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資料年表:韓国人原爆犠牲者慰霊碑

資料年表:韓国人原爆犠牲者慰霊碑<作業中

年月日 事項  備考
1970
0410 韓国人原爆犠牲者慰霊碑(堺町・本川橋西詰)除幕式。金在権駐日韓国公使、崔成源在日大韓民国居留民団広島地方本部団長、山田節男広島市長ら100人が参列。 C
1971
0326 李方子女史(元韓国李王朝最後の皇太子妃)、韓国人原爆犠牲者慰霊碑と原爆慰霊碑を参拝。 C
1999
0205 韓国人原爆犠牲者慰霊碑を広島平和記念公園の対岸から公園内移設を進める「移設委員会」が発足。 C
0521 韓国人原爆犠牲者慰霊碑の広島平和記念公園公園内移設工事がスタート。 C
0721 韓国人原爆犠牲者慰霊碑の広島平和記念公園公園内移設完工式。権養伯移設委員会委員長・秋葉忠利広島市長ら関係者約300人が参加。 C
0806 小渕恵三首相、韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。「潮流」(岩崎誠「潮流」『中国新聞』20171109) C
1017 広島平和記念公園公園内の韓国人原爆犠牲者慰霊碑の台座部分にペンキがかけられているのが見つかる。 C
2001
0401 崔相龍韓国駐日大使、広島平和記念公園公園内の韓国人原爆犠牲者慰霊碑を訪れ記念植樹。
2005
0805 広島平和記念公園公園内の韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で慰霊祭。 C
 2015
 0805  日韓両国の大学生23人と駐広島韓国総領事館、韓国人原爆犠牲者慰霊碑のそばに植樹。
2019
1205 「ヒロシマの空白 被爆75年 埋もれた名前〈6〉朝鮮半島出身者」『中国新聞』 C
2023  
 0521  尹韓国大統領夫妻、岸田首相夫妻と広島平和記念公園の韓国人原爆犠牲者慰霊碑を訪れ追悼。

