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「原爆記念日」の取扱いについて(広島市教育委員会)

広島市教育委員会 「原爆記念日」の取扱いについて
1968年7月16日
もくじ
1ねらい
2機会
3取扱い上の留意点
4取扱い例
資料
1原爆記念日
2被爆者について
3被爆者健康手帳
4原爆病院
5原爆障害者章
6平和記念都市建設法
7世界連邦運動と広島市について
8市民道徳について
1.ねらい
原爆記念日(8月6日)の意義を理解させるとともに、「平和都市広島」の市民としての自覚を深め郷土の発展に努力し、世界の平和に貢献しようとする態度を育成する。
2.機会
夏休暇の事前指導、または休み中の児童生徒の登校日(8月6日以前)などの機会をとらえて、生活指導の一環として、全校または学級で取扱う。
3.取扱い上の留意点
(1)児童生徒の発達段階をじゅうぶん考慮して、指導内容を選択すること。
(2)社会科学習や他の生活指導上の関連に留意すること。
(3)資料として、小学校3年社会科副読本『わたしたちの広島市』ならびに同指導書を参照するとよい。

4.取扱い例

内容 取扱い上の観点
1.夏休みの生活と社会的行事
2.原爆記念日について
○原爆記念日の意義 ○広島市を平和で文化のゆたかな町として発展させる覚悟をあらたにする日であること。
○原爆慰霊式、祈念式 ○原爆死没者の霊をなぐさめるとともに、市民の平和を祈る願いのあらわれとして式典がおこなわれること。
3原爆をうけた人びと
○原爆の被害
・核兵器のおそろしさ
○原爆投下の被害の概要と、その恐ろしさを知り、平和をいっそう愛する気持ちを育てる。
○被爆者の現状
・被爆者の健康診断(被爆者健康手帳)
○多数の被爆者は今なお原爆症に伸吟し生活苦に喘ぎ、後遺症や遺伝の恐怖におののいて正常な活動力を失い、常人としての生活を持続することのできない日を送っている。
・原爆病院 ○原爆病院で治療を受けている人のようすや、その人たちへ見舞やはげましの手紙を出す人もいることを知る。
・原爆障害者章 ○原爆障害者を守る善意の運動のあることを知り、それに協力する態度を身につける。
4平和への願い
○めざましい戦後の復興 ○市民の平和への願いが原動力になって、平和で文化的な町づくりが始められ、りっぱに復興したこと。
○平和記念都市 ○市民の平和への願いが結集したものであること。
○これからの広島市は平和記念都市としてふさわしく、ますます発展させなければならないこと。
○市民道徳 ○平和記念都市の市民としての自覚がたいせつであること。

留意事項
・取扱いの内容や観点、また順序などについては、この取扱い例にこだわることなく、学校や児童生徒の実態に応じた計画をたてて実施することがのぞましい。

資料
1.原爆記念日
・毎年8月6日には平和記念公園で市民の平和を祈る切なる気持ちのあらわれとしての大行事が行なわれる。
〈原爆死没者慰霊式並びに祈念式〉
・原爆慰霊碑の「やすらかにねむってください、あやまちはくりかえしませぬから。」のことばは市民全体のねがいがほりこまれている。
・8月6日8時15分全市民は1分間の然とうをささげ平和を切望する広島市民の願いがこめられている。
・「はにわ」にかたどった慰霊碑に納められている原爆死没者名簿の記載人員は昭和42年8月現在で62、423人(男33、257人、女29、123人、不明43人)
(『わたしたちの広島市指導書』より)

2.被爆者について
「一般被爆者」と「特別被爆者」がある。
(1)当時広島市内で直接被爆したもの。
(2)原爆が投下されてから一週間以内に市内に入ったもの。
(3)死体の処理、救護等に従事したもの。
(4)その胎児
以上いずれかに該当する者が居住地の知事(広島市であるときは市長)に申請し「被爆者健康手帳」の交付を受けて始めて被爆者としての取り扱いをうけることになる。
この被爆者のうち、特に原爆の放射能を多量に浴びたもの、すなわち
(1)爆心地から3Km以内の区域内にあったもの、およびその胎児
(2)厚生大臣が原爆の傷害作用による疾病であると認定したもの
(3)爆心地から3Km以上の区域であったもので、健康診断の結果、特別の病気であると認められたもの。
(4)一週間以内の入市者で健康診断の結果、特別の病気であると認められたもの等については「特別被爆者健康手帳」が交付され、「特別被爆者」としての取り扱いを受ける。
(資料提供 原爆被害対策課)

