北海道ノーモアヒバクシャ会館
2015年6月28日撮影 |
北海道ノーモアヒバクシャ会館
2015年6月28日撮影 |
『写真記録 原爆棄民 韓国・朝鮮人被爆者の証言 』(伊藤孝司、ほるぷ出版、19871015 )
目次
頁 | ||
001 | 植民地・強制連行 | |
朴昌煥 郡役所まで三菱が迎えに来ました 4 朴守龍 「朝鮮人が放火した」、ひどい大震災の流言 6 陳祐生 閃光がしてゴォーと爆風が来ました 8 李福南 9 裵又星 百姓しとるのに米の飯も食えんので下関へ渡ったとです 13 金判根 リヤカーを引いて古物商をしていました 14 梁基成 徴用令を受けて広島へ、日本人が恐ろしかったです 15 李哲鎬 三菱からは1か月分の給料だけしかもらっていない 15 鄭基障 日本の無条件降伏にみんなで泣きました 16 李永憲 行き先も知らされず、警察に連行されて日本へ 16 金應善 兵隊よりも、徴用で広島に行くほうを選んだのです 17 鄭永寿 19 尹永寿 だまされてパンパン屋に売られたんですよ 20 張泰熙 新聞でヒットラーの記事を見たとたん、ピカッと 26 朴?奎 教育勅語を暗記できないとバケツを下げて立たされました 27 呉鳳寿 土地も、言葉も取り上げた総督府 28 朱碩 日本人は酒を飲んでは放歌高吟し、女の人は外へ出るのもはばかられるほどでした 30 成洙南 挺身隊へ行くのをさけるため16歳で結婚させられました 32 金福連 主人も、娘も死んでしまいました 33 徐正雨 軍艦島では何度も自殺しようと思ったかわからんとです 34 金順相 雪が降ってもパンツ、腰巻きひとつで働かせられたとです 36 韓基俊 36 朴永分 「ひとりじゃ逃げる」言うて家族も呼ばれたんじゃ 39 崔月光 被爆のことはそりゃ口じゃ言わりゃせん 39 黄應八 船で日本に密航し、各地を転々としながら 40 金連順 勤労動員で野球の張本さんのお姉さんたちと作業していて 42 車基淳 42 李寿東 炭坑と戦争と原爆、3つの地獄を 45 鄭元達 みんなから「朝鮮人の刑事が来た」と言われました 47 尹参鉱 「朝鮮豚」とか言われながらも日本人と一緒に遊びました 47 金仁祚 二女、三女、そして長女、次々に死に、口の所にハエがたかり 48 金鍾具 飯場では豆粕やコーリャン、きびの飯で腹がへって 48 金敏経 徴用令が来て、目の前がまっ暗になりました 49 金在甲 浦上天主堂の坂で軍馬もろとも 50 張世澤 浦上刑務所で爆死した親方兄弟を捜して 53 白昌基 首に縄をくくられ、牛に引きずり回された朝鮮青年達の光景が脳裏に焼きついて 55 辛福守 わが子が燃えるのを、ただ見ているだけの地獄でした 55 李一守 建物疎開の勤労奉仕に出て原爆にあいました 58 甲喜植 一週間、防空壕に寝たきりで 59 金容福 韓国人ばかり働かせ、バカにするのです 63 |
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065 | 被爆 | |
玉牙伊 足も指がちぎれ、頭もおかしゅうなっとったけん、痛うもなか 69 崔英順 工場が崩れて2階にいたのに1階になってしまいました 71 李守龍 背中にいっぱいウジ虫がわき、火傷の痛みもひどかった 71 林玉仙 10歳で被爆、手足がしだいに萎縮して 72 金南出 もう死んだと思うたが、手足が動くので目をあけてみると 73 朴化玉 長崎港の船の上で閃光を 74 安永千 1か月ほど死体の臭いがしみついていました 76 金命今 魚の皮はいで地面に投げたような姿で兄弟は「自分の子がわからんかね」言うんです 78 鄭登明 顔と手に大火傷を負い、40年間ケロイドで苦しむ 81 裵玉連 息子を抱いて3階から飛び降りました 82 朴海鐘 ドーンという音でびっくりして飛び出すと、浦上の方が一面火を吹いていました 83 権億相 気を失って気がついたら24時間すぎていました 86 蘇閏生 原爆はすべてを変えてしまいました 88 姜和順 右腕をこれ以上悪くならないようにと切断しました 89 宗錞敏 ボンネットをのぞき込んでいると突然ピカッと 90 許南根 爆風のため転んで釘が右足に 90 朴水煥 高島炭坑と住吉トンネル工場で 91 金在鉉 天皇陛下のためと言われて徴用されて 92 金正玉 閃光を見た瞬間、目がくらんで気絶、火ぶくれに 92 安珉 飛行機が飛んできてシャツに黒いシミが 92 朴孟蓮 電車は満員だったのに、閃光を見たのです 93 宋年順 なかなか死ねずに、8月末まで畑に野ざらしでした 95 金基錫 お母さん、よく原爆の痛みに耐えて、生きていました 96 金判煕 宇品港から500人乗りぐらいの船で帰国しました 98 張乙生 