年表:韓国・朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑

年表:韓国・朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑<作業中

年月日
1970
0410 韓国人原爆犠牲者慰霊碑(堺町・本川橋西詰)
1977
0108 「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の折りヅル焼かれる。
0603 被爆死した元皇族李鑛公のおば李方子、韓国人原爆犠牲者の33回忌供養のため来広、慰霊碑参拝。
0607 韓国人原爆犠牲者慰霊碑の供花などにいたずら発見。
0805 韓国人被爆者の慰霊祭、市内堺町韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で。
1978
0305 駐日韓国大使、来広。韓国人原爆慰霊碑参拝。在韓被爆者の援護訴え。
0805 「第9回韓国人原爆犠牲者慰霊祭」、本川河畔の碑前で。
1979
0805 広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で、慰霊祭。
09 長崎市で、「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」の除幕式。
1980
0728? 広島県朝被協(広島県朝鮮人被爆者協議会)、平和記念公園内に朝鮮人原爆死没者慰霊碑を建立する運動を始める。
0805 広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で、在日大韓民国居留民団広島地方本部主催の慰霊祭。
0809 長崎県朝鮮人被爆者協議会、追悼碑前で原爆犠牲者の慰霊祭。
1981
0516? 長崎在日朝鮮人の人権を守る会、「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」の台座設置で募金を呼びかけ。
0809 長崎市の「朝鮮人被爆者追悼の碑」前で、追悼集会。
1982
0417 長崎外国人戦争犠牲者追悼碑建立委員会、外国戦争犠牲者追悼文集「核廃絶人類不戦」を出版。被爆した中国人・朝鮮人などの証言を掲載。
0805 広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で韓国人被爆者慰霊祭。
0917 在日朝鮮人による歌劇団、来広し、原爆慰霊碑に参拝。
1983
0425 韓国の僧りょ、原爆犠牲者遺族ら、来広し韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前で、供養祭。
0520 韓国女子バレーボールチームのメンバーら、来広し、韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。
0805 韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で慰霊祭(約100人)
0809 長崎市の朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑前で、慰霊祭。長崎在日朝鮮人の人権を守る会主催。
1212 広島県朝鮮人被爆者協議会、平和記念公園内への慰霊碑建立許可の要請書を広島市に提出。
1984
0206 「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」建立委員会、広島市に同碑平和公園内移転を申し入れ。
0805 広島市の韓国人犠牲者慰霊碑前で慰霊祭(約200人参列)。
0809 長崎市の朝鮮人犠牲者追悼碑前で、「朝鮮人被爆者追悼式」(今年6回目、約50人参加)。
1985
0402 韓国の歌手趙容弼、来広韓国人原爆犠性者慰霊碑に参拝。
0518 創価学会の広島県女性平和文化委員会編「もうひとつの被爆碑-在日韓国人被爆体験の記録」(A6、193ページ)刊行。
0805 広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で、慰霊祭(約 150人参加)。
0809 長崎市の朝鮮人被爆者追悼碑前で、慰霊式(約 100人参列、長崎在日朝鮮人の人権を守会主催)。
1205 広島市の浜本武一、被爆死した韓国・朝鮮人被爆者慰霊の鎮魂曲を作り、同市内の韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で披露。
1986
0712? 広島市中区の韓国人原爆犠牲者慰霊碑の周囲の玉砂利、減少。関係者、修学旅行生らが、記念に持ち帰るのではと困惑。
0805 韓国人原爆犠牲者慰霊碑の由来の石碑(堺町・本川橋西詰)
0805 広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で慰霊式( 約 200人参列) 。同碑の由来を刻んだ石碑を除幕。
0806 広島県山県郡の住職、韓国人原爆犠牲者の墓碑を再建し、法要。
0825 広島県山県郡芸北町の寺院に、「韓国人原爆犠牲者」の碑、建立され、追悼法要 (約20人参列) 。
0825 韓国人原爆犠牲者の碑(山県郡芸北町)
0918 京都市の宋斗会、広島市に、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑 」の平和記念公園内への移 を求める署名簿を提出。
1114 大阪府の在日韓国人の小学生、修学旅行で来広し、韓国人原爆犠牲慰霊碑前で民族舞踊などを披露。
1987
0115 広島折鶴の会、韓国人原爆犠牲者の慰霊碑を平和記念公園内に移設するよう求める署名運動を開始。
0313? 「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」、長崎市の朝鮮人徴用工宿舎跡近くに、碑銘板を設置することを計画。
0515 韓国の李奎浩、駐日大使ら(5人)、来広し、韓国人原爆慰霊碑などに参拝。
0529 広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑の折づるにろうそくの火が燃えうつり、修学旅行で訪れていた大阪府の八尾市立高見中学校生徒ら、消火。
0620? 韓国人原爆犠牲者慰霊碑を平和記念公園内に移転させるよう求める運動が活発化。
0629 広島県内の韓国・朝鮮人青年ら、広島平和記念公園の原爆慰霊碑前で、韓国の民主化闘争支援の座り込み(約120人参加)。
0708? 「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」、戦時中強制連行された朝鮮人徴用工の宿舎跡への碑銘板設置計画で、用地の提供を市に再要請。
0709 長崎市長、「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」の碑銘板設置のための用地提供要請に対して、提供できないと回答。
0805 広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で慰霊祭(約200人参列)。
0809 「第3回日・台・韓YMCAユース・キャンプ」(広島YMCA国際平和教育センタ ー主催)の一行、原爆資料館など見学し、韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。
1988
0114 韓国の駐下関総領事、来広し、広島市長に、韓国人原爆犠牲者慰霊碑を平和公園内に移すよう要請。
0401? 広島市の「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の周囲の石に、落書きが多いことが判明。
0729 在日韓国居留民団広島県地方本部、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」を平和記念公園内に移設するよう広島市に要請。市、「国際親善を重視したい」と規制方針緩和を検討すると回答。
0805 広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で19回目の慰霊祭(約200人参列)。碑の公園内移設を求めたアピ-ルを作成。
0806 「ストップ・ザ・戦争への道!ひろしま講座」など市民団体、「朝鮮人被爆者慰霊碑の平和公園内建立」などを訴えたチラシ「市民による平和宣言」を平和式典参加者らに配布。
0809 長崎市の朝鮮人犠牲者追悼碑前で、追悼早朝集会(約80人参列)。「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」、日本語・英語・朝鮮語で書いた同碑の説明板を設置し、披露。
0913 「中国地区カトリック高校生会」、広島市に、韓国人原爆犠牲者慰霊碑を平和記念公園内に移すよう要望。
1209 韓国の詩人高銀、来広し、韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。原爆資料館など見学。
1216 韓国平和研究所の趙誠学所長、来広し、平和運動の進め方などについて広島県原水禁事務局長らと対談。17日、韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。
1989
0227 広島県安芸郡の熊野中学校生徒ら、広島市に、韓国人原爆犠牲者慰霊碑を平和記念公園内に移設するよう申し入れ。広島・大阪の中学生の4000人分の署名簿を添付。
0412? 広島市のピカ資料研究所など、韓国人原爆犠牲者慰霊碑に関する資料集を作成中。8月に発行の予定。
0726 全国在日朝鮮人教育研究協議会・広島の有志ら、広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑の建立経緯などをまとめた「資料・韓国人原爆犠牲者慰霊碑」(A5、139ページ)を出版。
0728 「朝日文化サロン」(7月15日、福山市で開催)の参加者ら、韓国人被爆者慰霊碑の平和公園内移転を広島市に要請。
0805 広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で、慰霊祭(約150人参列)。今年20回目。過去帳(2101人分)奉納。
0809 長崎市の長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑前で追悼式(約100人参列)。長崎在日朝鮮人の人権を守る会主催で、今年11回目。
0907 8月に訪韓した広島県観光連盟会長、広島市長に帰国報告。韓国人原爆犠牲者慰霊碑が平和公園外に建立されていることへの反発が韓国内で強かったことを報告。
1990
0405 広島県安芸郡の熊野中学校生徒、韓国人原爆犠牲者慰霊碑を平和記念公園内に移設するよう広島市に申し入れ。
0416 韓国原爆被害者協会の訪日団、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」に参拝後、同碑の平和記念公園内移設などを広島市に申し入れ。
0418 中山外相、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の平和記念公園内移設に努力する意向を表明。
0419 広島県総務部長、県議会総務委で、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の平和記念公園内への円満な移設を望むと答弁。
0420 広島県朝被協の李実根会長、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設問題で、新慰霊碑の建立を訴え。
0427 社会党広島市議団、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園内への移設を広島市に要請。広島市長、積極的に働きかける考えのないことを表明。
0427 韓国の駐下関総領事、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園内への移設を広島市に要請。
0514 朝鮮総連広島県本部、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園内移設は市の判断にゆだねるとの見解表明。
0518 広島市、民間からの要望に対して、韓国人原爆犠牲者慰霊碑を8月6日までに平和記念公園内に移設する考えを表明。
