「22 平和記念都市」カテゴリーアーカイブ

宣言内容の変遷(平和宣言)

平和宣言

 (10) 宣言内容の変遷

宣言に盛り込まれてきた要素は、実に多様である。しかし、「人類破滅観」のように当初より一貫して存在するものや、ある年以降継続的に盛り込まれている要素、ある時期にのみに存在する要素もある。1991年(平成3年)の宣言の構成は、(a)被害の実相、(b)ヒロシマの願い、(c)国際動向、(d)日本政府への要望、(e)ヒロシマの動向と決意、(f)ヒロシマの訴え、(g)結語となっている。結語では、国際協力のあり方、平和教育の推進、被爆者援護法の実現、海外の被爆者への援護についての注意を喚起し、原爆犠牲者への追悼の意の表明と、平和への不断の努力の誓いが述べられた。これら各要素の変化の概要は、前述の通りである。
これまで触れなかったが、マスコミが大きく取り上げた要素もいくらか存在する。たとえば、1969年(昭和44年)の宣言は、「人間の月着陸という人類の夢はついに実現した」と述べたが、これを中国新聞は「アポロ11号の英知を 人類の平和建設に 平和祈念式 広島市長の平和宣言」との見出しで報じた(「中国新聞」69年7月30日)。また、各紙は、79年の宣言が「核実験被曝」に初めて言及したとして大きく取り上げた。このほか、広島への平和と軍縮に関する国際的な平和研究機関の設置が、82年の平和宣言で初めて提唱された。この提唱は、88年から90年の宣言にも盛り込まれたが、91年の宣言では消えた。
宣言内容は、時代とともに大きく変化してきた。浜井市長の時期(前期)の宣言では見ることのできなかった原水爆禁止の直接的訴えが、渡辺市長の時期には明確に現れるようになった。こうした変化は、市長の交代にともなう変化というより、基本的には式典を取り巻く環境の変化によりもたらされたものである。これは、山田市長の時期に現れた「被爆体験の継承」についても同様のことがいえる。
とはいえ、市長の交代による変化と思われるものも存在する。山田市長の時期の宣言では、「世界法」(1967年と70年)、「正義と世界新秩序の支配する社会の建設」(68年)、「世界市民意識」(69-71年、74年)、「一切の軍備主権を人類連帯の世界機構に移譲し、解消すべきである」(71年)、「世界国家」(73年)といった表現が使用されている。これらは、いずれも世界連邦主義に基づくものと考えられ、山田市長以外には使用していない。また、平岡市長は、「日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人びとに、大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う」という表現で、日本がもたらした戦争被害への謝罪の気持ちを述べた。この気持ちは、81年、87年、89年の宣言が原爆死没者慰霊碑の碑文の「過ち」や89年の「戦争の過ち」について触れることで間接的に表わされてきたとの解釈がある(「毎日新聞」87年8月7日)。しかし、それが明確な表現で盛り込まれた背景には、市長の強い意向があった。

ヒロシマの動向と決意(平和宣言)

