ビラ「米軍・自衛隊 基地調査告発全国交流呉集会の集まろう!!」(1975年)
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| 主催:広島県原水協・広島県平和委員会 |
| 永井秀明「朝鮮をめぐる情勢と基地の動向」 |
| 久留島恵一「呉を中心とした軍事基地の現状」 |
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| スローガン |
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ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。
ビラ「米軍・自衛隊 基地調査告発全国交流呉集会の集まろう!!」(1975年)
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| 主催:広島県原水協・広島県平和委員会 |
| 永井秀明「朝鮮をめぐる情勢と基地の動向」 |
| 久留島恵一「呉を中心とした軍事基地の現状」 |
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| スローガン |
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ビラ「11・12広島県民集会に参加しましょう」(1975年)
| 核もち込み糾弾、フォード来日反対、田中内閣打倒、安保廃棄、被爆者援護法制定要求、生活防衛 |
| 11・12広島県民集会に参加しましょう |
| 安保を上回る大運動へ |
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| 主催団体 |
| 安保破棄諸要求貫徹広島県実行委員会・広島県平和委員会・原水爆禁止広島県協議会・広島県憲法会議・生活防衛広島県民連絡会議 |
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ヒロシマ被爆30年記念「原爆映画をみる会」〈作業中〉作業中
| 1975年8月5日pm5:00~8月6日am5:30広島朝日会館(広島市立町) |
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| 静岡県・原水爆禁止運動統一促進準備会結成趣意書 |
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| 「3・1被爆国民の広場」に参集し、静岡から、原水爆禁止運動の新しい国民的統一への突破口をきりひらきましょう |
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| 核兵器全面禁止をめざし、今こそ原水爆禁止運動の発展と国民的統一をじつげんしよう―静岡県「3・1被爆国民の広場」からの訴え |
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ドキュメント:1975年8月6日<作業中>
| できごと | 備考 |
|---|---|
| 倉本寛司北カリフォルニア被爆者協会会長と据石和南カリフォルニア被爆者協会代表世話人、ホワイトハウスを訪れ、在米被爆者に対する連邦政府の援助を求めるフォード大統領宛ての直訴文を渡す。 | |
| 田中正巳厚相、外国人被爆者への原爆医療法の適用について、治療目的のビザに限らず適用するとの方針表明。 | |
| 米オハイオ州ウィルミントン大学で開かれた「広島・長崎30年後」会議で、倉本寛司、据石和、在米被爆者の救いのない実情を訴え、参加者の支援を求める。 | |
| 田中厚生大臣、平和式典終了後、広島原爆養護ホーム・原爆病院・放射線影響研究所を訪問。 | |
| 韓国原爆被害者援護協会、日本政府に在韓被爆者の治療と補償を求める声明を発表。 | |
| 大阪市の被爆二世の高校生、白血病で死亡。 | |
| 旧陸軍兵器学校広島分校所の元学徒兵19人、広島市内で開催。 | |
| 広島県公安委員会・広島市、午前7時から3時間、平和記念公園前の平和大通り900メートルを車両通行止めとする。(初) | |
| 広島市、原爆死没者慰霊式・平和祈念式を挙行。約4万人が参列。88人が流れ献花。式中、糾弾状を持った男が荒木市長にかけ寄ったが制止される。 | |
| 大阪・西成あいりん地区の「釜ケ崎被爆者の会」代表13人、広島平和式典に参加。 | |
| ラロック米海軍退役少将、広島市の平和式典に参列。 | |
| 荒木広島市長平和宣言。(被爆の惨状を述べたあと)「今や世界が、無秩序な核戦略時代という人類の滅亡を招く重大危機に突入しつつあることは、広島市民として絶対に黙視できないところである」と訴え | |
| 式典出席の田中厚相、外国人被爆者の治療で「治療目的のビザでなくても正規の手続きで入国、一定期間滞在すれば原爆医療法を適用」の方針を表明 | |
| 中核派の学生、早朝広島平和公園の原爆慰霊碑を「占拠」、平和宣言を読み上げる直前の市長に突進し、それぞれ逮捕される。 | |