0523 広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑の折りづる約100羽、焼失。広島中央署、放火とみて捜査。広島市長、「誠に残念」とコメント。
0526 韓国大統領、特使を派遣し、韓国人原爆犠牲者慰霊碑と平和記念公園の原爆慰霊碑に献花。
0528 大阪府三島郡島本町立第一中学校生徒、修学旅行で長崎市を訪れ、平和学習。朝鮮人犠牲者追悼碑前で、平和集会を開催。
0613 在日本朝鮮人総連合会の民族舞踊団、来広し、原爆慰霊碑に参拝。
0614 「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の平和記念公園内移設について、市民有志ら、広島市役所で会合(原田東岷・今堀誠二・横路謙次郎ら8人)。
0618 「韓国・朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑」(仮称)について話し合う市民有志による建立準備委員会、広島市役所で第2回会合。現在の「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」を改修し移設することで一致。
0623 「韓国・朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑」(仮称)建設準備委員会、広島市役所で第3回会合。碑文について検討。
0626 在日大韓民国居留民団、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の平和記念公園内への移設で、碑文の全面削除に同意。
0626 「今、平和公園のあり方を問うシンポジウム」実行委、広島市長に同シンポ(7月15日)への出席を要請(7月12日にも再要請)。韓国人原爆犠牲者慰霊碑問題・原爆資料館展示などを討議の予定。
0627 「韓国・朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑(仮称)建立準備委員会」のメンバー豊永恵三郎が、同委員会に辞表を提出していたことが判明。日本人が表に出すぎて納得できないとの理由。
0627 外国人指紋押捺をなくす会のメンバーら、「韓国・朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑(仮称)建立準備委員会」に質問書を送付。碑の移設を拒否してきた広島市の責任などについて質問。
0629 「韓国被爆者を迎える広島の会」など、広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑を、現状のまま平和公園に移設するよう市に申し入れ。
0709 広島市、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の8月6日までの移設は困難との見解を表明。
0710 「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」建立当時の張秦熈建立委員長、碑は「現在のままの姿で公園内に移設して欲しい」と広島市に要望。
0711? 広島市のキリスト教関係者ら、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の碑文の書き換えをやめるよう広島市に要望。
0715 「いま平和公園のあり方を問うシンポジウム」(同実行委主催)、広島市で開催(約250人参加)。韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設などについて討議。
0717? 在日本大韓民国居留民団、「朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑」の新碑文案について協議。
0718 全国キリスト教連絡協議会、広島市長らに、碑文の削除を条件にした韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設を中止し、当事者の意見を尊重するよう申し入れ。
0720 広島市、平和記念公園の韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設予定地の工事用くいを撤去。8月6日までの工事開始を断念したため。
0720? 広島市、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園内の移設先を、原爆供養塔南側に決定。
0723 広島市、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園内移設について、8月6日までに努力するとの意向を表明。
0724 「いま、平和公園のあり方を問う」シンポジウム実行委員会、韓国・朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑(仮称)建立準備委員会に、碑文の削除反対を申し入れ。
0726 大阪市の中島中学校生徒会役員ら、来広し、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の現状のままの移設を広島市に要望。
0726 在日本韓国居留民団広島県地方本部、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設問題について臨時地方委員会を開催。碑文修正についても再検討することを決定。
0728 「韓国原爆被害者協会」の辛泳洙会長、広島市で記者会見。韓国人原爆犠牲者慰霊碑の碑文を削ってはいけないとの見解を表明。
0730 韓国・朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑(仮称)建立準備委員会、在日本大韓民国居留民団側の統一碑への意思一致を待つとの見解を表明。
0730 「平和公園のあり方を問う八十六人委員会」、広島市で結成され、初会合(30人参加)。韓国人原爆犠牲者慰霊碑移設問題について協議。
0730 在日本大韓民国居留民団広島県本部、韓国人原爆犠牲者慰霊碑を、現状のまま仮移設するよう広島市に申し入れ。
0804 広島市、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園内移設問題で、8月6日までの移設を断念したことを正式表明。
0805 韓国人原爆犠牲者慰霊祭、広島市の同慰霊碑前で挙行(約200人参列)。在日本大韓民国居留民団広島県本部代表、碑の移設に努力するとの決意表明。
0809 韓国の「釜山日報」記者、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設問題取材のため、来広。
0809 在日本大韓民国居留民団と在日本朝鮮人総連合会代表、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の移設問題について、広島市で会談(両団体代表による会談は初めて)。
0813 韓国の駐下関総領事が、韓国人原爆犠牲者慰霊碑移設問題で、碑文を削除しないよう広島市に要請していたことが判明。
0815 「不戦の集い」(長崎の証言の会・長崎原爆被災協など主催)、長崎市の爆心地公園の「核廃絶人類不戦の碑」前で開催(約50人参加)。長崎県朝鮮人被爆者協議会会長も参加。
0820 韓国の演舞集団「サムルノリ」、来広し、平和記念公園の原爆慰霊碑前と韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で、慰霊演奏。
0915 市民団体「いま平和公園のあり方を問う86人委員会」、広島市で、「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑の建立経過に学ぶ」集いを開催(約40人参加)。長崎市の岡正治の講演など。
1010 「在韓被爆者広島訪日団」(女性被爆者10人)、来広し、韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝(17日まで滞在)。戦後帰国して以来の初来日で、被爆者健康手帳を申請(16日、手帳取得)。
1017 「平和公園のあり方を問う86人委員会」、広島市に、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和公園への早期移設などを申し入れ。
1101 第二次大戦に兵士・軍属として駆り出された韓国人らによる対日賠償訴訟原告団、来広し、韓国人原爆慰霊碑などに参拝。同碑が平和記念公園の外に置かれていることに、遺憾の意を表明。
1115 韓国の金宇相駐下関総領事、退任を前に来広し、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園内への早期移設を改めて要望。
1217 駐下関韓国総領事、来広し、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設問題について、在日同胞社会が意見をまとめ円満な解決を目指したいとの見解を表明。
1219 広島市、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」移設問題について、来週の広島-ソウル便就航までに実現するよう努力するとの見解表明。
1991
0122? 平和公園のあり方を問う広島86人委員会、広島市長選候補者に、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の平和記念公園移設について公開質問状を送付。
0304 広島市長、市議会で、韓国人原爆犠牲者慰霊碑移転問題について、民団と総連の合意調整に努力していくと発言。碑はまず移転し、それから話し合えばよいとの前言を撤回。
0323 「韓国原爆被害者協会」の被爆者ら12人、来広し、韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。1990年に韓国を訪問した浄土真宗本願寺派安芸教区の僧りょとの交流がきっかけで来広。
0417 在日本韓国居留民団広島県地方本部、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の新しい碑文案を発表。それによると、碑正面を「韓国朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑」とすることを提案。
0427 韓国の釜山日報社長ら、来広し、広島市長を表敬訪問。同社長、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園への早期移設を要請。
0509 在日本大韓民国居留民団広島県地方本部の新役員ら、就任あいさつに広島市役所を訪れ、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園への早期移設実現を要望。
0514 朝鮮総連広島県本部の幹部ら、韓国人原爆犠牲者慰霊碑移設問題について、広島市長に、民団広島県地方本部が示した新碑文案(「韓国朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑」)は認められないとの見解を表明。「南北分断を示す碑文は受け入れられない」との理由。
0514 平和公園のあり方を問う86人委員会、広島市に、韓国人原爆犠牲者慰霊碑を平和記念公園内に移設するよう求める7400余人分の署名を提出。26日の同委員会主催のシンポジウムへの広島市長の出席を要請。市側、拒否回答。
0519 ファミリーサイクリング広島県大会、広島市で実施(150人参加)。韓国人原爆犠牲者慰霊碑などを見学。
0526 平和公園のあり方を問う86人委員会、広島市で、韓国人原爆犠牲者慰霊碑問題などをテーマにしたシンポジウムを開催(約80人参加)。1990年7月に次いで2回目。韓国人原爆犠牲者慰霊碑をテーマにした劇などを上演。
0615 韓国の社会科教師ら19人、日韓交流文化基金の招きで来広し、原爆資料館などを見学。韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。
0622 「『韓国人原爆犠牲者慰霊碑』について学ぼう」、広島市のYMCAで開催。講師は広島電機大付属高の豊永恵三郎教諭。
0703 平岡広島市長、韓国人慰霊碑の移設問題で、「南北統一碑が移設の前提」と発言。2月の選挙期間中の「現在の碑をまず移設」との見解を変更。
0711 「広島の民族差別と闘う会」、南北統一を韓国人原爆慰霊碑移設の前提条件とする3日の広島市長発言に抗議し、慰霊碑の無条件移設を申し入れる。
