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平和復興祭(1946年)

平和復興祭(1946年)

1946年(昭和21年)4月、広島市町会連盟は、原爆1周年を記念して平和復興祭を開くことを計画し、広島市にその旨を申し入れた(佐伯武範「被爆翌年の平和復興祭のいきさつ」)。また、6月28日には広島県商工経済会が広島市本通商店街復興協議会とともに、世界平和記念祭のプログラムを作成し、広島市に建議している。広島市は、こうした市民の声に呼応して、7月初め、8月6日を中心に平和復興祭を開催することを計画した。その意図は「8月6日を戦争放棄世界平和の記念日として後世に伝えるとともに文化的平和都市として再建に努力する市民に希望を与える」ことにあった(「中国新聞」1946年7月6日)。
プレス・コード(1945年9月19日指令)以後、原爆報道は鳴りを潜めていたが、被爆1周年前後には、原爆についての記事がセンセーショナルな形で出現した。
中国新聞には、「恩讐越ゆ’‘世界の都”」(7月31日)、「原子爆弾落ちて一年 特攻基地の捉へた爆発の瞬間 天降る¨平和の序曲’」(8月1日)、「けふぞ巡り来ぬ平和の閃光」(8月6日)といった見出しが踊っている。
8月5日午前7時半から護国神社跡で、広島市町会連盟主催の平和復興市民大会が、つぎのような式次で開催された。
開会挨拶 (仁都栗司町内会連盟理事長)
挨拶   木原七郎市長。市議会議長
来賓挨拶 ハービー・サテン少佐(広島市復興顧問)、楠瀬   常猪知事、水野呉市長、糸川中国新聞社編集局長(大会後援者代表)、戦災孤児(広島戦災児育成所)
宣言・決議(大内町内会連盟事務局長)
閉会の辞 (小坂商工経済会理事長)
戦災礼拝堂参拝(慈仙寺鼻)(「中国新聞」1946年8月6日)
この大会には。市民約7.000人が参加したと報じられている。翌6日には、戦災死没者1周年追悼会が、午前6時半から中島本町の慈仙寺鼻に新築された礼拝堂で、神道。仏教、キリスト教、教派神道の順序により約6時間にわたり執行された。これは、広島市、宗教連盟広島県支部、広島市戦災死没者供養会が共同で閧催したもので、数千の市民が参列した。また。広島市は、6日の午
前8時15分に、黙とうをするよう市民に呼びかけていたが、その時の模様を、新聞はつぎのように報じている。
(前略)刻々と迫るあのピカリの一瞬、定刻8時15分に全市のサイレンが「平和の祈り」を市民に伝えた。それを合図に電車、自動車などの乗物、道行く人々も立ち止まり、オフィスでもペンを置いて、それぞれ静かにあの日の追憶と復興の決意を強固にする一分間の黙疇が捧げられた。この日この時の「平和の祈り」は戦争放棄を世界に宣言し、平和国家として再建するわが国で子孫永劫に続けられ民族の記念行事になることであらう。
(「中国新聞」1946年8月7日)

復興市民大会や慰霊祭のほかにも、経済、宗教、運動、教育、文化、報道、町内会などの各界により、つぎのような行事が繰り広げられた。

3~7日 復興美術展覧会、華道展(広島美術家連盟主催    於市役所議事堂)
4日   郷上楽人音楽会(於旭映画劇場)
5~6日 音楽会(於旭映画劇場)
5~7日 児童作品天覧会(於幟町国民学校)
5~7日 原子爆弾症医療無料医療相談所開設(於市内の学校、病院)、復興展示即売会(於広島県商工経済会)、農村感謝運動、廉売会(於商店街、公設市場)
6日 高田郡横田神楽団「追悼神楽」、戦災死没者1周年追悼法会(中島供養会主催 於中島本町供養塔前)、広島市復興事業起工式(広島市主催 於播磨屋町 広島ホテル跡)、短歌会(広島市主催 於市役所)
6~7日 映画会(於舟人旭劇場を除く市内劇映画館)
7日 戦災供養盆踊大会((11国新聞社主催 於基町護国神社跡)、英豪軍軍楽隊演奏(於旭劇場)
7~9日  子供デー(於旭劇場、比治山国民学校、福屋名画劇場)
11日 広島市体育大会(広島市体育協会主催 於県総合運動場など)