「助けてぇ、助けてぇ」と言いながら、妻は息をひきとりました 100 姜岳只 原爆で5人の子どものうちふたり死んだ 101 金貞賢 身体はペラペラして真っ白い肉だけが見えました 102 崔乙龍どうもがまんができず、自分の小便を受けて飲んだんです 103 姜寿元 独立運動で投獄、広島刑務所で原爆に 104 金貞順 私は片目が飛び出し、従妹は行方知れずに 06 辛泳洙 自分の顔に手を当ててみると、目も鼻も口もとけて 109 朴泳[ユン] 兄貴の嫁ごは火葬して、骨は川の中に流したと 111 卞明奎 長女はどこかで生きていると思っています 112 車貞述 3回も戦争に巻きこまれて 114 姜小龍 9人兄弟のうち、3人だけが生き残って 114 鄭翼俊 死んだ息子を一日中背負っていました 115 黄在明 兵隊さんがおぶってくれて川にとびこみ助かった 116 朴且点 人間なのか、お化けなのか、とても口では言い表せません 117 金正子 「水ばください」「水ば飲まして」と着物の袖を 119 金宗丸 首とか手とかバラバラになって、内蔵がベラッと出とるんです 120 千今絡 「あんた、生きとったね」が、みんなのあいさつでした 123 金沢文子 魚を一匹分けてくれと言っても、絶対にくれなんだ 124 朴基煕 真っ黒焦げの骨があるだけで、誰が誰だか全然わからん 125 崔李澈 大腿骨無腐性壊死…たえず激痛が襲ってくる 126 徐允心 身体中にガラスがいっぱい刺さって、3日間何も食べずに 127 金相根 火傷し、頭が3倍くらい膨れていました 128 金達莫 息子は、まるで焼き魚のように…10日後に死にました 129 劉世銀 焼けていなかったのは手の平だけだった父 131 鄭翼判 「朝鮮人は早く朝鮮へ帰れ、帰れ」と言われ 132 |
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135 | 帰国・在日 | |
李順伊 小さな船で死ぬ思いをして釜山に帰って来たんです 137 李允載 娘たちが腰痛を訴えるのでかわいそうです。親が原爆を受けたことが原因ではないかと 138 李陽善 徴用で働いた報酬も受け取っていません。日本政府と三菱は早く補償すべきです 139 卞今順 原爆病院に入院してもう16年になります 141 韓明丁 もし今後、治療できなければ早く死にたいです 142 柳沢蓮 朝鮮語はわからず、友達にいじめられ「日本に帰ろう」と泣いた 142 鄭斗鎮 妻も死に、やぶれかぶれの気持ちで帰国しました 145 蘆長寿 弟は、帰国船が台風で沈没し、弟は行方不明になりました 146 李実根 反戦ビラまき、非合法生活、そして朝鮮人被爆者運動に奔走しています 149 朴玉順 差別や抑圧に屈せずに 150 李必伊 日本で治療したい、生活は苦しい 152 白敬伊 いちばん望んでいるのは息子を日本で治療させることです 152 李貞秀 胃を手術して取り、楽じゃないです。ほんとに働きずくめの一生ですよ 156 李順出 姉は1960年に、兄は61年に、そして父は63年に死にました。みんな同じ病気でした 157 全相鶴 渡日治療で6か月いたら、政府の約束だとむりやり出されました 158 姜文煕 肉親の眠る広島を去ることができず 159 金判伊 広島と韓国で2回も爆撃を受け、もう戦争はこりごり 160 李大奎 ヤミ市、密造酒、とばく…とにかく生きるためには何でもやった 161 鄭長寿 私は病気の袋みたいで、いっそ死んでしまったら痛みもなくなるのではと思います 164 尹桂花 日本人であれ、韓国人であれ、心の痛みは同じです 164 李種善 願うことは、私と子どもの病気が治ること 164 尹成相 家内と赤ん坊、弟の骨が大橋の道路の下に 166 李壽英 身体がかゆく変になれそうで、こすると水のようなものが出ます 167 金永宅 2度と戦争の起こらぬよう願いたい 167 郭貴勳 日本人の医者が「韓国人のために負けた」と言うのです 167 金分順 帰国しても働けず、義母に追い出される始末です 168 金義祚 原爆の被害者は世界平和の人柱です 169 姜桂浩 娘、息子と死に、妻は気がおかしくなり 170 尹貞順 夫は日本での生活を一切口にしないまま死んだ 171 金永根 故郷についても物乞いをし、ごはんをもらって歩きました 172 厳粉連 被爆者を放置して、どんな世界平和があるのでしょうか 175 李三守 日本人の被爆者と同じ扱いをしてほしい 178 崔貿先 夫と離ればなれになり、母子3人で帰国 179 朴海潤 農繁期がきても軽い仕事しかできません 180 鄭翼俊 死んだ子供を一日中、背負って 180 李貞守 日本が戦争をしなかったら、こんなにならなくてすんだんのです 