3.被爆者健康手帳
・被爆者健康手帳は健康診断を無料で受けることができ、特別被爆者健康手帳は、病気やけがで医者にかかりたいときは、知事、市長が指定した病院医院で無料で診断・治療・投薬・入院等が受けられる。
・昭和43年6月1日現在の交付者数
総数94、900人
・特別被爆者健康手帳84、139人
・一般被爆者健康手帳10、761人
(資料提供 原爆被害対策課)

4.原爆病院(千田町1丁目9番2号 広島原爆病院)
・原爆にかかった人のために、赤い羽根共同募金によって、昭和31年9月20日に開院した。
・一般健康診断と精密検査は国費で行ない、治療は原爆手帳と社会保険を併用するので無料である。
・病室は170名収容できるベットがあり、現年入院患者は148名、通院患者は約150名である。
(昭和43年7月現在)
(『わたしたちの広島市指導書』より)

5.原爆障害者章
「原爆障害者を守る善意の運動」
・市内には、原爆によって機能障害になった人たちが22年を経たいまなお不自由な生活を送っておられる。このような被害された人たちに、少しでも幸せな市民生活を送っていただくよう、市民の愛の手によって、あたたかい社会環境をつくるため「原爆障害者を守る善意の運動」をおこしている。
・市では、この市民運動の対象を明らかにし、大きく盛りあげてゆくため、原爆障害者バッジをつくることにした。
・このバッジは、被爆者援護の一環として昭和42年10月広島市議会で決定したもので、認定患者や身体障害者手帳を持っている被爆者などにくばられている。
・バッジのデザインは広く一般から募集し43年1月31日審査委員会で決まった。原爆のきのこ雲を図案化したもので、三つの輪は被爆者の苦しみと団結、そして平和への願いを意味し、全体に芽の感じを持たせ、今後果てしなくひろがって行く未来を表現している。
(『広島市政と市民』2月15日号No.261より)

6.平和記念都市建設法
・昭和24年5月「広島平和都市建設法」は衆参両院を満場一致で通過し、つづいて7月住民投票の結果賛成絶対多数を得て、8月6日平和祭の当日公布され平和都市広島の建設の基礎を確立することができる。
・建設法の概要
「この法律は恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする。」という第一条の目標にはじまり、第七条にわたっているが、第二条以下はこの目的遂行のため必要な手続きを、およそ次の三点について規定している。
(1)その一は、国または地方公共団体は、広島市を平和記念都市として建設するために、特別の援助をしなければならないこと。
(2)その二は、広島市長は逐次建設事業の進捗状況を政府に報告し、政府はこれを国会に報告しなければならないこと。
(3)その三は、従前の戦災都市としての特別都市計画事業は、平和記念都市建設事業として変更すべきものであること
なお、この法律によって広島市は多くの国有財産の無償譲与を受けている。
(『わたしたちの広島市指導書』より)

7.世界連邦運動と広島市について
・この運動は、第二次世界大戦が始まる以前にヨーロッパで起こったものである。わが国では、第一回世界連邦アジア会議の本会議が、昭和27年11月に広島市で開催され、議長を賀川豊彦とし、主としてアジア地域の代表によって、この運動推進のための協議が行なわれた。続いて、第二回アジア会議が昭和29年11月に東京・広島その他各地で開催されたが、広島市議会はこれを機会に世界連邦精神にのっとって、平和の道を進むことこそ広島市民の使命であるとし、世界連邦都市宣言を採択した。
世界連邦都市宣言
われらは、人類の福祉増進のため全世界の人人と相結んで、世界連邦建設の趣旨に賛同する都市たることを決意する。広島市は世界の広島市として、永久の平和都市であることを確認する。
右宣言する
昭和二十九年十月三十日
広島市議会
(『わたしたちの広島市指導書』より)

