京都大学原水禁研ビラ「被爆朝鮮人問題を自己の課題に!」
〔1975年8月〕 |
被爆朝鮮人問題を自己の課題に! |
孫振斗手帳裁判勝利!県=厚生省の最高裁上告徹底糾弾! |
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京都大学原水禁研ビラ「被爆朝鮮人問題を自己の課題に!」
〔1975年8月〕 |
被爆朝鮮人問題を自己の課題に! |
孫振斗手帳裁判勝利!県=厚生省の最高裁上告徹底糾弾! |
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在韓被爆者問題市民会議
設立総会
日時:1988年5月20日
会場:日本YMCA(東京)
講演
小川正亮「被爆者援護の法理」
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年表:在韓被爆者渡日治療広島委員会<作業中>
年月日 | できごと | 備考 |
1984 | ||
0802 | 在韓被爆者渡日治療広島委員会、発足。 | |
1985 | ||
0228 | ||
1986 | ||
0412 | ||
1988 | ||
0702 | ||
1990 | ||
0714 | ||
1006 | ||
1991 | ||
0804 | ||
1995 | ||
0527 | ||
2003 | ||
0510 | ||
2007 | ||
1025 | 在韓被爆者渡日治療広島委員会、谷本清平和賞(第19回)に選ばれる。11月25日授賞式。 | |
2008 | ||
0626 | 中国新聞「在外被爆者への未払い手当 支給開始 1年」(森田裕美・記者) | |
2009 | ||
0531 | 在韓被爆者渡日治療広島委員会(河村譲会長)総会 | |
0718 | 中国新聞「 在韓被爆者健康管理手当 民間記録で支給方針 広島市」(東海右衛門直柄・記者) | |
1107 | 中国新聞「 在韓被爆者 まず6人に健康手当 広島市、月末に支給方針」(東海右衛門直柄・記者) | |
2010 | ||
0401 | 在外被爆者の原爆症認定訴訟の来日要件、この日に撤廃 | |
0522 | 在韓被爆者渡日治療広島委員会(河村譲会長)総会 | |
0812 | 中国新聞「『生きて』詩人 御庄博実さん〈13〉韓国人被爆者」(伊藤一旦・記者) | |
2015 | ||
0328 | 中国新聞「渡日治療広島委を表彰 韓国政府 在韓被爆者を支援」(田中美千子) | |
2016 | ||
0513 | 在韓被爆者渡日治療広島委員会河村譲会長ら4人、広島市役所で記者会見。活動終了すると発表。(中国新聞 20160513) | |
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在韓被爆者渡日治療広島委員会 発足:1984年8月2日
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日韓被爆者交流会<作成中>
日韓被爆者交流会報告集「海峡を越えて」
訪韓 報告集 Ⅰ | ||
「在韓」被爆者の訴えを聞いて 1989・5/1990・5 | ||
発行 ヒロシマを語る会(代表:吉田博直)、 アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会(吉野誠) 発行日 1999年10月20日 |
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訪韓報告書2 | ||
『在韓被爆者』は今 何を求めているのか 1993年8月 1994年8月 1995年8月 1996年 |
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発行 日韓被爆者交流会とそれを支援する会 (代表:宮川裕行) 韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部 (支部長:豊永恵三郎) 発行日 1999年10月20日 |
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訪韓報告書3 | ||
『在韓被爆者』にはもう時間がない | ||
第2回在韓被爆者との交流を深める旅(通算13回目) | ||
発行 在韓被爆者との交流を深める旅・実行委員会 代表:宮川裕行 編集者:藤原裕久子 発行所 韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部 支部長:豊永恵三郎 発行日 1999年10月20日 |
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日韓被爆者交流会開催状況
回 | 年月日 | メモ(概要) |
1 | 19890502~0506 | |
2 | 19900503~0506 | |
3 | ||
4 | ||
5 | 19930818~0821 | |
6 | 19940823~0826 | |
7 | 19950818~0821 | |
8 | 19960818~0821 | |
9 | 1997 | |
10 | 1998 | |
11 | 1999 | |
2000~ | 「在韓被爆者との交流を深める旅」として実施 | |
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年表:中国人被爆者 <作業中>
年月日 | 事項 | 備考 |
1950 | ||
1111 | 中国共産党機関紙,中国人留学生の被爆体験記を掲載(1979年2月22日「中国新聞」)。 | |
1957 | ||
1113 | 長崎刑務所浦上支所、同所の墓地から収容中原爆で死亡した中国人34柱の分骨をおこなう。日中友好協会を通じ中国に引き取られる予定。 | |
1115 | 長崎刑務所浦上支所、原爆死した中国人33柱とその後病死した1柱計34柱の遺骨引渡式を挙行。天津郊外の殉難烈士慰霊堂に収められる予定。 | |
1958 | ||
0409 | 長崎の浦上収容所で原爆の犠牲となった36柱を含む中国人俘虜殉難者の合同慰霊祭、東京芝の真福寺で挙行。10日出港の白山丸の第8次遺骨送還(120柱)に先立ち実施。(「原水爆禁止ニュース」NO.56) | |
1970 | ||
0727 | 日中友好協会長崎県連合会の代表4人、諸谷長崎市長に原爆死した中国人捕虜33人を殉難者名簿に記載するよう申し入れ。市長は、別冊に記載すると回答。 | |
