『日本印象記-ヒロシマの家』(フロイド・シュモー著、大原三八雄訳、広島ピース・センター発行、19521001)
内容
頁 | |||
フロイド・シュモー博士の横顔―序文にかえて 訳者 1 | |||
日本印象記(ヒロシマの家) 1 | |||
71 | シュモー博士と広島の家 浜井信三 | ||
75 | 跋 谷本清 | ||
Japan Journey by Floyd Schmoe (Silver Quoin Press 1950) |
止
『日本印象記-ヒロシマの家』(フロイド・シュモー著、大原三八雄訳、広島ピース・センター発行、19521001)
内容
頁 | |||
フロイド・シュモー博士の横顔―序文にかえて 訳者 1 | |||
日本印象記(ヒロシマの家) 1 | |||
71 | シュモー博士と広島の家 浜井信三 | ||
75 | 跋 谷本清 | ||
Japan Journey by Floyd Schmoe (Silver Quoin Press 1950) |
止
川端康成
かわばた・やすなり | 18990614生19720416没 | 享年72歳 | 日本ペンクラブ会長[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。 |
資料年表:川端康成<作業中>
年月日 | ||
1899 | ||
0614 | 誕生 | |
1949 | ||
1126 | 川端日本ペンクラブ会長ら、国際ペンクラブ大会(1950年・英国)出席に備え広島市を訪問。 | C |
1950 | ||
0415 | 日本ペンクラブ主催「広島の会」。川端会長らペンクラブ会員約80人参加。講師:川端、石川達三、真杉静江、阿部知二、原民喜ら18人。平和宣言を発表。 | C |
1959 | ||
0814 | 川端から広島「憩いの家」(広島市宇品町)に小説990冊が届く。 | |
1961 | ||
0730 | 日本ペンクラブ、広島「憩いの家」の運営資金にと42枚の色紙を贈る。寄贈者:川端、井伏鱒二、井上靖、徳川無声、丹羽文雄、佐藤春夫、東郷青児ら。 | |
1967 | ||
0612 | 世界平和アピール7人委員会の4人(茅誠司・川端康成・上代たの・内山尚三)、佐藤首相に文化人18人が署名した原爆被爆者援護法制定に関する要望書を手渡す。 | |
1969 | ||
0816 | 広島「憩いの家」主催「被爆者援護第7回文芸家・画家・国際色紙展」(会場:広島市・福屋百貨店)。川端ら約120人、300点を出品。サルトルらの被爆者へのメッセージも展示。 | |
1970 | ||
0814 | 広島「憩いの家」主催の被爆者救援の色紙展(会場:広島市・福屋百貨店)。川端らの色紙300点を展示。 | |
1972 | ||
0416 | 神奈川県逗子市のマンションでガス自殺。72歳。 | |
2016 | ||
0921 | 森本穫「緑地帯 川端康成と広島<1>」(『中国新聞』連載)~<8>(9月30日)。 | |
止
『駆けぬけて 羽原好恵追悼集』(羽原好恵追悼集刊行委員会、1993/12/01)
内容
頁 | |||
003 | 吉見弘(中国放送) | 序にかえて | |
015 | 日記(抄) | 19921124~19930412 | |
023 | 追悼文 | ||
025 | 松林俊一 | 一枚の写真から | 広島市公文書館 |
028 | 磯崎弘幸 | もう、好恵さんのすがすがしい声をきくことはできない | 民放労連書記長 |
031 | 市川美根 | 羽原さんと真珠の指輪 | 東京放送 |
033 | 隅井美沙子 | 浅草デート | 東北放送 |
036 | 宮崎安男 | 羽原さんの笑顔 | 原水爆禁止広島県協議会代表委員 |
040 | 尾津訓三 | 透明な人 | 日本演劇学会 |
