『毛沢東研究序説』(今堀誠二著、勁草書房、19660925)
内容
止
『毛沢東研究序説』(今堀誠二著、勁草書房、19660925)
内容
止
資料年表:今堀誠二<作業中>
年月日 | 事項 | 備考 | |
1914 | |||
1027 | 大阪市で誕生 | ||
1947 | |||
0925 | 『北平市民の自治構成』(今堀誠二、文求堂) | G U | |
1952 | |||
0825 | 『広島教育 No.32』(広島県教職員組合事業部) | G | |
教研大会による 今堀誠二 8 | |||
1957 | |||
0725 | 『人類の危機と原水爆禁止運動 第3回原水爆禁止世界大会討議資料 第2分冊』(原水爆禁止日本協議会) | G | |
Ⅲ 原水爆禁止運動 ヒロシマ原水爆禁止世界大会について 今堀誠二 288 第二回原水爆禁止世界大会について 今堀誠二 305 |
G | ||
1959 | |||
0721 | 『原水爆時代 現代史の証言(上)』(今堀誠二、三一書房) | G | |
0801 | 『部落 第11巻第8号 通巻第115号』(部落問題研究所) | G | |
|
|||
1960 | |||
0530 | 『ひろしま随筆 第2号』(ひろしま随筆同人会) | G | |
《随筆指定席》日本料理 今堀誠二 22 | |||
0806 | 『原水爆時代 現代史の証言(下)』(今堀誠二、三一書房) | G | |
1103 | 『かえらぬ鶴』(瀬戸奈々子、白樺社) | G | |
序…今堀誠二 | |||
1961 | |||
1201 | 『ひろしまの河 No.4』(原水爆禁止広島母の会) | G | |
特集 被爆地の原水禁運動はどうあるべきか | |||
1962 | |||
10 | 『歴史評論』 | G | |
今堀誠二「岐路に立つ原水爆禁止運動―核戦争阻止第8回原水爆禁止世界大会を省みて」 | |||
1963 | |||
0925 | 『東洋社会経済史序説』(今堀誠二、柳原書店) | G U | |
1001 | 『思想の科学 No.19 通巻55号』(思想の科学社) | G | |
特集・差別 原水禁運動の思想と行動 今堀誠二 2 |
|||
1964 | |||
0701 | 『真樹 第35巻第7号』(真樹社) | G | |
「幻」 今堀誠二 13 | |||
1965 | |||
0301 | 『世界 第231号』(岩波書店) | G | |
原水禁と被災白書の運動 今堀誠二 186 | |||
0801 | 『現代の眼 6巻8号』(現代評論社) | G | |
ヒロシマ八・六平和大会 今堀誠二 139 | |||
0801 | 『日本 1965.8 第8巻第8号』(講談社) | G | |
選手だけの”平和運動”会 今堀誠二 216 | |||
1201 | 『世界 第241号』(岩波書店) | G | |
被爆白書運動のその後 今堀誠二 117 | |||
1966 | |||
0801 | 『アサヒカメラ 第51巻第8号通巻第400号』(朝日新聞社) | G | |
作品解説 P115〈本誌特写〉「原爆白書」について 1・ヒロシマと私・福島菊次郎 2・原爆ドームの保存問題 今堀誠二 |
|||
0801 | 『広島通信 No.2』(広島県詩人協会) | G | |
被爆の証人〝原爆ドーム〟の保存を 松元寛(広島大学助教授) 河本一郎(広島折鶴の会) 今堀誠二(被爆白書運動推進委員・広島大学教授) |
|||
1967 | |||
0801 | 『放送RCC 第70号 Vol. 7 No.8』(中国放送) | G | |
討論会■平和三団体は何をしてきたか 10 浜井信三・原田東岷・永松初馬・松浦亮・田辺勝・板倉静夫・村上忠敬・今堀誠二 |
|||
0805 | 『原爆ドーム保存運動の中から 爆心地』(広島折鶴の会) | G | |
原爆ドームの保存問題 今堀誠二 71 | G | ||
1968 | |||
0801 | 『ひろしま 平和の歩み』(広島平和文化センター編、広島市刊)<執筆者: 小谷鶴次、今堀誠二、庄野直美> | G | |
1969 | |||
0131 | 『芸備地方史研究 第76号』(芸備地方史研究会) | G | |
広島原爆被災資料の保存をめぐって 今堀誠二 1 |
|||
1970 | |||
0601 | 『広島通信 No.21』(「広島通信」の会) | G | |
中国・アメリカ平和巡礼 今堀誠二 | |||
1972 | |||
0701 | 『潮 第156号』(潮出版社) | G | |
『風化』させられた被爆体験〈てい談〉 日高六郎・今堀誠二・石牟礼道子 | |||
1973 | |||
0801 | 『広島通信 No.40』(「広島通信」の会) | G | |
今堀誠二氏から | |||
1974 | |||
0625 | 『原水爆禁止運動 潮新書』(今堀誠二 著 潮出版社) | G | |
1976 | |||
0715 | 『山田節男追想録』(山田節男追想録刊行委員会) | G | |
今堀誠二(広島大学総合科学部長)「棺を蓋おって事定まる」426 | |||
0801 | 『広島通信 No.53』(「広島通信」の会) | G | |
-国連に赴く広島・長崎両市長にのぞむ- 具体的であれ 今堀誠二 |
|||
1977 | |||
0801 | 『広島新史編修手帖 No.1』(広島市史編修委員会専門部会) | G | |