0809 | 長崎市、原爆犠牲者慰霊・平和祈念式を挙行。約8000人が参列。被爆者代表の辻幸江が「平和の誓い」を述べる(初)。中国人33人の名前も奉安(外国人は初)。 | |
1970 | ||
0221? | 中国人留学生の被爆体験記が、1950年11月11日付中国共産党機関紙に掲載されていたことが判明。 | |
1120 | 広島県議会訪中団、中国人被爆者の日本での検診、中国での原爆展開催を計画中であると発表。 | |
1130 | 広島県議会訪中団のメンバー帰国し、首相に、中国人被爆者の広島での検診・中国での原爆展開催実現に協力を要請。 | |
1207 | 中日友好協会顧問、中国人被爆者の来日・検診について、中国側には問題はないとの意向表明。 | |
1980 | ||
0325 | 広島県議会日中友好議員団、広島で被爆した元中国人留学生に広島への招待状を送付。 | |
1981 | ||
0717 | 広島で被爆した中国人(2名)、検診のため来広。(31日帰国。) | |
0727 | 長崎で被爆した中国人に、被爆者手帳交付される。 | |
1982 | ||
0417 | 長崎外国人戦争犠牲者追悼碑建立委員会、外国戦争犠牲者追悼文集「核廃絶人類不戦」を出版。被爆した中国人・朝鮮人などの証言を掲載。 | |
1983 | ||
0702 | 広島で被爆死した中国人留学生三名を新たに確認。広島大庶務部国際主幹の追跡調査によって。 | |
1985 | ||
0622 | 中国訪問から帰国した総評・原水禁被爆者代表団、広島市で記者会見。広島で被爆した中国人留学生らを招待する計画など発表。 | |
1016? | 原水禁国民会議、留学中に広島市で被爆した中国人 2名に、同市への招待状を送付。原爆病院での検診なでを計画。 | |
1017 | 留学中に広島市で被爆した中国人被爆者、死去。( 原水禁国民会議が広島市で検診を受けるよう招待を計画。) | |
1127? | 広島県原水禁、被爆した元中国人留学生の招請計画を、招待者の死亡などで、来春に延期。 | |
1986 | ||
0606 | 旧広島文理大留学中に被爆した中国人被爆者、治療のため来広( 14日、長崎市を訪問、16日、広島原爆病院に入院) 。 | |
1988 | ||
0514? | 広島で被爆した中国人元留学生由明哲、再来日を希望。日本の知人ら、招請のための資金援助などを呼びかけ。 | |
1991 | ||
0222 | 朝日新聞社、湾岸戦争について、韓国人被爆者・在米被爆者・オランダ人被爆者・中国人被爆者らに意見を聴取し、紙上に掲載。 | |
0630? | 「中国往還-現代史の視点」(小林文男広大総合科学部教授著)、出版。中国人原爆被爆者の取材報告などを収録。 | |
1992 | ||
0310 | 本島長崎市長、平和公園の旧浦上刑務支所で被爆死した中国・朝鮮人46人の名誉回復措置について、市議会で市長の所管外と答弁。 | |
0508 | 長崎の証言の会、旧長崎刑務所浦上刑務支所で原爆死した中国人の遺族が、中国で確認されたことを明らかにする。 | |
0606 | 中国で戦時中の対日民間賠償運動を続ける研究所助手、広島で被爆した中国人2人が見つかったと発表。 | |
0614 | 中国強制連行調査訪中団、報告集会を広島YMCAで開催。強制連行され広島で被爆したとされる中国人が渡日治療を求めていることが紹介される。 | |
0625 | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島YMCAで発足会を開催。約15人が参加。戦時中、加計町の安野発電所建設に強制連行され広島市で被爆した中国人の実態解明が目的。 | |
0803 | 長崎県被爆二世教職員の会、中国河北大学の協力で長崎市平和公園の旧浦上刑務支所で被爆死した中国人4人の遺族を新たに確認したと発表。 | |
0803? | 強制連行された中国人被爆者との交流を進める会、広島市内の司法関係施設で被爆した11人の消息の調査を求める書簡を中国の研究者に送付。 | |
0804? | 中国から強制連行され広島の刑務所内で被爆した中国人2人、当時の手記を共同通信に寄せる。 | |
0812 | 広島刑務所が「獄中被爆」を訴えていた中国・青島市の徐立伝に在監を照明する回答書(7月22日付)を送っていたことが判明。 | |
0813 | 広島刑務所内で被爆した中国人徐立伝が死亡していたことが判明。 | |
0818 | 広島刑務所で獄中被爆した中国人生存者の存在が判明。 | |
0825 | 強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会、広島キリスト教社会館で会合。被爆が証明されながら死去した徐立伝の追悼集会を9月15日に開催することなどを決定。 | |
0915 | 広島刑務所で被爆し、1992年7月に死亡した中国人被爆者徐立伝の追悼集会、広島YMCAで開催。40人が出席。 | |
0917 | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島刑務所で被爆した中国人被爆者の実態調査と渡日治療などの援護措置を広島市長に申し入れ。 | |
1009 | 強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会、広島刑務所で被爆した中国人被爆者張文彬の被爆者健康手帳交付申請書の写しを広島市に提出。 | |
1025 | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島刑務所で被爆した中国人張文彬の被爆者健康手帳の取得と渡日治療を実現するための集会を広島市内で開催。新潟市のフリー・ライター佐藤杏子が張との会見の模様を報告。約20人が参加。 | |
1102 | 高清真(中国人)が広島刑務所で被爆したことを裏付ける公文書が存在することが判明。 | |
1202 | 劉宝辰・中国河北大学講師、強制連行された中国人帰国者の消息について調査のため広島入り。3日、広島市役所で記者会見し、刑務所で被爆したことが明らかになったのは、徐立伝の1人のみと公表。 | |
1993 | ||
0223 | 鎌田定夫長崎総科大学教授など市民有志、旧長崎刑務所浦上支所で原爆の犠牲になった中国人遺族を長崎原爆犠牲者追悼・平和記念式典に招待するために募金を開始。 | |
0301? | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、日本へ強制連行され広島刑務所で服役中被爆した中国人の張文彬(72才)を、被爆者健康手帳の取得や治療のため5月に広島に招くことを計画。 | |