| 浄土真宗本願寺派築地別院(東京)で「原爆被爆30周年追悼法要。約150人が参列。江戸屋猫八(落語家)・佐々木久子(雑誌「酒」編集長)らの発起。 | |
| 広島県庄原市山内町で元広島第1陸軍病院庄原分院山内病棟で死亡した軍関係被爆者の慰霊祭と死没者追悼座談会。 | |
| 広島市立中学慰霊碑除幕式。約300人が参列(小網町・天満川岸) | |
| 極楽寺山地蔵尊(佐伯郡廿日市町) | |
| 被爆者青年同盟のメンバー、原爆ドームに上がり、軽犯罪法違反などの疑いで逮捕される。 | |
| 福島菊次郎の写真展「30年目のゲンバク-放射能遺伝障害の恐怖」、東京・赤坂で開催。 | |
| 山田典吾監督の映画「はだしのゲン」の撮影が、広島市で始まる。 | |
| 阿部野人監督の日本とポーランドの合作映画「灯は生きている」の撮影が、広島市で始まる。 | |
| 「丸木位里・俊原爆の図展」、広島市の福屋デパートで開催。-14日。約4万5000人が入場。 | |
| 反戦集会「ヒロシマ+1」(核実験抗議船フリーのよびかけ)、広島市内で開催。約200人が参加。 | |
| 第3回原爆と科学・教育・文化を考える集い実行委員会、「原爆30年を考える長崎市民の集い」を開催。 | |
| 広島市の安田女子高校、栗原貞子の詩「生ましめん哉」のモデルになった平野美貴子の被爆体験を聞く。 | |
| 広島県三次市の高杉小学校、集団疎開した広島市袋町国民学校の疎開児童6人を招き、体験を聞く。 |
被爆三〇年広島国際フォーラム・コミュニケ (19750804)
出典:『核廃絶か破滅か-被爆30年広島国際フォーラムの記録』(時事通信社、19760520)
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被爆三〇年広島国際フォーラム・コミュニケ
被爆三〇年広島国際フォーラムは、飯島宗一(広島大学学長)、江口朴郎(東京大学名誉教授)、小野周(東京大学教授)、具島兼三郎(長崎大学学長)、上代たの (元日本女子大学学長)、関関治(東京大学教授)、藤井日達(日本山妙法寺山主)、三宅泰雄(日本学術会議会員)の八氏がよびかけ、吉野源三郎(評論家)を代表とする準備委員会によって組織され、一九七五年八月三、四日広島において開催された。
フォーラムは、核抑止の理論が核軍縮への道をきりひらくものではなく、核開発・核軍拡のとどまるところを知らない悪循環をもたらしていること、また、核保有国による核軍備の管理とその下での核の傘が諸国人民の安全を直ちに保障するものでないことを認識し、こんにちまでの核軍縮をめぐる政府間交渉の限界と問題点を諸国人民の意思によってどのように突破すべきかを、被爆三〇年にあたって明らかにすることを目的に、つぎの四項目を討議の主題に設定した。
一、被爆三〇年、核軍拡と核拡散の現状について - それは、いかなる危険と被害を現在と未来の人類にもたらしつつあるか。
二、軍縮、安全保障、エネルギー問題に関する政府間交渉に含まれている問題点は何か。
三、核兵器の完全禁止と廃絶に向かって、私たちはいかなる展望をもつことができるか。
四、私たちはいま何をなすべきか、何をすることができるか、広島から何を訴えるべきか。
上記の趣意は多くの賛同を得、フォーラムには海外二二カ国(オーストラリア、カナダ、チリ、キューバ、フィジー、東ドイツ、グァム、インド、アイルランド、イタリア、ミクロネシア、ニュージーランド、PLO、フィリピン、ポーランド、ルーマニア、スリランカ、スウェーデン、イギリス、アメリカ、北ベトナム、南べトナム)から六六名と、日本国内各界から一二八名、計一九四名が参加した。このフォーラムの全経費は、フォーラム参加者の登録料と、フォーラムを支持した広範な個人、団体(四七六名、二〇団体) の醸金によってまかなわれた。
フォーラムでは、広島・長崎への原爆投下以後三〇年間にわたる原水爆禁止運動、とりわけビキニ事件以降の日本における国民的規模での運動の発展が、広島・長崎の被爆の実相とその後遺、被爆者の現状と問題点とともに報告された。
三〇年経過したこんにち、一方では、ベトナム人民を先頭とするインドシナ諸国人民の崇高な闘争が勝利し、それに勇気づけられて第三世界で民族解放闘争がもりあがり、それらへの支持・連帯を示す世論がアメリカを含め各国でたかまっているが、他方では、平和と軍縮に反対する勢力は、歴史から正しい教訓をくみとることなく、産軍複合体をますます強化してきており、核戦争の危機はかえつて増大してきている面もあるといえよう。そして、いまや世界的に拡大しつつある原子力発電も、核兵器の完全禁止を実現しない限りきわめて危険な面をもち、放射能被害の面からも各国民にとつて脅威となっている。
こうした情勢評価をふまえて、フォーラムにおいては、いかにして核兵器の廃絶を実現するかという問題について、多くの提言がおこなわれた。
全面軍縮をめざす世界軍縮会議を開催させることが重要であり、それに国連のNGO (非政府組織) の意見を正しく反映させていかねばならないこと、太平洋非核武装地帯の設置、海洋法のなかで原子力潜水艦の航行を禁止すること、などが提起されるとともに、こんにちのように膨大な核が貯蔵・配備され、核の拡散がすすんでいる状況のもとでは、核兵器の完全禁止こそがもっとも緊急であり、かつ現実的な措置であることが指摘された。軍備管理ではなく真の軍縮へ向かって発想を転換すべきことが、討論全体の基調をなしており、とりわけ国際的レベルで核兵器禁止の条約を実現することの重要性が強調された。
