ヤスの自分史9:空襲下の生活

ヤスの自分史9:空襲下の生活

敗戦の色が濃くなりだした頃、あの人も、この人も戦死の公報がありだした。何時公報があるのかとビクビクの毎日が続いた。

其の頃、父が別居すると言い出した。余りにも戦死の公報が続くので生きて帰って来るとは思えない様になった。私と子供二人三人をかかえてゆくより自分一人が別居した方が楽だと思ったのではないか。毎日其の事にこだわる。

辛かった。母は私に言った。

「別れるのなら別れよう。然しみんなで働いたのだから、じいさんだけに金は渡せない。自分は静男からあんたと子供を頼むと聞いているのだから、あんたとは別れん。ある金を三分しよう。一つ分をじいさんに渡し二人でがんばろう。帰るまで」

嬉しかった。二人はしっかり心に誓った。

おじいさんは一生懸命生きようと思ったのだろう。息子は生きては帰らないと決めていたのだろう。空襲警報が出れば一番に防空壕に一人で逃げていたのを見てもわかる。

母は、哲夫を背負い、瞳をこする美智子の手を曳いて逃げてくれる。私は家を守る為に一人は家に残るのである。夜中何度も避難する。眠る間はない。防空ズキンにもモンペにもみんな名前と血液型を書きつけてある。大人も子供も。どんな場所で怪我等しても輸血等出来る様にしてあったのか。

国の方針には絶対服従の時代。建物の疎開もあった。消火の為に防水池があちらこちらに造られた。其の場所に当った者の不運である。姉、**も呉住居を追われた。そして吉浦にきた。現在の吉浦の家の場所も建物疎開にあった。堀田の家があった。地主は松原である。大きな池だった。終戦になって地主に返され、それを譲り受ける事が出来て現在に至った。

次第に戦局は不利に思えたが、神風を信ずる国民である。本土決戦で戦う意気込み、身の程を知らぬ思い上がりであった。防火演習、救護演習、等々、隣組活動が盛んである。若く健康な身には苦にはならないけれど、病身の人達には、ついて行けない労働である。新聞報道は戦勝を報ずるけれど、ヒソヒソと敗戦がささやかれ出した。表面ばかり見せられても何処からかニュースは流れ出してくる。

「欲しがりません 勝つまでは」

どんなに耐えをしいられてもみんながまんの国民だった。

敵機をうち落下傘で投下した、アメリカの飛行機だったのかな。岩上の刑務所へ入所していたのがいた。よく家の前を自動車にのせられて目かくしをされ連行されてゆくのを見ていた。赤いちぢれ毛が印象的に眼裏にやきついている。