「18庄野直美」カテゴリーアーカイブ

人間に未来はあるのか-ある物理学者の問い

『人間に未来はあるのか-ある物理学者の問い』(庄野直美、勁草書房、19820710)

内容

 章
 序  滅亡の深淵 3
1981年秋の大学祭(大阪K大学)の講演(演題:滅亡の深淵-一物理学者の未来観)
 核時代 3
真の民主主義 14
人間らしい心 17
人間的基本価値 22
われらに未来はあるのか 27
 1  出生-広島からの出発 33
太田川 33
広島へ 41
広島一中 44
日本帝国崩壊の足音 48
広島高等学校 50
九州へ 56
原爆投下 60
 2   敗戦-混沌のなかで 67
1945年8月15日 67
廃墟と屍の街 71
夜明けの混迷 79
博多にて 87
アメリカの占領政策 96
物理学と唯物論と 102
 3 半独立-それでも希望を抱いて 107
再び広島へ 107
アメリカとソ連 116
ヨーロッパからヒロシマヘ 127
原水爆禁止運動 135
世界平和巡礼 145
 4  再生-人間の探究 156
ヒロシマ・ナガサキの論理と心 156
原爆被害の実相と核戦争 173
平和教育と平和研究 193
科学と宗教 205
弁証法的二元論 226
あとがき

 

被害者をめぐる今日までの動き

被害者をめぐる今日までの動き作業中

今日までを三期に分け、(Ⅰ)戦後より講和条約締結(26年9月まで)(Ⅱ)第1回世界大会まで(Ⅲ)第1回世界大会より今日まで、とする。

(Ⅰ)戦後より講和条約締結(26年9月まで)

(1)まず考えねばならないのは、終戦当時一般市民の間に、感覚的と思われるにしても、ガスを吸ったからとか水をのんだからとか、の言葉が自分の症状に十分関係があるが如くに聞かれたものである。

(2)

(3)アメリカへの訴えての救済活動(浜井市長時代)

(4)谷本牧師の動き

(5)広島平和記念都市建設法

(6)ABCCの問題

(Ⅱ)第1回世界大会まで(1955・8)まで

(1)

(2)

(3)広島市原爆障害者治療対策協議会発足

(4)

(5)ビキニ水爆実験を契機として

(6)1954年8月6日の原水爆禁止広島平和大会

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

 

(Ⅲ)第1回世界大会より今日まで、

゜ビキニ事件→被害者救援を刺激(しかしまだ大衆運動とはならぬ)
゜第1回世界大会までは、禁止運動と救援運動は一応無関係(禁止運動は自分たちには無関係で白々しい、という被害者の言葉があったほど)
゜第1回世界大会を契機として事態が一変

◇第1回世界大会(1955・8 於ヒロシマ)の被害者問題における意義

゜大会の討議と結論から次の方向が生まれた。

(a)被害の実相調査

(b)傷害の治療と予防問題

(c)生活保障の問題

(d)自立活動

◇第2回世界大会(1955・8 於ナガサキ)の被害者問題における意義

◇以上の観点からして、第1回大会後今日までの被害者をめぐる動きをみる場合、その活動状態は、(a)(b)(c)(d)の4項目によって整理することができ、その際第2回大会の役割は、それらを飛躍さす契機としてとらえればよいのであろう。

(1)第1回大会以後今日までの動きで特筆すべき組織の結成をまずあげてみる。

(ⅰ)原水爆禁止日本協議会の中に被害者救援委員会が設立された。 1955年9月

(ⅱ)救援委員会の発足。1955年11月26日、原水爆禁止広島協議会の中につくられ、役員としては、委員長(渡辺忠雄氏)副委員長(正岡旭氏、服部円氏他3名)幹事長(藤居平一氏)などをきめた。ただし渡辺氏が委員長を受諾されなかったため、委員が決定できなかった。

この委員会の目的

(a)原爆被害者の不幸な実相をあらゆる人々に伝え、救援を呼びかける。

(b)救援のために努力しているあらゆる団体、個人及び施設と協力して精神面、医療保健面、及び経済面などによりする救援をおこなう。

(ⅲ)全国社会福祉協議会の中に、原爆被害者対策特別委員会が設置される。(1955.11、 原水協関係の委員-山高シゲリ(全地婦連委員長)藤居平一(広島)香田松一(長崎)

(ⅳ)広島市原爆障害対策協議会が、広島原爆障害対策協議会に発展した(1956.4)

(ⅴ)日本原水爆被害者団体協議会の発足

 

1956.8.10 第2回世界大会の中から生まれたこの会の目標と方針は次のように決議されている。

一、

ニ、

三、

四、

五、被害者組織を強化して団結をつよめよう。このためどんな地域でも、被害者のいまいる処には必ず組織をつくり、この協議会に参加させよう。

(ⅵ)

 

(2)具体的に進められてきた活動

(ⅰ)被害の実態調査

(ⅱ)被害者組織の結成

(ⅲ)原水爆禁止運動

(ⅳ)生活と生命を守る運動

(ⅴ)救援金及び救援物資

 