幻の平和祭(第4回、1950年)

幻の平和祭(第4回、1950年)

1949年(昭和24年)、原爆をめぐる国際情勢は大きく変化した。4月、トルーマン大統領は、ワシントンで開かれた民主党全国委員会主催の会合で、「世界の福祉と民主主義諸国民の福祉が危険にひんする場合には、私は再び原子兵器の使用を決定することをためらわないであろう」と言明した。社会主義の陣営では、9月にソ連が原爆保有を発表して欧米諸国に大きな衝撃を与えた。
こうした中で、広島への関心が、さまざまな形で現れるようになった。世界平和デー運動(=ノーモア・ヒロシマズ運動)のほかにも、世界連邦運動、ユネスコ運動、MRA(道徳復興)運動など国際的に展開されていた平和運動も、広島との交流を求めてきた。広島市長にトルーマン大統領あての平和請願署名運動を勧めたカズンズやハーシーは、世界連邦主義者同盟の有力メンバーであった。49年9月、スイスのコー市で開催されたMRA世界大会では、浜井広島市長、仁都栗市議会議長、楠瀬広島県知事のメッセージ(山田節男参議院議員が持参)に応えて、大会開催中の9月13日に「ヒロシマ・デー」が設定された。49年11月18日に広島ユネスコ協力会が発足し、50年8月6日に第5回ユネスコ全国大会を広島で開催することとなった(「中国新聞」1950年3月9日)。
1949年4月、パリとプラハで平和擁護世界大会(第1回)が開催された。これを契機に世界的に展開されるようになった平和擁護運動の中でも、広島への関心が高まった。原子兵器禁止を呼びかけたストックホルム・アピール(50年3月19日に平和擁護世界大会常任委員会第3回総会が採択)支持署名運動は、被爆体験を全面に掲げて展開された。4月下旬、東京で開催された青年祖国戦線結成大会に参加した広島・長崎の代表は、世界民青連に対し連名で、「原爆の廃墟の中から全世界の青年諸君に訴たう」と題する呼びかけを送付した。これは、世界民青連からの「原爆最初の犠牲者である広島の青年諸君から全世界の平和愛好者に原爆・水爆中止のための署名運動をよびかけるよう努力していただきたい」との要請に応えたものであった。広島・長崎の青年の呼びかけは、5月12日と13日の両日、モスクワ放送で放送された。5月中ごろに広島市内中心部に設けられた署名場には、「原爆の日の惨状」を写した数枚の写真が展示された。さらに、6月9日には、共産党中国地方委員会が、その機関紙『平和戦線』に広島の被爆直後の写真6葉を掲載し、ストックホルム・アピールへの支持を訴えている。また、丸木位里と赤松俊子の「原爆の図」展が、この署名運動と結合して全国各地で開催された。
