『書名 流光 語り継ごう平和を 被爆50年』(修道中学・高等学校記念誌「流光」編集委員会、修道中学・高等学校、1995/11/04)
内容
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備考 |
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(写真) |
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発刊に寄せて (校長 畠眞實) |
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1 |
修道の原爆被災記録 |
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広島市に原子爆弾投下される 1
広島県警察部の発表した広島市の被害 1
被爆時の千田地区 2
修道中学校の被害 3
原爆被災寺の学徒動員出動状況 6
被爆当時の広島市街図 8
修道中学校戦災日記 9
戦災時教職員の動静 17
修道中学校原爆死没者名簿 21 |
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2 |
被爆五十年の記録 |
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被爆五十年の歩み(1945~1995年)年表 25
関係註記
修中生徒二告ぐ(ビラ)31
戦災を偲ぶ会 戦災死没者合同慰霊祭 32
慰霊碑の建立 32
1950年(昭和二十五年)三月三日の卒業式 32
感謝状(修道中学校原爆死没者生徒遺族会会長 香川凱二殿)33
慰霊祭を学校主催で行うにあたって 33
慰霊祭で献水を行うようになった経緯 34
慰霊の辞(昭和五十三年八月六日)34
本校原爆慰霊碑に関する調査とその平和教育教材化 35
何故中二だけが原爆慰霊祭に参加するのか 36
慰霊の辞(昭和六十一年八月六日)36
慰霊の辞(昭和六十二年八月六日)37
「炎の絵」 ヒロシマ生変図誕生秘話 38
被爆煉瓦保存記念碑建立 除幕式校長挨拶(平成五年月十五日)38 |
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3 |
当時の生徒の手記 |
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私の八月六日 中西淳雄 43
広島の長い一日 絹谷晴沼 45
古里へ向かって歩いたあの日 平山郁夫 46
被爆五十年を迎えて 三枡積 47
五十年前のタイムカプセル 佃昭信 49
花も蕾も若桜 私の勤労動員 佐々木博 52
制服の白線 深崎敏之 53
学校での救助活動 名越渉 54
あの日あの時の修道中学三年・合同製鋼組 久保利雄 55
火傷 坪田幸雄 56
原爆投下五十年を迎えて 四竃揚 59
生と死を分けた学徒動員 八木圭三 60
原爆と私-我が子への伝言-天野治男 61
半世紀後の後輩へ-受け継ぐ時代- 林孝治 62
悲しみを乗り越えて-サッカーへの道- 下村幸男 64
昭和二十年 林晃司 65
八月のカラス雨 中村和彦 66
慰霊碑の前で 竹本成徳 68
あの日、あの時 谷尾励 71
原爆 阿部正 72
新たなる出会い 十三才と六十三才の同級生 永谷道孝 73
核を阻むことが同級生への最大のプレゼント 森島剛 75
浜さんよう生きて帰った 浜田一 76 |
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4 |
父母家族の手記 |
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原爆死没者懇談会にて 後藤健蔵 81
原爆の記録 井上和子 81
想い出 平泉清子 83
追憶 山本孝子 85
三人の学徒 長尾梅代 86
弟の八月六日 徳富俊子 88
尊い犠牲 辰本キミヨ 89
かぼちゃの魂 木葉博 90
広島原爆の思い出 戸田實 92
私の思い 貞方サク子 93 |
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5 |
元教職員の手記 |
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心の故郷を求めて 岡島四郎 97
動員先の三菱造船所にて 松石義郎 98
思い出 田辺甲子生 99
原爆と修道・そして平和 脇田久二 101
「8・6平和学習」にかかわって 東通雄 102 |
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6 |
語り継ごう平和を |
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「語り継ごう平和を 被爆五十年」 107
慰霊の辞(一九九五年八月六日)108
被爆五十年に寄せて(東京芸術大学長 平山郁夫)109
生徒教職員の思い
核廃絶へ 岡野真之 111
家族と共に平和の大切さ感じた 杉原惇平 112
戦争が起きないよう努力を 瀬戸大気 113
原爆許すまじ 森元裕貴 115
人間どうしじゃないか 和田憲二 116
僕達が語り継ぐ原爆 井上大輔 118
ぼくたちの使命 武永憲二 119
平和について関心を持とう 谷岡貴法 120
過ちを二度と起こさないために 深井大輔 123
心に残る深い傷 白石隆史 124
語り継ごう核兵器の恐ろしさ 桧垣忠直 125
五十年前の八月六日 佛原悠介 126
自国の平和は世界の平和から 溝端祥浩 127
僕達は何をすればよいか 杉原哲平 128
僕らにできること 高橋俊彦 130
地球を破壊させてはいけない 中村忠 132
世界平和とは 原直輝 133
人類の義務 丸本健次 134
なぜ戦争は起こるのか 兼平佑一 136
世界へ向けて叫けぼう「原爆許すまじ」と 高橋峻洋 137
澄みきった平和な世界を 浜田亮 138
平和な時代に生きる 満居紘史 139
何を忌むべきか 城水輝之 140 |
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被爆五十年に平和を祈って 大純一 143
今、地球の「滅亡者」か「救世者」か二者択一のとき 橋谷秀雄 144
心の被爆者 渡辺郁夫 145 |
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原爆資料関係目録 |
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原爆資料関係目録 153
平和宣言N(一九九五年八月六日 広島市長)180
参考引用文献・資料 182 |
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語り継ごう平和を 被爆五十年 |
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類焼を食い止めた千田町人々 3
旧広島陸軍兵器支廠(南区霞町)44
悲しく揺れた4つの水筒(浜田一さん) 51
雑魚場街疎開跡(中区国棒寺町)58
