原民喜略年譜
年 |
年齢 |
事項 |
1905 |
|
広島市幟町一六二番地に生まれる。 |
|
|
1923(大正12) 18 広島高師付属中学4年を終了。
1924(大正13) 19 慶応義塾大学文学部予科入学。
1929(昭和 4) 24 慶応義塾大学文学部英文科に進む。1932年卒業。
1933(昭和 8) 28 永井貞恵と結婚。 |
|
|
1942(昭和17) 37 千葉県立船橋中学校に英語教師として週3回通勤。
1944年退職。 |
|
|
|
1945 |
40 |
1月末千葉の家をたたみ、郷里広島市幟町、兄信嗣の許に疎開。
8月6日同町にて被爆、東練兵場に2日をすごした後、
次兄守夫と共に広島市郊外八幡村に移る。
以後原爆症とはいえぬが、健康はすぐれないときが多くなった。
被爆の悲惨な体験は2年後「夏の花」として結晶。 |
1946 |
41 |
上京。慶応義塾大学夜間中学に教鞭をとる。
10月より「三田文学」の編集にたずさわる。 |
1947 |
42 |
「夏の花」の世評高し。12月夜間中学を退職。
作品:「夏の花」、「廃墟から」、「氷花」 |
1948 |
43 |
「近代文学」の同人となる。
12月「夏の花」に第1回水上滝太郎賞を受く。 |
1949 |
44 |
作品:『夏の花』、『鎮魂歌』、『長崎の鐘』。 |
1950 |
45 |
4月、日本ペンクラブ広島の会主催の平和講演会参加のため帰郷。
作品:『美しき死の岸に』、『原爆小景』。 |
1951 |
46 |
3月13日、吉祥寺西荻窪間の鉄路に身を横たえ自らの生命をたつ。
作品『碑銘』。 |
出典:『原民喜詩碑再建記念』(原民喜詩碑移転修復実行委員会、1968年3月1日) |
原民喜詩碑 除幕:1967年7月29日 場所:広島市大手町1丁目碑設計 谷口吉郎
1951年7月13日、広島城跡に建設されたが、毀損のため、現在地に再建。
|
|
|
|
碑銘正面
原民喜
遠き日の石に刻み
砂に影おち
崩れ墜つ 天地のまなか
一輪の花の幻 |
|
|
|
裏面
原民喜詩碑の記
原民喜は人がら清純沈鬱に流俗と遇ひ難い詩人であった。一九五一年三月一二日夜、東京都西郊の鉄路に枕して濁世を去った。蓋しその生の孤独と敗戦の國の塵勞とは彼の如き霊の能く忍ぶところでは無かった。遺書十七通、先づ年来の友情を喜びさてさりげ無く永別を告げんと記し、うち二通の文尾に書き添へた短詩「碑銘」は思を最後の一瞬に馳せて亡妻への故郷壊滅の日を記した力作「夏の花」に寄する矜持と又啼泣とを「一輪の花の幻」の一句に秘めて四十六年の短生涯を自ら慰め弔ふもの、辞は簡に沈痛の情は深い。遺友等ために相謀り地を故郷に相し銘記せしめて之を永く天地の間に留めた。
一九五一年七月十三日夜
遺友中の老人 佐藤春夫記す |
|
|
|
|
|
撮影日:2017年8月6日09:36 撮影者:宇吹 |
|
|
|
|
|
|
|
丹下健三
たんげ・けんぞう |
19130904生20050322没 |
享年91 |
建築家。 |
本
書名 |
編著者 |
発行所 |
発行年 |
備考 |
平和記念広島カトリック聖堂建築競技設計図集 |
広島カトリック協会編 |
洪洋社 |
19490615 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
広島平和記念館と丹下健三 |
山崎荒助 編 吉田道郎 英訳 |
三友社出版 |
19800806 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
四国(四國)五郎
しこく・ごろう |
19240511生20140330没 |
享年89 |
画家。『広島県現代文学事典』(西原大輔・記)。自著『平和記念式典の歩み』の執筆過程で広島市広報課在任中の四国氏に面識を得た。 |
資料
刊本 |
|
|
年月日 |
書名 |
備考(編著者・発行所など) |
1970/07/20 |
四国五郎詩画集-母子像 |