0310 | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島刑務所で被爆した中国人の生存が新たに3人確認されたと発表。 | |
0310? | 広島刑務所、中国人被爆者張文彬に原爆投下時に在監していたことを認める文書を発送。来日時に被爆者手帳が取得できる道が開ける。 | |
0314 | 鎌田定夫長崎総科大学教授・平野伸人県被爆者二世教職員の会会長ら、「中国人原爆犠牲者遺族を招く会」の結成集会を長崎被災協会議室で開催。16人が参加し、旧浦上刑務支所の原爆犠牲者の遺族を平和式典に招待するため資金協力を呼びかけ。 | |
0424 | 宮崎安男広島県原水禁代表委員ら3人、広島刑務所で被爆したとみられる中国人3人の証言を取材するため訪中。11間の日程。 | |
0511 | 丹羽雄哉厚相、参議院厚生委員会で強制連行の中国人被爆者(広島)の救済に前向き名見解を表明。 | |
0511 | 宮崎安男広島県原水禁代表委員ら、広島刑務所で被爆したと名乗りでた中国人3人の聞き取り調査(4月24日-5月4日まで訪中)の結果を発表。 | |
0516 | 張文彬(広島刑務所で被爆した中国人被爆者)、「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」の招きで広島入り。 | |
0517 | 中国人被爆者張文彬、広島市に被爆者健康手帳の交付を申請。 | |
0518 | 中国人被爆者張文彬、広島市の河村病院に検査入院。 | |
0520 | 広島市、中国人被爆者張文彬に被爆者健康手帳を交付。 | |
0521 | 中国人被爆者張文彬、原爆に被爆した広島刑務所を訪問。 | |
0523 | 広島県原水禁など、「張文彬さん(中国人被爆者)のお話しを聞く集い」を広島労働会館で開催。約100人が参加。 | |
0524 | 中国人被爆者張文彬、9日間の広島での日程を終え、かつて強制連行された新潟に向かう。 | |
0723 | 長崎市の「中国人原爆犠牲者遺族を招く会」、招待する遺族関係者の8人と滞在日程(8月7日-10日)を発表。 | |
0729 | 広島刑務所で被爆した中国人被爆者2人(呂学文・孟昭恩)、広島県原水禁などの招きで広島入り。 | |
0730 | 広島市、広島刑務所で被爆した中国人被爆者2人(呂学文・孟昭恩)に被爆者手帳を交付。 | |
0731 | 中国人被爆者呂学文、48年ぶりに広島県加計町の労働現場を訪問。 | |
0731 | 中国人被爆者呂学文・孟昭恩、広島県加計町の善福寺で挙行された中国人殉難者追悼法要に参列。 | |
0731? | 広島県安野中学校の生徒ら、広島入りしている中国人被爆者から同町での強制労働の実態などの聞き取りを計画。 | |
0801 | 強制連行された中国人被爆者「孟昭恩先生・呂学文先生のお話をきく集い」、広島労働会館で開催。約50人が参加。 | |
0802 | 「中国人原爆犠牲者遺族を招く実行委員会」、9日の平和式典に招く予定であった浦上刑務支所で原爆の犠牲になった中国人収容者の遺族の旅券発行が間に合わず、12月8日の招待に変更。 | |
0802 | 中国人被爆者呂学文・孟昭恩、広島市の河村病院に検査入院。4日、退院。 | |
0803 | 中国人被爆者呂学文・孟昭恩、西松建設中国支社に強制労働に対する謝罪や補償を求める要求書を提出。 | |
0805 | 「アジア被爆者フォーラム」、被爆48周年原水爆禁止世界大会国際会議広島大会の分科会として初めて開催。中国の被爆者らが体験談。 | |
0805 | 中国人被爆者の呂学文・孟昭恩、被爆地である広島刑務所を訪問。 | |
0806 | 中国放送(テレビ)、「トンネルに風が吹いた日-強制連行・被爆中国人を追って」を放映。 | |
0806 | 広島県山県郡の安野中学校生徒会、中国人被爆者呂学文・孟昭恩を招いて体験を聞く。 | |
0809 | 広島市、中国人被爆者2人(呂学文・孟昭恩)に原爆特別措置法に基づく「保健手当」1か月分を支給。中国人被爆者への手当交付は初。 | |
1110 | 広島の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、西松建設中国支店を訪れ、2人の中国人被爆者からの謝罪・補償要求などを同社が拒否する回答書を提出したことに反論。 | |
1121 | 広島県加計町・安野中学校生徒、中国人強制連行をテーマにした劇を文化祭で上演。 | |
1126 | 広島市、中国人被爆者張文彬の救援を求める書簡を受け取る。 | |
1207 | 強制連行され長崎刑務支所で被爆死した中国人の遺族ら7人、長崎入り。 | |
1208 | 「原爆犠牲者追悼・日中不再戦の集い」、長崎市平和会館で開催。約100人が参加。強制連行され長崎の浦上刑務支所で服役中被爆した中国人遺族らも参加。 | |
1208 | 長崎市の「中国人原爆犠牲者遺族を招く会」、日鉄鉱業島町鉱業所が外務省に提出した「華人労務者就労顛末報告書」の写しを公表。 | |
1209 | 長崎県高教組佐世保支部など、来県中の中国人原爆犠牲者の遺族ら7人を招いて「12・8を考える市民のつどい」を開催。約70人が参加。 | |
1211 | 大内厚生大臣、参議院厚生委員会で中国在住の被爆者の渡日治療に取り組む意向を明らかにする。 | |
1220 | 強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会、大内厚生大臣の孫平化中国日本友好協会長宛の書簡(12月14日付、日本の原爆2法による援護措置を説明)を広島市原爆被害対策部に示し、市独自の救済措置を要望。 | |
1994 | ||
0118 | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、被爆中国人補償問題で西松建設中国支店で3回目の交渉を実施。 | |
0214? | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」に広島で獄中被爆した中国人が大連に生存しているとのしているとの連絡が届く。 | |
0426 | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」のメンバー6人、中国人の代理で広島市の西松建設中国支社と交渉。同支社、独自に現地調査を行う意向を明らかにする。 | |
0501 | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、調査のため訪中(3回目)。8日、帰国。13日、帰国記者会見。 | |