0712 広島市長、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設問題について、「即刻移転」から「統一碑での移転」に見解が変わった理由を説明。当事者らが統一碑で合意したいとなったからと説明。
0712 在日本大韓民国居留民団広島県地方本部、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の現状移設の方針を決め、広島市に伝達。
0716 韓国大学生日本研究会の日本訪問団(42人)、来広し、平和記念公園などを訪問。広島県知事に韓国人被爆者慰霊碑問題の善処を訴え。
0717 広島市の市民団体「平和公園のありかたを問う86人委員会」の相原一博代表ら、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設問題についての公開質問状を広島市に提出。「南北統一碑でないと平和公園に入れないのか」などを質問。
0724 韓国・仁川市の高校生と安芸郡内の高校生(36人)、広島市平和公園の原爆慰霊碑に参拝し、原爆資料館を見学。仁川市の高校生は、安芸ニューライオンズクラブの招きで来日。
0725 在日本朝鮮人総連合会広島県本部、広島市長に原爆犠牲者の南北朝鮮統一碑案を提示、統一碑で移設するよう申し入れ。
0804 朝日新聞社、「原爆の日」を前に、平和問題についての広島市長へのインタビュー記事を掲載。平和宣言・韓国人慰霊碑問題などについて見解を表明。
0805 第22回韓国人原爆犠牲者慰霊祭、広島市平和公園側の慰霊碑前で挙行(約300人参列)。民団広島県地方本部団長、碑の平和公園内への移設を要望。
0805 「91年反戦反核広島集会」、広島市の県民文化センタ-で開催。「韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和公園内移設を求める決議」を採択。
0809 長崎在日朝鮮人の人権を守る会、長崎市爆心地公園の原爆被爆朝鮮人犠牲者碑の前で総長追悼集会を開催(約100人参列)。南北朝鮮代表が初めて同時参加。今年で13回目。
1204 平和公園の在り方を問う86人委員会、韓国人原爆慰霊碑の移設推進を求める1万4600人分の署名を広島市に提出、同問題について平岡市長に対する公開質問状を公表。
1210 太平洋戦争犠牲者遺族会の原告団一行22人、広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。
1216 在日本大韓民国居留民団広島県地方本部の役員4人、広島市に7月在日本朝鮮人総連合会が提示した原爆犠牲者慰霊の統一碑の碑文を拒否する意向を伝える。
1992
0112 広島折鶴の会の子どもたち5人、河村病院で韓国人被爆者と一緒に書初め。ハングル文字で「韓国人原爆犠牲者慰霊碑を平和公園に」。
0123 韓国大学生日本文化研究会の学生14人、広島市を訪問。韓国人慰霊碑などを参拝。
0309 韓国の被爆者18人、浄土真宗本願寺派安芸教区の招きで広島入り。韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。
0527 広島県原水禁・平和公園のありかたを問う86人委員会など12団体、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の公園内移設問題で、現状のまま公園内に移設するよう平岡市長に申し入れ。
0711 在日本大韓民国居留民団広島県地方本部と在日本朝鮮人連合会広島県本部、平岡広島市長との個別会談を通じて、10月を目途に広島市の平和公園内に統一碑を建立することで合意。
0805 第23回韓国人原爆犠牲者慰霊祭、広島市内の韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で開催。約150人が参列。
0809 長崎在日朝鮮人の人権を守る会、長崎市爆心地公園の長崎原爆朝鮮人追悼碑前で早朝追悼集会を開催。約100人が参列。
0827 「浮島丸事件」原告団一行17人、広島市の韓国人原爆慰霊碑に参拝。
0902 「アジア・太平洋の戦争犠牲者に対して反省し、心に刻む碑(仮称)」の建立委員会結成準備会、広島市内で開催。「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」のメンバーら約15人が参加。
0923 壱岐芦辺町など、昭和20年10月11日の阿久根台風のため帰国途中遭難した朝鮮半島出身者の「大韓国人慰霊碑」の碑文除幕式を挙行。約20人が参列。
1008? 広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑の公園内移設問題で公園内に「南北統一碑」を建立する計画、目標とした10月中旬までの実現は困難なことが明らかになる。
1027 第10回アジアカップサッカー選手権大会に出場のため広島入りしている北朝鮮の選手団一行約30人、原爆慰霊碑に参拝。
1123 韓国の壬乱護国英霊還国奉行委員会、広島市を訪問。韓国人原爆犠牲者慰霊碑などを参拝。
1993
0104 核戦争防止国際医師会議(IPPNW)韓国支部に加盟している韓国の医学生17人、広島入り。韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。
0201 在韓被爆者金順吉、広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。
0203 「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」代表江口保、福岡県の修学旅行生に広島の韓国人原爆犠牲者慰霊碑に咲くムクゲの種を贈る。前年10月から実施。
0301 「平和公園のありかたを問う86人委員会」、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和公園内移設問題で、現状のまま公園内に移設するよう平岡広島市長に文書で申し入れ。
0318? 在日本大韓民国居留民団広島県地方本部、平和公園外の原爆慰霊碑の公園内移設に関連し、碑前面の碑文の変更以外は認めず、朝鮮総連がこれを認めない場合は、今年8月までに現状での移設を求める方針を決める。
0322 韓国の被爆者21人、浄土真宗本願寺派安芸教区の招きで来日し、広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。30日、帰国。
0423 在日本大韓民国居留民団広島県地方本部、定期地方委員会を広島韓国会館で開催。韓国人慰霊碑の碑文問題で合意が出来ない場合は、碑の現状移設を広島市に求めて行くことを改めて確認。
0809 韓国の大学生ら37人、「韓国在日同胞会」(祖国に留学中の在日韓国人学生らで組織)の呼掛けによる「呉-広島-下関」の旅の途中で広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑参拝。
1112 第3回「在日韓国・朝鮮人の未来と人権」、広島市内で開催。-13日。韓国人原爆慰霊碑の平和公園内への即時移設などがアピールされる。
1994
0712 韓国慶尚北道の被爆者26人、浄土真宗本願寺派安芸教区の招待で広島入りし、韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。
0809 長崎在日朝鮮人の人権を守る会、長崎市爆心地公園の「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」前で追悼早朝集会を開催。約120人が参加。
0819 第15回全国在日朝鮮人教育研究集会、広島市内で開催。韓国人原爆犠牲者慰霊碑などを見学し、韓国人被爆者の証言を聞く。-21日。広島での開催は1987年に次いで2回目。
0901 長崎市の平和公園にある長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑前の青銅香炉が盗まれていることが判明。
0905 在日本大韓民国民団広島県地方本部、広島アジア大会開会式当日の朝に韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前で同大会に参加する韓国選手団の関係者を招いて追悼式を開催することを計画。
0920 広島アジア大会に出場のため広島入りした韓国のヨットチームの3人、韓国人原爆犠牲者慰霊碑を参拝。
1002 在日本大韓民国民団中央本部など、広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で慰霊祭を挙行。約700人が参列。
1995
0322 韓国・大邱市の原爆被害者協会慶北支部の会員20人、浄土真宗本願寺派安芸教区の協力で広島入り。韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。9人が市役所に原爆手帳を申請。24日、市内の親類や戦前暮らした場所などを訪問。
0417 韓国大邱広域市の実務協議団一行、広島市と姉妹都市提携の協議のため広島市入り。平和公園の原爆慰霊碑と韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。18日、両市が初協議。当面の交流計画などで合意。
0513? 「広島高校生平和学習ゼミナール実行委員会」など、「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑建設委員会」に60万円を寄付。
0515 「日韓地方新聞編集局長フォーラム」に参加する韓国側5紙の代表、広島市を訪問。韓国人原爆犠牲者慰霊碑と平和公園の慰霊碑に献花。
0721 「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑」の除幕式、広島県比婆郡高野町で挙行。約200人が参列。費用は約300万円。
0805 第26回韓国人原爆犠牲者慰霊祭、広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で挙行。約250人が参列。
0805? 広島の韓国・朝鮮人原爆慰霊碑のについて広島市の調整で公園内への「並立」案が浮上。
1996
0220 韓国・大邱市、5月に予定されている姉妹都市縁組みを前に、韓国人原爆犠牲者慰霊碑を平和公園内に移設するよう求めていることが判明。
0222 韓国・大邱市が、広島市内の韓国人原爆慰霊碑の移設問題で広島市の事情説明のための職員派遣を断っていたことが判明。
0805 在日本大韓民国民団広島県地方本部、第27回韓国人原爆犠牲者慰霊祭を広島市の慰霊碑前で挙行。約200人が参列。
1997
0501 韓国・大邱市長ら、広島市を訪れ韓国人原爆犠牲者慰霊碑を参拝。
0512 韓国原爆被害者協会慶北支部(本部:大邱市)のメンバー23人、広島市を訪れ、被爆者健康手帳の交付申請や韓国人原爆犠牲者慰霊碑への参拝を行う。浄土真宗本願寺派安芸教区の受け入れ。
0723 広島市の古田公民館と交流している韓国・ソウルのユソク初等学校の訪問団、韓国人原爆慰霊碑に参拝。
0805 在日本大韓民国民団広島県地方本部、韓国人原爆犠牲者慰霊祭(28回目)を慰霊碑前で挙行。約200人が参列。
0806 橋本首相、「被爆者代表から要望を聞く会」に出席。広島県内の被爆者7団体のうち4団体代表から意見を聞く。今回初めて10分間の質疑応答。この中で首相、韓国人の原爆慰霊碑に「近いうちに参拝する」と述べる。
0809 長崎在日朝鮮人の人権を守る会、追悼集会を長崎市松山町の長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑前で挙行。約150人が参列。
0920 「ヒロシマ・平和のリボンの会」、米の2回目の核実験に抗議行動を広島市平和公園の原爆慰霊碑前で実施。韓国ソウル在住の子供記者2人も参加。
1998
0501 曹圭泰駐広島大韓民国総領事、広島市役所を訪れ、平岡市長に就任挨拶。韓国人慰霊碑の移転について要請。
1224 平岡広島市長、平和公園対岸にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑を来年の8月6日を目標に公園内に移設する方針を明らかにする。
1225 中国新聞社説「韓国人慰霊碑の移設を歓迎」
2023
0521 尹韓国大統領夫妻、岸田首相夫妻と広島平和記念公園の韓国人原爆犠牲者慰霊碑を訪れ、追悼。