討論のなかでは、人間性の追求を含め心の問題をあらためて深くふりかえり、考え方の根本的転換が求められていることが確認された。科学者・知識人は、こんにちの科学技術革命の時代についての正しい認識にたって、戦争を目的とする科学には従わないという決意を新たにするとともに、自然科学者、教育者、宗教者が相互に連帯し、国際連帯を強化しつつ、核抑止の信仰を打破するための具体的な研究をすすめ、その知識を広く大衆に伝えることによって運動の発展に寄与すべきことが確認された。
広島・長崎の事実を広く世界に知らせるとともに、運動の縦承発展のためにも平和教育を重視し、核兵器をもつことがみずからの利益にならない大衆の間における核廃絶の意識をさらに強め、大衆とともにたたかうことによって核兵器完全禁止の展望がひらけることが確認された。
このフォーラムは、当初、文書の採択を予定していなかったが、例外として、ショーン・マクプライド氏によつて提案され、満場の共感を得た、核兵器不使用国際協定締結に関する次の特別決議を採択した。
特別決議
被爆三〇年広島国際フォーラムは、軍拡、とりわけ核軍拡のかつてない重大なエスカレーションについて審議した結果、国際連合に対して緊急の問題として次のような国際法規を採択するよう要請する。
--どのような状況のもとで、どのような核兵器を使用しようとも、これを国際法と人道に対する犯罪とすること。
この決議は、マクプライド氏を通じてただちに国連事務総長に手渡すとともに (マクプライド氏からのその後の連絡によるとこの決議はすでに国連NGO加盟の全組織に配布されたとのことである)、フォーラムの全参加者がそれぞれの国の政府にはたらきかけ、この決議を国連の場にもちこませるよう努力すること、また、それぞれの組織を通じてもこの決議の実現のため広くよびかけとはたらきかけをおこなうことを申し合わせた。
一九七五年八月四日
本コミュニケは、国際フォーラムで採択された最終議長のまとめにもとづき、よびかけ人と準備委員会の責任で成文化されたものである。
広島県原水協年表(1975年)
| 月日 | 事項 | 備考 |
| 0224 | 広島県被団協代表団、被爆者援護法制定を要求する中央行動に参加のため上京。 | |
| 1208 |
『ヒロシマ HIROSHIMA 』(広島平和文化センター編・刊、19750718)
目次
| <表紙説明>原爆慰霊碑 | ||
| 碑文は、広島大学教授雑賀忠義氏の筆によるもので、碑文の意味は、世界恒久平和を希求するヒロシマの心であり、人類としてあの過ちを再び繰り返してはならない、という反省と平和への誓いが込められている。 | ||
| 1 | まえがき | 荒木武(広島市長) |
| 2 | 原爆被災の記録<写真> | |
| 爆心地上空から | ||
| 市中心部を上空から | ||
| 御幸橋の上で | ||
| 御幸橋の上で | ||
| 専売局電停角 | ||
| 焼け野原 | ||
| 原爆ドーム | ||
| 萬代橋の人影と荷車の影 | ||
| 元安橋 | ||
| 日赤広島支部ビル | ||
| 本通りの時計台 | ||
| 旧護国神社の石灯ろう | ||
| 横河駅前付近 | ||
| 自動車の残がい | ||
| 丸焼けの市内電車 | ||
| 皆実町のガスタンク | ||
| ダイダイ | ||
| 明治橋のヤツデ | ||
| 被爆者の伝言板 | ||
| 第2陸軍病院 | ||
| 大芝国民学校救護所 | ||
| 救援トラックの上で | ||
| 広島逓信病院 | ||
| 広島赤十字病院 | ||
| 目の治療 | ||
| 広島赤十字病院の治療 | ||
| 脱毛した婦人 | ||
| 死亡前の被爆兵士 | ||
| 焼きついた着物の柄 | ||
| 帽子の跡 | ||
| 心外景 | ||
| 頸部 | ||
| 竹 | ||
| 平瓦 | ||
| 人骨と瓦礫 | ||
| 3 | 広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式 | |
| 月 | 日 | 記事 |
|---|---|---|
| 01 | 29? | 広島市、今年全国で巡回被爆資料展を開催することを計画。 |
| 02 | 20 | カナダ在住の節子・サーローら、「ヒロシマ・ナガサキ被爆30周年トロント委員会」発足。 |
| 02 | 26 | 長崎市、原爆被災写真展の開催を申し入れていた米・セントポール市から、承諾の連絡を受ける。 |
| 03 | 15 | 広島県・広島市・中国新聞社・NHK中国本部、「ヒロシマ・原爆の記録展」の開催実行委員会設立総会を県庁で開く。関係者約30人が出席。 |
| 03 | 19? | イタリアの詩人ダニエル・ドルチ、同国内での原爆展を開催するための準備会議を組織する意向のあつことを広島市に伝える。 |
| 04 | 10 | 宮沢広島県知事、オーストラリアから帰国。キャンベラの戦争記念館で、広島の被爆写真の提供を要請されたことを明らかにする。 |
