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原爆被爆者対策前史資料集(1945年~1953年)はしがき

原爆被爆者対策前史資料集(1945年~1953年)
1997年2月
平成6-8年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(2))研究成果報告書(課題番号06610313)
原爆被爆者対策史の基礎的研究
研究代表者 宇吹暁(広島大学原爆放射能医学研究所)

はしがき
被爆50周年を迎え、行政・被爆者・被爆者団体などの間で、被爆50年の歩みをたどり、その意味を考える多くの試みが叢出した。例えば、厚生省は、広島・長崎両市に原爆死没者追悼平和祈念館の建設を進めており、その作業の一環として原爆資料の所在確認作業を行ってきた。広島・長崎両市は、それぞれ行政史(『被爆50周年広島市原爆被爆援護行政史』、『長崎原爆被爆50年史』)をまとめた。また、全国各地の被爆者や被爆者団体は、体験記や団体史・個人史を発行している。国際的にも、アメリカ・スミソニアン協会の被爆資料展示問題をめぐり、日米両国を中心に、さまざまな論議が巻き起こった。
本研究の目的は、広島大学原医研国際放射線情報センターの所蔵する原爆被爆者対策関係資料の整理を行うとともに、行政諸機関や各地の被爆者団体の資料の収集を行い、日本の原爆被爆者対策の歩みを、資料に基づいて跡づけることであった。今回、情報センター所蔵資料の整理とともに、以上の動向の中に現れた様々な歴史資料の所在の確認と整理にも力を注いだ。
原爆手記については、情報センター所蔵のものに、広島・長崎・東京・福岡・山口の各都県にある公共機関・被爆者団体所蔵のものを加え、掲載書誌3542件の目録を作成することができた。
当初、本研究のまとめとして、戦後50年間の歩みを示す基本資料の目録と年表の作成を考えていた。しかし、作業を進めるにつれ、大量の資料が存在し、それらの整理のためには膨大な時間を必要とすることが明かとなったので、時代を追って作業を進めることとした。今回、紹介するは、広島・長崎の被爆から被爆者問題が国民的課題として登場する契機となったビキニ水爆被災事件の発生にいたる(1945年8月から1953年まで)の資料である。
この時期の基本資料の多くは、『広島原爆医療史』、『広島原爆戦災誌』、『長崎原爆戦災誌』、『広島県史・原爆資料編』、『広島新史・資料編』などの形でまとめられている。本書では、原則として、これらに収録されたものは取り上げず、これらを補う形で構成しようとした。本書で、地元広島・長崎の医師会が原爆障害者治療に取り組み契機となった「原爆乙女」の治療などを取り上げていないのは、前述の既刊のもの以上の資料を今回発掘できなかったためである。
本書は、7部建てであるが、各部において、それなりのストーリー性を持たせるよう心掛けた。時期的には、1.原爆開発・投下にいたるまで(Ⅰ)、2.被爆直後(Ⅱ、Ⅲ)、3.占領期(Ⅳ)、4.講和条約発効前後(Ⅴ、Ⅵ)の4つの柱からなっており、これに被爆から1953年までの原爆犠牲者の追悼に関わる資料(Ⅶ)と年表(Ⅷ)を加えている。
Ⅰ(原爆開発・投下問題)に関する資料は、これまでアメリカの歴史研究者によってなされた様々な成果がすでに紹介されている。ここでは、主にその概要を示す資料と邦訳された基本文献を紹介した。これらの資料や文献に基づいて資料を収集することは、今後の課題として残っている。
Ⅱ(原爆被害をめぐる日米の対立)では、70年生物不毛説の基本資料を収録した。この説は、日本の戦争指導層による原爆被害の政治的利用の契機となるとともに、日本の学者による総合的な原爆被害調査の端緒となったものである。日本政府の政治的利用の実態やそれに対するアメリカ側の反応も併せて紹介したが、このような形で体系的に紹介されるのは、今回が始めてと思われる。
Ⅲ(被爆直後の救援と調査)・Ⅳ(占領期の原爆問題)に関する資料は、『広島原爆戦災誌』など前述の文献の中で体系的に紹介されているので、ここでは、これらに収録されていないものを中心に収録した。
Ⅴ(調査・研究・治療の再開)は、現在広島市公文書館で保管されている都築正男旧蔵資料を中心に構成した。これらの多くは、以前に広島大学原医研付属原爆被災学術資料センター(国際放射線情報センターの前身)発行の『資料調査通信』に紹介したことがある。
Ⅵ(講和条約発効前後の原爆問題)では、法政大学大原社会問題研究所など多様な機関・団体がなどが所蔵する社会運動資料によって構成した。今後の発掘作業により、なお多くの資料が期待される分野である。
Ⅶ(原爆犠牲者の追悼)に関する資料は、これまでにも様々な形で紹介されているので、基本的な資料のみを収録した。
Ⅷ(年表1951-1958年)は、中国新聞の情報に長崎のローカル紙(『長崎日日新聞』・『長崎民友』)や全国紙および生資料による情報を加えて作成したものである。
資料の収録に当たって、つぎのような方針をとっている。
1.読みやすくするため、一部、旧字を新字に、漢数字を算用数字に直した。
2.判読不能の部分には、「*」を付した。
3.編者の注は[ ]で示した。
なお、資料の収集に当たり、広島県立文書館・広島市公文書館・宮川裕行氏をはじめ多くの機関・個人の協力を得た。また、資料の整理にあたり、安藤幸子・小林知子・宇吹健の各氏の手をわずらわせた。末尾ながら記して謝意を表したい。[以下略]

