国内ジャーナリスト研修「ヒロシマ講座」2005<作業中>
平成17年度国内ジャーナリスト研修「ヒロシマ講座」研修プログラム
止
国内ジャーナリスト研修「ヒロシマ講座」2005<作業中>
平成17年度国内ジャーナリスト研修「ヒロシマ講座」研修プログラム
止
国内ジャーナリスト研修「ヒロシマ講座」<作業中>
実施者:広島市
実施概要
年月日 | 参加者 | 備考 | |
2002 | 2 | ||
2003 | 7 | ||
20040728~0807 | 7 | 愛媛新聞社、紀伊民報社、岐阜新聞社、神戸新聞社、四国新聞社、中日新聞社、新潟日報社 | |
20050728~0807 | |||
2006 | |||
2007 | |||
2008 | |||
2009 | |||
2010 | |||
2011 | |||
2012 | |||
2013 | |||
2014 | |||
2015 | |||
2016 | |||
2017 | |||
2018 | |||
2019 | |||
2020 | |||
2021 | 参加記者の記事: 徳島新聞「平和をつなぐ-76年目のヒロシマ」(9/6、9/7、9/8、9/9)https://www.topics.or.jp/articles/-/588275 | ||
20220728~ | 10 | 「昨年度までに171人参加」『中国新聞』(20220729) | |
『朝日新聞よ、変わりなさい!』(朝日新聞労働組合新聞研究委員会編、葉文館出版、20000413)<作業中>
内容
章 | ||
まえがき | ||
1 | 朝日新聞よ、変わりなさい! | |
1 テリー伊藤の「私が社長だったらこう変える」 | ||
2 討論会「テリー伊藤VS朝日新聞」 | ||
2 | ジャーナリズムよ、変わりなさい | |
斎藤茂男の「世紀末日本を歩いて」 | ||
斎藤茂男の「世紀末日本を歩いて」 | ||
有山輝雄の「報道機関と言論機関」 | ||
辻元清美の「お互い因果な商売や」 | ||
目加田説子の「市民の力が世界を変える」 | ||
杉山隆男の「メディア・ビッグバン」 | ||
宮崎学の「アウトローからみたジャーナリズム」 | ||
3 | ニッポンよ、変わりなさい | |
1 講演録 戦後沖縄の挑戦 大田昌秀 | ||
2 討論会 響け、われらの声 –沖縄・アイヌ・在日から | ||
3 インタビュー だから変だよ、ニッポン人 | ||
萱野 茂の「言葉こそ民族のあかし」(前半) | ||
貝澤裕子の「二つの文化を学ぶ」(後半) | ||
大田昌秀の「ニッポンに異議あり」(前半) | ||
又吉栄喜の「眠っているパワーを探れ」(後半) | ||
藤本英夫の「違いを認め合うことから」(前半) | ||
辛 淑玉の「言論のタブーをなくそう」(後半) | ||
服部孝司の「見えない国境を見る」(前半) | ||
外岡秀俊の「多文化社会の可能性」(後半) | ||
あとがき |
止
『ドキュメント中国百年第3部-重い軌跡』(中国新聞社(編)、浪速社、1968年5月27日)
内容
章 | 見出し |
1 | 空行かば |
山本長官の戦死/元師につづけ/色あせたノート/魂の記録/土浦/海軍航空隊/玉砕の悲報/悪化する戦況/感激の初飛行/死生観/硫黄島/血戦/夢まくら/戦死公報/悪魔のつめ跡/看病日記/英霊/防人の歌/ | |
2 | 学徒出陣 |
/冷たい秋雨/死の影/精神の軌跡/国家と青春と死と/高速戦艦/「榛名」/海の城井沈没/生き残った者の怒り/ | |
3 | 必死必中 |
/「回天」誕生/訓練開始/初の殉職者/和田稔の日記/菊水隊の戦果/死との対決/生還者/死と生と/読経の日々 遺族めぐり/望郷の丘/全軍特攻/連続と断絶/ | |
4 | 民族のどうこく |
/霧の島//敗戦の日/正義を信じて/暗い不安/モロタイ島/重労働と虐待/東京裁判/原爆投下問題/報復/残虐の証言/暴行/死の行軍/屈辱の体罰/涙雨 /近づく最期 /絞首台の祈り/良心と真実/巣鴨入り/獄中からの手紙/マヌス送り/四年間の落差/裏切り/有罪判決/見捨てられた戦犯/いけにえ/命令と責任/ | |