 

1999年

年月日 事項
1999
0205 韓国人原爆犠牲者慰霊碑を広島平和記念公園の対岸から公園内移設を進める「移設委員会」が発足。 C
0521 韓国人原爆犠牲者慰霊碑の広島平和記念公園公園内移設工事がスタート。 C
0721 韓国人原爆犠牲者慰霊碑の広島平和記念公園公園内移設完工式。権養伯移設委員会委員長・秋葉忠利広島市長ら関係者約300人が参加。 C
1017 広島平和記念公園公園内の韓国人原爆犠牲者慰霊碑の台座部分にペンキがかけられているのが見つかる。 C
2001
0401 崔相龍韓国駐日大使、広島平和記念公園公園内の韓国人原爆犠牲者慰霊碑を訪れ記念植樹。
2005
0805 広島平和記念公園公園内の韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で慰霊祭。 C

佐東町川内・温井義勇隊の碑

佐東町川内・温井義勇隊の碑

 (正面)(原文左横書)
義勇隊の碑
(縦書)広島市長
浜井信三書
 HIC072
(裏面)上温井(六八名略)
中温井(三七名略)
下温井(四〇名略)
 HIC072B
 〔側碑〕
(正面)謹みて義勇隊の霊にささぐ
我等みな忘れまじ悲しみて余りある惨状の日を、
そは昭和二十年八月六日午前八時十五分なり。
原爆、この地に投下され阿鼻叫喚の巷の中で
苦悶のはてに吾がはらからはいまここに眠る。
軍の至上命令とはいえ百七拾四名の尊き犠牲者
当日早朝より家屋疎開の作業に従事す。
その名川内村義勇隊旧安佐郡川内村温井
部落居住者なり
戦禍の憎しみ今ここで言うをまたず我等遺族
その若き命をささげし霊に対し断腸の思い
果つるを知らず。
ここに遺族一同相はかりてその尊き犠牲を
永久に語りつたえ、今平和のきざしこの地より
出ずるにあたり、霊よとこしえに安かれと祈念し
この碑を建立す。
昭和三十九年八月六日
安佐郡佐東町川内温井
遺族一同

 

 

 

 