四国五郎著 広島詩人会議編 広島詩人会議 |
1975/04/30 |
広島百橋 |
四国五郎 絵と文 春陽社出版 |
1979/11/01 |
絵本おこりじぞう |
山口勇子 原作、沼田曜一 語り、四国五郎 絵 金の星社 |
1982/06/25 |
おこりじぞう |
山口勇子作、四国五郎絵 新日本出版社 |
1983/07/20 |
絵本ヒロシマのおとうさん ヒロシマの心を子どもたちに |
高橋昭博文、四国五郎絵 汐文社 |
|
|
|
資料 |
|
|
2020 |
四国直登の避難ルート(A3、1枚) |
<2020年国立広島原爆死没者追悼平和祈念館企画展「ヒロシマを描き続けた四国五郎と死の床でつづった直登の日記」で入手> |
2020 |
四国五郎の年譜(A4、1枚) |
<2020年国立広島原爆死没者追悼平和祈念館企画展「ヒロシマを描き続けた四国五郎と死の床でつづった直登の日記」で入手> |
20200806 |
NHK BS1スペシャル「ヒロシマの画家 四國五郎が伝える戦争の記憶」午前0:46~午前2:26(100分) |
|
|
|
『ひろしま THE HIROSHIMA 6月号』第1巻第1号(編集人:峠三吉、発行所:瀬戸内海文庫)
目次
|
|
中川善之助 |
|
阿部静枝 |
|
小川二郎 |
|
|
大山郁夫は語る―理想と愛 |
永守亀之助 |
|
米重忠一 |
|
宇根元警 |
表紙絵にそえて-旧産業奨励館 |
永瀬清子 |
|
枡井迪夫 |
ジョン・ハースィの「広島」 |
谷本清 |
原爆と米人の愛 |
|
アルバム・アトムヒロシマ |
矢口たかし |
マンガ迷曲集 |
K |
平和塔 |
阿川弘之 |
夏 |
ギー・ド・モーパッサン |
|
川上一衛 |
|
T |
編輯後記 |
H |
編輯後記 |
|
詩と歌の欄創設<詩:広島詩人協会選、短歌:岡本明選> |
|
|
肥田舜太郎
ひだ・しゅんたろう |
生20170320没 |
享年100 |
資料
新聞 |
掲載年月日 |
見出し |
赤旗 |
20020326 |
ひと 全日本民主医療機関連合会の会長に就任した肥田泰(ひだゆたか)さん さいたま市に父(被爆者で医師の舜太郎氏)と母、妻。57歳。 |
赤旗 |
20040301 |
本と人と 『ヒロシマを生きのびて』 肥田舜太郎さん 自分史がそのまま貴重な戦後史 |
朝日新聞 |
20130409 |
ひと 肥田舜太郎さん 日韓で「非核・脱原発」を訴える96歳の被爆医師 肥田舜太郎さん |
20170321~26、死亡記事 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
原民喜
はら・たみき |
19051115生19510313没 |
享年45 |
詩人・小説家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)1919年広島高師附中入学。慶応義塾大学に進む。千葉から郷里の広島に疎開中被爆。東京・西荻窪で鉄道自殺。広島市本通り商店街の商店で原時彦氏(民喜の甥)に被爆時民喜が所持していた手帳を閲覧させていただく。 |
資料年表
年月日 |
事項 |
|
|
19940701 |
原民喜文学資料展(会場:広島市中央図書館)(出典:「中国新聞」19940702) |
19940904 |
文学散歩<32>原民喜 夏の花 妻とヒロシマへの挽歌 被爆記録もとに平静に(出典:「赤旗(日曜版)」19940904) |
20010306 |
文化 原民喜回顧展に寄せて 「夏の花」が私たちに語るもの 「パット剥ギトッテシマッタアトノセカイ」(掲載紙:「中国新聞」20010306) |
20010310 |
原民喜回顧展(主催:広島花幻忌の会(会長:大牟田稔)、会場:旧日本銀行広島支店)。~3月23日。(出典:「中国新聞」20010310、同20010311) |
20010310 |
シンポジウム「広島文学を読み継ぐために」(主催:広島花幻忌の会(会長:大牟田稔)、会場:原爆資料館東館、出典:「中国新聞」20010314) |
