広島平和文化センター条例
1967(昭和42)年10月13日 条例第36号
(目的及び設置)
第1条 平和に関する諸問題の総合的な調査研究、国際文化会館建設の調査及び企画、平和に関する事業及び行事の企画及びその実施の推進、平和記念施設を中心とする文化施設の整備及び管理の基本的かつ総合的な方針の策定及びその実施の推進等を行ない、もって、世界平和の確立と人類の福祉の増進に資するため、広島平和文化センター(以下「平和文化センター」という。)を設置する。
(位置)
策2条 平和文化センターは、広島市中島町広島平和記念館内に置く。
(業務)
第3条 平和文化センターは、次の業務を行なう。
(1)平和に関する諸問題の総合的な調査研究を行なうこと。
(2)平和に関する情報及び資料を収集し、整理し、及び利用に供すること。
(3)国際文化会館建設の調査及び企画に関すること。
(4)平和に関する事業及び行事を企画し、及びその実施を推進すること。
(5)平和記念施設を中心とする文化施設の整備及び管理の基本的かつ総合的な方針を策定し、その実施を推進すること。
(6)平和関係諸団体との連絡調整に関すること。
(7)前各号に掲げるもののほか、第1条の目的を達成するために必要な業務を行なうこと。
(職員)
第4条 平和文化センターに、局長その他必要な職員を置く。
(委任規定)
第5条 この条例の施行に関し必要な事項は、市長が定める。
附則
この条例は、公布の日から施行する。
「年」カテゴリーアーカイブ
金井利博の日本学術会議への期待(原爆被災資料)
金井利博「原爆被災資料(民間報道部門)について日本学術会議に期待されること」
1967年12月16日
被爆者・この32年の苦悩
被爆者問題国際シンポジウム広島準備会・生活史調査委員会(編) 『被爆者・この32年の苦悩
-相談援助制度と援護法を求めて-』
白いチョゴリの被爆者
『白いチョゴリの被爆者』 (広島県朝鮮人被爆者協議会編、労働旬報社、1979年7月15日)
広島県朝鮮人被爆者協議会(朝被協)は1975年8月2日発足.本書には広島で被爆した18名の朝鮮人被爆者の証言を収録.他に、朝被協による朝鮮人被爆者実態調査結果も発表.
目次
肉声を聞く(松本清張) | |
スニのための鎮魂歌(許南麒) | |
Ⅰ | なぜこんな体になったか忘れんでほしい(李永淳) |
1 強制連行で炭鉱夫に いわれた次の日にはもう家族と別れ/膝をまげ首までまげて穴を掘りました 2 怪我人の列が一日中続いとった 3 原爆スラムにバラックをたてて |
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Ⅱ | 劫火のなかに息子の焼かれるのをみて-戦争は私の家族何人を奪おうというのでしょう(辛福守) |
1 『皇国臣民』につくりあげられて ”おしっこ”がいえずにおもらしする子供たち/日本に淡い期待をいだいてきたが 2 燃える体に学生服のボタンが三つ並んでいました 屍の間でかろうじて息をして/死なんぞ-子供二人につづいて夫も 3 重なる惨劇-黒人兵に射殺された弟一家と兄の死と 4生命あるかぎり |
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Ⅲ | 犬のように殺されてたまるか-連行・逃亡・拷問のはてに(鄭順南) |
1 ”鮮人”は豚以下だそうです 畑にトラックでのりつけ連行することも/幾度かの逃亡失敗/豚に食わせる砂糖があってもおまえにはやらん 2 川もぎっしり死体で埋められてました 3 日本人のあなたに考えてほしい |
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Ⅳ | 地獄絵のなかの差別-貴様!!朝鮮人のくせにギャアギャアいうな!(呉鳳寿) |
1 土地をとられて小作させてもらい 2 どこでも一番危ない仕事は朝鮮人 3 こんな目に遭うても-忘れられないあの言葉 4 一冊の本になるほどの苦難の末に 食べ物で二人の子を失い/朝鮮を二度と植民地にしない子に育った |
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Ⅴ | 売春婦に売られて(金末順) |
1 だまされて日本の遊かくへ 2 やっとつかんだ幸せを原爆に奪われて |
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Ⅵ | 日本人はわしらを人間と思うとらんかった(南貴浩) |
1 生きているのが不思議なくらいいじめられた 2 生き残ったのは部落の一割 3 朝鮮人は朝鮮へかえれといいよる-さんざこきつかっておいて |