平和宣言

 (9) ヒロシマの動向と決意

1975年(昭和50年)以降、宣言は、ヒロシマを巡る重要な動きを逐一盛り込むようになった。この部分を見れば、ヒロシマの核兵器廃絶への努力と決意の足跡を知ることができる。
1975年から78年までの宣言は、広島・長崎両市長の国連訪問を盛り込んでいる。また、78年のものは、国連本部で画期的な「ヒロシマ・ナガサキ原爆写真展」が実現し、これが、「国連加盟国代表はもちろん国連を訪れた人びとに大きな衝撃を与えた」ことを報告した。その後、80年の米国上院議員会館での原爆展の開催、81年2月のローマ法王ヨハネ・パウロ二世の広島訪問、82年の「軍縮と安全保障問題に関する独立委員会」(パルメ委員会)の広島での会議開催と広島市長の国連軍縮特別総会への出席を盛り込んだ。
1983年1月、広島・長崎両市長は、核兵器廃絶に向けての「世界平和都市連帯」を呼びかけたが、83年の宣言では「世界の各地から熱い賛同のメッセージが寄せられ、国境を越えて連帯の輪が広がりつつある」と報告し、84年と85年には、「都市連帯による新しい平和秩序を探求する」(84年)、「平和を希求する世界のあらゆる都市が、国境を越え、思想・信条の違いを超えて連帯し、恒久平和確立への国際世論を喚起しようとするものである」(85年)と会議の意図と会議に向けての決意を表明した。
1970年代半ばから国連という舞台を通じて急速に進展したヒロシマの国際化は、85年の世界平和連帯都市市長会議を契機に、広島を舞台にしても推進されるようになった。その状況は、宣言の中では、つぎのように報告されている。
1986年「ノーベル平和賞を受賞した「核戦争防止国際医師会議」のメンバ ーが、本年6月広島を訪れ、被爆の実相に驚愕し、核実験即時停止を強く訴えた。
本日、世界各地でヒロシマ・デーが開催され、メキシコでは、非  同盟6カ国首脳が相集い、核軍縮を世界に訴える。
時あたかも国際平和年。
ヒロシマは、ここに、「平和サミット」を開催し、核兵器廃絶と  恒久平和実現への国際世論を喚起する。」
1987年「本日、核保有国の代表的ジャーナリストによるシンポジウムをこ  こ広島で開催し、核兵器廃絶の更なる国際世論の醸成を図る。」
1988年「本日、ここ広島において、姉妹・友好都市の青年による「国際平  和シンポジウム」を開催し、「ヒロシマの体験」を継承すべく、市  民とともに討議する。」
1989年「広島市は、本年、市制施行100周年、「広島平和記念都市建設法」  施行40周年を迎えた。この意義ある年に、今ここ広島で「第2回世界平和連帯都市市長会議」を開催している。世界三十数か国、約130都市の市長らが、体制の違いや国境を乗り越えて相集い、「核兵器廃絶を目指して-核時代における都市の役割」を基調テーマに、活発な討論を交わしている。
10月には、「核戦争防止国際医師会議」の第9回世界大会が、「ノーモア・ヒロシマ この決意永遠に」をテーマに、広島市で開催される。
去る4月に、日本で初めて京都市において「国連軍縮会議」が開催     された。その参加者が被爆地広島を訪れ、核兵器がもたらした被害の実相に触れ、その凄まじさを改めて認識し、核兵器廃絶への思いを強くした。
時恰も、核兵器による人類絶滅の危機を警告し続けてきた原爆ド  ームの保存募金には、国の内外から大きな反響が寄せられている。原爆資料館の昨年度の入館者数が140万人を超え、過去最高を記録した。これらの事実は、「ヒロシマの心」が着実にひろがっている証左である。」
1990年「本年3月、原爆ドーム保存工事が、国の内外から寄せられた多くの浄財と平和への熱い思いに支えられて、完成した。広島平和記念資  料館の来館者は、初めて一年間に150万人を突破するに到った。核兵器廃絶を求める世界平和都市連帯推進計画に賛同する都市も50か国、287都市に達した。これらの事実は、強く平和を願う多くの人々の意志を示すものである。
本日は、ここ広島において、女性国際平和シンポジウムを開催し、平和への実現や核兵器廃絶のために、女性が果たすべき役割を討議する。」

世論への期待(平和宣言)

平和宣言

(7) 世論への期待

1949年(昭和24年)の宣言は、前年から海外で展開された広島への関心を、つぎのように紹介した。

・・・いまやわれら広島市民の過去の小さな努力は漸く世界の人々の共  感を呼び、8月6日を世界平和日に指定し広島を世界平和センターたらしめ  ようとする運動が広く全世界に展開せられ、また永遠に戦争を防止する強力な世界組織樹立運動が漸次拡大されつつあることは実に欣快にたえない。

初期の宣言が、国内外の動向に具体的に触れることは極めてまれであったことを考えれば、この表現は、広島の訴えに呼応する動きへの広島市長の熱い思いを示したものといえよう。

1955年の平和記念日には、広島を舞台に原水爆禁止世界大会(第1回)が開催され、57年4月には、原爆医療法が施行された。こうした国内外の広島への関心の高まりは、広島を大いに励ますものであった。56年の宣言は、つぎのように述べている。