原爆被爆者対策前史資料集(1945年~1953年)目次

原爆被爆者対策前史資料集(1945年~1953年)
1997年2月
平成6-8年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(2))研究成果報告書(課題番号06610313)
原爆被爆者対策史の基礎的研究
研究代表者 宇吹暁(広島大学原爆放射能医学研究所)

目次

Ⅰ.原爆開発・投下問題 1- 19
【資料1】原爆投下に関するアーノルド将軍用メモ
【資料2】原爆投下命令書
【資料3】マンハッタン・プロジェクトのプレス・リリーズ(PRESS RELEASE)一覧
【資料4】原子力開発の主要事件
【資料5】マンハッタン・プロジェクトに関する基本資料一覧
【資料6】原子力発展年表
【資料7】米陸軍の公的歴史書『マンハッタン:陸軍と原爆』
【文献】原爆開発・投下問題(邦文)

Ⅱ.原爆被害をめぐる日米の対立 20- 44
1.アメリカにおける70年生物不毛説報道
【資料1】WASHINGTON POST(ワシントン・ポスト)紙の報道
【資料2】WASHINGTON POST(ワシントン・ポスト)紙の報道
【資料3】WASHINGTON POST(ワシントン・ポスト)紙の報道
【資料4】NEW YORK TIMES(ニューヨーク・タイムズ)紙の報道
2.日本の反応
【資料5】広島市爆撃問題に対する反響
【資料6】日本政府の原爆攻撃に対する抗議
【資料7】NEW YORK TIMESに見る日本の原爆報道
【資料8】外国人記者の現地報道
3.外務省による海外の反響の収集
【資料9】ベルン情報
【資料10】ストックホルム情報
【資料11】ベルン情報
【資料12】リスボン情報
【資料13】ストックホルム情報
【資料14】リスボン情報
【資料15】リスボン情報
4.アメリカの反応
【資料16】マンハッタン・プロジェクト調査団ファーレル団長の声明
【資料17】アメリカ軍が入手した日本政府の動向
5.原爆報道に関する規制
【資料18】GHQの言論指令「言論及び新聞の自由」
【資料19】朝日新聞24時間発行停止の指令
【資料20】GHQの言論指令「新聞規則」

Ⅲ.被爆直後の救援と調査 45- 75
1.日本軍の動向
【資料1】中国軍管区の救援・復旧命令
【資料2】広島空襲被害報告
【資料3】第一復員省大屋中佐の原爆被害報告
【資料4】『本土作戦記録・第二総軍』
【資料】米軍捕虜名簿(原爆犠牲者)
[参考資料]米兵捕虜の遺族の手紙
【資料6】『広島市戦災処理の概要』
【資料7】軍の調査報告一覧 1945年
2.政府・県・市の動向
政府
【資料8】政府の新型爆弾対策委員会
広島県
【資料9】竹内喜三郎(豊田地方事務所長)日記
広島市
【資料10】広島市の被害に関する言上書(案)
【資料11】災害後の食糧配給事情
【資料12】学校の罹災状況
【資料13】比治山迷児収容所概要
3.学術調査
【資料14】都築正男の原爆被害調査
【資料15】原爆被害の総合調査を求める声(1)
【資料16】原爆被害の総合調査を求める声(2)
【資料17】『朝日新聞』社説「被害調査も科学的なれ」[抄]
【資料18】広島市の原子爆弾被害状況調査依頼
4.米軍・合同調査団・ABCCの動向
【資料19】マンハッタン調査団
【資料20】原爆被害の長期研究計画に関するオーターソン・メモ
【資料21】戦略爆撃調査団報告書一覧(原爆関係分)
【資料22】被爆者の長期研究に関する大統領指令
【資料23】ABCC調査調査要領
【資料23】厚生省予防衛生研究所のABCCへの協力
【文献】被爆直後の救援・調査

