日 |
没年 |
名前 |
よみ |
享年 |
備考 |
01 |
1973 |
長岡省吾 |
ながおか・しょうご |
71 |
広島大学理学部[学研調査]。被爆時、広島文理科大学嘱託として山口県に地質調査で出張中。翌日入市。被爆資料収集に努めた(初代広島原爆資料館長)。<別記> |
01 |
1997 |
河合幸尾 |
かわい・ゆきお |
|
広島女子大学元教授。原爆被害者相談員の会代表。宇吹所蔵資料=「故・河合幸尾先生をしのぶ会」(19970405広島県民文化センター)<資料> |
01 |
2003 |
ネルソン、リチャード |
ねるそん |
77 |
広島原爆投下機エノラ・ゲイの無線士(出典:『中国新聞』20030208) |
01 |
2008 |
小野文子 |
おの・ふみこ |
|
広島大学原爆死没者慰霊行事委員会の委員。<別記> |
02 |
2013 |
山岡ミチコ |
やまおか・みちこ |
82 |
被爆証言者。<別記> |
04 |
1980 |
佐々木雄一郎 |
ささき・ゆういちろう |
63 |
被爆記録写真を撮り続けた広島の写真家。[69原爆被災資料広島研究会]。<別記> |
04 |
1993 |
柿手春三 |
かきて・しゅんぞう |
84 |
画家。「広島平和美術展」創立。代表幹事。<別記> |
05 |
1991 |
ペドロ、アルぺ |
ぺどろ |
|
被爆当時、長束修道院院長。出典:『中国新聞』20110428(増田咲子記者) |
06 |
1989 |
甲斐英男 |
かい・ひでお |
61 |
広島県史編さん室の上司。<資料年表:甲斐英男> |
06 |
2012 |
重松逸造 |
しげまつ・いつぞう |
94 |
放射線影響研究所元理事長。<別記> |
06 |
2024 |
小沢征爾 |
おざわ・せいじ |
88 |
指揮者。「ヒロシマ 指揮棒に思い 犠牲者へ心寄せ」(『中国新聞』20240210<西村文・記>) |
07 |
1971 |
尾形静子 |
おがた・しずこ |
44 |
広島市広瀬国民学校で勤務中被爆。<別記> |
07 |
1987 |
小西ノブ子 |
こにし・のぶこ |
80 |
反戦被爆者の会会長。『炎の巡礼者 ヒロシマの母 小西のぶ子遺稿集』(小西のぶ子遺稿集編集委員会、社会評論社、19880806) |
08 |
1961 |
雑賀忠義 |
さいか・ただよし |
67
|
広島高等学校教授の時被爆。英文学者。1957年広島大学を定年退官。広島平和公園にある原爆慰霊碑の碑文の作者。<別記> |
08 |
1980 |
平野義太郎 |
ひらの・よしたろう |
82 |
日本平和委員会名誉会長。原水爆禁止日本協議会の結成に参加。[1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]<別記> |
08 |
1997 |
小谷鶴次 |
こたに・つるじ |
84
|
広島大学名誉教授。政経学部教授時代に世界連邦建設運動にかかわる。<別記> |
08 |
2015 |
栄久庵憲司 |
えくあん・けんじ |
85 |
工業デザイナー。2005年5月18日広島女学院大学春季講演会で講演「道具と人の世界」。人文館303。超満員。3年宇吹ゼミの学生もかなり参加。<別記> |
09 |
1982 |
加藤新一 |
かとう・しんいち |
81
|
広島市在住の被爆者。[52広島平和問題談話会](日本国際連合協会広島支部局長)。第1回国連軍縮特別総会に参加。<別記> |
09 |
1985 |
真下信一 |
ました・しんいち |
78 |
哲学者[1982推進連絡会議呼びかけ人]<別記> |
09 |
1995 |
フルブライト、ウィリアム・ |
ふるぶらいと |
89 |
元米上院議員。広島・長崎への原爆投下に衝撃を受け、日本が復興し、国際社会に復帰するためには人材の育成が不可欠との信念から1946年に「フルブライト交流計画」を創設。<別記予定> |
09 |
1996 |
小笠原基生 |
おがさわら・もとお |
69
|
記録映画監督。「ヒロシマ・原爆の記録」、「ヒロシマ・母たちの祈り」などを監督。<別記> |
10 |
2010 |
森一久 |
もり・かずひさ |
84 |
元日本原子力産業会議副会長、肺炎で3日死去、84歳。1926年広島生まれ。京都大学在学中に広島で家族とともに被爆。<別記> |
10 |
2012 |
宇根利枝 |
うね・としえ |
93 |
「宇根利枝さんが死去 慰霊碑に献水 半世紀以上 93歳」(『中国新聞』20120212、田中美千子記)<別記> |
10 |
2018 |
松原美代子 |
まつばら・みよこ |
85 |
12歳の時、建物疎開の作業中に爆心地から約1.5キロで被爆。<別記> |
10 |
2018 |
荒角理宰 |
あらかど・りさい |
