羽原好恵
はばら・よしえ | 19450730生19930418没 | 享年47歳 | RCC中国放送勤務。 |
羽原好恵年譜<『駆けぬけて 羽原好恵追悼集』(羽原好恵追悼集刊行委員会、1993/12/01)>
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羽原好恵
はばら・よしえ | 19450730生19930418没 | 享年47歳 | RCC中国放送勤務。 |
羽原好恵年譜<『駆けぬけて 羽原好恵追悼集』(羽原好恵追悼集刊行委員会、1993/12/01)>
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『平和をもとめて 長田新論文・追想記』(広島大学新聞会編・刊、19620325)
内容
頁 | |||
はしがき(岡本明) | |||
長田新論文 | |||
03 | ノーモーア広島か、ワンスモーア広島か | 『広島大学新聞』第13号、19520417 | |
07 | 原子爆弾は何故投下されたか | 『世界』195309 | |
24 | 原爆をつくる人、こわす人 | 『改造』195310 | |
46 | 原水爆と日本の子供たち | 『思想』195408 | |
68 | 松川事件に思うこと | 『松川通信』19581107,1115号 | |
73 | 核武装激化の歴史―原水爆禁止大会を迎えて | 『中国新聞』19590806,0807 | |
80 | 安保条約改訂のもたらすもの―危機日本のピーク | 19590505 | |
93 | 学生運動と危機にたつ日本 | 『広島大学新聞』第75号、19590408 | |
96 | 大学の自由と独立 | 『広島大学新聞』第84号、19591125 | |
98 | 国民教育の大道―危機を突破せよ | 『広島大学新聞』創刊100号、19601210 | |
103 | 青年学徒の使命 | 『広島大学新聞』104号、19610330 | |
107 | 民衆の中へ-若き日のペスタロッチー | 『広島大学新聞』96,97、101号 | |
114 | ペスタロッチーに還れ―上からの教育学より下からの教育学へ | ||
126 | 最近の体育問題 | ||
追想記 | |||
157 | 長田新博士のこと | 南原繁 | |
159 | 平和のための闘士 | 末川博 | |
162 | 「同志」だけではなかった長田さん | 上原専禄 | |
164 | 熱烈なヒューマニスト | 田畑忍 | |
167 | その面影をしのびつつ | 前芝確三 | |
169 | あやまちは二度とくりかえさせませんから | 坂田昌一 | |
171 | 長田さんにつながる想い出 | 福島要一 | |
176 | フィヒテと同じ道を歩んだ人 | 細谷俊夫 | |
178 | 荒けずりな人・朴訥な人 | 三井為友 | |
181 | 戦時中の長田さん | 小川太郎 | |
184 | 日本民主教育の先達 | 砂沢喜代次 | |
190 | 長田教育学の発展 | 船山謙次 | |
195 | 学者として市民として | 柴谷久雄 | |
197 | 実践的な学者 | 鈴木直吉 | |
200 | 「幼き神の子の声を聞け」 | 森滝市郎 | |
204 | 長田先生についての私記 | 金子金治郎 | |
213 | 大学の研究室における晩年の長田先生 | 沖原豊 | |
221 | いかに生くべきか | 玉置孝 | |
235 | 偉大なおやじをうしなって | 篠原孝義 | |
239 | 敬・愛・信 | 西原章 | |
246 | ペスタロッチーと長田先生と | 清水慶子 | |
253 | 原爆孤児を守るために | 山口勇子 | |
257 | 原爆の子の父-長田先生を喪いて | 武内利忠 | |
273 | 「真理は最後の勝利者である」 | 大内昭三 | |
278 | 若き学徒の渇仰の的 | 為藤五郎 | |
279 | 日本の自由教育史の先駆者 | 上田庄三郎 | |
281 | 長田教育学の本質 | 矢川徳光 | |
292 | 偉大なる生涯 | 森徳治 | |