凄惨を極めたあの運命の日の体験に基づいて、「広島の悲劇をくりかえすな」と叫びつづけてきたわれわれの声に応じ、今日漸く世界各地より共鳴と激励が寄せられ、原水爆禁止運動は次第に力強い支持を得ており、ひいては、永く充分な医療も受け得ず相次いで斃れて行きつつあった被爆生存者に対する救援も漸次軌道に乗りつつあることは、われわれに新たな勇気を与えるものである。
1968年と70年の宣言は、世論への強い期待を表明した。68年には、「広島の声を広く世界の声とすることこそ、市民に課せられた任務」と述べ、70年には、「このヒロシマの叫びは、世界の輿論に支えられ、少なくとも核兵器の使用を阻止することができた。われわれはこの成果をふまえて国民的悲願を結集しつつ、ヒロシマの体験をすべての人間の心に深く定着させ、核兵器の全廃と世界恒久平和の実現にむかって前進をつづけよう」と述べている。
こうした世論への期待は、1970年代後半から、宣言の中にしばしば現れるようになった。78年に、「国際政治の潮流は、イデオロギーを越えた良識ある国際世論の結集によって、変革されなければならない」と述べ、世界的な反核運動が盛り上がった82年には、各国政府が「世界各地で澎湃として高まっている核兵器廃絶への熱望を真摯に受け止め」軍縮を促進するよう訴えた。さらに、83年の宣言では、核兵器廃絶の声が、「国際的世論にまで高まっている」と述べた。こうした国際的世論の評価は、84年と86年の宣言でも示され、87年の宣言では、「東西両陣営が米ソの欧州中距離核ミサイル廃絶の方向で同意したこと」を、国際世論の成果と位置づけた。その後、88年、89年、90年の宣言でも、世論への言及がなされている。

被爆者援護対策への要望(平和宣言)

平和宣言

(6) 被爆者援護対策への要望

宣言は、1974年(昭和49年)以降、核拡散防止条約批准や非核三原則堅持など外交政策に関連した要望を、日本政府へ行なうようになっていた。その後、79年からは、原爆被爆者援護対策に関連した要望も、宣言に盛り込まれた。79年の宣言は、原爆被爆者対策基本問題懇談会(79年6月厚生大臣の諮問機関として設置)に期待し、つぎのように述べた。

今や、原爆被爆者の問題と放射能被曝者の問題は、世界的課題として緊急な解決を迫られている。この時にあたり、日本政府において、被爆者援護対策の基本理念と制度の見直しが始められたことに、われわれは大きな期待を寄せるものである。

翌1980年には「原爆被爆者援護対策が国家補償の理念に基づいて一日も早く法制化されることを念願」した。この年12月に懇談会の答申が出されたが、その内容は、被爆者団体が強く要望していた原爆被爆者援護法の制定や広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(略称「八者協」、広島・長崎両県市および議会で構成)が要望していた「被爆者及びその遺族の年金制度の創設」については、否定的なものであった。81年の宣言は、「国家補償の精神に基づく原爆被爆者及び遺族への援護対策の拡充強化を求める」という表現で、被爆者援護対策への要望を改めて表明した。91年の宣言では、「国家補償の精神に基づいた被爆者援護法を速やかに実現しなければならない」という表現が使用されたが、「被爆者援護法」という表現が宣言に使用されたのは、初めてのことであった。また、この年の宣言は、原爆被爆者以外の「ヒバクシャの救援」について言及したが、これも初めてのことであった(「被曝者」への言及はすでに79年になされている)。宣言は、これについて、つぎのように述べている。

人類はきょうまで、かろうじて核戦争は回避してきたが、無謀な核実験  の続行や原子力発電所の事故などで、放射線被害が世界の各地に拡がりつつある。もうこれ以上、ヒバクシャを増やしてはならない。

ヒロシマはいま、新たにチェルノブイリ原発事故の被害者らに医療面からの救援を始めたが、ヒバクシャはぼう大な数にのぼっている。ヒロシマは国際的な救援を世界に訴え、その先頭に立ちたいと思う。

被爆体験の継承(平和宣言)

平和宣言

(8) 被爆体験の継承

宣言の主張の根拠は、被爆体験である。1962年(昭和37年)の宣言は、そのことについて、「爾来、わたくしたちは機会あるごとに、全世界に、わたくしたちの体験を伝え、核兵器の禁止と戦争放棄の必要とを訴えつづけてきた」と、述べている。また、67年には、つぎのような表現で、被爆体験に対する注意を喚起した。
眼から去るものは心からも去る。22年前、一瞬にして二十数万の生命を  失い、今なお多くの被爆者が生命の不安におののきつつある広島の悲劇を  忘れることなく、これを世界の体験として受けとめ、全人類が戦争の完全  放棄と核兵器の絶対禁止を目ざし全智全能を傾注することを強く訴えるも  のである。
この宣言は、山田節男が市長になって初めて発した宣言である。山田市長は、1968年、70-73年の宣言の中でも、被爆体験の継承の必要性を訴えた。このうち、71年の宣言は、「次の世代に戦争と平和の意義を正しく継承するための平和教育が、全世界に力をこめて推進されなければならない。これこそ、ヒロシマの惨禍を繰り返さないための絶対の道である」と述べている。同じ時期、学校現場においても、平和教育の必要性が認識されるようになっていた。68年には、広島市教育委員会が、また、翌69年には広島県教育委員会と総務部が、それぞれ「『原爆記念日』の取扱いについて」・「八月六日の『原爆の日』の指導について」と題する通知を学校あてに送り、平和記念日の意義の理解の徹底を図った。「広島県被爆教職員の会」が結成されたのは69年のことであり、72年6月には、「広島平和教育研究所」が設立されている。
被爆体験の継承の必要性は、その後、1976年、77年、82年、83年、85年の宣言でも言及され、87年からは毎年触れられるようになった。87年の宣言は、過去10年間で日本全国からヒロシマを訪れた児童・生徒が500万人に達したことを紹介し、「大きな希望」であると評価している。