2.未来への燈台-広島新史の概念 今堀誠二 2 4.座談会 戦後史に何を望むか 6 司会・今堀誠二(広大教授、市史編修委員) |
|||
0806 | 『みたまやすかれ-被爆物故職員三十三回忌追悼』(榎下頼人編、日本銀行広島支店) | G | |
第3部 資料 19 思い出す人々「阿部知二と織田定信」(今堀誠二氏、昭52.9.28) 93 |
|||
1978 | |||
0331 | 『広島市公文書館紀要 第1号』(広島市公文書館) | G | |
中国の原爆観の推移とヒロシマ 1975~1955 今堀誠二 1 | |||
0401 | 『歴史評論 通巻336号』(校倉書房) | G | |
特集・核兵器禁止と歴史学ー国家軍縮特別総会にむけてー 特集によせて 2 ー歴史的考察ー 人類史におけるヒロシマ 今堀誠二 48 |
|||
0701 | 『広島通信 No.58』(「広島通信」の会) | G | |
特集 ヒロシマと地方との連帯性 国連軍縮総会と日本人の思想 今堀誠二 |
|||
0901 | 『平和文化 第13号』(広島平和文化センター) | G | |
広島市民と日中平和友好条約 広島女子大学長 今堀誠二 |
|||
1979 | |||
0101 | 『平和文化 第15号』(広島平和文化センター) | G | |
新春鼎談 出席者(敬称略) 荒木武(広島市長・当財団会長) 今堀誠二(広島女子大学学長) 栗野鳳(広島大学平和科研教授 |
|||
1001 | 『真樹 第50巻第10号』(真樹社) | G | |
川端康成と山本康夫 今堀誠二 15 | |||
1101 | 『中央公論 特大号 第1112号』(中央公論社) | G | |
中国四千年の課題 今堀誠二 212 | |||
1980 | |||
0831 | 今堀誠二『日本学士院賞受賞記念冊』 | G | |
1981 | |||
0401 | 『創立六十周年記念誌』(広島市高等女学校広島市立舟入高等学校同窓会) | G | |
祝辞 広島女子大学学長今堀誠二 | |||
0805 | 『季刊・長崎の証言 12号』(鎌田定夫編、長崎の証言の会) | G | |
広島から長崎へ 石田明・庄野直美・今堀誠二・栗原貞子 89 | |||
1111 | 『中川秋一遺稿集』(中川秋一先生遺稿・追悼文集刊行委員会) | G | |
序 今堀誠二 | |||
1208 | 『軍縮と国際安全保障に関するワークショップ・広島セッション 要約記録』(広島市、広島大学、国際連合大学、広島平和文化センター) | G | |
開会あいさつ 今堀誠二 パルメ委員会招致広島実行委員会委員長 1 原爆の社会的影響に関する概要説明 今掘誠二 広島女子大学学長 11 |
|||
1982 | |||
0220 | 『ヒロシマ・ナガサキの証言’82冬 創刊号』(石田明・浜崎均編、広島・長崎の証言の会) | G | |
巻頭言 今堀誠二 | |||
0715 | 『火幻 第25巻第96号』(火幻短歌会) | G | |
豊田著「広島県短歌史」への読感抄 今堀誠二ほか 41 | |||
0901 | 『真樹 第53巻第9号』 | G | |
短歌への緻密なる考察 今堀誠二 19 | |||
1983 | |||
0601 | 『国際問題 No.279』(日本国際問題研究所) | G | |
書評 今堀誠二 62 | |||
0731 | 『広島通信 No.68 終刊号 ヒロシマの継承』(「広島通信」の会) | G | |
「広島通信」を不滅にしよう 今堀誠二 | |||
0801 | 『証言・戦争と農村-戦争・原爆・農婦たち』(神田三亀男著、日本農業新聞中国・四国支所) | G | |
今堀誠二「日本の問題点を明らかにした書物」283 | |||
1984 | |||
0325 | 『核時代の平和をもとめて』(永井道雄著、国際連合大学) | G | |
A 地域の平和と共通の安全保障を考える B 被爆地・広島で平和を考える 広島・長崎の被爆研究の成果をもとに――89 今堀誠二 |
|||
1001 | 『かけはし 第2号』(YMCA国際平和研究所) | G | |
YMCA国際平和研究所の緊急の任務 特別顧問 今堀誠二(広島女子大学学長) |
|||
1985 | |||
0101 | 『真樹 第56巻第1号 』(真樹社) | G | |
人間の琴線 広島女子大学長 今堀誠二 31 | |||
0220 | 『ヒロシマ・ナガサキの証言’85冬 第13号』(秋月辰一郎・庄野直美編、広島・長崎の証言の会) | G | |
特集 1/ヒロシマ・ナガサキ被爆四十周年-その意味 原爆被爆四十周年への提言 今堀誠二 14 |
|||
0430 | 『河図洛書-渓水社十周年記念』(木村逸司編、溪水社) | G | |
今堀誠二「世界にひろがり得てこそ」 273 | |||
0531 | 『部落解放ひろしま 第2号』(部落解放同盟広島県連合会) | G | |
対談・この人と 部落解放の思想と文化 今堀誠二・中島敏彦 75 | |||
0701 | 『平和文化 第54号』(広島平和文化センター) | G | |
平和文化市民講座 「中国革命の思想」講師-広島女子大学長 今堀誠二 (昭和60年1月21日) |
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0901 | 『けんみん文化 第1巻第3号』(県民センター) | G | |