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Ⅶ | 四六年間”楽しいこと”は一つもないです(鄭寿祚) |
1 一○歳で子守に出されました 2 人間かお化けか 3 植民地なんかなかったら 一人が泣いて四人を助けるつもりで/故郷へ帰って両親の墓まいりするまで生きたい |
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Ⅷ | 一瞬の黒い熱い大波におおわれて(呉乙鶴) |
1 被爆-空中から卵型みたいなのがピカッ 2 産まれる子供が次つぎと 3 私が非常に訴えたいこと 4 朝鮮人は死んでも灰も届けられない |
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Ⅸ | 雨が降っても学校に傘もってくるな-朝鮮ブタ朝鮮ブタとさげすまれ(権重判) |
1 炭鉱を脱走した一七歳年上の主人と結婚 2 人間がイワシのように並べられ-爆風で白いかたまりの被爆者も 3 苦しみの倍加-子供への民族差別 一家六人をかかえてヤミ米買い出し/学校でも就職でも |
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Ⅹ | だれのためになんのために-どうしてもいっておきたい就職差別(文七権) |
1 まるで強盗でした-ウュノムの仕うち 2 おまえは鮮人だから-日本での屈辱 3 追われて広島へ-被爆の苦痛 4 希望の子供らまで就職差別され-戦後も消えぬ苦しみと怒り |
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ⅩⅠ | おまえらみたいな奴 三厘でいくらでも手に入るんだ-逃亡生活・徴兵拒否のはてに(朴在寿) |
1 貧困と差別のなかで 2 逃亡生活 一年余の徴兵拒否の逃避行/徴兵検査-父連行の脅迫で 3 人間が木炭のように 4 日本人以下に扱われる理由はないのです |
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ⅩⅡ | ”新日本人”と口先ではいいながら(黄義錫) |
1 消えない思い出 2 戦争のために 朝鮮人は劣等人間だからつき合えばバカになる/ていよく日本政府の番犬につかわれて 3 どの人も裸同然でした 4 日本のためにのみ働かされてきたのに |
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ⅩⅢ | 広島の街が大地に叩きつけられたように(柳昌洙) |
1 太陽が黒くみえた 2 心のやすらぎがほしいんよね 3 子孫が二の舞をふんでは死にきれん |
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ⅩⅣ | 歴史の底で死んだ母(鄭文玉) |
1 どの家庭も食べ物をあさる生活 卑屈な運命をたどる旅立ち/夢を破られた父との再会 2 日本が手を上げるならもっと早ければ 3 せめて人権だけでも-新憲法下でも変わらない仕うち 4 いまも暗い歴史を背負い |
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ⅩⅤ | 子供らに希望を語りつづけて-朝鮮人被爆教師として(朱碩) |
1 故郷も生活を荒らしまくられて 2 死の行列はあとからあとからつづき 3 反戦・平和・民族教育の灯を守るために 4 父母たちはなぜ被爆したか、なぜ原爆は落とされたのかを教えて |
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ⅩⅥ | 土地・言葉・故郷・八人の肉親を奪われて |
1 全財産を奪われて 2 血のようなくやし涙-妻も兄も八人の肉親を失い けん命に生きる人間のすべてを奪った原爆/なぜ最も善良なものが最も過酷な運命を 3 放置された被爆者のために |
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ⅩⅦ | 顔をみて”つける薬はない”と無視しました-事実を互いの民族がみつめあってこそ(閔基鎬) |
1 一日も胸をはって生きられなかった少年の日日 2 原爆と空襲のなかで 気づかずに積みあげた死体の脇に寝て/むごい体験 3 日朝のほんとうの交流をつくるために |
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ⅩⅧ | この世に生まれた価値を失わないために |
