「05 原爆被災資料」カテゴリーアーカイブ

原子爆弾後障害研究会一覧

原子爆弾後障害研究会一覧

 

第回 年月日 開催場所 備考
1959.06.13-14 広島市平和記念館 挨拶・経過報告など
1960.11.19-20 長崎大学医学部
1961.11.22-23 広島市平和記念館
1962.11.08 長崎大学医学部
1963.11.10 広島市平和記念館
1964.11.08 長崎大学医学部
1965.10.16-17 広島市見真講堂
1967.11.12 長崎大学医学部
1968.10.13 広島原爆被爆者福祉センター
10 1969.06.28 長崎県医師会館
11 1970.06.07 広島県医師会館
12 1971.06.13 広島医師会館
13 1972.06.04 長崎市医師会館
14 1973.06.03 広島医師会館
15 1974.06.02 長崎大学医学部
16 1975.06.08 広島医師会館
17 1976.06.06 長崎市医師会館
18 1977.06.12 広島医師会館
19 1978.06.04 長崎市医師会館
20 1979.06.10 広島医師会館
21 1980.06.01 長崎市医師会館
22 1981.05.31 広島医師会館
23 1982.06.06 長崎市医師会館
24 1983.06.05 広島医師会館
25 1984.06.03 長崎市医師会館
26 1985.06.02 広島医師会館
27 1986.06.08 長崎市医師会館
28 1987.06.07 広島医師会館
29 1988.06.12 長崎市医師会館
30 1989.06.04 広島医師会館
31 1990.06.03 長崎市医師会館 宇吹報告
32 1991.06.02 広島市総合健康センター 宇吹報告
33 1992.06.07 長崎市医師会館
34 1993.06.06 広島国際会議場 宇吹報告
35 1994.06.05 長崎市医師会館
36 1995.05.28 広島国際会議場
37 1996.06.02 長崎県医師会館 パネル討論
38 1997.06.01 広島国際会議場 橋爪報告
39 1998.06.07 長崎原爆資料館

出典:広島原爆障害対策協議会『原子爆弾後障害研究会講演集総索引(1959年~1998年)-第40回原子爆弾後障害研究会記念』

原爆被害の調査研究

 

団体 テーマ・報告書など 備考
日本教育学会 「平和の呼びかけ」 1951年5月
長田新 「平和のための教育」研究 1951年4月-『原爆の子』
京都大学同学会 「わだつみの声にこたえる全学文化祭」 1951年5月、「原爆展」と「原爆に関する講演会」
国際医師会議日本準備会 「原子爆弾症に関する日本医師有志の見解」 1951年9月15日、結成。1952年9月にイタリアで開催予定の会議は中止。53年5月にオーストリア・ ウィーンで開催。
日本心理学会 1952年4月3日、第14回大会に際し、
アメリカの心理学者に送る
「平和のアピール」への署名を大会参加者にもとめる。
1952年、「広島原爆被爆影響調査に協力することとなり古賀、戸川、宮城各理事が交渉に あたることになった」(日本心理学会編『日本心理学会50年史(第2部)』(金子書房、1987)
平和と学問を守る大学人の会 研究論集『原爆と広島』(1954年12月刊) (1953年2月21日発足)久保良敏・中野清一・森滝市郎・大原三八雄
世界平和集会広島世話人会 『8時15分-原爆広島10年の記録』(1955年1月) (1954年10月6日発足)
原水爆禁止世界大会広島準備会 『原爆被害資料』その1-3 (1955年8月)
広島県地域婦人団体連絡協議会 『原爆被害者実態調査結果表』 (1955年8月)
原水爆禁止広島協議会 『原爆被害者実態調査報告』 (1956年8月)
原水爆禁止広島協議会 『原爆被害者実態調査報告Ⅱ』 (1957年?)
日本原水爆被害者団体協議会 『原爆被害の実相と被害者の苦しみ』 (1959年8月)
日本原水協専門委員会 『原水爆被害白書-隠された真実』 (日本評論新社、1961年7月)
東京都・多摩被爆者団体連絡協会 1960年調査
平和のための心理学者懇談会 『平和心理学のいぶき』
(京都・法政出版、1990)

原水爆白書作成運動

 

1964.10.03 談和会、原爆被災白書作成のアピールをまとめる。
1974.04 広島大学原医研に原爆被災学術資料センター設置。

 

平和教育・平和研究・被爆体験継承運動

 

年月日 動向
67.夏 – 広島女学院大学「講座:8・6の意味するもの」
*小黒薫編『ヒロシマの意味』(日本評論社、1973年)
67.10 広島平和文化センター、設置。
68.02 原爆被災資料広島研究会、発足。
68. 原爆文献を読む会(東京、長岡弘芳)。
68.? 長崎の証言の会、発足。
72.06 広島平和教育研究所、設立。
73.09 日本平和学会、設立。
75.02.10-04.14 原爆体験を伝える会「連続・核セミナー」
*原爆体験を伝える会編『原爆から原発まで(上)・(下)』(アグネ、1975)
75.11.08 医療ソーシャルワーカー「交流会」(広島)
広島原爆被害者問題ケースワーカー懇談会、発足。(その後、広島原爆被害者問題研究会)。
77.07-08. NGO「被爆の実相とその後遺・被爆者の実情に関する国際シンポジウム」
一般調査を実施した県=41都道府県
第1次集計を行った県=35都道府県(1977年7月15日現在)、7741人。
81.06.13 原爆被害者相談員の会、発足。
81.11.26-11.28 日本学術会議ほか「シンポジウム:核戦争の危機と人類の生存」
83.02 長崎平和推進協会設置
83.06.17-10. ほるぷ出版「『日本の原爆文学』刊行記念連続講演会」
83.10.22- 長崎「原爆問題」研究普及協議会「原爆問題シンポジウム」
90.04.07- 日本被団協「被爆者問題研究会」
原爆被害報告書-広島の大学関係者を中心にまとめられたもの-

 

発行
年月日
調査組織 テーマ・報告書など
1954.12 平和と学問を守る大学人の会 研究論集『原爆と広島』
1955.01 世界平和集会広島世話人会 『8時15分-原爆広島10年の記録』(1955年1月)
0956.08 原水爆禁止広島協議会 『原爆被害者実態調査報告』
1957. 原水爆禁止広島協議会 『原爆被害者実態調査報告Ⅱ』
1959.08.06 日本原水爆被害者団体協議会 『原爆被害の実相と被害者の苦しみ』
1961.07.31 日本原水協専門委員会 『原水爆被害白書-隠された真実』(日本評論新社)

 

原爆被害の調査研究(広島大学を除く大学関係)
研究者 所属 テーマ 調査年月日 調査対象など
川合隆男・米山桂三・原田勝弘 慶応大学 被爆地広島にみる社会変動 1964年-
隅谷三喜男 東京大学 厚生省原子爆弾被爆者実態調査・事例調査 1965年
中鉢正美 慶応大学 厚生省原子爆弾被爆者実態調査・事例調査 1965年
石田忠 一橋大学 厚生省原子爆弾被爆者実態調査・事例調査 1965年
石田忠・浜谷正晴・栗原淑江 一橋大学 被爆者の生活史調査 1967年- 長崎被爆者
青木秀男・牛草英晴・深沢建次・江嶋修作・春日耕夫 広島修道大学 広島市における「被爆体験」の社会統合機能をめぐる一研究 1976年
大阪都市圏における被爆者の意識と行動 1977年

スミソニアン特別展への広島市の対応

「米国スミソニアン協会・国立航空宇宙博物館における特別展の開催に伴う主要な経緯について」[広島市資料]

[広島市資料]

年 月 日 内容
1993.04.05 航空宇宙博物館のハーウィット館長とクローチ航空学部長が来広し、市長を表敬訪問するとともに資料館を見学し、引き続き、広島市側(平和記念資料館、平和記念館、(財)広島平和文化センター)との協議を行った。
その後、ハーウィット館長とクローチ部長は長崎市を訪問した。
05.31 同館のクローチ航空学部長と特別展担当学芸員等が来広し、広島市側と協議を行った。
07.17  展示計画書(英文)を受領した。
その後、翻訳を行い、その内容について検討を重ねるとともに、疑問点について博物館側に質問するなどの協議を行った。
その後、長崎市を訪問した。
10.22  特別展に貸出しを希望する資料リストを受領した。
11.30  特別展に広島市から資料を貸し出すことを決定した。
1994.09.23  米国上院議会が「原爆を投下したエノラ・ゲイは第2次世界大戦を慈悲深く終わらせるのに役立ち、目米両国民の命を救った。展示が、自由のために命を捧げた人々の記憶を非難し、攻撃すべきでない。」との決議を採択した。
10.20  上記の決議の採択に対し、米国上院議長あてに書簡を提出した。
11.18  展示台本を受領した。
12.21  「米国スミソニアン協会航空宇宙博物館の特別展について意見を伺う会」を開催した。
1995.01.20  米国在郷軍人協会が、博物館に展示の中止を申し入れた。
01.26  米国下院議員が、スミソニアン協会にハーウィット航空宇宙博物館長の辞任を要求した。上院では、公聴会の開催が要求された。
01.30  スミソニアン協会が評議員会を開催し、特別展の規模を縮小し、広島・長崎の被爆資料等の展示を行わないことを決定した。
01.31  市長あてスミソニアン協会ヘイマン事務局長及びハーウィット航空宇宙博物館長より、特別展の計画を中止する旨の書簡が届いた。
書簡の届いた旨の記者発表を行い、あわせて市長コメントを出した。

スミソニアン原爆展示論争

スミソニアン原爆展示論争

スミソニアン協会航空宇宙博物館は、原爆投下50周年を記念して、「クロスロード-第2次世界大戦の終結、原子爆弾、そして冷戦の始まり」との名称で特別企画展を開催しようとした。この企画は、広島への原爆投下機エノラ・ゲイと併せて広島・長崎の被爆資料を展示し、アメリカ国民の間に根強く定着している「原爆投下の正当性」を問い直そうとする野心的な試みであった。
1994年3月、シナリオの概要が明らかになると、アメリカ国内では退役軍人協会を中心に、この企画に反対する動きが起こった。こうした動きは、同年9月には上院が全会一致で同博物館に企画の修正を求める決議をおこなうまでに発展した。結局今年1月にスミソニアン協会が、エノラ・ゲイを中心とした展示への変更を決め、被爆資料の展示は取りやめとなった。さらに、5月には航空宇宙博物館館長が、責任を取る形で辞任している。
日本側では、被爆資料を広島への原爆投下機「エノラ・ゲイ」と一緒に展示するという初めての試みに、大きな関心を寄せていた。マスコミは、この一連の経緯を大きく取り上げるとともに、展示内容についても詳細に報道した。
広島・長崎両市は、スミソニアン協会が両市に被爆資料の貸出を要請したことから、この問題への対応をせまられた。両市は、即座に貸出の結論を出すことは避け、スミソニアン側と展示シナリオの内容や貸出条件をめぐり協議する一方で、市民の意見の聴取をおこなった。広島市の場合、1994年12月と95年2月の2回、平和記念資料館(通称=原爆資料館)の被爆資料貸出をめぐり「市民の意見を伺う会」を開いている。市民の間には、当初、貸出に消極的な意見も見られた。その主な理由は、被爆資料が原爆投下の正当化ないし原爆の威力誇示のために利用される結果となることが心配されたからであった。
スミソニアンの企画展示をめぐる論議の中で強調されたことは、原爆投下をめぐる日米の歴史認識の溝の大きさであった。
しかし、このことが明らかになったのは、今回が始めてではない。1991年の真珠湾攻撃50周年に関連した動きは記憶に新しい。当時、日米のマスコミの多くが、原爆投下に関する世論調査を行った。その一つである共同通信社の日米同時世論調査の結果では、「戦争の早期終結のため、やむを得なかったと思う」は、日本=15%、アメリカ=64%、「あの段階では必要なかったと思う」は、日本=8%、アメリカ=10%、「いかなる状況においても、原爆の投下は許されないと思う」は、日本=76%、アメリカ=22%という結果であった(『中国新聞』1991年11月25日)。
ブッシュ米大統領が同年の12月1日に「原爆投下への謝罪の必要はない、真珠湾も過去のこと」と発言したことに対し、日本側から強い反発が起こった。 1995年にも、これと同じようなことが起こった。本島長崎市長の東京・外国人記者クラブでの講演の中での「原爆の使用はユダヤ人大虐殺(ホロコースト)と並ぶ、人類が犯した20世紀最大の罪」との発言(1995年3月15日)やクリントン米大統領の原爆投下は正当だったとの発言(4月7日、18日)が、日米両国のマスコミで大きく報じられ、大きな波紋を呼び起こした。
1994年から95年にかけてのこれら一連の動きは、一見1991年の繰り返しのように見える。しかし、今回には、1991年には見ることのできなかった新しい動きを確認することができる。アメリカ側では、歴史研究者の多くが、この問題についてつぎつぎと見解を表明した。このことは、原爆投下をめぐる歴史認識の溝が、日米間の問題にとどまらず、アメリカ国内の問題でもあることを明らかにするものであった。
一方の日本側では、原爆投下問題のみでなく被爆資料に対する関心の高まりも見られた。アメリカの退役軍人の中から弁当箱や衣服など被爆者の遺品の展示に対する強い拒否反応が示されたが、このことは、遺品が観覧者に与えるインパクトの大きさを改めて認識させるものであった。
広島市は、スミソニアン協会への資料貸出をめぐり展示シナリオの詳細な検討をおこなった。私は、これに参加しスミソニアン側から送られてきた展示シナリオに目を通す機会に恵まれたが、それは、いわば展示予定の一つ一つの資料について、日米の見解の相違を確認する作業であった。
結果的には、スミソニアン協会航空宇宙博物館における被爆資料展示は中止となった。しかし、アメリカ国内の歴史認識の溝が初めて広範に論議され、日米間の溝が事実に即して検討されたことは、原爆投下を歴史の文脈に位置づけるための貴重な第一歩となった。これを契機に、アメリカでは、原爆投下をテーマとしたシンポジウムが、また日本側では、アメリカ国内での独自の原爆資料展が開催されている。