| 04 | 13? | 長崎市、米サンアントニオ市のバプテスト教会の牧師から原爆写真展開催のための資料提供を求められる。 |
| 05 | 13? | 広島市、9月に被爆資料展が予定されているボルゴグラード市へ資料を送付。 |
| 05 | 23 | 中国新聞「広島の惨状-被爆30周年相次ぎ海外展示」 |
| 05 | 26 | 広島市、海外被爆資料展の今年の開催を断念。 |
| 06 | 27 | 原爆資料保存会、総会を開催。今秋、イタリアのシシリー島で被爆資料展を開催することを決める。 |
| 07 | 02 | 広島市、今秋カナダ・トロントで開催予定の被爆資料展のために被爆写真91点を送付。 |
| 07 | 04 | 長崎県・市、「長崎原爆の記録展」を北九州市小倉で開催。-8日。 |
| 07 | 09? | 毎日新聞「ヒロシマの心伝えたい-アフリカで原爆写真展-被爆二世の青年、単身で」 |
| 07 | 11 | 「ヒロシマ・原爆の記録展」札幌市で開催。-16日まで。3万9594人入場。 |
| 07 | 16 | 長崎県・市、「長崎原爆の記録展」を福岡市で開催。-20日。 |
| 07 | 24 | 長崎市など、長崎展を米サン・アントニオ市で開催。-27日。諸谷長崎市長が出席。 |
| 07 | 24 | カナダ・トロント市在住の被爆者サーロ節子、長崎市を訪れ、カナダで開催を計画シテイル原爆展への協力を依頼。8月25日、長崎市が資料98点を送付。 |
| 07 | 24 | 「ヒロシマ・原爆の記録展」、仙台市で開催。-26日。2万4496人入場。 |
| 07 | 26 | 長崎県・市、「ながさき原爆の記録展・世界平和祈念ポスター標語展」を長崎市で開催。-8月6日。 |
| 07 | 27 | 朝日新聞「「ヒロシマ」「ナガサキ」の認識深めよう-米に広がる平和の心-各地で原爆展や慰霊祭」 |
| 07 | 27 | 日本キリスト教団広島流川教会、「被爆30年史資料展」を開催。五日市方面(?)から撮影した新しい原子雲の写真を展示。 |
| 07 | 28 | 長崎市など、長崎展を米セントポール市で開催。-8月3日。 |
| 07 | 29 | カナダのトロント市在住の被爆者サーロー・節子来広。荒木広島市長をトロントで開催する被爆写真展に招待。 |
| 07 | 31 | 高知新聞社、広島市から資料Wを借りだし、資料被爆資料展を高知市で開催。-8月6日。 |
| 08 | 01 | 長崎市など、長崎展を米ウィルミントン市で開催。-5日。 |
| 08 | 05 | 「ヒロシマ・原爆の記録展」(広島県、市、NHK中国本部、中国新聞社など主催)東京日本橋・三越で開催。-15日。入場者は5万7485人。 |
| 08 | 06 | 「丸木位里・俊原爆の図展」、広島市の福屋デパートで開催。-14日。約4万5000人が入場。 |
| 08 | 06 | 千葉県市原市青年団、被爆写真展を市民会館で開催。-10日。 |
| 08 | 15 | 「ヒロシマ・原爆の記録展」、,大阪市・心斎橋・そごう百貨店で開催。-20日。入場者4万3136人。 |
| 08 | 23 | 「ヒロシマ・原爆の記録展」、名古屋市・丸栄デパートで開催。-28日。入場者6万2106人。 |
| 08 | 29 | 中国新聞「ヒロシマ展全日程終わる-体験継承に大きな成果-5会場23万人入る」 |
| 08 | 29 | 長崎県・市、「長崎原爆の記録展」を熊本市で開催。-9月2日。 |
| 08 | 31 | 西宮市・市教委・市原水協、被爆資料展を市役所展示室で開催。-9月4日。 |
| 09 | 17 | カナダ・トロントの「よみがえる広島・長崎」委員会、原爆写真展を同市役所で開催。-10月15日。 |
| 09 | 21 | 長崎新聞「核兵器の廃絶と平和の貴さ訴える-被爆30周年記念「ながさき原爆の記録展」から」 |
| 09 | 25 | ソ連ボルゴクラード市で原爆資料展。広島の使節団訪問中。 |
| 09 | 27 | 「ヒロシマ・原爆の記録展」開催実行委員会、県庁で会合し、解散。 |
| 12 | 13 | 横田工原爆資料保存会会長ら2人、ダニロ・ドルチと移動原爆展の欧州での開催について相談するため、イタリアに向け出発。1月17日、帰国の記者会見。 |
『市民の学術双書 核廃絶か破滅か-被爆30年広島国際フォーラムの記録』(飯島宗一・具島兼三郎・吉野源三郎編、時事通信社、19760520)
内容
| 頁 | 著者 | タイトル |
| 具島兼三郎 | はじめに | |
| 飯島宗一 | はじめに | |
| Ⅰ 核の脅威はここまできている | ||
| 服部学 | 核の脅威はここまできている | |
| ロバート・オルドリッジ | 兵器の技術的高度化、核拡散と抑止の崩壊 | |
| デービッド・ジョンソン ジーン・ラロック | 核軍備競争は規制されていない | |
| ペギー・ダフ | 中東-核戦争の新たな脅威 | |
| エンゾ・アニョレッティ | ヨーロッパにおける核問題 | |
| グラハム・ベインズ | 南太平洋海域の放射能汚染 | |
| 三宅泰雄 | 核拡散と環境放射能汚染の諸問題 | |
| 小野周 | 原子力開発をめぐる諸問題 | |
| Ⅱ 軍備管理に代わる真の核軍縮 | ||