広島工専周辺の惨状(中区千田町)67
御幸橋(1)(中区千田町)69
御幸橋(2)(中区千田町)75
母が守った学用品(山本孝子さん)86
被爆動員学徒慰霊慈母観音像(平和大橋東詰)89
動員学徒慰霊塔(原爆ドーム南)93
原爆慰霊祭後の座談会(一九九六年八月六日)98
生徒情報記録・戦災記録 103
広島貯金支局跡(中区千田町)104
被爆樹木 柳(千田公園)115
被爆ポンプ(広電本社バス停前)119
ふりかえりの塔(中区鷹野橋)126
広島電鉄発電所跡(中区千田町)130
旧広島赤十字病院(中区千田町)134
防火水槽(中区南千田東町)138
「広島生変図」陶壁画(広島市原爆資料館)142 |
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動員学徒悼歌「ほのお果てては」 183
付録(折込)類焼をまぬがれた当時の千田町住宅図 |
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あとがき |
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備考
『夏雲 広島女学院原爆被災誌』( 広島女学院教職員組合平和教育委員会編、広島女学院教職員組合、 1973/04/01)
内容
章 |
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01 |
発刊に寄せて |
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■小川清 ■広瀬ハマコ ■石田明 |
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02 |
15年戦争のあらまし |
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03 |
戦時下の国民生活(年表) |
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04 |
戦時下の女学院 |
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05 |
女学院の原爆被災状況 |
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06 |
生徒手記 |
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・あの友もこの友もみんな死んだ 八用恵子 52
・唯ひとり残されて 佐々木文子 55
・わたしが見たもの 網谷美佐子 58
・「助けて」の声を後に 竹内園子 61
・再び繰り返すまい 多田節子 64
・あの日のこと 武永舜子 69
・繰り返してはならないこと 藤本純子 73
・8人の家族を奪われて 河本和子 76
・修羅場の徘徊 川崎芙美子 81
・講堂の下からはい出て 林友枝 85 |
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07 |
父母の手記 |
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・あの朝の娘小香子をしのぶ 荒川不二子 90
・愛し吾娘を思う 井槌義明 92
・和子のこと 岩田シズエ 93
・広島の空は青かった 上里ヨシエ 95
・セーラー服の娘 岡野浅一 97
・チエちゃんの思い出 沖本サダミ 97
・戦を捨てよ 小沢徳太郎 99
・原爆 梶山アキノ 101
・今もなお吾が子を捜して 岸本カズ 103
・愛子 木村玉二 105
・原爆で愛児を失った追憶の一端 北村孝義 107
・二度とこんな思いは 楠原登義枝 111
・富子のこと 諏訪トモ 114
・「光恵 」 田能ヤチヨ 115
・逝きし子 田丸ナツヨ 117
・最後の日の娘の姿 田中節子 120
・原爆投下されて27年になります 田中マツ子 121
・なき娘を偲びて 神保薫 122 |
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08 |
教職員の手記 |
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・原爆下の広島女学院 松本卓夫 126
・瓦礫の中から生きのびて 宮崎みよ 131
・惜しき少女らを思う歌10首 島津武子 133
・恐ろしい体験 小堀清子 134
・その日の父のこと 島崎史朗 138
・睦子を懐うて 米原善四郎 141 |
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09 |
平和運動のあゆみ |
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10 |
核兵器の恐怖 |
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11 |
あとがき 平和教育委員会 |
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ISBN
目次 もくじ
備考
『流燈 広島市女原爆追憶の記』(真田安夫 編、広島市女原爆遺族会、1957/08/06)
内容<作業中>
頁 |
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口絵 |
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001 |
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002 |
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003 |
刊行の辞(遺族会長 真田安夫) |
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004 |
所感 (元校長 宮川造六) |
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008 |
学徒動員から終戦まで (元校長 宮川造六) |
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部 |
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一 |
追憶の記 |
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017 |
遺族 坂本潔他 |
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066 |
職員 沓木良之他 |
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二 |
遺稿 |
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087 |