 

原爆資料および情報ネットワーク委員会経緯(宇吹メモ)

原爆資料および情報ネットワーク委員会経緯(宇吹メモ)

1991年

06 17 *(中国)より電話。慰霊施設について調べるため長崎に行く。7月に広島でこじんまりと話し合える場を持ちたい。考えておいて欲しい。
08 02 *広島市原対課長より電話。慰霊施設との関連で市内の諸機関所蔵の原爆資料が把握したい。援護課長を行かせる。
09 25 *(中国新聞デ-タベース部)来所。瀬戸内図書館連絡協議会委員の就任依頼。今年度中に3回ほど会議を開催の予定。パソコンネットワークについて3時過ぎまで話す。中国新聞のデ-タベースのモニターになることを勧められる。
10 04 厚生省の原爆慰霊施設検討にかかわる関係者、9人来所。手帳・病理標本・電算室・資料調査室を案内。電算室については、*が説明。放影研との違いを強調。
12 06 スウェインに慰霊施設や国際放射線被曝者医療推進協議会の動きを知らせる。岩波の原爆被災白書が今入手できないことを話すと驚いていた。
12 17 *より電話。慰霊施設検討委員会が動向の問い合わせ。放影研が原爆資料の一元化をめざしていることへの危ぐ。

1992年

01 13 *の情報=午後、放影研でHICAREと慰霊施設の合同会議。夕方、厚生省の医療保健局長が来所、*が応対予定。
01 16 *来室。藤居のこと(中国夕刊)、慰霊施設の委員会(17日長崎で会議)のことを話す。宇吹の感想=どういう態度をとればよいのか、頭が痛い。
01 24 *より電話。爆心地復元地図、NHKのものを使用してよいか。慰霊施設の動向にについて一度詳しく意見交換したい。
03 02 *来室。放影研の「原爆資料および情報ネットワーク委員会報告書(案)」を持参。1時間ほど話す。*=情報が一か所で見ることができるようになることは望ましい。宇吹=上下関係のあるネットワークシステムはうまくゆかない、対等のものにすべき。
03 03 *(不在)へ放射線影響研究所の「平成3年度原爆資料および情報ネットワーク委員会報告書」(案)への意見を渡す。新施設が「既設の機関の総合的機能を果たす」という意志表示は、貴重であるが、表に出すべきものではない。結果としてそうなるよう努力すべき。
04 21 原爆被災建物等継承方策検討委員会。-5時10分。*と隣合わせ。会議の進行のメチャクチャに対する文句を私にヒソヒソ言う。厚生省の慰霊施設の委員は股裂きになるので降りたとのこと。広島市としては、国がやろうとしていることに文句は付けられない。
05 24 *・*と酔心で昼食。*に慰霊施設が出来た場合、移れれば行く気持ちがあるかどうか聞く。
06 02 *(中国)より電話。「90反核」日本評論社より出版。1500冊(1冊2500円)を引き取ることが条件。慰霊施設の動向について聞かれる。彼の話では厚生省と広島市が全く意志疎通がうまくいってない模様。広島市衛生局長の評価が低い。
06 18 厚生省企画課長補佐来所。-3時。*応対。宇吹関わらず。慰霊施設関係で資料集めが目的とのこと。
06 24 *と話す。*より放影研の「ネットワーク小委員会」で民博などへ行くよう(7月10日?)に言われた由。
07 01 *に電話。慰霊施設に対する市のその後の動きを聞くが、何もない由。
07 02 *より電話。午後2時に来所。国際平和シンポジウムへのレクチュア依頼。慰霊施設関係の情報サービス小委員会の委員になったとのこと。また、原爆資料館に学芸員がいないことはおかしい。外部で指摘して欲しいとのこと。今後の講師候補に*の名前を挙げておく。
07 09 *(中国)来所。広島のあら捜しの取材。慰霊事業委員会で上坂冬子が全原爆死没者デ-タベースの作成を提案し、厚生省はそれを受けたとのこと。慰霊施設は、放影研とは別の建物を考えている模様。HICAREは一緒。秦野の作成した新聞記事デ-タベースの話をする。
07 14 *(中国)より電話。「ヒロシマはどう伝えられているか」の書評を宇都宮の軍縮問題資料に書いて欲しい。断わる。慰霊施設についての情報を交換。16日、炭谷企画課長が広島市に乗り込む由。
07 27 広島関係資料小委員会・長崎関係資料小委員会・情報サービス検討小委員会合同会議。-16時半。於広島厚生年金会館4階牡丹の間。座長小松隆二。個人的立場から、一元的ネットワークに反対の意見を述べる。情報サービスの中心はレファレンスであり電算化でカバーしきれない
07 31 慰霊施設「被爆者対策小委員会」。於放影研。-4時半。4時に中座。約2時間、「原爆被爆者対策史編集方針案」を説明。編集長・小委員会委員を引き受ける。
08 19 *(庶務)にネットワーク委員会のデ-タベースに関するアンケート調査を渡す。
08 28 宇吹が核被害情報が重要と発言したら、*(放影研)が、それは慰霊施設でやっているから、平和問題を中心にすべきと発言。平和文化センタ-は、平和記念資料館の資料のデ-タベース化は考えている。しかし、市公文書館の資料は、同館が独自に計画。
09 09 *に話す=コンピュ-タ-ネットワークは、技術者をいくら集めても答えは決まっている。問題は、何を入力するかだ。平和文化センタ-は、田原資料を中心にすればよい。
10 27 原爆資料および情報ネットワーク委員会・拡大委員会。於メルパルク5階。-5時半。5時過ぎより参加。11月8-14日、22-28日(*・*・*)アメリカ諸機関視察。炭谷厚生省企画課長は、被爆体験継承に熱意のあることは、伝わってきた。
10 27 ネットワーク委員会懇親会。長崎*の話=友の会は、長崎の諸悪の根元。*長崎市原対部長=平和記念式典の資料は、古くから残っている。伊藤達也長崎国際文化会館館長=資料の公開に尽力したい。原爆被爆地域の部落問題。
10 28 *日本医療情報センタ-常務理事(ネットワーク委員会)、*日本総合技術研究所取締役部長、*同主任研究員来所。新聞記事デ-タベースの紹介をするとともに、ネットワーク委員会をめぐる広島動向を話す。主に放影研批判。
12 03 *が広島の状況が知りたいというのでネットワーク委員会の話を中心に話す。-2時半。資料センタ-の仕事との関連を心配する。「諸君!」の中国新聞の内紛に興味を持っていた。被爆者数に関連して広島市の被爆者動態調査が取り上げられていたのを喜ぶ。
12 09 原爆資料および情報ネットワーク委員会デ-タバンク小委員会。於放射線影響研究所C211会議室。-4時30分。山中高女の死没者調査の様子を報告し、あいまいな情報から捜せるという機能が必要性を強調。データバンクに何が期待されているか。この2点について発言。

1993年

01 06 *より電話。*よりFAXが届いた。年賀状に予算がついたことの礼が書いてあったので、問い合わせたところ、中性子発生装置の3年度で、新たに予算がついた訳ではなかった。慰霊施設の中間報告が届いた。伊東壮は山梨大学の学長。
01 08 *=*資料について。公的資料を私物化している可能性。放影研が中心になって進めているネットワーク委員会の動向についての意見。宇吹=被爆者対策小委員会の委員として報告。
01 13 慰霊施設の中間報告が吉沢康雄名で委託事務局より届く。*がコピー。
01 30 立命館大学国際平和ミュージアム。一通り見終ったところで山辺昌彦と会う。館長室で話をする。途中、*課長が加わる。厚生省援護局・広島県・市平和記念資料館が見学に来たとのこと。援護局も慰霊施設の建設を計画していることを初めて知る。県は、被服廠の保存策について日本開発銀行に調査を依頼。
02 05 第4回デ-タバンク検討小委員会。於日本薬学会長井記念ホール1階会議室B。*の話=この事業は4年計画。平成6年度で一句切り。ソフトを形にして貰わないと、金を何に使ったのかということになる。事務局設置問題は、次の段階で考えるべきこと。慰霊施設は被爆50周年には間に合わない。早くて4年後。
02 05 宇吹=広島市の動態調査を貰うことを前提にしているがそれが大問題。原医研ABSも作成者としては出したくないだろう。靖国・川崎・立命館・大阪の資料館を見てきた。いずれも長い期間の資料収集の成果。今日のソフトだけが慰霊施設開館時の成果とすればオソマツ。
02 09 広島市平和に関するデ-タベース構築検討委員会(第3回)。於国際会議場3階研修室。宇吹の発言=1.それぞれ自機関が所有する資料の電子化の原則。2.死没者名簿を是非入力してほしい。3.ネットワーク使用を無料というのは非現実的。
02 11 藤居より自宅に電話。エソが出来たが、自宅で治療。中間報告(慰霊施設)を*と*に送った。*への連絡を頼む=*が今後どうのようにしたいのか。歴史をどうまとめてゆくか、日本被団協あるいは広島県被団協にもどるかどうか。今考えている。
02 28 藤居より自宅に電話。被団協の慰霊施設についてのシンポジウムが赤旗に掲載されていたかどうか。
03 03 藤居銘木より速達が届く。被団協の慰霊施設シンポジウムに関する資料。2時半、藤居より電話。自分は読んでいないが、よく読んでおくようにとのこと。
03 04 *=被爆者対策資料の補助者の謝金、12日の厚生記者会来所の件。被団協の慰霊施設シンポジウムへの意見書を貸す。
03 04 *の話=慰霊施設の中間報告は5~6月にずれそう。長崎は個別弔慰を要求するので断わったが、広島では、平和文化センタ-へという意見が出ている。慰霊施設と吉沢班の関係が良くわからない。川本原爆資料館館長は3月末で退官。
03 05 ネットワーク委員会被爆者対策小委員会。於長崎厚生年金会館2階雲仙・松の間。宇吹説明。被爆者対策の定義が問題になる。*=1.行政施策、2.その裏付けになった実態調査、3.その行政はどう評価されたか。*=法律や通知に基づかない施策も多い。
03 05 *の話=加藤は3月で定年。慰霊施設を広島と長崎のどちらが先に造るか今綱引きをしている。
03 08 *に、「被団協」新聞の慰霊施設シンポの記事をファックスで藤居銘木に送るよう依頼。
03 23 第3回原爆資料および情報ネットワーク委員会・拡大委員会。於広島ガーデンパレス2階白鳥の間。-5時。*の原爆資料の量の調査が必要との発言を受けて、原医研原爆文献デ-タベースの件数が約5000件で4.5メガバイトであることを紹介。
03 23 原爆資料および情報ネットワーク委員会懇談会。*=スミソニアンには困っている。*=長崎市医師会は原爆問題(IPPNWも含めて)に積極的だが、県医師会はそっぽを向いている。
03 25 原爆後障害研究会抄録原稿完成。*に原対協へ持参して貰うよう依頼。ついでに、23日のネットワーク委員会の模様を報告。
04 05 藤居より資料がファックスで届く。日本被団協の慰霊施設についての見解。
04 12 学内科研報告書を*に2部(含ネットワーク委員会事務局用)渡す。
04 14 *より電話。原医研デ-タベースがネットワーク化されているかどうかの問い合わせ。これからの課題と回答。
04 21 内科より電話。28日のネットワーク委員会デ-タベース小委員会に蔵本の代理で出席して欲しい。
06 03 *事務長来室。資料の返却。ネットワーク委員会、広島市のデータベース構築検討委員会、慰霊施設の中間報告を新たに貸す。学内科研報告書を1部贈呈。
06 29 ネットワーク委員会データバンク検討小委員会システム設計準備ワーキンググループ(第1回)。於広島・放影研C-211。-5時。*に資料目録のフローッピーを渡す。*の話=*が慰霊施設の委員になった。運営は、平和文化センターになりそう。
08 17 *より電話。27日に国会図書館に行けなくなった。被爆者対策小委員会(9月22OR24日)・ネットワーク委員会(10月8日)の連絡。
08 24 ネットワーク委員会国会図書館調査。16時15分、館内呼び出し。総務課へ行き*(機械化室長)に会う。中国新聞の*より電話があった由。*の部屋から*に電話。コンピュ-タ-関係の講演を依頼される(9月16日、11月18日、1月20日、3月17日)
08 25 国会図書館。10時過ぎ、*と*が来る。*から協力を依頼されていた様子。4時半、3人で館内の喫茶店で話す。*がネットワーク委員会のアメリカ調査を誉める。イギリス調査の話が出る。第102回国会まで終了。
09 02 藤居より電話。吾妻鏡総索引の話。村上との生活保護論争の時、著者の及川儀衛門も同席した。及川は認定被爆者。総索引が20数冊あった。宇吹が1冊持っておいて欲しい。石井勲が紙碑と言っていた。慰霊施設が出来たら、森田省三の骨とともに納めたい。
09 10 *(平和文化センター)から、「平和の推進」最新版(校正中)の新しいデータを貰う。*の話=原医研の改組は、厚生省の慰霊施設を取り込むためのものか?
09 22 ネットワーク委員会被爆者対策小委員会。於放射線影響研究所(広島)講堂。-4時半。*広島市衛生局長、気分が悪いとのことですぐに中座。宇吹=国会議事録索引の説明。吉沢=今年度中に報告書をまとめ、最終年度の来年は、一般から意見が聴取できるようにしたい。
10 07 広島国際会議場着。*の話=埼玉県平和館・川崎市平和館を見学してきた。来年の平和記念館開館時に、平和館の会合を開く予定。大久島は加えたくない様子。立命館はすでに大阪と連携。宇吹=原爆・戦災を基準にネットワーク化を進めてはどうか。
10 08 原爆資料および情報ネットワーク委員会(拡大委員会)平成5年度第1回会議。於広島ガーデンパレス2階孔雀の間。-5時半。*=慰霊施設関係の会議は7月・9月に会合。あと2-3回会議を持って結論。場所が決まらないので予算要求が難しい。
10 08 ネットワーク委員会懇親会。*に国会会議録の詰めの作業への協力を依頼。*に長崎側の被団協資料の調査を依頼。12日に具体的な要望をファックスで入れること。*の話=どこかの施設に合設して終わりということを恐れる。
10 08 *の話=1月に*副委員長が団長で海外調査予定。あと2-3人が随行。*の話=慰霊施設が修学旅行を対象に考えるのはナンセンス。*は昨晩帰国。気分が悪いということでIPPNWの記者会見だけすませて、この会議は欠席。
12 09 *より電話。3月28日にネットワーク委員会を開催。
12 28 国会議事一覧のネットワーク委員会提出用原稿を資料センターのプリンターで打ち出す。