99 |
山陽ジャスコ株式会社元会長。体験記(私家版)あり(『中国新聞』1995年8月2日)。『被爆50周年を迎えて-私の原爆体験談 』(1995年08月01 日刊)<別記>別記 |
11 |
1985 |
村上忠敬 |
むらかみ・ただよし |
77 |
広島大学高師教授。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。広島大学名誉教授。1970年4月~74年3月、広島女学院大学長。1968年~83年、核禁広島県民会議議長。在韓被爆者のための医師団派遣などに尽力。[70ヒロシマ会議]<別記> |
11 |
1990 |
レイノルズ、バーバラ |
れいのるず、ばーばら |
74
|
米の平和運動家。1951年に来広し、18年間広島市に滞在、1962年に広島・長崎平和巡礼団を組織するなど平和運動に貢献。<別記> |
11 |
1992 |
殿敷侃 |
とのしき・ただし |
50
|
造形作家。3歳の時、広島で両親が被爆死。2日後に疎開先にから広島市に帰る。広島大学中退、1978年久保貞次郎の勧めで版画を始める。両親の遺品等を題材とした絵画、版画など、原爆の問題をとりあげた作品を制作。殿敷侃 :: 東文研アーカイブデータベース (tobunken.go.jp)。 |
12 |
2018 |
松尾雅彦 |
まつお・まさひこ |
76 |
【訃報】相談役 松尾雅彦 逝去のお知らせ 逝去のお知らせ20180213.pdf (calbee.co.jp)『生きて・カルビー元社長、松尾雅彦さん(1941年~)』(『中国新聞』20100406~0428、15回連載)、山本洋子「評伝・松尾雅彦カルビー元社長」(『中国新聞』20180214) |
13 |
1970 |
近藤寿治 |
こんどう・ひさじ |
|
被爆時、広島文理科大学学長(兼高師校長)として出張中。後日入市[広島大学] |
13 |
2008 |
市川崑 |
いちかわ ・こン |
92 |
映画監督。広島にいた母を含む家族8人全員が原爆被爆。『東京オリンピック』(1965年、東京オリンピック映画協会) 総監督。 |
14 |
1992 |
有末精三 |
ありすえ・せいぞう |
96 |
元陸軍中将。終戦時参謀本部第2部長。大本営調査団の団長として広島入り。「原子爆弾広島へ落ちる」『終戦秘史・有末機関長の手記』(有末精三、芙蓉書房、71960815)pp26-38。 |
15 |
2001 |
小沼十寸穂 |
こぬま |
94 |
広島大学名誉教授。広島の被爆者の精神的苦痛による後障害を実態調査。 |
16 |
1977 |
末川博 |
すえかわ・ ひろし |
84 |
立命館大学学長・総長。1892年11月20日生。 |
16 |
1994 |
小佐々八郎 |
こささ・はちろう |
88 |
日本被団協顧問。長崎原爆被災者協議会会長などを歴任。藤居平一氏の紹介で自宅を訪問。 |
16 |
2007 |
宮崎安男 |
みやざき・やすお |
78 |
原水爆禁止日本国民会議の副議長。全電通中国地方本部委員長、1974年から広島県原水禁事務局長、代表委員経て、96年から04年まで原水禁国民会議副議長、の後も広島県原水禁顧問。広島平和会館・原爆被害者相談所の相談員。<別記> |
16 |
2021 |
バーナード・ラウン |
99 |
ハーバード大学公衆衛生所付属の心臓病研究所長。1980年創設の「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」共同会長。田城明「バーナード・ラウン氏を悼む 命を守る延長に反核運動」(『中国新聞』20210316) |
17 |
2011 |
黒川万千代 |
くろかわ・まちよ |
81 |
旧姓富永。広島女専1年生のとき校内で被爆。日本被団協事務局次長など歴任。<別記> |
18 |
1987 |
壬生照順 |
みぶしょうじゅん |
79 |
宗教NGO[82推進連絡会議呼びかけ人]天台宗華厳院住職。全日本仏教会評議員、仏教徒平和の会幹事長、日本宗教者平和協議会理事長。<別記> |
18 |
2011 |
尾糠政美 |
おぬか・まさみ |
18 |
陸軍船舶練習部写真班員(23歳)のとき被爆。<広島原爆被災撮影者の会> |
18 |
2012 |
庄野直美 |
しょうの・なおみ |
86 |
九州帝国大学理学部1年のとき入市被爆。宇吹追悼文あり。<別記> |
19 |
2017 |
林京子 |
はやし ・きょうこ |
86 |
作家。長崎県立長崎高等女学校3年の時、学徒動員中の三菱兵器工場で被爆。短編『祭りの場』(『群像』1975.6)で第18回群像新人文学賞、および第73回芥川賞。『広島県現代文学辞典』(岩崎清一郎・記)<別記> |
20 |
1979 |
金子弥吉 |
かねこ・やきち |