304 | 長田先生の片影 | 島為男 | |
312 | 先生と先生の最初の弟子達 | 島為男 | |
323 | 不滅の真理をかかげて | 李東準 | |
329 | 日本におけるペスタロッチー運動創設者の追想のために | ハンス・シュテットバッハー | |
333 | 長田新略伝 | ||
362 | あとがき | ||
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勅使河原宏
てしがわら・ひろし | 19270128生20010414没 | 享年74歳 | 映画監督、草月流家元。 |
資料年表:勅使河原宏<作業中>
年月日 | 事項 | 備考 |
1927 | ||
0128 | 東京・青山で誕生。 | |
1956 | ||
記録映画「生きていてよかった」(監督:亀井文夫、助監督:勅使河原宏) | ||
1957 | ||
06 | 記録映画「世界は恐怖する」(監督:亀井文夫、助監督:勅使河原宏) | |
1981 | ||
0905 | 『創造の森』(草月出版編集部著・編、草月出版) | |
1982 | ||
0325 | 勅使河原宏(草月流家元)、広島原爆病院に100万円寄付。(出典:『中国新聞』) | |
0325 | ~30日。「中国地区草月展」(広島・福屋) | |
0325 | 草月流レセプション。於福屋。藤居・松原<宇吹メモ> | |
1110 | 『勅使河原宏カタログ』(草月出版編集部、草月出版刊) | |
1988 | ||
1013 | 勅使河原宏「東京駅をいける」<(『東京駅と煉瓦 JR東日本で巡る日本の煉瓦建築』(東京ステーションギャラリー編集・デザイン、東日本旅客鉄道刊)> | |
1997 | ||
04 | 「ART 勅使河原宏展」<『けんみん文化 1997.04』(広島・県民センター文化情報課)> | |
1998 | ||
0331 | 『1997話題の展覧会から ◎勅使河原宏展「舞竹」』<『’98美術ひろしま』(広島市文化振興事業団)> | |
2001 | ||
0414 | 没 | |
止
蜂谷道彦
はちや・みちひこ | 1903生19800413没 | 享年76 | 蜂谷道彦 | 『ヒロシマ日記』(朝日新聞社、1955) |
資料年表:蜂谷道彦<作業中>
年月日 | 事項 | 備考 |
1903 | 岡山県生まれ | |
1929 | 岡山医科大学卒 | |
1942 | 広島逓信病院院長就任 | |
1945 | ||
0806 | 逓信病院近くの自宅で原爆被爆、大怪我。8月11日職場復帰。原爆投下直後の56日間の職務記録、1955年に『ヒロシマ日記』として出版(朝日新聞社)。 | |
1952 | ||
0601 | 「原爆放射線病の回顧 蜂谷道彦」(『広島医学』) | |
1959 | ||
0613 | 土木学会第45回通常総会記念講演「原爆の災害と家屋の放射遮蔽効果」(学会誌 (jsce.or.jp)) | |
1966 | ||
0815 | 広島逓信病院院長辞職。 | |
1980 | ||
0413 | 死去。 | |
止
ペンギラン・ユソフ
19210502生20160411没 | 享年94歳 | 元南方特別留学生として広島文理科大学に在学中被爆。元ブルネイ首相。 |
資料年表:ペンギラン・ユソフ<作業中>
年月日 | ||
1921 | ||
0502 | 誕生 | |
1964 | ||
0516 | 旧広島大学在学中に被爆死したマレーシア人留学生の遺族、広島市を訪問 | C |
2013 | ||
0422 | 元南方特別留学生ペンギラン・ユソフへの広島大学名誉博士号授与式、在ブルネイ日本大使館で実施。<広島大学 (hiroshima-u.ac.jp)> | |
名 誉 博 士 候 補 者 調 書 | ||
2016 | ||
0411 | 死去。広島文理大に在学していた南方特別留学生9人のうちの最後の存命者。 | C |
止
小黒薫<作業中>
おぐろ・かおる | ****生20040410没 | 享年90 | 1974~1978年、広島女学院大学長?院長?<投稿> |
資料年表:
年月日 | 事項 | 備考 |
