「32 原水爆禁止運動」カテゴリーアーカイブ

反核運動1994

反核運動1994


1995年3月の核拡散防止条約(NPT)期限切れにともなう同条約の改定問題をめぐる論議など、核拡散をめぐる問題がクローズアップされた1年であった。6月には、朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の核開発疑惑に対するアメリカを中心とした経済制裁の動きがあり、緊張の高まりが見られた。その一方で、11月にはウクライナ最高会議の核拡散防止条約(NPT)加盟決議、カザフスタンのウラニウムのアメリカへの移送など核不拡散に向けての動きも存在した。また、被爆50周年という節目の年を1年後に控え、国内外で原爆開発や投下、被爆の意味を問い直す動きが見られた。被爆地広島・長崎では、原爆犠牲者50回忌を迎え、慰霊・追悼行事が多数催された。

【核兵器使用への意見陳述】

国際司法裁判所がWHO加盟国に求めていた核兵器使用に関する意見陳述問題で、広島・長崎両県知事・両市長は、4月、日本政府に核兵器使用の違法性を訴える陳述書の提出を求めた。原水禁団体や平和団体なども、6月以降同様の要請を行った。外務省は当初、「核兵器使用は国際法に違反せず」との陳述書案を準備していたが、羽田内閣の内部でも問題となり、6月10日、政府は違法性に言及しない陳述書を提出した。この問題は、11月に国連総会第一委員会が、非同盟諸国が提出した核兵器使用が違法であることについて国際司法裁判所に勧告的意見を求める国連決議案を採択したことにより、引き続き国際的な問題として検討されることになった。

【原水爆禁止世界大会】

原爆記念日を中心に、さまざまな団体が恒例の集会を開いた。原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)は、8月2日~9日に、広島・長崎で、それぞれ、7500人、3000人規模の大会を開催した。大会では、NPT改定問題が取り上げられ、アメリカなど核保有国が意図する同条約の無期限延長への反対が決議された。原水禁国民会議(原水禁、社会党系)の大会にも、両地で同じ規模の代表が参加した。この大会には、6月末に社会・自民・さきがけ3党による村山内閣が発足したのを受けて、自民党の代表が初めて参加した。

【国内の動き】

細川政権のもとで連立与党による原爆被爆者援護法に関するプロジェクトチームが作られ、援護法の精神・内容についての検討が始まっていた。これは村山内閣の連立与党3党の課題として引き継がれ、11月に政府案がまとまった。一般空襲による被害や海外の戦後補償問題への波及を避けるため「国家補償の精神」が取り入れられないなど、被爆者の要求を満たすものでなく、被爆者団体やその支援団体から強い反発が示されたが、12月に成立した。

広島市を中心に進められていた原爆ドームを世界遺産条約の遺産リストに登録するよう求める請願が、参議院(1月)を衆議院(6月)で採択された。9月には、登録への前提となる文化財指定のための文化庁による遺跡について指定基準の見直し作業が始まった。

NPT改定問題は、5月に開催された第2回国連軍縮広島会議(19か国から61人が参加)でも議論が集中した。また、原爆記念日の広島・長崎両市の平和宣言は、いずれも無期限延長への反対を明確に表明した。

【海外の動き】

前年11月、アメリカの新聞アルバカーキ・トリビューン紙が核開発過程で行われた放射性物質による人体実験の事実を詳細に報道した。これが発端となり、今年早々、クリントン政権による実態究明が始まるとともに、実験の被検者やその遺族による損害賠償請求訴訟がつぎつぎと起こされた。

アメリカのスミソニアン航空宇宙博物館は、原爆投下50周年を記念する企画展示として、広島への原爆投下機エノラ・ゲイ機と併せて広島・長崎の被爆資料の展示を計画した。このシナリオが明らかになると、アメリカ国内では退役軍人協会を中心に、同機と被爆資料の同時展示に反対する動きが起こり、9月には上院が全会一致で同博物館に企画の修正を求める決議をおこなうまでに発展した。同博物館は、シナリオの大幅な修正を加え、こうした動きへの妥協を図ったが、その一方で、国内の著名な歴史学者やジャーナリストらが原爆投下を賛美するものとして、修正を求めている。

このほか、それぞれ100人、4000人という小規模ではあったが、カザフスタン共和国セミパラチンスクで8月末から9月初めにかけて核兵器廃絶と核実験被害者への補償を求める国際会議が開かれ、10月にはイギリスの核軍縮運動(CND)による集会がロンドンで数年ぶりに開催された。

反核運動1993

反核運動1993


1993年の年頭(1月3日)に、第2次戦略兵器削減条約(START2)がアメリカとロシア両国首脳の間で調印された。また、フランス(1月)やアメリカ(7月)が核実験停止(モラトリアム)延長の声明を行ったことにより、核軍縮への大きな期待が寄せられた。しかし、いっぽうでは、北朝鮮の核拡散防止条約からの脱退声明(3月)、西シベリアの軍事閉鎖都市「トムスク7」の放射能汚染事故(4月)、中国の約1年ぶりの核実験実施(10月)、ウクライナの核兵器保有継続の意志表明(11月)などがあり、核軍縮の困難さが改めて明らかになった1年であった。

【原水爆禁止世界大会】

欧米の反核運動が退潮する中でも、日本においては、被爆体験に基づく運動が展開され続けている。原爆記念日を中心に、さまざまな団体が恒例の集会を開いた。原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)は、8月3日~9日に、広島・長崎で、それぞれ、3500人、8000人規模の大会を開催し、「核兵器全面禁止・廃絶国際条約締結」と「原爆被害と核実験被害などの実相調査と補償」を求める特別決議を採択した。また、原水禁国民会議(原水禁、社会党系)の大会にも、両地合わせて1万人近くが参加し、細川連立政権に、原爆被爆者援護法の制定や戦後責任を明確にし戦後補償を果たすことなどを求める行動決議を採択している。このほかに、日本生活協同組合連合会と連合が、両地合わせて数千人規模の集会を開いた。

【放射線ヒバクシャ問題】

海外のヒバクシャとの交流が活発に行われた。原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)は、3・1ビキニデー前後に、アメリカ、マーシャル、カザフの核実験被害者を招いて、東京・広島・長崎などで国際シンポジウムを開催するとともに、10月にはネバダ核実験場に訪問交流団を派遣した。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)も、代表をセミパラチンスク(5月)・ネバダ(7月)に送り、放射線ヒバクシャとの交流を行った。また、全国各地の市民団体により、チェルノブイリ原発事故被災者の招請も見られた。行政レベルでも、発足して3年目の放射線被爆者医療国際協力推進協議会(広島県・市を中心に組織)に加えて、今年には外務省や長崎・ヒバクシャ医療国際協力会(1992年発足)による放射線医療関係者の招へい事業も始まった。