国際動向への憂慮(平和宣言)

平和宣言

 (5) 国際動向への憂慮

1965年(昭和40年)の宣言は、「ベトナムを初め世界各所において、大いなる危険を冒しつつ武力構想が繰り返されていることは真に憂慮に堪えない」と述べた。これ以後、宣言の中で、核戦争につながりかねない紛争についての憂慮が表明されるようになった。宣言が触れたものは、ベトナム戦争(66年、70-72年)、中東問題(66年、70年、80年)、東南アジアの紛争(80年)、イラクのクェート侵攻と湾岸戦争(91年)である。また、「ヨーロパにおけるSS20の配備、パーシングⅡの配備計画」(83年と84年)、「宇宙空間にまで拡大された核戦略」(84-88年)、チェルノブイリ原発事故(86年と91年)、海洋の核戦略(88年)、米軍水爆搭載機水没事件(89年)といった核問題をめぐる国際動向にも憂慮が表明されている。

1970年代以降の宣言は、国連への期待を表明する一方で、平和の問題を、単に戦争のない状態としてではなく、環境・資源問題、飢餓・貧困問題、人権抑圧問題など、平和を脅かす要因の除去という積極的な立場から取り上げるようになった。この点については、1972年の宣言では、国連人間環境会議の紹介に関連して初めて触れ、翌73年の宣言では、つぎのように述べている。
戦争は人間の心のなかに芽生えるものであるが、今日、世界をおおう環境の破壊、人口増加の圧力、食糧危機、枯渇への速度をはやめる資源消耗の現実を直視するとき、ここにも人間精神の荒廃と、世界平和を脅す要因が潜在することを憂えるものである。

1976年にも同様の指摘が見られ、79年には「おろかにも地球の限りある資源を軍備の拡張に浪費し、飢えと貧困を拡大させている現実」という表現で、こうした問題を軍縮との関連で取り上げた。80年の宣言は、「拡大し続ける世界の軍事費はついに一日10億ドルを超え、また、軍備拡大の波は発展途上国にも及んでいる」と述べるとともに、「中東や東南アジアの相つぐ紛争」によって生じた「多数の難民の問題」に憂慮を表明した。そして、85年からは、飢餓(85年-)、貧困(85年、88年-)、人権抑圧(86年-)、難民(86-88年、90年-)・地球環境破壊(89年-)・暴力(91年)の問題が、ほぼ継続的に取り上げられるようになった

国連(平和宣言)

平和宣言

(4) 国連

宣言が、国連に初めて言及するのは、1972年(昭和47年)のことである。この年の宣言は、つぎのように述べた。

さきの国連人間環境会議は、自然環境の破壊と人口の増加、資源の枯渇により人類が陥りつつある多面的な危険に対し、70年代を生きる人間活動の理念を明らかにし、核兵器の完全な破棄をめざす国際的な合意を急ぐよう宣言した。

ここに現れた国連の役割の積極的評価は、74年には、「国連において、核保有国のすべてを含む緊急国際会議を開き、核兵器の全面禁止協定の早期成立に努めるよう」にとの国連に対する提唱に発展する。71年の宣言で「核不使用協定の締結」を要請したことはあるが、要請対象は明確ではない。74年の宣言は、具体的な国際政治への提唱を行なった最初のものであった。さらに76年から80年代初めにかけて毎年、国連への期待あるいは国連を軸とした行動の提唱が行なわれるようになった。その後の宣言における国連への言及は、つぎのようなものである。