祈りの像

平和祈念慰霊国民大祭記念祈りの像
建立年月日:1960(昭和35)年8月15日
場所:広島市・平和記念公園

(台座正面)
祈り
(台座裏面)
施工者 今村正範
(台座右側面)
平和祈念慰霊国民大祭記念
昭和三十五年八月十五日建立
慰霊対象
被爆者   軍人軍属
官公吏   警察官
警防団員  動員教師
動員学徒  派遣看護婦
助産婦   抑留同胞死没者
戦犯処刑者 殉死者
自決者   在外同胞非業死没者
其他一般犠牲者

〔側碑〕

平和を祈り
御霊を鎮めん
大木惇夫
山河に歎きはみちて
叫ぶ声あり 戦ひは
げに 人類の恥辱ぞと
ああ 奮ひ起ち挙り立て
心つなぎて つつましく
世界の平和 祈らばや
やすらぎの日をもたらして
国に殉ぜしもろ人の
み霊をこそは鎮めまし
み霊よ 地下に哭くなかれ

青空の光をうけて
闇を絶たずや 戦ひは
げに 人類の愚劣なり
ああ 奮い起ち挙り立て
呼べば応へて たくましく
世界の平和 祈らばや
やすらぎの日をもたらして
国に殉ぜしもろ人の
み霊をこそは鎮めまし
み霊よ 地下に哭くなかれ

夕星のさとしはありて
こだま地にみつ 戦ひは
げに 人類の自滅ぞと
ああ 奮い起ち挙り立て
まこと尽して 美はしく
世界の平和 祈らばや
やすらぎの日をもたらして
国に殉ぜしもろ人の
み霊をこそは鎮めまし
み霊よ 地下に哭くなかれ

 

 

原爆供養塔小史

原爆供養塔小史

1947年(昭和22年)8月6日、前年に引き続いて慈仙寺鼻の戦災供養礼拝堂で広島宗教連盟主催のもとに慰霊祭が執行された。慰霊祭は、午前7時に仏式から始まり、キリスト教、教派神道、神社庁式の順に正午まで続いた。

1949年のこの行事の式次は広島市戦災死没者供養会が発行した「広島市戦災死没者慰霊祭執行について」と題する案内状により詳細に知ることができる。これによれば、8月6日午前6時半から7時半の1時間、宗教連盟主催の行事を行ない、平和式典開催時間(8時15分-9時15分)の中断後、9時半に再開、新教(プロテスタント)、天理教、浄土宗、旧教(カトリック)、日蓮宗、真宗本派、真宗大派、真言宗、曹洞・臨済宗の各派の順にそれぞれ1時間ずつ法要を執行し、午後6時半に終了することになっている。この行事は、平和祭の中断した50年にも執行されており、平和記念日の諸行事の中で、翌年から現在まで開催され続けている唯一のものである。

原爆被爆直後、広島から重傷者約2、000人が宇品港から海上約6キロメートル沖の似島の陸軍検疫所に送られた。7日朝までの死亡者約400人は、火葬に付されたが、相ついで死亡した約1、500人の死体は、火葬が間に合わず、同島南岸の横穴と露天の防空壕に土葬されていた(「中国新聞」47年10月14日)。

1947年9月25日、広島市議会は、「広島市戦災死歿者似島供養塔」(千人塚)の建設費30万円を可決し、似島に眠る無縁仏を弔うこととした。発掘作業は、9月下旬から開始され(この時行われた放射能調査では、掘り出された骨から放射能が検出された)、11月13日、供養塔の除幕式および追悼法要が、日本宗教連盟広島県支部と広島市戦災死没者供養会の共催で死没者遺家族約300人の参列のもとに開催された。翌48年の平和記念日からは、宗教連盟広島県支部と広島市戦災死没者供養会が、中島の供養礼拝堂と似島供養塔の両所で慰霊祭を行なうようになり、54年まで続けられた。

1950年3月、それまで宗教連盟とともに慰霊祭を行ない、戦災供養塔を管理していた広島市戦災死没者供養会が、政教分離を求めるポツダム政令にもとづいて広島市の管理からはずされることになった(「中国新聞」55年2月15日)。そこで、同年5月、これに代わる民間団体として広島戦災供養会が結成された。同会は、分散している無縁仏を一か所に納骨するための堂の建設や戦災死没者名簿作製、祭祀法要の執行などを計画し、50年11月8日につぎのような請願書を広島市長に提出した。

現在市内数ケ所にある戦災者の遺骨は約30万柱あるが、これを一ケ所に集め明年の8月6日には、この新納骨塔で戦災供養を行ない霊を慰めたい。場所は、広島城、大本営跡の西側で、建設に要する費用約500万円を県および市で負担し、この納骨堂の傍らへ平和会館(仮称)を建設し、平和に関する研究所、図書館、会議場などを設けてもらいたい。 (「中国新聞」50年11月9日)

この請願書を付託された市議会の建設委員会は、同地が文化財保護法の適用を受けているので、使用を認めず、現在地への再建を認めた。しかし、市当局は、中島公園を平和記念公園として建設する計画から、墓地と同性格の納骨堂の公園内建設に難色を示し、この問題は停滞状態を続けることとなった(「中国新聞」53年11月25日)。

原爆犠牲者の遺骨については、講和条約発効前後から、大きな社会問題となっていた。新聞には、つぎのような動きが取り上げられている。

事項
1951  2月20日、山口県熊毛郡伊保庄村専唱寺で保管されていた元陸軍病院跡で発掘された1、288柱の遺骨が広島県世話課と復員連絡局広島支部に引き取られる。
1953  3月24日、中島供養塔[戦災供養塔のこと]で合同慰霊祭を執行。終了後、原爆死没者分1,232柱は、中島供養塔に、外地戦没者分56柱は、比治山納骨堂に納骨。
1952 7月4日、金輪島で原爆犠牲者の遺骨29柱が見つかる。7月10日、坂村に160体以上の遺骨が眠るとの情報。29日、千田町で42体、31日、二葉山麓で52体発掘。これらの内、引取り手の無い遺骨506柱が、中島の供養塔に合祀されることになり、8月5日、納骨法要を供養会主催で執行。
1953 2月、市内己斐西本町の善法寺に数百の無縁仏のあることが判明。8月6日、安芸郡府中町、龍仙寺の遺骨143柱を広島市に移管。
1954 4月19日、県病院職員の遺骨66柱を中島供養塔へ移す。

 