ⅩⅨ | 被爆朝鮮人問題と「朝被協」(李実根) |
1 被爆朝鮮人の由来 | |
一 在日朝鮮人の形成 二 軍都ヒロシマ-朝鮮人ヒバクシャ |
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2「朝被協」の結成と活動 | |
一 その結成と足跡 二 在広朝鮮人被爆者の実態調査 |
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あとがき | |
表紙絵・文中カット四国五郎 |
平和と学問を守る大学人の会会報第26号
平和と学問を守る大学人の会会報第26号
1960年2月20日
原爆被害の実相と被害者の苦しみ
『原爆被害の実相と被害者の苦しみ』 日本原水爆被害者団体協議会 1959年8月6日発行
目次
序 筆者紹介 まえがき 1 原爆によってどのような物理的被害を受けたか 1 原爆が爆発した瞬間の被害 2 残留放射能による被害 2 原爆症とはどのような病気か 1 原爆症の統計的研究 2 放射線は被害者の身体にどんな変化を与えているか 3 被爆者の生活にはどのような苦しみがあるか 1 被爆者の家庭生活のなかの苦しみ 2 被爆者の職業生活のなかの苦しみ 3 被爆者の苦しみと要求 4 被爆者の社会意識 4 被害者の救援はどこまで進んでいるか 1 医療法はどこまで役に立っているか 2 完全な医療保障と生活保障の実現のために むすび-救援運動と原水爆禁止運動とのむすびつきを深めるために 付「被爆者を囲む懇談会」への被害者代表の訴え 執筆者紹介
1 庄野直美 広島女学院大学助教授・物理学 佐久間澄 広島大学理学部教授・物理学 小川修三 広島大学理学部助教授・物理学 2 杉原芳夫 広島大学医学部助教授・病理学 3 山手茂 広島女子短期大学講師・社会学 4 石井金一郎 広島女子短期大学助教授・政治学 まえがき(抄)
被爆者の現状についての社会科学的な研究は、今までに極めて乏しかったので、今年初め日本原水協・被団協の依頼によって組織した「広島・長崎原爆被爆者調査団」がおこなった、431名の被爆者の面接調査および救援活動、救援機関の調査の結果を参考としてまとめている。
原爆問題広島総合研究会
原爆問題広島総合研究会 1979年2月設立
会報
No. | 発行年月日 | 所蔵 | ||
G=原爆資料館、U=宇吹 | ||||
01 | 19790715 | 庄野直美 | 研究会設立に際して | GU |
02 | 1980.01.25 | シンポジウム報告特集号 | NGO被爆問題国際シンポジウム2周年記念合同研究会報告 | G |
シンポジウム「核兵器と人類の生存」の報告 | ||||
03 | 1980.04.15 | 小寺初世子、木本喜美子 | 外国人の核意識―大学卒外国婦人に対する試験的調査のまとめ― | GU |
04 | 1980.06.28 | 被爆朝鮮・韓国人問題特集号 「被爆朝鮮・韓国人問題シンポジウム」報告 | GU | |
問題提起概要 | ||||
石田定 | ||||
渡辺正治 | ||||
栗原登 | ||||
上原敏子 | ||||
石田定 | ||||
鎌田定夫 | ||||
豊永恵三郎 | ||||
平岡敬 | ||||
深川宗俊 | ||||
李実根 | ||||
崔成源 | ||||
05 | 1980.08.06 | 平岡敬 | 被爆朝鮮・韓国人に関する資料目録 | GU |
06 | 1980.10.24 | 在韓被爆者実態(補充)調査活動の経過と分析 韓国の原爆被害者を援護する市民の会 | G | |
07 | 1981.06.30 | 「被爆者問題シンポジウム」報告 | G | |
茅誠司 | 「原爆被爆者対策の基本理念及び基本的在り方について」 | |||
08 | 1981.07.10 | ロートブラット氏とセガーラ女史を囲む懇談会の記録―「核拡散の問題点」および「軍縮のための国連の活動」 | G | |
09 | 1981.09.30 | 「非核三原則をめぐるシンポジウム」の報告 | G | |
10 | 1982.01.30 | 小寺初世子 | より効果的な核兵器の禁止を求めて―国際刑法典の制定をめぐる最近の国連活動への期待― | G |
11 | 1982.03.20 | IPPNW〔核戦争防止国際医師会議〕 | G | |
12 | 19821225 | 石田定 | IPPNW〔核戦争防止国際医師会議〕第二回総会に参加して | G |
湯崎稔 | シンポジウム「反核の軍縮の今後」―SSDⅡを終えて― | |||
永井秀明 | 10フィート映画の欧米上映で得たもの | |||
