吉川清略歴
年 |
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事項 |
1911 |
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福岡県に生まれる。 |
1945 |
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8月6日 夜勤明けの帰宅時に妻もろとも被爆。白島にあった自宅は全壊・全焼し、同居の父は避難先の救護所で死亡した。
可部に設けられた救護所での避難生活の後、親戚宅に身を寄せる。 |
1947 |
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広島赤十字病院入院 ケロイド治療のため数度に渡る皮膚移植手術を受ける。
入院中に外国記者団の取材を受けた際、ケロイドのあまりのむごさに一行の一人が「原爆患者ナンバーワン」と声をあげ、以来「原爆一号」と呼ばれる。 |
1951 |
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広島赤十字病院退院後、原爆ドーム前に「原爆一号の店」と自ら名付けたみやげ物店を開店する。観光客の求めに応じ自らのケロイドを見せ原爆の悲惨さと平和を訴える。 |
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初の被爆者による団体組織「原爆傷害者更正会」を結成。原爆乙女治療運動の母体となるが、谷本清氏らとの意見の相違で間もなく身を引く。 |
1952 |
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峠三吉らと「原爆被害者の会」を結成。 |
1954 |
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原水爆禁止広島市民大会開催。以後、原水禁運動に積極的に参加 |
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妻 生美がABCCの検査により肝臓障害で入院。ABCCとの交渉により治療と補償を勝ち取る。これが、ABCCに対する被爆者による初の交渉となる。 |
1955 |
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河本一郎氏らと「広島8・6友の会」を結成 |
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原水爆禁止広島大会開催 |
1956 |
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原爆被害者広島県大会開催 |
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初の被爆者援護法制定国会請願に代表の一員として参加 |
1957 |
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来広したネール首相と面会 |
1961 |
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「原水爆の禁止と平和をうったえる遊説団」として東南アジア諸国歴訪 |
1963 |
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原爆ドーム前のみやげ物店が不法建築物として撤去させられる。 |
1969 |
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中区流川にバー「原始林」を開店 |
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映画監督の新藤兼人氏をはじめ、郷土の文化人のサロンとして親しまれる。 |
1977 |
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脳卒中で倒れ、国立畑賀病院へ入院
病床からも、被爆者援護法制定、原水爆全面禁止を訴え続けた。 |
1986 |
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1月25日 10年に近い闘病生活の後 逝去 |
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吉川清著「原爆一号といわれて」を参考に作製 |
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出典:『 吉川清氏資料概要(中間報告)』(広島平和記念資料館、20030317) |
止
『広島は訴える 原爆広島11年の記録』(小積明男<川手健?>編、発行者:吉川清、発行所:広島原爆資料出版会、19560801)
目次
頁 |
見出し |
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002 |
その朝までの広島 |
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005 |
運命の日、八月六日 |
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014 |
原爆は平和をもたらしたか |
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019 |
魔の遺産、原爆症 |
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045 |
原爆被害者の生活 |
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069 |
原爆被災児の実態 |
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082 |
原爆被害者の運動 |
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103 |
原水爆禁止運動の発展 |
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128 |
附録1 原爆障害者調査結果表(原対協発表) |
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132 |
附録2 原爆被害者の損害賠償請求起訴状 |
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145 |
附録3 損害賠償請求訴訟の政府側答弁書 |
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『「原爆一号」といわれて ちくまぶっくす36』(吉川清、筑摩書房、19810724)
目次
章 |
頁 |
見出し |
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はじめに |
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1 |
怒りこみ上げる基本懇の答申 |
1 |
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運命の日 |
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8 |
夜勤明けのその日 |
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19 |
死に脅える毎日 |
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23 |
八月一五日 |
2 |
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救護所での日々 |
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26 |
血と膿の体 |
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29 |
極貧の日々 |
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32 |
死亡者名簿の私の名前 |
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37 |
救護所の閉鎖 |
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39 |
日赤病院へ入院 |
3 |
43 |
原爆一号 |
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44 |
原爆一号の命名 |
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49 |
インタビューや訪問客に追われる |
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写真(1947年)広島日赤病院の屋上でライフ誌の撮影に協力。 |
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51 |
医学学術集会での研究材料 |
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写真(1949年)広島日赤病院を慰問したプロ野球選手と。故小西得郎氏、藤村冨美男氏の姿も。 |
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54 |
ケロイド手術の失敗 |
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57 |
患者会結成と強制退院 |
4 |
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原爆ドーム横集落時代 |
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62 |
野宿 |
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65 |
原爆ドーム横にみやげ物店開店 |
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70 |
被爆者を訪ね歩く |
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78 |
原爆傷害者更生会の誕生 |
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83 |
原爆乙女と私 |
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写真(1950年)日赤広島病院を訪れた日本ペンクラブの一行と。故川端康成氏の姿も。 |
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写真(1953年)東大附属病院小石川分院で、原爆乙女の診察に立ち会う。 |
