ビル・シェリフ
ビル・シェリフ | 1927生200905没 | 享年82 | オーストラリア陸軍入隊(1945年4月)後、1948年2月~1953年3月、英連邦占領軍の一員として日本で勤務。 |
資料
『広島大学文書館蔵 ビル・シェリフ関係文書目録』(広島大学文書館、2014年2月) | |
ビル・シェリフ
ビル・シェリフ | 1927生200905没 | 享年82 | オーストラリア陸軍入隊(1945年4月)後、1948年2月~1953年3月、英連邦占領軍の一員として日本で勤務。 |
資料
『広島大学文書館蔵 ビル・シェリフ関係文書目録』(広島大学文書館、2014年2月) | |
新藤兼人
しんどう・かねと | 19120422生20120529没 | 享年100 |
映画監督。『広島県現代文学事典』 |
***
森戸辰男
18881223生19840528没 | もりとたつお | 享年95 | |
1950年広島大学初代学長。(13年間)。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。[51広島大学平和問題研究会会長]。[52広島平和問題談話会]。1951年に、「広島大学平和問題研究会」を発足させる。 |
資料 | |
『広島大学所蔵 森戸辰男関係文書目録 (上・下巻)』(森戸文書研究会編、広島大学・松下視聴覚研究財団刊) | |
献花(5月)
しゅろ(棕梠) 撮影日時 2018.5.4 撮影場所:実家 |
シラン(紫蘭) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家 |
ツルギキョウ 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家 |
ポピー(芥子 けし) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家 |
アガバンサス 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家 |
いちご(苺) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家 |
キソケイ? 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家 |
?? 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家 |
アジサイ(紫陽花) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家 |
アイリス 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家 |
やぐるまそう(矢車草) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:倉庫 |
アイリス 撮影日時 2018.5.9 撮影場所:自宅 |
サルビアとガザニア 撮影日時 2018.5.10 撮影場所:実家 |
しゅんぎく(春菊) 撮影日時 2018.5.10 撮影場所:実家 |
アガバンサス 撮影日時 2018.5.10 撮影場所:実家 |
撮影日時 2018.5.14 撮影場所:実家と自宅の道路 |
撮影日時 2018.5.14 撮影場所:実家と自宅の道路 |
撮影日時 2018.5.16 撮影場所:実家 |
撮影日時 2018.5.16 撮影場所:実家 |
撮影日時 2018.5.16 撮影場所:実家 |
撮影日時 2018.5.16 撮影場所:実家 |
撮影日時 2018.5.16 撮影場所:倉庫 |
撮影日時 2018.5.16 撮影場所:自宅 |
撮影日時 2018.5.16 撮影場所:自宅 |
撮影日時 2018.5.16 撮影場所:自宅 |
撮影日時 2018.5.19 撮影場所:実家 |
松 撮影日時 2018.5.19 撮影場所:実家 |
撮影日時 2018.5.19 撮影場所:実家 |
ホオヅキ 撮影日時 2018.5.20 撮影場所:倉庫 |
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市) |
5月忌(一覧)
日 | 没年 | 氏名 | 読み | 享年 | 備考 |
01 | 1981 | 中村敏 | なかむら・さとし | 72 | 共同通信社元編集局総務。広島被爆の第一報を打電した元同盟通信広島支社編集部長。 |
01 | 1985 | ジェンキンズ、クニコ・ | じぇんきんず | 59 | 全米被爆者協会副会長。1973年から副会長を務め、在米被爆者検診の実施などに貢献。 |
02 | 2009 | 忌野清志郎 | いまわの・ きよしろう | 58 | ロック・ミュージシャン。本名:栗原清志(くりはら・きよし)。 |
02 | 2016 | 新屋英子 | しんや・えいこ | 87 | 本名:鶉野英子(うずの)。大阪の劇団「関西芸術座」の創立メンバー。一人芝居「チョゴリの被爆者」。『女優新屋英子 私の履歴書』(2005年、解放出版社) |
03 | 1955 | 千葉亮 | ちば | 広島で被爆した東京在住の高校生。 | |
原爆症発症以来、全国の高校生らが支援カンパ。9日、成城高校、生徒会葬を執行。約2000名が参列(読売新聞)。 | |||||
03 | 1971 | 高橋和巳 | たかはし・かずみ | 39 | 作家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)<投稿> |