1956 | ||
1201 | 小黒薫「音楽談義」(『トルソ 創刊号』(広島女学院大学文芸部)所収) | |
1970 | ||
小黒薫「ヒロシマとは何か」(『現代における平和への条件-1970ヒロシマ会議』) | ||
1973 | ||
0625 | 『ヒロシマの意味』(日本評論社、19730625) | |
1976 | ||
1001 | 「女学院教育の特色と創立100周年への展望(小黒薫院長)」<『九拾年の歩み』(広島女学院創立90周年記念誌編集委員会)> | |
1979 | ||
0110 | ソ連地下核実験。12日、原爆慰霊碑前(広島)で抗議の坐り込み。小黒薫前広島女学院大学長、大原亨代議士ら約100人が参加。 | |
2004 | ||
0410 | 没 | |
止
井上ひさし
いのうえ・ひさし | 19341117生20100409没 | 享年75 | 本名:井上廈。日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任。<資料年表> |
資料年表:井上ひさし<作業中>
年月日 | 事項 | 備考 |
1934 | ||
1117 | 誕生 | |
1994 | ||
09 | 『父と暮らせば』 | |
1995 | ||
0810 | 『社史に見る太平洋戦争』(井上ひさし編、新潮社) | |
1025 | 広島高校生平和ゼミナールの生徒、「父と暮らせば」広島公演の出演者に、被爆かわらを贈る。 | C |
2004 | ||
「九条の会」呼びかけ人 <「九条の会」オフィシャルサイト (9-jo.jp)> | ||
2008 | ||
0222 | 井上ひさし作・朗読劇「リトル・ボーイ、ビッグ・タイフーン」、フォーラム(東京都渋谷区)で初舞台。 | C |
2010 | ||
0409 | 死亡。 | |
止
『原爆ドームと楮山ヒロ子 ヒロ子の日記と原爆ドームの保存』(寺田正弘・中村秀次・吉村勝文著、原爆ドームと楮山ヒロ子の会、20191215)
内容<作業中>
章節 | |||
序にかえて 2 | |||
1 | 楮山ヒロ子の生涯と人となり 9 | ||
1-1 | 今なぜ楮山ヒロ子なのか 10 | ||
1-2 | 原爆ドームと楮山ヒロ子 11 | ||
1-3 | 楮山ヒロ子の生い立ちと人となり 14 | ||
(1)生い立ち 14 (2)社会的背景(どのような生活環境の中で育ったのか) 21 (3)人となり 24 小学校時代 24 中学校時代 26 高校時代 28 |
|||
1-4 | 楢山ヒロ子の追憶 31 | ||
(1)小学校卒業時のクラス写真より 31 (2)中学校卒業時のクラス写真より 32 (3)中学校の卒業文集より 33 (4)中学校卒業時のクラスメートにあてたサイン帳より 34 |
|||
1-5 | 小・中・高校時代を振り返って 36 | ||
(1)小学校時代と中学校時代 36 (2)中学校時代のクラスの雰囲気 36 (3)高校時代 37 |
|||
1-6 | なぜ佐々木禎子のように名が広がらなかったのか 37 | ||
(1)佐々木禎子の生涯と人となり 37 (2)彼女はなぜ広く知れ渡るようになったのか 38 (3)楮山ヒロ子があまり知られていないのはなぜか 39 (4)佐々木禎子と楢山ヒロ子の共通点 39 (5)急性白血病とは 40 |
|||
1-7 | 楮山ヒロ子の日記について 41 | ||
(1)なぜ日記をつけ始めたのだろうか 41 (2)なぜ8月6日にあのような日記が書けたのか 42 (3)なぜ日記が公開されるに至ったのか 45 |
|||
1-8 | 追補 45 | ||
1-9 | 追加(前回発行した『ある日』への追加文です) 46 | ||
(1)国際婦人会議宛ヒロ子のお母さんのメッセージより 46 (2)「幼き日のひろ子さん」古池あさよさんより 48 (3)「惜別」段野信子さんより 51 |
|||
2 | ドーム保存へ 53 | ||
1.『ある日楮山ヒロ子の日記』 54 2.楮山ヒロ子の日記から原爆ドーム保存へ 56 3.河本一郎の略歴とドーム保存までの歩み 70 4.河本一郎の人となり 81 5.原爆ドームの存廃論義 85 |