0607 | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、中国人被爆者などの外国人被爆者の実態調査や援護を求める要請文を広島市長宛に提出。 | |
0622 | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、西松建設広島支店に強制労働させられた中国人への補償などを求める要求書を提出。 | |
0710 | 「広島の強制連行を調査する会」・「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島県加計町のダムや発電所などで歴史や生存者の現状を学ぶ会を開催。約100人が参加。 | |
0712? | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島市長に6月7日付で提出した要請書に対する7月8日付の回答を受け取る。内容は、中国人被爆者の調査や援護の支援は「困難」というもの。 | |
0801 | 広島県、中国から広島文理大に留学中被爆した中国・北京市の元大学教授由明哲を県費で広島に招待し、10月2日のアジア大会開会式に出席出来るよう計らうことを決める。 | |
0803 | 広島県加計町立安野中学校生徒、同町の中国人や朝鮮人を動員して建設した発電所などを見学。講師は「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」などのメンバー。 | |
0819 | 広島市、広島刑務所で服役中被爆した中国人被爆者呂学文が持病の片頭痛の治療への支援を訴える市長あての書簡を受け取る。 | |
0928 | 由明哲(広島文理大の元留学生で中国人被爆者)、アジア大会の開会式に出席するため北京から広島入り。 | |
1112 | 広島の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」など、「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」を発足させる(広島平和会館)。18人が参加。 | |
1117 | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、西松建設の担当者と広島県山県郡加計町の安野発電所建設工事に従事させられた中国人について初めて現地調査を実施。 | |
1226? | 広島県加計町の安野発電所に強制連行され広島で被爆した中国人?瑞雪に広島刑務所が「在監証明」を送っていたことが判明。 | |
1995 | ||
0101? | 広島市、被爆50周年の記念事業として平和記念式典に南北米や朝鮮半島、中国、東南アジア各国の被爆者を招待することを決める。 | |
0107? | 広島の市民団体「強制連行された中国人被爆者と交流をすすめる会」、5月に宋継尭、8月に被爆死した楊希恩の妻子を広島に招くことを計画。 | |
0206 | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、西松建設中国支店との6回目の交渉を実施。新たに医療費の負担を要望。 | |
0425 | 広島県原水禁など9団体でつくる「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」、5月に宋継尭を招くことを決める。 | |
0518 | 宋継尭、「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」の招きで来日。 | |
0520 | 「強制連行された中国人被爆者との交流を進める会」、調査結果をまとめた「中国人被爆者・癒えない痛苦-獄中被爆の真相を問う」(明石書店刊)を発行。 | |
0520 | 中国人被爆者宋継尭、広島県加計町を訪問。強制労働者収容所跡を訪れた後、正念寺での中国人犠牲者30人の追悼法要に参列。 | |
0521 | 「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」、宋継尭の「証言を心に刻む会」を広島市の広島労働会館で開催。約100人が参加。 | |
0526 | 宋継尭、「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」のメンバーとともに、東京の西松建設本社を訪れ、補償を要求。 | |
0605 | 広島の市民グループ「強制連行された中国人被爆者と交流をすすめる会」、戦時中に強制連行され被爆した中国人于瑞雪が5月9日に死亡したとの連絡を遺族から受け取る。 | |
0708? | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、「中国人被爆者・癒えない痛苦-獄中被爆の真相を追う」を発行。 | |
0730 | 戦時中広島県内に強制連行され被爆死した中国人労働者の遺族3人、県原水禁など9団体でつくる「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」の招きで来日。 | |
0801 | 「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」の招きで広島市入りしている3人、被爆死した可能性のある広島市内の2カ所を訪れる。 | |
0803 | 「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」、原爆の犠牲になった中国人労働者の追悼式を広島市の平和記念公園・原爆供養塔前で挙行。約30人が参列。西区民文化センターで証言集会を開催。 | |
0805 | 強制連行され被爆死した中国人遺族の楊世斗、広島市内で開催された原水禁などの世界大会分科会に出席。 | |
0807 | 西松建設、強制連行され広島市内で被爆死した中国人の遺族へ、謝罪・死亡通知を拒否する回答文書を届ける。遺族は受け取りを拒否。 | |
0815 | 中国河北省保定市で「安野強制連行・広島被爆受難者聯誼会が結成される。同市を訪問した広島県内の市民団体「強制連行された中国人被爆者との交流を進める会」の訪中団と協議の上結成。 | |
0925 | 中国人被爆者・遺族で組織する「安野強制連行・広島被爆受難者聯誼会」、日本政府と当時の雇用主西松建設に損害賠償などを求める要求書を郵送。 | |
1025 | 広島市の市民団体「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」のメンバー、「安野強制連行・広島被爆受難者聯誼会」の委任を受けて、当時の中国人らの雇用主の西松建設中国支店で賠償などについて交渉。 | |