8.市民道徳について
・市民道徳は、平和記念都市建設法の成立当時、平和記念都市にふさわしい市民の教養や品位の向上のために、一般市民から公募したものを10項目にまとめて作られたものである。したがって社会的に果たした役割は大きいが、作成当時より十数年も経過した今日では、今少し市民の心にアッピールする清新で内容の豊かなものが望まれている。
(『わたしたちの広島市指導書』より)
・広島市民道徳
1強い信念を持って、平和のためにつくしましょう。
2正直で謙虚な市民になりましょう。
3思うことを正しく言える市民になりましょう。
4言葉は静かに愛想よくいたしましょう。
5他人のことについて、よくないうわさをすることをやめましょう。
6会合の時間をさちんと守りましょう。
7交通規則を守り、老幼婦女子に席をゆずりましょう。
8公園や、道路に紙くずやきたない物をすてないようにしましょう。
9草木鳥獣を愛しましょう。
10服装を正しく胸をはり、大手を振ってあるきましょう。

原爆問題広島総合研究会

原爆問題広島総合研究会 1979年2月設立

会報

No. 発行年月日 所蔵
G=原爆資料館、U=宇吹
01 19790715  庄野直美  研究会設立に際して GU
02  1980.01.25  シンポジウム報告特集号  NGO被爆問題国際シンポジウム2周年記念合同研究会報告 G
シンポジウム「核兵器と人類の生存」の報告
03  1980.04.15  小寺初世子、木本喜美子  外国人の核意識―大学卒外国婦人に対する試験的調査のまとめ― GU
04  1980.06.28   被爆朝鮮・韓国人問題特集号 「被爆朝鮮・韓国人問題シンポジウム」報告 GU
問題提起概要
石田定
渡辺正治
栗原登
上原敏子
石田定
鎌田定夫
豊永恵三郎
平岡敬
深川宗俊
李実根
崔成源
05  1980.08.06  平岡敬  被爆朝鮮・韓国人に関する資料目録 GU
06  1980.10.24  在韓被爆者実態(補充)調査活動の経過と分析 韓国の原爆被害者を援護する市民の会 G
07  1981.06.30  「被爆者問題シンポジウム」報告 G
茅誠司 「原爆被爆者対策の基本理念及び基本的在り方について」
08   1981.07.10  ロートブラット氏とセガーラ女史を囲む懇談会の記録―「核拡散の問題点」および「軍縮のための国連の活動」 G
09  1981.09.30  「非核三原則をめぐるシンポジウム」の報告 G
10  1982.01.30  小寺初世子  より効果的な核兵器の禁止を求めて―国際刑法典の制定をめぐる最近の国連活動への期待― G
11  1982.03.20  IPPNW〔核戦争防止国際医師会議〕 G
12 19821225 石田定 IPPNW〔核戦争防止国際医師会議〕第二回総会に参加して G
湯崎稔 シンポジウム「反核の軍縮の今後」―SSDⅡを終えて―
永井秀明 10フィート映画の欧米上映で得たもの
好村冨士彦 平和のための国際文学者会議を終えて
谷口稜曄 反核運動と被爆者
高橋真司 ナガサキからニューヨークへ―ポストSSDⅡへの展望
メッセージ
庄野直美 シンポジウムのまとめ
1982年度総会報告
1982年度原爆問題広島総合研究会役員
代表 庄野直美
顧問 今堀誠二・・・
幹事 石田定・・・・三村正弘(福島生協病院)・・・
事務局長 湯崎稔
会計監査 相原和光

 

原爆以後・廃墟の中より

『原爆以後・廃墟の中より』
広島文理科大学学友会文化部・広島高等師範学校学友会文化部編、1948年12月1日

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1948年11月2日から約1週間挙行される学園文化祭の「来会者の便宜に資し、且つ記念出版として、…「文化祭の栞」なるパンフレットとして発行するはずであった」<文理大学友会文化部「編輯後記」より>

目次

長田新(学長) 巻頭言 学園文化祭を祝いて
福原淑人(学友会文化部理事長、大学教育学科) 新文化創造の精神と哲学的実存のイデー(学園文化祭の意義に関して)
マックミラン女史(広島女学院講師) 広島の文化的再建の為に
沈木(中華民国広島華僑聯合会長) 学園文化祭に寄せて

 