けんみん・えっせい シルクロードと県民センター 今堀誠二 1 | |||
0920 | 『中国の本質をみつめる』(今堀誠二著、勁草書房) | G | |
1018 | 『海外移住調査研究レポート 広島市博物館資料調査報告書 Ⅴ』(広島市企画調整局文化担当編、広島都市生活研究会) | G | |
今堀誠二「刊行によせて」 | |||
1030 | 『平和を創る』(YMCA国際平和研究所編、勁草書房) | G | |
II 平和を創り出す努力(1)平和運動 原水爆禁止運動の役割と展望 今堀誠二 48 原爆災害と終戦と平和憲法 49 日本の安全保障と核抑止論 51 核抑止論と限定核戦争 57 核廃絶に対する日本国民の責任 61 反核国民運動の発展と挫析 65 核廃絶国民運動の再建 66 |
|||
1030 | 『ヒロシマ・ナガサキの証言’85秋 第16号』(秋月辰一郎・庄野直美編、広島・長崎の証言の会) | G | |
特集 Ⅱ/世界の目=ヒロシマ・ナガサキ-三つの国際会議から 第一回世界平和連帯都市市長会議 核廃絶へ都市は自らを変革する 秋月辰一郎 80 世界平和連帯都市市長会議の意義と課題 今堀誠二 83 |
|||
1986 | |||
0220 | 『広島女子大学文学部紀要 第21号』(広島女子大学) | G | |
今堀誠二 追悼のことば 1 堤正信 为什么研究聚落? 3 故堤正信助教授研究業績目録 5 |
|||
0410 | 『中国現代史の断章』(小林文男著、谷沢書房) | G | |
付録 263 1.満鉄調査部の中国研究―具島兼三郎氏に聞く 265 2.革命前夜の中国農村―今堀誠二氏に聞く 299 |
|||
0701 | 『世界平和連帯都市市長会議 第1回 報告書』(第1回世界平和連帯都市市長会議事務局) | G | |
全体会議(1) 基調報告…45 今堀誠二広島女子大学学長 原爆の社会的影響48 |
|||
0820 | 『ヒロシマ・ナガサキの証言’86夏 第19号』(鎌田定夫・庄野直美編、広島・長崎の証言の会) | G | |
特集/戦争・加害・原爆-中国への旅 ヒロシマ・ナガサキと中国 今堀誠二 16 |
|||
1987 | |||
0331 | 『広島市公文書館紀要 第10号』(広島市公文書館) | G | |
図書館と文書館 今堀誠二 1 | |||
1988 | |||
0501 | 『あるロータリアンの軌跡-平和への道』(白石ロータGリークラブ編・刊) | G | |
今堀誠二氏の提言「国際人道法」について 55 | |||
0901 | 『今堀誠二先生広島女子大学在職期間業務目録』(今堀誠二先生業務目録刊行会) | G | |
0926 | 『中国と私、そしてヒロシマ』(今堀誠二著、溪水社) | G | |
1992 | |||
1009 | 死亡 | ||
1130 | 『原水禁ヒロシマ No.79』(原水爆禁止広島県協議会) | G | |
今堀誠二さんの思い出 松江澄 5 | |||
1993 | |||
0201 | 『北一明 人生夢幻 中国北京展開催記念出品聚花』(北一明創美学研究所) | G | |
Ⅳ 遡源の道―中国上海店点・北京展開催に至る関連コメント 今堀誠二ほか…9 | |||
0331 | 『広島市公文書館紀要 第16号』(広島市公文書館) | G | |
<今堀誠二を偲ぶ>渡辺則文「 今堀誠二運営委員長の逝去を悼む 」 87、瀬戸内寂聴 89 | |||
1020 | 『歴史家の旅』(今堀誠二著、勁草書房) | G | |
1994 | |||
0331 | 『広島市公文書館所蔵資料目録 第18集』(広島市公文書館) | G | |
今堀誠二氏資料 | |||
0710 | 『ヒロシマの青春 私の中の峠三吉』(ひろしまミニコミセンター編、峠三吉記念事業委員会) | G | |
<峠三吉文学資料目録>序文 今堀誠二 137 | |||
1997 | |||
0718 | 『原爆文献を読む 原爆関係書2176冊 中公文庫』(水田九八二郎著、中央公論社) | G | |
34 『原水爆時代-現代史の証言』(上・下)今堀誠二著 157 | |||
1999 | |||
0625 | 『日本原爆論大系 第6巻 核兵器禁止への道Ⅲ』(岩垂弘ほか、日本図書センター) | G | |
世界平和連帯都市市長会議の意義と課題(今堀誠二)101 | |||
2002 | |||
0509 | 『アジア研究半世紀の軌跡 今堀誠二遺稿集』(今堀百合子編・刊) | G | |
2005 | |||
0425 | 『「核」に立ち向かった人びと』(岩垂弘、日本図書センター) | G | |
忘れ得ぬ人びと 三十二人の点描……今堀誠二(広島女子大学学長)ら 207 | |||
2010 | |||
0525 | 『太平洋戦争の時代 写真記録』(日本近代史研究会編、日本ブックエース、日本図書センター(発売)) | G | |
第3編 研究と解説 原水爆時代への証言…(今堀誠二) 6 |
|||
2014 | |||
1221 | 『原爆文学研究 13』(原爆文学研究会、花書院) | G | |
黒川伊織 「今堀誠二『原水爆時代』再読 」38 | |||
2023 | |||
0315 | 『原爆報道の研究』(小池聖一編著、現代史料出版) | G | |
小池聖一「 第11章 原水爆禁止運動と「知識人」-今堀誠二と歴史の創造」 …345 | |||
止
『校長の記録』(今堀友市、培風館刊、19611210)
