ドロッシィ・デッソー
資料年表:ドロッシィ・デッソー
年月日 | 事項 | メモ |
1969 | ||
0806 | 『濱井信三追想録』(濱井信三追想録編集委員会、19690806) | |
VII 最も新しい日本人 ドロッシィ・デッソー 607 |
||
1978 | ||
1228 | 『ミス・ドロシー・デッソー 日本における生活と事業』(香川亀人編・刊) | |
止
ドロッシィ・デッソー
資料年表:ドロッシィ・デッソー
年月日 | 事項 | メモ |
1969 | ||
0806 | 『濱井信三追想録』(濱井信三追想録編集委員会、19690806) | |
VII 最も新しい日本人 ドロッシィ・デッソー 607 |
||
1978 | ||
1228 | 『ミス・ドロシー・デッソー 日本における生活と事業』(香川亀人編・刊) | |
止
資料年表:大田英雄<作業中>
年月日 | |||
1934 | |||
**** | 誕生。神奈川県横須賀市生まれ。 | ||
広島大学教育学部入学(高校教育社会学科) | |||
1957 | |||
04 | 高校の分校(音戸高校倉橋分校?) | ||
1963 | |||
04 | 広島県立賀茂高校教諭 | ||
1963 | |||
04 | 広島県立賀茂高校教諭 | ||
1967 | |||
04 | 広島県立呉宮原高校教諭 | ||
原水爆禁止呉協議会事務局長、高教組呉地区支部平和教育推進部長、呉地区高校生「平和の集い」顧問、歴史教育者協議会会員 | |||
1973 | |||
1013 | 宇吹メモ(1973・10・13)呉歴史教育者協議会10月例会 於:呉勤労会館。出席。 | ||
1974 | |||
宇吹メモ(1974・11・24)呉空襲を記録する会設立総会 於:呉勤労会館。<司会挨拶(大田)> | |||
1975 | |||
0121 | 『呉戦災を記録する会会報 No.1』 | ||
役員構成 幹事 大田英雄(呉宮原高校 高校代表) | |||
1980 | |||
1025 | 『今、平和のためにー戦災・空襲を記録する会全国連絡会議第10回記念那覇大会』p88 | ||
大田英雄(呉空襲を記録する会)「今こそ戦争と軍隊の本質を明らかに」 | |||
1984 | |||
0623 | 『第20回呉地区高校生平和の集い記念出版「戦跡よ語れ 呉の平和な未来を―呉戦災フィールドワークの手引き」』 | ||
執筆:大田英雄・牧岡宏明(呉宮原高)、本間英次(熊野高)、伊藤英敏(呉港高) | |||
1989 | |||
0613 | 『父は沖縄で死んだー沖縄海軍部隊司令官とその息子の歩いた道』(大田英雄著、高文研) | ||
2005 | |||
**** | 死亡 | ||
2009 | |||
0815 | 『追憶―平和への切なる願いを込めて― 国民学校入学1期生が綴る戦中・戦後体験記』(広島県立呉三津田高校4回生同期会国民学校入学1期生が綴る戦中・戦後体験記編集委員会、広島県立呉三津田高等学校四回生、20090815) | ||
第2章 戦場で戦った軍人を父として 「父は沖縄で死んだ」を著した大田英雄君のこと〈岡部哲治〉…20 |
|||
28p:宮原高校教頭->広島市井口高校校長、広島女子商短大非常勤教師、 | |||
止
資料年表:大佐古一郎
年月日 | ||
1912 | ||
1115 | 誕生 | |
1953 | ||
0801 | 『文芸春秋 第31巻第11号』(文芸春秋新社) | |
ヒロシマ記者の靴のあと 大佐古一郎 220 | ||
1965 | ||
0806 | 『週刊広島 4号』(広報出版センター) | |
日本の広島人 升田幸三 九段 大佐古一郎 14 | ||