180 李奇相 這うて便所へ行くと「アイゴー、アイゴー」という声が 182 車小道 母は隣家の下敷きになり死んでしまいました 184 朴守福 こんな重たい十字架を負っているより、いっそ死の道をと 184 金伊述 私はこの地獄が恐ろしうて 186 林福順 韓国の被爆者は、あの日のヒロシマを背負っているのです 188 金玉連 足の痛みがひどく、右大腿部より切断しました 190 鄭正玉 娘が生まれ喜んだのもつかのま、精神がおかしいのです 190 李舜伊 韓国に帰りましたが治療もできず、火傷に味噌をつけたりして 191 金漢相 農業、運転手、そして警備員 191 韓鳳愚 ヤミ舟を雇って帰国、両親はもう死んだと思っていたので涙流して喜びました 192 金福姫 夫は私のケロイドのことは知らずに結婚し「だまされた、だまされた」と口ぐせのように言っていました 194 白麟基 韓国に原爆病院を建設して下さい 195 白鳳鶴 うちゃ、生きとってもええことはひとつもないよ。生きとるのいやじゃ 197 |
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安永根 204呉玉振 204姜錫作 204林[イ]生 205朴南淳 205姜貞順 205尹基先 205黄徳禮 205李碩圖 205金喆基 205姜基達 205姜五龍 205 金九鳳 206李賓? 206申徳培 206趙判石 206李宝鉉 2O6安永宣 206申基殖 206金甲順 206 朴鐘来 207李炳[ ] 207朴甲述 207李点柱 207李勝子 207曺澄子 207 姜点龍 208都宗義 208郭順[ヨン] 208尹永益 208金根秀 208呉尚粉 208 李宗仙 209鄭好任 209韓基淑 209宗栄彬 209沈快興 209 尹春鉱 210黄秋子 210李寿元 210朴連順 210朴奉変 210 |
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213 | 韓国・朝鮮人被爆者―その歴史と存在の意味(鎌田定夫) | |
231 | 原爆棄民・関係年表 | |
235 | 作詩●追悼(鎌田定夫) |
広島原爆障害研究会 設立日:1956年11月
研究会メンバー
名前 | 所属 | 分野 |
井上省三 Inoue,Shozo | 広島赤十字病院 | 内科 |
小川修三 Ogawa,Shuzo | 広島大学理学部 | 理論物理 |
於保源作 Obo,Gensaku | 広島市 | 内科 |
佐久間澄 Sakuma,Kiyoshi | 広島大学理学部 | 理論物理 |
重藤文夫 Shigeto,Fumio | 広島赤十字病院 | 内科 |
品川睦明 Shinagawa,Mutsuaki | 広島大学理学部 | 分析化学 |
庄野直美 Shono,Naomi | 広島女学院大学 | 理論物理 |
杉原芳夫 Sugihara,Yoshio | 広島大学医学部 | 病理 |
瀬戸紀守 Seto,Norimori | 広島市 | 産婦人科 |
原田東岷 Harada,Tomin | 広島市 | 外科 |
広瀬文男 Hiroshe,Fumio | 広島大学医学部 | 病理 |
広藤道男 Hirofuji,Michio | 広島市 | 内科 |
細川利郎 Hosokawa,Toshiro | 広島赤十字病院 | 内科 |
槙殿順 Makidono,Jun | 広島市 | 放射線科 |
山本司 Yamamoto,Tsukasa | 広島原爆病院 | 病理 |
以上は1957年12月末のメンバー | ||
以下は1958年7月のメンバー表で新たに加えられたメンバー | ||
Masuda,Yoshiya | ||
Mizuno,Moriso | ||
Nishida,Sekio | ||
Nakayama,Hiromi | ||
Tabuchi,Akira |
広島で死亡した米軍捕虜名簿
EVENING TRIBUNE(San Diego)紙の報道
1977.12.6
17 U.S. POWs included on A-bomb list
TOKYO(UPI)- At least 17 American prisoners of war were killed in atomic bombing of Hiroshima in the last days of World War Ⅱ, according to a newly discovered Japanese document.