| 関寛治 | 軍備管理に代わる真の核軍縮を-分析と提案をつなぐ理論- | |
| アーサー・ブース | ブラッドフォード提案と軍備管理の部分措置 | |
| 山田英二 | 核兵器全面禁止への展望 | |
| 川崎昭一郎 | 核兵器全面禁止国際協定実現の緊急性 | |
| 佐藤行通 | 核拡散防止条約再検討会議からの報告 | |
| オーエン・ウィルクス | 太平洋非核化をめざすたたかい | |
| 岡本三夫 | 軍備縮小から軍備撤廃へ-平和研究の視点- | |
| Ⅲ 被爆30周年広島国際フォーラムは訴える | ||
| 庄野直美 | 広島・長崎の原爆被害と後遺症 | |
| フィリップ・ノエルベイカー | 1つの国家、1つの人類、1つの共同体をめざして | |
| ショーン・マクブライド | 完全軍縮と世界平和に敵対するもの | |
| 江口朴郎 | 平和運動における人民の位置 | |
| 藤井日達 | 人類を絶滅から救うために | |
| 上代たの | 核問題に免疫になることこそ危険 | |
| 丸山益輝 | 被爆体験の継承を訴える | |
| 被爆30年広島国際フォーラム・コミュニケ | ||
| 吉野源三郎 関寛治 服部学 川崎昭一郎 | 座談会・核廃絶をめざして、私たちは今、何をなすべきか | |
| あとがき | ||
| 著者紹介 | ||
『核時代の平和学』(日本平和学会編、時事通信社刊、 19760815)目次(抄)
| 川田侃 | まえがき | |
| 関寛治 | ||
| Ⅰ | 核に覆われた世界の危険性 | |
| 進藤榮一・(討論者)白鳥令 | 国際危機と核抑止 | |
| 森利一・(討論者)西川潤 | 第三世界への核拡散 | |
| 丸山益輝・(討論者)袖井林二郎 | 平和的核開発の限界 | |
| 山田浩・(討論者)関寛治 | 米ソ核戦略の展開と批判 | |
| D・ゼングハース・(討論者)鴨武彦 | 軍拡力学と軍縮 | |
| Ⅱ | 核抑止論からの脱出 | |
| 木村修三・(討論者)増田祐司 | 核拡散防止条約体制を超えるもの | |
| 岸田純之助・(討論者)小山内宏 | 非核武装地域の可能性 | |
| R・フォーク・(討論者)田畑茂二郎 | 非核未来秩序計画 | |
| 文沢隆一・庄野直美(補論)・行宗一(討論者) | 被爆者の現状と問題点 | |
| 永井秀明・(討論者)浮田久子 | 平和教育の構造と平和研究の課題 | |
| Ⅲ | 核軍縮と平和研究の課題 | |
| 坂本義和 | 核軍縮と平和研究の課題 | |
| 関寛治 | 報告・討論のまとめ-核時代の平和学における争点の展開 | |
| 付録 | D・ゼングハース | 欧米の平和研究の成果と課題 |
| R・フォーク | 非核世界の実現は幻想か | |
| 夏の核問題会議から | ||
| 被ばく30年・広島国際フォーラム | 8月3日・4日 広島 | |
| パグウォッシュ国際シンポジウム―完全軍縮への新しい構想 | 8月28日―9月1日 京都 | |
| 日本平和学会―核と平和 | 9月3・4日、広島 | |
年表:平和教育(1975年)
| 04 | 30 | 広島平和教育研究所、平和教育カリキュラムの第一案をまとめる |
| 06 | 14 | 第3回全国平和教育シンポジウム、広島市・幟町中学校で開催。全国18都道府県から1000人近くが参加。-15日。 |
| 07 | 03 | 広島市教委、「平和教育の指導例集・小学校編」まとめる |
| 08 | 06 | 広島県三次市の高杉小学校、集団疎開した広島市袋町国民学校の疎開児童6人を招き、体験を聞く。 |
| 08 | 06 | 広島市の安田女子高校、栗原貞子の詩「生ましめん哉」のモデルになった平野美貴子の被爆体験を聞く。 |
| 09 | 25 | 愛知県名古屋市の立花高校2年生209人、修学旅行で広島を訪問。平和公園の慰霊碑前で合唱・詩の朗読などを実施。同校が修学旅行で来広するのは今回で5回目。 |
| 10 | 23 | 愛知県立佐屋高校2年生256人、修学旅行で広島を訪問。平和公園の原爆慰霊碑前で平和式典を開く。 |
広島大学平和科学研究センター
1975年7月8日学内措置により平和科学研究センターとして発足
2018年4月1日からは、既存の平和科学研究センターを「広島大学平和センター」に発展させ機能強化を図る
https://home.hiroshima-u.ac.jp/heiwa/
NPT再検討会議(1975年)
1975年は,核兵器不拡散条約の発効後5年目にあたり,同条約の規定に従つて発効後5年目にその運用を検討するための再検討会議が5月5日より30日までジュネーヴにおいて開催された。同会議においては勿論のこと,同会議に前後して開催された軍縮委員会春会期及び夏会期並びに第30回国連総会においても,核の一層の拡散をいかにして防止するかという問題が大きくとりあげられた。75年の軍縮に関する最も中心的な問題は,この核拡散防止問題であつたといつてよいであろう。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1976_1/s51-2-4-2.htm#c1