1971 | ||
1001 | 『随想尾道 第28号』(尾道随筆クラブ) | |
核兵器のロボット 大佐古一郎 56 | ||
1972 | ||
0701 | 『潮 第156号』(潮出版社) | |
焦熱のもとで”取材”したこと 大佐古一郎 …248 | ||
1975 | ||
0825 | 『広島昭和二十年 中公新書 404』(大佐古一郎 著、中央公論社) | |
1977 | ||
0801 | 『広島新史編修手帖 No.1』(広島市史編修委員会専門部会) | |
6.随筆三題 その1 ジュノー博士の資料 大佐古一郎 17 |
||
1978 | ||
1101 | 『平和文化 第14号』(広島平和文化センター) | |
ドクタージュノーと私 大佐古一郎 | ||
1225 | 『広島県医師会速報 第953号』(広島県医師会) | |
ドクター・ジュノーの世界⑥(大佐古一郎) 19 | ||
1979 | ||
0115 | 『広島県医師会速報 第955号』(広島県医師会) | |
ドクター・ジュノーの世界⑧(大佐古一郎) 19 | ||
0215 | 『広島県医師会速報 第958号』(広島県医師会) | |
ドクター・ジュノーの世界⑪(大佐古一郎) 28 | ||
0225 | 『広島県医師会速報 第959号』(広島県医師会) | |
ドクター・ジュノーの世界⑫(大佐古一郎)21 | ||
0305 | 『広島県医師会速報 第960号』(広島県医師会) | |
ドクター・ジュノーの世界⑬(大佐古一郎) 17 | ||
0415 | 『広島県医師会速報 第964号』(広島県医師会) | |
ドクター・ジュノーの世界17(大佐古一郎) 23 | ||
0515 | 『広島県医師会速報 第967号』(広島県医師会) | |
ドクター・ジュノーの世界20(大佐古一郎) 23 | ||
0525 | 『広島県医師会速報 第968号』(広島県医師会) | |
ドクター・ジュノーの世界・24(大佐古一郎) 23 | ||
0605 | 『広島県医師会速報 第969号』(広島県医師会) | |
ドクター・ジュノーの世界補遺(大佐古一郎) 22 | ||
0901 | 『世界 第406号』(岩波書店) | |
ジュノー博士と広島 大佐古一郎 269 | ||
1215 | 『ドクター・ジュノー 武器なき勇者』(大佐古一郎、新潮社) | |
1980 | ||
0105 | 『広島県医師会速報 第991号』(広島県医師会) | |
新春炉辺談話 大佐古一郎、松永勝、阪田数年 6 | ||
0305 | 『広島県医師会速報 第996号』(広島県医師会) | |
随想 ドクター・ジュノー(大佐古一郎) 26 | ||
0801 | 『廣島特報 昭和20年8月7日(火曜日)・昭和20年8月8日(水曜日)』(大佐古一郎・中村敏・松重美人) | |
1981 | ||
0901 | 『世界 第430号』(岩波書店) | |
ヒロシマ記者の証言 大佐古一郎 93 | ||
1982 | ||
0125 | 『広島県医師会速報 第1064号』 | |
特別寄稿・GHQと日本政府は広島に何をしたか?(大佐古一郎) 24 | ||
1985 | ||
1125 | 『昭和の戦争ジャーナリストの証言 6 終戦』(講談社出版研究所編、講談社) | |
証言 IV 原爆に竹槍・国民義勇戦闘隊 大佐古一郎(中国)125 |
||
1988 | ||
0718 | 『消えたペン 新聞労働者の8月6日』(中国新聞労働組合編、汐文社) | |
炎熱のもとで取材したこと 大佐古一郎 9 | ||
1989 | ||
1115 | 『平和の勇者ドクタージュノー 探せ!ヒロシマの恩人の軌跡』(大佐古一郎、蒼生書房) | |