5 | 原爆裁判 |
/戦勝国の不正義/歌集『人類』/「原爆民訴或問」/原爆損害求償同盟発足/失望/ビキニ事件/火の玉/未知への挑戦/原告たち/ゆがんだ社会/訴状/賠償請求の権利/食い足りぬ答弁書/政府の議声明/二つの論理/後継者/国際法違反で一致/三鑑定人の解釈/裁判官の怒り/あふれた真情/回想と反省/戦後は終わらない/ | |
6 | 民族と国家 |
あとがき(森脇幸次 中国新聞編集局長) | |
<昭和42年9月1日から同年12月31日まで、121回にわたって中国新聞朝刊に連載した「日本の血・第3部―重い軌跡」をまとめたもの> | |
<取材・執筆には特別取材班の平岡敬・阿部洋が当たった。> |
止
『ナガサキを考える 被爆50周年原爆平和報道記録』(長崎新聞社、19960701)
内容
頁 | ||
発刊にあたって(長崎新聞社報道部) | ||
被爆50周年は「長崎を地球最後の被爆地に」と叫び続ける地元紙にとってその責任と使命を問われる重いテーマでした。原爆の生き証人である被爆者の平均年齢はすでに65歳。被爆百周年という次の節目を迎えられる被爆者はほとんどいない、という厳然たる事実があるからです。週1ページ企画の「ナガサキを考える」シリーズは、被爆地長崎が抱える原爆・平和問題を洗い出し、読者に提起すると同時に、記者自身が現場で問題点を今一度とらえ直そう、と始めました。若手記者が原爆取材に飛び込むきっかけになれば、との期待もありました。被爆遺構、援護法、平和教育、原爆語り部、戦争責 任などのテーマでほぼ毎週掲載、被爆51周年の現在も続け原爆、平和間題のページとして定着しました。このシリーズの中から数多くの連載が生まれました。被爆50周年の一年間に取り組んだ原爆平和関連の企画物は報道部だけでも20シリーズに上ります。 このたび、長崎新聞が被爆50周年に取り組んだ原爆平和企画を記録する冊子を発行する運びとなりました。「ナガサキを考える」を中心に社説、文化面企画などを加えた内容で、企画の背景を分かりやすくするため、一般記事の一部も入っています。スクラップ集となりましたが、行間に長崎新聞社の記者の平和への思いを込めています。学校で、地域で、原爆平和を考える資料に活用していただければ幸いです。 |
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01 | 社説<1995年> | |
被爆50周年を迎えて 長崎はいま何をなすべきか(1月1日) 長崎から核廃絶の一歩を(6月11日) 遠く険しい核廃絶への道(6月17日) 核兵器廃絶に新たな運動を(8月9日) 長崎に艦船は似合わない(9月15日) |
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第1部 ナガサキを考える 被爆50周年を前に | ||
1994年 | ||
忘れ去られたもう一つの鳥居(5・8) 危機に直面-援護法制定運動(5・15) 修学旅行に見る中学校の平和教育(5・22) 国連軍縮広島会議を終わって(5・29) 減少する「語り部」(6・5) いつ出る厚生省見解i残留プル報告書棚上げ状態?(6・19一) 埋もれゆく被爆体験集(6・19) ずさんな戦後処理浮き彫り(6・26) 心に刻めるか戦争責任(7・3) 実現できるか被爆者援護法(7・10) 各界の声を集めンンポー長崎平和大集会(7・24) 核軍縮を求める二十二人委員会(7・31) 学年一体で取り組み―長崎・横尾小平和教育(8・7) 長崎平和推進協会発足十二年目の課題(8・21) 故岡正治氏が残したもの(8・28) 教師27人中国の旅(9・4) 保存か再開発か住吉トンネルエ場跡(9・11) 国家補償の援護法をめざして(9・18) 建て替え進む国際文化会館(9・25)高校の平和教育(10・2)国家機密のベールー旧三菱兵器製作所(10・9) 運営基盤揺れる放影研(10・16) 援護法で自、社協議「均衡論」めぐり難航(10・23) 米・スミソニアン博物館原爆展「投下の正当性」に懸念(10・30) 8・9登校定着しない北松地区(11・13) 非核自治体宣言県内実施二割弱、全国四十五位(11・20) 政府と野党の思惑先行―援護法審議入り(11・27) 被爆資料は貸し出しすべきか―米スミソニアン原爆展計画修正(12・11) もう一つの悲願一「被爆地域是正」(12・18) |
