47NEWS 参加社2022年8月6日社説一覧
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北海道・東北 |
北海道新聞 |
【社説】77年前のきょう、米国が広島に原子爆弾を投下した。3日後、長崎にも落とした。広島では約14万人が、長崎では約7万4千人がその年のうちに亡くなった。体がむしばまれ、今なお障害に苦しむ人も多い。<以下略> |
河北新報 |
【社説】核を巡り、世界は激しく揺すぶられている。77年前のきょう、広島に原爆が落とされた。3日後、長崎でもさく裂した。日常を破壊し、焼き尽くす核兵器。その脅威が再び視野に入り、国際社会の視界を曇らせる。<以下略> |
デーリー東北 |
【時評】8月6日を迎えた。広島市内の平和記念公園で「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が開催される。<以下略> |
秋田魁新報 |
【社説】中国は台湾周辺で「重要軍事演習行動」を開始。弾道ミサイル11発を発射したとみられる。軍事演習は7日までの4日間。東シナ海周辺の安全保障環境の緊迫化が避けられない。関係各国は偶発的な衝突の回避に努めなくてはならない。<以下略> |
福島民報 |
【論説】広島はきょう六日、長崎は九日に戦後七十七回目の原爆の日を迎える。 |
福島民友新聞 |
【社説】今後も豪雨災害が懸念される時期が続く。<以下略> |
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関東・甲信越 |
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【社説】信濃毎日新聞
日中外相会談が、中国側の申し出で直前に中止された。ペロシ米下院議長の台湾訪問に反発した習近平指導部は、対抗措置として「重要軍事演習行動」を取ると公表した。<以下略> |
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【社説】新潟日報
多くの人命を一瞬で奪った原爆投下から77年がたつ。きょう6日は広島市で、9日は長崎市で平和式典が開かれる。<以下略> |
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東海・北陸 |
福井新聞 |
【論説】広島はきょう、77年目の「原爆の日」。長崎は9日に鎮魂の祈りに包まれる。<以下略> |
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近畿 |
京都新聞 |
【社説】大規模な通信障害を発生させたKDDI(au)に対し、総務省は電気通信事業法に基づき再発防止策を講じるよう行政指導した。<以下略>
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神戸新聞 |
【社説】広島はきょう、原爆投下から77年を迎える。9日の長崎と合わせて、数十万人もの命が奪われた。核廃絶は人類共通の宿願である。だがウクライナ危機が長期化し、核兵器使用の懸念も高まる中、「核なき世界」は遠ざかるばかりだ。<以下略> |
奈良新聞 |
【金曜時評】かつて輝いていた商店街が、近年は地域経済衰退の象徴のように取り上げられる場合がある。<以下略> |
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四国・中国 |
山陽新聞 |
【社説】ロシアによるウクライナ侵攻で、核兵器の脅威が近年になく高まる中、広島原爆の日を迎えた。<以下略> |
中国新聞 |
【社説】「運命の午前8時15分。強烈な閃光(せんこう)と共に私の知る世界は一変しました…」 右足のけがで入院していた時に被爆した、当時10歳の宮本静さんが今年初め、長文の体験記をしたためた。<以下略> |
山陰中央新報 |
【社説】広島はきょう「原爆の日」を迎えた。3日後には長崎にも、その日が訪れる。<以下略> |
愛媛新聞 |
【社説】広島はきょう、長崎は9日、77回目の原爆の日を迎える。<以下略> |
高知新聞 |
【社説】今月1日、米ニューヨークで開幕した核拡散防止条約(NPT)再検討会議の冒頭、国連のグテレス事務総長は「人類は広島と長崎の恐ろしい炎から得た教訓を忘れつつある」と危機感をあらわにした。<以下略> |
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九州・沖縄 |
西日本新聞 |
【社説】90秒間の映像が戸惑いと波紋を広げた。「核攻撃をされました。私たちはどうしたらいい?」この7月、米ニューヨーク市が市民向けに公開した動画だ。米最大都市への核攻撃を想定し、ガイド役の女性が行動指針を説明している。<以下略> |
佐賀新聞 |
【論説】広島はきょう「原爆の日」を迎えた。3日後には長崎にも、その日が訪れる。77年前、2度の原爆投下で20万人以上が犠牲になり、なお多くの人が健康被害に苦しむ。<以下略> |
南日本新聞 |
【社説】
1993年8月6日、鹿児島市とその周辺が、かつてない豪雨災害に見舞われた。「8・6水害」から、きょうで29年になる。<以下略> |
琉球新報 |
【社説】
広島への原爆投下から77年となった。77年前のきょう広島で、9日に長崎で、人類にとって初めての核兵器による無差別大量虐殺が行われた。<以下略> |
沖縄タイムス |
【社説】77年前のきょう、米軍による一発の原子爆弾で広島の街が壊滅した。9日には長崎にも投下された。<以下略> |
止
国内ジャーナリスト研修「ヒロシマ講座」2005<作業中>
平成17年度国内ジャーナリスト研修「ヒロシマ講座」研修プログラム
止
国内ジャーナリスト研修「ヒロシマ講座」<作業中>
実施者:広島市
実施概要
年月日 |
参加者 |
備考 |
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2002 |
2 |
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2003 |
7 |
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20040728~0807 |
7 |
愛媛新聞社、紀伊民報社、岐阜新聞社、神戸新聞社、四国新聞社、中日新聞社、新潟日報社 |
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20050728~0807 |
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2006 |
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2007 |
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2008 |
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2009 |
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2010 |
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2011 |
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2012 |
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2013 |
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2014 |
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2015 |