The list of Americans who died in history’s first atmic bombing Aug. 5,1945,(Aug.6 in Japan) was found by a scholar in a batch of Foreign ministry records declassified last year.
The list was released yesterday,two days before the 35th anniversary of the Japanese attack on Pearl Harbor that brought the United States into the war.
Sixteen of the men were from the U.S. Navy and the Army Air Corps,the forerunner of the U.S. Air Force. A 17th man was identified only as a U.S.Navy lieutenant whose name was not known to his captors.
The men were crewmen of five different American planes shot down over western and southern Japan in the closing days of the war.
There have been several reports in recent years from survivors of the Hiroshima bombing that Americans and other Allied prisoners were killed when the 20-kiloton bomb called “Little Boy” exploded over the city. The U.S.Defense Department has always declined comment.
The list was found last summer by Satoru Ubuki,31,an employee of Hiroshima University’s Rsearch Institite for Nuclear Medicine and Biology.
The document says the remains of all 17 were turned over to U.S.military authorities in December 1945 after the United States began its seven-year occupation of Japan.
In each case the place of death is listed as “Hiroshima City”and the cause of death was “atomic bomb.”
All but three of the men are listed as having been killed the day the bomb fell.Another died Aug.8,and two more lingered until Aug.19.
Hiroshima officials have contended for several years that around 50 american,British and Dutch prisoners of war were killed in the atomic explosion.
A U.S.military survey shortly after the war fixed the Hiroshima death toll at 78,150. But in August of this year, the U.N.Non-Governmental Organization estimated the loss of life at 140,000.
The following names appear on the newly discovered list. In some cases,ranks,ages or serial numbers are unknown.
[名簿略]
『白いチョゴリの被爆者』 (広島県朝鮮人被爆者協議会編、労働旬報社、1979年7月15日)
広島県朝鮮人被爆者協議会(朝被協)は1975年8月2日発足.本書には広島で被爆した18名の朝鮮人被爆者の証言を収録.他に、朝被協による朝鮮人被爆者実態調査結果も発表.