【国内の動き】

国連軍縮局は、4月13日~16日、国連軍縮京都会議を開催した。国内での開催としては5回目となるこの会議に、37か国から約90人の軍縮専門家が参加した。会議では、核拡散や核流出問題が話し合われた。また、8月5日~9日には、広島・長崎両市で、「平和の構築と都市の役割-核兵器廃絶をめざして」をテーマに、第3回世界平和連帯都市市長会議が開催され、海外37か国81都市、国内41都市、合計38か国122都市の市長や市議会議長などが参加した。

広島では、数年前から活発になった原爆遺跡保存をめぐる動きに新たな進展が見られた。広島市は、5月に被爆建物の保存に補助金を交付するための要綱を制定し、その第1号として広島日赤の被爆窓枠の保存に3000万円を交付した。また、6月には連合広島など13団体が「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」を結成した。100万人を目標に署名運動を開始し、10月に約134万人分の署名を衆参両院議長に提出した。

【海外の動き】

世界保健機構(WHO)は、5月の第46回年次総会で、核兵器の使用が国際法違反かどうかの判断を国際司法裁判所に求める決議案を賛成多数で採択した(賛成73、反対40、棄権10か国で、日本政府は棄権)。これは、国際平和ビューローが1992年5月に発足させた「世界法廷プロジェクト」の働きかけによるもので、11月には、決議が国連総会第1委員会(軍縮・安全保障)に提出された。このプロジェクトに加わっている核戦争防止国際医師会議(IPPNW)は、第11回世界大会を、9月30日~10月3日にメキシコ市で開催(73か国から約1200人が参加)し、「核兵器は、化学・生物兵器と同様に、国際条約によって禁止すべきだ」とする声明を発表した。

10月17日、ロシア海軍の船舶が日本海に液体放射性廃棄物の投棄を行った。この動向に対する国際環境保護団体グリーンピースによる追跡・抗議行動は、世界的な反響を呼びおこし、液体放射性廃棄物海洋投棄中止のロシア政府声明(10月21日)を引き出すことに成功した。さらに、11月18日には、海洋汚染を防止するための「ロンドン条約」の締約国定例会議が、低レベル放射性廃棄物の海洋投棄を全面禁止する条約改正案を圧倒的多数で採択した。

反核運動1992

反核運動1992


1992年は,冷戦終結にともない,ウクライナ,ベラルーシからの戦術核解体・撤去作業の開始(1月),米ロ首脳会談での戦略核兵器の大幅削減の合意(6月)など,核をめぐる新たな動きが現れた.またアメリカでは,6月に下院,8月に上院が核実験停止法案を可決,10月にはブッシュ大統領が署名した.

こうした核軍縮の急展開にともない,核兵器の拡散,旧ソ連の核管理,原発管理などをめぐる問題が新たにクローズアップされた.

【原水爆禁止世界大会】

広島・長崎の原爆記念日を中心に,さまざまな団体による恒例の行事が行われた.原水爆禁止日本協議会(原水協,共産党系)は,92年8月2-9日,広島・長崎を舞台に原水爆禁止1992年世界大会を開催した.24ヵ国,7国際・地域組織からの50人の国際・海外代表を含め,廷ベ1万2000人(広島8500人,長崎3800人)が参加した.長崎の大会では,く核兵器廃絶-「広島・長崎,核実験地周辺の被害と後遺についての国際シンポジウム>が開かれ,アメリカ,旧ソ連,マーシャル諸島の核実験被爆者などが参加した.

原水爆禁止国民会議(原水禁,社会党系)の被爆47周年原水爆禁止世界大会も,8月4~9日広島・長崎で,それぞれ6500人,3500人規模で開催された.海外からは,11ヵ国から22人が参加した.

このほかに,核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議,民社党系)が,8月1日に広島市で核兵器禁止全国集会(500人参加)を開き,連合が両被爆地で独自に開催した2回目の平和集会には,合わせて2000人が参加した.

【国内の動き】

国内の非核宣言自治体の総数は,92年3月に1684となり全自治体の過半数に達した.6月15~18日には,〈大量破壊兵器の不拡散〉をテーマにした国連軍縮広島会議が開催された(19ヵ国から56人が出席).11月4~7日,第6回国際非核自治体会議が,く核兵器の廃絶と恒久平和の実現をめざして>をテーマに横浜市で開催された.アジアで初めて開催されたこの会議には,19ヵ国130自治体(海外の自治体は22)の首長や議員など約800人が参加した.

4月15日,川崎市が,核兵器廃絶平和都市宣言(1982年6月8日)に基づく事業の一環として,26億円を投じて平和館を開設した.91年9月には,大阪府と大阪市が共同で〈ピースおおさか(大阪国際平和センタ)〉を開設しており,92年1月17日には鈴木東京都知事が〈平和記念館〉(仮称)の建設方針を正式に表明している.82年に〈非核〉をテーマとして出発した日本の自治体の平和行政は着実に定着し,終戦50周年を前に,<国際><平和>などのテーマを加え,新たな展開を始めている.

広島・長崎では,被爆建造物の保存と海外のヒパクシャとの交流の動きが活発となった.広島では,8月に市の被爆建造物等継承方策検討委員会が29の被爆建造物の保存・継承方法について報告書をまとめた.また,同市議会は9月29日,原爆ドームを世界遺産条約に基づく(文化遺産)として追加推薦を国に求める意見書を採択した.長崎でも平和公園内の旧浦上刑務支所の保存を求める運動が展開されている.

反原発では,10月4~5日,日本の原子力資料情報室とアメリカの核管理研究所が,都内で〈アジア・太平洋プルトニウム輸送フォーラム〉を開催した.この会議では,15ヵ国・地域からの参加者が,日本のプルトニウム輸送を厳しく批判した.また10月18日には,原水禁国民会議などが,敦賀市で〈止めようもんじゅ全国集会〉を開催(4000人が参加)している.