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1995年 | ||
被爆者の「自分史」(1・15) 被爆遺構保存ピンチ(2・19) 近づくNPT会議、国連軍縮会議長崎会議(2・26) 記念事業は市民参加型に―長崎市の被爆50周年記念事業(3・5) 「語り部」のインド平和の旅(3・12) あの日の惨状伝えたい―恵の丘原爆ホーム原爆劇(3・19) 軍縮会議プレ会議(3・23) もっとアジアへ、情報発信(3・26) 外国人の意見ノート、文化会館(4・2)どうなる原水禁運動―(4・9) 語り部続け26年、証言の会(5・21) NAC平和大使(5・28) 被爆地にもう一つの顔、兵器生産(6・4) 原爆、日米にギャップ(6・11) 国連軍縮長崎会議閉幕(6・18)シンポ(7・4) もう一つの語り部、バスガイド(7・16) 県議会・市議会50年決議(7・30) 平和宣言の50年(8・13) 追悼の碑歩こう(8・20) チェルノブイリ、生かせ被爆地(8・27) 被爆地是正、相次ぐ決議(10・1) 国際司法裁判所(10・29) 核実験抗議の座り込み(11・12) 外国人被爆者コーナー(11・24) 教育研究集会(12・3) 市長語録(12・10) |
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1996年 | ||
大学の役割(1.・7) 核兵器国際法違反・古川教授に聞く(1・14) フランス世論、ミホ・シボさんに聞く(1・21) 学ぶべき広島の行動力(1・28) 抗議の旗降ろさず(2・4) 海外に平和通訳ネットワークを(2・11) 絵筆に託す体験継承(2・18) 共通理解へ問いかけ(3・10) |
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第2部 原爆平和企画報道 | ||
1994年 | ||
「消えた国家補償」(5回) | ||
1995 | ||
語り継ぐナガサキ「原爆の子」(4回)(1・1) 語り継ぐナガサキ「原爆孤児」(6回)(1・25) 語り継ぐナガサキー千恵子の日記」(5回)(3・14) 遠い碑(8回)(1・31) 被爆遺品展示せず、「溝は埋められるのかI(6回)(2・7) 「生きていてごんめねI(8回)(5・17) 「届けナガサキの声」(2回)(6・8) 動員被爆の少年少女たち・第1部(5回)(6・6) 動員被爆の少年少女たち・第2部(10回)(6・11) 平和市長の16年(19回)(6・9) 無言の告発(15回)(6・6) 被爆遺構ワイド(6・21) 平和の礎(3回)(7・4) 広がる米原爆展論争(5回)(7・8) アメリカ人の原爆観(12回、学者の意見)(7・18~30、8・6) 原爆論争-米の歴史家こう見る(8・6) アジア人の原爆観(10回)(8・1~10) 夏雲の丘(20回)(7・15~8・30) 平和を伝えて(7回)(7・21) 山里小学校「50年目の鎮魂」(3回) 「焦燥の夏」(5回) 「夢の祖国」(7回) 「怒りの南太平洋」(8回) 「断絶に向き合った被爆者たち」(6回) 「核を裁く」(4回) |
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1966年 | ||
「揺れる被爆国」(1~15) | ||
資料編 | ||
1994年 | ||
援護法実現へ(11・3)
援護法―消えた「国家補償」(11・3) 公聴会(12・1) |
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1995年 | ||