20010310 |
文化 原民喜没後50年 繊細で強い光今も放つ シンポや回顧展(掲載紙:「中国新聞」20010314) |
20011110 |
原民喜生誕96年記念祭(主催:広島花幻忌の会(会長:大牟田稔)、事務局長:海老根勲。会場:原民喜詩碑前。出典:「朝日新聞」200101111)。 |
20020310 |
花幻忌(出典:「中国新聞」20020311)。 |
20031121 |
文学の力 第2部燃えつくす魂①亡妻と原爆胸に 原民喜至純の世界求め続け(掲載紙:「朝日新聞」20170314、音谷健郎・記)。 |
20040314 |
原民喜の追悼に100人 没後53年 中高生が詩を朗読(掲載紙::「朝日新聞」20170314)。 |
20040728 |
原民喜<1>夏の花 廃墟から 「惜しかったね、戦争は終わったのに…」と声をかけた。(掲載紙:「中国新聞」20040728) |
20150218 |
原民喜の手帳平和資料館に おいが3冊寄託 世界記憶遺産目指す(出典:「朝日新聞」20170219)。 |
20150218 |
直後の広島を記録 原民喜の手帳原爆資料館へ(出典:「赤旗」20170219)。 |
20150218 |
伝えるヒロシマ 「夏の花」の原点手帳を寄託 原民喜の遺族が原爆資料館に(出典:「中国新聞」20170219)。 |
|
(出典:「朝日新聞」20150315)。 |
|
(出典:「中国新聞」20161120)。 |
|
(出典:「中国新聞」20170309)。 |
20170312 |
原民喜碑前祭(出典:「中国新聞」20170313)。 |
20171112 |
原民喜生誕祭(出典:「中国新聞」20181130)。 |
20181129 |
展覧会「原民喜―かすかにうずく星」(出典:「朝日新聞」20181130)。 |
|
|
梶山季之著『松田重次郎 一業一人伝』( 時事通信社、1966.2.25)
目次
|
|
備考 |
梶山季之 |
はしがき |
|
|
目次 |
|
第1章 |
生い立ち |
|
|
誕生・母
負けじ魂
独立心を学ぶ
鍛冶屋の魅力 |
|
第2章 |
修業時代(その1) |
|
|
大阪の鍛冶屋奉公
機械鍛冶から呉工廠へ
職工第一歩
大阪砲兵工廠・養子 |
|
第3章 |
修業時代(その2)
失敗・長崎で再出発
佐世保からふたたび呉工廠へ
工作船・三池丸
独立を志す |
|
第4章 |
松田式ポンプの製造 |
|
|
十坪の鉄工所設立
厳しい職人気質
松田式喞筒合資会社の設立
乗っ取りの策謀に泣く
どん底からの再起
業界に手腕を認めらる
「大正型松田式ポンプ」の完成 |
|
第5章 |
関西財界の寵児となる |
|
|
海軍演習用魚雷の頭部を製造
ロシア政府から信管の依頼
見本製造に全智を傾ける
設備資金の捻出
事前に万全を期す
“大正の今太閤”
アルミ買いつけに苦心
ロシア検査官たちとの交渉
信管工場の大成功
工場移転計画で対立
痛憤のうちに会社を去る |
|
第6章 |
創業時代 |
|
|
郷里・広島に松田製作所設立
日本製鋼所へ身売り
東洋コルク工業の創立
積極経営に乗り出す
炭化コルクの発見
販売の拡張
大震災・不況
工場炎上す 一人一業に生きる決意 |
|
第7章 |
東洋工業の誕生 |
|
|
設備資金を得る
優れた工作機械買い付け
機械部門の拡充
府中へ工場移転 |
|
第8章 |
自動三輪車の製作 |
|
|
自動車製造への意欲
自動二輪車の完成
自動三輪車の試作
マツダ号の発売 |
|
第9章 |
戦時体制への突入 |
|
|
三輪車業界の競争激化
さく岩機の製造
小銃大量生産の受命
原爆・終戦 |
|
第10章 |
戦後の再建 |
|
|
再建にのり出す
労働組合との対決
孤独のなかの奮闘
大衆とともに生きる |
|
|
松田重次郎年譜 |
|
風のように炎のように-峠三吉追悼集
峠三吉追悼集出版委員会・われらの詩の会(編・刊)、1954年2月15日