広島市は、1950年6月初め、第4回平和祭の計画案を作成した。前年、自らの平和への意欲を広島平和記念都市建設法という国民的意志に結実させた広島市にとって、6月25日の朝鮮戦争の勃発による国際情勢の暗転は、平和運動の重要性をますます強く確信させるものであった。浜井広島市長は、6月13日、スイスのコー市で開催されるMRA世界大会出席と欧米視察を目的とする2か月余の外遊のため楠瀬広島県知事らと羽田を出発したが、市長不在中平和祭準備を指揮していた奥田助役は、「全世界の平和愛好者と手を取り合って、平和祭を守ることは、これ迄に達成された諸種の平和運動に更に拍車をかけ、ひいては目下世界各所で脅威を承けつつある平和を護持し、強化するに貢献するもの」と述べ、「この好機」にメッセージをよせることを連合軍総司令官と英連邦軍司令官に要請した(奥田達郎「平和式典にメッセージ懇請について」1950年7月17日)。また、7月下旬には、国内の各界約1,300か所と海外179都市長あてにポスター(原画:小磯良平)、パンフレット、メッセージなどを発送した(奥田達郎 「第五回平和祭式典発送伺」1950年7月25日)。また、「NO MORE HIROSHIMAS」を題字に掲げた8月1日付の「市政広報」創刊号に、つぎのような記事を掲載し、市民に平和祭への参加を呼びかけた。
近づく平和祭 行事決る 9時15分 祈りに
めぐり来る5度目の8月6日の平和祭を間近にひかへて広島平和協会では、この日を敬虔な反省と祈りの一日にしようと、華美に流れることをさけ極めて質素に執り行ふこととし、次の通り行事を決定、準備を進めている。なお、9時15分[夏時間で実際は、8時15分]を期し、一斉にサイレンを吹  鳴、祈りを捧げるよう呼びかけている。
△6日午前8時15分市民広場で平和式典を挙行、その内容は平和宣言に引きつづき放鳩、長崎市長からの広島の日に寄せる言葉、進駐軍のメッセージなどがあり、平和記念として楠を植える。
△当日の午後5時からと翌日の午後1時と午後5時から広島児童文化会館で平和記念音楽会(日本シンホネットオーケストラ)を開催
△8日午前10時および午後1時から児童文化会館で広島児童劇団の出演による平和子供会を催す。
△これらの行事のほか6日を中心として記念スタンプの発行や平和祭記録映画の作成及び
△長崎市との交歓会を開催する
しかし、8月2日午後4時から開かれた広島平和協会常任委員会は、突然4日後に迫っていた平和祭の中止を決定した。これは、「[中国地方]民事部ならびに国警本部県管区本部長、市警本部長との交渉」(同委員会の記録)の結果なされた決定であった。広島市民には、同日、平和祭中止を知らせるととともに、6日を「反省と祈りの日」として過ごすよう求めた奥田平和協会長代理の談話が発表された。また、前日の5日早朝には、広島市警察本部が、広島市平和擁護委員会や広島青年祖国戦線準備会が開催を予定していた平和集会を「反占領軍的」、「反日本的」集会と断じ、市民が参加することの無いよう求めたビラを市内に配布した。8月6日の行事は、市民広場で開催予定の平和式典のみならずその協賛行事も中止となった。ただ、午前8時15分には、平和塔の鐘が鳴らされ、それを合図に市内にサイレンが響き、市民が一斉に黙とうを行なった。また、慈仙寺鼻広場の供養塔前では、広島戦災死没者供養会主催の慰霊祭が例年のごとく執行された。