(3)今後の問題点

 

(ⅰ)援護法をめぐる問題点

(ⅱ)根治療法の問題

原爆被害を根本的に治療する方策は、現在のところ、いかなる国においても完成されていないようである。****

この意味で、過去の運動の中で常に唱えられてきた国際的放射線医学研究機関の設置が望まれるのである。ところで最近、広島の医師および原子力科学者(大学人会有志)の或るグループが、医学・物理学・化学の綜合的観点から、広島の原爆症の基礎的な調査、研究を始めているのは注目に値しよう。この成果が一日も早く出されることを期待しよう。

 

(註)本文章の起草は、藤居平一、庄野博允<庄野直美>の両名が担当しました。

 

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庄野直美論

「庄野直美」論

庄野直美 しょうの・なおみ 1925年生

2012年2月18日没

Naomi SHONO

庄野直美先生は、私のヒロシマ研究の先輩である。とりわけ、私が広島県史編さん室・広島大学に勤務した時期にはお世話になった。彼の足跡をたどりつつ、私にとっての「庄野直美」を振り返ってみた(文中で、名前を掲げる人々の敬称を省く非礼をお許しください)。
「人間銘木 藤居平一追想集」(同編集委員会編、藤居美枝子発行、1997年)(注1)に、庄野による藤居(日本原水爆被害者団体協議会初代事務局長)への追悼文が収録されている。これによると、彼が、藤居と知り合ったのは第1回原水爆禁止世界大会の大会運営事務局で、1956年初め以降は、藤居宅に泊まり込んで相談と激論を重ねた。さらに東京に発足した原水爆禁止日本協議会の会合にはしばしば一緒に出席したという。
私は、「原水爆被害白書 かくされた真実」(日本原水協専門委員会編、日本評論新社、1961年)を、学生時代から辞書的に利用していた。私には、「広島・長崎の原爆災害」(広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編、岩波書店、1979年)が出版されるまでは、原爆被害を網羅的に概説した最も信頼できる本であった。この「あとがきに」によれば、佐久間澄・杉原芳夫とともに「原爆被害の実態」(第2章、第3章)の第一稿の執筆にあたっている(注2)。
「ヒロシマの証言 平和を考える」(広島平和文化図書刊行会編、日本評論社、1969年)は、広島市の平和推進事業の一環として設けられた編集委員会により発行された。本書の「刊行にあたって」に編集委員5人(注3)・執筆者7人(注4)の名前が記されている。これによれば、庄野だけが、編集者であり執筆者であった。一方、広島の平和教育が組織的・継続的に推進されるようになるのは1972年の広島平和教育研究所設置以降のことである。「平和教育研究 広島平和教育研究所・年報 Vol.1 1972」から、庄野が同研究所の国際交流部長に就任していることがわかる。庄野は、1967年の広島平和文化センターの設置から始まる広島市の平和行政や平和教育の初期から重要な役割を担っていたのである。
「原爆三十年―広島県の戦後史」(広島県編・刊、1967年)で、庄野は「原爆被災の概要」「原爆症」「被爆者の連帯」「平和研究」を執筆した。編集事務局員の私の仕事は、執筆要領に沿った彼の原稿調整を行うことであった。この作業の中で、私は、被爆二世の遺伝的影響の記述に疑問を感じてしまった。にわか勉強では、疑問が解けない。私はまず、県の関係課を訪ね見解を聞いた。その上で庄野を訪ね、原稿と県の見解が異なっていることを伝えた。すると庄野は、私に、遺伝的影響の研究概況と自らの見解を詳細に話してくれた。後日、私は、彼から県の見解に沿った修正原稿を受け取った。私が平和運動や行政から原稿の執筆を依頼された時や被爆二世問題に接するたびに思い出すできごとである。
被爆30年以降、広島・長崎両市(注5)と日本原水協が、国連を中心とした国際活動に乗り出した。両市は、1976年に「国連アピール資料編集専門委員会」(委員長・今堀誠二)を立ち上げる(注6)。『核兵器の廃絶と全面軍縮のために―国連事務総長への要請』(ヒロシマ・ナガサキ、1976年)がその成果である。このアピールの資料編「原爆被害の実態―広島・長崎」は、「物理的破壊」、「身体的破壊」、「社会的破壊」の三つの柱から構成されているが、庄野が前二者の原案を石田定(広島原爆病院内科武法)の協力で起草した。庄野は、同じ時期に日本原水協に事務局を置く団体(注7)が作成した「広島・長崎の原爆被害とその後遺-国連事務総長への報告」(1976年)にも作成のための専門家グループ(注8)の一人でもあった。なお、1977年には、こうした国内の動きに呼応するかのような海外の流れが、国内に流れ込み、この二つの流れのほか、多くの組織・団体を巻き込む大潮流となる。1977年の国連NGO被爆問題シンポジウム(注9)は、その事例である。「広島・長崎の原爆災害」(前掲)は、以上の成果を踏まえ、広島大学・長崎大学の研究者を中心にまとめられたものである。基礎原稿の執筆者が、「物理学関係」「医学生物学関係」「人文社会科学関係」の3分野で掲載されており、「物理学関係」に岡島俊三・岡林隆敏・竹下健児・橋詰雅とともに庄野の名前がある。発行(1979年)時、ある新聞は、原爆被害の集大成と報じた(注10)。
