資料年表:鳩山一郎
はとやま・いちろう | 18830101生19590307没 | 自由民主党初代総裁(1954-56年) |
資料年表:鳩山一郎
年月日 | ||
1883 | ||
0101 | 誕生 | |
1951 | ||
0630 | 『私の自叙伝』(改造社) | |
1955 | ||
1122 | 第54代内閣総理大臣。~19561223 | |
1957 | ||
1020 | 『鳩山一郎回顧録』(文芸春秋新社、19571020) | U |
1959 | ||
0307 | 没 | |
止
資料年表:鳩山一郎
はとやま・いちろう | 18830101生19590307没 | 自由民主党初代総裁(1954-56年) |
資料年表:鳩山一郎
年月日 | ||
1883 | ||
0101 | 誕生 | |
1951 | ||
0630 | 『私の自叙伝』(改造社) | |
1955 | ||
1122 | 第54代内閣総理大臣。~19561223 | |
1957 | ||
1020 | 『鳩山一郎回顧録』(文芸春秋新社、19571020) | U |
1959 | ||
0307 | 没 | |
止
児玉正昭<作業中>
こだま・まさあき | 1934生20240306没 | 広島県史編さん室勤務期(宇吹)の上司。 |
資料年表:児玉正昭
年月日 | 事項 | 備考 |
1934 | ||
**** | 生 | |
1992 | ||
02 | 『日本移民史研究序説』(児玉正昭著、溪水社) | |
序-本書の課題と方法-/ 第一編 ハワイの官約移民 第一章 官約移民制度成立の背景 第二章 移民送出の諸要因 第三章 官約移民制度の推移 第四章 官約移民の諸相 第五章 領事報告からみた移住地の状況/ 第六章 官約移民の影響第二編 移民会社と移民 第一章 移民会社の概要 第二章 オーストラリアへの移民-初期移民会社の移民募集とその実態 第三章 ガードループ島への日本人契約移民 第四章 日本人移民の増大に対するハワイの対応 第五章 海外渡航株式会社の研究 第三編 明治後期の日本人移民の諸相 |
||
1993 | ||
0118 | 学位:博士<文学>(広島大学)取得。 | |
2024 | ||
0306 | 没 | |
止
浅田常三郎
あさだ・つねさぶろう | 1900生19840307没 | 享年85歳 | 物理学者。『町人学者 産学連携の祖 浅田常三郎評伝』(増田美香子編、毎日新聞社、20080419) |
止
『ヒロシマ・ノート 岩波新書 563』(大江健三郎著、岩波書店、1965/06/21)
内容<作業中>
章 | |||
<挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950.8.6 ポツダム書店発行より)> | |||
プロローグ 広島へ 1<196504> | |||
Ⅰ | 広島への最初の旅 15<196308> | ||
Ⅱ | 広島再訪 45<196408> | ||
Ⅲ | モラリストの広島 69<196409> | ||
Ⅳ | 人間の威厳について 89<196410> | ||
Ⅴ | 屈伏しない人々 109<196411> | ||
Ⅵ | ひとりの正統的な人間 131<196412> | ||
Ⅶ | 広島へのさまざまな旅 149<196501> | ||
エピローグ 広島から 169<196501―196505> | |||
止
『忘れじのヒロシマわが悼みうた 栗原貞子詩集』(栗原貞子著、詩集刊行の会、1997/06/30)
内容
部 | |||
まえがき | |||
1 | ヒロシマのうたを歌い続けて | ||
ヒロシマの道標 10 寂寞を希望にかえて 11 相次ぐ発禁-言論弾圧と細田民樹 13 日米ピースセンターの活動 16 悪い政治と斗って 18 崩れぬ平和都市を 19 生と死 20 ヒロシマのうたを歌い続けて 22 |
|||
2 | 忘れじのヒロシマ | ||
原爆で死んだ幸子さん 26 夾竹桃 27 異形 29 日詰さんと原水禁広島母の会 30 黒い十字架 32 いまは安らかに眠りませ 34 眼 35 白い虹 36 愛と死 37 ケロイドの背で証言する 38 まどうてくれ 40 ヒロシマの人体実験はまだ続いている 41 原爆半世紀ヒロシマの女たちは 44 |
|||
3 | 歴史の立会人だったのだから | ||
歴史の立会人だったのだから 48 石のなかから 49 歴史の残像 50 ヒロシマと言うとき 52 何のために戦ったのか 53 護憲の碑除幕 56 楽譜「世界とともに」 57 献詩「弟よ」 58 射程距離 60 昇天 61 終わりのとき 62 知らなかった 63 呼ぶ 64 空席 65 献詩 66 |
|||
4 | 物故作家を語る会の記録 70 | ||
第1回 代表 田辺耕一郎 | |||
第2回 代表 好村富士彦 | |||
あとがき |
止
久保田訓章
くぼた・のりあき | 生20190331没 | 享年86 | 1973~2017年広島東照宮宮司。名誉宮司。二葉の里歴史の散歩道ブラッシュアップ研究協議会会長。広島・長崎宗教者平和会議に参加。 |