1976年「このときにあたり、広島市長は、長崎市長とともに国連に赴き、被爆体験の事実を、生き証人として証言し、世界の国々に、これが  正しく継承されるよう提言すると同時に、国連総会が議決した核兵器使用禁止、核拡散防止、核実験停止に関する諸決議のめざす、核兵器廃絶への具体的措置が早急に実現されるよう、強く要請する決意である。」

1977年「昨年、広島市長は、被爆都市の市長として、長崎市長とともに国  連に赴き、永年にわたる両市民の胸深くうっ積した悲願をこめて、被爆体験の事実を生き証人として証言し、核兵器の廃絶と戦争の放棄を強く訴えてきた。
われわれのこの訴えに対し、ワルトハイム事務総長、並びにアメ ラシンゲ総会議長は、それぞれ国連を代表し、広島・長崎の苦しみ は人類共通の苦しみであり、広島・長崎の死の灰の中から新しい世  界秩序の概念が生まれるであろうと強調し、心から共鳴するとともに、広島・長崎を訪問したいとの意志を披瀝した。本日ここに、ア  メラシンゲ総会議長をこの地に迎えたことは、ヒロシマの声が直接 国連に反映されると思われ、その国際的意義はまことに深いものがある。
国連は、明年5月、国連軍縮特別総会の開催を予定している。世界     は、その成果に大いなる期待を寄せているのである。」

1978年「このヒロシマの願いは、ようやく世界の良心を動かし、本年5月、 国連加盟149か国による史上初の軍縮特別総会が開催された。
広島市長は、長崎市長とともに、両市民を代表してこの軍縮特別 総会に列席し、あわせて国連本部で画期的な「ヒロシマ・ナガサキ  原爆写真展」を実現した。この写真展は、被爆の実相を生々しく再  現し、国連加盟国代表はもちろん、国連を訪れた人びとに大きな衝  撃を与えた。
今回の軍縮特別総会では、全面的かつ完全な軍縮を究極の目標と     し、この目標を達成するため国連全加盟国で構成する新しい軍縮機構の設置を取り決めた。その意義はまことに大きい。」

1979年「もとより、今日まで、世界では数多くの平和への努力が試みられている。特に、国際連合は、昨年、史上初の軍縮特別総会を開催し、核兵器の廃絶を究極の目標とした軍備の縮小をめざして、その第一歩を踏み出した。さらにこれに応えて、軍縮委員会は、英知を結集し3年後の軍縮特別総会に向かって討議を続けている。」

1980年「もとより、今日まで核兵器の増大を憂え、人類を破滅から救おうとする努力は、部分核実験禁止条約、核不拡散条約、米ソによる戦略兵器制限交渉等にも見ることができる。特に、国連初の軍縮特別総会では、国家の安全は、軍備の拡大よりも軍縮によってこそ保たれるとの合意を見、廃絶を目標とする核兵器の削減が軍縮の最優先課題であるとの決議がなされた。

1981年「来る第2回国連軍縮特別総会において全加盟国は、この精神に立脚し、核兵器保有国率先の下に、核兵器の不使用・非核武装地帯の拡大・核実験全面禁止など、核兵器廃絶と全面軍縮に向けて具体的施策を合意し、すみやかに実行に移すべきである。」

1982年「この時開催された第2回国連軍縮特別総会は、遺憾ながら国家間の不信を克服しえず、「包括的軍縮計画」の合意には至らなかった。しかし、核戦争の防止と核軍縮が最優先課題であるとの第1回軍縮特別総会の決議を再確認するとともに、新たに、軍縮への世論形成を目的とする「世界軍縮キャンペーン」の実施に合意し、さらに、日本政府が提案した広島・長崎への軍縮特別研究員派遣を採択した。」

1983年「国際連合は、第2回軍縮特別総会で採択した軍縮キャンペーンの一環として、今年秋の各国軍縮特別研究員の広島派遣、国連本部での原爆被災資料の常設展示など、被爆実相の普及と継承への新たな努力を始めた。」

1986年「国連事務総長は、米ソ両首脳の広島訪問を積極的に働きかけるとともに、第3回軍縮特別総会を速やかに開催すべきである。」
1987年「折しも、本年は、国連軍縮週間創設十周年を迎え、来年は、第3回国連軍縮特別総会が開催される。ヒロシマは、その実りある成果を切望してやまない。」