平和祭(第3回、1949年)

平和祭(第3回、1949年)

1949年(昭和24年)5月10日と11日、広島平和記念都市建設法案が第5回国会の衆参両院でそれぞれ満場一致で可決された。この法案は、「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的」(第1条)としたものである。この法案は、7月7日実施された住民の賛否投票の結果、7万1,852票(有権者総数の59.2%、有効投票数の91.9%)という圧倒的多数の賛成を得て成立し、8月6日に公布されることになった。
広島平和協会は、6月8日に開催した第1回役員会で第3回平和祭の行事を決定するとともに、協会の会則を変更し、第1条に「恒久平和の念願と人類文化の向上」という目的を明示することとした。広島市は、平和式典を前に、「恒久平和」(原文:Peace Forever)をモチーフとしたポスターを作成し、式典への招待状とともに全国の都道府県知事、268都市長および県内全市町村に郵送した。また、海外の161都市には、浜井市長のサイン入りのポスターを送っている。
この年の平和式典の会場は、前年とは異なり市民広場の児童文化会館前広場となった。そこには、4日、30尺(約9メートル)の鉄筋の鐘楼が完工し、5日には広島銅金鋳造会が新造した「平和の鐘」が備えつけられた。8月6日の式典は、組立式の会場で、8時15分から約1時間、つぎのような式次第で開催された。
平和の鐘
開会の辞  (伊藤平和協会副会長)
平和の歌合唱(広島放送合唱団 伴奏:広島吹奏楽団)
平和宣言  浜井会長
放鳩    (ミスヒロシマ)
進駐軍メッセージ 英連邦軍司令官ロバートソン中将(代読:ギャレット代将)、マッカーサー元帥、ウォーカー中将(代読:仁井出渉外課長)
メッセージ 幣原衆議院議長(代読:山本代議士)、松平参議院議長(代読:浅岡参議院議員)、吉田内閣総理大臣(代読:森戸代議士)
平和記念植樹(楠瀬知事、石島副会長)
平和記念樹苗伝達(仁都栗副会長)
平和記念公園・記念館設計当選者発表(仁都栗副会長)
ヒロシマ平和都市の歌合唱(広島放送合唱団女子部)
閉会の辞  (森沢常任理事代表)
(「中国新聞」1949年8月7日)
広島平和記念都市建設法公布の記念行事として開催された式典には、米英人80人、県選出国会議員ら来賓100余人、市民約3,000人が参列した。浜井市長は、平和宣言の中で同法の公布に言及するとともに、仁都栗市会議長と連名でトルーマン大統領あてに、「平和都市建設法を通じてなさんとする聖業の上に多大の関心を寄せられ、偉大なる人間愛の大使命達成の上に光栄ある御賛助を賜わらんことを懇願」するメッセージを送った(「中国新聞」1949年8月7日)。また、恒久平和の象徴として建設する平和記念公園の設計図は、145点の応募の中から、丹下健三ら4人の共同作品が当選と決定し、式典の中で公表された。このほかに、8月6日には、広島平和記念都市建設法公布記念切手が発売されている。
海外でも、この日を期して第2回世界平和デーの行事が催された。アメリカ・オークランド市のアルフレッド・パーカー(世界平和日運動の提唱者)の連絡によれば、カリフォルニア州で渡米中の谷本清の主宰で記念式典が開催され、ニュージャージー、ニューヨーク両州、サンフランシスコ市の各教会が原爆投下時刻に平和を祈る鐘を鳴らしている(「中国新聞」1949年8月27日)。また、アメリカ以外でもつぎのような動きが見られた。
フィリピン政府は、この価値ある目的に全面的に賛同すると表明し、デリーでは18ケ国大使からメッセージを受取り、ブタペスト、ハンブルグ、ミューニッヒ、バンガロール、ロンドンは大集会を催し、ベルリンは公園  で永遠の平和の火を点じ、ブルッセルでは「戦争停止」の独得の平和運動  を起こし、オーストラリア、ノールウェー、ウルグワイなどは全国的に放  送し、(中略)オーストラリアでは多くの集会や行事をしてこの日を祝賀した。
(「中国新聞」1950年4月11日)
1949年の4月初め、渡米中の谷本清は、ノーマン・カズンズとジョン・ハーシーの示唆により、広島市に対し、トルーマン大統領あての平和請願署名運動を実施するよう勧めた。谷本らは、7月中ごろまでに10万人以上の署名を入手し、8月6日に大統領に手渡す計画であった。しかし、広島市は、広島平和記念都市建設法案の住民投票との重なりを考慮し、平和祭を期して署名運動を開始することとした。「世界最初の原子爆弾戦争を体験した我等広島市民は、アメリカ大統領に対し国際連合を強化し、今後の戦争を防止し得るような強力な世界組織を作らんことを請願す」とある請願書の署名運動は、8月13日から開始された。この署名は、8月下旬までに10万7,854人分が集まり、5冊に綴ってカズンズあてに送られた(谷本清『ヒロシマの十字架を抱いて』)。

平和祭(第2回、1948年)

平和祭(第2回、1948年)