好村冨士彦 | 平和のための国際文学者会議を終えて | |||
谷口稜曄 | 反核運動と被爆者 | |||
高橋真司 | ナガサキからニューヨークへ―ポストSSDⅡへの展望 | |||
メッセージ | ||||
庄野直美 | シンポジウムのまとめ | |||
1982年度総会報告 | ||||
1982年度原爆問題広島総合研究会役員 | ||||
代表 | 庄野直美 | |||
顧問 | 今堀誠二・・・ | |||
幹事 | 石田定・・・・三村正弘(福島生協病院)・・・ | |||
事務局長 | 湯崎稔 | |||
会計監査 | 相原和光 | |||
原爆被害に関する事例報告(1976年)
『原爆被害に関する事例報告-生き続けた31年』(原爆被害者問題ケースワーカー懇談会<日本被団協気付・伊藤直子>、19760730刊)
目次
「原爆被害に関する事例報告」発刊にあたって―経過と目的――1976年7月30日原爆被害者問題ケースワーカー懇談会 | ||
事例報告 | ||
加藤礼子 | 1原爆に奪われた「人並み以上」の人生(広島赤十字病院・医療ソーシャルワーカー<ワーカー歴16年>)<当病院の医療社会事業部は、全国の日本赤十字社と足並を揃えて昭和28年ごろより始められ> | |
若林節美 | 2 被爆,下痢そしてスモン発病-2重の苦しみを背負って-(広島原爆病院・医療ソーシャルワーカー<ワーカー歴9年>) | |
西村清登 | 3ある被爆者の老後-24年目の親子再会-(放射線影響研究所・医療ソーシャルワーカー<ワーカー歴13年>) | |
中村住代 | 4 生きるのぞみをうばわれて(長崎原爆病院・医療ソーシャルワーカー<ワーカー歴7年>) | |
白石照子 | 5 なおつづく「戦後」を背負って―二世に及ぶ被害(長崎原爆被災者協議会相談員) | |
野口文子 | 6 アル中,そして死-妻子にも語れたかった死の恐怖-(柳原病院・医療ソーシャルワーカー<ワーカー歴9年>) | |
原玲子 | 7 影深く-尾をひく被爆体験(代々木病院・医療ソーシャルワーカー<ワーカー歴9年>) | |
石田忠 | 原爆被害の全体像をどうとらえるか-ケースワークにおける生活史把握の意味-<1976年2月29日広島県社会事業協会主催「被爆者問題事例検討会」での講演をまとめたもの> | |
記録をおわって あとがき | ||
参考資料 | ||
全国ケースワーカー大会(日本医療社会事業協会主催)
全国ケースワーカー大会(日本医療社会事業協会主催) 1977年5月20~21日。テーマ:「資格制度の方向性をさぐる」。会場:中国新聞社・平和記念会館(広島市)。参加者約600人。2日目の8分科会の一つに「原爆被害者問題」(このテーマの分科会が設けられたのは初)。約50人が出席。長崎(友池敏雄・長崎原爆病院)と広島(山田寿美子・福島生協病院)から実践報告。午後1時から石田忠一橋大学教授の特別講演「ケースワーカーにおける生活史把握の意味」と分科会報告。
出典:「赤旗」1977年5月22日。
SSDⅢ(第3回軍縮特別総会)
SSDⅢ(第3回軍縮特別総会)1988年5月31日~6月25日、ニューヨーク
出典:http://www.unic.or.jp/texts_audiovisual/libraries/research_guide/themes/disarmament/
第3回軍縮特別総会
A/RES/41/60GおよびA/RES/42/40による第3回軍縮特別総会(通算15回目の国連特別総会)は、1988年5月31日から6月25日にかけ、ニューヨークで開催されました。
A/RES/41/60GおよびA/RES/42/40によって設置された準備委員会の作業文書は、文書記号A/AC.230/-の形で発行されました。会合記録は文書記号A/AC.230/SR.-の形で発行されました。準備委員会の総会に対する最終報告書はA/S-15/1(GAOR, 15th spec. Sess., Suppl. No. 1)として発行されています。
総会決定S-15/21によって設置された第15回国連特別総会全体委員会の作業文書は、文書記号A/S-15/AC.1/-の形で発行されました。会合記録は文書記号A/S-12/AC.1/SR.-の形で発行されました。全体委員会の最終報告書はA/S-15/50として発行されています。
同特別総会の作業文書は文書記号A/S-15/-の形で発行されました。会合記録は文書記号A/S-15/PV.-の形で発行されました。総会決定S-15/24により、特別総会は第3回軍縮特別総会の最終文書として、アドホック委員会の報告書(A/S-15/50)に留意しました。