資料年表:久保田訓章<作業中>
年月日 | ||
1996 | ||
0806 | 「序文( 広島県宗教連盟前々理事長・広島東照宮宮司 久保田訓章)」( 『広島県宗教連盟「戦後五〇年」誌-平和と慰霊・追悼の歩み』所収) | |
2004 | ||
0313 | 久保田訓章「「五年後」に感じて…」(『雲雀 第4号 2004.03.13』、広島花幻忌の会) | |
2005 | ||
0416 | 久保田訓章「原民喜「五年後」に感じて」(『わが昭和史 続編 中学入学60周年記念誌』)中学入学60周年記念アカシア41期会「記念誌編集発行委員会」) | |
2009 | ||
0805 | 「原民喜文学碑 境内に建立へ 広島東照宮」(『中国新聞』桑島美帆・記者) | |
2010 | ||
0321 | 「文学碑計画の久保田宮司 記憶 後世に残したい」(『中国新聞』梅原勝己・編集委員) | |
0608 | 「原民喜文学碑 市長が揮強へ 東照宮宮司ら依頼」 (『中国新聞』明知隼二・記者) | |
0726 | 「被爆直後のメモ 一節刻む 原民喜の追憶碑除幕 東照宮」(『中国新聞』新田葉子・記者)<除幕式:20100725> | |
2011 | ||
0931 | (『中国新聞』) | |
2012 | ||
0726 | (『中国新聞』) | |
2013 | ||
0213 | 「 宗派超え平和考える 広島・長崎宗教者会議」(『中国新聞』山本乃輔)<今年で28回目> | |
2014 | ||
0805 | 二葉の里歴史の散歩道ブラッシュアップ研究協議会(7社寺・広島市など)主催行事:7社寺が「平和の灯」(平和公園)から採火した約千本のロウソク点火。今年で3回目。(『中国新聞』20140730、川手寿志) | |
2015 | ||
0309 | ||
0520 | ||
0625 | ||
0804 | ||
0810 | ||
2019 | ||
0331 | 「久保田訓章氏死去」(『中国新聞』0401) | |
止
ジョン・ハーシー
ハーシー、ジョン | 19140617生19930324没 | はーしーJohn Hersey | 78 | 広島のルポルタージュ「ヒロシマ」の著者。2002年の広島市の平和宣言(秋葉市長)に著書『ヒロシマ』が取り上げられる。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)。 |
資料年表:ジョン・ハーシー<作業中>
年月日 | ||
19140617 | 誕生 | |
20020806 | 秋葉広島市長、平和宣言で著書『ヒロシマ』に言及。「ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』や**さえも忘れられつつあります」 | |
19930324 | 死亡。享年78歳。 | |
止
『河村郷四追想録』(河村郷四追想録編纂委員会、19860315)
内容<作業中>
部 | 著者 | タイトル | |
海塚義郎 | 序にかえて | ||
写真集 | |||
1 | 少年期より青年期へ | ||
2 | マツダと河村さん | ||
3 | 広島テレビと河村さん | ||
4 | スポーツと河村さん | ||
5 | 河村さんと社会活動 | ||
6 | 河村さんへのレクイエム | ||
荒木武 | 教育への熱い想い―河村さんとの語らいの中で | ||
遺族の方々より | |||
栗村良周 | 兄を偲ぶ | ||
松元寛 | 仕事の中に心を見ていた人 | ||
中西忠彦 | 義父河村郷四の思い出 | ||
河村瑠璃<妻> | 追憶 | ||
河村郷四年譜 | |||
あとがき | |||
止
資料年表:川本義隆<作業中>
年月日 | 事項 | 備考 |
1974051 | 「脱出生徒の記録(昭和21年春広島一中第2学年のころ記す)」 『ゆうかりの友』(広島県立一中被爆生徒の会) | |
「(1氏名)川本義隆、(2勤務先)広島市役所、3(出身校)、4(被爆当時の学級)第1学年12学級、(住所)広島県佐伯郡大野町****」 pp.39-42 | ||
19840301 | 「講演 (広島平和記念館館長) 川本義隆」(『平和を願う念仏者の集い 第1回-核兵器廃絶へ向けて 記録集(58.7.9)』(浄土真宗本願寺派安芸教区教化推進協議会)) pp.6~11」 | |
19850415 | 「平和を誓う場 資料館 川本義隆」(『子どもたちに平和な未来を―平和への願い第2集―』(生活協同組合ひろしま平和部会)) | |
19860301 | 「ヒロシマを語る 川本義隆 2」(『平和へのねがい 第6号』原水爆禁止西宮市協議会、西宮市編) | |
19860801 | (制作日)被爆者証言ビデオ(広島平和文化センター) | |
20020331 | 肺がんのため広島市中区の病院で死去、69歳。 | |
20090101 | 「被爆体験記」川本義隆ほか(広島平和記念資料館)<広島平和文化センター被爆体験証言者で、証言講話を引退した人のプロフィール・体験記をファイルしたもの(啓発担当の平和学習で紹介していたもの等)> | |
止