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2016 |
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2017 |
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2018 |
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2019 |
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2020 |
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2021 |
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参加記者の記事: 徳島新聞「平和をつなぐ-76年目のヒロシマ」(9/6、9/7、9/8、9/9)https://www.topics.or.jp/articles/-/588275 |
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20220728~ |
10 |
「昨年度までに171人参加」『中国新聞』(20220729) |
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『朝日新聞よ、変わりなさい!』(朝日新聞労働組合新聞研究委員会編、葉文館出版、20000413)<作業中>
内容
章 |
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まえがき |
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1 |
朝日新聞よ、変わりなさい! |
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1 テリー伊藤の「私が社長だったらこう変える」 |
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2 討論会「テリー伊藤VS朝日新聞」 |
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2 |
ジャーナリズムよ、変わりなさい |
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斎藤茂男の「世紀末日本を歩いて」 |
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斎藤茂男の「世紀末日本を歩いて」 |
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有山輝雄の「報道機関と言論機関」 |
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辻元清美の「お互い因果な商売や」 |
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目加田説子の「市民の力が世界を変える」 |
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杉山隆男の「メディア・ビッグバン」 |
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宮崎学の「アウトローからみたジャーナリズム」 |
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3 |
ニッポンよ、変わりなさい |
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1 講演録 戦後沖縄の挑戦 大田昌秀 |
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2 討論会 響け、われらの声 –沖縄・アイヌ・在日から |
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3 インタビュー だから変だよ、ニッポン人 |
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萱野 茂の「言葉こそ民族のあかし」(前半) |
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貝澤裕子の「二つの文化を学ぶ」(後半) |
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大田昌秀の「ニッポンに異議あり」(前半) |
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又吉栄喜の「眠っているパワーを探れ」(後半) |
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藤本英夫の「違いを認め合うことから」(前半) |
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辛 淑玉の「言論のタブーをなくそう」(後半) |
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服部孝司の「見えない国境を見る」(前半) |
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外岡秀俊の「多文化社会の可能性」(後半) |
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あとがき |
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止
『ドキュメント中国百年第3部-重い軌跡』(中国新聞社(編)、浪速社、1968年5月27日)
内容
章 |
見出し |
1 |
空行かば |
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山本長官の戦死/元師につづけ/色あせたノート/魂の記録/土浦/海軍航空隊/玉砕の悲報/悪化する戦況/感激の初飛行/死生観/硫黄島/血戦/夢まくら/戦死公報/悪魔のつめ跡/看病日記/英霊/防人の歌/ |
2 |
学徒出陣 |
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/冷たい秋雨/死の影/精神の軌跡/国家と青春と死と/高速戦艦/「榛名」/海の城井沈没/生き残った者の怒り/ |
3 |
必死必中 |
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/「回天」誕生/訓練開始/初の殉職者/和田稔の日記/菊水隊の戦果/死との対決/生還者/死と生と/読経の日々 遺族めぐり/望郷の丘/全軍特攻/連続と断絶/ |
4 |
民族のどうこく |
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/霧の島//敗戦の日/正義を信じて/暗い不安/モロタイ島/重労働と虐待/東京裁判/原爆投下問題/報復/残虐の証言/暴行/死の行軍/屈辱の体罰/涙雨 /近づく最期 /絞首台の祈り/良心と真実/巣鴨入り/獄中からの手紙/マヌス送り/四年間の落差/裏切り/有罪判決/見捨てられた戦犯/いけにえ/命令と責任/ |
5 |
原爆裁判 |