042 | 大林進 | 働く仲間の中にはいつも好恵さんがいた | 元山陽新聞 |
045 | 古浦千穂子 | 無念の死 | 作家 |
048 | 岡本美紀 | 放送局で女性の数が半分になったら | ラジオ日本 |
051 | 原田東岷 | 羽原さんを悼む | 医師 |
054 | 川上三夫 | 歌わなくなったうた | 元山陽新聞 |
056 | 井口泰子 | 彼女の闘いの終りに | 作家 |
059 | 安部親雄 | 羽原かあちゃんを偲んで | 「寿司富」店主 |
061 | 水藤晉 | 残酷な地雷 | 共同通信 |
063 | 岡野信子 | ホンモノの優しさ | 梅光女学院大学名誉教授 |
067 | 河井章子 | イチ抜-けない | 元中国放送 |
070 | 杜師弘一 | 人間を そして哲学を | 中国放送 |
073 | 松本洋 | 明るく親切だった ヤンちゃんへ | 元・元宇品小学校教諭 |
075 | 高岡日出子 | まだまだ生きてほしかった | 東京放送 |
078 | 森悦子 | 勇気ある旅立ち | 広島市役所 |
080 | 田辺昭太郎 | 好っちゃんの怒ったとき | 映画プロデューサー |
082 | 岡本純江 | ゆっくり休んで… | 毎日放送 |
083 | 今田純子 | いまごろになって | 朝日放送 |
084 | 寺本真名 | 爽やかな人 | 元放送映画製作所 |
085 | 野崎清 | 精一ぱい生きた人 | 朝日放送 |
086 | 井上俊逸 | メッセージ・フォー・あす | 中国新聞 |
089 | 酒井幸 | ボルゴグラードでの思い出 | 中国新聞 |
093 | 香川そのみ | 女性記者であること | 中国放送 |
095 | 中川幹朗 | 羽原さんの思い出 | 皆実高校教諭 |
098 | 徳光国弘 | 年上の女 は婆らさん | 中国放送 |
101 | 須山楓 | 羽原さん 力をかして | 南海放送 |
104 | 丸屋博 | 友よ、さらば 羽原さんの残した課題 | 広島共立病院名誉院長 |
109 | 栗本陽子 | 私達にできること | 大阪文学学校研究生 |
111 | 天野茂 | 羽原好恵さん逝去の悲報に | 元比治山女子短大教授 |
112 | 芝田進午 | 羽原好恵さんへの感謝 | 広島大学名誉教授 |
115 | 池谷洋二 | チロ | 毎日新聞 |
118 | 柴田和広 | 宿題 | 中国放送 |
122 | 三宅芙由 | 星 | 大芝小学校4年 |
123 | 長谷川洋 | 遠い声 | 共同通信 |
127 | 石田明 | ヒロシマからあなたへ | 被爆者 |
132 | 坂本治子 | まるでマリア様のように | 民放労連中四国地連・広島テレビ労組書記長 |
134 | 沼田鈴子 | 羽原好恵さんとの「きずな」 | 語り部の会 |
137 | 荒井栄子 | 姉のようだった好恵さんへ | 中国放送 |
138 | 水野喬 | 牛んでも「モーン」 | RCCミュージック |
142 | 石嵜隆博 | 拝啓 羽原さま 広島市役所 |
|
144 | 古島哲朗 | 羽原さんの死が問いかけるもの | 歌人 |
146 | 籔井和夫 | クラブの母 | 中国新聞 |
149 | 川路恵理子 | 平和公園で会いましょう | 毎日新聞 |
151 | 栗原貞子 | ヒロシマの人体実験はまだ続いている | 詩人 |
159 | 中村一郎 | しっかりしんちゃい | 読売新聞 |
161 | 田代真理子 | 天国でどうしていますか | 中国放送 |
163 | 松本愛子 | あなたの声を聞いてみせます | 山陰放送 |
165 | 奥村宗洋 | いつもの笑顔で | 読売新聞 |
167 | T・U | 実録 好っちゃんの失敗 | |
169 | 佐々木典明 | 『ヒロシマ記者』ヨッチャンの軌跡 | 中国放送 |