1994年

01 14 *(中国)より電話。今朝の共同配信の記事について。厚生省をプッシュする必要は無いか。あまり意味は無い、ネットワーク委員会の海外調査でやっている、と回答。
02 07 原爆資料および情報ネットワーク委員会被爆者対策資料小委員会。於放射線影響研究所講堂。-5時。5時半、ステーション・ホテルの料理屋で懇親会。*が元気が無いように見える。*と*の間もうまくいっていない様子。
03 01 *の話=慰霊施設がレストハウスでは、狭すぎはしないか。広島市の被爆50周年の行事の新聞報道を見て、お粗末さに驚いた。湯崎の子どもは、通産省に入り、3年間アメリカに行っていた。
03 28 原爆資料および情報ネットワーク委員会(拡大委員会)。於広島ガーデンパレス。厚生省関係者は姿を見せず、盛り上がりに欠けた。休憩中、*に国会会議録の心残りメモを渡す。-5時半。6時-8時、懇親会。*(中国)が取材に来ていた。
05 12 HICAREパネル展担当スタッフ(日当:7900円)とネットワーク委員会被爆者対策小委員(日当:22000円)の就任依頼が届く。
06 16 HNP死亡.DBF作製。ネットワーク委員会の情報サービス小委員会の基礎資料として。
06 27 ネットワーク委員会「情報サービス検討小委員会」のメンバーが原田館長の案内で広島平和記念資料館(東館)見学。現在のところゆったりとしていて、良い。-14時30分。小委員会。-16時30分。於東館地下会議室。
06 28 放影研のネットワーク委員会事務局で宮川から話を聞く。宮川は昭和30年にABCCに就職、統計関係の仕事をしていた由。調査対象を図示したスライドのコピーを依頼。1950年調査の名簿が提供されたことを示す資料を宮川に渡す。
06 29 *来室。改組の案内発送先一覧を持参。その他の候補を聞かれる。長崎国際文化会館、慰霊施設懇談会関係者、広島大学の記者クラブを挙げる。藤居が日赤に入院したことを伝える。
07 04 *・*(大阪朝日・社会部)来所。-12時30分。特に原爆資料ネットワークについて取材。今日からしばらく広島で取材する予定とのこと。学内科研報告書2部、論文別冊「商用データベースと原爆・被爆情報」を進呈。
07 11 *(放影研)より電話。厚生省に昭和60年度調査の調査票をネットワーク委員会に提供するよう申し入れている。実現すれば整理について協力を依頼したい。
09 06 *(中国)より電話。ネットワーク委員会の各年度の報告書を見せて欲しい。中国新聞社から委員が出ているので、先にそれに当たるよう回答。
09 06 ネットワーク委員会情報サービス小委員会用の「原医研案内」(要覧0.JSW)を作成。
09 12 放影研へ。-11時20分。ネットワーク委員会原稿「広島大学原爆放射能医学研究所」を提出。センターの資料利用規定を欲しいとのこと。DC.DBFの1945-47年分を打ち出したものを渡す。
09 12 *の話=厚生省は、援護法問題で資料に関心は回らない。慰霊施設は早くて平成10年開館という状況。ネットワーク委員会を現状のままで、継続するのではもったいない。どういう方向が望ましいか、長崎の会議までにメモが欲しい。
09 28 ひかり172号広島駅発(*・*・*と)-新大阪11時47分着。旅費9570円。*の話=広島市の原対部調査課では*が慰霊施設担当、自分が援護史の担当とのこと。
09 29 10時、朝日新聞着。午後、*と少し話す。3時過ぎ、斉藤は広島へ。*の話=原爆関係の広島市の施策は来年の市長選挙待ち。慰霊施設は、平和文化センターが委託予定。
10 14 ネットワーク委員会被爆者対策小委員会。於ハーバーイン長崎。-4時20分。宇吹=佐久間澄・森滝市郎・長田新の資料について話し、資料の収集・保存について注意を促す。「被爆者対策資料」の定義について*の見解を質す。
10 31 原爆資料および情報ネットワーク委員会(拡大委員会)。於ガーデンパレス2階孔雀の間。-5時50分。懇親会は欠席し、すぐ帰宅。
10 31 *=教育は広島市が行う。慰霊施設は研究に集中すべきではないか。(私へのつぶやき=広島市は、慰霊施設の合築を断った。慰霊施設の将来は暗いのではないか。)
10 31 *(長崎市)の話(休憩中)=厚生省が慰霊施設の運営を広島・長崎に委託を考えている。腰を引かれると、大きな事業が出来なくなるので困る。伊東壮は、慰霊施設は東京に作るべきとの意見であった。
12 14 *=慰霊施設は、初めは原対協への委託が有力であったが、現在は平和文化センター。*は、委託して欲しいのは山々だが、センターの人的能力に不安を感じており、積極的になれないのではないか。*から英文図書の収集を依頼された。月末に委員会がある。
12 21 宇吹=佐久間・森滝・吉川など被爆者の資料の散逸を恐れている。慰霊施設が、そういう資料の保存機能を持つのならそれで良いが、いまのところ読めない。現在の広島市にこういう機能がない。
12 21 *=慰霊施設を平和文化センターに押しつけようとしているが、私は絶対反対。(宇吹=それでは原対協か)。国自身にやらせなくてはダメだ。

 

1995年

01 12 *(*出版部)来所。宇吹=完成原稿は、2月末締切の原稿を書き上げるまで待って欲しい。「平和教育」と「原爆被害白書」について書き足したい。原爆遺跡保存や慰霊施設をめぐる動きを見ていると、発想が萎縮している。歴史的には「原爆白書」提起は大きな枠組みを持っていた。
02 24 *広島市原対部調査課長=慰霊施設は平和公園内に設置の方向。5-6月に市としての意志決定の予定。公園の建物の規制面積が広がったので、レストハウスを壊さなくても考えられるが、今後どうなるか。地上は制限があり地下2階となるので平成8年度には着工する。
03 08 松林より電話。*の後任の件の連絡。松林の話=慰霊施設は迷惑施設。担当にならないよう願っている。白書の問題は全く進んでいない。
03 27 原爆資料および情報ネットワーク委員会(拡大委員会)。於東京・松本楼。2月24日に欠席の連絡。
04 04 高橋昭博退職挨拶、木村泰三広島平和文化センター事業部長就任挨拶のため来所。高橋は、語り部活動はこれまでどおり続けるつもり、重松から厚生省ネットワーク委員会の小委員は継続してやって欲しいと頼まれたとのこと。
04 21 *(放影研)より電話。慰霊施設の開館時に稼働予定の主要事項解説作成のワーキンググループ(高橋昭博・*・*などを予定)に加わって欲しい。方針が違うという理由で断る。
06 06 *より電話。ネットワーク委員会でセンターの蔵書データベースを試験的にインターネットに乗せたいとの意見があるので、その節にはデータの提供をお願いしたいとのこと。原医研にサーバーを設置しようとの話もあるとのこと。了承。
06 25 NHKスペシャル『沖縄・23万人の碑・戦後50年目の祈り』を見る。「平和の礎(いしじ)」の名簿作成過程に復元調査と同様の方法論を見る。これへの反応を原爆犠牲者慰霊施設の犠牲者名簿作製の参考とする必要がある。
07 05 *よりセンター所蔵文献データベースについての問い合わせ。ネットワーク委員会での作業が進んでいる様子。
07 25 平和会館で図書を購入。*(元*新聞)と会う。ネットワーク委員会の下請けで、解説事項の原稿を書いていた。*から「森滝市郎追悼集」を貰う。
07 25 *の話=高橋昭博は、人の批判を随分したが、本の中では省いた。彼は、事実なのにと言って、不満そうだった。ネットワーク委員会の原稿では、新聞記事は、参考資料に止めざるをえなかった。基本資料に当たる必要性を痛感している。
09 08 *=15日の京大の慰霊祭に出る予定。ネットワーク委員会は、当初の計画は吹き飛び、インターネットのホームページをつくることに集中している。12日に原爆文献データベースのファイルが欲しい。
10 24 広島市公文書館で松林らと話す。中国新聞社と原爆・平和報道50年展の写真についてゴタゴタがあった、午後*が慰霊施設について取材に来た由。*が宮川の日記と体験記集のコピーを撮ってくれる。
11 15 *より電話。共同配信で掲載された陸軍の調査団の報告と笹本のコメントについて。慰霊施設について、「市の決算委員会で取り上げたい」との反響が昨日あった。20日からパリに行く。
11 17 *より電話。慰霊施設について=レストハウス取り壊し計画、建物以外の予算的な裏付けは無い。市長は建物が建つのならそれで良いとの考え。関係者が市長宛に意見を出す必要あり。誰に声をかければ良いか。シラード関係の資料を集めたい。内田恵美子について。
11 17 *より電話。27日の平和部会の案内。*の慰霊施設についての意見を伝える。
11 21 *の話=慰霊施設を平和公園に設置する必然性はない。しかし、それを主張する委員はいない。レストハウス撤去の流れに乗っている。近藤幸四郎は、市政記者の内々の場では、取り壊しに反対はしない、と語っている。
12 04 *の話=松谷訴訟で、厚生省は、まじめに取り組んでいるようには見えず、勝つつもりがない様子。伊東壮は、慰霊施設の委員として何のために出ているのがわからない。役に立っていない。
12 06 *から電話。*が慰霊施設の連載記事で書いていた原水爆白書運動についての問い合わせ。中国新聞のデータベースについての報告書の拙稿を読むように返答。
12 08 *=被団協(伊藤サカエ)は理事会でレストハウスの取り壊しを決議した。*が完全に丸め込まれている。*(文団連、文学資料保存の会)から、慰霊施設について相談、近々会う予定。シンポジウムを開けないか。
12 08 宇吹=慰霊施設への意見は、現状では、追悼の場不要論と修学旅行生受け入れ施設論。広島国際会議場は、貸座敷になっている。これを修学旅行生向けにすれば良い。
12 08 *=慰霊施設問題は、原爆資料館の平和推進の*が担当することに決まった。来年度、広島平和文化センターに担当者を配置するということで話が進んでいる。
12 16 *とセレナーデで話す。広島市の官僚の質の悪さについて=14日の慰霊施設についての意見聴取で、金子がレストハウス取り壊しについて質問、それに対し、原爆資料館長が取り壊しの方針を説明。厚生省は困惑し、議事録から削除。
12 16 *の話=中国新聞社は、完全に報道の方向を見失った。在韓被爆者のビデオ収録に朝日の記者は随行したが、中国はダメ。慰霊施設についての情報を流しても、ありきたりの記事にしか書いていない。
12 20 *の話=レストハウス取り壊しには反対。慰霊施設は不要。これ以上、平和公園に建物は不要。伊藤サカエ・近藤幸四郎はレストハウス不要論。川本一郎は、こまめに資料を残している。竹内武、阿部静子、池田精子、村戸由子。*は、*と元の主人を天秤にかけていた
12 27 *来所。ネットワーク委員会の情報提供小委員会での論議についての批判。*が、頑張っている。*が責任者。石踊と一緒に比治山へ。シンポジウム「21世紀の平和記念公園を考えよう」(案)を持参。-2時半。95年出版物一覧を提供。