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/戦勝国の不正義/歌集『人類』/「原爆民訴或問」/原爆損害求償同盟発足/失望/ビキニ事件/火の玉/未知への挑戦/原告たち/ゆがんだ社会/訴状/賠償請求の権利/食い足りぬ答弁書/政府の議声明/二つの論理/後継者/国際法違反で一致/三鑑定人の解釈/裁判官の怒り/あふれた真情/回想と反省/戦後は終わらない/ |
6 |
民族と国家 |
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あとがき(森脇幸次 中国新聞編集局長) |
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<昭和42年9月1日から同年12月31日まで、121回にわたって中国新聞朝刊に連載した「日本の血・第3部―重い軌跡」をまとめたもの> |
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<取材・執筆には特別取材班の平岡敬・阿部洋が当たった。> |
止
『ナガサキを考える 被爆50周年原爆平和報道記録』(長崎新聞社、19960701)
内容
頁 |
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発刊にあたって(長崎新聞社報道部) |
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被爆50周年は「長崎を地球最後の被爆地に」と叫び続ける地元紙にとってその責任と使命を問われる重いテーマでした。原爆の生き証人である被爆者の平均年齢はすでに65歳。被爆百周年という次の節目を迎えられる被爆者はほとんどいない、という厳然たる事実があるからです。週1ページ企画の「ナガサキを考える」シリーズは、被爆地長崎が抱える原爆・平和問題を洗い出し、読者に提起すると同時に、記者自身が現場で問題点を今一度とらえ直そう、と始めました。若手記者が原爆取材に飛び込むきっかけになれば、との期待もありました。被爆遺構、援護法、平和教育、原爆語り部、戦争責
任などのテーマでほぼ毎週掲載、被爆51周年の現在も続け原爆、平和間題のページとして定着しました。このシリーズの中から数多くの連載が生まれました。被爆50周年の一年間に取り組んだ原爆平和関連の企画物は報道部だけでも20シリーズに上ります。
このたび、長崎新聞が被爆50周年に取り組んだ原爆平和企画を記録する冊子を発行する運びとなりました。「ナガサキを考える」を中心に社説、文化面企画などを加えた内容で、企画の背景を分かりやすくするため、一般記事の一部も入っています。スクラップ集となりましたが、行間に長崎新聞社の記者の平和への思いを込めています。学校で、地域で、原爆平和を考える資料に活用していただければ幸いです。 |
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01 |
社説<1995年> |
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被爆50周年を迎えて 長崎はいま何をなすべきか(1月1日)
長崎から核廃絶の一歩を(6月11日)
遠く険しい核廃絶への道(6月17日)
核兵器廃絶に新たな運動を(8月9日)
長崎に艦船は似合わない(9月15日) |
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第1部 ナガサキを考える 被爆50周年を前に |
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1994年 |
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忘れ去られたもう一つの鳥居(5・8)
危機に直面-援護法制定運動(5・15)
修学旅行に見る中学校の平和教育(5・22)
国連軍縮広島会議を終わって(5・29)
減少する「語り部」(6・5)
いつ出る厚生省見解i残留プル報告書棚上げ状態?(6・19一)
埋もれゆく被爆体験集(6・19)
ずさんな戦後処理浮き彫り(6・26)
心に刻めるか戦争責任(7・3)
実現できるか被爆者援護法(7・10)
各界の声を集めンンポー長崎平和大集会(7・24)
核軍縮を求める二十二人委員会(7・31)
学年一体で取り組み―長崎・横尾小平和教育(8・7)
長崎平和推進協会発足十二年目の課題(8・21)
故岡正治氏が残したもの(8・28)
教師27人中国の旅(9・4)
保存か再開発か住吉トンネルエ場跡(9・11)
国家補償の援護法をめざして(9・18)
建て替え進む国際文化会館(9・25)高校の平和教育(10・2)国家機密のベールー旧三菱兵器製作所(10・9)
運営基盤揺れる放影研(10・16)
援護法で自、社協議「均衡論」めぐり難航(10・23)
米・スミソニアン博物館原爆展「投下の正当性」に懸念(10・30)
8・9登校定着しない北松地区(11・13)
非核自治体宣言県内実施二割弱、全国四十五位(11・20)
政府と野党の思惑先行―援護法審議入り(11・27)
被爆資料は貸し出しすべきか―米スミソニアン原爆展計画修正(12・11)
もう一つの悲願一「被爆地域是正」(12・18) |
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1995年 |
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被爆者の「自分史」(1・15)
被爆遺構保存ピンチ(2・19)
近づくNPT会議、国連軍縮会議長崎会議(2・26)
記念事業は市民参加型に―長崎市の被爆50周年記念事業(3・5)
「語り部」のインド平和の旅(3・12)
あの日の惨状伝えたい―恵の丘原爆ホーム原爆劇(3・19)
軍縮会議プレ会議(3・23)
もっとアジアへ、情報発信(3・26)
外国人の意見ノート、文化会館(4・2)どうなる原水禁運動―(4・9)
語り部続け26年、証言の会(5・21)
NAC平和大使(5・28)
被爆地にもう一つの顔、兵器生産(6・4)
原爆、日米にギャップ(6・11)
国連軍縮長崎会議閉幕(6・18)シンポ(7・4)
もう一つの語り部、バスガイド(7・16)
県議会・市議会50年決議(7・30)
平和宣言の50年(8・13)
追悼の碑歩こう(8・20)
チェルノブイリ、生かせ被爆地(8・27)
被爆地是正、相次ぐ決議(10・1)
国際司法裁判所(10・29)
核実験抗議の座り込み(11・12)
外国人被爆者コーナー(11・24)
教育研究集会(12・3)
市長語録(12・10) |
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1996年 |
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大学の役割(1.・7)
核兵器国際法違反・古川教授に聞く(1・14)
フランス世論、ミホ・シボさんに聞く(1・21)
学ぶべき広島の行動力(1・28)
抗議の旗降ろさず(2・4)
海外に平和通訳ネットワークを(2・11)
絵筆に託す体験継承(2・18)
共通理解へ問いかけ(3・10) |
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第2部 原爆平和企画報道 |
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1994年 |
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「消えた国家補償」(5回) |
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1995 |
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語り継ぐナガサキ「原爆の子」(4回)(1・1)