72カ国の参加のもとで75年5月開催された核兵器不拡散条約の再検討会議は,メキシコ等の非同盟グループと米英ソ等が対立し難航したが,最終日になり,同条約体制の維持強化を謳つた最終宣言が全会一致で採択された。わが国は,決定には加わることができない署名国の資格で同会議に参加したが,多くの国がわが国の主張に耳を傾け,わが国の主張が最終宣言にとり入れられたことが注目された。また,同会議と相前後して西独,イタリア等が核兵器不拡散条約に参加し,同条約の普遍性は,一段と高まつた。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1976_1/s51-2-4-2.htm#c4
『広島・長崎30年の証言』広島・長崎の証言の会編、未来社 (上) 19750806(下)19760430
内容
| (上) | 19750806 | |
| 序章 原爆30年目の問い | ||
| 秋月辰一郎 | ヒロシマ・ナガサキ三十年の想い | |
| 鎌田定夫 | わが内なるヒロシマ・ナガサキ | |
| 第1章 歴史の暗点から | ||
| 小堺吉光 | ヒロシマ・救われない犠牲者 -国民義勇隊員の惨禍 | |
| 秋月辰一郎 | ナガサキ・歴史の暗点 | |
| 第2章 ”核権力”と被爆者 | ||
| 栗原貞子 | 天皇と核権力と被爆者と | |
| 山田かん | 原爆とキリシタン | |
| 李奇相 | 被爆朝鮮人の受難と怒り -在日朝鮮人の証言と告発 | |
| 第3章 ビキニ水爆20年目の告発 | ||
| 広田重道 | ビキニ被災二十年目の証言 -原水禁運動の原点をみつめて | |
| 久保山さんへの手紙は訴える -原水爆への国民的怒りの原点をさぐって加納竜一 近藤弘 長岡弘芳 | ||
| 第4章 30年を生きて今-被爆者30年目の証言 | ||
| 鎌田信子 | 原爆を生きつづける証人たち -長崎原爆青年乙女の会のふたり | |
| 古浦千穂子 | 生きられなかった被爆者たち | |
| 文沢隆一 | 胎内被爆から三十年-きのこ会のこと | |
| 広瀬方人 | 被爆二世の生と死 | |
| 石田明 | 原爆裁判への情念と論理 | |
| 福田須磨子 | 〔遺稿〕 われなお生きてあり(続) | |
| 第5章 無国の谷間から -海外被爆者の告発 | ||
| 辛泳洙 | 被爆と民族の問題-日本政府・天皇・国民への苦言 | |
| 鎌田定夫 | 在韓被爆者三十年の遺恨と告発 | |
| 林福順 | 苦しみの淵から | |
| 厳粉連 | 広島から韓国へ地獄はつづく | |
| 島津邦弘 | 核に追われる難民 -ミクロネシアの被爆者たち | |
| 立ちあがる在米被爆者たち | ||
| 据石和江 | アメリカ人に原爆の悲惨を訴えて | |
| 倉本寛司 | カリフォルニア州上院小委員会 原爆被爆者公聴会における証言 | |
| 関係文献目録 | ||
| (下) | 19760430 | |
| 第6章 反原爆運動の中から | ||
| 伊東壮 | 日本被爆者運動の三十年 | |
| 草の根・被爆者運動の中で | ||
| 前座良明 | 長野における反原爆運動二十年と私--長野県原水爆被災者の会と共に | |
| 杉山秀夫 | 私の原水禁運動・被爆者運動二十年 --静岡県原水爆被害者の会と共に | |
| 伊藤普 | 福岡被団協の二十年と私 | |
| 平山良明 | おきなわ・二重苦の被爆者たち | |
| 伊東壮 | 東友会二十年のあゆみ | |
| 深川宗俊 | 朝鮮人被爆者復権のたたかい | |
| 浜崎均 | 原水禁運動とともに生きる--渡辺千恵子さんの生を支えるもの | |
| 北西允 | 原水禁運動の統一と静岡・広島 | |
| 鎌田定夫 | 歴史の証言から歴史の変革へ--「長崎の証言」運動とその周辺 | |
| 第7章 原爆体験の継承をめざして | ||
| 瀬戸口しのぶ | おさなき弱者と「見えない被爆者」 | |
| 今田斐男 | 戦争・原爆体験の伝承者として | |
| 森下弘 | 沈黙の決議 --被爆者教師としての三十年 | |
| 空辰男 | 平和教育の諸相と課題 | |
| 島田麗子 | ひろしまを考える旅 | |
| 長岡弘芳 | 原爆から原発まで --《原爆体験を伝える会》 | |
| 第8章 原爆体験の思想化 | ||
| 石田忠 | 福田須磨子さんの生と死 | |
| 文沢隆一 | 原爆資料発掘作業の試み | |
| 湯崎稔 | 原爆被災復元調査の中から--人間の復権めざして | |
| 山手茂 | 社会科学者は原爆被害問題とどうとりくんできたか | |
| 小川岩雄 | 原水禁運動とパグウォッシュ運動--その問題点と今後の課題 | |
| 山田かん | 詩の中の反原爆 | |
| 岩崎清一郎 | 文学のなかの「原爆」--記録の虚構・その変貌 | |
| 栃木利夫 | 日本近・現代とヒロシマ・ナガサキ | |
| 高橋真司 | 反原爆の思想 --広島・長崎の現代史的意義 | |
| 終章 反原爆三十年目の課題と展望--「広島・長崎の証言の会」座談会 | ||
| ヒロシマ・ナガサキ30年とは何か--広島での討論記録 | ||
| 被爆者運動30年と今後の課題--東京での討論記録 | ||
| 核権力と民衆と証言運動--長崎での討論記録 | ||
