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ヤスの自分史10:原爆・終戦

ヤスの自分史:原爆・終戦

昭和二十年八月六日。

私と母は内のの谷という所へ畠を借りていたので朝行く途中、原爆の閃光を見た。自分の眼の前がピカットと光った。何か普通より違う感覚である。爆音が聞こえたので空襲だと直感。母と走って梅林の防空壕へ入らしてもらった。静かに爆音がしなくなったので恐る恐る壕から出て広島の空を仰いだ時、あの原爆雲、もくもくと無邪気に広がる。あれを見たのである。

世界で始めての爆弾。誰も解らぬ。「ガスのタンクが爆発したのだそうだ」「新しい爆弾だそうだ」皆思い思いの事を話した。何時までも道路で話し合ったものだ。

其の中に、今の保育所が共済病院だったので、そこへ火傷の人がトラックで運ばれてきだした。みんな黒こげで仁王さんの様に大きくはれている人もいる。正視できない姿である。これは大変だと思った。警防団が召集され、広島へ救援にむかった。

下川さんには弟が召集あり、兄と妹が見送りに行かれ三人とも死なれた。堀田さんも親の家が広島なので救援に行かれた。肉親を求め来る日も来る日もみんな歩いた。命絶えた人は火葬にするだろう。探してもいない筈。それでも毎日探す人は絶えない。広島の惨状を直接見たのではないが、聞くのに胸が張り裂けそうだ。

九日、長崎も洗礼を受けた。

八月十五日。

終戦の詔勅放送あり。

この日岩神の畠へ母と仕事に行っていた。下の段が木村の墓所である。木村のおじさんが下から「おごうさん、もう防空壕は入らんでもええんで。戦争は終わったんじゃけん」びっくりした。大切な放送がある。玉音放送である。放心、虚脱、敗戦の足音の日々高まりを聞きながらも心の一部には神風を祈っていたのである。

起たざれば虚脱の闇に吸われいん 夫婦の日を信ず終戦

ひた踏みしがなべて虚構と知りし 今吐く息白し消ゆるたそがれ

虚構の長き橋踏み終えて狂わざるふし太き双掌を静かに凝視む

踏みしむる大地は揺れたり虚脱より起たねば命は子と共に絶ゆ

繰り言と笑われて吐く大正の苦汁を秘めて白し我が息

軍国の夢破れたり崩れゆく大地を踏みて子と共に佇つ

終戦の日の追憶を詠めば斯くの如し。

 

ヤスの自分史9:空襲下の生活

ヤスの自分史9:空襲下の生活

敗戦の色が濃くなりだした頃、あの人も、この人も戦死の公報がありだした。何時公報があるのかとビクビクの毎日が続いた。

其の頃、父が別居すると言い出した。余りにも戦死の公報が続くので生きて帰って来るとは思えない様になった。私と子供二人三人をかかえてゆくより自分一人が別居した方が楽だと思ったのではないか。毎日其の事にこだわる。

辛かった。母は私に言った。

「別れるのなら別れよう。然しみんなで働いたのだから、じいさんだけに金は渡せない。自分は静男からあんたと子供を頼むと聞いているのだから、あんたとは別れん。ある金を三分しよう。一つ分をじいさんに渡し二人でがんばろう。帰るまで」

嬉しかった。二人はしっかり心に誓った。

おじいさんは一生懸命生きようと思ったのだろう。息子は生きては帰らないと決めていたのだろう。空襲警報が出れば一番に防空壕に一人で逃げていたのを見てもわかる。

母は、哲夫を背負い、瞳をこする美智子の手を曳いて逃げてくれる。私は家を守る為に一人は家に残るのである。夜中何度も避難する。眠る間はない。防空ズキンにもモンペにもみんな名前と血液型を書きつけてある。大人も子供も。どんな場所で怪我等しても輸血等出来る様にしてあったのか。

国の方針には絶対服従の時代。建物の疎開もあった。消火の為に防水池があちらこちらに造られた。其の場所に当った者の不運である。姉、**も呉住居を追われた。そして吉浦にきた。現在の吉浦の家の場所も建物疎開にあった。堀田の家があった。地主は松原である。大きな池だった。終戦になって地主に返され、それを譲り受ける事が出来て現在に至った。