被爆死亡生徒 |
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三 |
あの頃の市女生活 |
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103 |
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校友会誌「二葉」 |
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日記・サイン帖等より |
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四 |
遺族会の記録 |
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127 |
(写真)持明院内市女追悼碑 |
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128 |
遺族会結成以前のこと(元校長 宮川造六) |
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130 |
遺族会結成以後のこと(会長 真田安夫) |
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137 |
市女終末記―戦後13年の歩み(元職員 古田加茂太) |
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140 |
原爆犠牲者芳名録(合計679名) |
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140 |
職員(10名) |
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140 |
第1学年(274名) |
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144 |
第2学年(263名) |
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148 |
第3学年(50名) |
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149 |
第4学年(59名) |
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150 |
専攻科(23名) |
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<註>この名簿は原爆当時作製した「原爆犠牲者名簿」と「生徒調査表」による |
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151 |
遺族通信 |
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152 |
編集後記 |
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『昭和二十年の記録 全滅を免れた附中一年生』(「昭和20年の記録」刊行委員会編、広島高等師範学校附属中学校刊、1984/07/20)
内容
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はじめに |
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1 私たちは、こうして、原爆から生き残った 1 |
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2 手記-思い出をつづる(手記二篇)宮岡力 15
附中生徒の原村疎開
思い出を語る(私の行動)
全滅を免れた附中一年生 新井俊一郎 20 |
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3 わがヒロシマ日記-一年生四人の日記から 51 |
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昭和二十年四月
五月
六月
七月
八月
九月
十月
十一月
十二月
昭和二十一年一月
二月
三月
四月
五月 |
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4 証言-昭和20年を記録する会恩師をかこむ座談会 215 |
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はじめに
昭和20年4月の状況
戦時体制下での附中の立場
8月6日、その朝は
農村動員-疎開計画
大学南門の悲劇
入学してからの幾旬日
当時の、動員学徒の被災状況
農村動員への出発も、混乱の中で
科学学級の東城町疎開
終戦から原村時代へ
原村での初のストライキ
あの日、広島に帰省した5人
敗戦の日、原村では
終戦直後の原村生活
原村から西條へ(母校裏面史) |
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5 資料編 |
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附中の昭和二〇年史(年表)301
昭和二十年旧制附中入学生名簿 313
昭和二十三年新制附中卒業生名列表 315
移動・死没者名簿 316
恩師・旧担任教官名簿 328
同期会の開催記録 330
焼失前の附中平面図など(資料)360 |
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あとがき 365 |
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備考
碑 いしぶみ
(一高会原爆慰霊碑建設委員会編・刊、1991/06/01)
内容<作業中>
章 |
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1 |
慰霊碑の建設 |
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○慰霊碑建設の経緯…1
○一高会の経緯…1
○原爆慰霊碑建設趣意書…14
○慰霊碑建設募金の報告…16
○寄附者名簿…18 |
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2 |
原爆慰霊碑除幕式並びに第一回原爆死没者慰霊祭 |
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○除幕式式辞…25
○除幕式の記録…30
○沿革史…33
○旧教職員名簿…39
○年次別卒業生名簿…46 |
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3 |
被爆者の証言 |