1988年「こうしたさ中、第3回国連軍縮特別総会が開催され、広島市長は世界の恒久平和を願う「ヒロシマの心」を強く訴えた。
軍縮総会は、過去最多の政府首脳と非政府組織の代表が参加して 行われ、核実験禁止や核不拡散について具体的な議論を尽くしながらも、関係国が自国の利害に固執するあまり、世界の包括的軍縮への展望を示す最終文書の採択に至らなかったことは、極めて遺憾で ある。
ヒロシマは主張する。核兵器廃絶こそが人類生存の最優先課題で あり、俊巡は許されない。いまこそ、国連の平和維持機能を強化し、 活性化することを各国に強く要請するとともに、今後、国連主催に よる平和と軍縮の会議が被爆地広島で開催されることを望むものである。」

このように、宣言は、1970年代半ばから、核兵器禁止のイニシアティブを国連に求め続けている。その一方で、80年代に入ると、米ソ核超大国のイニシアティブへの期待も現れるようになった。82年の宣言では、第2回国連軍縮総会の結果に遺憾の意を表明する一方で、「核保有国の元首をはじめ各国首脳」に「広島で軍縮のための首脳会議」を開催することを訴えた。また、翌83年から87年米ソ首脳会談を求めるという形で、両国のイニシアティブに期待を寄せている。

原水爆禁止(平和宣言)

平和宣言

 (3) 原水爆禁止

宣言は、当初、人類破滅観にもとづいて絶対平和の創造や戦争放棄を訴えた。しかし、原爆の禁止を訴えることはなかった。ビキニ水爆被災事件の発生した1954年(昭和29年)においても、「一切の戦争排除と原子力の適当なる管理を全世界に訴える」という表現にとどまっていた。ところが、57年の宣言では、「原水爆の保有と実験を理由づける力による平和が愚かなまぼろしにすぎない」と指摘し、翌58年には、「われわれは更に声を大にして世論を喚起し、核兵器の製造と使用を全面的に禁止する国際協定の成立に努力を傾注し、もって人類を滅亡の危機から救わなければならない」と初めて明確に原水爆禁止を主張した。68年には、「核兵器を戦争抑止力とみることは、核力競争をあおる以外のなにものでもなく、むしろ、この競争の極まるところに人類の破滅は結びついている」という明確な核抑止論批判に発展した。さらに、73年には、「全世界の強い抗議を無視して、南太平洋において核実験を強行したフランス政府をはじめ、いまもなお核実験を続ける米・ソ・中国など、国家主権を楯として、自国の安全のためにのみ、核実験を正当化しようとしていることは、まさに時代錯誤であり、全人 類に対する犯罪行為でもある」と、名指しで核保有国を厳しく非難するまでになった。

1973年の宣言は、「核兵器の速やかなる廃絶と核実験の即時全面禁止」という表現で、核兵器廃絶の課題のうちまず核実験禁止を要請している。それまでにも、「核実験停止決議や査察専門家会議開催」(1958年)、「米、英、ソ3国による部分的核実験停止条約の締結」(63年と64年)など核実験の制限、管理をめぐる国際動向に歓迎の意を表していたが、核実験禁止を緊急の課題として要請したのは、この時が初めてである。その後、79年には、「相次ぐ核実験の強行」が新たに提起した「放射能被曝の問題」を指摘し、「すべての核実験はただちに停止し、これ以上新たな被曝者をつくってはならない」と強く訴えた。また、82年以降、核実験の即時停止を求め続けている。
1965年の宣言は、核兵器の「保有国が漸次その数を増して、事態をいよいよ混乱させている」ことに憂慮を表明した。その後、宣言が、核拡散の問題を独自に取り上げることはなかったが、74年になって、宣言の中心テーマを、核拡散防止にあてた。この年の宣言は、米ソ両大国が、核の拡散を助長していることを指摘し、核拡散の阻止を国連に期待するとともに、日本政府へも「核拡散防止条約の速やかなる批准」を求めている。この後、核拡散についての言及は、75年、76年、80年、88年の宣言でもなされた。
1974年の宣言は、政府の外交政策に対して具体的要請を表明した最初のものである。同年の宣言は、日本政府に対し「核拡散防止条約の速やかなる批准を求め」た。以後、政府に対し、核軍縮に積極的な役割を果たすよう求め続けている。78年には、つぎのように政府に要請した。
いまこそ唯一の被爆国であるわが国は、国際社会における平和の先覚者として国際世論の喚起に努め、核兵器の廃絶と戦争放棄への国際的合意の達成を目ざして、全精力を傾注すべきときである。
こうした核兵器廃絶への日本政府のイニシアティブの要望は、1980年の宣言でも現れ、81年には、「平和国家の理念を掲げ、非核三原則を国是とするわが国がその先導者となることを期待する」と、その根拠として「非核三原則」に触れた。81年の宣言に初めて言及された「非核三原則」は、以後、90年まで毎年宣言の中に現れており、83年からは、政府に、その堅持あるいは厳守を要望するようになった。なお、89年と90年の宣言は、政府に「非核三原則の厳守」とともに、「アジア・太平洋地域の国際的非核化の実現」に向けての外交努力も要望している。