Ⅳ.占領期の原爆問題 76- 127
1.外交文書の中の原爆被害
【資料1】占領軍の新聞発表(PRESS RELEASE)記事目録(原爆関係)
【資料2】中国連絡調整事務局報告の中の原爆被害
2.平和祭・文化祭
【資料3】広島市の平和復興祭
【資料4】広島市の平和祭構想
【資料5】広島市の第1回平和祭
【資料6】ノーモア・ヒロシマズ=谷本清牧師の訴え
【資料7】広島市の第2回平和祭
【資料8】広島市の慰霊式・平和記念式典
【資料9】広島・長崎両市の平和宣言
3.被爆者援護の構想
【資料10】桑原市男「新広島建設要綱[抄]」
【資料11】渡辺滋「広島市の復興計画案[抄]」
【資料12】模範社会事業都市建設に関する請願
【資料13】谷本清のヒロシマ・ピース・センター構想[抄]
4.原爆孤児救済
【資料14】広島戦災児育成所要覧[抄]
【資料15】相生農場建設計画書[抄]
5.原爆被害(者)の調査
【資料16】労働省婦人少年局長崎出張所の被害者調査
【資料17】広島市の原爆関係資料提供依頼
【資料18】広島市の原爆関係資料提供依頼
【資料19】長崎市原爆資料保存委員会の活動
6.平和擁護運動の中の原爆被害
【資料20】平和擁護東京大会での大田洋子の発言[抄]
【資料21】『アカハタ』(日本共産党機関紙)の中の原爆被害(者)
【資料22】『平和の斗士』(アカハタ中国総局)の中の原爆被害(者)
【資料23】『民族の星』の中の原爆被害
7.原爆手記の出版
【資料24】小倉豊文『絶後の記録』
【資料25】永井隆『長崎の鐘』
【資料26】永井隆ブーム
【資料27】日本基督教青年会同盟『天よりの大いなる声』[抄]
【資料28】衣川舜子『ひろしま』
【資料29】マッカーサー元帥への衣川舜子の手紙
【資料30】吉川清『平和のともしび-原爆第一号患者の手記』
【資料31】広島市民生局社会教育課編『原爆体験記』
8.原爆被害に基づくさまざまな動向
【資料32】徳川義親の原爆被害観[抄]
【資料33】アメリカ人記者の質問への東久迩宮首相返書[抄]
【資料34】東久迩宮首相返書へのアメリカの反応[抄]
【資料35】広島市の戦災復興とGHQ
【資料36】長田新らの文化都市建設構想
【資料37】天皇「ヒロシマ巡幸」
【資料38】羅府新報(米ロスアンゼルスの邦字新聞)記事目録(原爆被害関係)
【資料39】婦人民主クラブ『婦人民主新聞』記事(原爆被害関係)

Ⅴ.調査・研究・治療の再開 128-146
1.都築正男資料にみる文部省原子爆弾災害調査研究班の発足
【資料1】科学研究費交付金総合研究計画調書草稿
【資料2】原子爆弾災害調査研究班班員名簿
【資料3】都築正男「原子爆弾災害調査研究班に就て」
【資料4】広島医科大学の原爆調査研究課題
【資料5】長崎医科大学の原爆調査研究課題
【資料6】研究連絡打合会に関するメモ
【資料7】研究連絡打合会についての都築正男の総括
【資料8】『昭和28年度文部省総合研究報告集録(医学及び薬学編)』[抜粋]
【資料9】都築正男略歴
2.原爆障害者治療対策協議会
【資料10】広島市原爆障害者治療対策協議会『原爆障害者治療対策の概要』[抄]
【資料11】長崎原爆傷害者治療対策協議会結成準備打合会
3.厚生省原爆症調査研究協議会
【資料12】原爆症調査研究協議会の設置
【資料13】原子爆弾後障害症治療指針