語り継ぐナガサキ「原爆孤児」(6回)(1・25)
語り継ぐナガサキー千恵子の日記」(5回)(3・14)
遠い碑(8回)(1・31)
被爆遺品展示せず、「溝は埋められるのかI(6回)(2・7)
「生きていてごんめねI(8回)(5・17)
「届けナガサキの声」(2回)(6・8)
動員被爆の少年少女たち・第1部(5回)(6・6)
動員被爆の少年少女たち・第2部(10回)(6・11)
平和市長の16年(19回)(6・9)
無言の告発(15回)(6・6)
被爆遺構ワイド(6・21)
平和の礎(3回)(7・4)
広がる米原爆展論争(5回)(7・8)
アメリカ人の原爆観(12回、学者の意見)(7・18~30、8・6)
原爆論争-米の歴史家こう見る(8・6)
アジア人の原爆観(10回)(8・1~10)
夏雲の丘(20回)(7・15~8・30)
平和を伝えて(7回)(7・21)
山里小学校「50年目の鎮魂」(3回)
「焦燥の夏」(5回)
「夢の祖国」(7回)
「怒りの南太平洋」(8回)
「断絶に向き合った被爆者たち」(6回)
「核を裁く」(4回) |
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1966年 |
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「揺れる被爆国」(1~15) |
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資料編 |
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1994年 |
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援護法実現へ(11・3)
援護法―消えた「国家補償」(11・3)
国家補償援護法で公聴会(12・1)
公聴会(12・1)
成 立(12・10)
被爆遺品展示せず |
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1995年 |
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国連軍縮長崎会議(開幕、声を世界に、アンケート)(6・13)
フランス核実験再開(シラク大統領発表)(6・15)会議閉幕((6・17)
沖縄50年(6・24)
ピースサミット(6・25)
スミソニアン、エノラ・ゲイ展開幕(6・30)
米艦船受け入れ、市長が表明
韓国で原爆展(開幕、反応)(7・26)
天皇訪問(7・27) |
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山里小学校 |
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被爆50周年平和祈念式典 |
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終戦記念日アンケート |
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終戦記念日 |
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中国核実験 |
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フランス核実験 |
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フランス核実験強行 |
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フランス核実験 |
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フランス核実験 |
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ブルーリッジ長崎入港 |
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市長を証人申請 |
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フランス核実験 |
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市長、国際法違反を明言 |
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フランス核実験 |
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1996年 |
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フランス6回目核実験
シラク大統領核実験停止宣言
核なお二万発、廃絶の叫び世界へ
忘れないあの惨禍、人も街も消え |
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止
『あなたと共に20年 広島テレビ放送開局20周年記念誌』(広島テレビ放送株式会社、1982年9月1日)
内容<作業中>
章 |
見出し |
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1 |
よりよい明日のために |
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2 |
ヒロシマから訴える |
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平和の願いを世界に |
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被爆の実相を追い続けて |
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数々の受賞作品 |
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そして平和音楽祭 |
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ゴールデンメイプル賞 |
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あの日あの時 |
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3 |
行け!われらのカープ |
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4 |
お茶の間に楽しみを |
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5 |
多彩な事業活動 |
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三大イベント 広島平和音楽祭 |
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6 |
広島テレビの現況 |
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7 |
年表 |
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『ヒロシマはどう記録されたか NHKと中国新聞の原爆報道』(NHK出版<日本放送出版協会>編・刊、20030730)
内容
章 |
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はじめに |