広島大学総合科目:戦争と平和のための総合的考察

広島大学総合科目:戦争と平和のための総合的考察 1977年~

出典:山田浩、森利一編『平和研究ノート』(広島大学総合科学部国際関係論教室、19790518)

目次

01 芝田進午 平和の思想
14 北西允 日本の原水禁運動―略史と問題点
15 庄野直美 核時代と原爆被爆者
16 藤井敏彦 平和教育
17 松元寛 原点としてのヒロシマ

 

平和をきずく児童生徒の会日記

広島平和をきずく児童・生徒の会日記
(1955年10月-1957年3月)

年月日 事項
19551025 佐々木禎子さん原爆症でたおれた。
19551110 幟町中の級友、全国中学校長大会で平和を訴え、「原爆の子の像」を作るビラをお願いした。
19551225 禎子さんの級友が「こけしの会」をつくる。
19560128 広島市小中高校が一つになり「平和をきずく児童生徒の会」を結成、宣言文を読む。会則を決め役員を選挙する。
19560325 「原爆の子の像」を建てる全国運動をおこし、趣意書を全国のお友達にくばる。
19560425 会の委員、街頭募金第1回を行う。
19560701 イギリス・ハンガリヤ等外国からも激励文が来はじめる。
19560806 会の代表、原水禁広島大会へ参加、世界の子供が平和への手をつなぐ運動をおこす。
19560809 委員長中村君、長崎世界大会に出席、外国代表に会のメッセージを手渡した。
19561010 像の制作者選考にとりかかり、大人の美術家に相談する。
19561015 像の制作者、東京芸大教授菊池一雄先生に決定。
19561020 アメリカ文化センター・フツイ館長、ノーマン・カズンズ氏をたずね、アメリカの友達とも文通することをお願いした。
19561128 菊池先生来広、制作計画をたてられる。
19561231 像の募金を締切る。
19570227 総会を開き会計報告をし、反省会をする。
19570310 像の模型出来上り菊池先生来広。

出典:『平和』第5号(広島平和をきずく児童・生徒の会、1957年8月5日)

平和をきずく児童・生徒の会

平和をきずく児童・生徒の会  1956年1月11日準備会  28日結成総会

平和をきずく児童生徒の会関係資料

 資料名 年月日  メモ
広島平和をきずく児童・生徒の会日記 195703 1955年10月-1957年3月
 平和をきずく児童生徒の会会則 19560201 効力発生
 私たちの手で”原爆の子の像”を  中村正司(基町2年)(平和をきずく児童・生徒の会(広島平和記念館内)委員長)
「原爆の子の像」建設趣意書 19560301
子どもの手で作る「原爆の子の像」に御支援を請う! 19560310 ビラ(謄写印刷)
 私たちの手で”原爆の子の像”を 19560310  中村正司(平和をきずく児童・生徒の会(広島平和記念館内)委員長)
平和 8月6日特集号 19570805 (広島平和をきずく児童・生徒の会機関紙)
”千羽鶴”製作懇談会ご案内 19571101 ”千羽鶴”製作現地本部⇒
千羽鶴・シナリオ第一稿 19571210 共同映画社・広島平和を築く児童生徒の会編
千羽鶴製作ニュース 195804 共同映画社、広島平和をきずく児童生徒の会
千羽鶴製作ニュースNo.1 1958 共同映画社、広島平和をきずく児童生徒の会
「千羽鶴」撮影予定表 195804
(出演現地生徒へのご配慮方要請) 195804 ”千羽鶴”製作現地本部⇒中学校長
 1958年5月5日完成除幕報告 『原爆の子』の像建立募金名簿  広島平和をきずく児童・生徒の会

 

