年 | エッセイスト,評論家。広島市出身。雑誌「酒」の編集長。「広島カープを優勝させる会」発足などでも活躍。 著書に『わたしの放浪記』ほか | |
大庭 みな子(おおば みなこ) | 昭和5(1930)年~平成19(2007)年 | 作家。西条町(現東広島市)の賀茂高等女学校に在籍し,被爆直後の救援動員の経験から『浦島草』などを 執筆した。「大庭みな子全集(日本経済新聞社)」全25巻(継続刊行中) | |
佐々木 禎子(ささき さだこ) | 昭和18(1943)年~昭和30(1955)年 | 広島市出身。爆心地から1.6キロの自宅で2歳で被爆。「折り鶴を千羽折ると元気になる」と信じながら原爆症と闘ったが12歳で死没。「原爆の子の像」のモデルとして,絵本などで海外にも知られる。〈社会・教育・医療〉 | |
参考資料:『日本女性人名辞典』(日本図書センター)
『新訂現代女性人名録』(日外アソシエーツ),各展示資料ほか。
エドマンド・ブランデン詩碑<作業中>
2019 0221 宇吹暁撮影 |
18961101―19740120 |