『わが非暴力 藤井日達自伝』(藤井日達著・山折哲雄編、春秋社、1992/05/20)
内容<作業中>
篇 |
見出し |
|
1 |
試煉 |
|
|
生い立ち 2
出家の動機 8
大崎遊学 13
京都遊学 19
1年志願兵 24
法隆寺での参学と焼身 27
健仁寺で参禅 33
堅田の教会所開設 38
比良山での断食 47
桃尾の滝で断食 52
北陸路の信心問答 57
宮城・二重橋での撃鼓宣令 62 |
|
|
|
|
2 |
激動 |
|
|
母危篤-朝鮮へ急行 66
満州開教と寒行 70
関東庁の妨害と日蓮宗の横槍 77
日本山妙法寺の誕生82
北支開教-天津・北京 86
関東大震災-帰国 91
富士山麓に日本山妙法寺誕生 98
東京開教-葉山でのご祈念 99
熱海開教-西天開教の原点 105
那須開教の因縁 113
十字街頭で辻説法 116 |
|
|
|
|
3 |
転身 |
|
|
母の死と西天開教への出立 120
インド上陸-還来帰家 126
セイロン行脚 133
ガンジーと対面 139
お仏舎利の感得 148
陸海軍へお仏舎利奉呈 154
中国人との接触 160
日中戦争と日本山 163
インパール作戦と日本山 169
満州・朝鮮伝道-敗戦 174 |
|
|
|
|
4 |
開華 |
|
|
花岡山にお仏舎利塔建立 180
戦後のインドと日本山 189
王舎城の仏教復興-戦前 193
王舎城の仏教復興-戦後 198
清澄山にお仏舎利塔建立 214
王舎城宝塔落慶供養とオリッサ開教 219
砂川闘争と日本山 227
三里塚闘争と平和運動 232
シーク教徒とヒッピー族-布施の精神 239
インドの新仏教徒 248
非暴力思想とお仏舎利塔建設 251 |
|
|
|
|
|
年譜 |
|
|
あとがき |
|
|
|
|
|
|
|
止
土井作治
どい・さくじ |
1930生20230117没 |
享年92 |
広島県史編さん室勤務時の上司。地域に埋もれた資料の発掘・収集・整理の実務の指導を受けた。 |
 |
止
『丸木俊さんを偲ぶ会』(丸木美術館ブックレット3、2000/08/01)
内容
|
《スケジュール》 |
|
|
|
5月4日 プレイベント(目次) |
|
|
|
午後1時 映画・トーク5 |
|
|
|
映画「劫火」(ジャン・ユンカーマン監督/アカデミー賞ノミネート作品/58分)
おはなし:ジャン・ユンカーマン |
|
|
|
午後3時 パネルディスカッション〈原爆の図一過去・現在・未来〉…12 |
|
|
|
パネラー:針生一郎(丸木美術館理事・美術評論家)
ヨシダヨシエ(美術評論家)
永井三喜男(画廊経営・丸木美術館評議員)
袖井林二郎(丸木美術館理事)
猪風来(縄文土偶作家・丸木美術館評議員)
小沢節子(美術評論家) |
|
|
|
午後6時 懇親会 |
|
|
|
|
|
|
|
5月5日 丸木俊さんを偲ぶ会48 |
|
|
|
午前9時 「平和の壁」「平和の旗」全国からの追悼の声を展示公開
「追悼オブジェ・いのちの鳩」献羽
特設書籍コーナー絶版本・サイン本展示関連書籍販売
思い出の映像ビデオ上映(新館ロピー) |
|
|
|
|
|
|
|
午後1時 丸木俊さんを偲ぶ会/セレモニー美術館新館ホール49 |
|
|
|
開会の挨拶針生一郎(丸木俊さんを偲ぶ会実行委員長・美術評論家・丸木美術館理事)50
関屋綾子(丸木美術館館長)51
朗読「俊のことば」54
お別れの言葉松谷みよ子(作家)59
高木仁三郎(高木学校主宰)60
中江利忠(朝日新聞社顧問)63
岩崎巴人(画家)65
土屋義彦(埼玉県知事)67
吉武輝子(作家)67
遺族挨拶丸木ひさ子72
追悼演奏大由鬼山(尺八)74
閉会の挨拶水原孝(丸木美術館理事長)75 |
|
|
|
|
|
|
|
午後3時 追悼コンサートとリレートーク野外特設会場 78 |
|
|
|
コンサート
WBGC(ジャズコーラス)
ナターシャ・グジー(バンドゥーラ演奏と唄)
庄田次郎(フリージャズ)
国分寺エクスペリエンス(社会人バンド)
日野2中OB・在校生(コーラス)80 |
|
|
|
リレートーク
塚田孝(牧師)81土本典昭(映画監督)83
松本猛(安曇野ちひろ美術館館長)87
前田憲二(映画監督)88 |
|
|
|
|
|
|
|
「丸木俊さんを偲ぶ会」呼びかけ人名簿 91