次第に戦局は不利に思えたが、神風を信ずる国民である。本土決戦で戦う意気込み、身の程を知らぬ思い上がりであった。防火演習、救護演習、等々、隣組活動が盛んである。若く健康な身には苦にはならないけれど、病身の人達には、ついて行けない労働である。新聞報道は戦勝を報ずるけれど、ヒソヒソと敗戦がささやかれ出した。表面ばかり見せられても何処からかニュースは流れ出してくる。

「欲しがりません 勝つまでは」

どんなに耐えをしいられてもみんながまんの国民だった。

敵機をうち落下傘で投下した、アメリカの飛行機だったのかな。岩上の刑務所へ入所していたのがいた。よく家の前を自動車にのせられて目かくしをされ連行されてゆくのを見ていた。赤いちぢれ毛が印象的に眼裏にやきついている。

ヤスの自分史8:配給と防空演習

ヤスの自分史8:配給と防空演習

配給食料品も遅配がちになった。前川の処が雑炊食堂になった。みんな並んで行列をしている。箸が立つ硬さの雑炊が規準だったとか。

私の家では父が百姓をしてくれていたので、イモ、ジャガイモ、南京、菜類、大根等を食べれば、何とか空腹はしのげた。米を少しの中へ、イモ、大根等をたくさん入れて量を増やして食べる。

それはまだいい方である。隣家等では、配給の一ヶ月分を子供達がそれぞれ勝手に食べるので直になくなる。たまりかねて米にもメリケンにもカギをかけてあるのだそうだ。それでも空腹にはかなわないので、あけて食べるそうだ。

豊富な食生活の今を見ると、あの頃を思い出すのさえ恐ろしい様だ。食べ物の無い時代を通り過ぎた者は近い将来襲うであろう食料難時代等耐ゆる事はたやすい事である。

隣組で防空演習も度々あった。空襲警報になると道路で青松葉を燃す事もした。何しろ生の青松葉だから燃えない。いぶすのだ。煙幕のつもりである。

白壁は目立たない様に黒く汚す。敵機から見えない擬装のつもりである。何のことはない、子供だましの労力浪費。どんな人が指導をしたのか、よくみんなついていったものだ。馬鹿馬鹿しくて、無智によく馴らされたものだ。

夜は燈火管制である。少しあかりがもれていても注意を受ける。暗い火の下何をしていたのかしら。

 

ヤスの自分史7:子どもの疎開

ヤスの自分史7:子どもの疎開

参観日には必ず出席した。子供に夢をかけるより他ない自分だったから。おかげで美智子も勉強はまあまあやった。楽しみはそれ位しかなかったものだから、嬉しかった。

美智子が小学一年生の頃、空襲をさけて疎開先があるものは疎開する様にとの学校からの通達があった。

どうしても行く事の出来ない子供は集団疎開といって山地のお寺とか学校へ集団で疎開する。私は宇吹本家の納屋をかしてもらう事が出来た。子供二人を連れて、おばあさんと交替しながら生活した。

美智子は焼山の小学校へ通学させた。焼山の子等の中、シラミがいる子がいてそれがうつり困った。原始的な生活である。水は家の前を流れる小川の水を使う。洗い物、食べ物、洗濯物、何でも其の小川である。上流で何をしているか知れたものではないけれど(上流に家はなかった)他の家もそうしているのだから仕方がない。風呂は三、四日交替にわかす。木はいくらでもあるのに習慣なのだ。毎日入浴していた私達も便利が悪い等とは言っておられない。

家のまわりが草深いのでヘビがいくらでもいる。学校からの帰途何匹か数えきれない程いる。竹藪があるので、竹の子、フキ等食べきれない程ある。夏は蛍が飛び交う。蚊は多いから蚊帳は毎晩つる。

納屋の後ろの山へ、本家のおばさんと一緒に防空壕を掘った。当座の食物とか救急医薬品とか重要なものをその穴に入れておいたものだ。

 

ヤスの自分史6:闇値と宇品署への出頭

ヤスの自分史6:闇値と宇品署への出頭

次々統制になっていった。何もかも、物は不足しだした。商売の下駄も花緒も公定価格がきめられたけれど、其の値段では品物は無かった。いきおい闇値が生れる。経済警察というのがあって闇値に眼を光らす。