Ⅵ.講和条約発効前後の原爆問題  147-177
1.戦傷病者戦没者遺族等援護法
【資料1】広島市原爆犠牲者遺族援護に関する陳情書
【資料2】広島市における原爆犠牲者遺族の援護に関する請願
【資料3】広島、長崎両市における原爆犠牲者遺族の援護に関する請願
【資料4】原爆犠牲者年金等要求について原爆死没者援護に関する陳情経過
【資料5】戦傷病者戦没者遺族等援護法案をめぐる国会論議[抄]
【資料6】広島市の戦没者遺家族援護
【資料7】長崎市の遺族援護状況
【資料8】旧軍人の府県別原爆死亡者数
2.原爆裁判の提訴
【資料9】日本国との平和条約[抄]
岡本尚一弁護士の提起
【資料10】『原爆民訴或問』[抄]
【資料11】岡本尚一「米国に原爆の損害賠償を求む」[抄]
原爆裁判提起への反響
【資料12】原爆民訴提唱及びその反響
【資料13】アメリカの反応
【資料14】ニューヨク・タイムズの報道
【資料15】日本の反応
3.原爆被害者の会
【資料16】原爆第1号吉川清の試み
【資料17】原爆被害者の会設立の経緯
【資料18】原爆被害者の会会則
【資料19】中野懇談会の被爆者招請
【資料20】原爆裁判への対応
4.国民各層と原爆被害
【資料21】京都大学文学部学友会『原爆体験記』
【資料22】宮川裕行の日記[抄]
【資料23】原爆展への干渉・介入
【資料24】広島・長崎両原爆都市建設特別委員会の論議
【資料25】「原爆の詩」収集に関する依頼
【資料26】映画「原爆の子」製作への協力依頼
【資料27】映画「原爆の子」への原爆友の会の批判
【資料28】第4回広島・長崎青年交歓会
【資料29】子供を守る会の原爆孤児調査
【資料30】全面講和愛国運動協議会機関紙の中の原爆被害(者)

Ⅶ.原爆犠牲者の追悼  178-186
1.原爆犠牲者への追悼文
【資料1】広島県農業会長弔辞
【資料2】修道中学校生徒代表弔辞
【資料3】永井隆原子爆弾死者合同葬弔辞
【資料4】永井隆浦上合同慰霊祭祭詞
【資料5】広島市立原爆遺族会代表弔辞
2.原爆犠牲者追悼碑の碑文
【資料6】広島市立第一高等女学校慰霊碑
【資料7】中国配電株式会社弔魂塔
【資料8】広島女子高等師範学校・附属山中高女・県立第一高女殉国学徒慰霊碑
【資料9】原爆供養塔
【資料10】広島平和都市記念碑碑文
[参考資料]<英文>
[参考資料]パール博士の碑文批判[抄]
[参考資料]雑賀忠義(碑文作成者)の考え[抄]
【資料11】広島市の原爆死没者調査趣意書
3.広島・長崎両市の平和宣言
【資料12】1951年・広島
【資料13】1951年・長崎
【資料14】1952・長崎
【資料15】1952年・長崎
【資料16】1953年・広島
【資料17】1953年・長崎