内容
止
『原水爆禁止運動(潮新書)』(今堀誠二、潮出版社、19740625)
内容<作業中>
頁 | 大会 | 備考 | |
7 | 1 | プロローグ | |
37 | 2 | 被爆者・全国民・全世界との連帯が高まる | |
57 | 3 | 地方原水協の強化と中央および国際組織の空転 | |
85 | 4 | 日本の非核武装化にたちむかうために | |
111 | 5 | 原水禁運動の正しい道と左右の日和見主義 | |
130 | 6 | 戦う平和運動の目標は軍備全廃か冷戦終結か | |
155 | 7 | 帝国主義時代の平和理論と原水爆時代の平和理論 | |
176 | 8 | 社・共両党の激突と大衆の統一への願い | |
192 | 9 | 国民運動の崩壊と再生への四つの芽 | |
232 | 10 | 毛沢東理論からみた日本原水協批判 | |
261 | 核兵器のない世界をめざして | ||
止
原爆補償法の思想(今堀誠二)
『つぐない 原爆補償』(創刊号、19731206)所収
昭和十二年に日中戦争がはじまると、日本の海軍航空隊は中国の主な都市に渡洋爆撃を加えた。それは文字通り、中国のほとんどの都市を、片端から攻撃目標を軍事施設においていたとは言え、一般市民の中からも、少なからぬ犠牲者を出した。世界の世論は、その点て激しく日本を非難し、日本は市民の被害者に対して賠償すべきだという主張が半ば常識として言われていた。とくにアメリカは、ほとんど毎日、日本の外務省に抗議を行った。例えば十一月十日に、日本の爆撃機が南京の軍官学校に攻撃を加えたとき、正門付近で、市民が負傷した。これは無差別爆撃であり、国際法違反だからこのような爆撃を直ちに中止せよ、といったような抗議であった。アメリカ国務省は、ねばり強くあくまで、日本の非を鳴らしてやまなかった。日本は馬耳東風ときめ込んでいたが、世界の良心はいつも中国を是とし、日本を非とする立場をとり続けていた。
私たちが、原爆被災者の国家補償を要求するのは、原爆投下
が無差別爆撃であり、違法な戦争手段だから、これに対する補
償を求めるわけである。そのことは同時に、日本軍が行った違
法な攻撃を反省して、これに対する中国人民の補償要求を支持
するのはもとより、ひいてはすべての戦争において、附随的に
起きざるを得ない。この種の犠牲者の発生を、未然に防ぐこと
を主張するわけで、戦争そのものを、根絶するための具体的な
運動に、ほかならないのである。
日本人は原爆に対して、被害者意識をもつことはあっても、加害者としての反省は皆無に近い。広島・長崎における外国人被爆者は朝鮮人・中国人をはじめとし、世界の各国人を含んでいるが、そうした外国人被爆者の大半は、日本の国策によって日本に連れて来られた人たちである。国家補償をうけるとすれば、アメリカと並んで、日本の責任に帰せられるべきケースが多い。その点でも日本は加害者なのだが、問題はもっと深刻である。
日本は日中戦争以来、到る所で非戦闘員に対し、あらゆる残
虐行為を加えてきた。南京大虐殺は戦時下の「軍事美談」であ
って、「事実」ではないという主張を展開している大もいるが、そうした「軍事美談」が作られたこと自体が、時代の風潮を示す「事実」である。むろん、日本軍だけが、こうした残虐行為
を行なったわけではない。昭和十二年の通州事件では、約三百
人の日本人が強姦され、虐殺されているし、昭和二十年には北
満の開拓地にいた日本の農婦たちが、夫の出征後に、ソ連軍に
よって蹂躙しつくされている。ただこうした事件は、日本軍が
やって来た行為の裏返しであって、当時、兵隊であった私たち
は、アメリカに上陸して女と言わず子供と言わず、皆殺しにせ
よというような教育を、うけていたわけである。われわれはす
べての非戦闘員に対して加えた不法な行為に対し、心から反省
するとともにその被害者に対する補償を行なう決意なしには、
原爆補償を求めることはできないのである。
昭和二十年、日本の都市はつぎつぎに焼き払われた。何十万
という市民が絨毯爆撃のために殺され、数百万人が貴重な富を失なった。こうした一般戦災の被害は、原爆被災と同一視すべ
きではないが、原爆被災のみに補償を要求し、一般戦災への補
償を拒否することは許されない。両者の間にはっきりした相違
かおることは事実だが、原爆補償は戦災補償のうちでもっとも
重要な補償であり、これを突破口にして、戦災補償全体に、運
動の輪をひろげていくことが、将来のねらいとなってしかるべ
きであろう。
広島は軍都を誇り、事実、ハンブルグ以上の防備都市でもあ
った。そこには徹底抗戦の熱意に燃えた四十万の市民が住んで
いた。
アメリカの戦略爆撃はすでに日本の大部分の都市を灰にして
いたから、広島が攻撃を受けるのは時間の問題だったし、全市
民もそれを覚悟していた。そこに普通の爆弾が落されたのだっ
たら、広島は何も言えなかったし、ノー・モア・ヒロシマ運動
もまた起らなかった。原爆という、完全な無差別大量虐殺攻撃
をしかけられたことで、歴史は変わったのである。
原水爆時代は一日も早く終らせればならない。原爆補償法制
定の意義は、その点にかかっているが、同時に、その運動の拡
がりの中から、すべての戦災者の補償が実現されることで、福
祉国家が実現することにも、意味があると言わねばならない。
昭和二十年までの日本は、軍事国家であり、軍閥国家であった。
そのことへの根本的な反省が、補償法の制定となり、補償法に
よって国家が国民生活を保証するようになれば、福祉国家への