花緒を闇値で買って警察に呼び出された。宇品署に出頭すべしと。下駄屋は全部買っていたのだ。駅前に**、東本町に**、本町に**と家、みんなぞろぞろ恐る恐る出頭した。一人ずつ取り調べを受ける。私は一番後だった。巡査が私の顔をじろじろ見ながら、名前をきいた。宇吹です、答えると里は何処かとたずねる。矢野の**の娘ですと答える。矢野まで迷惑がかかるのかと心配していると「**さんの妹かね。**さん元気かね」。地獄で仏とはこの事かも知れぬ。**さんが好きだった巡査だった。呉地方には知った人はいないと思ったとの事。代書(始末書を書いてもらう為)で待っていると、良い具合に書いてやってくれといいにきてくれた。帰途早速矢野へ立ち寄り事情を話すと、挨拶に行って応召中両親と子供をかかえての商売の辛さをのべて罪にならぬ様頼んで置いた方がよかろうと、兄につきそわれて自宅を訪ねた。すると**(花緒を買った問屋)は今気が小さくなっているから、今たくさん品を買っておいてやれば良い、始末書だけで別に罪にはならないと教えられ、まずは一安心と胸を撫ぜた次第。

出征の人は誰でも見送りに出た。召集は珍しくなくなった。お宅もですか、――――、――――、みんなである。「**さん」応召がかかっても何処にいるか解らない為、結局兵役をのがれた。案外聖戦でないのを知っていて協力しなかったのかも知れぬ。酒さえ呑めば良い人だった。

金物は何でも供出する時代だった。仏壇の飾り、真鍮、下駄の裏金等も供出した。学校の校庭へ集められて放置されてあった様に思うが、ほんとうにそれが再生されたものかどうか。みんな国の為という名のもとに夢遊病者の様だった。ぜいたくは禁じられ、遊びも禁じられ、国民は軍国指導者の思うままに動くより仕方がなかった時代である。衣料も切符制になり何も買えなくなった。

金はあっても点数がない為何も買えない。古着を買う時代になった。何もない中からやりくりをして。妹きみちゃんは**へ嫁いだ。何を買ってもらってものか。私の時代は品はあるが金が無く、きみちゃんは金はあっても品がない破目だったのである。私も**の奥様の古着を買った。**のトシ子さんがゆずってもらっているのを見てから買ったのだ。山まゆのコート、めいせんの単衣、きんしやの浴衣。セルの着物、確か四枚である。仕入れ、学校、出歩く事は全部私だから忙しい。

ヤスの自分史5:夫・静男の出征

ヤスの自分史5:夫・静男の出征

結婚一年後美智子が生れた。二つ違いで哲夫が生れた。腹の空いた時はない。哲夫が生れた頃戦争が始まっていたけれども戦場が遠いので物が不足しはじめた程度で実感はない。其の中、兵隊は丙種だった静男さんも第二国民兵に編入された。始めは長男は召集はかからないそうだ等言っていたけれど戦局が急になって、そんな事は言っておられなくなったのだろう。召集令状がきた。国の為の御奉公が出来る事を名誉として育って教育を受けた者ばかりの世代である。涙する事は許されなかった。姉婿**の義兄もうちより早く召集されて一度戦場へ行った様に思う。其の時姉が取乱して里の矢野へ泣きついて行った時、父や母に叱られたそうである。お前だけでは無い、非常時でみんなだと。然し実の処私も心細かった。二人の子供を連れて両親とやっていけるかどうか。哲夫が二つだった。

第二国民兵の召集第二回目頃は、見送りも華やかだったものである。吉浦駅前で壮行会がある。隣組から回覧板があって見送りの人垣である。挨拶が苦労の種である。人前で挨拶等不得手の人だから、原稿を私が書いてそれを暗記するのが大変。自分が考えた言葉でないのだから途中でつまると後が続かない。聞いているのもはらはらさせられる。

二部隊、今の市民球場あたりだったと思う。部隊の動きは秘密である。何時、どこで行くか解らない。せめて広島に居る間だけでもと姑は広島通いに明け暮れる。「餅」「菓子」食べさせられる時を大切にとの親心である。二人の子供を連れて留守役も大変である。受付へ面会を申し入れると、呼び出してくれるのだそうだ。面会人が黒山にたまって肉親の出てくるのを待つ間の長い事。子供を連れて私も一度だけ面会に行った。