1996 | ||
0312? | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、7人目の被爆者の生存を確認。 | |
0617 | 広島の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島刑務所と広島市に対し、中国人被爆者の実態調査を実施することなどを要請。 | |
0627 | 広島市の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、山県郡加計町の発電所建設現場で中国人を働かせていた西松建設と交渉、同社の調査内容などを明らかにするよう求める。 | |
0820? | 広島の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、帰国後死亡した中国人被爆者1人の消息を確認。 | |
1107 | 戦時中日本に強制連行された中国人元労働者2人、広島の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会の中谷悦子代表の案内で広島市の原爆資料館を見学。 | |
0211? | ワールドフレンドシップセンター(広島市)、ルポ「中国人被爆者・癒えない痛苦」の英訳作業を実施。 | |
0430 | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島県加計町に連行された中国人労働者の証言などを収録した教材ビデオを制作。 | |
0508 | 広島刑務所で被爆した中国人・喊允伝、被爆者健康手帳を申請するため広島市を訪問。9日、申請。12日、建設工事で働かされていた加計町の安野発電所を訪問。 | |
0510 | 「中国人強制連行国際シンポジウム広島集会」、広島市で開催。約200人が参加。喊允伝ら(中国人被爆者)らが報告。-11日。11日、呂学文が証言。 | |
0513 | 「安野労工・広島原子爆弾受難者聯誼会」代表・呂学文ら、工事を担当していた西松建設中国支店に対し補償を求める交渉を広島弁護士会館で実施。14日、同社を相手取り提訴する方針を決める。 | |
0630 | 広島県加計町安野の発電所建設現場で働かされた元中国人労働者が当時の雇用主の西松建設に損害賠償訴訟を起こす件で、弁護団などが広島市内で初会合。 | |
0801? | 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、戦時中に広島県加計町に強制連行された中国人の証言を基に紙芝居「陳さんとイチョウ」を制作。 | |
0806 | 「8・6ヒロシマ平和へのつどい1997」、広島市の県民文化センターで開催。約100人が参加。中谷悦子「強制連行・中国人被爆者との交流をすすめる会」代表が戦後補償を訴える。 |
止
在ブラジル原爆被爆者協会 1984年7月15日創立
資料
年月日 | 資料名 | 発行者 | 備考 |
『写真記録 原爆棄民 韓国・朝鮮人被爆者の証言 』(伊藤孝司、ほるぷ出版、19871015 )
目次
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001 | 植民地・強制連行 | |
朴昌煥 郡役所まで三菱が迎えに来ました 4 朴守龍 「朝鮮人が放火した」、ひどい大震災の流言 6 陳祐生 閃光がしてゴォーと爆風が来ました 8 李福南 9 裵又星 百姓しとるのに米の飯も食えんので下関へ渡ったとです 13 金判根 リヤカーを引いて古物商をしていました 14 梁基成 徴用令を受けて広島へ、日本人が恐ろしかったです 15 李哲鎬 三菱からは1か月分の給料だけしかもらっていない 15 鄭基障 日本の無条件降伏にみんなで泣きました 16 李永憲 行き先も知らされず、警察に連行されて日本へ 16 金應善 兵隊よりも、徴用で広島に行くほうを選んだのです 17 鄭永寿 19 尹永寿 だまされてパンパン屋に売られたんですよ 20 張泰熙 新聞でヒットラーの記事を見たとたん、ピカッと 26 朴?奎 教育勅語を暗記できないとバケツを下げて立たされました 27 呉鳳寿 土地も、言葉も取り上げた総督府 28 朱碩 日本人は酒を飲んでは放歌高吟し、女の人は外へ出るのもはばかられるほどでした 30 成洙南 挺身隊へ行くのをさけるため16歳で結婚させられました 32 金福連 主人も、娘も死んでしまいました 33 徐正雨 軍艦島では何度も自殺しようと思ったかわからんとです 34 金順相 雪が降ってもパンツ、腰巻きひとつで働かせられたとです 36 韓基俊 36 朴永分 「ひとりじゃ逃げる」言うて家族も呼ばれたんじゃ 39 崔月光 被爆のことはそりゃ口じゃ言わりゃせん 39 黄應八 船で日本に密航し、各地を転々としながら 40 金連順 勤労動員で野球の張本さんのお姉さんたちと作業していて 42 車基淳 42 李寿東 炭坑と戦争と原爆、3つの地獄を 45 鄭元達 みんなから「朝鮮人の刑事が来た」と言われました 47 尹参鉱 「朝鮮豚」とか言われながらも日本人と一緒に遊びました 47 金仁祚 二女、三女、そして長女、次々に死に、口の所にハエがたかり 48 金鍾具 飯場では豆粕やコーリャン、きびの飯で腹がへって 48 金敏経 徴用令が来て、目の前がまっ暗になりました 49 金在甲 浦上天主堂の坂で軍馬もろとも 50 張世澤 浦上刑務所で爆死した親方兄弟を捜して 53 白昌基 首に縄をくくられ、牛に引きずり回された朝鮮青年達の光景が脳裏に焼きついて 55 辛福守 わが子が燃えるのを、ただ見ているだけの地獄でした 55 李一守 建物疎開の勤労奉仕に出て原爆にあいました 58 甲喜植 一週間、防空壕に寝たきりで 59 金容福 韓国人ばかり働かせ、バカにするのです 63 |
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065 | 被爆 | |