こうした動向は、納骨場所としての原爆供養塔建設問題に新たな進展をもたらした。1954年、広島市は、建設から8年を経過し、くち果てた姿になっている戦災供養塔の再建を検討するため、広島市供養塔建設対策委員会(委員長:坂田修一助役)を設置した。5月29日に初会合が開かれ、以後協議を重ねたが、50年当時と同様の問題から、なかなか結論に達しなかった。55年2月14日に開催された第5回委員会で、原爆供養塔の敷地は、市民感情と既成事実を尊重して、現在地を可とするとの市長への答申を決定した。一方、広島戦災供養会も、6月3日の理事会で原爆供養塔再建問題を協議し、荘厳なものを条件に市に一任し、再建資金45万円を市に寄付することを決定した。これを受けた市は、予算150万円で8月6日までに再建することとした。

原爆供養塔(設計は市立浅野図書館設計者の石本喜久治が担当)は、6月15日の地鎮祭を経て、7月20日に完成した。8月4日に、似島(約2,000柱)、己斐(約500柱)などの遺骨が移管、収納され、5日に完工式と開眼法要が挙行された。また、広島戦災供養会も、原爆供養塔の建立に合わせて供養塔北側に新塔婆を建立し、8月5日、開眼法要を執行した。塔婆に使用された木は、宮崎県の有志から寄贈された160年の古杉で、周囲3尺、高さ33尺、重量4トンという大きなものであった。

広島市社会課は、1957年にかけて、市内および市周辺の遺骨の掘り起こしと移管を行ない、遺骨の収納をほぼ終了し終えた(「中国新聞(夕刊)」61年8月13日)。しかし、遺骨は、その後も、市内の工事現場から発見されたり、被爆直後犠牲者の収容作業に当たった人々の証言などにより新たに発掘された。特に71年に広島市が実施した似島での発掘作業では、220体分という大量の遺骨が発掘された。こうした遺骨は、その都度、原爆供養塔に収納されている。現在、氏名の判明している948人の遺骨と、約7万人の無縁仏の遺骨が納められている。
原爆供養塔開眼を目前に控えた1955年8月1日、原爆供養塔の氏名判明遺骨2,432人の氏名が市の社会課によって公表された。これらの名簿の公表は、それぞれ関係者の大きな関心をあつめた。

被爆30年の1975年、広島市は、原爆供養塔に納骨されている犠牲者の遺骨の名簿を全国に送付することとし、7月28日から全国3,379の市町村あてに発送を始めた。この名簿は、55年に初めて公表され、68年に始まった名簿公開の会場で閲覧に供されていたが、広島市が積極的に全国に働きかけたのは初めてのことであった。その背景には、戦後30年経過し、遺家族や関係者が全国に散在しているとの判断があった。名前や収集場所の分かっている遺骨は2,432柱であったが、このうち、91年までの名簿公開で1,487人の遺骨の身元が判明した。

1985年、広島市が、市内の区役所、出張所、公民館に、一枚の紙に印刷した名簿を掲示したところ、12月下旬までに16家族が遺骨を引き取り、26家族が名乗り出るなどの成果があった。このため、広島市は、名簿の全国公開を、被爆40年の85年にふたたび実施することとした。85年7月3日、全国約890の自治体に「原爆供養塔納骨名簿」(1,080人分)を発送し、同月15日から10月31日まで全国一斉に掲示してもらうよう依頼した。全国公開は、この年以後、毎年実施されるようになった。91年には、948人分の名簿が発送された。

平和記念都市建設碑(原爆慰霊碑)碑文論争

平和記念都市建設碑(原爆慰霊碑)碑文論争

広島平和都市記念碑碑文(1952.7.22文案完成、8.6碑除幕)

 安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから

(英文)Let all the souls here rest in peace For we shall not repeat the evils

参考:原爆慰霊碑の写真

雑賀忠義「碑文について」(『広島市 おしらせ』第31号、1952年9月1日)

二十数万の霊は安らかに眠れない筈だ。「安らかに眠って下さい」と祈る上は不可能を可能にする決意と努力と(更にむずかしい)賢明さがいる。「過ちは繰り返しませぬから」との誓いにそれが表わされている。・・・ませぬがま・・・せんでもヘナヘナになるだろう。

一度あることは二度ある。広島は長崎で繰り返された。この繰り返しは防げるか。二十数万の犠牲が可能にする。むだにしないと忘れぬ間は。それならば、金石文字にしておこう。

廿世紀己文明の犯した最大の過ちは広島の原爆であった。

過去に低迷している広島市民ではない。飛躍して人類のなし得なかった仕事をしようと光明を見出す。

過ちは繰返さぬという決意は長崎と共に広島がなし得る特権である。原爆文明は世界の破滅を脅している。

文明はこのように不賢明だ。

人類の光明は広島の一角からとすれば、犠牲はむだでない。

パール博士の碑文への抗議(「中国新聞」 1952年11月4日)

この碑文に「過ちは再び繰返しませんから」とあるのは、むろん日本人をさしているのは明らかだ。それがどんな過ちであるのか私は疑う。ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのは日本人でないことは明りょうである。落としたものの手は、まだ清められていない。この過ちとはもしも前の戦争をさしているのなら、それも日本の責任ではない。その戦争の種は西洋諸国が問うよう侵略のために起したものであることも明瞭である。

浜井市長の説明(「中国新聞」 1952年11月4日)

過去の戦争は明かに人間のあやまちであった。私はあの碑の前に立つ人々がだれであろうと「自分に関する限りはあやまちは繰り返さない」という誓いと決意を固めることが将来の平和を築く基礎であり、また現在生きている人たちがそれを実践したときはじめて地下の英霊は安かに眠るることができるものである。その意味のことをあの短い文章に書いたのである、碑の前に対してだれの罪であると個人をつかまえてせんさくする必要はないと思う、あの碑の前には世界各国の人が立つだろうと私は思う。

雑賀忠義(碑文作成者)の考え(「中国新聞」1952.11.11)

広島市民であるとともに世界市民であるわれわれが過ちを繰返さないと霊前に誓う-これは全人類の過去・現在・未来に通じる広島市民の感情であり、良心の叫びである。「広島市民が過ちを繰返さぬといっても外国人から落とされた爆弾ではないか。だから繰返さぬではなく繰返させぬであり、広島市民の過ちではない」とは世界市民に通じないことばだ。そんなせせこましい立ち場に立つときは過ちは繰返さぬことは不可能になり霊前でものをいう資格はない。

岸田日出刀「広島の碑」(『文芸春秋』1957年2月号)

(前略)