どれだけ広島にいたか、一度だけ会った。其の中、北支へ出征した。今度は慰問袋を送るのに忙しかった。手紙はすべて検関済の印が押されて届いた。手紙を書く事の嫌いな人で代筆である。辛い事等書けない手紙だから代筆でもよい。くればまだ命があると安心する程度。代筆をしてくれる人は広の方から出征された人だったのだけれど名を忘れた。子供と私の写真がほしいと葉書がきたので三人で写真を撮った。姑のは送っていた。その写真は大切に今アルバムに貼ってある。

 

ヤスの自分史4:結婚と出産

ヤスの自分史4:結婚と出産

二十四才の若後家、宇吹静男の後妻として嫁入とはどんな事かも知らぬ十八歳の私はみんなにすすめられ、女はどうしても他家へ嫁入するものだから先方がほしがっておられる、いそいでいるといって**家で、やっと仕事を覚えて少しは役に立つ様になった私にやめられたのでは困ると文句をつけられるのを無理矢理連れ帰られた次第。

**家では一流の看護婦に仕立てようと患者さんにも話しておられたそうで、鳶にアブラゲをさらわれた感じ。私が帰宅結婚後、軍医先生も応召があり野戦病院より絵葉書の便りをもらった事あり。今までに手がけた傷病兵○○名、先生は厳しい人だったけれども私は恩ある先生だった。

大体一年位通って試験を受ける段取だったのに、免状等どうでも良い、ゆきちゃんの死亡後の後妻に早くきて欲しいとの宇吹からの要望があって、家の方でも裸で其のままなら其の方が良かろうと話しを決めて、みんなで私をすすめあげ、ゆきちゃんが遺言して私を嫁にして呉れと頼んで死んだとか何とか死人に口なしで結婚等夢にも考えた事もないのに、無理矢理嫁がされたも同様、「物習いは家でさせます」、「着物はいくらでも着せます」等々良い条件ばかり並べ立て、結婚すれば直に子供が生まれる。

結婚、昔は嫁を貰うことを手間をもらうといって人手間に値していた。今の世代の様にレジャー時代ではない。下流階級の商売人、日曜日が休日に定まったのは大分過ぎての事で、おじいさんは朝暗い中から起きて働く人なので嫁の立場として、のんきに朝寝はしておれない。夜は夜なべ、洗濯物は夜するものと定っている。昼は店番に手をとられるので裏の仕事に手間はとれない。洗濯機が普及しはじめた頃でも決してそては買う事が許されない。 汚れていない処まで洗う機械は布地がいたむとの、おじいさんの言葉、何でも親は絶対で里へゆく事も、姑の許しがなければ行く事は出来ない。

若い母親は習い物どころの話しではない。美智子が二つ位の頃に哲夫が生まれる。ますます多忙になる。夜中通し乳幼児に乳をふふませ、安眠は出来ないままに夜は明ける。店は下と両方だから乳をのませては店に通う。

何の事は無い、勉強をして立派な看護婦になる夢は斯くもあえなく崩れ去ったのである。

 

ヤスの自分史3:看護婦見習時代

ヤスの自分史3:看護婦見習時代

この時代に学んだ事は大切な事ばかり。住み込んだ**家は軍医中尉か大尉で、とても厳しい家庭であった。其の為、看護婦が居つかず困っておられた矢先を、新聞広告を見て姉(兄嫁)と出掛けたのである。

妹を紹介するにあたりての仕様が**家には気に入らず、姉は第一印象は悪かった様である。それでも私は直に気に入られてみんなから可愛がられて良くしてもらっていた。セーラー服では重みがないというので、白衣を作ってもらった。これは月給後払いで三着注文をした。住み込んで五円位給料をもらったように覚える。朝食の支度―掃除、体裁の良い女中仕事である。

私は陰日向なくよく働いた。裏の仕事が済んでから薬局の方へ出向き、先輩の看護婦さんの見習をする。カルテの薬の調合を見て混合する仕事、これを薬包紙を拡げて同じ量ずつに分けて包む。今は皆カプセル入りで済んでいるが私の時代この仕事も多忙だった。薬を間違えたら大変である。慎重に計り慎重に混ぜたものである。注射器の消毒も大変な仕事である。注射液のアンプルを湯で温め、ヤスリで口を切り、注射器に移し、消毒した針をつけて準備を整える。静脈注射は必ず血液が注射器に残る。これを水洗いして煮沸消毒をする。