玉牙伊 足も指がちぎれ、頭もおかしゅうなっとったけん、痛うもなか 69 崔英順 工場が崩れて2階にいたのに1階になってしまいました 71 李守龍 背中にいっぱいウジ虫がわき、火傷の痛みもひどかった 71 林玉仙 10歳で被爆、手足がしだいに萎縮して 72 金南出 もう死んだと思うたが、手足が動くので目をあけてみると 73 朴化玉 長崎港の船の上で閃光を 74 安永千 1か月ほど死体の臭いがしみついていました 76 金命今 魚の皮はいで地面に投げたような姿で兄弟は「自分の子がわからんかね」言うんです 78 鄭登明 顔と手に大火傷を負い、40年間ケロイドで苦しむ 81 裵玉連 息子を抱いて3階から飛び降りました 82 朴海鐘 ドーンという音でびっくりして飛び出すと、浦上の方が一面火を吹いていました 83 権億相 気を失って気がついたら24時間すぎていました 86 蘇閏生 原爆はすべてを変えてしまいました 88 姜和順 右腕をこれ以上悪くならないようにと切断しました 89 宗錞敏 ボンネットをのぞき込んでいると突然ピカッと 90 許南根 爆風のため転んで釘が右足に 90 朴水煥 高島炭坑と住吉トンネル工場で 91 金在鉉 天皇陛下のためと言われて徴用されて 92 金正玉 閃光を見た瞬間、目がくらんで気絶、火ぶくれに 92 安珉 飛行機が飛んできてシャツに黒いシミが 92 朴孟蓮 電車は満員だったのに、閃光を見たのです 93 宋年順 なかなか死ねずに、8月末まで畑に野ざらしでした 95 金基錫 お母さん、よく原爆の痛みに耐えて、生きていました 96 金判煕 宇品港から500人乗りぐらいの船で帰国しました 98 張乙生 「助けてぇ、助けてぇ」と言いながら、妻は息をひきとりました 100 姜岳只 原爆で5人の子どものうちふたり死んだ 101 金貞賢 身体はペラペラして真っ白い肉だけが見えました 102 崔乙龍どうもがまんができず、自分の小便を受けて飲んだんです 103 姜寿元 独立運動で投獄、広島刑務所で原爆に 104 金貞順 私は片目が飛び出し、従妹は行方知れずに 06 辛泳洙 自分の顔に手を当ててみると、目も鼻も口もとけて 109 朴泳[ユン] 兄貴の嫁ごは火葬して、骨は川の中に流したと 111 卞明奎 長女はどこかで生きていると思っています 112 車貞述 3回も戦争に巻きこまれて 114 姜小龍 9人兄弟のうち、3人だけが生き残って 114 鄭翼俊 死んだ息子を一日中背負っていました 115 黄在明 兵隊さんがおぶってくれて川にとびこみ助かった 116 朴且点 人間なのか、お化けなのか、とても口では言い表せません 117 金正子 「水ばください」「水ば飲まして」と着物の袖を 119 金宗丸 首とか手とかバラバラになって、内蔵がベラッと出とるんです 120 千今絡 「あんた、生きとったね」が、みんなのあいさつでした 123 金沢文子 魚を一匹分けてくれと言っても、絶対にくれなんだ 124 朴基煕 真っ黒焦げの骨があるだけで、誰が誰だか全然わからん 125 崔李澈 大腿骨無腐性壊死…たえず激痛が襲ってくる 126 徐允心 身体中にガラスがいっぱい刺さって、3日間何も食べずに 127 金相根 火傷し、頭が3倍くらい膨れていました 128 金達莫 息子は、まるで焼き魚のように…10日後に死にました 129 劉世銀 焼けていなかったのは手の平だけだった父 131 鄭翼判 「朝鮮人は早く朝鮮へ帰れ、帰れ」と言われ 132 |
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135 | 帰国・在日 | |
李順伊 小さな船で死ぬ思いをして釜山に帰って来たんです 137 李允載 娘たちが腰痛を訴えるのでかわいそうです。親が原爆を受けたことが原因ではないかと 138 李陽善 徴用で働いた報酬も受け取っていません。日本政府と三菱は早く補償すべきです 139 卞今順 原爆病院に入院してもう16年になります 141 韓明丁 もし今後、治療できなければ早く死にたいです 142 柳沢蓮 朝鮮語はわからず、友達にいじめられ「日本に帰ろう」と泣いた 142 鄭斗鎮 妻も死に、やぶれかぶれの気持ちで帰国しました 145 蘆長寿 弟は、帰国船が台風で沈没し、弟は行方不明になりました 146 李実根 反戦ビラまき、非合法生活、そして朝鮮人被爆者運動に奔走しています 149 朴玉順 差別や抑圧に屈せずに 150 李必伊 日本で治療したい、生活は苦しい 152 白敬伊 いちばん望んでいるのは息子を日本で治療させることです 152 李貞秀 胃を手術して取り、楽じゃないです。ほんとに働きずくめの一生ですよ 156 李順出 姉は1960年に、兄は61年に、そして父は63年に死にました。みんな同じ病気でした 157 全相鶴 渡日治療で6か月いたら、政府の約束だとむりやり出されました 158 姜文煕 肉親の眠る広島を去ることができず 159 金判伊 広島と韓国で2回も爆撃を受け、もう戦争はこりごり 160 李大奎 ヤミ市、密造酒、とばく…とにかく生きるためには何でもやった 161 鄭長寿 私は病気の袋みたいで、いっそ死んでしまったら痛みもなくなるのではと思います 164 尹桂花 日本人であれ、韓国人であれ、心の痛みは同じです 164 李種善 願うことは、私と子どもの病気が治ること 164 尹成相 家内と赤ん坊、弟の骨が大橋の道路の下に 166 李壽英 身体がかゆく変になれそうで、こすると水のようなものが出ます 167 金永宅 2度と戦争の起こらぬよう願いたい 167 郭貴勳 日本人の医者が「韓国人のために負けた」と言うのです 167 金分順 帰国しても働けず、義母に追い出される始末です 168 金義祚 原爆の被害者は世界平和の人柱です 169 姜桂浩 娘、息子と死に、妻は気がおかしくなり 170 尹貞順 夫は日本での生活を一切口にしないまま死んだ 171 金永根 故郷についても物乞いをし、ごはんをもらって歩きました 172 厳粉連 被爆者を放置して、どんな世界平和があるのでしょうか 175 李三守 日本人の被爆者と同じ扱いをしてほしい 178 崔貿先 夫と離ればなれになり、母子3人で帰国 179 朴海潤 農繁期がきても軽い仕事しかできません 180 鄭翼俊 死んだ子供を一日中、背負って 180 李貞守 日本が戦争をしなかったら、こんなにならなくてすんだんのです 180 李奇相 這うて便所へ行くと「アイゴー、アイゴー」という声が 182 車小道 母は隣家の下敷きになり死んでしまいました 184 朴守福 こんな重たい十字架を負っているより、いっそ死の道をと 184 金伊述 私はこの地獄が恐ろしうて 186 林福順 韓国の被爆者は、あの日のヒロシマを背負っているのです 188 金玉連 足の痛みがひどく、右大腿部より切断しました 190 鄭正玉 娘が生まれ喜んだのもつかのま、精神がおかしいのです 190 李舜伊 韓国に帰りましたが治療もできず、火傷に味噌をつけたりして 191 金漢相 農業、運転手、そして警備員 191 韓鳳愚 ヤミ舟を雇って帰国、両親はもう死んだと思っていたので涙流して喜びました 192 金福姫 夫は私のケロイドのことは知らずに結婚し「だまされた、だまされた」と口ぐせのように言っていました 194 白麟基 韓国に原爆病院を建設して下さい 195 白鳳鶴 うちゃ、生きとってもええことはひとつもないよ。生きとるのいやじゃ 197 |