1996年

02 06 *・*と話す。二人とも熱心にあれこれ質問。ネットワーク委員会での資料収集について意見を聞かれたが、意見は避ける。平和祈念館で原爆手記を収集したい様子。改めて相談したいとのこと。
02 11 ネットワーク委員会用のレジメ作成。「被爆者対策資料の収集方法について」、「原爆手記掲載文献一覧(1995年発行分)」、「原爆被爆者団体の出版状況」。12日朝、*(放影研)に届ける。
02 14 *より電話。昨日の会議は独演場だったそうだな、と皮肉られる。原爆資料の収集について相談したい由。厚生省とネットワーク委員会の模様を伝える。市長に話を取り次ぐから何かあったら相談するように言われる。
03 25 平成7年度第1回原爆資料および情報ネットワーク委員会(拡大委員会)。於放影研講堂。-5時。間違って終了後の懇親会場である広島ガーデンパレスに行き、25分ほど遅刻。-5時。懇親会は欠席。
04 15 *来室。ネットワーク委員会の「原爆死没者追悼平和祈念館」原爆資料情報案内データベース構築作業グループに加わって欲しいとのこと。断る。
04 19 今朝届いたネットワーク委員会被爆者対策小委員会の議事録(案)の訂正を*(放影研)に連絡。被爆者団体の資料収集の必要性については、良く発言出来ていた。
05 02 *の話=開館時に目玉になるものが無い。*は、体験記を集めると言っている。「祈念館=ごみ箱論」は参考にさせて貰う。平和文化センターは、無くなっても良い。*は、市立大学に換わってもらえば良い。ネットワーク委員会の年間予算は3000万円。
06 27 *(大阪朝日)より自宅に電話。最近平和問題担当になった由。慰霊施設について意見を聞かれる。
07 08 *とネットワーク委員会へのセンターの資料提供・刊本の整理方法について話す。
11 11 *、来室。ネットワーク委員会用に原爆文献データベースの説明が欲しいとのこと。すぐ書いて渡す。
12 04 *(中国新聞)より電話。「生きているヒロシマ」について問い合わせ。ネットワーク委員会について。
12 12 午前中、長崎の会議のためにネットワーク委員会などの資料に目を通す。午後は、インターネットで、原爆関係のホームページを検索。
12 13 原爆資料および情報ネットワーク委員会全体委員会会議。於セントヒル長崎(筑後町4-10、TEL0958-22-2251)。-5時半。冒頭、*が、祈念館の地中化に異議。*が、広島市としては、景観を壊さないとの配慮から、と回答。

1997年

03 17 原爆資料および情報ネットワーク委員会全体会議(最終回)。「孔雀の間」。-16時半。*厚生省課長補佐=手記の収集は広島市に委託(5000万円)。データベース構築は引き続き放影研に依頼する予定(1億3000万円)。
04 17 *の話=今のところ、厚生省との委託契約を結ぶ準備で手一杯。担当者としては、手記を基礎に形あるものにし、その上で手を広げてゆきたい。放影研のネットワーク委のような結果を招きたくない。
06 05 ネットワーク委員会と原爆死没者追悼平和祈念館関係資料の整理。
09 04 *の話=森座長は、追悼平和祈念館=本堂論。原資料の展示を考えておらず、資料の電子化だけ。資料は、原爆資料館にあれば良いとの考え。従って、名称にもミュージアムを採用せず、メモリアル・ホール。*の影響。ネットワーク委員会は、大風呂敷を広げただけ。

1998年

03 13 比治山に上る途中、*(厚生省ネットワーク委員会)と会う。*と会った由。午後2時過ぎ来所。
04 07 *、来所。放影研で*と会った帰り。ネットワーク委員会3億円の成果についての疑問、50周年の厚生省調査結果の分析遅延、広島市立大学の平和研究所などについて話す。厚生省は、昭和40年の調査票などを東京へ送り返せと言っている由。厚生省では、廃棄される虞れ。
04 10 *より電話。ネットワーク委員会の吉沢座長と電話連絡が取れた。2年で終えるつもりが、長引いてしまった、とのこと。
04 16 *より電話。原爆資料ネットワーク委員会の件で、23日に来所とのこと。
04 23 *・*、*放影研ネットワーク委員会)・*、来所。日本総合技術研究所(*)「原爆用語シソーラス作成実施報告書」を基に検討。いくらか参考になりそうな文献を紹介。
12 16 *(放影研ネットワーク委員会)、来室。-4時。シソーラスの途中経過を聞く。若干の打ち出しを貰う。*と一緒に*に地図の件で会ってきた由。厚生省は、ネットワーク委員会の成果を無視、一切話に乗ってこないが、明日、*と一緒に課長と会うとのこと。

 

 

平和記念資料館メルマガ第98号(2011/ 9/ 1)

 

平和記念資料館メルマガ第98号(2011/ 9/ 1

最近、研究過程で作成した過去の資料を整理中、「広島大学原医研新聞切抜きの分類別枚数(1975~81年分)」とのタイトルのデジタルデータを見つけた。そして二つのことを思い出した。

その一つは、私の提案が原因で、「原発」関係の記事の収集が1982年から取りやめとなったことである。1975~81年分の切り抜き枚数総計は、12507枚、うち「核軍事」(3221枚)と「核平和利用」(3083枚)に分類されている枚数の合計は6304枚で全体のほぼ半数を占めている。原爆放射能医学研究所では、原爆被害に関する資料を収集対象としていたので、私には、限りある予算・人員を考えれば、この二つの分類に属する記事収集を中止するのはやむを得ないと主張した。

もう一つは、広島の眼科医・杉本茂憲先生(故人)との出会いである。チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)から2ヶ月あまり後に先生が原医研に来所、この事故関連の新聞記事の閲覧を希望された。要望された資料は収集対象としていないことを伝えると、非常に残念がられた。そして、ヒロシマの蓄積をこの被災者に生かすことはヒロシマの医師の使命と力説されたのである。被爆者医療に情熱を注ぐと同時に、世界にも目を向ける医師の存在に直接触れる ことのできた貴重な体験であった。

       元広島大学原爆放射能医学研究所 宇吹 暁(うぶき さとる)

公的機関・団体の原爆資料(非医学的資料)

公的機関・団体の原爆資料(非医学的資料)
原爆資料の所蔵機関と主な資料
1992年2月17日 広島大学原医研 宇吹 暁
これは、広島県総務部県史編さん室・広島県戦災史編集委員会・広島大学原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センタ-の業務の中で、存在が確認された資料の目録である。調査の期間は、約20年間にわたるので、所蔵場所に変更のある資料が多くあるものと推定される。
広島市内
広島大学原爆放射能医学研究所
志水清資料
原医研2代所長の旧蔵資料。
久保良敏資料
元広島大学教授の原爆被害者の心理学的影響に関する研究資料(調査表など)を含む。
原爆爆心地復元関係資料
地図・調査票・聞き取りテープなど。
原爆原爆医療審議会資料(部外秘)
原医研籍の審議会委員より寄贈を受けたもの。
米国陸軍病理学研究所返還資料(写真)
1973年5月返還。被爆直後の原爆被災写真3973件(医学関係も含む)。
原爆文献
原爆被災記録・体験記・手記を中心とする約9,000件(単行本6,000冊、逐次刊行物7,000冊)。所蔵目録を3冊発行。
新聞切抜き
1967年以降の原爆被爆関係記事を中心とした約12万件。切抜き対象は、1967~73年は主に中国新聞、1974年以降は、中国・朝日・毎日・読売・長崎の5紙。
平和会館資料(複製)
文書綴55件約3,900点、一点資料1 ,300件。
渡辺漸所蔵資料(複製)
原医研初代所長の論文別冊のほか「文部省研究報告集録」・「国連科学委員会報告」を含む約160点。
1981年12月借用。
陸軍軍医学校など『原子爆弾ニ依ル広島戦災医学的調査報告』
山科清より寄贈。
広島地方気象台
当番日誌(昭和20年)
放射線影響研究所
MEDICAL EFFECTS OF ATOMIC BOMBS
合同調査団の調査報告書。
広島県衛生部公衆衛生課
原爆手帳交付申請書綴(昭和32~45年)約8,700人分。
広島県立文書館
原爆関係資料(複製)
『広島県史原爆資料編』(1972年)、『原爆三十年』(1976年)、『広島県戦災史』(1988年)編さんのため収集したもの。広島県民生部援護課
傷病恩給(援護課)
紙箱29冊。「原爆死軍人」、「病床日誌」などの文書を含む。
動員学徒死没者名簿(昭和27年12月)
職域義勇隊死没者名簿
地域義勇隊死没者名簿
広島県警察本部刑事部捜査一課
原爆死亡者イロハ名簿(広島東警察署)
広島県企画部統計課
昭和35年分国勢調査(付広島県長崎県原爆被爆者実態調査翌年繰越分)
広島県議会図書室
広島県議会会議録
広島市衛生局原爆被害対策部
原爆手帳交付申請書綴(昭和32~46年)
約11万8,000点。
広島市立公文書館
都築正男資料
東京帝国大学医学部教授の旧蔵資料。資料の概要は『広島新史資料編Ⅰ都築資料』で知ることができる。
広島市の行政資料および合併町村役場文書
基本的資料は『広島新史』編集に利用された。
広島市秘書室国際交流課
諸外国書簡綴(広島平和協会)
平和宣言に対する諸外国からの返書
広島市平和記念資料館
呉鎮守府調査団資料(神津幸直旧蔵資料
原子爆弾による人的被害及び1か年後の状況調査綴(調査課)
被爆による建物被害状況等調査綴
中国軍管区軍医部衛生速報
広島市立中央図書館
原爆文献
『広島市立図書館蔵広島資料目録』(1979年)。
広島平和文化センタ-
原子爆弾に依る被害状況調査一件(調査課)
原爆関係資料提供依頼(昭和23年1月)についての回答
58の事業所・学校からの回答。
米国戦略爆撃調査団収集資料(複製)
罹災者名簿類
85冊34,703人分。
証言ビデオ
1985年度より毎年50人づつ収録。
原爆文献
『広島平和文化センタ-図書室蔵書目録』(1985年)。
広島原爆障害対策協議会
川田兼三郎文書
原爆投下当時広島県属警部補として県衛生課に勤務していた川田の作成した資料。
新聞切抜き
1950年から1985年の原爆被爆関係記事28,473件。
広島市立広島舟入高等学校
昭和20年8月6日罹災関係経過日誌
似島学園
学園日誌(昭和21年8月26日~)
修道高等学校
昭和20年8月原爆被災記録参考書類
安田女子高等学校
原爆死没者名簿
比治山女子高等学校
教務日誌(昭和20年)
広島県内
廿日市市
戦没者遺族名簿
廿日市市(宮内公民館)
罹災者収容名簿
大竹市
義勇隊学徒隊関係綴
大竹市(玖波支所)
戦災関係参考一件(「集団罹災者名簿」などを含む綴)
呉市
原爆被害者実態調査綴(教育委員会社会教育課 昭和30年)
呉市(郷原支所)
戦災一件(昭和20年)
呉市(警固屋支所
特設警備隊員名簿(昭和20年)
尾道市
原爆被爆者手帳交付台帳
尾道市(医師会
救援医療班編成表
尾道市(福祉事務所)
被爆手帳交付台帳
福山市(山野郷土資料館)
戦没者名簿(山野遺族会  昭和25年)
福山市(福山城)
原爆死没者関係書類綴(昭和27年)
三次市
被爆者調査書綴(被爆者であって手帳の未交付者の調査  昭和43年調査)
庄原市
被爆者健康手帳交付申請書交付台帳
府中市
被爆者健康手帳申請書綴(昭和40年5月~)
府中市(協和村)
原爆被害者実態(昭和30年)
安芸郡熊野町
被爆者健康手帳台帳
安芸郡江田島町
原爆戦死の軍人軍属並びに義勇隊学徒動員女子挺身隊等公務原爆犠牲者名簿
安芸郡坂町
罹災患者名簿
安芸郡倉橋町
原爆被害者台帳
安芸郡府中町
死亡診断書綴
佐伯郡吉和村
原爆手帳交付申請書控(昭和32年7月)
佐伯郡宮島町
被爆者手帳申請書類
佐伯郡佐伯町
広島原爆死者調査票綴
賀茂郡高屋町
罹災者受入控簿
賀茂郡高屋町(造賀支所)
罹災疎開一件
賀茂郡黒瀬町
終戦以降公報綴(下黒瀬村役場)
賀茂郡大和町
戦災者引揚者援護台帳
賀茂郡豊栄町
原爆被災者一件(昭和33年)
山県郡加計町
原爆被害者会文書綴(昭和35年)
山県郡加計町(安野村)
広島戦災者名簿(昭和20年)
山県郡加計町(筒賀村)
疎開復員引揚者・帰郷軍人健康診断票綴(昭和20年)
高田郡高宮町
原爆関係死亡調査
豊田郡豊浜村
戦災者給与金書類綴
豊田郡本郷町(上北方第一公民館)
戦災罹災者一件(昭和20年)
御調郡久井町
戦災者引揚者台帳(昭和21-22年)
御調郡向島町
戦災並外地引揚者名簿
世羅郡甲山町
被爆者健康手帳交付名簿
世羅郡世羅西町
被爆者健康手帳所持者名簿
神石郡三和町
原爆(昭和36-40年)
神石郡豊松村
戦時罹災一件(昭和20年
双三郡布野村
被爆者名簿
比婆郡口和町
被爆者手帳交付関係書類
比婆郡高野町
被爆者関係書類(昭和35-36年)
比婆郡西城町
原爆被爆者一件書類
比婆郡東城町
被爆手帳交付関係書類
国内
国立公文書館
広島市爆撃問題ニ対スル反響ニ就テ(第一報)
厚生省援護局調査課
引揚援護局中国駐在事務所旧蔵資料。「死亡者連名簿」など約260綴。
防衛庁防衛研究所
第二総軍隷下部隊主要職員表
中国軍管内部隊人員調査表(昭和20年10月15日)
第二総軍命令等(昭和20年8月9日~10月10日)
畑俊六「第二総軍終戦記」
佐伯文郎「戦災処理の概要」昭和30年3月
昭和20年8月有末調査団の広島特殊団調査史料
第二総軍・第二復員司令部復員報告綴
元船舶参謀篠原優「暁部隊始末記」昭和36年8月
長岡半太郎博士「原子核分裂を兵器に利用する批判」昭和19年12月
外務省外交資料館
米軍捕虜名簿
中国軍管区司令部が作成したもので、原爆に被爆した米軍捕虜の名前を含む。
国立国会図書館
GHQ/SCAP文書(マイクロフィッシュ)   原爆検閲関係の資料を含む。
米国戦略爆撃調査団報告書(マイクロフィルム)
経済安定本部戦争被害調査資料
経済安定本部企画部調査課「戦争被害調査資料集  」
原子爆弾被害調査基礎資料
広島・長崎に於ける原子爆弾に依る物的被害算定方法(原稿)
広島市原爆被害図
長崎市原爆被害図
広島・長崎に於ける原子爆弾に依る物的被害(原稿)
仁科記念文庫
仁科芳雄ノート-原子爆弾-
小川新
草津国民義勇隊資料
米国議会図書館