5 |
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被爆者運動の組織化 |
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92 |
原爆被害者の会を結成 |
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100 |
ケロイドを見せものにしてなぜ悪い |
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写真(1963年)ヒロシマみやげをつくるのもひと苦労。福島菊次郎氏撮影。 |
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103 |
原爆被害者の会の協力会 |
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105 |
原爆被害者の会分裂 |
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111 |
ABCCの横暴 |
6 |
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原水爆禁止世界大会 |
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118 |
平和都市広島の再興 |
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128 |
原水爆禁止広島市民大会 |
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129 |
ネール首相の広島訪問 |
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写真(1957年)広島原爆病院前で故ネール首相と。 |
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131 |
国会請願と日本被団協結成 |
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134 |
原爆一号の店取り壊し |
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写真(1957年)原爆一号の店の前で。 |
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136 |
原水禁運動の分裂 |
7 |
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バー「原始林」開店 |
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138 |
マスターの私、ママの妻 |
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140 |
ホステス、被爆者の売春婦 |
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144 |
不愉快な客 |
8 |
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東南アジア歴訪 |
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150 |
パール博士の碑文への疑問 |
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157 |
インドネシアでの広島出身元日本兵 |
9 |
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映画と私 |
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164 |
「原爆の子」 |
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166 |
「ひろしま」 |
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167 |
「生きていてよかった」 |
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168 |
「二十四時間の情事」 |
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169 |
「ヒロシマ一九六六」 |
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175 |
「記録なき青春」 |
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176 |
「ヒロシマの証人」 |
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177 |
挫折した「小さな恋人たち」 |
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178 |
「灯は生きていた」 |
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178 |
流産した「にっぽんの青い鳥」 |
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180 |
反響をよんだ「はだしのゲン」 |
10 |
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折り折りの人 |
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182 |
宗教と私 |
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186 |
病に倒れた峠三吉 |
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189 |
首相官邸前で割腹自殺した小林雲徹 |
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写真(1957年)クリスマス島英水爆実験に抗議して座り込み。右端が小林雲徹。 |
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193 |
ガンで死んだ南小一 |
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197 |
広島へ通った土門拳 |
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写真(1953年)原爆一号の店の前で土門氏と。 |
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203 |
結びにかえて |
『平和のともしび 原爆第一号患者の手記』(吉川清、京都印書館、19490815)目次
頁 |
事項 |
口絵 |
上図:著者の両腕と背のケロイド(松笠やうのもの) |
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下図:ライフ誌上に掲載された一文 |
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「ライフ」特派員より著者に送られた書簡 |
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病床にある著者と妻。英文はタイム誌上に掲げられた一文 |
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永久に平和記念館として保存される旧産業奨励館 |
1 |
序 (富田勝己 <京都府立医科大学外科教室> ) |
5 |
目次 |
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図:避難場所、休憩場所 |
1 |
思ひ出の八月六日 |
4 |
悲しき経験 |
11 |
命は助つたが |
15 |
生の欲望 |
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「大粒の雨」、「西原国民学校」 |
21 |
遂に失神 |
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「祇園青年会館」 |
25 |
その夜の救護所 |
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「祇園神社」 |
29 |
可部町勝圓寺にて |
29 |
父を亡ふ |
|
「可部の警察署の診療所」、「勝圓寺の御堂」 |
33 |
八月十五日を迎ふ |
37 |
顕著な原爆症状 |
42 |
絶望より微かな希望へ |
52 |
焼土廣島の見開 |
59 |
復員列車をみる |
63 |
友情に泣く |
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三次町より川内村へ |
70 |
無医村に迎へる冬 |
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赤十字病院に入院 |
75 |
三度廣島へ |
79 |
闘病生活つづく |
87 |
山根さんの人間的魅力 |
91 |
再び思ひ出の八月六日 |
97 |
平和の黙祷 |
100 |
死の淵を彷徨 |
103 |
春を迎へて |
105 |
平和の礎石に |
111 |
実験臺上へ |
116 |
「ライフ」特派員と會ふ |
122 |
跋 (伊藤嘉夫 広島赤十字病院皮膚科医学博士 ) |
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後記( 吉川清) |
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帯 |
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口絵 |
京都印書館=1944年(昭和19年) 人文書院と立命館出版部ほか京都の出版社数社が企業整備により統合し誕生した出版社。http://www.jimbunshoin.co.jp/company/c285.html
【資料】原爆第1号吉川清の試み
『中国新聞』 1951.4.3
原爆第1号きのう退院
昭和21年1月広島赤十字病院に入院、療養をつづけていた原爆1号吉川清氏は前後16回におよぶ手術で健康を全く回復し2日午後退院、5年2ヵ月の病院生活に別れをつげた。
(吉川清氏談)私は原爆による限りない苦悩を過去の長い病床生活において切実に味わってきた。同じような原爆による傷害者とかたく手をたずさえ、更生の道をどこまでも突き進みたい。このような意味からこのたび広島原爆傷害者救済援護会を設立した。
『中国新聞(夕刊)』 1951.6.4
インドから援助第1号!