目次
肉声を聞く(松本清張) | |
スニのための鎮魂歌(許南麒) | |
Ⅰ | なぜこんな体になったか忘れんでほしい(李永淳) |
1 強制連行で炭鉱夫に いわれた次の日にはもう家族と別れ/膝をまげ首までまげて穴を掘りました 2 怪我人の列が一日中続いとった 3 原爆スラムにバラックをたてて |
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Ⅱ | 劫火のなかに息子の焼かれるのをみて-戦争は私の家族何人を奪おうというのでしょう(辛福守) |
1 『皇国臣民』につくりあげられて ”おしっこ”がいえずにおもらしする子供たち/日本に淡い期待をいだいてきたが 2 燃える体に学生服のボタンが三つ並んでいました 屍の間でかろうじて息をして/死なんぞ-子供二人につづいて夫も 3 重なる惨劇-黒人兵に射殺された弟一家と兄の死と 4生命あるかぎり |
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Ⅲ | 犬のように殺されてたまるか-連行・逃亡・拷問のはてに(鄭順南) |
1 ”鮮人”は豚以下だそうです 畑にトラックでのりつけ連行することも/幾度かの逃亡失敗/豚に食わせる砂糖があってもおまえにはやらん 2 川もぎっしり死体で埋められてました 3 日本人のあなたに考えてほしい |
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Ⅳ | 地獄絵のなかの差別-貴様!!朝鮮人のくせにギャアギャアいうな!(呉鳳寿) |
1 土地をとられて小作させてもらい 2 どこでも一番危ない仕事は朝鮮人 3 こんな目に遭うても-忘れられないあの言葉 4 一冊の本になるほどの苦難の末に 食べ物で二人の子を失い/朝鮮を二度と植民地にしない子に育った |
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Ⅴ | 売春婦に売られて(金末順) |
1 だまされて日本の遊かくへ 2 やっとつかんだ幸せを原爆に奪われて |
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Ⅵ | 日本人はわしらを人間と思うとらんかった(南貴浩) |
1 生きているのが不思議なくらいいじめられた 2 生き残ったのは部落の一割 3 朝鮮人は朝鮮へかえれといいよる-さんざこきつかっておいて |
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Ⅶ | 四六年間”楽しいこと”は一つもないです(鄭寿祚) |
1 一○歳で子守に出されました 2 人間かお化けか 3 植民地なんかなかったら 一人が泣いて四人を助けるつもりで/故郷へ帰って両親の墓まいりするまで生きたい |
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Ⅷ | 一瞬の黒い熱い大波におおわれて(呉乙鶴) |
1 被爆-空中から卵型みたいなのがピカッ 2 産まれる子供が次つぎと 3 私が非常に訴えたいこと 4 朝鮮人は死んでも灰も届けられない |
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Ⅸ | 雨が降っても学校に傘もってくるな-朝鮮ブタ朝鮮ブタとさげすまれ(権重判) |
1 炭鉱を脱走した一七歳年上の主人と結婚 2 人間がイワシのように並べられ-爆風で白いかたまりの被爆者も 3 苦しみの倍加-子供への民族差別 一家六人をかかえてヤミ米買い出し/学校でも就職でも |
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Ⅹ | だれのためになんのために-どうしてもいっておきたい就職差別(文七権) |
1 まるで強盗でした-ウュノムの仕うち 2 おまえは鮮人だから-日本での屈辱 3 追われて広島へ-被爆の苦痛 4 希望の子供らまで就職差別され-戦後も消えぬ苦しみと怒り |
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ⅩⅠ | おまえらみたいな奴 三厘でいくらでも手に入るんだ-逃亡生活・徴兵拒否のはてに(朴在寿) |