参考資料 戦災者名簿一覧
これは、市町村役場資料・厚生省資料・市町村史などにより、所在の確認できた戦災者に関する名簿類の一覧である。
名簿は、昭和二〇年当時の市町村別と軍関係(部隊別)に大別して収録した。
各名簿は、作成者・「名簿名」・作成時・(収録史誌)の順に記載した。作成者に、「広島一陸」・「広島二陸」とあるのは、それぞれ「広島第一陸軍病院」・「広島第二陸軍病院」の略である。
福山市
(福山市)厚生課「戦災ニ関スル綴」昭和二〇年八月八日(「福山市史下巻」)
(福山市)「死没者名簿」  (「続福山空襲の記録」)
安芸郡
戸坂村役場「戦災者調査票」昭和二二年九月現在
(戸坂村)「戦災死没者」          (「戸坂町誌」)
広島一陸戸坂分院「死亡者連名簿」
広島一陸戸坂分院「入院患者名簿」
広島一陸戸坂分院「遺骨交付名簿」
(温品村)「死亡診断書綴」
(府中町)「戦没者名簿」(「安芸府中町史 補遺編」)
(府中町)「町内会別原爆死没者氏名一覧表」(「安芸府中町史 補遺編」)
(府中町)「戦死者調」
(府中町)「未亡人調査表」
府中町役場「死亡診断書綴」昭和二〇年(「安芸府中町史通史編」)
瀬野村役場「戦時災害(水害)並疎開一件」昭和二〇年
(瀬野村)「復員並援護一件」昭和二一年起
瀬野村役場「復員軍人・戦災者・外地引揚者名簿綴」昭和二一年七月現在
(瀬野村)「遺族名簿」
(瀬野村)「陸軍・海軍復員者調査表」(「瀬野川町史」)
昭和村役場「火葬認可稟議簿」昭和二〇年
(坂村)「罹災患者名簿 収容所小屋浦」昭和二〇年八月
(坂村)「罹災患者名簿 収容所坂国民学校」昭和二〇年八月一二日調
(坂村)「患者名簿 横浜収容所」八月一一日収容
(坂村)「収容患者名簿 横浜ノ部」八月一一日
坂村役場「罹災者名簿」昭和二〇年
坂村役場「遺骨名簿」昭和二〇年一一月
坂村役場「戦災給与金関係綴」昭和二〇年一一月起
(坂村)「原爆関係戦没者調査票」昭和二七年一月調
坂町役場「原爆患者死亡者関係簿」昭和二七年七月
佐伯郡
河内村役場「復員者並引揚者名簿」昭和二二年
八幡村「罹災者収容名簿」
(観音村)村長「戦災患者名簿」昭和二〇年八月(「五日市町史(中巻)」)
廿日市町役場「罹災者名簿」
(廿日市町)「戦没軍人・傷痍軍人関係書類」昭和二〇年~
(廿日市)「戦没者遺族調査簿」  (「廿日市町史」)
平良村「死亡診断書綴」
原村「広島原爆調査一件」
宮内村援護係「戦災者給与金交付簿」((宮内村)「戦災一件」昭和二〇~所収)
宮内村「埋火葬送届綴」昭和二〇年
宮内村「復員者戦災者名簿」昭和二二年
宮内村「戦没者名簿」
宮内村銃後奉公会「戦死者名簿」昭和一九年作成
宮内村「戦没軍人・軍人・公務員名簿」昭和二六年
地御前村「罹災者名簿 広島市観音町」
地御前村「罹災者名簿」昭和二〇年八月一四日現在
(地御前村)「海外引揚者戦災者調査票」昭和二二年七月一八日現在
地御前村役場「戦時災害見舞金弔慰金支給原簿」昭和二〇年一〇月二三日
地御前村役場「戦災罹災者台帳」
(地御前村)「戦傷病死者・出征軍人・傷痍軍人遺家族名簿」
地御前村「見舞金受領書」
地御前村役場「広島市戦災死者遺骨交付不能者名簿」昭和二一年七月三一日調
地御前村役場「戦時災害第二十二条第二十三条申請者簿」昭和二〇年一〇月二三日
(地御前村)「戦災者引揚者軍関係者等ニ関スル調査票」
(地御前村役場「援護関係書類」昭和二一年中所収)
(地御前村)「傷痍軍人名簿・軍人遺族名簿・未帰還者軍人調査表」
(地御前村)「戦災者収容名簿」
(大竹市)「戦没者遺族台帳」(「大竹市史史料編第三巻」)
(大竹警察署)「大竹警察署管内収容患者名簿 玖波国民学校収容患者の分」
玖波町役場「戦没者氏名簿」昭和二〇年八月
玖波町役場「広島市戦災ニ因ル死亡者」昭和二〇年八月六日
玖波町役場「義勇隊戦死者追弔会一件」昭和二〇年一〇月三日
大竹警察署「集団罹災者名簿 小方国民学校」八月一一日受入
大竹警察署「集団罹災者名簿 大竹国民学校」八月一一日受入
大竹警察署「集団罹災者名簿 大竹町ノ部」八月一二日受入
大竹警察署「集団罹災者名簿 木野村ノ部」八月一一日受入
安佐郡
(祇園町)「戦禍にたおれた人」(「祇園町誌」)
川内村役場「変死者検視調書」昭和二〇年八月
川内村役場「戦災死者名簿」昭和二〇年八月六日
広島県地域国民義勇隊川内村義勇戦闘隊「国民義勇隊員として出動中原子爆弾により負傷し又は疾病にかかりこれにより死亡した者の調」
八木村・緑井役場「変死者検視調書」昭和二〇年度(「佐東町史」)
(戸山村)「戦災負傷者名簿」(「沼田住民手記」)
佐伯郡久地村「復員者名簿」
(久地村)世話部係「復員者人名簿」昭和二一年三月調
広島一陸久地病棟「死亡者連名簿」
(鈴張村)「陸軍海軍復員者調査票」昭和一〇~二〇年
鈴張村「戦死者戦病者名簿」
鈴張村役場「引揚者調」
広島一陸鈴張病棟「死亡者連名簿」
広島一陸鈴張病棟「遺骨引渡簿」
安佐郡飯室村「復員軍人軍属名簿」昭和二一年一月末現在調(「安佐町史」)
広島一陸飯室分院「死亡者連名簿」
広島一陸飯室分院「入院患者名簿」
広島一陸飯室分院「遺骨交付名簿」
広島一陸飯室分院「遺骨引渡簿」
広島一陸飯室分院「遺留品引渡簿」
広島一陸亀山病棟「死亡者連名簿」
広島一陸亀山分院「遺骨交付名簿」
広島一陸亀山分院「遺骨受領証綴」
広島一陸亀山分院「遺物品受領証綴」
可部町大林「戦没者名簿」昭和三〇年四月一五日
佐伯郡大林村役場「疎開者戦災者名簿」昭和二〇年一二月一四日現在
安佐郡大林村役場「戦災者名簿」昭和二〇年八月起
大林村役場「罹災者名簿」昭和二〇年八月六日
(大林村)「戦災者名簿」昭和二一年度
広島一陸大林分病棟「死亡者連名簿」
広島一陸大林分院「死亡証書控綴」
広島一陸大林分院「入院患者名簿」
広島一陸大林分院「遺骨交付名簿」
広島一陸大林分院「遺留品授受簿」
広島一陸三入病棟「死亡者連名簿」
広島一陸三入病棟「入院患者名簿」
(可部町)「過去帳記載の原爆死没者数」(「被爆四十年追悼の記」)
広島一陸可部分院「死亡者連名簿」
広島一陸可部分院「戦災患者名簿」
狩小川村「罹災者受入状況報告綴」(「高陽町史」)
山県郡
(加計町)「戦死病没公報綴」
加計町役場「戦死戦没者名簿」
加計町役場「戦災者引揚者名簿台帳」
加計町役場「戦災者引揚民名簿及配給台帳 新転入の部」
(加計町)「戦争犠牲者名簿」(「加計町史史料下巻」)
殿賀村役場「傷痍軍人台帳」
殿賀国保組合「疎開復員引揚者名簿・帰郷軍人健康診断票綴」昭和二〇年
(「加計町史下巻」)
広島一陸筒賀分院「死亡者連名簿」
広島一陸筒賀分院「入院患者名簿」
広島一陸戸河内分院「入院患者名簿」
(八幡村)「従軍者名簿」(「八幡村史」)
(雄鹿原村)「戦争犠牲者連名簿」(「雄鹿原村史再版」)
(中野村)「日支事変並に大東亜戦争従軍者」(「中野村史」)
(大朝町)「戦没者名簿」        (「大朝町史下巻」)
(安野村)「招魂祭祭神並ニ遺族名簿」昭和一七年四月七日
(安野村「招魂祭一件」昭和九年所収)
安野村役場「支那事変戦病没傷痍疾病者一件」自昭和一二年度
安野村「戦没者遺族台帳」昭和一四年
(安野村)「戦災見舞金等要支給報告(昭和二十年八月分)」
(安野村「戦時災害保護一件」昭和二〇年)
安野村「広島戦災者名簿 昭和二十年八月六日戦災」
山県郡安野村役場「未帰還者名簿」
恩賜財団同胞援護会安野村分会「給与台帳」昭和二一年
高田郡
(刈田村)「刈田地区大東亜戦争従軍者」(「八千代町郷土誌」)
(刈田村)「戦没者氏名」(「平和の礎」)
(根野村)「大東亜戦争従軍者」(「八千代町郷土誌」)
(根野村)「戦没者氏名」(「平和の礎」)
(横田村・本村・北村・生桑村)「軍人軍属殉国者一覧」(「美土里の歴史と伝説」)
(川根村・来原村・船佐村)「戦没者名簿」(「高宮町史」)
(甲立町・小田村)「戦没者名簿」(「甲田町誌」)
広島二陸向原分院「死亡者連名簿」
広島二陸向原分院「入院患者名簿」
広島二陸向原分院「入院患者イロハ名簿」
広島二陸三田分院「死亡者連名簿」
賀茂郡
(原村)「(戦没者名簿)」(「原村史上巻」)
下黒瀬村役場「公報綴」終戦以降
下黒瀬村「各種名簿綴」
(下黒瀬村)大倫遺家族会「各戦役戦病死者名簿」
郷原村役場「戦災罹災者名簿」昭和二〇年一一月調
郷原村役場「疎開者名簿」
更正会郷原分会「海外引揚者名簿」昭和二三年四月
竹原町役場兵時課「皇后陛下御下賜品・戦死病没者調・軍人遺族記章授与願報告一件綴」 昭和一七年一月~
(西高屋村)「罹災者・引揚者名簿」
豊田郡
(豊栄村)「原爆死没者(百六名)」(「あ〃豊栄百六の叫び」)
(椹梨村・豊田村・大草村)「戦病没者」(「大和町誌」)
(椹梨村・豊田村・大草村)「応召者」(「大和町誌」)
(豊浜村)帝国在郷軍人会分会「戦病没者並遺族名簿」
豊浜村役場「傷痍軍人台帳」
豊浜村役場「戦災者給与金書類綴」昭和二〇年八月起
豊浜村役場「戦災者名簿」昭和二〇年一〇月一日調
豊浜村役場「復員者名簿」
(豊浜村)「戦没者名簿」
(豊浜村)「昭和二十年十月一日村葬執行英霊一覧表」
(豊浜村)「昭和二十年十二月二十七日村葬執行英霊一覧表」
(豊浜村役場「戦没者関係書類綴」昭和二一年所収)
(豊浜村)「昭和二十一年十月八日村葬執行英霊一覧表」
(豊浜村役場「戦死者関係書類綴」昭和二一年所収)
御調郡
御調郡久井町役場「応召軍人台帳・復員台帳 元羽和泉関係」
(久井村)援護係「復員台帳」昭和二一年
久井町役場「戦没者調査票」
久井町「戦没者並に遺族名簿」昭和三一年五月
向島西村役場「戦災者並外地引揚者一件」昭和二一年
向島西村役場「戦災者並外地引揚者名簿」
(向島西村)厚生係「海軍関係戦没者名簿」
世羅郡
(上山村)「戦没者」(「三和町誌」)
神田村役場「戦災者・引揚者援護台帳 萩原・福田之部」
神田村役場「戦災者・引揚者援護台帳 下徳良・蔵宗之部」
(神田村)「戦病没者」(「大和町誌」)
(神田村)「応召者」(「大和町誌」)
「岡竹隊・大原隊隊員名簿」(「世羅部隊誌」)
沼隈郡
(瀬戸村)「支那事変功績者調査書」(「福山市史下巻」)
沼隈郡神村長「疎開者調査ノ件報告」(福山税務署長宛)昭和二一年一月二〇日
(神村役場「戦時災害及罹災者関係綴」昭和二〇年四月所収)