国連軍縮長崎会議(開幕、声を世界に、アンケート)(6・13) フランス核実験再開(シラク大統領発表)(6・15)会議閉幕((6・17) 沖縄50年(6・24) ピースサミット(6・25) スミソニアン、エノラ・ゲイ展開幕(6・30) 米艦船受け入れ、市長が表明 韓国で原爆展(開幕、反応)(7・26) 天皇訪問(7・27) |
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山里小学校 | ||
被爆50周年平和祈念式典 | ||
終戦記念日アンケート | ||
終戦記念日 | ||
中国核実験 | ||
フランス核実験 | ||
フランス核実験強行 | ||
フランス核実験 | ||
フランス核実験 | ||
ブルーリッジ長崎入港 | ||
市長を証人申請 | ||
フランス核実験 | ||
市長、国際法違反を明言 | ||
フランス核実験 | ||
1996年 | ||
フランス6回目核実験 シラク大統領核実験停止宣言 核なお二万発、廃絶の叫び世界へ 忘れないあの惨禍、人も街も消え |
||
止
『あなたと共に20年 広島テレビ放送開局20周年記念誌』(広島テレビ放送株式会社、1982年9月1日)
内容<作業中>
章 | 見出し | ||
1 | よりよい明日のために | ||
2 | ヒロシマから訴える | ||
平和の願いを世界に | |||
被爆の実相を追い続けて | |||
数々の受賞作品 | |||
そして平和音楽祭 | |||
ゴールデンメイプル賞 | |||
あの日あの時 | |||
3 | 行け!われらのカープ | ||
4 | お茶の間に楽しみを | ||
5 | 多彩な事業活動 | ||
三大イベント 広島平和音楽祭 | |||
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6 | 広島テレビの現況 | ||
7 | 年表 | ||
平和式典報道体制(広島テレビ)
撮影年月日:2017年8月6日午前8時26分 |
撮影者:宇吹暁 |
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撮影年月日:2018年8月6日午前8時35分 |
撮影者:宇吹暁 |
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『ヒロシマはどう記録されたか NHKと中国新聞の原爆報道』(NHK出版<日本放送出版協会>編・刊、20030730)
内容
章 | |||
はじめに | |||
序 | そのとき、ラジオ・新聞は | ||
ラジオ放送が止まった/新聞記事にできない | |||
1 | 第一章 それぞれの八月六日朝 | ||
八月六日付中国新聞朝刊/その朝のラジオ放送/大佐古記者の身代わり/生き運のいい松重カメラマン/中村記者の汚れたワイシャツ/間一髪、三人の放送局員 | |||
2 | 第二章 広島壊滅のとき | ||
原爆投下・一〇秒の衝撃/広島中央放送局壊滅/もう一つのヒロシマ/中国新聞社壊滅/中国新聞社国民義勇隊全滅 | |||
3 | 第三章 あの日の五枚の写真 | ||
八月六日午前・二枚の写真/坪井はここに死す/後ろ姿の少年とセーラー服の少女/明の行方を知っていますか/八月六日午後・三枚の写真/被爆写真・もう一つの記憶 | |||
4 | 第四章 絵に残されたあの日の記憶 | ||
市民の手で原爆の絵を/ 母と子の原爆の絵/ 司令部特設放送室壊滅/ まぼろしの声/ 母と子の絵、ふたたび |
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5 | 第五章 幻の原爆第一報 | ||
黒い雨/幻となった原爆第一報/軍管区発表も、記事にできない/ピカドン第二報、地獄の川を下る | |||
6 | 第六章 爆心地の夜 | ||
八月末日夜・相生橋の一夜/袋町小学校の朝、比治山の夜/韓国に渡った原爆孤児/アメリカに渡った原爆乙女/生ましめんかな | |||