【海外の動き】

大量動員の動きはみられなかったが,いくつかの国際会議が開かれている.核戦争防止国際医師会議は,第3回アジア太平洋地域会議を92年7月22~23日に韓国のソウルで開催した.また,世界ウラン公聴会(9月13~19日,オーストリア,ザルツブルク,52ヵ国・地域から600人が参加)と第2回核被害者世界大会(9月20-25日,ドイツ,ベルリン,約60ヵ国から500人が参加)の二つの被爆者中心の国際会議も開催されている.このほか,フランスのシェルプール港から日本へのプルトニウム輸送への抗議の声が,輸送ルート周辺各国で起こり,グリーン・ピースなどが,輸送船くあかつき丸>の入港(11月7日)に対して激しい抗議行動を展開した.93年1月5日,〈あかつき丸〉は茨城県の東海港に入港し,同日に約6割のプルトニウムが3km離れた動力炉・核燃料開発事業団の燃料工場に運び込まれた.今回のプルトニウム輸送について,動燃の石渡鷹雄理事長は,〈理解を求める努力に欠け,各国に不必要な心配をかけたことは反省すべきだ〉と述べた.

反核運動1991

反核運動1991


核をめぐる国際情勢は,この1年激しく揺れ動いた.湾岸戦争では,米軍によりイラクの原子炉が空爆され,イラク軍による化学兵器や米軍による核兵器の使用が懸念された.ソ連邦解体の動きは,連邦所有の核管理体制に不安定な状態をもたらした.しかし,その一方で戦略兵器削減交渉(START)条約調印(7月31日)など核軍縮への動きに拍車をかける結果となった.

国内では,各種の反核団体が,湾岸戦争,自衛隊掃海艇のペルシア湾派遣,国連平和維持活動協力法案(PKO法案)などへの取り組みをおこなった.しかし,これらの課題への態度は団体ごとに異なり,大規模な統一行動は生まれなかった.

1991年は,「満州事変」60周年・パールハーバー50周年にあたり,日本の加害責任を明らかにする動きが活発となった.広島・長崎は,それらとの関連で改めてクローズアップされた.

[原水爆禁止世界大会]

広島・長崎の原爆記念日を中心に,さまざまな団体による恒例の行事がおこなわれた.原水爆禁止日本協議会(原水協,共産党系)は,8月2日~9日,広島・長崎を舞台に原水爆禁止1991年世界大会を開催した.25か国(29各国組織、10国際・地域組織)からの60人の国際・海外代表を含め、延べ1万2,000人(広島4,500人、長崎7,500人)が参加した。原水爆禁止国民会議(原水禁,社会党系)の被爆46周年原水爆禁止世界大会も,8月4日~9日,広島・長崎で,それぞれ8,000人・4,500人規模で開催された.海外からは,13か国から28人が参加した.このほかに,核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議,民社党系)が,8月3日に長崎市で核兵器禁止全国集会(500人参加)を開き,公明党も6月から8月にかけ第11回核兵器全廃と軍縮をめざす平和市民集会を沖縄・広島・長崎で開催した.また,連合が初めて両被爆地で独自に開催した平和集会には、併せて3,500人が参加した。

[国内の動き]

被爆者団体・原水協・原水禁は,湾岸戦争やパールハーバー50周年に関連してなされたアメリカ政府高官の原爆投下正当化発言に対して,抗議の意志表明をおこなった.10月24日-27日,原水協を中心に核兵器廃絶をめざす第5の「平和の波」行動がもたれ,国内での行動は6,000を数えた.また,7月末現在で,国内の非核宣言自治体は1,612自治体(全体の49%)となった.

被爆地では,原爆被害に新たな意義づけをおこなう動きが見られた.4月,広島で放射線被曝者医療国際協力推進協議会(広島県・市や市内の被爆者医療・研究機関で構成)が発足し,広島の被爆者医療の経験が,チェルノブイリ原発事故の被災者など海外のヒバクシャ医療に役立てられることになった.また,広島・長崎両市長は,8月の原爆記念日に読み上げた平和宣言に,揃ってアジア・太平洋地域へ与えた被害についての謝罪の気持ちを盛り込んだ(広島の宣言では初).

[海外の動き]

1月4日-5日、米国ネバダ州ラスベガスで核実験禁止国際集会が開催された.平和・環境保護団体のグリーンピースや米国内の反核団体などが呼びかけたもので,20か国から1,500人が参加した.5日のデモには3,000人が参加、柵を越えて核実験場内に侵入した450人が逮捕された。この集会は,7日からニューヨークの国連本部で開催される部分的核実験禁止条約(PTBT)改定会議(-18日)での包括的核実験禁止条約(CTBT)実現への機運を盛り上げるため開催されたが,中東での戦争を反映し,主催者の予想を越える盛り上がりを示した.さらに,12日,グリーンピース、アメリカ平和実験、核戦争防止国際医師会議などの反核団体が,ニューヨークで「地球的反核連合」を発足させ,ネバダ(米)・セミパラチンスク・ノバヤゼムリャ(ソ連)・ムルロア(仏)・ロプノル(中国)の5つの核実験場閉鎖のために協力することを宣言した。一方,10月17日-18日には,ネバタ・セミパラチンスク運動が,ソ連カザフ共和国のセミパラチンスク核実験場で,「地球的軍縮のための国際会議」を開催した.共和国大統領令(8月29日)により同実験場が閉鎖されたこと を記念するこの集会には,約1,000人が参加した.二つの集会には,日本から原水禁の代表が参加した.

反核運動1990

反核運動1990


広島・長崎の原爆被爆45周年という区切りの年,ヒバクシャ問題をめぐり,国内外で新たな動きが見られた.国内では,「ふたたび被爆者をつくらない」保障として被爆者援護法制定を求める声が高まり,米ソでも,原発事故や核開発による被曝者の救援をめぐる動きが活発となった.

[ヒバクシャ問題]

1989年12月15日,参議院で原爆被爆者援護法案が可決,90年5月15日には,厚生省が,85年度に実施した原爆死没者調査の結果を5年ぶりに発表した.また,地方議会の援護法制定を求める促進決議・意見書の採択が,昨年から今年にかけ千を越え,全体で1,500議会(全地方議会の45%)となった.在外被爆者援護については,海部首相が来日した盧泰愚大統領に在韓被爆者への40億円の基金提供を約束(5月24日)という具体的な進展が見られた.