脱皮となるわけである。
運動の前途は、きわめて困難であり、成功の可能性は少ない
が、われわれはそれだからこそ、勇往邁進したいと思っている。
歴史を作るというのは、そういうことなのである。(東洋史)
今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)
内容
章 | キーワード(人物・著書・団体など) | 備考 |
3 | ||
バーバラ・レイノルズ | 広島・長崎世界平和巡礼団 | |
アメリカのピッツバーグを訪れたとき、市民の中から原爆被災資料がアメリカに持ち帰られていることが話題にされ、二ユーヨークタイムスがこれをスクープとしてとりあげようとした。事実関係がもう一つはっきりしなかった為に不発に終ったが、アメリカにある資料の返還は、在米の被爆者調査とともに、将来の宿題だと言える。 | ||
ウ・タント | ||
巡礼団はニューヨークの国連本部でウ・タント事務総長に会い、 国連が被災白書を作るように要請。 1966年12月、国連総会はウ総長が「核兵器影響に関する 国連事務総長報告」をまとめるよう、満場一致で決議し、 翌年10月ウ報告は提出。 |
||
この基礎データとなる広島・長崎の被災事実が明らかでなく、例えば死亡者の数なども終戦直後の県警報告78000が採用され、それが今後の災害を推定する基礎数字になっているという有様であるから、全体としてウ・タント報告の信頼度を弱める結果となったことは、まことに残念である。猶、広島・長崎の被爆者には、相当数の中国・朝鮮・東南アジア・ロシア・アメリカ人がいることを付言しておく。 | ||
金井利博 | 中国新聞社論説委員。 | |
1940年代から原爆関係文献の収集を行ない、その方面の開拓者の一人。 早い時期から被災白書の作成を中国新聞の紙上で提唱。 1964年8月、総評社会党系原水禁世界大会に出席、提案。 |
||
談和会 | 広島・山口の大学人で組織する平和のための研究団体 | |
被災白書を具体的なプランにまとめて発表、とくに国勢調査で被災者総数を明らかにして研究上の「分母」となる数字をつかむべきことを、政府に要求するとともに、広く全国民の協力をよびかけた。 | ||
<以下未入力、要作業> | ||
世界平和アピール七人委員会 | ||
愛知揆一 | 文部大臣 | |
佐藤栄作 | 首相 | |
中山 | 文部大臣 | |
原爆被災学術資料標本センター | ||
予算も計上されたが、一部の保守系市議の積極的な妨害工作があって、結局、この予算案は、大蔵省査定を通ったあとで政治的につぶされ、資料館は実らなかった。 | ||
原爆被災資料収集協力委員会 | 日本被団協。日高六郎・大江健三郎氏らの協力 | |
近藤泰夫 | ||
原爆ドーム保存 | ||
広島折鶴の会 | ||
浜井広島市長 | ||
市会内部の保守系議員の妨害にも拘らず、42年8月までに、200万人の寄付者が、計画予算を5割も上廻る6500万円の浄財が寄せ、工事も美事に完成した。 | ||
原爆被災白書推進委員会 | ||
原爆被災白書 をすすめる市民の会 |
||
日本政府による原爆被災白書の作製に関する要望書 | ||
茅誠司 | 原爆被災白書推進委員会委員長 | |
今堀が、文部省在外研究員となって訪米した機会にアメリカ国務省に働きかけたことも契機となって、67年5月、アメリカは返還をほのめかすに到った。 | ||
原爆被災映画返還運動 | ||
談和会 | ||
学術会議 | ||
中国新聞 | 新聞協会賞 | |
朝日新聞 | 「原爆500人の証言-被爆者追跡調査レポート」 | |
NHK広島 | ||
原爆地図の復元運動 | ||
平和文化センター | ||
山崎輿三郎 | ||
原爆被災資料広島研究会 | ||
田原伯 | ||
佐々木雄一郎 | ||
1968年の夏は、原爆被災資料ブームとよばれる程、多くの新資料が再発見された。広島東署がもっていた約二万人分の検視調書をはじめ、被災直後に臨時病院となっていた近郊の学校・公民館・役場などから、当時の日誌などが続々出て来た。広島県動員学徒犠牲者の会は各学校に紹介して、8月6日に各作業場で倒れた学生・生徒の記録をあつめ、「動員学徒誌」(68年5月刊)を出版したが、原爆資料館が小堺吉光氏を中心に、数年の歳月を費してまとめた「広島原爆戦災誌」も、完成を間近にひかえて最後のミガキをかけている。 | ||
今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)
内容
章 | キーワード(人物・著書・団体など) | 備考 |
1 | 別記 | |
2 | ||
仁科芳雄 | ||
都築正男 | ||
学術研究会議 | 日本学術会議の前身 | |
原子爆弾災害調査研究特別委員会 | ||
日映ニュース映画班 | 特別委員会の映画部を担当 | |
原爆記録映画 | ||
GHQ命令 | ||
原子爆弾災害調査報告集 | ||
アメリカは原爆の秘密がソ連にもれることを恐れて、原爆被災資料 の独占に全力をあげた。 |
||
大橋成一 | 臨時野戦病院(宇品の大和紡績)院長 | |
天野重安 | ||
玉川忠太 | ||
アメリカ原子力委員会 | ||
ABCC | Atomic Bomb Casualty Comission(1948) | |
国勢調査(1950年) | 母集団=10万人 | |
レイノルズ | ||