「丸木俊さんを偲ぶ会」賛同人名簿 91
「丸木俊さんを偲ぶ会」実行委員会名簿・感想 94 |
|
|
|
|
|
|
内容
止
パール博士年譜
出典:パール下中記念館 | 下中記念財団 (shimonaka.or.jp)
1886年 ベンガル地方のナディア県(現在はバングラデーシュ領)に生まれる。
1989年 父親が急死。以後、母の手で育てられる。
1903年〜ラージシャーヒー・カレッジ(現在はバングラデーシュ領)、カルカッタのプレジデンシー・カレッジで数学を学ぶ。
1905年 ナリニバーラーと結婚。
1910年 インド北部、アラハバードでインド連合州会計院書記生として就職。
1911年 カルカッタ大学理学部、法学部を卒業。
1920年 カルカッタ大学法学修士となる。
1923年 カルカッタ大学法学部教授に就任。
1924年 カルカッタ大学「タゴール記念法学講演」の講師にはじめて選出された。
1941年 カルカッタ高等裁判所判事に就任。
1944年 カルカッタ大学総長に就任(〜1946年)。
1946年 極東国際軍事裁判(〜1948年)にインド代表判事として派遣された(途中、妻の病気を理由に何度か一時帰国をしている)。
1952年 約4年半ぶりの再来日。下中彌三郎の招聘で世界連邦アジア会議に参加、日本各地をまわる。同年、国際連合国際法委員会委員に就任(〜1967年)。
1953年 下中彌三郎の招聘で3度目の来日。
1957年 国際連合常設仲裁裁判所判事に就任。
1966年 清瀬一郎、岸信介らの招聘で4度目の来日。
1967年 カルカッタの自邸で死去。80歳。
止
「生きて・労働運動家 吉田治平さん(1922年~)」『中国新聞』15回連載20100518~0609 西本雅実記)<作業中>
内容
回 |
|
|
|
1 |
組合60年 「弱者」に寄り添い歩む |
2010/5/18 |
|
|
|
|
|
2 |
新聞記者の息子 転校繰り返し父が急死 |
|
|
|
|
|
|
3 |
広島一中 軍国教育にはなじめず |
|
|
|
|
|
|
4 |
外務省電信課 日米開戦の足音感じる |
|
|
|
|
|
|
5 |
学徒出陣 電信隊に配属 九州回る |
|
|
|
|
|
|
6 |
廃虚の街 掘り返した母と妹の骨 |
|
|
|
|
|
|
7 |
新聞記者 焼け跡の掃除から入社 |
|
|
|
|
|
|
8 |
夕刊ひろしま 「戦後」に手探りで挑む |
|
|
|
|
|
|
9 |
|
|
|
|
|
|
|
10 |
広島自由労組 日雇いに飛び込み結成 |
|
|
|
|
|
|
11 |
「もち代」要求 市役所に座り込み拘置 |
|
|
|
|
|
|
12 |
広島市議 仲間に推され4期当選 |
|
|
|
|
|
|
13 |
わしらの被爆体験 今も許せない原爆投下 |
|
|
|
|
|
|
14 |
皆実平和住宅 復興期から住み続ける |
|
|
|
|
|
|
15 |
私の訴え 怒りを覚え 声を上げよ |
201006 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
止
『わしらの被爆体験 100人の証言』(全日自労広島分会・自労被爆者の会編、全日自労広島分会、19770720)<作業中>
内容
章 |
わしらの被爆体験 ――この目で見た原爆地獄―― |
|
1 |
|
|
|
|
|
|
|
|
2 |
被爆後のわしら ――その生活と健康の不安―― |
|
|
|
|
|
|
|
3 |
わしらの願い ――原爆のない世界・援護法の制定―― |
|
|
|
|
|
|
|
|
怒りと悲しみの中から (組合・常任)吉田治平(54) 204 |
|
|
|
|
|
資料 |
|
|
|
|
|
|
|
止
吉田治平
よしだ・じへい |
20180131没 |
享年95 |
|
|
1945年8月6日の広島壊滅を福岡で聞く。軍命令で神奈川へ向かう途次の5日、上幟町の実家跡を掘り返す。1950年に広島自由労組を結成。元広島市議会議員。1977年失対労働者100人の証言『わしらの被爆体験』を編む(西本雅実「評伝・吉田治平さん」『中国新聞』2018.2.9)<別記予定> |
止
鈴木直吉<作業中>
すずき・なおきち |
生19860129没 |
享年90歳 |
1949年広島県立医科大学教授。広島大学医学部教授(「中国年鑑1956」)。 |