出版委員会:平和問題連絡協議会、平和問題懇談会、原爆の子友の会、原爆被害者の会、ムシカ、新日本文学会、人民文学広島友の会、広島葦会、われらの詩の会。
目次
頁 |
著者 |
タイトル |
口絵 [写真] |
|
メーデーにて、トランク座、われらの詩の会、新日本歌人・反戦詩歌人集団《撮影年月日》19500501 |
「原爆詩集」出版記念会《撮影年月日》19500922 |
原爆展示会後の丸木位里・赤松俊子・壷井繁治三氏を囲んでの座談会《撮影年月日》195010 |
市民平和大会にて《撮影年月日》19520806 |
「原子雲の下より」出版記念会《撮影年月日》19521005 |
国立広島西条療養所病棟にて《撮影年月日》19530309 |
目次 |
|
丸木位里 |
題字 |
|
赤松俊子 |
表紙 |
|
浜本武一 |
カット |
|
四国五郎 |
004 |
増岡敏和 |
峠三吉氏の生涯 ―その活動と自己改造について(われらの詩の会) |
011 |
米田栄作 |
峠三吉君を悼む(広島詩人協会) |
012 |
壺井繁治 |
峠三吉の業績について ―思い出を語りながら(詩人・新日本文学会) |
017 |
岡村民 |
「原爆詩集」批判会の思い出(新日本文学会) |
018 |
峠和子 |
生きている夫に |
022 |
原田治 |
お父さん(峠氏令息) |
024 |
峠三吉詩抄Ⅰ |
|
024 |
|
らっきょうによせて |
025 |
|
花蔭/絵の具 |
026 |
|
由美子と火事 |
028 |
|
寂しき歌/クリスマスの帰り途 |
029 |
|
こんなとき父親となる /絵本 |
030 |
|
怒りのうた ―広島日鋼争議暴圧事件 |
032 |
若杉慧 |
峠君の思い出(日本文芸家協会) |
033 |
峠一夫 |
峠三吉の想い出(実兄) |
035 |
坂本ひさし |
(広島在住詩人、「エコールド・ヒロシマ」主幹) |
035 |
長村孝雄 |
追悼(広大文学サークル) |
036 |
御庄博実 |
(われらの詩の会・「火片」同人) |
037 |
戸田兵次 |
原爆詩人 故峠三吉氏によせて(葦会) |
038 |
四国五郎 |
峠さんの弾道(画家・われらの詩の会) |
039 |
田村正也 |
八月六日(新日本文学会埼玉支部) |
040 |
星川晃 |
峠三吉氏の思い出(われらの詩の会) |
041 |
古井誠三 |
燃えつくした炎のやうに(われらの詩の会) |
042 |
好村富士彦 |
(高原詩の会、われらの詩の会) |
043 |
江口渙 |
(作家・新日本文学会) |
044 |
えぐさ・みのる |
私の接した峠さん(高原詩の会・われらの詩の会) |
045 |
尾上俊男 |
病床から(新日本文学会広島支部) |
046 |
泉秀子 |
大野浦と峠さん(われらの詩の会) |
046 |
浜本武一 |
〇(広島市在住・画家) |
049 |
岡本潤 |
峠三吉を憶う(詩人・新日本文学会) |
050 |
北浜みち |
峠さん(われらの詩の会) |
051 |
永田節 |
『われら』の中の峠さん(われらの詩の会・広大文学) |
052 |
望月久 |
国際婦人デーからメーデーまで(われらの詩の会) |
053 |
山岡和範 |
峠さんの手紙(われらの詩の会) |
054 |
吉田万太郎 |
不滅の光り(われらの詩の会) |
056 |
峠三吉 |
雪 |
057 |
松下海蔵 |
峠さんのこと(新日本文学会岡山支部) |
058 |
杉生直子 |
手紙をめぐって(われらの詩の会) |
060 |
尾末滿 |
峠三吉(IOM・われらの詩の会) |
061 |
佐久間澄) |
第一回八・六平和大会のころ(広大教授・平和問題懇談会・大学人の会 |
062 |
峠三吉 |
八月六日 |
063 |
松野萬 |
〇(スフィンクス同人) |
064 |
川手健 |
峠さんを憶う(原爆被害者の会、新日本文学会広島支部) |
065 |