| 鎌田定夫 | あとがき | |
核兵器全面禁止国際協定締結・核兵器使用禁止の諸措置の実現を国連に要請する国民代表団:1975年12月8日、ワルトハイム国連事務総長と会見。
出典:『広島・長崎の原爆被害とその後遺-国連事務総長への報告』(核兵器全面禁止国際協定締結・核兵器使用禁止の諸措置の実現を国連に要請する国民代表団派遣中央実行委員会、19760806)
目次
| Ⅰ | 原爆被爆者の30年-事例研究 1 | ||
| 事例-1.広島、男、65歳 被爆当時陸軍運輸部 現在、精神病 院入院中 | |||
| 事例-2.長崎、女、故人 原爆孤老となり、82歳で死亡 | |||
| 事例-3.広島、女、47歳 被爆当時高女在学 現在、離婚 | |||
| 事例-4.長崎、男、41歳 被爆当時小学生、後遺に苦しむ | |||
| 事例-5.広島、女、73歳 被爆当時主婦、残留放射能による 被爆者 | |||
| 事例-6.ある被爆二世の死<長崎の事例> | |||
| Ⅱ | 原爆被害とその後遺の実態 | ||
| 1 | 被害の物理実態 | ||
| 2 | 被害の医学的実態 | ||
| 3 | 被害の社会的実態 | ||
| あとがき<報告書作成の専門家グループ=伊東壮、庄野直美、川崎昭一郎、田沼肇、草野信男、峠一夫、佐久間澄> | |||
『平和教育研究』(広島平和教育研究所・年報1976年)所収
今日、平和公園をはじめとして広島市内で私が確認した限り、いわゆる「慰霊」を目的とした碑は90余りあります。歌碑とか詩碑で、慰霊の意味を含まない平和慰霊碑を会わせると120の碑があるという報告もありますが、慰霊の内容が確認できるものとしては、90余りだと思います。
これらの碑を訪れてみた感想としては、どの碑の場合も掃除がきちんとゆきとどき、今日もなお、市民や遺族の哀悼の念が戦後30年生き続けていることが非常によくわかりました。そして、慰霊碑そのものが、犠牲者なり遺族なりの戦後30年の歴史をさまざまな形で示しているようにも思ったわけです。それらが、今日生きている私たちにさまざまな事柄を強く訴えており、その内容をどう位置づけるかと言うことで、一つの史論的なものとして、「ひろしまの碑をめぐる思想性」を考えてみたいわけです。
そこで一つの例として、広島市立高等女学校の慰霊碑の経緯をみてみたいと思います。といいますのは、この経緯は他の慰霊碑と似かよったものがあり、他の慰霊碑もこれとよく似た歴史をもっているので、まずその流れを述べてみたいと思います。
終戦直後の昭和20年10月30日、この10月30日というのは戦前の教育勅語発布の記念日だそうですが、この日に、「殉職諸先生及び生徒の慰霊祭」が市立高女(現在の舟入高校)の破損した講堂で行われています。翌21年8月6日、多くの生徒と教職員が家屋疎開作業に出ていて原爆の犠牲となった現場で、一周忌法要という仏式の慰霊祭を行い、「殉職諸先生並生徒供養塔」と書き込んだ木碑をそこに建立しています。
2年後の昭和23年5月に新制高校が発足し、市女は二葉高校として出発しましたが、その年の8月6日に、母校市女の御真影奉安庫跡に石の祈念碑を建立し、慰霊碑とは呼ばずに「平和塔」と呼びました。正面は、少女が3人刻みこまれ、まん中にE=MC2(原子エネルギーの公式)という箱をもった少女がいます。裏側は「友垣にまもられながらやすらかに眠れみたまよこのくさ山に」という詩が刻んであります。
昭和25年、都市計画で最初に建てた木碑の「供養塔」地が百メートル道路の一部になるので、その年の8月6日に持明院というお寺の境内に木碑を移しています。同時に、広島市女原爆遺族会を結成し、以後は遺族会が中心となって追弔行事を行ってきました。さらに翌26年8月6日、持明院境内にもう一つの石碑「市女原爆追悼碑」を建立し、除幕しています。これは学校に建立した平和塔と同じものですが、正面のE=MC2がなくなったかわりに、「市女原爆追悼碑」と刻み込まれています。そして昭和32年8月6日、学校に建立した「平和塔」を現在地の元安川畔へ移し、今日にいたっているというのが大まかな経緯です。
この市女の例にみられるように、広島市内にある慰霊碑の多くは、慰霊祭とか慰霊法要という宗教的行事に結びついて建立されているようです。この点について、原爆投下後から翌21年8月までの一か年間に、当日の中国新聞に慰霊祭・慰霊法要を営むという宣伝広告がたくさん載りました。総計すると114種の慰霊祭・法要の通知が載っています。1年間でこれだけたくさんの慰霊祭・法要が営まれたわけですが、その際に、遭難地・火葬地・学校や職場・法要を営んだ寺などに木碑が多く建てられたと思われます。このようにして建てられた木の墓標とか、簡単な供養塔が広島における今日の慰霊碑の始まりのようです。
今日、これら初期の木碑は、そのままの形で残っているものはありませんが、当時のもので碑銘の明らかなものを調べてみると、戦死者31名之墓・船舶練習隊処理之墓・広島郵便局殉職者供養塔・神崎学区戦災死没者追善供養塔など、「原爆」という文字の出てこないのが注目されます。占領下では、こうした銘名が一般的であったようで、終戦直後のプレスコード(9月19日)などによって原爆に対する批判が封じられていた影響によると思われます。