1 貧困と差別のなかで 2 逃亡生活 一年余の徴兵拒否の逃避行/徴兵検査-父連行の脅迫で 3 人間が木炭のように 4 日本人以下に扱われる理由はないのです |
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ⅩⅡ | ”新日本人”と口先ではいいながら(黄義錫) |
1 消えない思い出 2 戦争のために 朝鮮人は劣等人間だからつき合えばバカになる/ていよく日本政府の番犬につかわれて 3 どの人も裸同然でした 4 日本のためにのみ働かされてきたのに |
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ⅩⅢ | 広島の街が大地に叩きつけられたように(柳昌洙) |
1 太陽が黒くみえた 2 心のやすらぎがほしいんよね 3 子孫が二の舞をふんでは死にきれん |
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ⅩⅣ | 歴史の底で死んだ母(鄭文玉) |
1 どの家庭も食べ物をあさる生活 卑屈な運命をたどる旅立ち/夢を破られた父との再会 2 日本が手を上げるならもっと早ければ 3 せめて人権だけでも-新憲法下でも変わらない仕うち 4 いまも暗い歴史を背負い |
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ⅩⅤ | 子供らに希望を語りつづけて-朝鮮人被爆教師として(朱碩) |
1 故郷も生活を荒らしまくられて 2 死の行列はあとからあとからつづき 3 反戦・平和・民族教育の灯を守るために 4 父母たちはなぜ被爆したか、なぜ原爆は落とされたのかを教えて |
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ⅩⅥ | 土地・言葉・故郷・八人の肉親を奪われて |
1 全財産を奪われて 2 血のようなくやし涙-妻も兄も八人の肉親を失い けん命に生きる人間のすべてを奪った原爆/なぜ最も善良なものが最も過酷な運命を 3 放置された被爆者のために |
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ⅩⅦ | 顔をみて”つける薬はない”と無視しました-事実を互いの民族がみつめあってこそ(閔基鎬) |
1 一日も胸をはって生きられなかった少年の日日 2 原爆と空襲のなかで 気づかずに積みあげた死体の脇に寝て/むごい体験 3 日朝のほんとうの交流をつくるために |
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ⅩⅧ | この世に生まれた価値を失わないために |
ⅩⅨ | 被爆朝鮮人問題と「朝被協」(李実根) |
1 被爆朝鮮人の由来 | |
一 在日朝鮮人の形成 二 軍都ヒロシマ-朝鮮人ヒバクシャ |
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2「朝被協」の結成と活動 | |
一 その結成と足跡 二 在広朝鮮人被爆者の実態調査 |
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あとがき | |
表紙絵・文中カット四国五郎 |
平和キャラバン 1971年、山口大学ユネスコクラブ(被爆者福祉会館『ゆだ苑』内)が第1回を実施。
出典:『第十回平和キャラバン総括集』(山口大学ユネスコクラブ、1981年?)目次
第1部 | 第10回平和キャラバン総括―歴史を再検討しつつ― | |
1. | 趣意書 | |
2. | 第10回平和キャラバンの足どり | |
3. | 各企画紹介 | |
(1)被爆者懇談会 | ||
(2)自治体交渉 | ||
(3)6・9行動 | ||
(4)行進 | ||
(5)施設訪門 | ||
4. | 平和キャラバン、第10回迄の歩みと今後の発展方向 | |
5. | 各企画総括 | |
(1)自治体交渉被 | ||
(2)爆者懇談会 | ||
(3)施設訪門 | ||
第2部 | 基本懇答申をのりこえて~状況とユネスコクラブの運動の方向~ | |
第1章 | 基本懇答申の経緯と内容 | |
第2章 | 被爆者援護法の根本精神と答申批判 | |
第3章 | 基本懇答申に反映される社会情勢 | |