ABCCの調査は、科学的であり、系統的であって、すぐれた成果をあげたが、被災の実態そのものを明らかにして、被爆者の救援に役立てようとする姿勢をもたなかったので、被爆者からはモルモット扱いにするという悲難が絶えなかった。戦争準備のための研究ということもあって、原爆の残虐性をアメリカ市民の目からかくそうという気持が強く、レイノルズ博士の行なった小児への影響がいつまでもオクラになっていたり、胎内被爆による小頭症の調査を発表 しなかったり、その他原爆が恐ろしいものだという印象を与える調査結果は公表をさける傾向があったことは否定できない。 |
||
発表の上ではともかく、ABCCの蓄積した資料はまことにすばらしいもので、これを正しく活用することが、被災の研究にとって大切な条件である。ABCCの年間の研究費は10億円で、広島大学全体の研究費をはるかに上廻っている。 | ||
原爆乙女 | 独立の回復 | |
広島市原爆障害者治療対策協議会 | 1956年4月改組、財団法人広島原爆対策協議会(原対協) | |
原子爆弾後障害研究会 | ||
福祉センター | 「所感文集」 | |
長岡省吾 | ||
原爆資料保存会 | ||
原爆参考資料陳列館 | 1949年9月、市公民館の一室に原爆参考資料陳列館が開設。 | |
平和記念資料館 | 1955年にはと改称、現在の場所に。 | |
専門調査員も居らず、予算は人件費まで、入場料で賄われる等、不備な点が多かった。原爆資料館というのは市民の愛称。 | ||
原子力平和利用展示館 | ||
1958年、原爆資料を迫放して、平和記念資料館を原子力平和利用展示館に変更させようという動きがおこり、マジックハンドが中心にすえられて、遺物や写真は片すみに追いやられたりした。陳列遺物の一半は原爆資料保存会の所有であったから、保存会が強く抵抗して、10年がかりで、旧に帰していった。 | ||
巡回展覧会計画 | 1950年に立てられているが、朝鮮戦争のため、神戸の貿易博に出陳しただけで中止。 | |
要調査(宇吹)『日本貿易産業博覧会”神戸博”会誌』(日本貿易産業博覧会事務局、1950) | ||
広島長崎原爆資料公開展 | 1954年 東京・日赤本社 | |
全国巡回展 | 1967年 朝日新聞社 | |
沖縄 展覧会 | 1967年 | |
大阪 万国博出品 | 失敗 | |
国連本部(ニューヨーク)に展示室を設ける計画 | 失敗 | |
(失敗の)一つの原因は、広島市当局の消極的態度にあるが、資料内容が貧弱なことも原因の一つである。原爆資料館に専門委員会を置き、遺物の科学的・体系的な蒐集に着手することが必要であって、世界の博物館の水準に比較した場合、原爆資料館の内容の貧弱 さは、目を覆うばかりである。 |
||
中野清一・久保良敏・山手茂 | 被爆者の社会科学的調査 | |
日本原水協専門委員会 | 「原水爆被害白書」(1961年) | |
リフトン | R.J.Lifton ”Death in Life”(1967年) | |
渡辺正治・湯崎稔 | 中山村調査 | |
今堀誠二 | 「原水爆時代」(上・下) | |
中国新聞社 | 「広島の記録」(全三冊) | |
広島市 | 新修広島市史」 | |
長岡弘芳 | 「原爆文学史略説」(りいぶる13~15号) | |
広島平和文化センター | 「平和の歩み」 | |
3 | 別記 | |
4 | 別記 |
今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)
内容
章 | キーワード(人物・著書・団体など) | 備考 |
1 | ||
ロベルト・ユンク | ベルリン大学歴史学科出身、 | |
千の太陽よりも明るく | ||
Robert Jungkには広島の災害と、戦後の被爆者の生活史をえがいた「灰墟の光- 甦えるヒロシマ」があるが、その作製のため来広した時、直接会って見聞したときの聴取による。 | ||
遠山茂樹 | 昭和史 | |
西島有厚 | 原爆はなぜ投下されたか | |
広島の災害については、歴史学から見た場合、ほとんど何も解明さ れていないと言っても過言ではない。被災者の数、死亡者の数、原爆孤児の数、原爆乙女や原爆孤老の数、どれ一つとして、概数さえつかめていない。まして家族の欠損がどんな意味をもったか、失われた富はどの位か、被爆者の精神はどんな点に特徴があるか等々、被災の基礎的事実を客観的にとらえようとする努力は、殆んどなされなかった。 |
||
原爆資料館 | ||
ジョン・ハーシー | 「ヒロシマ」 | |
ユンク | 「灰墟の光」 | |
2 | 別記<リンク> | |
3 | 別記<リンク> | |
4 | ||
被災資料の内容は、当時の記録や遺物だけでなく、その後の被爆者のあり方を、体系的に把握するため、聴取・写真・映画などにより、残していくことが大切なので、既存資料をあつめる作業のほかに、価値ある資料を作っていく作業が重要である。 その具体的方法は、原爆被災白書推進委員会が1966年に発表した 「日本政府による原爆被災白書の作製に関する要望書」が、 言わば第一次案と呼ぶべきものである。 学術会議が数回にわたってくりかえしたシンポジウムの報告書は、 いずれもまとめられているが、アンチテーゼに相当するレポート である。学術会議が政府に申入れて、発足も間近い特別委員会(ワーキングーグループ)が、この作業を本格的に始めれば、原案の作製が期待できる。 ここに、私の個人的見解を記してみるつもりであったが、紙幅の都合上割愛する。 いずれにしても、被爆者を含めた市民の積極的な協力と、創造力に富んだ研究者の専門的能力と、政府・県・市・大学等の全面的な支援か必要であって、自主・民主・公開の原則を守り、被爆者の立場に立って構想することが、プラン作製の原則であろう。歴史家の任務はまことに重大である。 |