アメリカでは,6月,エネルギー省が,「マンハッタン・プロジェクト」以来アメリカの核兵器製造に携わった約20万人分の健康被害調査データの公表を開始した.また,10月15日には,ブッシュ米大統領が「核被害者補償法案」に署名し,ネバダ核実験やウラン採掘による核被害者に最高5-10万ドルが支払われることになった. ソ連のチェルノブイリ原発事故による被曝者をめぐってもさまざまな動きが見られた.9月6日,日ソ両外相が「チェルノブイリ原発事故の結果生じた事態を克服するための日ソ協力に関する覚書」に署名,23日には,ソ連とIAEA(国際原子力機関)が,「チェルノブイリ原発事故研究センター」設立協定に調印した.また,10月26日には,広島市で開催された世界保健機構(WHO)科学諮問委員会が,被曝住民20万人の疫学調査など研究プログラムに関する6項目の勧告をまとめている.

[原水爆禁止世界大会]

広島・長崎の原爆記念日を中心に,さまざまな団体による恒例の行事がおこなわれた.原水爆禁止日本協議会(原水協,共産党系)は,8月1日~9日,広島・長崎を舞台に原水爆禁止1990年世界大会を開催した.この大会には,13の国際・地域組織と26か国の34組織から69人の海外・国際代表と1万5000人(両地の参加者合計)が参加した.大会期間中に実施した第4の「平和の波」行動は,世界64か国と国内2000か所でも取り組まれた.

原水爆禁止国民会議(原水禁,社会党系)の被爆45周年原水爆禁止世界大会も,8月3日~9日,広島・長崎で,それぞれ7000人・3000人規模で開催された.海外からは,初参加のネバダ・パラチンスク運動の代表(オルザス・スメイロフ議長など11人)と朝鮮民主主義人民共和国の被爆者(広島被爆)をはじめとする12か国・1地域組織の43人が参加した.

このほかに,核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議,民社党系)が,7月31日に広島市で核兵器禁止全国集会(600人参加)を開き,公明党も6月から8月にかけ第10回核兵器全廃と軍縮をめざす平和市民集会を沖縄・広島・佐世保で開催した.また,8月6日には,連合・原水禁・核禁会議三者が共催で原爆被爆者援護法の制定を求めるヒロシマ集会を開催している.

[国内の動き]

8月15日現在で,国内の非核宣言自治体は1491自治体(全体の45%)となった.非核三原則をめぐる動きとしては,核軍縮を求める22人委員会(座長:宇都宮徳馬)が,6月初め非核三原則法制化のための要綱を作成し,非核法についての理解を広めるため7月20日と11月27日に東京都内と広島市内でシンポジウムを開催した.また,8月の原爆記念日に広島・長崎両市長が読み上げた平和宣言に,揃って非核三原則の法制化が盛り込まれた(広島の宣言では初).3月26日には,東京都中野区議会が,法的拘束を平和行政に求めたものとしては国内初の「平和行政の基本に関する条例」を可決した.

[海外の動き]

5月24日-26日,核実験禁止国際市民会議が,ソ連カザフ共和国の首都アルマアタ市で開催された.同共和国のセミパラチンスクとアメリカ・ネバダ両核実験場の風下住民や広島の被爆者など,20か国から核被害者や反核活動家1,000人が参加し,核実験禁止の連帯を誓った.ソ連のカザフ共和国では,このほかに10月1日,セミパラチンスク州ソビエト総会が,セミパラチンスク核実験場での地下核実験を即時中止するよう求める決議を採択,25日には共和国最高会議が採択した国家主権宣言の中で核実験全面禁止を規定するなど核実験禁止を求める動きがこれまでになく広まった.

11月8日~11日には、イギリスのグラスゴーで第5回非核自治体国際会議が開催された。23か国から約400人が参加し、反核の課題とともに、イラクのクエート侵攻非難とアメリカの軍事力行使にたいする警告を盛り込んだ決議を採択した。

反核運動1989

反核運動1989


INF条約締結後の緊張緩和ムードの中で、以前のような西欧の反核運動の熱気は見られなくなったが、原子力開発にともなって生じたさまざまな核被害にたいする関心は、世界各地に着実に広がっている。国内では、広島・長崎の被爆地を中心に、市民レベルでの原爆遺跡保存運動や、行政レベルでの「黒い雨」被害の見直し作業など、原爆被害への新たな動きが起こった。

原水爆禁止国民会議(原水禁、社会党・総評系)などがこれまで推進してきた「反原発」運動は、労働界再編の動きの中で新たな対応を迫られた。原水禁は、前年からスローガンを「反原発」から一定期間の原発の操業を容認する「脱原発」に変えている。1月22日には、脱原発法の制定を求める1千万人署名運動がスタートした。

[原水爆禁止世界大会]

8月を中心に、反核団体による恒例の行事がおこなわれた。原水禁の被爆44周年原水爆禁止世界大会は、7月31日~8月9日、東京・広島・長崎で開催され、16か国・地域の40人の海外代表を含め、のべ2万人が参加した。長崎の閉会総会では、被爆者援護法・非核法・脱原発法などの制定を求める大会宣言を採択した。

一方、原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党・統一労組懇系)の原水爆禁止1989年世界大会は、8月3日~9日、広島・長崎で、13国際・地域組織、27か国35組織から63人の海外代表と日本各地の代表1万1000人(長崎閉会時)の参加のもとに開催された。大会と並行して展開された第3の「平和の波」行動は、69か国にひろがり、国内では3000か所以上で取り組まれた。

このほかに、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議=民社党・同盟系)が、7月29日に長崎市で核兵器禁止全国集会(700人参加)を開き、公明党も8月2日~20日に第9回核兵器全廃と軍縮をめざす平和市民集会を広島・長崎・京都・東京・沖縄で開催した。また、8月31日には、「連合」が、東京で「平和・軍縮・核兵器廃絶」をスローガンに、「国際平和シンポジウム」を開催している。

[国内の動き]

5月上旬、1965年に水爆を積載したアメリカ海軍機が沖縄沖に沈んだまま放置されていることが判明し、これを契機に改めてわが国の国是とされる非核三原則が問い直された。5月14日、核兵器廃絶運動連帯が東京で「西太平洋における核軍縮と日本の責任」をテーマに、また、6月1日には核軍縮を求める22人委員会と非核都市宣言自治体連絡協議会が、横浜市で「今、海の非核化を考える」をテーマにシンポジウムを開催し、非核三原則の法制化を訴えた。8月の原水禁・原水協の世界大会でも、非核三原則の法制化を求める宣言・アピールが採択されている。