173 | 高木春美 | 沖縄大会を無事終えて | 西日本放送 |
175 | 赤松怜子 | この人好きだな… | 西日本放送 |
177 | 大元誠司 | 一緒に伝えたい | CGオペレーター |
181 | 藤原茂 | 思い出を語るにはあまりにも… | 読売新聞 |
183 | 谷上朋子 | 青空グループ | 中学校同級生 |
187 | 水原肇 | 雑誌『正觀』生みの親だった羽原好恵さん | ジャーナリスト |
191 | 遺稿 | ||
193 | ささやくキャンパス― | 1970年8月 | |
195 | とうとう社員にさせました― | 1972年4月 | |
201 | 白馬が跳ぶ海のことば― | 1979年7月 | |
217 | ボルゴグラード友好の旅 | 1987年7月 | |
220 | ある日突然 海・外・取・材― | 1990年3月 | |
226 | みつめる90 平和の夢を追いつづけて― | 1992年4月 | |
242 | 中四国地連第14回婦人集会へのメッセージ― | 1993年2月 | |
244 | 在広民放4組合婦人部合同「お花見」へのメッセージ― | 1993年4月 | |
245 | おもいで | ||
247 | 45歳いのち見つめて 新聞記事より | ||
家族より | |||
251 | 山根喜美子 | 好恵が生まれたころ | 母 |
254 | 羽原博子 | 好恵さんに逢えて | 義妹 |
256 | 羽原幹男 | 好恵とのこと | 夫 |
267 | 堀口勲 | 弔辞 | 中国放送社長 |
269 | 原森勝成 | お別れの言葉 | 中国放送労組 |
273 | 田端佐紀子 | 弔辞 | 友人代表、広島テレビ放送 |
275 | 羽原好恵年譜 | ||
279 | 原森泉 | あとがき | |
池本恵子、田端佐紀子、野田恵美、原森勝成、三宅泰次、山原玲子、三宅文枝 | |||
止
羽原好恵
はばら・よしえ | 19450730生19930418没 | 享年47歳 | RCC中国放送勤務。 |
羽原好恵年譜<『駆けぬけて 羽原好恵追悼集』(羽原好恵追悼集刊行委員会、1993/12/01)>
止
『平和をもとめて 長田新論文・追想記』(広島大学新聞会編・刊、19620325)
内容
頁 | |||
はしがき(岡本明) | |||
長田新論文 | |||
03 | ノーモーア広島か、ワンスモーア広島か | 『広島大学新聞』第13号、19520417 | |
07 | 原子爆弾は何故投下されたか | 『世界』195309 | |
24 | 原爆をつくる人、こわす人 | 『改造』195310 | |
46 | 原水爆と日本の子供たち | 『思想』195408 | |
68 | 松川事件に思うこと | 『松川通信』19581107,1115号 | |
73 | 核武装激化の歴史―原水爆禁止大会を迎えて | 『中国新聞』19590806,0807 | |
80 | 安保条約改訂のもたらすもの―危機日本のピーク | 19590505 | |
93 | 学生運動と危機にたつ日本 | 『広島大学新聞』第75号、19590408 | |
96 | 大学の自由と独立 | 『広島大学新聞』第84号、19591125 | |
98 | 国民教育の大道―危機を突破せよ | 『広島大学新聞』創刊100号、19601210 | |
103 | 青年学徒の使命 | 『広島大学新聞』104号、19610330 | |
107 | 民衆の中へ-若き日のペスタロッチー | 『広島大学新聞』96,97、101号 | |
114 | ペスタロッチーに還れ―上からの教育学より下からの教育学へ | ||
126 | 最近の体育問題 | ||
追想記 | |||
157 | 長田新博士のこと | 南原繁 | |
159 | 平和のための闘士 | 末川博 | |