原爆被害観(平和宣言)

平和宣言

(2) 原爆被害観

平和宣言の内容は、その原爆被害観に大きな特色を持っている。1947年(昭和22年)の最初の宣言は、原爆被害をつぎの2種類の論理で平和と関連づけた。

(a)これ(原爆被害=筆者注)が戦争の継続を断念させ、不幸な戦を終結に導く要因となったことは不幸中の幸であった。この意味に於て8月6日は世界平和を招来せしめる機縁を作ったものとして世界人類に記憶されなければならない。
(b)この恐るべき兵器は恒久平和の必然性と真実性を確認せしめる「思想革命」を招来せしめた。すなわちこれ(原爆被害)によって原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界の人々に明白に認識せしめたからである。

(a)は、原爆被害を終戦の根拠とし、「終戦=平和」という論理で、一方、(b)は、原爆被害は人類破滅を示唆しているから、人類破滅を避けるためには平和を選択しなければならないという論理で、それぞれ原爆被害を平和とつないでいる。(a)は、「終戦詔書」において用いられた論理で、被爆直後から今日まで根強く残っているものである。しかし、平和宣言においては、翌年には消え、今日まで現れたことはない。一方、(b)は、原爆投下直後に、世界連邦主義者など一部の間で唱えられていたものであり、マーカーサーも、同年の式典にこの論理を盛り込んだメッセージを寄せた。この人類破滅観は、ニュアンスの差はあるものの、その後の宣言の中に一貫して盛り込まれてきた。1991年の宣言の中では、それは、「ヒロシマはその体験から、核戦争は人類の絶滅につながることを知り・・・」と表現されている。
人類破滅観は、当初は将来の可能性として取り上げられていた。しかし、ビキニ水爆被災事件を経験した1954年の宣言では、「今や・・・滅亡の脅威に曝されるに至った」と、現在の可能性として表現された。

1947年の宣言は、広島の原爆被害を「わが広島市は一瞬にして壊滅に帰し、十数万の同胞は、その尊き生命を失い、広島は暗黒の死の都と化した」と述べた。調査報告では、被害は「爆心地から半径何メートル以内の建物は云々、人間、生物は云々」という表現が一般的である。宣言が、それを「全市壊滅」というイメージで捉えたことは、注目に値する。宣言の人類破滅観は、このイメージを世界規模に拡大したものであり、その意味で、広島の具体的被害の裏付けを持っているということができる。

一方、広島の原爆被害の表現形式は、時代とともに変化している。1947年の宣言は、被害を都市の壊滅と大量死の二つの要素で把握しているが、53年の宣言では、それを「原爆下の惨状」と表現し、新たに「原子爆弾が残した罪悪の痕は、いまなお、消えるべくもなく続いている」と原爆の後遺症を付け加えた。以後、宣言は、原爆の被害を、都市の壊滅、大量死、後遺症の3要素で表現するようになった。とはいえ、常に3要素を具体的に述べているわけではなく、3要素を総括する表現として、「原爆の惨禍」、「ヒロシマ」、「被爆体験」を併用するようになった。

宣言が、原爆被害の実相について詳細に述べるということはなく、また、被害の3要素も年を経るにしたがって抽象的な表現に変わった。しかし、被爆30周年に当たる1975年の宣言は、例外的に宣言のほぼ半分をそれにあて、詳細に被害の実相を述べている。これは、山田節男に替わって市長に就任した荒木武が初めて読み上げたものであったが、その内容は、つぎのようなものである。