広島市の呼びかけによる被爆のシンボル「原爆ドーム」の保存工事費用の募金が、5月1日にスタートした。この募金は、目標額の1億円をわずか3か月で達成、11月20日現在で3億円を超えた。この募金には、各反核団体が協力するとともに、団体には組織されない多くの国民の参加がみられた。募金総額の3分の1は個人によるものである。こうした原爆被害にたいする国民的関心のもりあがりは、原爆被爆者援護に関してもみられた。援護法制定促進決議・意見書は、10月20日現在で、367議会にのぼり、11月14日には、社会・公明・共産・連合参議院・民社・参院クラブの参院6会派が被爆者援護法案を共同で提出している。

[国際平和会議]

広島・長崎の両被爆地を舞台に、二つの大きな国際平和会議が開催された。その一つは、第2回世界平和連帯都市市長会議で、8月5日~9日に開催された。4年ぶりのこの会議には、海外26か国81都市、国内38自治体、計27か国119都市の市長らが出席し、「核兵器廃絶をめざして-核時代における都市の役割」を基調テーマに討議をおこなった。もう一つは、第9回核戦争防止反核国際医師会議(IPPNW)で、10月7日~12日に「ノーモア・ヒロシマ この決意永遠に」をテーマとして開催された。最終登録者数は、海外75か国、1220人、国内1880人、計3100人という国内最大級の国際会議であった。10日発表の「広島・長崎アピール」では、核実験の即時停止や軍事支出の50%削減などを訴えた。このほかに、国連軍縮京都会議(4月19日~22日)・パグウォッシュ東京シンポジウム(9月16日~19日)も開催され、今年は、例年になく国際会議の集中した年となった。

[海外での反核の動き]

2月8日~11日、アメリカのオレゴン州ユージン市で第4回非核自治体国際会議が開催された。21か国から約150の自治体や団体が参加し、海洋核と原子力平和利用を中心に討議をおこなった。また、9月22日から3日間、オランダのハーグに24か国から約150人が参加して、国際反核法律家協会第1回世界大会を開催し、核兵器廃絶を緊急任務とする宣言を採択した。このほか、核実験や原発による放射能被害の解明を求める住民運動が世界各地で展開された。中でも注目されるのはソ連国内での反核運動である。8月6日、セミパラチンスクで1万人規模の核実験抗議行動がおこなわれ、10月21日にも、6万人のデモが展開されている。

反核運動1988

反核運動1988


1988年5月31日~6月26日、第3回国連軍縮特別総会(SSDⅢ)が開催された。INF全廃条約締結後に開催されたこの総会にむけての国際的な盛り上がりは、6年前のSSDⅡほどにはみられなかった。しかし、日本においては、SSDⅠ・Ⅱのような諸団体の統一的な取り組みはなされなかったものの、それぞれの団体がSSDⅢにむけて多様な運動を展開し、約18団体が総勢1200人をニューヨークに送った。総会は、最終文書が採択されないという不調な結果に終ったが、8月前後には、恒例の原水爆禁止世界大会をはじめ、非核自治体や青年など反核運動の新しい担い手による取り組みが広島・長崎を中心に繰り広げられた。

[第3回国連軍縮特別総会]

日本で大量の代表を派遣したのは、日本原水爆被害者団体協議会や日本青年団協議会など市民10団体の「SSDⅢの成功に向けての市民準備会」、原水爆禁止日本協議会(原水協=共産党・統一労組懇系)などの「SSDⅢに核兵器のすみやかな廃絶を要請する日本連絡会」、原水爆禁止国民会議(原水禁=社会党・総評系)の「SSDⅢに向けて行動する会」で、それぞれ250~340人からなる代表団を送った。

総会に設定されたNGOデーである6月8日~9日には、9人の日本代表が発言した。第1日目の発言者は、伊藤サカエ(原水禁)・伊東壮(被団協)・二階堂進(軍縮議連)・中林貞男(市民準備会)・庭野日敬(立正佼成会)の5人で、このうち、伊東は「被爆実態を世界に普及するための各国政府による被爆者招請」を、また中林は「核軍縮に関する国連の情報・研究センターの広島設置」を提言した。第2日目には、荒木武広島市長と本島等長崎市長(世界平和連帯都市市長会議)および広根徳太郎(原水協)・山崎尚見(創価学会インタナショナル)が発言した。

10日には、国連本部で署名提出式が500人の参加のもとに開催された。約3900万の署名の目録が、総会議長へ手渡された。このうち3000万の署名は、日本連絡会の「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名である。翌11日には10万人の参加者によりハマーショルド広場での平和集会とセントラルパークまでのデモ行進がおこなわれた。世界的に反核運動の大衆動員が低迷する中で、原水協は、SSDⅢの開催中の6月9日に、前年の10月に続く第2の「平和の波」行動を実施した。この行動では、世界51か国、日本国内では約1000の市町村で反核の署名活動や集会などがおこなわれた。

[原水爆禁止世界大会]

原水禁による被爆43周年原水爆禁止世界大会は、8月1日の東京の国際会議を皮切りに広島と長崎で総会を開催した。国際会議には25か国・地域、2国際組織の60人の海外代表が参加した。一方、原水協を中心とした原水爆禁止1988年世界大会は、国際会議を2日から4日まで広島で、海外代表26か国14国際組織の代表と日本代表のあわせて290人のもとに開催し、広島と長崎で総会をおこなった。いずれの世界大会の総会も、広島では8000~1万人規模、長崎では5000人規模のものであった。また、原水協の大会は、核固執勢力との闘いを訴えた宣言を採択し、原水禁の大会は、「いまこそ、生活の場から反核を!日本こそ、非核・軍縮を!」との大会宣言を決議した。

このほかに、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議=民社党・同盟系)が、7月29日に長崎で核禁会議九州ブロック集会(800人参加)を、8月1日には広島で核禁会議全国集会(600人参加)を開き、公明党も7月31日と8月5日に第8回核兵器全廃と軍縮をめざす平和市民集会を長崎と広島で開催している。

いわゆる市民団体の行事や集会も広島・長崎を舞台に繰り広げられた。日本生活協同組合連合会は、8月5日に広島で「文化の夕べ」を、9日には長崎で750人を集めて「虹のひろば」を開催した。一方、被団協は、広島・長崎で、それぞれの原爆記念日に「被爆者・遺族と国民のつどい」を開催し、原爆被爆者援護法の制定を訴えた。また、日本青年団協議会も、6日に広島で平和集会を開催している。なお、長崎では、県被災協・生協連など市民5団体主催の「市民平和集会」がもたれ、400人の参加が見られた。

[非核自治体運動]