7 | 第七章 原子野に月冴えわたる | ||
比治山多聞院の臨時県庁/宇品・江戸家猫八さんと原爆資料館長/中国新聞社、代行印刷へ/呉鎮原爆調査隊、広島に入れず | |||
8 | 第八章 原子砂漠の朝 | ||
八月七日・広島が消えた/爆心半径五百メートル/被爆地図復元へ/爆心地復元の元ディレクター/材木町から中島本町へ/遺影は語る/ヒロシマからの第一声 | |||
9 | 第九章 子どもたちの被爆 | ||
三位一体の人形になった子どもたち/母たちの悲しみ/元原爆資料館長と元エノラ・ゲイ機長/動員学徒たちの被爆 | |||
10 | 第十章 アメリカ兵捕虜の被爆 | ||
爆心地の被爆米兵/爆撃機ローンサム・レディー号/元搭乗員たちの生と死/トルーマン米大統領の声明/長崎被爆 | |||
11 | 第十一章 特殊爆弾の正体を解明せよ | ||
呉鎮原爆調査団、爆心地へ/密命・幻の海軍原爆調査団/陸軍原爆調査団と仁科博士/わが国の原爆研究/三発の不発弾と長崎原爆のゾンデ/終戦を決めた原爆調査報告書/調査団員、それぞれの戦後 | |||
12 | 第十二章 新聞再開への道 | ||
在広新聞社の被爆/一県一紙と代行印刷/八月九日付中国新聞/終戦、大佐古記者の召集/九月三日付、自力発行第一号/原爆プレス・コードの発令 | |||
13 | 第十三章 原爆報道のあけぼの | ||
台風、ふたたび代行印刷へ/十一月五日付、本社復帰第一号/生きている「死せるカメラマン」/放送局再開、平和祭の呼びかけ | |||
14 | 第十四章 「広島特報」から「ビロシマ新聞」へ 三十五年目の原爆新聞/昭和二十年八月七日付と八日付「広島特報」/昭和二十年八月七日付「ヒロシマ新聞」/いまなぜ「ビロシマ新聞」か |
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15 | 第十五章 未来への伝言 | ||
俳優木村功の遺言/記者たちの伝言/核時代の記録・中国新聞は何を伝えたか/科学者たちの予見・核戦争後の地球/テレビは核をどう伝えたか | |||
あとがき 本書の編集にあたって | |||
引用・参考文献 | |||
年表NHK・中国新聞社原爆報道史 | |||
NHK・NHK出版、中国新聞社編集・発行の原爆関連図書 | |||
協力・資料提供者一覧 | |||
『NHK広島放送局60年史』( NHK広島放送局60年史編集委員会編、NHK広島放送局刊、1988/07/01)
内容
章節 | ||
開局60周年にあたって | ||
Ⅰ | 広島放送局の誕生 1 | |
1 | 日本放送協会中国支部設立 | |
ラジオの幕開け 1 日本放送協会中国支部設立 2 JOFK・こちらは広島放送局 4 総動員の郷土芸能人-開局記念番組- 7 |
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2 | 初期の放送番組 | |
放送番組の編成 9 とぎれとぎれの放送時間 10 報道放送 13 ニュース 臨時ニュース 産業ニュース 職業紹介 時報 生繭相場 局報 日用品値段 気象通報 経済市況 教養放送 17 講演講座 料理献立 青年の時間と農家の時間 学校放送 子供の時間 慰安放送 20 演芸 演劇 邦楽 洋楽 スタジオ外放送 23 |
||
3 | 初期の放送設備 | |
放送機 電源 空中線 演奏室 マイクロホン 音声増幅器 連絡線・中継線・非常時連絡装置 有線中継と無線中継 | ||
4 | 強まるラジオへの関心 | |
全国初めての聴取者嗜好調査 30 受信者普及運動 31 文書宣伝 映画講演会 放送実演・放送実験つき子供大会 ラジオ体操の会 講習会 ラジオ商組合・供電業者 特殊サービス 伸びる受信契約者数 35 地方局と出張所 37 中国支部が広島中央放送局に 38 |
||
Ⅱ | 戦争と放送 | |
1 戦争体制へ 日中戦争と放送統制 41 戦時色に変わる放送番組 42 ひろがる放送網 45 岡山・鳥取放送局は、大阪から広島中央放送局管内に 46 |
||