第4章 | 地域の申に援護法精神を~ユネスコクラブの今後に向けて~ | |
※哀悼の意を表します | ||
※第10回平和キャラバン会計報告 | ||
※協力団体 | ||
※県内被爆者を支える『ゆだ苑』にご協力を |
『社会福祉ひろしま(号外)』(広島県社会福祉協議会)19671208
目次
原爆被爆者と社会福祉 | ||
小川政亮 | 被爆者援護法と社会保障 | |
平岡敬 | 被爆者の生活と感情 | |
志水清 | 原爆被爆者の医療制度の現状と問題点 | |
永田守男 | 随想 科学者と原爆 | |
向井佐歳 | 〈福祉の言葉〉 | |
宮本 | 編集後記 | |
編集後記=「…▼新聞「社会福祉ひろしま」の号外として、本会初めての雑誌の発行を試みた。現代福祉国家論の虚構を弾劾してゆく基点に思想としての「ヒロシマ」を擁立したいと思う。被爆地広島における貧困と植民地的繁栄の断絶、被爆者の生活保障の筋道は、われわれに社会事業対象へアプローチする上での新しい視覚を要求しているのではないだろうか?…」 |
紹介:ヒロシマの小さな流れ
8月6日、広島に集中する平和運動の流れは、大会決議の発表で頂点に達し、以降、引き潮のように霧散します。「ヒロシマ」と「広島」の格差を象徴しているようです。しかし、それを埋める小さなながれもあります。次に紹介するグループは、その流れです。(いづれも広島市内=順不同) | ||
グループ名 | 連絡責任者 | 連絡場所 |
原水爆禁止広島母の会 | 前田富子 | 八丁堀*** |
憩いの家 | 田辺耕一郎 | 宇品 |
広島折鶴の会 | 河本一郎 | 的場 |
八・六友の会 | 吉川清 | 江波 |
談和会 | 今堀誠二 | 千田町広島大学教養部内 |
平和と学問を守る大学人の会 | 佐久間澄 | 同上理学部内 |
被災白書を進める市民の会 | 永田守男 | 胡町中国新聞社文化部内 |
きのこ会 | 長岡千鶴乃 | 宝町婦人会館内 |
広島原爆資料保存会 | 横田工 | 中島町平和記念資料館内 |
広島キリスト者平和の会 | 橋本栄一 | 八丁堀広島YMCA内 |
宗教者平和協議会 | 相原和光 | 同上 |
ヒロシマ研究の会 | 小林省三 | 同上 |
広島研究の会 | 大牟田 | |
「平和の灯」奉賛会 | 藤田定一 | 金屋町労働会館内 |
ワールド・フレンドシップ・センター | 原田東岷 | 南観音 |
山下会 | 近藤幸子 | 己斐上 |
胎内被爆者、被爆二世を守る会 | 上幟町1-3・平和センター | |
原爆被害友の会 | 升川貴志栄 | 山根 |
平和のために対話を!市民の会 | 庄野直美 | 牛田町広島女学院大学内 |
『被爆二世 その語られなかった日々と明日』(広島記者団被爆二世刊行委員会編、時事通信社、1972年7月15日)
目次
そうてい・カット 四国五郎 | |||
今中次麿 | |||
序 | |||
この子らのあすに何があるか/ひき継がれる“核の爪跡” | |||
Ⅰ | あすにむかって-被爆二世とその周辺 | ||
1 | “帰らぬ鶴”を越えて<瀬戸真美さんの場合> | ||
被爆二世であることの自覚/四つのときからの会員/玄海灘を越えて/多くの人に知らっもらいたい/真美さんの夢 | |||
2 | 歩みはじめた二十歳<川口裕子さんの場合> | ||
私は平凡な女の子/主体的な歩み/活動家一年生/若ものたちとともに/大地に種をまく勇気を | |||
3 | 看護婦をえらんだ姉<向井秀子さんの場合> | ||
陸上競技の選手/お母さんの被爆/弟の発病/弟の死/看護婦の道をえらんで | |||
4 | 十三日目の二次被爆が…<栗栖みどりさんの場合> | ||
午前六時までもちこたえれば/いっしょに仕事をしたい・遊びたい/あの人に悪いけど、死にたい/原爆投下後十三日目の放射能が……/母の思い | |||
5 | もう少し遅く生まれていれば<山下恵子さんの場合> | ||
クラスの中心人物/たった一つの弱音/壁と壁を破るもの | |||
6 | 母親の心の軌跡<名越史樹君と操さんの場合> | ||
原爆の生き証人/ランドセルも背負えないで/フミキ、シッカリ、カンドケ/『ぼく生きたかった』の出版/マスコミにとりあげられる苦痛/ベトナムの子らと | |||
7 | 四十五万円の希望<沖縄の被爆者> | ||