「原爆モニュメント碑文集」(原爆モニュメント研究グループ編・刊、1978年)では、庄野はスポンサーであった。私も一員であった研究会(広島県歴史教育者協議会のメンバーで構成)の横山英代表の指示で、庄野の勤務先の広島女学院大学に研究費を受け取りに行った(注11)。「核と平和―日本人の意識」(庄野直美・永井秀明・上野裕久編、法律文化社、1978年)は、1975年に発足した広島大学平和科学研究センターの研究プロジェクト「核意識構造の実態研究」による研究成果の一部である。このプロジェクトに参加した研究者は、全国13大学の27人であり、専攻分野は十数領域に及んでいる。私もその一員として、資料の収集と整理作業を中心となって進めていた永井秀明のお手伝いをした。この研究グループは、庄野を研究代表者として、1976年・77年に文部省科学研究費補助金の交付を受けている(注12)。
私が庄野の元で、あるいは共に働いたのは、この時期までである。庄野の足跡はこの後も続く。「ヒロシマ・ナガサキの証言 創刊号」(発行所:広島・長崎の証言の会、発行人:秋月辰一郎・庄野直美、1982年)や「広島の被爆建造物―被爆45周年調査報告書」(監修者:庄野直美、発行者:被爆建造物を考える会、発行所:朝日新聞広島支局、1990年)がその証である。また被爆40周年の1985年には「ヒロシマ・ナガサキ平和基金」を設立している。私は、彼からこれらへの参加を強く求められたが固辞した。理由は、依頼内容が事務局への関与であり、それは私の職場における立場では困難だったからである。
(うぶき・さとる=元広島女学院大教授、日本現代史・日本文化史)
(注1)私は、田中聰司(元中国新聞記者)とともにこの本の編集のお手伝いをした。
(注2)第一稿の執筆者:石井金一郎・伊東壮・大江志乃夫・佐久間澄・庄野直美・田沼肇・杉原芳夫・田沼肇・山手茂・吉田嘉清。
(注3)広瀬ハマコ・今堀誠二・田淵実夫・森脇幸次・庄野直美。
(注4)森下弘・永田守男・文沢隆一・大牟田稔・平岡敬・石田明・庄野直美。庄野が執筆総括者を務めている。
(注5)今から見れば不思議に思えるが、被爆地の広島・長崎両市が連携して被爆問題に取り組み始めるのは、1975年(被爆30年)の平和文化都市連携の調印以降のことである。
(注6)専門委員会の広島側委員は、原田東岷(副委員長)・石田定・岡本直正・庄野・湯崎稔の5人、長崎側委員は秋月辰一郎(副委員長)など5人であった。
(注7)名称は「核兵器全面禁止国際協定締結・核兵器使用禁止の諸措置の実現を国連に要請する国民代表団派遣中央実行委員会」
(注8)伊東壮・川崎昭一郎・草野信男・佐久間澄・庄野直美・田沼肇・峠一夫。なお、広島・長崎両市に関わった専門家と比べて注目されるのは、庄野のみが、両者に名を連ねていることである。
(注9)庄野とNGOにまつわるエピソードを一つ。私が、NGO(Non-Governmental Organization=非政府組織)という言葉を初めて知るきっかけは県の関係者からの問い合わせである。私の勤務先の広島大学原爆放射能医学研究所でも話題になっていた。シンポジウムの主催者は、県知事や研究所長にあいさつと後援の依頼していた。広島で最も詳しかったのは庄野だったように覚えている。私は、庄野情報によりその内容をぼんやりと理解した。参加した人々が十分理解していたとは思えないが、シンポジウムは、当時存在していた原爆被害に関わる多く動きを糾合した。そして、この成功は、その後の被爆問題をめぐる雰囲気を大きく変化させた。私は、特定の組織に属さずに多くの仕事を成し遂げた庄野直美を「NOM人」(Non- Organization  Movement=非組織運動の人)と呼ぶのがふさわしいと考えている。
(注10)この評価には、事務局の下働き的立場にいた私は違和感を抱いた。この本の広島部分の記述には、1977年には、「原爆と広島大学―『生死の火』学術篇」(広島大学原爆死没者慰霊行事委員会、1977年)の成果に依拠するところが多い。この本には庄野は関わっていない。
(注11)額は、10万円?20万円?30万円?いずれにしても、印刷費に満たないものであった。会では、会員の調査のための交通費や謄写版刷りの会報の費用にすることを申し合わせたように思う。
(注12)私は、うかつにも「原爆モニュメント碑文集」と「核と平和」は、まったく別の動きと思い込んでいた。しかし、今では、前者に関連して私が庄野から受け取った金は、この科研費の一部だったと推測している。