(神村)「戦災者引揚者世帯票」 (「福山市史下巻」)
(本郷村)「軍人援護恩賞関係綴」(「福山市史下巻」)
(今津町)「支那事変功績者調査書」(「福山市史下巻」)
(今津町)「兵事綴」(「福山市史下巻」)
(松永町)「戦死者」(「松永町誌」)
(鞆町)「戦死者名簿」(「福山市史下巻」)
芦品郡
(藤尾村・常金丸村・戸手村・新市村・網引村)「明治以降戦没者名簿」(「新市町誌」)
「芦品部隊戦没者名簿」(「閃光は消えず-被爆した芦品部隊と警防団」)
神石郡
「戦病没者」(「神石郡誌続編」)
豊松村銃後奉公会「軍人援護台帳」昭和一五年以降
豊松村役場「死没者関係書綴」昭和一九年~昭和二〇年
豊松村役場「戦災者弔慰見舞金交付調書」
(豊松村役場「戦時罹災一件」昭和二〇年四月所収)
(豊松村役場)「罹災者及引揚者調査書」
(豊松村役場「戦時罹災一件」昭和二〇年四月所収)
豊松村役場「死没者関係書綴」昭和二一年~
豊松村役場「復員軍人・軍属調査書綴」
豊松村役場「戦没者遺族名簿」昭和二七年一〇月一〇日
(豊松村役場「戦没軍人軍属一件綴」昭和二七年度所収)
豊松村役場「戦死病没者・戦争犠牲者名簿」昭和二八年四月二〇日
(豊松村役場「戦没軍人軍属一件綴」昭和二七年度所収)
甲奴郡
(上川村)「戦没者芳名」(「甲奴町郷土誌(第二集上川地区編)」)
(甲奴村)「各戦役戦没者」(「甲奴町郷土誌(第一集甲奴地区編)」)
双三郡
(板木村)「戦没者」(「三和町誌」)
広島二陸三次分院「死亡者連名簿」
広島二陸三次分院「在室患者イロハ名簿」
広島二陸三次分院「病症増進通報録」
広島二陸三次分院「遺骨授受証綴」
「三次分院の犠牲者名簿」(「鎮魂-原爆投下直後の三次における救援活動」)
(三良坂村)「戦没者名簿」(「三良坂町誌」)
「三良坂町原爆死没者名簿」(「百日紅」)
比婆郡
「比婆部隊被爆者(死亡)名簿」(「庄原原爆の記録 第二集」)
広島一陸庄原分院「死亡者連名簿」
広島一陸庄原分院「収容患者名簿」
広島一陸庄原分院「遺骨交付名簿」
広島一陸庄原分院「遺骨授受簿」
広島一陸庄原分院「遺骨受領証綴」
広島一陸庄原分院「患者遺留品授受簿」
広島一陸庄原分院「遺骨遺留品引渡簿」
広島一陸庄原分院「遺留品受領証」
広島二陸東城分院「死亡者連名簿」
広島二陸東城分院「在室患者名簿イロハ」
広島一陸山之内病棟「死亡者連名簿」
広島一陸山之内病棟「収容患者名簿」
広島一陸山之内病棟「入院患者名簿」
広島一陸山之内病棟「遺骨交付名簿」
広島一陸山之内病棟「遺骨授受簿」
広島一陸山之内病棟「患者遺留品授受簿」
広島一陸山之内病棟「遺骨遺留品引渡簿」
広島一陸山之内病棟「遺留品受領証」
「戦没者芳名録 於広島第一陸軍病院庄原分院山内西病棟」(「庄原原爆の記録第二集」)
軍関係(厚生省援護局資料)
第二総軍司令部「戦没者名簿」
第二総軍司令部「死没者ニ関スル綴」
第二総軍司令部「死亡診断書調整資料」
第二総軍司令部「昭和二十年八月六日遺骨遺留品名簿」
第二総軍「人事(恩典)に関する綴」
(第二総軍司令部)「昭和二十年八月六日における第二総軍司令部防衛通信班人名表」
中国軍管区司令部「原子爆弾関係死亡者連名簿」
留守業務班「慰霊祭前ニ於ケル死没者連名簿」
中軍司「慰霊祭後ニ於ケル死没者連名簿」
中国軍管区司令部留守業務班「連隊区別死亡者連名簿」
中国軍管区司令部「死亡者連名簿」
中国軍管区司令部「死亡證言者死亡證書綴」
軍管区司令部「死亡證書」
中国軍管区司令部「功績列次名簿」
留守業務班「死没佐尉官功績ニ関スル綴」
留守業務班「死没准士官下士官功績ニ関スル綴」
留守業務班「死没兵功績ニ関スル綴」
中国軍管区司令部「功績上申者名簿」
中国軍管区司令部「遺骨交付名簿」
中国軍管区司令部「残留遺骨・遺留品・公報未送・弔慰金未払・未済者処理状況」
中国軍管区司令部「遺留品受渡簿」
中国軍管区司令部留守班「中国軍管区各部生死不明者連名簿」
留守業務班「死没者関係雑書綴」
留守業務班「死没者状況報告書」
留守班「死没者恩給証拠書類調整資料」
中国第一〇四部隊「死没者連名簿」
中国第一〇四部隊「戦没者連名簿」
中国第一〇四部隊「戦没者イロハ名簿」
中国軍管区歩兵第一補充隊「戦死(傷)者名簿」
中国第一〇四部隊「健在者・入院者・戦死者・生死不明者名簿綴」
中国軍管区歩兵第一補充隊「佐尉官死没者功績名簿」
中国軍管区歩兵第一補充隊「殊勲者・兵功績列次名簿」
中国軍管区歩兵第一補充隊「功績名簿(甲)」
中国軍管区歩兵第一補充隊「准士官・下士官死没者功績名簿」
中国一〇四・一一一部隊関係「死亡證書」
中国百十部隊「広島連隊区管内生死不明者名簿」
中国一一〇部隊「行方不明者連名簿」
中国第一一一部隊「広島連隊区戦没者名簿」
中国第一一一部隊「連隊区不明戦没者名簿」
広島連隊区司令部中国第一一一部隊「死亡者イロハ名簿」
中国軍管区砲兵補充隊「将校死没者功績上申名簿」
中国一一一部隊「遺留品名簿」
中国第一一四部隊「死没者連名簿」
中国一一四部隊「死没者功績上申スベキ名簿」
中国第一二一部隊「死没者連名簿」
中国第一二一部隊「戦(傷)死者連名簿」
中国軍管区通信補充隊(中国第一二一部隊)「死没者名簿」
中国第一二一部隊「死亡證書」
中国第一三九部隊「死亡者連名簿」
中国第一三九部隊(旧西部十部隊)「戦災死没者及生死不明者名簿」
中国第一三九部隊「戦死者連名簿」
中国第一三九部隊「負傷者連名簿」
中国第一三九部隊「生死不明者連名簿」
中国第四七部隊「原爆戦災者名簿」
中国第二七八四部隊第二百五特設警備工兵隊「死没者連名簿」
中国軍管区第二百五特設警備工兵隊「死没佐尉官功績名簿」
第二〇五特設警備工兵隊(中国第二七八四部隊)「生死不明者連名簿」
中国第七一六一部隊特設警備第二五一大隊「死没者連名簿」
特設警備第二五一大隊「戦災死亡者連名簿」
特設警備第二五一大隊「戦死者(原籍不明分)功績名簿」
中国第三二〇三七部隊(第一特警)「死没者連名簿」
中国第三二〇三八部隊(広島第二特設警備隊)「戦災死亡者連名簿」
中国第三二〇五二部隊(賀東部隊)「戦災死亡者連名簿」
中国第三二〇五二部隊「患者人名簿」
中国第三二〇五三部隊(豊北部隊)「戦災死亡者連名簿」
中国第三二〇五七部隊(世羅部隊)「戦災死亡者連名簿」
中国第三二〇五七部隊「原爆戦災者名簿」
中国第三二〇五九部隊(芦品部隊)「戦災死亡者連名簿」
中国第三二〇六〇部隊(甲神部隊)「死没者連名簿」
中国第三二〇六二部隊(比婆部隊)「戦災死亡者連名簿」
広島第一陸軍病院「死没者名簿」
広島第一陸軍病院「死没者連名簿」
広島一陸江波分院「死亡者連名簿」
広島第一陸軍病院「死亡證書綴」
第一陸軍病院「戦死判任分官・同等待遇者事実・死亡證明書」
第一陸軍病院「事実・死亡證明書綴」
第一陸軍病院「軍属関係死亡證書」
広島第一陸軍病院「死亡證書綴(教育隊関係)」
一陸関係「入院患者名簿」
広島第一陸軍病院「昭和二十年八月六日現在(推定)在院患者名簿」
広島陸軍病院「在院患者名簿」
広島第一陸軍病院本院「在室患者名簿」
広島第一陸軍病院「戦死兵功績列次名簿」
広島第一陸軍病院「戦死准士官・下士官功績列次名簿」
広島第一陸軍病院「戦死佐尉官功績名簿」
広島第一陸軍病院「戦死兵功績名簿」
広島第一陸軍病院「功績名簿」
広島第一陸軍病院「戦死庸人・工員功績名簿」
広島第一陸軍病院「戦死庸人・工員功績列次名簿」
広島第一陸軍病院「戦死判任文官同等待遇功績名簿」
広一陸「功績上申者名簿」
医事科「入院患者・死没者功績資料綴」
広島第一陸軍病院「遺骨受領簿」
広島第一陸軍病院「遺骨授受簿」
広島第一陸軍病院「遺留品授受證綴」
広島第一陸軍病院「教育隊遺留品受領証綴」
一陸教育隊「遺留品送付簿」
広島第一陸軍病院「入院患者職員遺骨名簿」
一陸「遺留品授受證早見表」
広島第一陸軍病院「死没者(生死不明者)書類ニ関スル綴」(広一陸病)医事科「死没者生死不明者ニ関スル書類綴」
一陸「二条報告」
一陸医事科「死没者に関する照会綴」
一陸「死没者名簿調整原稿」
一陸「軍属身分証明書」
広島一陸江波分院「死亡者連名簿」
陸病江波分院「遺骨授受簿」
江波分院「遺骨未交付者名簿」
江波分院「遺骨交付名簿」
江波分院「死体及遺物引渡簿」
(宇品病院)患者係「昭和二十一年地方世話部移管遺骨ニ関スル綴」
広島第一陸軍病院宇品分院「入院患者名簿」
広島第一陸軍病院宇品分院「イロハ患者名簿」
宇品分院「遺骨名簿」
宇品分院「遺骨交付名簿」
広島第一陸軍病院宇品分院「遺留品授受證綴」
赤十字関係分「死亡診断書及証明書綴」
日赤病院「入院患者名簿」
国立広島病院医事科「昭和二十年八月六日以降広島第二陸軍病院勤務原子爆弾ニ依ル死亡者連名簿」
広島第二陸軍病院本院「昭和二十年八月室別(死亡者名簿)職員表」
広島第二陸軍病院「二陸勤務者死亡調査表」
広島第二陸軍病院「昭和二十年八月以降病院職員死亡證書綴」広島第二陸軍病院「昭和二十年八月以降入院患者死亡證書」
広島第二陸軍病院「死亡証書綴(教育隊関係)」
第二陸軍病院「在院患者名簿」
広島第二陸軍病院本部「八月六日本部ニテ収容患者名簿」
広島第二陸軍病院「部隊別患者名簿」
広島第二陸軍病院「部隊別収容患者名簿」
広島第二陸病「遺骨申送書」
広二陸「昭和二十年八月以降空襲ニ於ケル職員・患者被害状況」
赤穂師団司令部「昭和二十年十一月発来翰書類綴」
赤穂第二八三二九部隊「人事ニ関スル綴」
赤穂第二八三三〇部隊「死没者連名簿」
赤穂第二八三三〇部隊「遺骨連名簿」
赤穂第二八三三〇部隊「遺留品名簿」
赤穂第二八三三六部隊「戦死者名簿」
赤穂第二八三三六部隊「負傷者名簿」
赤穂第二八三三六部隊「生死不明者名簿」
赤穂第二八三三六部隊「負傷者名簿」
第二三一師団関係「戦死兵功績列次名簿」
独立混成第百二十四旅団通信隊「戦死兵功績列次名簿」
中部第二八三七四部隊「イロハ名簿」
(広島兵器補給廠)「昭和二十年八月六日現在広島兵器補給廠勤務中隊第一中隊隊員名簿」
船通補「原爆死亡者ニ関スル綴」
船舶通信隊補充隊「死没者名簿」
船舶通信隊補充隊「昭和二十年八月六日在隊者人名録」
世話課「司令部関係処理未済者一覧表綴」
厚生省中部復員連絡局広島支部「昭和二十二年十二月原爆関係死亡者認定票綴」
広島県民生労働部世話課「原爆関係未請求者名簿」