2 太平洋戦争 きびしい電波管制 48 戦時中の放送番組 49 原放送所に三角塔型空中線建設 53 妨害放送 53 受信者の動き(昭和10年代)55 司令部地下壕からの空襲警報放送 56 番組表・加入者原簿の疎開 57 |
||
Ⅲ | 原爆と広島中央放送局 | |
昭和20年(1945)8月6日、広島に原爆投下 59 原爆投下8月6日午前8時15分 61 被爆直後の広島中央放送局 63 広島中央放送局職員の被爆状況 65 原放送所での救急活動と生活 77 惨禍の中での単独放送開始 78 昭和20年8月21日以降の放送部事務日誌から 81 |
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Ⅳ | 混乱から復興へ | |
1 占領下の放送 第二放送、第三放送開始 89 ラジオコードの指令 90 復旧した流川演奏所 92 再生第一歩の初放送 94 ゼロからの出発 95 2 開放された放送 ローカル放送番組始まる 97 戦後のJOFKかいわい 99 マイク街頭へ 101 放送ストライキと放送国家管理 102 放送記者誕生 104 天皇ご巡幸と報道 105 平和記念式典の変遷 106 公開番組あれこれ 107 広島県放送文化普及委員会の発足 109 |
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Ⅴ | 発展するラジオ文化 | |
1 新しい放送制度 電波三法の施行 111 特殊法人日本放送協会の発足 111 中国地方の民間放送 112 2 ラジオ全盛期へ 多彩なラジオ番組 115 戦後の番組編成から- FKのスタジオ事情 農事放送とRFD全局をあげての仕事 スポーツ放送(昭和20年代)全国版に躍り出たローカル番組 芸能番組と部外放送関連団体 報道課誕生(昭和26年から現在まで)134 ラジオ・ドラマ花ざかり 151 FK芸能団体の活躍 156 広島放送管弦楽団 広島放送交響楽団 広島放送合唱団 広島放送劇団 広島放送児童合唱団 広島放送児童劇団 円盤録音からテープ録音へ 167 ラジオ放送網の建設 168 活発な周知活動 171 瀬戸内海文化船・文化バス 巡回ラジオ列車 NHKたすけあい夏・期移動相談 ラジオの集い NHK全国学校音楽コンクール 受信者の動き(昭和20年代)176 受信障害対策の変遷 178 |
||
Ⅵ | テレビ時代の到来 | |
1 広島テレビジョン局開局 テレビの始まり 181 比治山テレビ放送所 182 昭和31年3月21日JOFK-TV開局 185 |
||
2 初期のテレビ番組と放送制作 テレビローカル定時番組開始 189 平和記念式典初のテレビ中継 190 ローカルテレビニュース放送開始 192 待望のテレビ中継車配備 196 テレビ中継車でスタジオ番組を制作 199 8ミリによるローカル番組 200 テレビ特集、特別番組(昭和30年代)202 スポーツ放送(昭和30年代)205 FK制作テレビドラマの系譜 207 広島放送会館落成 213 テレビジョン放送局建設ラッシュ 217 中国地方放送番組審議会の発足 221 FM放送の開始と運行業務 222 |
||
3 放送利用運動と視聴者サービス 放送教育研究会全国大会の開催 225 NHK婦人学級・放送利用農業集団の開設 228 あいつぐ海外演奏家・海外著名人の来広 228 番組公開 230 NHKサービスステーションの開設 231 テレビ受信対策 232 福山テレビ開局対策 大崎テレビ局UHF転換対策 受信者の動き(昭和30年代)234 |
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Ⅶ | カラー放送の時代 | |
1 テレビ、カラー化進む カラー放送の開始 237 ローカル番組もカラー化 238 爆心地図復元運動 240 ローカル30分番組の移り変わり 246 市民の手で原爆の絵を運動 249 特集・特別番組(昭和40年代)256 スポーツ放送(昭和40年代)と昭和50年のカープ初優勝 258 |