|||
3 | 対談集 89 | ||
3-1 | 段野・三上さんから楮山ヒロ子および河本一郎・折鶴の会などについて尋ねる 90 | ||
(1)楢山ヒロ子と段野(旧姓沖田)さん 91 (2)楮山ヒロ子の日記とドーム保存 96 (3)「折鶴の会」と河本一郎 100 (4)折り鶴の処理 107 (5)「折鶴の会」のさらなる活動 110 (6)ヒロ子の親友、段野(旧姓沖田)さんとめぐり合う 112 (7)マクミラン先生との出会い 120 (8)河本一郎と自転車 122 (9)被爆70年、ドーム100年 124 (10)ヒロ子の葬儀 126 |
|||
3-2 | 黒瀬先生(広島女学院理事長)から河本一郎について尋ねる 128 | ||
(1)河本一郎との出会い 129 (2)河本一郎と広島女学院とのかかわり 132 (3)広島女学院退職後の河本一郎 134 (4)佐々木禎子を世界に向けて発信 136 (5)河本一郎の原点 138 (6)YMCAとの接点 140 (7)河本一郎の原動力 143 |
|||
4 | 平和への歩み 147 | ||
1.なぜアメリカは日本に原爆を投下したのか 148 2.原爆はどのようにして開発されたか 152 3.なぜ広島・長崎が投下目標に選ばれたか 153 4.原爆投下に関するいくつかの重要な証言 155 5.楮山ヒロ子の日記のメッセージを書き残して行く意義と責務 159 6.原爆投下に関する日米の公式見解 160 7.追記 161 |
|||
5 | マスメディアによる取材 163 | ||
5-1 | 国内にむけての報道 164 | ||
(1)新聞より 164 (2)テレビより 165 |
|||
5-2 | 国外にむけての報道 166 | ||
(1)****ントンポスト(アメリカのインターネット新聞)より 166 (2)NHKワールドより 167 |
|||
あとがき 168 | |||
止
楮山ヒロ子
かじやま・ひろこ | 生19600405没 | 享年17 | 広島で被爆。急性リンパ性白血病のため広島市民病院で死亡。<投稿> |
資料年表:楮山ヒロ子
年月日 | 事項 | 備考 |
出典:C=『中国新聞』 | ||
1960 | ||
0405 | 急性リンパ性白血病のため広島市民病院で死亡。 | C |
0505 | 広島「折鶴の会」、原爆ドーム保存のための署名と募金運動開始を決める。楮山ヒロ子が日記(1959年8月6日)「あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでも、恐るべき原爆を後世にうったえてくれるだろう」と記していたのが動機(「アンヘルの名とともに―河本一郎小伝」)。 | C |
0806 | 原爆の子の像(広島平和記念公園)前で追悼の集い(3回目)。広島子どもを守る会「あゆみグループ」、レイノルズ夫妻など約200人が参列。楮山ヒロ子の日記(1959年8月6日付)紹介。 | C |
1967 | ||
0804 | 広島「折鶴の会」、楮山ヒロ子の日記を中心に同会の歴史をつづった「爆心地」を発刊。 | C |
1994 | ||
0802 | 楮山ヒロ子の日記、広島原爆資料館へ寄贈へ。 | C |
2011 | ||
0331 | 2012年度からの中学校用教科書の検定に合格した歴史教科書(東京書籍)、楮山ヒロ子の日記をきっかけに60年代に広がった原爆ドーム保存運動などを紹介(山本洋子・記者)。 | C |
2019 | ||
1215 | 『原爆ドームと楮山ヒロ子』(寺田正弘、中村秀次、吉村勝文著、原爆ドームと楮山ヒロ子の会刊) | |
止
『志あるところ必ず道あり 大原亨追悼録・遺稿集』(発行編纂委員会、19910806)
内容<作業中>
頁 | 部 | 著者 | タイトル | 備考 |
多賀谷真稔・秋葉忠利 | ||||
序にかえて | ||||
秋葉忠利 | ||||
追悼の辞 | ||||
大原亨 経歴 | ||||
001 | 第1部-1- | 社会保障の大原 | ||