「原爆の子の像」建設趣意書

「原爆の子の像」建設趣意書
1956(昭和31)年3月1日

私たちの手で”原爆の子の像”を
禎子さんはしんどいめをして死んでゆきました。小学校四年生の義登君もそうでした。
原爆の時、禎子さんはまだ二つだった。お母さんにおわれて必死で楠木町の方へ逃げ、ほいでいのちが助かった。それなのに去年のちょうどいまごろ、ぽっくりと原爆症がおき、お医者にかかりました。病名は亜急性リンパ腺白血病というむずかしい名ですが、息がきれるまで九ヶ月間、それはとても苦しいとう病生活でした。
私たちお友だちで、日赤病院へ見舞いに行った時、禎子さんはベッドに寝たまま、薬の紙で千羽鶴を折っていました。「こが-に鶴う折ってどうするん。」と言ったら、「ほいでも、早うなおりたいけ・・・」と、うらめしそうにこたえた禎子さんの顔が、まだ忘れられません。
運動の選手だった禎子さんは、早うなおって、又一番をとりたかったにちがいありません。
千羽鶴はみなで六四三羽折られていました。私たちはそれを一つずつ形見にもらい、あとはみんな私たちの手で、棺の中の禎子さんのお顔や胸におさめてあげ、お別れをしました。
義登君はクリスマスから悪くなり、この一月二十四日には、もうなくなりました。何を問われても、コックリうなずいて寝かされていた義登君。約束の原爆の映画にも、もうとってもらえないし、つまらないなあ。
禎子さんの遺品となった出しかけの手紙があります。
「私の手にゆけつされるときはたいへんいたかった。医者さんがいわれるには、病気をしたときは、少しはいたいことをしないとなおらないといわれました。いたいめをしてでもよいから、私は早くよくなって春休みにはおねえちゃんの所にいきたい」
これをホーム・ルームで読んだとき、島本さんが、「のう、みんなで原爆の子の像を作ろう。」と言いました。「ほいでも、えっとお金がかかるぞ」と洋吉君が口を出し、みんな困った。「そりゃ、お互が節約して出すんよの」と、島本さんが言って、みんなこれに賛成しました。
それからず-りきて、一九五六年一月二十八日でした。広島市内の小学校から高等学校までのぜんぶの児童・生徒のお友達たちの代表が集まり、像をたてる決議をしました。
さいしょの原爆が広島に落とされたとき、私たちはまだこまかった。かすかにしか覚えていません。でも、あの日、町の建物をのけたり、工場のきんろう作業に出されていたお兄さんや、おねえさんは、二十四万の爆死者とともになくなられた。二度と私たちのように楽しい勉強も、カープの試合も見られないから可哀そうです。
紘治君のお母さんも、仕立物をぬいながら、今でもよく泣いています。
この二月のはじめ、市の原爆しょうがい協議会が、私たちの中には、まだ九七〇〇人の爆弾にあったお友達がいると発表されたので、なんだかいびせくなります。
今年も原爆の病気が出て、広島市内でもつぎつぎと、大人の方がなくなっています。
禎子さんや義登君のように、カスリきず一つうけないで、お勉強をしてきたのに、いまになって、しかも自分のせいでない病気のために落さねばならない。ほんとうにこんなことがあってよいでしょうか。
戦争で傷つけられたのは、私たち広島の市民だけではありません。全国の児童・生徒の皆さんも、それぞれぎせいを受けられて、いまもきっと、情けないめをしていられることでしょう。あの時焼け死んだ一万名のお兄さんや、おねえさんたちは、みんな死にたくなかった。どんなにつらかったでしょう。今でも夜がくると、川の橋の下で、その泣き声が聞えるような気がします。
それに、死んでも禎子さんにはまだ仏だんがない、ナメクジ住宅のバラックのお家はすうすうして寒い板の打ちつけです。
全国のお友達の皆さん!
私たちは私たちの手で、これらたくさんの学徒や、お友だちの霊を、おまつりしてあげたいのです。お小づかいをしまつして、祈りのこもった原爆の子の像を作りたいのです。そしてお互に励まし合い、毎日一心に基金を集めています。
しかし、次の計画のように、心のこもった意義のある像を建てるには、えっともとでがかかり、大へん困っています。どうかこのことを知って、げきれいし、できたら、えんじょしていただけないでしょうか。私たちこころからのお願いです。
一九五六年三月一日
広島市材木町 広島平和記念館内 平和をきずく児童・生徒の会
委員長 中村正司