03 | 2017 | 月丘夢路 | つきおか・ゆめじ | 95 | 宝塚歌劇団、女優。本名:井上明子。広島市中区出身。映画「ひろしま」に出演。 |
04 | 1985 | 菊池武彦 | きくち・たけひこ | 91 | 京都大学名誉教授。 |
京都大学原爆災害調査班の一員として1945年8月に広島を調査。『京都大学原子爆弾災害総合研究調査班の成立と活動』、『大野陸軍病院における京大原爆総合研究調査班の山津波による遭難の状況(私の日記から)』。お宅を訪問。被爆直後の写真について教示をいただく。<資料年表:菊池武彦> | |||||
06 | 1964 | 佐藤春夫 | さとう・はるお | 詩人・小説家。原民喜の葬儀委員長。 | |
1951年11月15日広島城址に建立された原の詩碑に撰文「詩碑の記」を記す。『広島県現代文学事典』竹原陽子・記) | |||||
06 | 1980 | 渡辺忠雄 | わたなべ・ただお | 81 | 元広島市長(1955~59年)。<投稿> |
08 | 1972 | 砂原格 | すなはら・かく | 『砂原格追想録』(砂原格先生顕彰会・会長森本亨、1978.5.8)〈投稿〉 | |
08 | 2008 | 伏見康治 | ふしみ・こうじ | 98 | 物理学者。1953年日本学術会議会長。1958年参議院議員(公明党)。 |
09 | 2012 | 碓井静照 | うすい・しずてる | 74 | 8歳の時被爆。<投稿> |
広島県医師会会長、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)日本支部長などを歴任。第67回(2010年)中国文化賞(中国新聞社主催)。 | |||||
09 | 1965 | 田谷春夫 | たたに・はるお | 詩人・歌人。 | |
1932年5月赤色救援会広島支部の責任者として検挙・起訴される。広島で被爆。『広島県現代文学事典』(福谷昭二・記) | |||||
09 | 2018 | 村井志摩子 | むらい・しまこ | 89 | 劇作家・演出家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記) |
10 | 1981 | 今川卓治 | いまがわ・たくじ | 84 | 『被爆医師 今川卓治』(今川静子、19870510) |
10 | 1991 | 中川保雄 | なかがわ・やすお | 神戸大学教養学部教授。科学技術史。 | |
著書に『放射線被曝の歴史』。広島大学原医研資料センター所蔵資料を熱心に調査。直接の面識無し。 | |||||
10 | 2017 | 田原伯 | たはら・つかさ | 84 | 原爆文献研究家。<投稿>。 |
11 | 1975 | 梶山季之 | かじやま・としゆき | 46 | 1948年広島高等師範学校入学。[広島大学]『広島県現代文学事典』(天瀬裕康・記)編年資料:梶山季之 |
11 | 2004 | 山本達雄 | やまもと・たつお | 88 | 「原爆の火」保存者。兵役に就いていた広島で、原爆投下直後に残り火をカイロに採取し、故郷の福岡県星野村で20年以上保存。広島に投下された人類史上初めての原子爆弾の火=世界で唯一の「火」。 |
12 | 1979 | 塩月正雄 | しおつき・まさお | 58 | 東北大学医学部を卒業後見習士官として大村病院に所属。 |
被爆者治療に従事。。「初仕事は安楽死だった」(光文社 1978.8.15 )の著者。 | |||||
14 | 1998 | 山田典吾 | やまだ・てんご | 81 | 映画監督。作品に「はだしのゲン」・「白い町ヒロシマ」。 |
14 | 2002 | 草野信男 | くさの・のぶお | 92 | 病理学者。元日本原水協理事長。投稿 |
15 | 1973 | ラビノビッチ、ユージン・ | らびのびっち | 71 | Eugene Rabinowitch マンハッタン計画の主任研究者。[70ヒロシマ会議] |
15 | 2009 | 豊田利幸 | とよた・としゆき | 89 | 核物理学者。「パグウォッシュ会議」に日本代表としてかかわり、その日本版の「科学者京都会議」でも活躍。 |
16 | 1977 | 島薫 | しま・かおる | 79 | 外科島病院長。 |
原爆は島病院の上空でさく裂。『島薫あれもこれも』(紺野耕一編、島忍発行、1983.5.15) | |||||
16 | 2006 | 渡辺正治 | わたなべ・しょうじ | 広島大学原医研時代の先輩。 | |
5月20日葬儀・告別式。<別記予定> | |||||
18 | 1952 | 中井正一 | なかい・まさかず | 52 | 美学者・哲学者。1946年9月、広島県労働文化協会を創設。1948年、国立国会図書館副館長に就任。『広島県大百科事典』(板根俊英・記)。『広島県現代文学事典』(佐々木暁美・記)。 |
18 | 2007 | 前野良 | まえの・りょう | 94 | 原水禁国民会議顧問。 |
広島湾の軍艦上で被ばく。その後の1ヵ月あまりの救護活動。1955年の最初の世界大会から原水禁運動に参加。http://www.gensuikin.org/gnskn_nws/0707_4.htm | |||||
21 | 1991 | 斗桝良江 | とます・よしえ | 『私の原爆記』 | |
21 | 2010 | 小松茂美 | こまつ・しげみ | 75 | 古筆学者、美術史学者。広島で被爆。<投稿> |
「死の淵にたって」(『平家納経の世界―国宝の謎を推理する』(六興出版、19861226)pp.133-136。 | |||||