1988年にも60以上の自治体が非核宣言をおこない、宣言自治体総数は約1300となった。非核宣言自治体の宣言後の行動として、東京の町田市・葛飾区、新潟の長岡市、大阪の大東市、福岡の八女市、山口市などが2月から9月にかけて平和都市宣言碑を建立した。大阪の枚方市は、初の試みとして7月25日から3泊4日の広島・長崎ツアー「平和の船」を航行させた。一般公募者1700人から選ばれた市民600人は、船上での記念講演やコンサート、人形劇・平和学校などの催しに参加するとともに、被爆地で原爆被害の実相を学んでいる。このほか、4月に日野市が1億円の平和基金条例を公布した。

非核自治体に関連した動きとしては、非核の政府を求める会(86年に近藤幸正・関屋綾子・宮本顕治などの呼びかけで結成)が、6月21日に東京で第3回総会を開催した。同会は、結成後地方の会づくりに力をそそいできたが、総会までに38都道府県で会の結成をおこなった。

[国内の動き]

日本の反核運動は、これまで8月を中心に繰り広げられてきたが、1988年は、SSDⅢの関係で、5月から6月にかけていくらかの集会がもたれた。5月13日には、原水協などが東京の日比谷の野外音楽堂で「広島・長崎の火5・13集会」を開催した。これは、3月26日に広島・長崎をそれぞれ出発し、全国6コースでリレーされてきた国連に届けるための「火」の終結集会で、2800人が参加した。一方、社会党・総評を中心とするSSDⅢにむけて行動する会は、開会中のSSDⅢに呼応して、6月13日に東京・代々木公園で「平和のひろば」を開いた。約80の団体が出店やパフォーマンスを展開したこの集会には2万3000人が参加した。このほか、宇都宮徳馬を座長とする核軍縮を求める22人委員会が、5月14日に「SSDⅢに向けて、なにができるか」をテーマに、「長崎平和シンポジウム」を開催し、核実験の禁止、非核3原則の堅持、海洋核の軍縮などを求めたアピールを採択した。このほかに、日教組婦人部などが、5月17日から22日にかけて、広島と東京において、「反核・軍縮、地球をまもる女たちの集会」を、12か国からの海外代表をまじえて開催するなど 、多彩な行事が展開されている。

原爆記念日前後には、原水協・原水禁あるいは生協といった大規模な組織による集会とは別に、コンサートなど若者を巻き込んだ行事や職能別の反核団体によるさまざまな行事が、継続的にもたれるようになっている。申楽乃座は、6日に大阪で、4回目の「反核・平和のための能と狂言の夕べ」を上演した。被爆地でも、5日に山本コータローらが広島で、また、6日にはさだまさしが長崎で、それぞれ「ヒロシマ88平和コンサート」とコンサート「長崎から・1988・夏・さだまさし」を開催した。いずれも昨年から始まったものであるが、広島では5000人、長崎では2万人の入場者があった。

[海外での反核の動き]

3月11日から10日間、アメリカの平和団体「ネバダ平和実験」(APT)が中心となってネバダ核実験抗議行動が展開された。12日には、5000人が集会を開き、実験場内に突入して1200人の逮捕者を出している。5月には、ギリシアの「平和の10日間行動」で8万人が行進をおこなった。また、6月25日、地中海の島国マルタ共和国では、3万人が決起し、港を船で封鎖、イギリス核艦船の寄港を阻止した。

こうした大衆動員の行動以外に、SSDⅢに合わせて、パグウォッシュ会議と核戦争防止国際医師会議(IPPNW)が、それぞれニューヨークとモントリオール(カナダ)で開催された。

原水爆禁止世界大会に 関する覚書

「原水爆禁止世界大会に関する覚書」(『広島県史研究』第8号 1983年)

内容

 

タイトル
はじめに
1 世界大会の継続開催
表1 世界大会の開催地・参加者数(第1~9回)
表2 世界大会の日程
表3 新しい潮流による大会開催状況
表4 原水禁3団体による大会の開催地・参加者数(昭和39~51年)
表5 統一大会の開催地・参加者数
2 大会の課題
表6 第1回大会の分科会における代表の発言内容
表7 各大会の正式名(昭和30~38年)
表8 分科会一覧(第2~4回)
表9 大会本会議(総会)における意見発表者
表10 世界大会で採択された宣言・決議・勧告(第1~9回)
表11 原水協・原水禁の大会でとりあげられた主要議題(昭和39~51年)
3 大会の基盤(国民運動性・大衆性・国際性)
表12 平和行進の概要
表13 平和行進歓迎集会の概要
表14 原水協大会・統一大会の平和行進の概要
表15 原水協による大会内外での対外活動
表16 統一大会に参加したアメリカ代表の所属団体一覧
表17 各大会に厳守・議長などがメッセージを寄せた国一覧
おわりに
付記 大会関係資料の収集に当たっては、北西允・佐久間澄・竹内武・藤居平一・三宅登・宮崎安男の各氏、および平和会館。平和親善センター・日本原水協の各機関のご協力を得ました。末尾ながら、記して謝意を表します。

はじめに

昭和29年3月1日のビキ二水爆被災事件を直接の契機として生まれた日本の原水爆禁止運動は、今日まで絶えることなく展開されている。昭和30年以降毎年8月6日に前後して開催される原水爆禁止世界大会は、各年の運動の頂点に位置するものであった。各大会は、マスコミにより大きく取りあげられ、各方面からさまざまな論評が加えられている。また、これまでにも、この運動に関する著書がいくつか出版されてきた。今堀誠二『原水爆禁止運動』(潮出版社 昭和49年)は、第1回から第10回までの大会への参加記をまとめたものであるが、同時にこの間の大会の分析を通して日本における原水爆禁止運動の特質の解明を試みた書ということができる。熊倉啓安『原水爆禁止運動』(労働教育センター 昭和53年)は、原水爆禁止日本協議会の指導的立場からの、また伊藤茂(編著)『平和運動と統一戦線―原水禁運動の歴史と
展望-(増補版)』(ありえす書房 昭和50年)は、原水爆禁止国民会議の指導的立場からの運動の一つの総括である。また、岩垂弘『核兵器廃絶のうねり―ドキュメント原水禁運動-』(連合出版、昭和57年)は、昭和52年以降の統一大会に関する詳細な報告書である。しかし、これらの著書は、いずれも対象とする時期が限定されたり、分裂した運動の一方の立場に立った総括であり、日本で30年近くにわたって展開されてきた原水爆禁止運動の全体を対象としたものではない。一般的に、大会が分裂して開かれた昭和39年から51年までの期間の運動の意義は、分裂した大会の一方の当事者によっては無視され、第三者からは、両者ともに極めて不当に軽視されている。また、運動の総括は、しばしば、
分裂の責任あるいは運動の正統性に集中する傾向があり、そのことは運動の実態の把握を困難なものとしている。
本稿は、原水爆禁止世界大会の分析を対象とするものであるが、大会の論議に立ち入ることは意識的に避け、主としてその形式的側面からのアプローチを試みた。また、大会が分裂していることにではなく、大会が分裂してではあれ開催されつづけてきたことを重視する立場をとった。こうした方法によって明らかにできる日本の原水爆禁止運動の性格や意義は、おのずと限られたものであろう。本稿の意図は、すでに28回を数える大会を、大会の継続開催、大会の課題、大会の基盤という三点から整理し、今後の運動の本格的な分析に資そうとするものである。