谷本清(広島キリスト教会連盟委員長)は、1947年(昭和42年)10月、岡山市で開催された宗教連盟中国地区大会で、広島被爆の日である8月6日に世界平和を祈る運動を提唱した。彼のこの呼びかけは、翌48年3月、UP特派員ルサフォード・ポーツ記者により「ノーモア・ヒロシマズ」のアピールとして報道された。アメリカ北部バプテスト連盟の人々は、ジョン・ハーシーの広島ルポ(1946年5月従軍記者として広島入りし、原爆が人間に及ぼした影響について6人の体験者の証言を中心にまとめあげたルポ。全誌面を提供した8月31日付『ニューヨーカー』は、発売当日に30万部を売りつくし、以後100種以上の新聞に連載、ラジオドラマとして電波に乗せられ、10数か国語に翻訳されたといわれる)とジャパン・タイムズに掲載された第1回広島平和祭の記事に刺激されていたが、谷本のニュースを受け取ると、8月6日を世界平和デーにしようと呼びかけた (谷本清「寄稿・広島で世界宗教平和会議を」、この寄稿は、48年6月18日付 「読売新聞」(西部版)に掲載予定であったが、検閲により保留後ボツとなった)。その理由は、広島が「原子時代の戦争が意味するもののシンボル」であり、8月6日以外に「全世界を通じ平和の思想と感情に、より以上の共鳴を呼び起こす日」はないから、というものであった。48年4月18日、世界26か国の発起人により世界平和デー委員会が組織された。「ノーモア・ヒロシマズ」が、この運動のスローガンであった。
広島市は、1948年6月上旬、前年の平和祭に対する意見、批判やその後の国際的反響を踏まえ、文化的色彩を強くし世界平和運動のメッカたらしめることを主眼とした平和祭の新構想を発表した。浜井市長は、この構想の意図を、「平和祭行事は従来の放任的なものから今年は企画を統一したい」、「犠牲になった広島の平和運動が物乞根性と誤解されてはならない、あくまで平和運動のメッカとして世界人類の頭から広島をわすれさせないようにするのが念願である」と説明している(「中国新聞」48年6月9日、10日)。6月14日に開催された広島平和祭協会の48年度初の総会では、協会名を広島平和協会と改称したが、その意図は、世界平和運動に主力を注ぐことにあった。具体的には、平和宣言を恒久的なものにするため森戸辰男文部大臣に依頼して中央の権威者に再検討を仰ぐ、世界の都市に平和祭の意義を述べ世界平和運動への協力を求めるメッセージを送る、画壇大家の作品を網羅した平和美術展覧会を開催する、日本交響楽団を式典に招くといった新企画が考えられた。また、平和祭当日には供養と平和の象徴として市民が造花を胸に付けることが検討された。
このうち、平和宣言の起草は天野貞祐に依頼し、浜井広島市長は、世界の160都市の市長にメッセージを送ることとなった。また、平和協会は、美術展のための第1回協議会を6月24日に開催し、南薫造と小林和作の二人を顧問に委嘱し、準備を進めた。8月4日から袋町小学校を会場として開幕した展覧会は、県内のみならず国立東京博物館、大原美術館の名画400余点が展示され、広島としては未曽有の盛観を示した。日本交響楽団の招待は実現しなかったが、JOFKの尽力でNHK世界の音楽の来演が決まった。世界の音楽管弦楽団と合唱団は、平和式典で伴奏と合唱を行なうとともに、当日の夜と7日に児童文化会館で開催された音楽会に出演した。平和と供養の造花は、産業美術家協会に試作が依頼され、7月5日、市内の学校の教師にその作製方法の講習会が実施された。市民は、平和式典にこの造花を付けて参列し、約1,000人が、式典終了後これを胸に、「ノー・モア・ヒロシマズ」、「十万の御霊に誓う 世界平和は青年で」、「世界平和は広島から」などのプラカードを掲げ、平和広場から市役所前に向けて行進した(花行進)。
8月6日の平和式典は、前年と同じく、平和広場の平和塔前で、午前8時から1時間、つぎの式次第で開催された。
開会の辞  (寺田平和協会副会長)
大木惇夫作 詩「ヒロシマを思いて」朗読
平和の鐘  浜井会長
平和宣言  浜井会長
放鳩    (ミスヒロシマ)
進駐軍メッセージ 英連邦軍司令官ロバートソン中将
メッセージ 芦田内閣総理大臣(代読:松本滝蔵)、松岡衆議院議長(代読:高津正道)、松平参議院議長(代読:岩本月洲)、森戸文部大臣、楠瀬広島県知事
平和記念植樹(伊藤副会長)
平和記念樹苗伝達(石島副会長)
平和の歌合唱(伴奏:世界の音楽管弦楽団)
閉会の辞  (寺田副会長)
(『昭和23年度広島平和協会事業報告』、「中国新聞」1948年8月7日)
第2回平和式典の基調は、ノーモア・ヒロシマズであった。平和塔の側には、「NO MORE HIROSHIMAS」の看板が建てられ、平和宣言は、「再び第2の広島が地上に現出しないよう誠心こめて祈念するものである」と、ノーモア・ヒロシマズを訴えた。また、海外では、この式典に呼応して少なくとも26か国で第1回世界平和デーの諸行事が開催された。
ロバートソン中将のメッセージは、平和宣言以上の長さであり、「渉外局」の平和式典に関する発表は、これを「記念講演」と表現し(「中国新聞」1948年8月6日)、AP電は「式典のクライマックス」(原文はhigh point)と伝えた(The New York Times 1948.8.6)。ロバートソンは、その中で「広島市が受けた懲罰は戦争遂行の途上受くべき日本全体への報復の一部と見なさねばなりません。今後諸君が平和政策を忠実に守るとすれば、世界全部がこのような悲惨事の起こるのを未然に防止できることと思います」と述べた。また、この式典には、オーストラリア国会議員団一行8人が、「オーストラリア国民の代表として民主的な国民になるだろう日本国民にどの程度の真実があるか、自分の目でみて判断したいと望んで」参列していた(ロバートソンの「メッセージ」の表現)。これらは、平和祭を見る世界の目が、原爆犠牲にもとづく広島の訴えへの同情のみでは無いことを示している。