えぐさ・うめよ |
時の氏神になってくださった峠さん(高原詩の会・われらの詩の会) |
066 |
広島支部葦会 |
〇 |
067 |
峠三吉 |
隠れん坊/わが想ひ |
068 |
西原忠 |
峠氏を悼む(児童詩研究家・われらの詩の会) |
069 |
峠三吉俳句抄 |
|
070 |
赤池芳彦 |
その日 峠さんは ハヤクハヤクと書いた |
072 |
峠三吉 |
覚え書き(抜萃) |
076 |
峠三吉短詩抄 |
|
|
|
雨の日に―日鋼事件の法廷にて |
077 |
|
修学旅行―第二の父の歌える |
078 |
|
大山郁夫氏に捧げる詩 |
080 |
|
宇品港にて―11才の姪のために |
081 |
|
傷痕―”原子雲の下より”記念会 1953年絶筆 |
082 |
佐々木健朗 |
抒情の変革―叙事詩「ひろしま」への努力の途中で(われらの詩の会・広大文学サークル・KAZIKA同人) |
089 |
赤木健介 |
「原爆詩集」の評価(詩人・人民文学社) |
090 |
野間宏 |
峠三吉について―原爆詩集にふれて(作家・人民文学社) |
091 |
峠三吉 |
昂 |
092 |
はぎはら・とくじ |
新しい人間讃歌―「原爆詩集」のノート(新日本文学会) |
094 |
中野光也 |
「原爆詩集」と「高原詩の会」(高原詩の会) |
096 |
山代巴 |
原爆の詩編纂委員会のこと(作家・新日本文学会) |
098 |
深川宗俊 |
芸術は人間のためにある(新日本歌人協会)(人民文学会) |
099 |
且原純夫 |
峠三吉の一側面(われらの詩の会) |
099 |
田中松覚 |
追悼(己斐サークル) |
100 |
土井貞子 |
アジア連邦会議のころ(広島生活新聞社) |
101 |
峠三吉 |
和子と治への手紙 |
104 |
峠三吉 |
和子の見舞に応えて |
106 |
山村良介 |
明日は八月六日だ―前夜祭に(われらの詩の会) |
107 |
永田英夫 |
やすらかにお眠りください(うんなん詩の会、人民文学社) |
108 |
なかの・しげはる |
柔かな印象(作家・新日本文学会) |
109 |
中野鈴子 |
峠三吉さん(詩人・新日本文学会) |
109 |
峠三吉 |
おもかげ |
110 |
遠地輝武 |
峠三吉君を悼む |
111 |
木村好子 |
峠さん ! |
112 |
佐藤静夫 |
「 静かな」態度 (新日本文学会) |
113 |
吉塚勤治 |
善意の人峠三吉(作家・新日本文学会) |
114 |
金達寿 |
二度合ったきりの峠三吉(作家・新日本文学会) |
115 |
井手則夫 |
あいつ 生きてる やってるな(詩人・新日本文学会) |
117 |
松永浩介 |
峠三吉の死を悼む(詩人・新日本文学会) |
118 |
中村温 |
峠さんに(詩人・TAP同人) |
118 |
大田洋子 |
峠三吉のこと(作家 日本文芸家協会) |
121 |
峠三吉 |
短歌抄 |
122 |
友田智友 |
死の電報を前に |
124 |
坪田正夫 |
手術室よりの報告―峠三吉の手紙に立会して |
126 |
峠三吉年表 |
|
128 |
あとがき |
|
|
|
|
|
|
|
バック、パール
18920626生19730306没 |
享年80 |
アメリカの小説家。ピュリッツァー賞(1932年)、ノーベル文学賞(1938)受賞。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。<資料年表:パール・バックとヒロシマ> |
「まったく今年の感謝祭には戦争の恐怖が暗さを投げている。これは原子爆弾といふ有難からぬ物を持ってゐる結果である。」出典:『アジヤの友へ アメリカ人の生活と国民性について』(翻訳者:石川欣一、発行所:毎日新聞社、配給元:日本出版配給株式会社、昭和21年11月20日) |
|
止
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。