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○増田先生のひとりごと、画と文…113
○原爆投下について(広島市原爆戦災史より)…116
○動員学徒原爆死没者名簿…120
○被爆者の証言…122
●教師の証言…122
●被爆者の遺族の証言…135
●被爆者生存生徒の証言…162 |
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4 |
思い出 |
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○写真…171
●旧教職員の思い出…173
●卒業生の思い出…206 |
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252 |
編集後記 |
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『碑 いしぶみ(人類の記録シリーズ)』(広島テレビ放送編、ポプラ社刊、1970/06/20)
内容
頁 |
見出し |
備考 |
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<口絵>広島二中の慰霊碑 |
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<口絵>原爆の子の像 |
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<図>広島市原爆被災地図 |
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はじめに |
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009 |
その日の朝 |
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020 |
河本君の日記から |
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034 |
本川土手の集合 |
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038 |
爆発の瞬間 |
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050 |
川の中で |
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058 |
脱出から再会へ |
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083 |
郊外へ |
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088 |
その夜 |
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104 |
お寺の救護所で |
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111 |
寄宿舎から平良村へ |
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118 |
寝られぬ両親 |
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123 |
あくる朝 |
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141 |
避難する途中で |
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185 |
ゆくえのわからない生徒たち |
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198 |
そして全滅した |
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206 |
あとがき |
薄田純一郎(「碑」プロデューサー) |
212 |
原爆死亡者の名簿 |
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214 |
<絵>小林勇作「原爆傷者の滝」(1954年) |
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『ゆうかりの友』(広島県立一中被爆生徒の会編・刊、1974/05/01)
内容<作業中>
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<詩>ゆうかりの友 |
原邦彦 |
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<写真>追憶之碑 |
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<写真> |
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<写真>慰霊祭 |
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<図>広島一中生徒職員罹災状況一覧 附罹災場所 |
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<図>広島県立第一中学校平面図 |
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はしがき |
原邦彦(級友の一人) |
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005脱出生徒の記録 |
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048先生による記録 |
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056ご遺族からのアンケート |
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314生き残った生徒の手記 |
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322広島一中一年生寄宿舎の思い出 |
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342原爆犠牲者の名簿 |
教職員(計15名) |
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生徒(計354名) |
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『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(秋田正之編、鱒書房、1954/08/03)