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『原水爆禁止運動』(今堀誠二、潮出版社、19740625)
目次
第*回大会 | タイトル<初出掲載誌紙> |
プロローグ | |
原水禁運動の発足 | |
杉並アピール | |
見殺しにされた被爆者 | |
被爆者救援運動の発足 | |
1 | 三千二百万人の国民運動の進展 |
<初出掲載誌紙:『歴史学研究』187号(195509)> | |
八月六日の回想 | |
発言の本音 | |
被爆者の生活と意見 | |
科学者の責任 | |
救援運動の出発 | |
基地闘争への賛否 | |
ヒロシマ・アピール | |
歴史学研究会の問題点 | |
歴史をになうもの | |
2 | 被爆者・全国民・全世界との連帯が高まる |
<初出掲載誌紙:『歴史学研究』200号(195610)> | |
世界を動かしたヒロシマ | |
世界の連帯 | |
進む戦争準備 | |
沖縄問題 | |
再軍備への告発 | |
被爆者救援運動との結合 | |
原子力の平和利用と大衆 | |
大衆運動の進め方への反省 | |
3 | 地方原水協の強化と中央および国際組織の空転 |
<初出掲載誌紙:『歴史学研究』211号(195709)> | |
台所までもち込まれた運動 | |
専門家の告発 | |
歴史家は何をすべきか | |
六大陸にひろがった原水禁運動 | |
原水爆戦争体制との対決をうち出す | |
会議は空転する | |
全学連の誤謬 | |
大会決定の成果と不安 | |
問題点のかずかず | |
組織と理論に重大な欠陥 | |
4 | 日本の非核武装化にたちむかうために |
<初出掲載誌紙:『歴史学研究』223号(195709)> | |
岸内閣を助けた原水協 | |
ICBMの評価を誤る | |
欧米で核兵器反対運動高まる | |
平和行進 | |
原爆の加害国化する日本 | |
統一戦線 | |
日本の核武装 | |
空転する討論 | |
中国・朝鮮への差別 | |
運動の進め方への反省 | |
難航した国際会議 | |
実験禁止から核武装反対へ | |
原水協を全国民のものに | |
5 | 原水禁運動の正しい道と左右の日和見主義 |
<初出掲載誌紙:『歴史評論』110号(195910)> | |
原水禁運動のマニフェスト | |
一千万人の平和行進 | |
自民党の妨害工作 | |
安保改定と原水禁運動 | |
大会からの脱退者 | |
左右の日和見主義者 | |
6 | 戦う平和運動の目標は軍備全廃か冷戦終結か |
<初出掲載誌紙:『歴史学研究』246号(196010)> | |
二千二百万人の平和行進 | |
平和の敵は誰か | |
平和運動における二大潮流 | |
人類の導きの星 | |
日本と沖縄での戦いの報告 | |
大会の混乱と成果 | |
軍備全廃か冷戦終結か | |
7 | 帝国主義時代の平和理論と原水爆時代の平和理論 |
<初出掲載誌紙:『歴史学研究』257号(196109)> | |
謀略工作 | |
平和運動における西欧方式とAA方式 | |
AA地域別会議流れる | |
本会議でのかけひき | |
大会決議のおもてうら | |
原水爆時代の平和理論 | |
大衆の平和運動 | |
両派の自己批判と運動の進展 | |
8 | 社・共両党の激突と大衆の統一への願い |
<初出掲載誌紙:『歴史学研究』269号(196210)> | |
矛盾の中で | |
総評まかり通る | |
あらゆる核実験に抗議する問題 | |
核戦争の元凶は誰か | |
幅広い運動か、反帝政治闘争か | |
原水協の「内乱」と統一のエネルギー | |
9 | 国民運動の崩壊と再生への四つの芽 |
<『思想の科学』19号(196310)> | |
宗平協―国民運動をはぐくむもの | |
地方原水協の活動 | |
原水協、国民を無視 | |
大会準備のなかでー国民運動にそむくもの | |
大会のうらおもて―国民運動の崩壊劇 | |
大会懇談会の諸報告―国民運動の新しい芽 | |
すべての地域と職場に原水協をつくろう | |
10 | 毛沢東理論からみた日本原水協批判 |
<初出掲載誌紙:『歴史学研究』299号(196504)> | |
原水禁運動と私 | |
毛沢東の平和理論の問題点 | |
中ソ対立と原水禁運動 | |
民族解放運動との接点 | |
資本主義国の平和運動の意義 | |
統一戦線への整風運動 | |
日本の平和運動の性格 | |
広島の平和運動の性格 | |
原水協はその基本原則で再統一を | |
核兵器のない世界をめざして | |
<『聖教新聞』1973年2月21日~28日> | |
日本の安全はどうして守るのか | |
平和運動のゆくえ | |
新しい平和の条件 | |
国際連合の将来 | |
あとがき | |
『原水爆時代 現代史の証言(下)』(今堀誠二、三一書房、19600806)
章 | 節 | |||
Ⅴ | 崩れぬ平和をかえせ | |||
あるブルジョアの一家 | ||||
三吉の少年時代 | ||||
原爆の日より | ||||
広島日鋼争議 | ||||