Ⅷ.年表 1951-1958年  187-221

原子放射能基礎医学研究施設設立について

原子放射能基礎医学研究施設設立について
『広島大学原子放射能基礎医学研究施設年報 第1号 昭和35年』
原子放射能基礎医学研究施設設立について
広大医学部長 渡辺 漸
広島大学医学部原子放射能基礎医学研究施設が正式に成立したのは昭和33年4月1日であり,その実際的の発足は同年秋となったが,その成立に至るまでの経過の概略に就て述べたい.
我々の医学部の前身であった県立広島医科大学では放射線医学の重要性を河石学長が強調されアイソトープ委員会もすでに昭和28年には構成され、アイソトープ研究室も広の附属病院構内に同じ頃に新築されたのであって,我が原基研の前身はすでにこの頃出来たと言ってもよかろう.しかし具体的に放射能医学生物学研究所の構想が出来たのは昭和29年の春,我々の医学部が国立に移管した翌年の事であった.この年の3月にビキニ水爆実験に伴う福龍丸の放射l能灰の被曝があって放射能の人体に及ぼす影響に就てにわかに世人の関心が高くなって来た時期である.
昭和30年度の概算要求に広大放射能生物学研究所の設立案を提出しようではないかとの考えが医学部内で強〈なり,それは理学部の協力が必要であるとの理由で、昭和29年6月3日の午後3時30分から阿賀の医学部会議室で当時の藤原理学部長,川村智治郎教授,品川睦明教授の3名を招き,当方からは河石学部長,浦城教授,沖野事務長と私の4名が出席して会合を開いたのがそもそもの初めてある.その時には研究所の設立だけでなく,広大放射能研究委員会の創設の案も席上の話題となった.この時に出来上って30年度の概算要求として提出された案は総経費479,000,000円(初年度151,000,000円)3ケ年完成の計画であって,基礎的研究,生物学的研究及び医学的研究の3部が更に13の部門に分れており,その各々に教授1,助教授1,助手3,その他66名、合計131名の職員があると言うので,当分は現在の霞町の医学部の建物の中に一棟を当てるが、将来は大学隣接地に鉄筋4層1900坪の建物を約2億円で新営するとの規模宏大な案であったが、文部省の省議も通過し得なかった.
その翌年即ち昭和30年には昭和31年度の新規概算要求として広大放射線基礎医学研究所としての案を提出したがこれは前年度に比べて可成規模が大きくなり,総予算733,700,000円(初年度148,000,000円)であって,物理,化学,生物,遺伝,診断,治療,障害の7研究部があり,これが更に17室に分れておるので,多くの研究部は2~3の研究室から構成されている.職員mp前年度要求よりは増えて165名となっているが,助教授を各研究室に置いたので17名とし,雇員、傭人の数を増しているのがその主なものである.建物は初めから新営として2590坪の鉄筋となっておるが,初年度の人員の要求を前年の73人に比して25人と縮少したのが目立つ点であった。然しこの案も結局は日の目を,見ずに終わった.
当時文部省はそれ自体として放射能生物学医学研究所を設立したい希望があり,その構想は大体我々が立案したものに近かいようであるとの情報があったが.厚生省もまた類似の構想を持ち他の省にも似たような希望があつたのだが各省で各々こうした同じような研究所を持つ事はよくないと言うので結局は科学技術庁直属の現在の放医研の誕生を見るに至ったと言う風に伝えられている.現在の放医研の物理,化学,生物,生理病理,障害基礎,環境衛生,臨床の7研究部23研究室の機構が我々の当初の案に甚だ似ておる点を見ても我々の構想が決して単なる空想でなかった事はよく分ると思う.こうした経緯で放射線の生物学医学研究所は恐らくは放医研だけに絞ぽられて行くであろうと言う見通しが強くなったので,当初の研究所と言う構想を我々は捨てて昭和32年度の概算要求には医学部原子放射能基礎医学研究施設として,予算61,700,000円、教授5,助教授5,助手12,その他10,合計32人で,生理学,病理学,生化学,薬理学及び細菌学の5部門に分れ,霞町の現在の校舎の一棟260坪を補修して使用する計画を樹てたが,完成は3年である点は以前と変りない.この案 は可成り本省でも注目されたが結局は翌年に持ち越さざるを得なかった.
斯くして昭和33年度の新規概算要求として総経費51,700,000円,2部門計17名の職員から成る計画が出来て,それが昭和33年度に1部門だけ認められ,更に昭和34年度に更に他の1部門が承認されて,一応計画の完成となったのである.この間大学院設置の要求などがあり,本研究施設の要求を第一義的に考えて行く事が出来ず,絶えず大きな困難に直面していたのであったが,本省側のたえざる好意と森戸学長以下大学当局の絶大の援助と,また他学部からの熱烈な支持があったからこそ今日の成果を収め得たのであり,また顧みて,歴代学部長以下我が医学部の関係職員の多年に亘る労苦を忘れることは出来ないのである.この機会に河石,西丸,鈴木の元学部長,及び田淵昭教授及び小山豪教授の名を特に挙げてその多年の尽力に対して感謝の意を表したい.
しかし我々多年の要望は本研究施設の成立によって充たされたわけではないので,一昨年春以来,理学部,工学部及び水畜産学部の関係の方々とも数回に亘り会合して意見の交換を行った結果,広島大学に原子核放射能研究所の実現を計ると言う点で一致した結論に到達した.それが為にはすでに発足した本施設を育成しつつこれを発展拡張せしめ次第に所期の目的に到達するのが適当であるとの意見が多かった.従って我々は今後たゆまざる努力と熱情とを以って一歩一歩所期の目的に近づいて行きたいのであって,かくてこそ本研究施設の成立の意義も充分にあるものと考えられる.