倒れても、なお、社会保障を 多賀谷真稔 2 大原先生・3つの思い出 伊藤茂 8 年金改革に注がれた情熱 宇津木泰子 13 社会保障制度に生涯を捧げた政治家 内海英男 15 党政策の大先達だった友 堀昌雄 16 「私たちの年金」が生まれた頃の想い出 小口賢三 18 福祉・年金の小原先生への思い 岸田文武 25 30年一筋に医療保障・年金を追究 長尾立子 28 教えられた福祉と平和の国づくり 三井速雄 30 瀬戸内海環境保全と年金で活躍 林義郎 36 「共済組合四法案」の闘いを担って 前田弘 40 |
||||
045 | 第1部-2- | 政治家としての大原像 | ||
慈しみの心で政治に取り組む 藤音晃祐 46 大衆への愛情をこめた政治家の姿 金子みつ 48 勉強家だった社労の大人 横山泰治 50 頼りがいある海坊だった 上杉佐一郎 54 大原君とはもっと話したかった 小杉進 57 「趣味は勉強」の大原先生 森井忠良 60 政治と郷里の大先輩を偲ぶ 粟屋敏信 63 大原先生の人間像を偲ぶ 小森龍邦 66 衆議第一議員会館215号室 素顔の大原さん 秋信利彦 71 初当選をおでん屋で祝ってくれた人 福岡義登 74 大原先生の幾つかの思いで 江田光子 76 パスポートなしで東独入り 海野明昇 78 在京秘書として働いた思い出から 石川弘美 81 |
||||
085 | 第2部-1- | 地元が語る政治家大原 | ||
終りを全うした人 竹下虎之助 86 大原先生と広島市長選挙 荒木武 88 県労会議と平和運動での大原さん 浜本万三 90 大原先生は私の労働運動の師 藤崎徳雄 92 遺影を奉じて被爆者援護法の実現へ 森瀧市郎 98 先生との出会いを心に 吉川生美 99 放影研発足のきっかけを作られた先生 重松逸造 101 昭和33年選挙から関わり続けて 山下三郎 103 大原君と広高教組のことども 岡本清 110 平和を望み、愛した大衆政治家 川崎美澄 115 気どらず気さくな人だった 斎藤尊 117 |
||||
119 | 第2部-2- | 身近な人が語る大原像 | ||
大原亨先生のほこり 鶴敍 120 一言に思いをこめて 庄野直美 134 信心の人・誠実の人・大原先生 武野似徳 135 郷土広島のためにも多大の功績 明星正明 137 町内で語り合った先生の思い出 山本秀雄 138 「むすび会」からと大原先生を懐う 増原千代子 140 「虹の会」の思い(1) 唐川敏子 145 「虹の会」の思い(2) 竹本久子 148 いただいた2枚の書に思う 村井浩 149 大原亨の生まれ故郷を語る 大原信 153 亨さんの生いたちと働きを偲んで 大原輝子 155 私人としての「亨君」を語る 岡本隆 159 勲一等より尊い勲章 山田文雄 165 普段着姿の義兄への思い 大原篤子 172 志あるところ必ず道あり 大原邦夫 174 |
||||
179 | 第3部-1- | 最後の論文 | ||
90年3月5日付の書簡 180 | ||||
「逆転下の年金改正の総括」(上) 181 「逆転下の年金改正の総括」(下) 188 |
||||
195 | 第3部-2- | 国会における演説・質疑 | ||
初質問 第29国会・衆議院社会労働委員会(58・6・27)原爆被爆者の医療対策に関する質疑 196 第68国会・衆議院本会議代表質問(72・2・1)社会保障政策-老人福祉・医療等 207 第68国会・衆議院本会議趣旨説明(72・4・25)「公的年金の年金額等の臨時特例に関する法律案」 226 第71国会・衆議院本会議趣旨弁明(73・7・10)「活動火山周辺地域における避難施設等の整備等に関する法律案」 231 第72国会・衆議院社労委提案理由説明(74・4・4)「原子爆弾被爆者等援護法案」 234 第96国会・衆議院社労委(82・4・22)原爆関係2法案に対する質疑 237 第102国会・衆議院本会議(84・12・13)永年在職議員表彰に対する謝辞 255 第102国会・衆議院社労委(85・5・23)原爆被爆者対策に関する質疑 257 第104国会・衆議院予算案(86・2・17)部落差別問題に関する質疑 272 最後の質問 第116国会・衆議院社労委(89・11・22)国民年金法等一部改正案などに対する質疑 289 |
||||
止