1995 | ||
?? | 死亡。 |
止
資料年表:伊藤正子(いとう・まさこ)<作業中>
年月日 | 事項 | メモ |
1892 | ||
10 | 広島県御調郡坂伊原村で誕生 | |
1954 | ||
0625 | 村上哲夫『ながれ』(発行所:村上哲夫後援会、1954年6月25日) | |
気丈な婦人代表 広島市婦人連合会長 | ||
1968 | ||
0426 | 『20年のあゆみ』(広島市千田婦人会、19680426) | |
1980 | ||
0113 | 宇吹の聞き取りメモ(1980年1月31日) | |
お宅で面会。戦災供養会・平和式典などについて。 | ||
止
水原肇「ある記者のヒロシマ報道の軌跡と民衆との連帯」
平和をつむぐ人の会発足(1982年10月28日)記念講演 |
会場:福山市民会館。参加者約50名 |
止
日本海軍と原子力(浅田常三郎)1964年9月9日
止
大森正信<作業中>
資料年表:大森正信
日本科学者会議広島支部事務局長 | |
原水爆禁止日本協議会 | |
2002 | |
0131 | 撮影日:2002年1月31日 |
2015 | |
1217 | 大森正信 広島県原水協筆頭代表理事・佐久間邦彦広島県被団協理事長ら4人、原爆被爆者養護ホーム「舟入むつみ園」と「矢野おりづる園」を訪問、全国から寄』せられた被爆者への「見舞金」あわせて300人分を届ける。<『原水協通信 On The Web』> |
『父は沖縄で死んだ』(大田英雄、高文研、19890613 )
目次
章 | 見出し | 備考 |
Ⅰ | 沖縄県民かく戦えり | |
◇還ってきた父のシャレコウベ◇沖縄”捨て石”作戦◇武器は「竹槍」だった◇海軍部隊の最期◇二つの電文◇壕の中の遺骨◇命沖縄の土になった「父」 | ||
Ⅱ | 家族の見た父の肖像 | |
◇命父と母の出会い◇軍人とその妻◇「武人」の横顔◇子供たちの目に映った父◇六番目で最初の男の子◇かいま見た太平洋戦争の実態◇佐世保に移る◇坂に消えた白い手袋 | ||
Ⅲ | 遺族たちの「戦後」 | |
◇初めての呉空襲◇学童疎開先で知った父の死◇八月十五日の夕焼け◇墨を塗らされた教科書◇食うためのたたかい◇離散したきょうだい◇新制中学の授業◇高校時代の記憶◇一度は考えた防大受験◇「沖縄」を避けていた大学時代◇教会活動・洗礼・就職 | ||
Ⅳ | 教師として生きる | |
島の分校の新米教師 | 倉橋分校? | |
***倉橋分校?。昼間定時制 | ||
生徒に教えられたヒロシマ | ||
***体育祭の仮装行列で原爆被災者を演じる。 | ||
「瀬戸の花嫁」 | ||
末弟も防衛大へ | ||
職員会議で罵倒された私 | ||
***1963年4月広島県立賀茂高等学校へ赴任。「日の丸」問題。滝尾英二先生のアシスタントとして社会科研究クラブの研修旅行「大和路の旅」へ生徒を引率。 | ||
古墳にとりつかれて | ||
呉市に戻る | ||
***1967年4月広島県立呉宮原高等学校へ赴任。 | ||
モーニング論争 | ||
同和教育運動のなかで | ||
防衛大へ行った教え子 | ||
***呉でも大学セクトの指導でアジト。宮原高校も一つの拠点。「反戦高校生」は「呉黄幡弾薬庫や江田島秋月弾薬庫」などを取り上げる。 | ||
自衛隊員の子女に自衛隊をどう教えるか | ||
***1983年に盛岡で開かれた「第32次全国教育研究集会」の「人権と平和」教育分科会にレポーターとして参加。助言者に森田俊男先生。 | ||
Ⅴ | 平和教育にとりつかれて | |
映画「沖縄」の上映運動 | ||
カヤさん、マキさんとの出会い | ||