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安永根 204呉玉振 204姜錫作 204林[イ]生 205朴南淳 205姜貞順 205尹基先 205黄徳禮 205李碩圖 205金喆基 205姜基達 205姜五龍 205 金九鳳 206李賓? 206申徳培 206趙判石 206李宝鉉 2O6安永宣 206申基殖 206金甲順 206 朴鐘来 207李炳[ ] 207朴甲述 207李点柱 207李勝子 207曺澄子 207 姜点龍 208都宗義 208郭順[ヨン] 208尹永益 208金根秀 208呉尚粉 208 李宗仙 209鄭好任 209韓基淑 209宗栄彬 209沈快興 209 尹春鉱 210黄秋子 210李寿元 210朴連順 210朴奉変 210 |
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213 | 韓国・朝鮮人被爆者―その歴史と存在の意味(鎌田定夫) | |
231 | 原爆棄民・関係年表 | |
235 | 作詩●追悼(鎌田定夫) |
広島で死亡した米軍捕虜名簿
EVENING TRIBUNE(San Diego)紙の報道
1977.12.6
17 U.S. POWs included on A-bomb list
TOKYO(UPI)- At least 17 American prisoners of war were killed in atomic bombing of Hiroshima in the last days of World War Ⅱ, according to a newly discovered Japanese document.
The list of Americans who died in history’s first atmic bombing Aug. 5,1945,(Aug.6 in Japan) was found by a scholar in a batch of Foreign ministry records declassified last year.
The list was released yesterday,two days before the 35th anniversary of the Japanese attack on Pearl Harbor that brought the United States into the war.
Sixteen of the men were from the U.S. Navy and the Army Air Corps,the forerunner of the U.S. Air Force. A 17th man was identified only as a U.S.Navy lieutenant whose name was not known to his captors.
The men were crewmen of five different American planes shot down over western and southern Japan in the closing days of the war.
There have been several reports in recent years from survivors of the Hiroshima bombing that Americans and other Allied prisoners were killed when the 20-kiloton bomb called “Little Boy” exploded over the city. The U.S.Defense Department has always declined comment.
The list was found last summer by Satoru Ubuki,31,an employee of Hiroshima University’s Rsearch Institite for Nuclear Medicine and Biology.
The document says the remains of all 17 were turned over to U.S.military authorities in December 1945 after the United States began its seven-year occupation of Japan.
In each case the place of death is listed as “Hiroshima City”and the cause of death was “atomic bomb.”
All but three of the men are listed as having been killed the day the bomb fell.Another died Aug.8,and two more lingered until Aug.19.
Hiroshima officials have contended for several years that around 50 american,British and Dutch prisoners of war were killed in the atomic explosion.
A U.S.military survey shortly after the war fixed the Hiroshima death toll at 78,150. But in August of this year, the U.N.Non-Governmental Organization estimated the loss of life at 140,000.
The following names appear on the newly discovered list. In some cases,ranks,ages or serial numbers are unknown.
[名簿略]
『白いチョゴリの被爆者』 (広島県朝鮮人被爆者協議会編、労働旬報社、1979年7月15日)
広島県朝鮮人被爆者協議会(朝被協)は1975年8月2日発足.本書には広島で被爆した18名の朝鮮人被爆者の証言を収録.他に、朝被協による朝鮮人被爆者実態調査結果も発表.