平和祭(第1回、1947年)

平和祭(第1回、1947年)

1947年(昭和22年)4月、戦後初めての衆議院議員選挙や初の地方選挙が実施され、5月3日には、日本国憲法が施行された。こうした戦後の改革は、国民の平和への関心を高めた。広島では、被爆2周年目の8月6日に、前年の「統制的・追憶的」な行事ではなく「平和の息吹で原子砂漠をおおう」行事を開催しようとの声が起こった(「中国新聞」1947年6月21日)。石島治志NHK広島放送局長は、被爆市民の平和への意志を全世界に公表するために平和祭を開催することを構想し、4月17日公選初の市長に就任した浜井信三に助言するとともに、広島観光協会でも提唱した。また、広島商工会議所内でも平和祭開催の機運が高まっていた。中村藤太郎同会頭は、6月初め、浜井市長にその旨を申し入れ、市長とともに呉市にあった米軍軍政部に赴き、平和祭についての打診を行なった。これに対し、軍政部の司令官は、「膝を乗り出して賛成した」と伝えられている(浜井信三『原爆市長』)。
占領軍の後援が明らかになると、平和祭に向けて準備が進められた。6月20日には、広島市役所、広島商工会議所、広島観光協会(1951年に、広島市観光協会に発展的改組)の三者が発起人となって広島平和祭協会を設立し、会長には浜井広島市長が、また副会長には中村広島商工会議所会頭と寺田豊広島市議会議長が就任した。新設された平和祭協会は、7月3日から7日にかけて、宗教、茶道、音楽、興業、展覧会、展示会、スポーツ、報道、文化、商店といった各関係方面ごとに参集を求めて打ち合せを行ない、平和祭の諸行事を決定した。また、同協会は、平和祭で合唱される平和の歌および慈仙寺鼻広場と元護国神社前広場の名称の募集も行なっている。両者の入選作の発表は、22日におこなわれた。「平和の歌」(現在の名称:「ひろしま平和の歌」)には、豊田郡の中学校教師重園贇雄の作品が、応募作品151点の中から選ばれた。一方、広場の名称は、慈仙寺鼻広場が「平和広場」、元護国神社前広場が「市民広場」に決定した。このうち、平和祭の会場予定地である「平和広場」には、7月上旬から平和塔(高さ10メートル)と野外音楽堂の建設(木造約28坪、工費15万円)が進められた。
寺田豊市会議長(広島平和祭協会協会副会長)は、7月18日上京、GHQを訪問して、平和祭へのメッセージを要請していた。これに対し、GHQは、7月末、マッカーサー自身のメッセージが寄せられると公表した。マッカーサーが、日本の地方行事にメッセージを寄せることは、極めて異例のことであり、彼自身がこの式典に強い関心を寄せていることを伺わせるものであった。
また、広島市は、1947年7月31日、「毎年8月6日は、本市の平和記念日として市役所事務を休停する。」との条例(「広島市役所事務休停日条例」)を制定し、市役所あげて8月6日を迎えることとした。
平和祭式典は、8月6日午前8時から9時までの1時間、つぎのような式次で開催された。
開会挨拶 (野田平和祭協会事務局長)
平和塔除幕(木原前広島市長令嬢)
平和の歌演奏・合唱(広島放送管弦楽団)
平和宣言 浜井市長
平和の鐘 浜井市長
(花火・サイレン・平和への祈り)
メッセージ発表
ダグラス・マッカーサー連合軍最高司令官(代読訳文:山口秘書)、英連邦軍総司令官(代読:ライアン少佐)、米軍政部長(代読:クロワード中佐)、片山内閣総理大臣(代読:山田参       議院議員)、松岡衆議院議長(代読:藤田代議士)、松平参議       院議長(代読:山下参議院議員)、森戸文部大臣、楠瀬広島県       知事