復帰にともなう生活危機/米軍を恐れながら/絶望を深める検診/沖縄の被爆二世/この距離をどう埋めるか | |||
Ⅱ | 原水禁運動と被爆二世 | ||
1 | 黙殺しつづけた行政 | ||
『ヒロシマの証言』の所信/行政姿勢の反映? | |||
2 | 「守る会」生まれる | ||
守る会の目的と方針/被爆者差別は核武装への奉仕/日本中の子どもの問題/目的は一致しながら/『広島はたたかう』 | |||
3 | 被爆二世の健康調査 | ||
五人に一人が異常あり/救援に役立つ調査を | |||
4 | 一貫する行政の姿勢 | ||
広島県・市へ申し入れ/調査に踏みきらぬ行政当局/母の怒り、市民の怒り/守る会から対策会ヘ | |||
5 | 母親たち 110 | ||
山下会の歩み/被爆二世と結婚/屈折した経験/手記づくり運動\ヒロシマの母とベトナムの母 | |||
6 | 要求で起ち上がった労働者 | ||
国労被爆協の取組/全電通の調査活動/被爆教師の会/新しい共同の動きⅢ 医学と被爆者 | |||
Ⅲ | 医学と被爆者 | ||
1 | 原爆と医学 杉原芳夫 | ||
医学の根底-政治/障害の隠蔽-ABCC/原爆症とは何か-科学的認識論/胎内被爆-非人道的調査/遣伝的障害-突然変異/被爆二世-白血病/差別の根源-核戦争政策 | |||
2 | 核戦略体制下のABCC | ||
二十五年ぶり来広の真意は/原爆投下直後の救護体制/日本側救護を禁圧したプレス・コード/調査研究資料を押収したアメリカ調査団/日本料学者の努力とそれへの圧迫/ABCCの調査活動/被害者より加害者がはばをきかす/ABCCの真の目的/核戦争対策/ABCCは米政府機関/米本国へ送られた被爆者の臓器/アメリカの防衛と安全のための「契約」/無条件完全返還を | |||
3 | ABCCに癒着する広大原医研 | ||
三つの研究機関/遺体についての協定/ABCCへの死亡連絡/原医研のなりたち/原爆医学標本センター/原医研と被爆二世/ABCCとの関係/被爆者の背番号/下請け機関であることをやめよ | |||
Ⅳ | 国、地方自治体と被爆二世 | ||
1 | “特別援護はしない”―厚生省- | ||
「学術の進歩に合わせて考慮する」/その行政上の矛盾/急務にこたえよ | |||
2 | “医科学的証明がない”―広島県・市- | ||
被爆地の自治体でありながら…/県も市と同歩調/後退する陳情書 | |||
3 | 先進的にとりくむ京都府など | ||
京都の被爆者/被爆二世対策の実施/北海道でも/川崎市でも | |||
4 | 長崎にて<ルポルタージュ> 深川宗俊 | ||
被爆二世の死/国への要望/対策にのりだした長崎市/ある被爆活動家の意見/沈黙は差別を助長する/長崎「青年と被爆二世の会」の発足/鎮魂のうたとして/“死を待つ行政”をのりこえて | |||
Ⅴ | 朝鮮人被爆者・被爆二世 | ||
1 | 差別の中を生きぬく | ||
朴竜時さん一家の場合-一家の苦難/差別にくじけずに 金秀鉉さん一家の場合-生きかえってからの苦しみ/被爆者の子どもの人生/骨身にしみる憤り/快活な二世たち | |||
2 | 二十七年間の空白 | ||
差別と貧困ヘの告発/広島の朝鮮人被爆者/はかどらぬ朝鮮人被爆者の救援/北朝鮮の被爆者たち/日本の責任 | |||
むすびにかえて | |||
あとがき <本書は、日本ジャーナリスト会議広島支部(昭和42年結成)の学習会のなかから生まれた> |
シンポジウム:原爆被害と援護問題
日時:1983年8月7日
場所:広島市社会福祉センター
主催:「原爆被害と援護問題」シンポジウム世話人会
田村和之 | 開会のあいさつ |
小川政亮 | 被爆者援護の法理 |
湯崎稔 | 原爆被害者援護問題への課題 ー「基本懇」答申の問題をめぐって一 |
河合幸尾 | 被爆者援護と社会保障 |
若林節美 | 被爆者行政の現状と限界 |
放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE) 平成3(1991)年4月に発足
http://www.hicare.jp/about/
被曝者医療の国際協力10年の軌跡 | 放医協の歩み(平成2年~平成13年) | 2001/03/01 |
被曝者医療の国際協力25年の軌跡 HICARE25周年記念誌 | 活動年表 | 2017/03/01 |