広島県史編さん室の原爆資料調査

広島県史編さん室の原爆資料調査
出典:「広島県史 原爆資料編」(1972年3月31日)
資料調査概要
原爆被災資料という概念は、原爆の何を明らかにするかあるいは原爆をどのように考えるかで異なった意味内容をもち、極めてあいまいであるが、広島県史編さん近代・現代史部会では、オリジナルな文献資料(その時点で作成されたもの、時間の経過により思想的ろ過のされてないもの)に焦点づけて、調査を行うことにした。
調査の対象は、次の五つに大別することができる。
1官公庁・市町村・学校
2調査団関係者
3各種団体
4新聞資料
5被爆者
1官公庁・市町村・学校
広島県は、原爆により、近代・現代史の基本資料ともいうべき県庁文書の大半を失った。その欠を補うため、県史編さん資料調査の過程で、中央官公庁文書と県下の市町村役場の両面から、広般な所在調査を行なってきた。原爆資料について、このような網羅的な調査はこれまでほとんどなされておらず、多数の資料の所在を新たに確認することができた。
中央官庁は、外務省・自治省・防衛庁・厚生省について調査を行なった。外務省は戦後の文書が非公開であり、自治省・防衛庁は、戦前の内務省・陸海軍の文書をほとんど残していなかった。厚生省は、廃止になった引揚援護局広島支部のばく大な文書群を引き継いでいた。
広島県・市については、関係各課、書庫の調査を行なった。県・市ともに、昭和二十年代の文書のほとんどを廃棄処分にしていた。
県予防課・市原爆被爆者対策課は,被爆者が提出した原爆手帳交付申請書を保管しているが(県は広島市外在住被爆者分約八万七千点、市は市内在住被爆者分約十一万八千点)、これには、被災の状況を証明できる資料のある場合には、添付することになっているので、このうち広島県予防課所蔵分について調査を行ない、約三四○点の罹災証明書・診断書など、当時の資料の所在を確認した。
市町村役場文書は、県史編さんの一般的所在調査の過程で軍事関係資料の所在の多くが確認されていたが、原爆資料に焦点づけて徹底を期すため、改めて、県下の全市町村に原爆資料の有無について調査を依頼した。このうち半数近い四七市町村から報告を得ることができ、重要と思われるものについては現地に赴いて、所在と内容を確認した。また、広島市周辺の安芸,安佐・佐伯の三都は、特に重視し、原則として現地調査を行なった。旧坂村(安芸郡)の罹災者収容名簿類、旧大林村・八木村・川内村(安佐郡)の罹災者名簿、変死者検視調書、旧宮内村(佐伯郡)の日誌・罹災者収容諸件などは、この過程で、収集されたものである。
広島市内・周辺町村の学校、寺院が収容所となった場合が多いことは、周知の事実であるが、このうち学校については広島市内と、安芸・安佐・佐伯・高田の四郡の小学校、旧制中・女学校の後身校に、原爆被災資料の所在・救護活動を行なった事実・学校が収容所となった事実の有無の報告を文書で依頼し、必要に応じて現地に赴いた。この中で、原爆被災の記述のある数点の学校日誌を発掘したのをはじめ、次の学校が収容所となったという報告をえた。
県立廿日市高等学校、県立三次高等学校、比治山女子高等学校、鈴峯女子高等学校、
広島市立小河内小学校、同亀山小学校、同大林小学校、同可部小学校、
安芸町立温品小学校、海田町立海田小学校、同東海田小学校、坂町立板小学校、同横浜小学校、同小屋浦小学校(以上安芸郡)、
安古市町立新知小学校、同安小学校、佐東町立川内小学校、同八木小学校、高場町立狩小川小学校、同深川小学校(以上安佐郡)、
吉田町立吉日小学校、甲田町立甲立小学校、向原町立向原小学校、白木町立井原小学校、同高南小学校(以上高田郡)<学校名は現在のもの>
2調査団関係者
被災直後の広島に入った調査団には、呉鎮守府・陸軍々医学校・海軍々医学校・東京帝国大学・京都帝国大学・大阪帝国大学、理化学研究所などがある。また昭和二十年九月に発足した文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会には、わが国自然科学系の学界の総力が結集され、千数百名の研究者が、広島・長崎において調査を行なっている。このうち、軍調査団、および、原爆調査の中心的存在であった理研、東大、京大、阪大に焦点づけて調査を行なった。直接、お会いして当時の状況を聴いたり、書簡、電話などで、資料の有無を確認した調査団関係者の方々は次のとおりである。
陸軍 新妻清一 大橋成一 山科清
海軍 福井信立 神津幸直
理化学研究所 故仁科秀雄(仁科記念文庫) 田島英三 玉木英彦 中山弘美 山崎文男
東大 故都築正男(都築正和)
京大 荒勝文策 木村毅一 清水栄 菊池武彦 脇版行一 清水三郎 故杉山繁輝 故天野重安
阪大 浅田常三郎 尾崎誠之助
九大 篠原健一 石川数雄
日本映画社 加納竜一 相原秀次
3各種団体
被爆体験をもつ団体・被爆者と常に接している団体・被爆体験に基づいた平和運動にたずさわっている団体から、原爆被災の実相・その後の歩み・現在直面している課題について学ぶように努めた。訪問した主な団体は次のとおりである。
広島地方気象台 広島地方貯金局 国鉄中国支社 広島市平和記念資料館 広島市平和文化センター 広鳥市原爆戦災誌編さん室 広島大学原爆放射能医学研究所 広島原爆病院 広島原爆障害対策協議会 広島県医師会 広島市医師会 ABCC 広島逓信病院 原爆資料保存会 原爆被災資料広島研究会 広島ペンクラブ 学問と平和を守る大学人の会 広島折鶴の会 広島子供を守る会 同青年部 広島市立本川小学校 広島県被爆教師の会 広島県原爆被害者団体協議会 原水爆禁止日本協議会 同広島県協議会 小沢綾子 黒田秀俊 村上操 泉谷甫
4新聞資料
原爆の与えた社会的影響を概略的に把握するため、新聞資料を収集した。特に被災直後(昭和二十年内)の報道・調査団の行動とその成果の新聞発表・広島市内の平和への歩みに注目し、これらを年表に活用した。このために関覧した新聞名・所蔵機関は次のとおりである。
新聞名 中国新聞(昭和二十年~昭和四五年)、朝日新聞・毎日新聞・読売報知新聞(昭和二十年八月~十二月)
所蔵機関 広島市立浅野図書館・呉市立図書館・三原市立図書館・国立国会図書館・東京大学新聞研究所・朝日新聞大阪本社・中国新聞社
平和運動については、前記の新聞では十分把握できない面もあるので、各団体の機関紙・誌を参照した。
大原社会問題研究所(新文化・民主日本・ゼンセン)
広島県地域婦人団体連絡協議会(県婦連・県婦協)
今堀誠二(平和の斗士・民族の星・広島生活新聞・その他被爆者団体・平和団体の機関誌など)
外国の新聞は、次の所蔵者のもののマイクロフィルムを、手に入れることができた。
米国議会図書館 大英博物館新聞ライブラリー シカゴ大学ユニバーシティ・マイクロフィルム社 ベイ・マイクロフィルム社 ニューヨークタイムズ社 国立国会図書館財団法人東洋文庫 大下応(昭和二十年当時シカゴ在住)
5被爆者
被爆者や広島被爆直後入市者が昭和二十年前後に書いた記録を探すため、前述の広島県予防課所蔵の被爆者手帳交付申請書の調査、および、体験記を発表した被爆者など四百人余を対象としたアンケート調査をおこなった。アンケートに対して八十七名の方々から回答をいただき、貴重な示唆・参考資料の提供を受けた。
[以下略]

出典:『広島県史 原爆資料編』

原爆被災資料総目録 第一集 発刊に寄せて

原爆被災資料総目録 第一集 発刊に寄せて

(五十音順・敬称略)

相原和光(広島YMCA総主事)

月に人が降り立つ新時代に、地上の平和と世界市民の意識を築いて二度と核兵器が使用されないことを万人が銘記するためにこの総目録の活用されることを祈ってやみません。

伊東 壮 (東友会=東京都原爆被害者団体協議会=事務局長)

被爆二十五周年、安保再改定期に当たって、人類の最初に受けた災禍の資料の散失しないうちに、その調査・収集に努めて広く公開し、平和の問題を原点から鋭く考え合うことは、被爆者と国民との断絶を埋ずめて、被爆者援護法制定の緒を開くことになる。

糸川成辰(原水爆被災白書をすすめる市民の会会長)

この総目録刊行は「原水爆被災白書」をすすめる広島市民の活動の第一歩である。

大江健三郎(作家)

広島を忘れ、核兵器の破滅的な実質から眼をそむけようとする者を、問いつめる本質的な目録。それは広島を記憶しつづけようとする者にもまた、総合的な問いかけを発する目録である。

梶山季之(作家)

広島の文学青年時代のぼくは、原爆被災問題についても、まじめな追究者の一人であった。その後広島を離れているが、罪ほろぼしをしたい気持ちは大いにある。この被災総目録の続刊に協力したい。

河本一郎 (広島折鶴の会世話人代表)

資料を調べ集めてゆくことは、目に見える原爆の証拠を一つでも多く残して原爆体験を心のなかから消さないため大切なことです。文学なり、写真なりの一つ一つが被爆者ひとりひとりの心の「塚」です。この総目録がその事実をつかむきっかけとして活用されるよう念願します。

熊田重邦(広島県史編さん室長)

広島県史のうえで七、原爆は世界史と広島県民との接点として大切なので、この目録の続刊を期待します。

桑田駒夫(広島県PTA連合会事務局長)             一

子供の幸福を願うPTA会員として、世の親御と先生方がこの総目録を平和教育資料に利用され、億万人が平和な地上を築く呼び水とされることを望みます。

桑原英昭(世界連邦建設同盟広島県協議会会長)