***1972年カヤ(萱原威=被爆者。広高校の数学の教師)先生が中心となり県下に先がけ高教組呉地区支部内に平和教育推進部を結成。マキ(牧岡宏明。広高校の数学の教師)。972年カヤ、マキらで全国高校生活指導研究協議会呉支部(略称:呉高生研)結成。 | ||
呉空襲を記録する会 | ||
***1974年歴史教育者協議会呉支部を中心に 呉空襲を記録する会を結成。1975年『呉空襲記』(中国新聞社、吉川記者)刊。 | ||
平和教育読本をつくる | ||
***呉地区の平和教育推進部の提案で高教組本部に編集委員会設置。『明日に生きる』 | ||
平和教育推進部 | ||
***1977年カヤさんが広島商業高校に転勤。 | ||
呉地区高校生「平和の集い」 | ||
***1973年、平和教育推進部で貸し切りバスを仕立て第19回原水爆禁止世界大会の文化集会に生徒ともども参加。上条恒彦の声に圧倒される。翌年、生徒の要望で世界大会そのものに参加。1975年2月、第1回呉地区高校生「平和の集い」(呉地区高校生徒会連絡会主催、平和教育推進部・呉高生研援助、原水爆禁止呉協議会・歴史教育者協議会呉支部後援)。 | ||
「高校生平和ゼミナール」の出発 | ||
***1977年(松崎徹、沢野重男ら)「広島平和ゼミナール」結成。 8・6高校生平和集会への道= 1975年第19回原水爆禁止世界大会高校生分科会終了後、松崎から大田に相談。 第20回原水爆禁止世界大会高校生分科会終了後、指導者会議に提起。 第21回原水爆禁止世界大会高校生分科会で学園に根差した高校生の活動報告。 大阪清水谷高校の文化祭での平和問題への取り組み。 以後、3年のうち2回は広島県高校生平和ゼミナールが、1回は長崎高校生平和ゼミナールが、地元実行委員会として世話役。 |
||
平和は創りだすもの | ||
***呉地区高校生「平和の集い」=2月と6月の2回。第3回、第5回、第6回の内容 | ||
すばらしい生徒たち | ||
***第7回、第13回、 | ||
「原爆瓦」に負けるな | ||
***戦跡フィールドワーク。1982年2月第15回「平和の集い」。 | ||
一年六組の旗 | ||
***1982年4月、ホームルームを担当。6月の第16回「平和の集い」 | ||
盛岡の誓い | ||
***「第32次全国教育研究集会」(1983年)。広島(沢野重男・大亀信行)・長崎・埼玉(小岩井増夫)・呉で「8・6全国高校生集会」。森田塾。 | ||
VI | 沖縄で見た「父」 | |
父の「電文」との出会い | ||
歴教協・呉支部をつくる | ||
海軍壕で見た「父」 | ||
基地オキナワの現実 | ||
安仁屋政昭氏との再会 | ||
「兄は反戦教師、弟は自衛官」 | ||
二度目の訪沖 | ||
平良知事の涙 | ||
三度目の訪沖 | ||
VII | 沖縄戦“追体験”の旅 | |
「観光コースでない沖縄」 | ||
本島中部の戦跡と基地 | ||
糸数壕にて | ||
摩文仁の丘にて | ||
平和祈念資料館にて | ||
「ひめゆり」の衝撃 | ||
父の「電文」の背後にあったもの | ||
旅の終わり | ||
VIII | 呉にも「沖縄」があった | |
軍港都市・呉の誕生 | ||
海軍・戦争とともに歩んだ呉 | ||
呉空襲の被害が大きかった理由 | ||
呉の「摩文仁ヶ丘」と「健児の塔」 | ||
呉にもあった「ひめゆりの塔」 | ||
戦艦「大和」の碑 | ||
壕の中の地獄 | ||
帝国海軍の終焉「呉沖海空戦」 | ||
「軍都」呉は、いま | ||
あとがき |
橋本秀夫の仕事ぶり 建築家橋本秀夫遺稿集
= The works of Hideo Hashimoto
橋本秀夫遺稿集編集委員会編・刊 20090701
目次