78 |
山口県被団協初代会長。芸備銀行横の路上(爆心から500㍍内)で被爆。 |
20 |
1985 |
中野好夫 |
なかの・よしお |
81 |
英文学者。原水禁運動などに尽力。[82推進連絡会議呼びかけ人]。学生時代の友人の父。 |
20 |
2001 |
今堀宏三 |
いまほり・こうぞう |
|
広島文理科大学卒業後、1946年金沢高師教授、1949年金沢大学理学部助教授を経て、1960年に大阪大学教授に就任。その後、福井県立短期大学(現福井県立大学看護短期大学部)学長、鳴門教育大学学長、広島女子大学(現県立広島大学)学長、日本生物教育学会会長を歴任。 |
20 |
2018 |
金子兜太 |
かねこ・ とうた |
98 |
俳人。『たっぷり生きる』(金子 兜太 / 日野原 重明、毎日学芸出版 、2010) |
21 |
1961 |
下中弥三郎 |
しもなか・やさぶろう |
82 |
世界連邦会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。<別記> |
21 |
2021 |
関千枝子 |
せき・ちえこ |
88 |
旧姓富永。ノンフィクション作家。著書に「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち」。<資料年表:関千枝子> |
22 |
1968 |
名越史樹 |
なごや・ふみき |
7 |
白血病で死亡。<別記> |
22 |
1998 |
荘司雅子 |
しょうじ・まさこ |
88 |
台湾出身。奈良女子高等師範学校卒業後、1935年広島大学教育学科に入学。長田新の勧めなどでフレーベル研究。「資料年表:荘司雅子」 |
22 |
2019 |
加納実紀代 |
かのう・ |
78 |
出典:高雄きくえ「加納実紀代さんを悼む 銃後の加害と被害問う」(『中国新聞』20190226)<別記> |
24 |
2011 |
藤平典 |
とうへい・のり |
82 |
広島高等師範学校生(16歳)の時、学徒動員先の東洋工業で被爆。東京都原爆被害者団体協議会会長、日本原水爆被害者団体協議会代表委員など。 |
24 |
2021 |
児玉健次 |
こだま・けんじ |
87 |
広島大学文学部在学中の1956年8月に開催された8・6学生平和会議(1956年8月5~7日)の実行委員長<別記> |
26 |
1955 |
今堀恭子 |
いまほり・きょうこ |
43 |
被爆当時広島市女教諭。広島文理科大学の第1回女子卒業生。<別記> |
26 |
1968 |
浜井信三 |
はまい・しんぞう |
62 |
初代公選広島市長。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起)]。[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。<別記> |
26 |
2002 |
鎌田定夫 |
かまた・さだお |
72 |
長崎総合科学大学教授、長崎平和研究所長。<別記予定> |
26 |
2003 |
藤原彰 |
ふじわら・あきら |
80 |
歴史学者。宇吹は1980年5月1日から81年2月28日まで文部省内地研究員として一橋大学藤原彰研究室に在籍。<資料年表:藤原彰> |
26 |
2019 |
見崎進 |
みさき・すすむ |
92 |
第五福竜丸元乗組員。 |
26 |
2019 |
松尾文夫 |
まつお・ふみお |
85 |
元共同通信ワシントン支局長。著書「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」などで「相互献花外交」を訴え続けたことが評価され、2017年度日本記者クラブ賞受賞。 |
27 |
1987 |
亀井文夫 |
かめい・ふみお |
78 |
映画監督。被爆者を描いた「生きていてよかった」(1956年)などを制作。<別記> |
27 |
2003 |
小田 丕昭 |
おだ・ひしょう |
92 |
洋画家。出典:寺本泰輔「原爆抽象画秘めた鋭さ 小田 丕昭氏を悼む」『中国新聞』20030227 |
28 |
1986 |
パルメ、オロフ |
ぱるめ・おるふ |
59 |
スウェーデン首相。暗殺。1981年に、「軍縮と安全保障に関する独立委員会」委員長として、来広し、原爆資料館などを見学。<別記> |
28 |
2001 |
武田寛 |
たけだ・ひろし |
|
1935年福山市出身。広島大学工学部卒業後、民間企業勤務。1970年日本共産党広島県委員会勤務。1984年~97年、原水爆禁止広島県協議会事務局長。日本原水協担当常任理事。<『爆央と爆心 1945年8月6日ヒロシマで何が起きたのか』> |
28 |
2015 |
松谷みよ子 |
まつたに・みよこ |
89 |
児童文学作家。 |