昭和20年8月6日、広島市民の頭上で、突然、原子爆弾が炸裂した。爆弾は灼熱の閃光を放射し、爆発音が地鳴りのごとく轟きわたった。その一瞬、広島市は、すでに地面に叩きつぶされていた。
死者、負傷者が続出し、黒煙もうもうたるなかで、この世ならぬ凄惨な生き地獄が出現したのであった。
倒壊した建物の下から、或は襲い来る火焔の中から、助けを求めつつ、生きながらに死んでいった人々、路傍に打ち重なって、そのまま息絶えた人々、川にはまた、浮き沈みしつつ流される人々、文字通り狂乱の巷から一歩でも安全を求めて逃げまどう血だるまの襤褸の列、「水、水」と息絶え絶えに水を求める声・・・・・・・・・。今もなお脳裡にあって、三十年を経た今日、惻々として胸を突き、痛恨の情を禁じ得ない。

更に被爆以来、今日まで一日として放射能障害の苦痛と不安から脱し切れず、生活に喘ぐ人々が多数あり、その非道性を広島は身をもって証言する。

演奏と合唱(式次第)

平和式典の式次第

(5) 演奏と合唱

1947年(昭和22年)の第1回式典では、平和の塔の除幕と平和宣言の間で、FK(NHK広島放送局の略称)放送管弦楽団・同混声合唱団により「ひろしま平和の歌」が合唱され、式典の最後でも、市内男女中等学校生徒100余人により「ひろしま平和の歌」が合唱された。これ以後、演奏と合唱は、平和式典に欠かせないものとなっている。
合唱は、FK混声合唱団(1947年)、広島放送合唱団(49年と52年)、YMCA合唱団(51年)、市内の職場の合唱団(55年と56年)、市内の学校と職場の合唱団(57年と58年)、市内の学校の合唱団(59~61年)などさまざまな団体によってなされた。しかし、62年からは、広島少年合唱隊によって合唱がなされるようになり、68年からはこの合唱隊に、市内の大学、高校、職場、同好会、婦人などの合唱団が加わるようになった。合唱団の規模は、広島少年合唱隊のみの場合は100~200人であったが、その後、500~600人規模へと増加している。なお、91年の合唱団は、表4のような19団体所属の約500人によって構成されていた。
演奏は、当初、FK放送管弦楽団(47年)、NHK管弦楽団(48年)、広島吹奏楽団(49年)、広島フィルハーモニー(51年)、広島交響楽団(53年)、天理スクールバンド(55年)、広島放送管弦楽団(56年)など専門的な楽団によってなされていた。ところが、56年からは、地元のアマチュア楽団が演奏を担当するようになった。同年は、広島市職員組合ブラスバンドが担当し、翌57年からは市内の学校のブラスバンドが担当するようになった。当初のブラスバンドを構成したのは、国泰寺、段原、観音、江波、宇品などの中学校のものであり、68年からは、市立基町高校が加わった。91年の式典では、市立の中、高等学校4校(国泰寺中、宇品中、基町高、舟入高)の吹奏楽部が演奏している。なおこの間、皇太子明仁親王(現天皇)を来賓として迎えた60年の演奏は、広島県警本部のブラスバンドが、また、64年から67年にかけてはエレクトーンの演奏が採用された。
表5は、第1回式典で合唱された「ひろしま平和の歌」(重園贇雄作詩、山本秀作曲)の歌詞である。この歌は、これ以後現在に至るまで歌い継がれている。55年、56年、58年には、この歌とともに「原爆許すまじ」が合唱された。また、64年には、コロンビア専属の新人歌手扇ひろ子(本名=重松博美)が式典の最後に「原爆の子の像の歌」を独唱した。扇は、生後6か月で広島で被爆、建物疎開に動員中の父親を失っていた。「原爆20回忌には、おとうさんの眠る広島で歌いたい」という扇の熱意に、石本美由起と遠藤実が、この歌を無報酬で作詞、作曲、レコード会社もテスト版を作成しただけで市販せず、版権を広島市に寄贈することとした。これを受けた広島市は、平和式典を延長するという異例の措置で、この歌の独唱を取り入れた。
「ひろしま平和の歌」には慰霊の要素は無い。しかし、演奏では、慰霊の曲が採用された。曲目は、「霊祭歌」(55年)、「鎮魂曲」(56年と57年)、ショパン作曲「葬送曲」(58年と59年)、ベートーベン作曲「憂いの曲」(60年)、賛美歌「日暮れて四方は暗く」(61年)、「仏教賛歌」(62年と63年)、シューマン作曲「祈祷曲」(65年)と年々変えられていたが、68年からは、式の開始時に「慰霊の曲」(大築邦雄作曲)が、また、献花時に「礼拝の曲」(清水修作曲)が演奏されるようになった。その後、75年に献花時の演奏曲が川崎優作曲の「祈りの曲第一哀悼歌」に変更され、現在に至っている。