長崎市原爆資料保存委員会の活動(1949年4月11日~)

(1949年4月11日~53年5月30日)

[メモ]『原爆資料保存委員会経過報告』(長崎市原爆資料保存委員会、1959)]をもとに構成した。

昭和24. 4.11 第1回原爆資料保存委員会設立協議会

       [協議事項]

        1.会則の説明、並一部改正の件

        2.委員の委嘱の件

        3.資料収集の周知の件

        4.写真展の開催の件

        5.原爆地の実地調査の件

       [経過]414日現地調査を実施。

昭和24. 4.14 第2回原爆資料保存委員会

       [協議事項]

        1.火の見台(外人墓地)、石鳥居(山王神社)、石像(浦上天主堂)、 石門(城山小)、水タンク(けい浦学校)、ベッド(マリヤ学院)、 等の資料を平和公園に移す件                 

       [経過]給水タンク昭和25年2月平和公園に移転

昭和24. 5. 6  第2回原爆資料保存委員会

        原爆資料館の開設を決議

昭和24. 5.13 第3回原爆資料保存委員会

       [協議事項]

        1.原爆火傷者の写真撮影の件

        2.資料館大型資料配置の件

        3.寄捨箱設置の件

        4.資料館に花壇設置の件

        5.絵画買上の件

昭和24. 5.13 第4回原爆資料保存委員会

       [協議事項]

        1.被爆樹木を平和公園に移植する件

        2.被爆植物の影響統計表作成の件

        3.文化会館設置の件

       [経過]被爆枯木を昭和25年3月平和公園に移転

昭和24.12. 9 原爆資料保存委員会現地調査

       [協議事項]

        1.原爆資料館の視察調査(資料の展示方法、展示資料の整備)

        2.浦上天主堂を視察

       [経過]浦上天主堂に廃きょを資料として保存するよう申入れる

昭和25. 6.29 第1回原爆資料保存委員会

       [協議事項]

        1.資料を学術的に科学的に収集する

        2.浦上天主堂・山王神社・紡績会社跡・医大その他10ケ所の原爆材指定の件

        3.委員会規則の整備

       [経過]7月に委員会規則を改正、改正に伴い委員を委嘱

昭和25. 7.24 第2回原爆資料保存常任委員会

       [協議事項]原爆中心塔の件

昭和25. 8.17 第3回原爆資料保存委員会

       [協議事項]

        1.原爆中心塔建設の件

        2.パノラマ製作の件

        3.農産物に対する影響研究発表(古野氏)

        4.原爆資料被災者状況記録収集の件

昭和26. 3.28 原爆資料保存委員会現地調査

       [協議事項]文化会館建設用地視察

昭和26. 8. 3 第1回原爆資料保存委員会

       [協議事項]浦上天主堂の壊壁保存の件

昭和26. 9.18 第2回原爆資料保存委員会

       [協議事項]浦上天主堂残存物保存の件

昭和26.12.25 第3回原爆資料保存委員会

       [協議事項]如己堂保存の件

昭和28. 1.14 第1回原爆資料保存委員会

       [協議事項]原爆娘治療の件

昭和28. 1.20 第2回原爆資料保存小委員会

       [協議事項]

        1.原爆の図の作成の件

        2.被爆者の体験記保存の件

        3.パノラマ作製の件

        4.天主堂さく作製の件[ママ]

        5.傷害者写真保存の件

        6.治療対象者範囲拡大の件

        7.26日の現地調査の件

        8.委員長広島派遣の件

昭和28. 1.26 原爆資料保存委員会現地調査

昭和28. 3. 7 第3回原爆資料保存委員会臨時総会

       [協議事項]

        1.28年度に於ける事業計画の件

        2.委員長広島視察報告の件

昭和28. 5.30 第4回原爆資料保存委員会

       [協議事項]

        1.スライド並模型製作の件

        2.原爆図絵製作の件

        3.「長崎原爆被害概況」パンフレット出版の件

        4.長岡省吾氏招聘の件

        5.ABCC田中直氏委員会嘱託推薦の件

        6.浦上天主堂廃きょ保存の件

        7.資料館新設の件

       [経過]

        1.8月スライド長岡氏によって作製さる。36カット2本。

        2.29年3月、丸木・赤松夫妻共同作2枚屏風式100000円

        3.7月パンフレット「原爆の長崎」10000部発刊

        4.6月に招聘

[以下略]