占領下の当時は、原爆という文字が使えないだけでなく、学校などに慰霊碑を建てることにも制約が加えられています。昭和20年と22年に広島市から各国民学校長宛に出した公文書の中で、慰霊碑建立に対する制約のあることが確認できます。また当時、広島市立学校長に、学校に現存する忠魂碑とか戦没者記念碑などを撤去したかどうか報告せよという文書も出されています。そのほかに、学校を宗教行事に使用してはならないだけでなく、学外でも学校がこうしたことを主催するのを禁止しています。
昭和20年から22年に出されたこれら一連の通達は、それまでの軍国主義的な教育と一線を画すために行われた政策の一つであったと思われますが、逆に原爆犠牲者の遺族達の慰霊に対する心情をゆがめる結果にもなったと思います。
こうした当時の状況を反映して、一例として最初に述べた市女学内に建立された碑は、慰霊碑と呼ばずに「平和塔」と呼びました。この点について市女原爆遺族会長は、「当時わが国は米国占領下にあり、慰霊碑などの建立は許されない諸情勢であったが、市女原爆関係者は率先してこれを建立し、平和塔と呼んでいた」と追憶記の中で書いています。また、この平和塔の浮彫は、「あなたは原子力(E=MC2)の世界最初の犠牲として人類文化発展の尊い人柱となった」と級友が犠牲者を慰めている姿を表しているといわれており、ここでは原子力と原爆が同一視されています。占領政策が解かれた年の昭和26年に持明院境内に建てられた同型の碑では、表面の浮彫は消え、かわりに「市女原爆追悼碑」という碑銘がはいったことなどからみて、いかに原爆がタブー視されていたかの一端がうかがえます。
このように、「原爆」という二文字さえ自由に使えなかった占領下においては、ほとんどの慰霊碑の性格は、慰霊という宗教目的を出ることはありませんでした。しかし、占領が解けると、慰霊碑はさまざまな性格をもつようになってきます。その一つは、「原爆」という二文字が一般的に用いられるようになったことです。つまり、原爆犠牲が「戦死者」「戦災死者」など戦争一般の犠牲者と区別できない表現から、「原爆犠牲者」「原爆死没者」というように、その死因として「原爆」を指摘する表現になったことに大きな意味があると思います。
二つには、原爆という言葉と同時に、「平和の礎」「殉国」「散華」「英魂」「英霊」と言った死者に対する一種の意義づけが行われるようになったことです。「平和の礎」という表現は占領下から使われていましたが、これは、原爆投下が戦争を早く終わらせ平和をもたらしたのだという占領政策の思想からきたのだと思われます。昭和30年ごろまでよく使われていましたが、それ以後の碑にはなくなっています。「殉国」「散華」などは、戦前から使われている普通の表現ですが、占領下では消えており、占領解除後は学校関係の碑を中心に多く用いられています。これは、いたいけない子ども達を失った父母たちが、何らかのかたちでその死を位置づけたいという気もちによるものだと思われますが、今日の靖国神社法案と関連して深刻な問題を示しているともいえます。
「平和の礎」や「殉国」などといういい方は、過去の反省にたった表現となっていますが、昭和30年前後からは、原爆犠牲を過去のこととしてではなく、現在や未来に結びつけたものが建てられるようになりました。つまり、原爆犠牲者への哀悼の念をとおして平和への祈念、原爆への怒り、核兵器廃絶の決意などが語られるようになったわけです。その表現方法も、具体的なことばだけでなく、象徴的な彫刻などによるようになりました。
たとえば、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから=原爆慰霊碑」「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための=原爆の子の像」「なぜあの日はあった なぜいまもつづく 忘れまい あのにくしみを この誓いを=全損保労組被爆20周年記念碑」「天を撃つな 戦霊を射て 人を撃つな 戦禍を射て 原爆広島に眠る 無名の霊よ 国鉄の魂よ 霊の目はみつめ 魂の手はつかむ 平和と未来を=国労慰霊碑」などがその一例です。
これら慰霊碑の碑文や彫刻などに脈うつ原爆観、平和観はけっして同一ではなく、戦後30年広島・日本・世界中にうずまいた平和運動の影響を多かれ少なかれ受けていると思います。その意味では、今日までの平和観・原爆観の縮図のような気もしますが、一つだけ同じ訴えをしているように思います。それは、広島の悲劇を再び地上にくり返してはいけないということです。
以上が、碑をめぐる問題について私なりの大まかな史論的な考えです。それと関連して、これら広島の慰霊碑と国などが行っている慰霊祭は、本質的に違うと思うのです。国などの場合は、戦前のことが常に考えられているようだし、靖国神社ともつながって計作されていると思います。これに対し、広島の慰霊碑の性格としては、市民の要求や市民のやむにやまれぬ感情が結集してつくられていると思います。
ところで、体験記の中にも慰霊碑でみてきたのと同じような流れがあります。[中略]
慰霊碑の碑文が簡潔で、どのようにでも解釈できるような場合もたくさんあるわけですが、慰霊碑の建立を機に出されている体験記集とかみあわせることによって、その碑のもつ意味が一つ一つ正確に位置づけられると思います。