祝電披露 全国各市長、米国ボストン市長、モントゴメリー(元広島復興顧問)
放鳩(10羽)(中村商工会議所会頭)
平和記念樹植樹(寺田市会議長)
全国199戦災都市へ送る平和記念樹苗の伝達
(石島広島放送局長から末永呉市長へ)
平和の歌合唱(市内男女中等学校生徒100余名)
閉会の辞 (野口事務局長)
(「夕刊ひろしま」1947年8月6日、「中国新聞」8月7日)
マッカーサーは、メッセージの中で、広島の教訓を、「自然の力を利用した戦争による破壊力の進展はその停止するところなく遂には人類を絶滅し、現世界の物的構成を一挙にして壊滅に帰せしむる手段となるであろうということを全人類に警告する助け」となったことに求めた(「朝日新聞」1947年8月7日)。この人類絶滅観は、浜井市長の読み上げた平和宣言の中でも言及された。
NHK広島中央放送局(JOFK)は、午前8時から30分間、式典の模様を実況放送した。それは、そのままJOAK(東京)を通じて米国に中継されたが、この放送は、日本の戦後初の国際放送であった。また、INS、CBSといった米国の放送会社やユナイト、日映、時事などのニュース映画会社も、式典の模様を取材した。
8月1日からすでに盛り沢山な行事が始まっていた。平和記念日を中心とする3日間の広島には、市民のほか、近郊からも多くの人々が押し寄せ、大変な賑わいを示した。この3日間の広島、横川、己斐の各駅の利用者の数は、平日より2万人以上増加したと報じられている(「中国新聞」1947年8月8日)。
第1回平和祭の開催は、海外で大きな反響を呼んだ。アメリカの臨時世界人民会議(Emergency World Peoples Congress)は、8月6日にアラモゴードでヒロシマ2周年の集会を開催した。この集会の中で、マッカーサーが広島に寄せたメッセージが読み上げられた(The New York Times 1947.8.7)。また、ニューヨークタイムズは、この日の社説で、「原子爆弾がなければ殺戮はもっと大きかったであろうし、この点で原子爆弾の使用は正当化される」としながらも、つぎのように述べた。
広島と長崎で行われた涙をそそる記念行事は到るところの人情ある人々の心を動かさずにはいないが、我々はこの両都市が各種記念行事を執り行う唯一の場所として永久に留まることを希望し祈らなければならない。
(「中国新聞」1947年8月9日)
ニューヨークの「世界同胞運動協会」は、つぎのような感想を述べた「広島市民への公開状」と題する書簡を広島にもたらした。
われわれは広島市民諸君が8月6日、平和祭を行われたことを聞き、ただ頭を下げるばかりである。すなわちこの日広島市民諸君が争いの観念をすて、平和を念願努力されていることをきき、われわれは罪の観念を   深め、民族としての反省を続けている。(「中国新聞」1947年9月21日)
こうした国内外の反響の中には、批判的なものもあった。アメリカの雑誌ライフは、平和祭の模様を「アメリカ南部の未開地におけるカーニバル」と表現した。また、平和祭協会には、「あのようなお祭り騒ぎをするのはもってのほかだ」、「厳粛な祭典は一つも見られなかった」といった投書が市民から寄せられた。このように、市民の間には、8月6日を「厳粛な黙祷の日にすべきだ」との主張がある一方で、「若しただ1回の平和祭に100万円の費用をかけるとしたら、その100万円を花火線香に終らせず、世界に向って何かを残し与えるような施策が必要」(長田新の論説、「中国新聞」1947年9月8日)といった意見や、「平和祭を復興に直結させたものにすべきだ」という現実論(浜井信三の話、「中国新聞」1948年6月9日)も存在した。