私たちは六年前からポーランドのアウシュヴィッツと広島との被災資料の交換を続け、この八月、同国の招きで渡欧するが、この総目録第一集を貴重な交換資料として持参したい。ユダヤ人虐殺についてはすでに約四百万人分の詳細な名簿ができており、これに比べて広島の実態把握の立ち遅れに市民として共同責任を感じている。

栗原貞子(詩人)

この目録は 故人となった原民喜・峠三吉・大田洋子・正田篠枝をはじめ、被占領の弾圧下で書きつづられてきた原爆の非人間的な残虐の告発と平和への祈りの二十五年にわたる総量を示す。核時代に生きる人々、特に核保有諸国の首脳にも読んでほしい諸記録の案内書である。

小堺吉光(広島市戦災誌編集主査)

この目録は広島の惨禍から世界の平和へいたる道しるべであり、民間有志の熱情の賜物です。

佐久間澄(日本原水爆禁止団体協議会代表理事)

歴史は未来を築く大切な資料です。過ちが再びくり返されないために広島の被爆の事実の徹底的な追跡こそ、もっとも重要な人類将来への基盤となるでしょう。

志水清(広島大学原爆放射能医学研究所長)

原爆被災の全体像をとらえ、原点の空白を埋ずめるために、被災資料の収集保存は重要な役割りをもつので、今後ともこの目録が充実されるよう期待します。

庄野直美(広島女学院大学教授)

繰り返してはならないヒロシマのために、ここに繰り返し後世に残す。

宅和純(広島県教職員組合執行委員長)

広島の原点に立つ平和教育推進にとって貴重な資料だと思う。

永積安明(日本学術会議原爆被災資料小委員会前委員長)

この仕事は、原爆絶滅の拠点、学術会議の期待した事業の先駆けです。

任都栗司(日本原爆被爆者協議会会長)

原爆被災の実態とその影響についての、こういうまとまった手引書は、真の平和を訴えるとともに、被爆者救済・援護の目的を達する上に大切な励ましになる。この総目録の刊行に協力したい。

長谷川鉦三(広島県教育長)

平和教育とは何かについて、まず基礎資料を客観的にとらえるため、この総目録はよい手がかりだ。

林寿彦 (国際青少年協会総主事)

今世紀の人間がつくった世界史の傷を二十一世紀へ再び持ちこまないためにも、その「傷」についての体験と認識を語り伝えることは、新しい世代に対する今世紀の人間の義務だと思う。

原田東岷(広島市医師会元会長)

全世界はより精密なヒロシマの実態を知る必要があり、また欲しているのに日本政府はこれについてまことに冷淡である。広島市民の努力によるこの総目録刊行は、国際的規模において貴重な資料研究の手がかりであり、今後もこの刊行事業の継続を期待する。

藤本千万太(広島平和文化センター次長)

時の経過は世界の人々に原爆の惨禍を忘れさせ、恐怖の感覚さえ失わせようとしている。この資料刊行が、被爆体験の継承に大きく役立つことを期待する。

松元寛(広島大学文学部助教授)

原爆被災資料の調査に、日本全体の戦災についての時期を失しない調査研究の突破口となり、戦争白書のつくられるきっかけとなってほしい。また過去の記録だけでなく、現在の公害など、文明災害の問題について、国民の目を開かせる警鐘になってほしい。

村上忠敬(核兵器禁止平和建設広島県民会議議長)

核兵器の恐ろしさを知るためには広島原爆をもっともリアルに知る必要がある。悲しくても、苦しくても、再びその事実をはっきりとらえるために、これは貴重な資料となるであろう。

森滝市郎(日本原爆被害者団体協議会理事長)

ここ数年来願い続けてきた原爆被災資料調査の第一着が広島から始まって喜ばしい。これによって被爆者の声を消さず、その実態を後世に伝える手がかりを得た。

山代巴(作家)

人権の目覚めの足あとをふりかえるために、またその欠落は、あとに続く人々が補うために。

山手光 (広島市立浅野図書館長)

この総目録は原爆被災研究の第一の手がかりです。

 

被災資料総目録 第一集

発行日  昭和四十四年八月六日

体裁   B5版 横組一三〇頁 上質紙

内容

原爆慰霊碑(六七ヵ所)原爆遺跡(九五ヵ所)物品資料(原爆資料館所蔵一七九七点)遺品(原爆資料保存会所蔵一九二一点)放送番組(昭和二二年-四三年末まで二〇年間のNHK広島中央放送局ラジオーテレビ放送記録)美術(絵画の部一二九点)文学(長崎を含み小説・詩・俳句・短歌・児童文学の五部門で約一五〇〇点)

配布方法 会員制度による。会員資格は個人加入を主とし、団体加入も可。

会員   一口五〇〇円として何口でも可。一口につき一冊、送料当会負担)

会員登録

個人・団体とも会費の振替払いこみをもって代用させていただきます(同封振替用紙をご利用ください。一枚の振替用紙で団体としてでなく個人お二人以上の共同申し込みのばあいは用紙「通信欄」にお名前を列記してください)。

第二集の刊行予定

昭和四五年上半期を目標に、被爆手記(広島・長崎・ビキニ)各種団体原爆戦災誌芸能(映画・演劇・音楽・バレー)の台本・レコード・テープ・楽譜など民間放送番組(ラジオ・テレビ)写真集各種の計五部門と第一集の各部門の長崎および昭和四四年以降の追加分を企画中です。

第三集以降予想

医学ほか自然科学、社会科学、評論、観光庁資料、民間団体資料、戦災復興誌資料、報道資料などを昭和四五年下半期以降続刊の検討を進めております。

 

なお当会のスタッフは左記の通りです。お気付きの点は、どうぞご連絡ください。

委員長  田淵実夫(前広島文化センター局長)

副委員長 今堀誠二(広島大学教授)

同    横田工(原爆資料保存会会長)

財務委員 山崎与三郎

事務局長 田原伯

旧陸軍被服倉庫(広島市基町)消滅過程に見る原爆遺跡存廃論議

問題の発端

『中国新聞(夕刊)』1970年6月11日

広島市教委は、同市基町地区の再開発事業によって破壊される恐れがある旧陸軍輜重(しちょう)隊倉庫などいわゆる〃原爆遺跡〃を保存するよう、このほど市に文書で要請した。史跡として保存するとなれば、再開発計画を一部手直ししなければならず、保存か取りこわしかをめぐって論議は〃原爆遺跡〃にまで及んできた。

市教委が保存を要請したのは、輜重隊倉庫(第二基町バス停前)、陸軍病院門柱(第五基町バス停前)、陸軍病院の由来を記した石碑(県営アパートわきの不法住宅地内)の三件。(中略)

三つの〃遺跡〃のうち、門柱と石碑は場所を移すなどすれば保存も可能だが倉庫は延べ二百六十二平方メートルもあって移転は困難。しかも被爆後二十五年もたって荒れ方がひどく、ブロックもくずれ落ちている。この付近は、市の基町再開発計画で中央公園の芝生広場に予定され、近くに市立図書館や野外音楽堂を建てることになっている。

計画通り工事が進められるとなると、倉庫は取りこわしの運命にある。このため市教委は、先に開かれた市文化財審議会にはかり「補修して現位置に保存するのが望ましい」との結論を得た。

市教委の要請に、対して基町再開発事業を進めている都市計画局では、門柱と石碑の保存には問題ないとしながらも、倉庫については公園計画との関連で慎重な態度をとっている。公園計画を担当する市建設公園緑地課の浅地課長は「史実を後世に伝える意味で保存は必要だと思う。しかし史実を伝える場合、建て物跡を表示する方法もある」と言っている。(後略)

 

存廃論議

年表:1976~78(昭和51~53)年の動向

 動向
76 01 24 中国新聞「30年ぶりに全容-旧陸軍”被爆倉庫”-広島市が周辺取り壊し-惨状伝える壁・ガレキ-”第2のドーム”-関係者ら保存訴える」
76 02 04 中国新聞(夕刊)「水曜グラフ:姿消す”戦争と被爆の遺跡群”-再開発進む広島市基町地区-旧軍の施設が次々」
76 04 30 広島市基町の住民有志で作る「基町明治会」の代表5人、基町公園内の旧第5師団経理部倉庫と県立体育館裏の柳の木3本(樹齢60年以上)を保存するよう求めた要望書を広島市に提出。
76 06 23 広島市、基町の被爆倉庫の保存の検討作業を始める。
76 06 24 広島ユネスコ協会、例会と理事会を開催。基町の陸軍被服倉庫の保存について協議。運動を始めた「基町明治会」を支援する方針を決定。
76 06 29? 広島県被団協(森滝市郎理事長)、広島市基町の旧陸軍被服倉庫跡の保存運動に乗り出すことを決める。
76 07 04 広島県被団協(森滝市郎理事長)、日本被団協総会で広島市基町の旧陸軍被服倉庫跡の保存運動を全国的に広げるよう提案。
76 07 07 広島市基町の旧陸軍被服倉庫の保存運動を進める「基町明治会」、写真家佐々木雄一郎が昭和26年当時に同倉庫を撮影した写真を入手。
76 07 07 フリーの映画監督楠木徳男、広島市基町の旧陸軍被服倉庫をテーマにした映画のロケを開始。
76 07 07 広島県被団協(森滝市郎理事長)、旧陸軍被服倉庫の保存を広島市に要望。
76 07 13 読売新聞「保存に賛否両論-広島の旧陸軍被服倉庫-「被爆のあかし」地元老人らが運動-意義に疑問も「ドームだけで十分」
77 01 13 広島市、基町の旧軍被服倉庫を撤去することを決定。
77 01 17 中国新聞「記者ノート:原爆遺跡の保護対策を」
77 07 13 中国新聞(夕刊)「消え行く原爆遺跡<広島>-実態つかめず風化-問われる市の保存行政」
78 05 10 広島市、庁内関係課長等12人で構成する原爆遺跡選定調査会議を設置(広島市資料)。原爆に関係のある155件の建物・橋梁などが候補にのぼるが、そのうち重要なものとして41件を選ぶ。
78 06 01 広島市基町の旧軍被服倉庫の取り壊し開始。

 

『中国新聞』1976年1月24日

原爆資料保存会などの関係者=都心部でこれだけの施設がいまだに残っているのはまれだ。都市化で原爆資料が年々姿を消しており、被爆を伝える生きた証言として残すべきだ。

この建物の隣に住む高野千都子=被爆直後の広島の面影です。このガレキの上で下で、たくさんの人が死んだのだろう、とここを見ると手を合わせたくなる思いです。

原爆資料保存会の横田工会長=外国の平和運動家からもなぜもっと原爆の惨状を残さなかったのかと言われる。原爆の継承の意味からも保存するよう市に働きかけたい。

『読売新聞』1976年5月1日

基町明治会が広島市に提出した要望書=レンガ造りの被服倉庫は崩れ落ち、柳も被爆したため幹の半分近くが枯れているが、いずれも原爆を知らない戦後生まれの若い人たちのために残すべき資料。

『毎日新聞』1976年6月18日

片島薫(元同盟通信記者で基町明治会の会員)=被爆の事実が忘れられてゆくなかで、被爆したままの姿で出てきた倉庫は、どうしても残しておくべきだ。撤去せず公園の一部に、歴史の資料としてとどめておくのが、ヒロシマの願いでもあり、義務だと思う。

『毎日新聞』1976年6月19日

いぬいとみこ(東京在住の児童文学者)=ドームは、現在、単なる観光の象徴となってきている。ヒロシマをとどめておく意味でも被服倉庫跡を保存することは重要な意味を持つ。

田中千禾夫(作家)=原爆ドームにしろ被爆の痛ましい残がいは、すべて残しておくべきだ。残がいは生きている。現実に平和を訴える”証”として現代に息づいている。半永久的にドームを保護した広島市は、ぜひ残しておくべきだ。

栗原貞子(地元の詩人)=ヒロシマのありのままの歴史を伝える建築物がどんどん姿を消している。原爆ドームは今や観光のトレードマーク。原爆のツメ跡がくっきり残った残がいはきちんと保存しておくべきだ。

竹内武広島県被団協事務局員=私有地で見つかった残がいならば買い取るといった問題があると思う。しかし、今回のケースはそれと違い国有地の中。ぜひとも保存してとどめておくべきだろう。

広島市建設局公園緑地部=あの残がいは、公園予定地(5ヘクタール)のちょうど真ん中にあたる。あれが残っていると支障があることは事実。また、建設省の最初の指導指針でも、一切の建物を建てず、広場だけの公園を作るようにといっている。しかし、爆心地にあれほど近く、原爆の惨状を生々しく伝える貴重な残がいであるということは十分認識している。

『毎日新聞』1976年6月24日

野村哲夫基町明治会会長=この倉庫が当時どうなったのかを、こうした証人の人の話を集めれば、原爆で空白になった部分を解明できる。この倉庫は軍隊の施設だったから残すという考えではなく、原爆の悲惨さを訴え、平和のために残したい。

広島ユネスコ協会=被爆体験の継承に役立つ貴重な被爆建築物。

『毎日新聞』1976年6月24日