「被爆体験」の展開

「被爆体験」の展開――原水爆禁止世界大会の宣言・決議を素材として(『芸備地方史研究 140・141合併号』、芸備地方史研究、19830531)

内容

はじめに
原水爆禁止と被爆者救援
第1図 第1回大会宣言における原水爆禁徒と原爆被害の関連
運動分裂後の展開
2-1 原水爆被害者
第1表 宣言・決議(1955~62年の大会)に現れた原水爆被害者の用例
第2表 宣言・決議(1963~76年の大会)に現れた原水爆被害者の用例
2-2 原爆投下責任の追求
第2図 第14回大会における原水爆禁止と原爆被害の関連
第3表 大会決議の標題にみえる救援と援護法
2-3 「被爆体験」の新展開
第4表 大会宣言・決議に現れた原水爆被害者(被爆者およびABCCなど被爆者関連機関・制度を除く)
おわりに
第3図 原爆手記の掲載書・誌数と手記数の年次別変遷(『原爆被災資料総目録第3集』原爆被災資料広島研究会、1972年 より作成)
第5表 原爆手記の掲載書・誌数と手記数の発行主体別変遷

はじめに

「被爆体験」を原爆被害の組織化と思想化を契機に形成される社会的体験としてとらえるならば<1>、ビキニ水爆被災事件は、その全国的展開の出発点であった。1954年3月以降国会をはじめ全国の議会で採択された決議や全国各地で展開された署名運動は、そのほとんどが水爆実験禁止ではなく原水爆禁止を訴えていた<2>。また、1955年8月に開催された第1回原水爆禁止世界大会は、原水爆被害者救援運動を原水爆禁止運動と密接不可分のものとして位置づけた。こうした中で原爆被爆者自身による原爆被害の組織化と組織化か急速に進んだ。たとえば、広島県内の原爆被害者の組織状況をみると、1955年5月頃には約300名(原爆被害者の会々員数)ほどであったが、56年2月には「数個の団体、二千名程度」となり、同年一一月には「一七郡市及び広島市(12団体)約2万名」が組織されている。こうした55年5月から11月にかけての原爆被害者の組織化の急速な発展は、原水爆禁止運動の力によるものであった<3>。一方、広島県原爆被害者団体協議会の結成(1956年5月27日)につながる広島県原爆被害者大会(56年3月18日)および日本被団協の結成総会となった原水爆被害者全国大会(56年8月10日)の決議は、その第一項でそれぞれ「原・水爆禁止運動を促進しよう」、「原水爆とその実験を禁止する国際協定を結ばせよう」と述べていた。これは、原爆被害者レベルでの「被爆体験」が原水爆禁止と密接に結合していることか示すものである。原水爆禁止運動は、一方で、原爆被害者の「被爆体験」形成の契機になるとともに、原爆被害者の「被爆体験」を核にしながら、独自の「被爆体験」を発展させていく。本稿の課題は、原水爆禁
止世界大会の宣言・決議を素材として、日本における原水爆禁止運動の中で展開された「被爆体験」をあとづけることである<4>。なお、1977年以降の統一大会および独自大会は、本稿の対象としなかった。

<1>拙稿「日本における原水爆禁止運動の前提-『被爆体験』の検討-」(『日本史研究』236 1982年)。
<2>拙稿「日本における原水爆禁止運動の出発一1954年の署名運動を中心に―」 (広島大学平和科学研究センター『広島平和科学5』1982年)。
<3>「原爆医療法の成立」(『広島大学原爆放射能医学研究所
年報』23号 1982年)。
<4> 被爆者問題については、田沼肇『原爆被爆者問題』(新日本出版社 1971年)、伊東壮『被爆の思想と運動』(新評論 1975年)の労作がある。また拙稿「原水爆禁止世界大会に
関する覚書」(『広島県史研究』第8号 1983年)は、日本の原水爆禁止運動を大会の形式的側面から検討したものであり、これを総論とすれば、本稿はその各論に当たる。

 

原水爆禁止署名運動の意義

「日本における原水爆禁止運動の出発~1954年の署名運動を中心に~」(『広島平和科学5』広島大学平和科学研究センター、1982)

目次
はじめに
1 原水爆禁止決議
2 原水爆禁止運動の開始
3 県(区・市)民運動の展開
4 原水爆禁止署名運動全国協議会
5 原水爆禁止署名運動の意義

 

5.原水爆禁止署名運動の意義

最後に,署名運動の意義について,いくつかの側面から検討しておきたい。

第1は,ストックホルム・アピール支持署名運動との関係についてである。周知のように,ストックホルム・アピールは,1950年3月15-19日にストックホルムで開かれた平和擁護世界大会委員会で採択されたものである。原子兵器の使用禁止を求めるこのアピールは,全世界で5億余,日本でも645方の支持著名を得るという成果をあげた(1)。この運動の「経験と蓄積」が,「大衆的原水禁運動の発展に大いに役立った」ことは(2)、本稿の署名運動の展開のところで見たように,平和団体の署名運動における先駆性などに現われている。しかし,1954-55年の署名運動は,ストックホルム・アピール支持署名運動か,そのまま単純に拡大・展開したものではない。次表は,ストックホルム・アピール支持署名の各県別集計と,1955年8月の各県別署名数を比較したものであるが,この限りでは、両者に相関関係はみられない。

1950年署名数と1954年署名数の対人口比率の比較
(但し,いずれかの署名が20%6を超えるもの)