目次
肉声を聞く(松本清張) | |
スニのための鎮魂歌(許南麒) | |
Ⅰ | なぜこんな体になったか忘れんでほしい(李永淳) |
1 強制連行で炭鉱夫に いわれた次の日にはもう家族と別れ/膝をまげ首までまげて穴を掘りました 2 怪我人の列が一日中続いとった 3 原爆スラムにバラックをたてて |
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Ⅱ | 劫火のなかに息子の焼かれるのをみて-戦争は私の家族何人を奪おうというのでしょう(辛福守) |
1 『皇国臣民』につくりあげられて ”おしっこ”がいえずにおもらしする子供たち/日本に淡い期待をいだいてきたが 2 燃える体に学生服のボタンが三つ並んでいました 屍の間でかろうじて息をして/死なんぞ-子供二人につづいて夫も 3 重なる惨劇-黒人兵に射殺された弟一家と兄の死と 4生命あるかぎり |
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Ⅲ | 犬のように殺されてたまるか-連行・逃亡・拷問のはてに(鄭順南) |
1 ”鮮人”は豚以下だそうです 畑にトラックでのりつけ連行することも/幾度かの逃亡失敗/豚に食わせる砂糖があってもおまえにはやらん 2 川もぎっしり死体で埋められてました 3 日本人のあなたに考えてほしい |
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Ⅳ | 地獄絵のなかの差別-貴様!!朝鮮人のくせにギャアギャアいうな!(呉鳳寿) |
1 土地をとられて小作させてもらい 2 どこでも一番危ない仕事は朝鮮人 3 こんな目に遭うても-忘れられないあの言葉 4 一冊の本になるほどの苦難の末に 食べ物で二人の子を失い/朝鮮を二度と植民地にしない子に育った |
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Ⅴ | 売春婦に売られて(金末順) |
1 だまされて日本の遊かくへ 2 やっとつかんだ幸せを原爆に奪われて |
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Ⅵ | 日本人はわしらを人間と思うとらんかった(南貴浩) |
1 生きているのが不思議なくらいいじめられた 2 生き残ったのは部落の一割 3 朝鮮人は朝鮮へかえれといいよる-さんざこきつかっておいて |
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Ⅶ | 四六年間”楽しいこと”は一つもないです(鄭寿祚) |
1 一○歳で子守に出されました 2 人間かお化けか 3 植民地なんかなかったら 一人が泣いて四人を助けるつもりで/故郷へ帰って両親の墓まいりするまで生きたい |
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Ⅷ | 一瞬の黒い熱い大波におおわれて(呉乙鶴) |
1 被爆-空中から卵型みたいなのがピカッ 2 産まれる子供が次つぎと 3 私が非常に訴えたいこと 4 朝鮮人は死んでも灰も届けられない |
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Ⅸ | 雨が降っても学校に傘もってくるな-朝鮮ブタ朝鮮ブタとさげすまれ(権重判) |
1 炭鉱を脱走した一七歳年上の主人と結婚 2 人間がイワシのように並べられ-爆風で白いかたまりの被爆者も 3 苦しみの倍加-子供への民族差別 一家六人をかかえてヤミ米買い出し/学校でも就職でも |
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Ⅹ | だれのためになんのために-どうしてもいっておきたい就職差別(文七権) |
1 まるで強盗でした-ウュノムの仕うち 2 おまえは鮮人だから-日本での屈辱 3 追われて広島へ-被爆の苦痛 4 希望の子供らまで就職差別され-戦後も消えぬ苦しみと怒り |
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ⅩⅠ | おまえらみたいな奴 三厘でいくらでも手に入るんだ-逃亡生活・徴兵拒否のはてに(朴在寿) |
1 貧困と差別のなかで 2 逃亡生活 一年余の徴兵拒否の逃避行/徴兵検査-父連行の脅迫で 3 人間が木炭のように 4 日本人以下に扱われる理由はないのです |
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ⅩⅡ | ”新日本人”と口先ではいいながら(黄義錫) |
1 消えない思い出 2 戦争のために 朝鮮人は劣等人間だからつき合えばバカになる/ていよく日本政府の番犬につかわれて 3 どの人も裸同然でした 4 日本のためにのみ働かされてきたのに |
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ⅩⅢ | 広島の街が大地に叩きつけられたように(柳昌洙) |
1 太陽が黒くみえた 2 心のやすらぎがほしいんよね 3 子孫が二の舞をふんでは死にきれん |
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ⅩⅣ | 歴史の底で死んだ母(鄭文玉) |
1 どの家庭も食べ物をあさる生活 卑屈な運命をたどる旅立ち/夢を破られた父との再会 2 日本が手を上げるならもっと早ければ 3 せめて人権だけでも-新憲法下でも変わらない仕うち 4 いまも暗い歴史を背負い |
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ⅩⅤ | 子供らに希望を語りつづけて-朝鮮人被爆教師として(朱碩) |
1 故郷も生活を荒らしまくられて 2 死の行列はあとからあとからつづき 3 反戦・平和・民族教育の灯を守るために 4 父母たちはなぜ被爆したか、なぜ原爆は落とされたのかを教えて |
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ⅩⅥ | 土地・言葉・故郷・八人の肉親を奪われて |
1 全財産を奪われて 2 血のようなくやし涙-妻も兄も八人の肉親を失い けん命に生きる人間のすべてを奪った原爆/なぜ最も善良なものが最も過酷な運命を 3 放置された被爆者のために |
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ⅩⅦ | 顔をみて”つける薬はない”と無視しました-事実を互いの民族がみつめあってこそ(閔基鎬) |
1 一日も胸をはって生きられなかった少年の日日 2 原爆と空襲のなかで 気づかずに積みあげた死体の脇に寝て/むごい体験 3 日朝のほんとうの交流をつくるために |
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ⅩⅧ | この世に生まれた価値を失わないために |
ⅩⅨ | 被爆朝鮮人問題と「朝被協」(李実根) |
1 被爆朝鮮人の由来 | |
一 在日朝鮮人の形成 二 軍都ヒロシマ-朝鮮人ヒバクシャ |
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2「朝被協」の結成と活動 | |
一 その結成と足跡 二 在広朝鮮人被爆者の実態調査 |
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あとがき | |
表紙絵・文中カット四国五郎 |