22 | 1964 | 下田隆一 | しもだ・りゅういち | 65 | 原爆裁判の原告の一人。 |
22 | 1988 | 佐藤月二 | さとう・つきに | 79 | 元広島大学教育学部教授。広島県史跡名勝天然記念物調査委員(1947年2月~)。 |
1949年当時、原爆ド-ムの保存を主張。著書『むさしあぶみ』(溝本積善館、19720215)。 | |||||
23 | 1981 | 吉野源三郎 | よしの・げんざぶろう | 82 | 雑誌「世界」初代編集長。 |
日本ジャーナリスト会議初代議長(1955年2月、)。「被爆30周年国際フォーラム」の代表世話人。1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人。 | |||||
23 | 2012 | 岡本直正 | おかもと・なおまさ | 91 | 広島大学原爆放射能医学研究所所長(1970.4.1~1977.3.31)。 |
24 | 1956 | 中林智子 | なかばやし・ともこ | 原爆乙女の会のメンバー。 | |
アメリカのマウント・サイナイ病院で手術中に死去。日本時間25日。 | |||||
24 | 2007 | 大庭みな子 | おおば・みなこ | 作家。『広島県現代文学事典』(瀬崎圭二・記) | |
26 | 1982 | 植村環 | うえむら・たまき | 91 | 日本YWCA名誉会長。 |
原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員。日本原水協代表委員。世界平和アピール七人委員会のメンバー。1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人。 | |||||
26 | 1999 | 辛泳洙 | しん・よんす | 80 | 元韓国原爆被害者協会会長。 |
国外に住む外国人としては始めて原爆被爆者手帳を取得。http://www.asahi-net.or.jp/~hn3t-oikw/kaihou/No_25/9907_1shin.html | |||||
26 | 2000 | 阿左美信義 | あさみ・のぶよし | 65 | 広島弁護士会長・日本弁護士連合会副会長などを歴任。 |
「石田原爆訴訟」の弁護団に加わる。「悼記 衰えなかった弱者救済への情熱」(『中国新聞』2000.7.4) | |||||
28 | 1984 | 森戸辰男 | もりと・たつお | 95 | 広島大学初代学長(13年間)。 |
[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。[51広島大学平和問題研究会会長]。[52広島平和問題談話会]。1951年に、「広島大学平和問題研究会」を発足させる。 | |||||
29 | 1986 | 松崎寿和 | まつざき・ひさかず | 72 | 日本史研究者。広島大学教授。中国文化賞(1974年) |
30 | 1978 | 片山哲 | かたやま・てつ | 90 | 元総理大臣。 |
憲法擁護国民連合議長、衆議院議員、[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。 | |||||
30 | 1983 | 山本康夫 | やまもと・やすお | 105 | 歌人。 |
短歌誌「真樹」主宰者(被爆者)。『広島県現代文学事典』(山本光珠・記)。 | |||||
30 | 2006 | 今村昌平 | いまむら・しょうへい | 79 | 映画監督、脚本家、映画プロデューサー. |
『広島県現代文学事典』(佐藤武・記) | |||||
田原 伯 | たはら
つかさ |
原爆文献研究家。終戦時に朝鮮半島から引き揚げる際、傷ついた被爆者や広島の廃虚を目撃したのが活動の原点に。1968年、今堀誠二広島大教授(当時)らと原爆被災資料広島研究会を結成し、原爆文学や被爆体験記、占領期文献などを網羅した「原爆被災資料総目録」第1~4集を発行。(『中国新聞』) |
生
|
20170510没
84歳 |
資料
年 | 月 | 日 | |
1985 | 04 | 01 | 宇吹暁「蔵書あれこれ」『河図洛書―渓水社10周年記念』(渓水社、1985年4月1日)pp.140-143 |
原爆問題についての私の師の一人であるT(田原)氏との出会いは、広島市内のあるガレージであった。そこには、T氏の管理する原爆関係の本が持ち込まれていた。私は学生時代から平和、原爆問題に関心を持っていた。広島県の歴史の中でも重要なテーマと思い、その関連の本について、卒業後も気をつけていた。しかし、T氏の本の大半は、初めて目にするものであった。その後、T氏は、しばしば「蔵書を前の議論」の機会をつくってくれた。それは、私が、学生時代以来、久しく忘れていたものであった。私の原爆文献漁りが、T氏との出会いを契機に始まった。 | |||
2017 | 05 | 12 | 「田原伯氏死去 原爆文献を調査」『中国新聞』2017.5.12 |
2017 | 05 | 18 | 「悼記 綿密調査 非条理を告発 原爆文献研究家 田原伯さん 10日、84歳で死去」
「9年前に脳出血で倒れ、リハビリを続けたが、第5集の発行という執念は果たせなかった。「お疲れさま」と声を掛けたくなる。ただ、あの圧倒的な仕事ぶりに一度でも触れると、「後は任せて」とたやすく口にできない自分がもどかしい。原爆犠牲者の無念をしっかり継承できているのかどうか。核兵器が廃絶できない人類全体に対し、幻さんが残した宿題は重い。」(編集局長・江種則貴)『中国新聞』2017.5.18 |