頁 |
タイトル |
備考 |
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口絵 |
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原爆爆心地周辺要図 |
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旧広島一中鳥瞰図 |
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広島周辺要図 |
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はじめに |
秋田正之(広島一中遺族会長) |
009 |
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転がっていたおむすび 益田美佐子 9
お母ちゃん、顔が見えない 渡辺重子 20
腕白で元気だった弟 長幸子 28
見つからない死体 佐々木乃文江 36
辿りついて十四時間の命 平野逸三 41
ゆるせない 藤尾久 44
熱い、体が焼ける 堀輝人 46
幽霊を追って 三保綱太郎・妻 58
苦しい、殺して 岩井国次郎 61
一籠のトマトでも 檀上竹男・妻 62
浄土に羊羹はあるの? 山本康夫 70
茶碗酒 高橋忍 77
読み上げられた死亡者名簿 川村三子 78
死のうわごと 大土省三 81
焼けついた学帽 秋田正之 86
楽しかった水浴びの日 花谷本六 90
眼鏡サック 片山誌子 97
一夜だけの看護 服部園 98
なくなったユーカリの樹 岡田佐美子 103
担架で微かに歌う校歌 須子剛 108
笑顔で死んでいった子 正木生虎 110
二郎は眼鏡をかけた丸顔の子 藤野君子 126
骨片 信濃俊次郎 128
豆タンクの大関 宇都信 131
屍に乳房をふくませて 池田武夫 136
悲しみの母 法貴みさる 138
焼けた弁当箱 上野平嘉太郎 142
お下がりの洋服 大西堅子 148
遺骨を蚊帳の中に 柳武 152
うどん 白川初美 159
頭髪もなく状袋一枚 岡田三郎 162
もう帰ってこない 吉富秀子 166
君は見ている 藤野としえ 168 |
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読後感 |
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安倍知二 |
作家 |
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荒垣秀雄 |
朝日新聞論説委員 |
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石垣綾子 |
評論家 |
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石川達三 |
作家 |
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植村環 |
日本YWCA会長 |
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長田新 |
日本教育学会会長・子供を守る会会長 |
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中島健蔵 |
文芸評論家 |
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中野好夫 |
評論家 |
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波田野勤子 |
児童心理学者 |
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古谷綱武 |
評論家 |
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森戸辰男 |
広島大学学長 |
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袋町国民学校
『広島原爆戦災誌』(第4巻)64頁 |
学校再開の状況
疎開児童たちは、広島市内の各家庭が破壊されたままであったから、帰広させる訳にもゆかず、その目安もつかないままに、疎開先で日を過した。しかし、こうしているうちに縁故者が疎開地を訪れ、ほとんどの児童を引取っていった。
九月も終るころ、引取手のない児童を内田常吉訓導が引率して帰広することになった。しかし、この引揚げも容易ではたくて、芸備線は水害のために寸断され、徒歩連絡するところが多く、朝、三次駅を出発して、広島駅に到着したのは、夕方電灯のともるころであった。 |
昭和二十一年六月になり、やっと開校の運びとなった。当日登校した児童は三七人、教職員は三人である。開校を知らせる方法は、教職員が自宅から持参した紙に開校する旨を書き、弁当の一部を糊の替りにして、焼け石や塀に貼りつけて連絡方法とした。登校児童が少ないのは、学区内に居住者がごく僅少のためであるが、後には、市周辺部に寄寓している児童も開校を知って、遠くから通学するようになり、次第にその数を増した。教職員が少ない理由は、生存者の少ないことは無論ながら、市内に教職員が居住しようにも住む家がないのと、教職員各自の事情によっては、勤務する学校を何処に選んでもよいという内諾を、当局から得ていたため、市内の学校に奉職するものが少なかったためである。
いざ開校はしたものの、教室は荒れ放題で、教具・教材は一物もなく、その日から教職員の努力で、すべてを造り出さなければならなかった。各自が硯・墨・筆を持ち寄り、板を探してきて墨を塗り、焼釘を石で打つなどして黒板を作り、ムシロを敷きつめ、その上に石炭箱を並べて、机の代用とするといった急造教室を造り上げた。 |
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2015年8月1日 |
第39回袋町地区原爆死没者慰霊祭 同慰霊夏祭り |
出典:『被爆70周年記念事業 原爆死没者慰霊式典の記録』(広島市、2016年1月) |
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広島県立第二中学校慰霊碑
建立年月日:1961(昭和36)年8月6日
場所:広島市・平和記念公園 |
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[正面]慰霊碑 |
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[正面右下]
戦災並に原爆にて戦没された、元広島二中職員生徒三百五十二名のなつかしい名簿を此の碑の裏面に記し、永久の思い出と慰霊のよすがと致したいと思います。
昭和三十六年八月六日遺族一同 |
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ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。