「安らかに眠って下さい」も冗漫度しがたいセンスと思うのだが、「過ちは繰返しませぬから」に至っては、いったい何を言おうというのだろう。侵略戦争のようなものは二度としませんの意かもしれないが、こんな妙ちきりんな但し書は、あの残虐無慚な死に方をした多くの人たちの冥福とは何の関係もないことだ。(中略)

慰霊堂や碑石の造形にみられる簡素清純さによく合うような、もっとあっさりと素直な碑文を書き表せなかったものだろうか。わたくしだったら「慰霊」の二字だけを筆太に力強く縦に刻むだろう。この慰霊碑がこのままいつまでも据えつづけられるのだろうか。(後略)

Y M D NEWS1
52 08 06 平和記念都市建設碑(原爆慰霊碑)除幕.
52 11 03 世界連邦アジア会議インド代表パール博士、広島市の原爆慰霊碑に参拝。碑文に異論を唱える。
52 11 06 パール博士,原爆慰霊碑の碑文に異議をとなえる.10日,広大雑賀教授反論
54 08 11 浜井広島市長、原爆で両親を失った黒沢銀子(17才、東京都大田区)から原爆慰霊碑の碑文に対する抗議の手紙を受け取る。
55 08 19 原水爆禁止世界大会参加の中共代表団(劉寧一団長、謝泳心ら7名)、広島入り。原爆慰霊碑参拝。広島赤十字病院訪問。
57 03 14 吉田治平(革政ク),広島市議会予算市会で原爆慰霊碑の碑文についての市長の見解を問う.
57 08 04? 呉市の文化団体、広島の原爆慰霊碑の碑文について、各界からアンケートを集める。木下夕爾「意味が不徹底だから撤去する」などの回答。
70 02 11 「原爆慰霊碑を正す会」結成。有志八十人。「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませんから」の碑文は、屈辱的で二十数万の犠牲者の霊を冒とくする」
70 02 12 安保破棄要求貫徹広島県実行委員会、原爆慰霊碑の碑文変更反対を山田広島市長に申し入れ。十四日には原水禁母の会など五団体も広島市に申し入れ
70 03 09 原爆慰霊碑を正す会、「碑文まっ消」を市長へ請願(「平和の推進」)。
70 03 09 原爆慰霊碑を正す会、山田広島市長と浅尾市議会議長に「碑文抹消」を請願
70 03 13 「原爆慰霊碑の碑文を守る連絡会議」結成。社会、共産両党系の団体、市民運動グループなど十五団体が共闘、「碑文抹消運動は核アレルギーの解消、軍国主義復活を目指す策略だ。碑文は絶対に守り抜く」
70 08 03 山田広島市長、原爆慰霊碑の碑文は変えないと公式発表。「碑文の主語は〃世界人類〃であり、人類全体への警告、戒めである」(「平和の推進」)
71 04 16 天皇・皇后、広島市の原爆慰霊碑を参拝。
77 09 23 広島市の平和記念公園内、原爆慰霊碑の碑文の照明装置が壊されているのを発見。
83 08 09 ジュネーブ軍縮委員会で今井大使、広島市の原爆慰霊碑の碑文についての解釈を表明。「核戦争をあくまで回避せねばならないという決意を示したもの」
88 10 19? 故雑賀忠義広大教授による原爆慰霊碑碑文の英語版、広島市立本川小学校の平和資料館に展示。
96 08 29 亀井静香自民党組織広報本部長、広島国際会議場で開催された党青年議員連盟総会の講演で、原爆慰霊碑の碑文を批判。
96 09 02 新進党広島県連、「原爆慰霊碑は目障り」と発言した亀井静香自民党組織広報本部長に対する抗議声明を発表。
97 12 20 亀井静香前建設大臣、広島市の原爆慰霊碑について「広島にもそういうばかげた碑がある。日本が悪いということを堂々とうたっている」と新潟市内での講演で発言。

 

原爆死没者名簿奉納者数の変遷

原爆死没者名簿奉納者数の変遷

 

追加数 内  数 総 数
1952(昭和27) 57902 57902
1953(昭和28) 391 58293
1954(昭和29) 212 58505
1955(昭和30) 523 59028
1956(昭和31) 680 59708
1957(昭和32) 185 15 59893
1958(昭和33) 173 60066
1959(昭和34) 187 60253
1960(昭和35) 161 95 66 60414
1961(昭和36) 139 64 60553
1962(昭和37) 125 83 42 60678
1963(昭和38) 127 29 60805
1964(昭和39) 169 44 60974
1965(昭和40) 469 69 61443
1966(昭和41) 550 68 61993
1967(昭和42) 430 157 43 62423
1968(昭和43) 1101 521 428 121 63524
1969(昭和44) 9211 1390 6764 1035 72735
1970(昭和45) 3606 1228 1122 1196 76341
1971(昭和46) 1745 243 389 1107 78086
1972(昭和47) 2097 204 319 1567 80183
1973(昭和48) 2650 321 742 1575 82833
1974(昭和49) 1970 139 396 1429 84803
1975(昭和50) 2172 128 450 1590 86975
1976(昭和51) 2159 114 392 1647 98134
1977(昭和52) 2282 143 528 1611 91416
1978(昭和53) 2179 97 370 1712 93595
1979(昭和54) 2090 59 318 1713 95685
1980(昭和55) 2279 71 355 1853 97964
1981(昭和56) 2753 82 656 2015 100717
1982(昭和57) 3060 112 792 2153 103777
1983(昭和58) 5179 65 2648 2466 108956
1984(昭和59) 4315 56 1685 2573 113271
1985(昭和60) 25419 123 22009 3234 138690
1986(昭和61) 4941 165 1018 3656 143590
1987(昭和62) 4619 110 993 3473 148177
1988(昭和63) 4476 114 931 3428 152650
1989(平成 元) 4424 23 921 3474 157071
1990(平成 2) 10175 1565 5117 3483 167243
1991(平成 3) 4787 20 1081 3682 172024
1992(平成 4) 4944 176964
1993(平成 5) 4878 181836
1994(平成 6) 5110 186940
1995(平成 7) 5094 192020
1996(平成 8) 5030 197045
1997(平成 9) 5076 202118
1998(平成10) 4927 207045
1999(平成11) 5071 212116
2000(平成12) 5021 217137
2001(平成13) 4756 221893
2002(平成14)
2003(平成15)
2004(平成16)
2005(平成17)

 

注:①1945年8月6日死没者、②1945年8月6日~前年8月5日死没者、③前年8月6日~当年8月6日死没者
出典:1967年までは新聞報道、68年以降は広島市原爆被害対策部の資料