162 | 「同志」だけではなかった長田さん | 上原専禄 | |
164 | 熱烈なヒューマニスト | 田畑忍 | |
167 | その面影をしのびつつ | 前芝確三 | |
169 | あやまちは二度とくりかえさせませんから | 坂田昌一 | |
171 | 長田さんにつながる想い出 | 福島要一 | |
176 | フィヒテと同じ道を歩んだ人 | 細谷俊夫 | |
178 | 荒けずりな人・朴訥な人 | 三井為友 | |
181 | 戦時中の長田さん | 小川太郎 | |
184 | 日本民主教育の先達 | 砂沢喜代次 | |
190 | 長田教育学の発展 | 船山謙次 | |
195 | 学者として市民として | 柴谷久雄 | |
197 | 実践的な学者 | 鈴木直吉 | |
200 | 「幼き神の子の声を聞け」 | 森滝市郎 | |
204 | 長田先生についての私記 | 金子金治郎 | |
213 | 大学の研究室における晩年の長田先生 | 沖原豊 | |
221 | いかに生くべきか | 玉置孝 | |
235 | 偉大なおやじをうしなって | 篠原孝義 | |
239 | 敬・愛・信 | 西原章 | |
246 | ペスタロッチーと長田先生と | 清水慶子 | |
253 | 原爆孤児を守るために | 山口勇子 | |
257 | 原爆の子の父-長田先生を喪いて | 武内利忠 | |
273 | 「真理は最後の勝利者である」 | 大内昭三 | |
278 | 若き学徒の渇仰の的 | 為藤五郎 | |
279 | 日本の自由教育史の先駆者 | 上田庄三郎 | |
281 | 長田教育学の本質 | 矢川徳光 | |
292 | 偉大なる生涯 | 森徳治 | |
304 | 長田先生の片影 | 島為男 | |
312 | 先生と先生の最初の弟子達 | 島為男 | |
323 | 不滅の真理をかかげて | 李東準 | |
329 | 日本におけるペスタロッチー運動創設者の追想のために | ハンス・シュテットバッハー | |
333 | 長田新略伝 | ||
362 | あとがき | ||
止
勅使河原宏
てしがわら・ひろし | 19270128生20010414没 | 享年74歳 | 映画監督、草月流家元。 |
資料年表:勅使河原宏<作業中>
年月日 | 事項 | 備考 |
1927 | ||
0128 | 東京・青山で誕生。 | |
1956 | ||
記録映画「生きていてよかった」(監督:亀井文夫、助監督:勅使河原宏) | ||
1957 | ||
06 | 記録映画「世界は恐怖する」(監督:亀井文夫、助監督:勅使河原宏) | |
1981 | ||
0905 | 『創造の森』(草月出版編集部著・編、草月出版) | |
1982 | ||
0325 | 勅使河原宏(草月流家元)、広島原爆病院に100万円寄付。(出典:『中国新聞』) | |
0325 | ~30日。「中国地区草月展」(広島・福屋) | |
0325 | 草月流レセプション。於福屋。藤居・松原<宇吹メモ> | |
1110 | 『勅使河原宏カタログ』(草月出版編集部、草月出版刊) | |
1988 | ||
1013 | 勅使河原宏「東京駅をいける」<(『東京駅と煉瓦 JR東日本で巡る日本の煉瓦建築』(東京ステーションギャラリー編集・デザイン、東日本旅客鉄道刊)> | |
1997 | ||
04 | 「ART 勅使河原宏展」<『けんみん文化 1997.04』(広島・県民センター文化情報課)> | |
1998 | ||
0331 | 『1997話題の展覧会から ◎勅使河原宏展「舞竹」』<『’98美術ひろしま』(広島市文化振興事業団)> | |
2001 | ||
0414 | 没 | |
止
蜂谷道彦
はちや・みちひこ | 1903生19800413没 | 享年76 | 蜂谷道彦 | 『ヒロシマ日記』(朝日新聞社、1955) |