①1950年 ②1954年
秋田 5.5 21.2
東京 12.3 40.8
長野 8.4 39.5
富山 5.3 22.9
福井 1.0 28.6
京都 24.3 16.9
大阪 20.6 27.0
島根 3.2 38.8
広島 7.1 47.4
山口 3.2 44.3
高知 3.8 22.1
大分 4.1 24.0

注1.対人口比は,①は,1950年,②は,1955年の国勢調査より求めた。
注2.出典は.①は,岩波書店『日本資本主義講座』第9巻,97頁,②は,「1955年8月4日現在署名数全国集計」である。

一方,次表は,1955年県別に集計されたもので.県(市区町村)名を冠し,各行政区域の総人口の10%以上を集めた団体についてまとめたものである。

各種団体の署名数の対人口比率状況

(但し,10%以上のものに限る)

区分 10%台 20%台 30%台 40%以上
県レベル 原水禁団体
平和団体
婦人団体
その他
19
市区町村
レベル
原水禁団体 26 45
自治体・議会
平和団体
婦人団体
その他
13 10 35 66

出典:「1955年8月4日現在署名数全国集計」

このうち,県レベルで平和団体と分類しているのは,宮城県平和懇談会(10.5%),神奈川県平和評議会(13.3%),三重県平和懇談会(12.6%)、京都平和センター(12.9%),愛媛県平和連絡会議(10.2%),平和擁護大分県委員会(22.4%)の6団体である。これらは,京都を除き,いずれもストックホルム・アピール支持署名数を超えてはいるものの,大きな割合で署名を集めることには成功していない。また,市区町村レベルでみると,地域の署名運動の主要な担い手が,主に原水禁団体と自治体・議会であることがわかる。1954-55年の署名運動は,ストックホルム・アピール支持署名運動では見られなかった新しい担い手によっても進められたのである。

第2は,1954-55年の署名運動における平和団体・労働団体など既存の組織と新たに生まれた原水禁団体との関係についてである。前掲の表から.全国団体と各県の割合を比較すれば,次表のようになる。

全署名数に占める全国団体と各県の署名数の割合

全国団体 各県
1954年10月5日 59% 41%
1954年11月22日 49 51
1955年8月4日 45 55

 

これは、既存の諸団体と原水禁団体との割合をそのまま反映するものではない。たとえば,長野県において県民運動を展開した長野憲法擁護連合の署名数,および宮城・神奈川・三重・京都・愛媛・大分の各県のように,それぞれの県の署名数にほぼ等しい平和団体の署名数が,各県の集計に加えられているのである。これらの署名数を各県から全国団体に移せば.全署名数に占める全国団体の署名数の割合は.もっと大きなものとなろう。

しかし,こうした点を無視しても,全国団体の署名数は,1955年8月時点で,全署名数の約45%を占めている。このことは,憲法擁護国民連合・総評・平和擁護日本委員会といった全国団体が,1954-55年の署名運動で重要な役割を果したことを示すものである。

なお,前表からは,署名運動の展開の中で全国団体と各県集計の割合が変化していることがわかる。つまり,全国団体は,低下傾向にあるのに対し,各県は増加傾向を示している。日本の原水爆禁止運動は,これまで,「下から」ということに、その特徴なり意義が見出されてきた。つまり,それまでの戦後の民主運動や民主組織が,「上から」組織されてきたのに対し,原水爆禁止運動は,「下から」組織化されだというのである(3)。しかし,これまでの分析をもとに考えるならば,日本の原水爆禁止運動の特徴と意義は,「上から」のみでなく,「下から」の組織化の力も相伴って出発し,「下から」の組織化の力が,署名運動を通じて強化されていったことにこそ,求められるべきであろう(4)。

第3は,1955年8月の原水爆禁止世界大会と関連してである。安井郁は,世界大会の開会総会における経過報告の中で,署名運動の発展を総括し,つぎの3段階にわけている。

(1)1954年4月~7月 自然的な地方的運動
(2)~同年12月 全国的運動の段階
(3)1955年1月~ 世界的運動の段階

そして,彼は,世界大会を「過去一年全国民的な規模でおこなわれてきた原水爆禁止運動の総結集」であると表現した(5)。これは,1954年5月に発足した水爆禁止署名運動杉並協議会の議長,同年8月に発足した原水爆禁止署名運動全国協議会の事務局長を歴任し,また1955年1月19日の世界平和評議会理事会拡大会議に参加し,ウィーン・アピール採択に立ち会った安井郁としてみれば,ごく自然な総括である(6)。しかし,これを各地域で考えるならば,必ずしも普遍的ではなかった。たとえば,広島では,全国協議会が発足した時期に,ほぼ署名運動を終了していた。1954年8月6日の広島平和大会は,「全県下にわたって行われた原水爆禁止に関する各地の大会・署名運動の総括」の場として開催されたのであった(7)。そして,9月7日に新たに発足した原水爆禁止運動広島協議会は,すでに,国際分野の運動方針として,原爆10周年に世界大会を開催することを決定している(8)。

一方,広島とは逆に,世界大会までに,県民の10%の署名も得ていない県は24もあった。これらの県も原水爆禁止世界大会に代表を送っているが,これらの県にとっての原水爆禁止世界大会のもつ意味は,杉並や広島とは異なるものであった筈である。

1955年の原水爆禁止世界大会は,署名運動の展開からみて,以上のようにさまざまな段階にある地力組織の参加によって開催されたのである。これらの地方組織の大会前後の動向の分析は,日本の原水爆禁止運動の歩みを語るとき,重要な柱となるべきものであろう。

1)日本平和委員会編『平和運動20年運動史』395頁(大月書店、1969年)。
2)同前書99頁。
3)同前書101頁。
4)参考までに,世界大会のための準備資金の拠出割合を,大会の準備段階の状況として、また世界大会参加者の割合を,大会時の状況として考えるなら,県(地方)の占める割合は,署名段階55.5%→大会準備段階70.5%→大会時86.1%と変化して,全国団体(中央団体)に対する優位を確立している。原水爆禁止世界大会日本準備会「8・6世界大会準備ニュース」NO.4,1955年10月10日。
5)原水爆禁止世界大会日本準備会『原爆許すまじ-原水爆禁止世界大会の記録』6~7頁(1955年)。
6)安井郁の原水禁運動とのかかわりについては,前掲『民衆と平和』が詳しい。
7)原爆・水爆禁止広島県民運動連絡本部の1954年8月3日付案内状。
8)「原水爆禁止運動広島協議会経過報告-1954.9.7の新発足から1955.1.29の声明まで」。