”原爆の子の像”を建てる計画書
1.事業者 広島市公私立小・中・高校の児童・生徒会
2.目的 私たちは戦争の犠牲となった亡き児童・生徒の霊を心からとむらい、傷ついた友達をなぐさめるために”原爆の子の像”を建て、ふたたび戦争をくり返すことのない、平和な住みよい世界を打ちたてるべく、努力することを誓います。
3.規模と制作 真にこの目的にかなって、意義がこもり、つねに私たちや人々の追憶と平和へのしるべとなり、後世に遺る規模のものを、この道のすぐれた彫刻家に依頼して制作してもらう。
4.建てる場所 広島市中島平和記念公園内
5.完成予定 募金額、制作費等と関係があり、まだとり決めていないが、見通しがつき次第、ただちに着手し、なるべく早く完成させたい。そして除幕式には御支援下さったお友達の地方代表をもお招きしたい。
6.募金対象と期限
イ.広島市内各小・中・高校児童・生徒
ロ.全国各学校のお友達
ハ.こころざしある一般の方々
とし第1期の募金〆切期日を昭和31年8月6日とする。
7.建てる基金を送って下さるには
1.一番確実な御送金は、この趣意書につけている振替用紙をおつかい下さい。
2.用紙のない場合も、同じく郵便局を御利用下さって、口座番号、広島20番広島銀行本店宛にお送り願います。
3.右の1.2.どちらの場合も、たいへん御面倒ですが、同封の葉書にて次の事務所宛に御送金下さった由を御一報下さい。
8.募金の扱い及び事務所
広島市材木町 広島平和記念館内  平和をきずく児童・生徒の会

平和をきずく児童生徒の会会則

準備会 昭和31年1月11日 結成総会 昭和31年1月28日

平和をきずく児童生徒の会会則

第1章 総則

(事務所)第4条 この会の事務所を広島市元町一番地、広島市児童文化会館内に置く。

第2章 役員

 委員長  中村正司(基町高)
 副 長  福田晴之(幟町中)
 同      (青崎小)

(顧問)(小学校)田中* (中学校)田中元逸 (高等学校)正月定夫 (市教委総務課長)森岡幹造

原爆の子の像(折鶴の子の像)

広島平和をきずく児童生徒の会
原爆の子の像(折鶴の子の像)
建立年月日:1958(昭和33)年5月5日
場所:広島市中区中島町・平和公園)

 

(正面)
これは ぼくらの叫びです
これは 私たちの祈りです
世界に平和を
きずくための
(裏面)
原爆で亡くなった兄姉の霊をなぐさめ世界に平和を呼びかけるために広島市小・中高校の子供が結集し全国の友達の支援のもとにこれをつくる
一九五八年五月五日
広島平和をきずく児童生徒の会

無題

『わたしたちの広島市』(広島市小学校社会科研究会編、中国書店刊)

参考資料
広島平和をきずく児童・生徒の会日記(1955年10月-1957年3月)
「原爆の子の像」建設趣意書(1956年3月1日)
広島の教育関係団体による「原爆の子の像」建設への協力依頼
「原爆の子の像」建立募金状況総まとめ表
千羽鶴・シナリオ第一稿(共同映画社・広島平和を築く児童生徒の会編、1957年12月10日)

「原爆の子の像」建立募金状況総まとめ表

「原爆の子の像」建立募金状況総まとめ表
1958年5月5日

都道府県名 校(口)数 金額 都道府県名 校(口)数 金額
広島 624 1380415 山梨 79 111657
岡山 43 76657 静岡 89 152994
山口 68 71028 愛知 120 297881
島根 15 10179 三重 69 83377
鳥取 1285 大阪 122 286557
北海道 291 418697 滋賀 42 41920
青森 10 16571 京都 59 102050
秋田 21 26561 和歌山 68 71860
山形 27 47980 兵庫 79 146204
宮城 20 17725 徳島 10 22623
福島 88 122806 愛媛 16 21010
岩手 19 16078 高知 46 41974
新潟 140 201280 奈良 5050
東京 260 831639 香川 14 13198
神奈川 87 267317 福岡 91 208002
茨城 62 86533 大分 51 63678
埼玉 23 41585 熊本 27 30404
群馬 18 35428 長崎 74 60512
石川 73 90514 佐賀 29 47293
富山 62 75765 宮崎 30 28097
長野 26 27465 鹿児島 10 12759
栃木 20 55808 外国 2150
福井 29 40096 その他 3200
岐阜 109 153428 3279 6066390

出典:広島平和をきずく児童・生徒の会『「原爆の子」の像建立募金名簿-1958年5月5日完成除幕報告』