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序 |
そのとき、ラジオ・新聞は |
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ラジオ放送が止まった/新聞記事にできない |
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1 |
第一章 それぞれの八月六日朝 |
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八月六日付中国新聞朝刊/その朝のラジオ放送/大佐古記者の身代わり/生き運のいい松重カメラマン/中村記者の汚れたワイシャツ/間一髪、三人の放送局員 |
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2 |
第二章 広島壊滅のとき |
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原爆投下・一〇秒の衝撃/広島中央放送局壊滅/もう一つのヒロシマ/中国新聞社壊滅/中国新聞社国民義勇隊全滅 |
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3 |
第三章 あの日の五枚の写真 |
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八月六日午前・二枚の写真/坪井はここに死す/後ろ姿の少年とセーラー服の少女/明の行方を知っていますか/八月六日午後・三枚の写真/被爆写真・もう一つの記憶 |
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4 |
第四章 絵に残されたあの日の記憶 |
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市民の手で原爆の絵を/
母と子の原爆の絵/
司令部特設放送室壊滅/
まぼろしの声/
母と子の絵、ふたたび |
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5 |
第五章 幻の原爆第一報 |
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黒い雨/幻となった原爆第一報/軍管区発表も、記事にできない/ピカドン第二報、地獄の川を下る |
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6 |
第六章 爆心地の夜 |
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八月末日夜・相生橋の一夜/袋町小学校の朝、比治山の夜/韓国に渡った原爆孤児/アメリカに渡った原爆乙女/生ましめんかな |
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7 |
第七章 原子野に月冴えわたる |
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比治山多聞院の臨時県庁/宇品・江戸家猫八さんと原爆資料館長/中国新聞社、代行印刷へ/呉鎮原爆調査隊、広島に入れず |
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8 |
第八章 原子砂漠の朝 |
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八月七日・広島が消えた/爆心半径五百メートル/被爆地図復元へ/爆心地復元の元ディレクター/材木町から中島本町へ/遺影は語る/ヒロシマからの第一声 |
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9 |
第九章 子どもたちの被爆 |
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三位一体の人形になった子どもたち/母たちの悲しみ/元原爆資料館長と元エノラ・ゲイ機長/動員学徒たちの被爆 |
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10 |
第十章 アメリカ兵捕虜の被爆 |
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爆心地の被爆米兵/爆撃機ローンサム・レディー号/元搭乗員たちの生と死/トルーマン米大統領の声明/長崎被爆 |
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11 |
第十一章 特殊爆弾の正体を解明せよ |
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呉鎮原爆調査団、爆心地へ/密命・幻の海軍原爆調査団/陸軍原爆調査団と仁科博士/わが国の原爆研究/三発の不発弾と長崎原爆のゾンデ/終戦を決めた原爆調査報告書/調査団員、それぞれの戦後 |
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12 |
第十二章 新聞再開への道 |
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在広新聞社の被爆/一県一紙と代行印刷/八月九日付中国新聞/終戦、大佐古記者の召集/九月三日付、自力発行第一号/原爆プレス・コードの発令 |
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13 |
第十三章 原爆報道のあけぼの |
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台風、ふたたび代行印刷へ/十一月五日付、本社復帰第一号/生きている「死せるカメラマン」/放送局再開、平和祭の呼びかけ |
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14 |
第十四章 「広島特報」から「ビロシマ新聞」へ
三十五年目の原爆新聞/昭和二十年八月七日付と八日付「広島特報」/昭和二十年八月七日付「ヒロシマ新聞」/いまなぜ「ビロシマ新聞」か |
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15 |
第十五章 未来への伝言 |
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俳優木村功の遺言/記者たちの伝言/核時代の記録・中国新聞は何を伝えたか/科学者たちの予見・核戦争後の地球/テレビは核をどう伝えたか |
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あとがき 本書の編集にあたって |
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引用・参考文献 |
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年表NHK・中国新聞社原爆報道史 |
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NHK・NHK出版、中国新聞社編集・発行の原爆関連図書 |
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協力・資料提供者一覧 |
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ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。