略歴
年月日 |
|
|
|
|
1895 |
|
愛知県生まれ。 |
|
|
|
|
20歳で洗礼、クリスチャンに。 |
|
|
1926 |
|
東京帝国大学農学部卒業 |
|
|
|
|
東北帝国大学助手として解剖学者としての第一歩 |
|
|
|
|
岩手医学専門学校教授,満洲医科大学教授,横浜医科大学教授等。 |
|
|
1949 |
|
広島県立医科大学教授。 |
|
|
|
|
国立移管により広島大学教授 |
|
|
1958 |
|
停年退官 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
岩手医科大学教授,広島文教女子大学教授,順正短期大学教授を歴任 |
|
|
|
|
武者小路実篤や郭沫若と親交 |
|
|
1952 |
|
広島大学教授らでつくった「平和と学問を守る大学
人の会」会長 |
|
|
1955 |
|
第1回原水禁世界大会(広島市)の開催に尽力 |
|
|
|
|
|
|
|
1964 |
|
広島県原水協初代会長 |
|
|
|
|
日中広島県連合会名誉会長 |
|
|
1964 |
|
中国科学院の招待により第1回日本
学術代表団団長として訪中。 |
|
|
|
|
呉市芸術文化功労賞 |
|
|
1969 |
|
勲三等瑞宝章。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
参考資料 |
|
|
|
|
広島大学「学内通信」19850325 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
止
川村智治郎
かわむら・としじろう |
19060307生20030127没 |
享年96歳 |
広島大学第3代学長。第52回(昭和37年5月11日)日本学士院賞。 |
関係資料
|
|
|
|
|
|
|
|
19671001 |
「放送とわたし」(『放送RCC』第71号1967.10.01 所収) |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
19821017 |
『追懐 広島高等師範学校創立八十周年記念』(広島高等師範学校創立八十周年記念事業会編・刊) |
|
|
|
|
|
|
19950107 |
元広島大学(旧広島大学理学部1号館)の保存を考える会設立。会長に就任。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
止
追悼:葉佐井博巳
|
葉佐井博巳氏のご逝去を悼む
広島平和記念資料館資料調査研究会
会長 静間 清 |
広島平和記念資料館資料調査研究会研究報告 第15号
巻数 第15号 所収 |
(以下宇吹要約)
*平成 31 年 1 月 26 日に心不全のために 87 歳で逝去。
*昭和 6 年 4 月 21 日広島県生まれ、*同 31 年 3 月広島大学工学部卒業、工学部専攻科中退、工学部講師等を経、昭和 58 年教授就任。平成 7 年 3 月に広島大学定年退職、広島電気大学(現広島国際学院大学)教授、学長を務める。
*原爆投下時広島一中の 2 年生、8 月 6 日朝、廿日市の軍需工場に学徒動員、直接被爆をまぬがれる。翌日、自宅のあった白島にもどるため入市内。
*広島・長崎の原爆放射線の研究とその研究グループの育成に尽力。広島、長崎の残留放射能の実測データの収集、国内外の研究者に被爆資料を積極的に提供。被爆建造物が歴史的文化的遺産としての価値を持つのみでなく原爆放射線による被爆の痕跡を留めていることの重要性を指摘、保存と利用に取り組む。日米の研究チームが平成 15 年にまとめた原爆線量システム DS02 では日米共同研究者会議と上級委員会の日本側代表。平成 9 年中国新聞社より中国文化賞を受賞。
*広島平和記念資料館資料調査研究会の発足を提案、平成 10 年発足、発足時から平成 21 年まで会長。自らの被爆体験を語る被爆体験証言者として中高生に話、被爆者の手記データを電子データとして復元する活動。*平成 19 年広島市の「核兵器攻撃被害想定」専門部会長。 |
|
新聞報道 |
 |
|
止
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。