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2 視聴者とともに 視聴者サービス月間実施 261 生涯学習と放送 262 NHK交響楽団公演 266 番組公開 267 難視解消への取り組み 268 広島中央放送局ロビーに原爆之碑建立 272 受信者の動き(昭和40年代)275 |
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Ⅷ | 地域放送の拡充 | |
1 多様化するテレビ番組 ローカルワイドニュースの新設 277 特集番組の拡充 284 瀬戸内海企画シリーズ(昭和15年から現在まで)285 番組素材の宝庫「厳島」 288 昭和50年代の特集番組 290 地域とともに「まちかど号」 293 スポーツ番組(昭和50年代)296 昭和50~60年代の主なラジオ番組 297 |
||
2 新しい技術 ニュース・番組制作全面ビデオ化 298 ニュースメディアの幕開け 300 衛星放送 文字放送 テレビ音声多重放送 緊急警報放送 ハイビジョン放送 |
||
3 放送文化の発展を願って 視聴者センターの設置 304 テレビ放送開始30周年キャンペイン 305 中国地方テレビ映像祭 306 地域総合イベント 307 受信者の動き(昭和50年代)311 |
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4 ニューメディア時代を迎えて 各地で衛星放送公開・BSコンサート 315 中国地方文字放送フェア 315 広島放送局のきょうとあす 317 |
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原爆放送史 | ||
原爆放送の概観 321 | ||
NHKの原爆放送と私 327 | ||
原爆関連放送番組表(昭和21年~昭和63年)330 | ||
広島放送局制作原爆関連番組出版図書一覧 364 | ||
資料 | ||
昭和63年度地域放送番組一覧 367 広島放送局制作受賞番組一覧 368 ラジオ受信契約数の推移 371 テレビ受信契約数の推移 373 中国管内・県別受信契約数 376 中国管内ラジオ放送局一覧 377 中国管内テレビジョン・FM放送局一覧 378 広島県内の辺地共同受信施設一覧 393 広島放送局在籍者名簿[管理職 昭和2年度~61年度] 399 〃 [全職員 昭和30年度~61年度] 413 〃 [全職員 昭和62年度] 426 |
||
年表 429 |
備考
『爆心』(朝日新聞(広島版)連載 19850403~0822)
部 | 回 | |
Ⅰ | 被爆死の空白 | |
1 | 白い花の記憶 遺骨の中に一輪 手向けの主は呉服商と判明 消えた繁華街・中島 消息不明なお多数 | |
2 | 小さき骨 | |
3 | 軍用旅舎 | |
4 | 天神町北組 | |
5 | 検校社 | |
6 | 支社史 | |
7 | 1/37 | |
8 | アイゴー | |
9 | 白衣 | |
10 | 通行人 | |
11 | 動員学徒 | |
12 | 68.8キロ | |
Ⅱ | その生活史 | |
1 | ||
2 | ||
3 | ||
4 | ||
5 | ||
6 | ||
7 | ||
8 | ||
9 | ||
10 | ||
11 | ||
12 | ||
13 | ||
14 | ||
Ⅲ | 40年の歩み | |
1 | ||
2 | ||
3 | ||
4 | ||
5 | ||
6 | ||
7 | ||
8 | ||
9 | ||
10 | ||
11 | ||
12 | ||
13 | ||
14 | ||
15 | ||
16 | ||
17 | ||
18 | ||
19 | ||
Ⅳ | 生還 | |
1 | ||
2 | ||
3 | ||
4 | ||
5 | ||
6 | ||
7 | ||
8 | ||
9 | 二度とあっちゃいけんこと 9歳の記憶 | |