まえがき | ||
秀夫と連れそって | 橋本ノブエ | |
橋本秀夫氏の資料について | 菊楽忍 | |
第1部 論文集 | ||
広島城 | ||
廻り番付と広島城 広島城城割に就て 「度量之絵図」に学ぶいろは四十八櫓 広島城再建「基礎と瓦」 広島城と石垣 広島城と石垣(郡山) 石塁工事普請符牒(石垣文様)について 広島城遺構三之丸校倉(多家神社宝蔵) 多家神社宝蔵と廻り番付について 広島城の生活用水と樋門 広島城修築と天災考 |
||
レンガ建築 | ||
広島の近代文化遺産 煉化石あらかると ヒロシマの被爆建造物は語る レンガあらかると 広島の明治建築 広島の近代文化遺産 旧広島陸軍兵器支廠の研究 古いアルバムに拾った平和の尊さ 広島陸軍兵器支廠火薬庫大爆発に想う 明治1号館有難う 旧陸軍兵器支廠1号館の解体によせて 広島の明治建築 旧陸軍糧秣支廠の研究 広島市郷土資料館見学記 旧広島陸軍糧秣支廠 上等赤煉化石造「広島市郷土資料館」の周辺 宇品陸軍糧秣支廠倉庫(宇品日通倉庫) 蘇る旧広島陸軍被服支廠 保存と文化 広島の明治建築 夢を贈る中世のお城 亀山発電所 広島電気軌道(株) 広島県物産陳列館 臨時広島軍用水道(牛田水源地) |
||
郷土史と文化財 | ||
六号潜水艇と人間佐久間 旧広島水上警察署 旧広島地方気象台 蘇った日本外史 拓本が語る厳島神社五重塔 広島の近代文化遺産 後楽のこころ 広島の秘境 湯之山明神旧湯治場 悟をひらいた苔 もう一つの八岐の大蛇 鑪と吉水園 広島 加計町のバロック『吉水亭』 呉市に咲いた花「蔵本通り」 新日山安國寺 不動院梵鐘楼に就て 不動院鐘楼実測に依る時代的班別について |
||
第2部 砲台巡り | ||
著者御紹介 広島大学名誉教授 日本民俗建築学会会長 | 佐藤重夫 | |
まえがき 広島湾要塞の築城 第1章 室浜砲台 第2章 鷹の巣砲台 第3章 大那沙美砲台 第4章 岸根砲台 第5章 鶴原砲台 第6章 三高山砲台 第7章 大君砲台 第8章 早瀬堡塁砲台(早瀬第1~第2砲台) 第9章 休石砲台 第10章 高鳥砲台 第11章 大久野島堡塁砲台 第12章 忠海芸備砲兵大隊 第13章 大空山砲台 第14章 小島砲台 砲台建築仕法通則 沿革年表 |
||
コラム | ||
特集 彫刻と建築 街の表札 黄金の汗に輝く 広島大会 広島 ネズミのくれた小判『海田の宿 千葉邸』 旧街道ウォッチング「命びろいの三角の家垂」 古釘のうた 日本のバロック建築 『世紀末のドイツ建築』小幡一著 学校は心のふるさと 学校特集 球児とカンカン帽子 心の叙勲 古釘のうた 小さな平和 古釘のうら 床下のベートーベン(鴬張り) |
||
私の推薦する作品
・生まれかわった芸備線向原駅 |
||
私の推薦する作品 ・筆の里工房 ・株式会社日食広島支店 ・三良坂リバティーホール ・広島市安芸区スポーツセンター |
||
旧街道ウォッチング「最敬礼!!」 | ||
番付と人生観 | ||
街路地と陽光 | ||
心の故郷 懐かしい学窓 | ||
長官山に咲いた金唐紙 | ||
お庭を喰った美術館 | ||
あとがき | ||
橋本さんへの手紙 | 松林俊 一 | |
小堺吉光
こさかい・よしてる | 19生 1986没 |
広島市公文書館長(初代)。[69原爆被災資料広島研究会]。『広島原爆戦災誌(全6巻)』 | |
著書
発行年月日 | 書名 | 発行所 |
1952111001 | 歌集・死灰の街 | エコールドヒロシマ |
1957071002 | 白光-小堺吉光歌集 | 山光書房 |
1967053302 | 広島の歌 | 小堺吉光 |
1978072003 | ヒロシマ読本(平和冊子NO.1) | 広島平和文化センター |
こさかいよしてる