めぐり来る原爆7周忌を前に原爆第1号患者として有名な吉川清氏(38)を中心に同病傷害者のうち127名の有志が内外の浄財によって人造パール製造の共同作業所と原爆患者診療所を設置し、相互に雄々しく立ち上がらんとする朗話がある。
原爆傷者立上がる 作業・診療所“われらの手で”
発起人に選ばれた吉川氏は6年にわたる入院生活からさる4月2日退院、爆心地産業奨励館ドーム前に夫人生美さん(30)とともに外人相手にみやげ物店を開業、細々ながら再起の日々を送っていたが、たまたま同地の整地作業に訪れる原爆ケロイド患者の日雇人夫の人々と病状を語り合うと共に、身体障害でどん底の困窮生活にあえぐ人々の多きを知り“なんとか相携えて働ける仕事 もちたい”と話し合った結果、予算70万円で次の事業計画をたて、かつて日赤入院時代同氏を見舞った内外人にこの基金募集を呼びかけ、すでにインドのシャルマン氏(昨年12月来広)がニューデリーにおいて松本滝蔵代議士と会見、50万円寄付の伝言があり、6月からは地元名士の援助署名運動に着手している
▽共同作業場=主として海外輸出用の人造パール(真珠)の製作ならびに販売
▽原爆患者の診療所の設置=原爆患者に対し実費治療ならびに一般困窮者の無料診察および相談(担当医は日赤副委員長服部達太郎氏が無料奉仕で当たる)
(吉川氏談)なんとかこの同病患者が結束して暗い気持を忘れ仕事にぼっとうして立上がれば幸いと思っています。予算面もインドから50万円近く送金するという手紙もあり、残りは私がリュックサックを背負って全国資金行脚してでも完成さす決心です。
吉川生美
きっかわ・いきみ |
生20131228没 |
享年92 |
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爆心地から約1・6キロの現広島市中区西白島町で被爆。夫の「原爆1号」と呼ばれた故吉川清とともに、戦後のヒロシマを生き抜く。 |
閃光を背負って―原爆第一号の足跡(毎日新聞(広島版)連載1989年8月16日~9月6日
回 |
掲載月日 |
見出し1 |
見出し2 |
1 |
0816 |
署名運動 |
救済求め手を組もう |
2 |
0817 |
請願書 |
最初は”外注”友人に依頼 |
3 |
0818 |
被爆者の叫び1 |
「このケロイドを見よ」 |
4 |
0819 |
被爆者の叫び2 |
東京でも体験語る |
5 |
0822 |
被爆者の叫び3 |
被害者の会を脱退 |
6 |
0823 |
八・六友の会 |
すべてと仲良く |
7 |
0824 |
抗議 |
広島の人間として |
8 |
0826 |
あがき |
自分が手がけたのに |
9 |
0830 |
吉川清の思い |
この”肩書”ずしりと |
10 |
0831 |
歩み・上 |
権利の主体へと |
11 |
0902 |
歩み・中 |
土産物店など経営 |
12 |
0902 |
歩み・下 |
ぐち口にせず往生 |
吉川清
きっかわ・きよし |
生19860125没 |
享年74 |
「原爆 1号」と呼ばれ、被爆者運動に尽力。[原爆被害者の会代表者]。 |
資料
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『平和のともしび 原爆第一号患者の手記』(吉川清、京都印書館、19490815) |
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『 閃光を背負って―原爆第一号の足跡』毎日新聞(広島版)連載1989年8月16日~9月6日 |
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『 吉川清氏資料概要(中間報告)』(広島平和記念資料館、20030317) |
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リンク:吉川生美(きっかわ・いきみ)20131228没 享年92歳。「原爆1号」と呼ばれた故吉川清は夫。 約1・6キロの現広島市中区西白島町で被爆した。 広島市東区のグループホームで死去。 |
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止
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