資料年表:蜂谷道彦<作業中>
年月日 | 事項 | 備考 |
1903 | 岡山県生まれ | |
1929 | 岡山医科大学卒 | |
1942 | 広島逓信病院院長就任 | |
1945 | ||
0806 | 逓信病院近くの自宅で原爆被爆、大怪我。8月11日職場復帰。原爆投下直後の56日間の職務記録、1955年に『ヒロシマ日記』として出版(朝日新聞社)。 | |
1952 | ||
0601 | 「原爆放射線病の回顧 蜂谷道彦」(『広島医学』) | |
1959 | ||
0613 | 土木学会第45回通常総会記念講演「原爆の災害と家屋の放射遮蔽効果」(学会誌 (jsce.or.jp)) | |
1966 | ||
0815 | 広島逓信病院院長辞職。 | |
1980 | ||
0413 | 死去。 | |
止
ペンギラン・ユソフ
19210502生20160411没 | 享年94歳 | 元南方特別留学生として広島文理科大学に在学中被爆。元ブルネイ首相。 |
資料年表:ペンギラン・ユソフ<作業中>
年月日 | ||
1921 | ||
0502 | 誕生 | |
1964 | ||
0516 | 旧広島大学在学中に被爆死したマレーシア人留学生の遺族、広島市を訪問 | C |
2013 | ||
0422 | 元南方特別留学生ペンギラン・ユソフへの広島大学名誉博士号授与式、在ブルネイ日本大使館で実施。<広島大学 (hiroshima-u.ac.jp)> | |
名 誉 博 士 候 補 者 調 書 | ||
2016 | ||
0411 | 死去。広島文理大に在学していた南方特別留学生9人のうちの最後の存命者。 | C |
止
小黒薫<作業中>
おぐろ・かおる | ****生20040410没 | 享年90 | 1974~1978年、広島女学院大学長?院長?<投稿> |
資料年表:
年月日 | 事項 | 備考 |
1956 | ||
1201 | 小黒薫「音楽談義」(『トルソ 創刊号』(広島女学院大学文芸部)所収) | |
1970 | ||
小黒薫「ヒロシマとは何か」(『現代における平和への条件-1970ヒロシマ会議』) | ||
1973 | ||
0625 | 『ヒロシマの意味』(日本評論社、19730625) | |
1976 | ||
1001 | 「女学院教育の特色と創立100周年への展望(小黒薫院長)」<『九拾年の歩み』(広島女学院創立90周年記念誌編集委員会)> | |
1979 | ||
0110 | ソ連地下核実験。12日、原爆慰霊碑前(広島)で抗議の坐り込み。小黒薫前広島女学院大学長、大原亨代議士ら約100人が参加。 | |
2004 | ||
0410 | 没 | |
止
井上ひさし
いのうえ・ひさし | 19341117生20100409没 | 享年75 | 本名:井上廈。日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任。<資料年表> |
資料年表:井上ひさし<作業中>
年月日 | 事項 | 備考 |
1934 | ||
1117 | 誕生 | |
1994 | ||
09 | 『父と暮らせば』 | |
1995 | ||
0810 | 『社史に見る太平洋戦争』(井上ひさし編、新潮社) | |
1025 | 広島高校生平和ゼミナールの生徒、「父と暮らせば」広島公演の出演者に、被爆かわらを贈る。 | C |
2004 | ||
「九条の会」呼びかけ人 <「九条の会」オフィシャルサイト (9-jo.jp)> | ||
2008 | ||
0222 | 井上ひさし作・朗読劇「リトル・ボーイ、ビッグ・タイフーン」、フォーラム(東京都渋谷区)で初舞台。 | C |
2010 | ||
0409 | 死亡。 | |
止