医薬代を点数でかいてあるので、点数計算をして薬代をもらう。これも間違いなくしなければならない。今迄に金の計算がピタッと合った例がないのだそうだ。私がやり出したら間違いがなくなった。前からいる人よりちゃんとするものだから、食事の支度をしていても先生が「**」と医局の方へ呼び出される。すると前からの人がねたむ。一日でも前に住み込んだ者の方が先輩だと威張る。気にしないで受け流す。

保険の金の請求書も書いて出す。仕事はいくらでもある。夜九時頃からが自分の時間である。読書をする。注射液はローマ字で名前が書いてあるが私には読めない。森島先生に手紙を書いた。独学方法を教えてくれと。

日ならずして先生よりローマ字の辞書が届いた。立派な日赤看護婦を目ざす私にとって読書は楽しかった。何も辛い事はなかった。働きさえすれば此処から学校へも行かせてもらえる。

**家令嬢は市女の学生である。気ままなお嬢様がうらやましかった。長男は**医大生、次男は*といってニ中、今の舟入高校生。奥様は日赤の婦長さんだったとか。二十年の違う**家の後妻にこられた人である。中流階級の家庭だったと思う。貧農の子女にとってこの家の生活は見新しい事ばかりである。

今はレジャー時代でみんなよく出掛けて遊ぶけれども、あの時代、家族ぐるみで食事に出歩いたり海水浴に出掛けたり、松茸狩りに出掛けたりはしなかった。

映画は洋画を見る。中島本町、平和公園のあたりに昭和シネマといって洋画専門の映画があった。女の子一人では外出はゆるされなかった。きびしい家庭だから、必ず私がお供をさせられた。

お盆と正月には必ず着物を一枚ずつ作ってもらった。縫う事も習った。奥様から楽しみながら習った。自分の着物は自分で縫うのである。着物の柄はすべて先生の見立てであったように思う。

**家勤務中に戒厳令が発令された時があり、広島にも暴徒がくるとの噂が流れた事があり、往診半ばニュースを聞きに帰宅しておられた事を記憶しているが、二二六事件だったのかな。時代は騒然となりつつある様に思えた。

二年位して看護婦学校へ通い始めた。今の八丁堀の裏通りあたりだったと思うが新天地の其の又裏に三川町という町があり其処に学校があった。働きながらの勉強である。昼食を早目に食べて出掛ける。横川から材木屋の並ぶ町並み、何という通りだったか、大田川と寺町との間の通り川筋を歩いて通学したものである。電車賃の節約の為である。相生橋まできたらほっとしたものである。

あの頃は川土手に見渡す限り桜並木があって相生橋から上流を望むと花か霞かまがう美しさがみられたものである。袴をはいての通学である。下駄は患者さんからよく頂いて事欠かなかった様だ。

大体一年位通って試験を受ける段取だったのに、免状等どうでも良い、ゆきちゃんの死亡後の後妻に早くきて欲しいとの宇吹からの要望があって、家の方でも裸で其のままなら其の方が良かろうと話しを決めて、みんなで私をすすめあげ、ゆきちゃんが遺言して私を嫁にして呉れと頼んで死んだとか何とか死人に口なしで結婚等夢にも考えた事もないのに、無理矢理嫁がされたも同様、「物習いは家でさせます」、「着物はいくらでも着せます」等々良い条件ばかり並べ立て、結婚すれば直に子供が生まれる。若い母親は習い物どころの話しではない。夜中通し乳幼児に乳をふふませ、安眠は出来ないままに夜は明ける。

美智子が二つ位の頃に哲夫が生まれる。ますます多忙になる。店は下と両方だから乳をのませては店に通う。

何の事は無い、勉強をして立派な看護婦になる夢は斯くもあえなく崩れ去ったのである。昔は親の云う事は絶対的で今なら私は自分の思う通り進路を変えなかったと思うが何せどうにもならない時代だったのだ。

斯く炎へし杳き日もあり山の端を今し離りゆく赤き満月

崩れ去った青春の追憶、大きい満月の炎ゆるにも似たものであった。

かえるなき夢果てもなし一瞬を翳りて照り増す月光に遭う

月蝕のあとの恍々たる月光を仰ぎみての感慨は斯くの如し。