平和大会と「われらの詩」 | ||||
朝鮮戦争への抵抗 | ||||
砲声下の原爆詩集 | ||||
平和運動の組織化へ | ||||
美しい生涯と原爆症 | ||||
生きている峠三吉 | ||||
Ⅵ | 朝鮮戦争に抗して | |||
1 | 原爆禁止運動の烽火 | |||
原爆は世界をゆるがす、歴史の暗転期1949年、公安条例の舞台裏、イールズ声明と原子戦準備、平和擁護広島大会、ヒロシマは原子兵器の廃棄を要求する、もえあがっていた市民の願い、婦人運動と原爆理解、青年運動と青年教師、歴史の重み、平和擁護東京大会も原爆禁止を要求、国際的評価について | ||||
2 | ストックホルム・アピール、原爆戦争にうち勝つ | |||
広島平和擁護委員会、牧師・教授も平和委へ、開戦前のSアピール、朝鮮戦争を企てた人、戦時下の言論統制、広島平和委の弱体化、大会を支えるもの、8・6大会の前哨戦、大会の記録、巧妙を極めた非合法集会、共産党の分裂と大会のありかた、平和擁護日本委員会、第三次大戦を防止した8・6大会、枯尾花戦争とトルーマンの原爆使用声明、ワルソー大会と世界平和評議会、平和運動、原爆使用を阻む、朝鮮戦争は天佑か、日本戦没学生記念会、立ち上がった青年団、Sアピール運動掉尾を飾る、立ち上れない労働者、労働者の意識構造、ある詩人のねがい、 | ||||
3 | 流星光底長蛇を逸す | |||
マスコミへの注文、国民運動の目標、全面講和運動、ベルリンアピールをめぐって、即時停戦が必要だったのに、マ元帥の解任、朝鮮停戦交渉の舞台裏、平和運動の良心と責任、レジスタンス、平和の闘士団、署名運動と組織強化、警官包囲下の8・6大会、平和戦線とは何か、平推の消長、単独講和と二挺拳銃の平和記念祭、踏まれてもけられても、情勢判断を誤った平和運動、 | ||||
4 | 冬の旅を行く | |||
Ⅶ | 人命は冷戦より尊い | |||
1 | 原水協のうまれるまで | |||
ビキニ事件、原水爆にたいする国民のいかり、杉並アピール、アピール運動の性格、全国協議会の結成、原水爆禁止運動広島協議会、8・6広島平和大会、広島大会の提案、署名運動の意義、日本原水協の成立、 | ||||
2 | 輝かしい啓蒙-ヒロシマ大会 | |||
10年前と同じ時間に同じ場所で、鳩山首相の立場、アメリカ人の願い、平和を願うものと願わないもの、原爆被害者の生活と意見、アメリカ民衆との共同戦線、学者の役割、大衆のものとなった運動、禁止運動、救援運動に結びつく、基地問題と運動の進め方、歴史をになうもの、組織上での暗影、署名運動および大会の評価、 | ||||
3 | 原水爆戦略との対決をめざして-ナガサキ大会 | |||
世界を動かす原爆禁止の声、参加した人々、国際連帯の花の輪、危機は去らない、沖縄は日本を制圧するための基地でもある、渡辺千恵子氏の発言、被爆者のなやみと喜び、原子力の平和利用、運動のすすめ方、 | ||||
4 | フォールアウトとロケット基地にいどむアジア民族主義-第三回大会 | |||
地方での大会風景、国際的な予備討議、世界の期待をあつめて、演説のかずかず、失敗した議事運営、政治ととりくむ禁止運動、大会運営の問題点、高い指導と全国民の参加を、原水協の苦悩、歴史のうねり、 | ||||
5 | 東西の兵力引離しと日本の非核武装化のために-第四回大会 | |||
総選挙に敗れた原水協、ICBMは世界を変えた、欧米の運動NATOをゆるがす、核武装と国民の批判、核武装した自衛隊と米軍基地、国民生活の圧迫と被爆者の援護、日本人はアジアを見損なっている、運動の進め方の評価と反省、国際会議は成功したか、政治目標を明示した宣言と決議、原水協の強化と世界の命運、 | ||||
6 | 東西融和の促進と安保改訂-第五回大会 | |||
原水爆時代のマニュフェスト、大衆は平和行進と大会を支持した、自民党と右翼のおもわく、大会内部の右翼的偏向、大会における左翼的偏向、東西融和の具体策を欠く、 | ||||
7 | 世界大会への批判と妨害と謀略-一部外国代表の思想と行動 | |||
ヤング卿らの脱退劇、理由は無理に作られた、ものにならなかったスクープ、第三回大会の妨害者、第四回大会の妨害はなぜおこったか、第五回大会の工作者と同調者、大会と朝鮮人 | ||||
Ⅷ | 新紀元は始まる | |||
一発で地球を全滅させる爆弾、戦争の準備をはじめた平和産業、日本と沖縄の核武装はすすむ、安保条約は朝鮮戦争の落とし子、新安保はアメリカの要求、新安保に託する岸・藤山の夢、アジアは新安保に反対する、頂上会談はなぜ流れたか、新安保の国会採決は冷戦激化の謀略、冷戦を終らせる道、ヒロシマの十字架から新紀元は始まる | ||||
あとがき | ||||
上巻は庶民の動きを中心として叙述を進めた。 下巻もそのつもりで草稿をまとめ、朝鮮戦争以後における原爆被災者・青少年・婦人・学者・ジャーナリスト・芸術家(美術・文学・演劇)・労働者・農民・漁民などが、どんな役割を果たしてきたかをあとづけるつもりだった。 |
||||
運動の発展をみつめるとともに、それを妨げる社会の壁を、写し出すことが、ねらいとなっていた。 | ||||
しかし、安保問題の発展につれて、この計画は根本的に変更せねばならなくなった原水爆禁止運動は、国際政治の変転につれて、重大な段階にさしかかり、国内政治の面でも、高度の政治性を帯びるに至ったので、庶民の動きという間接描写の方法では、焦眉の問題に焦点を合せることが、出来なくなってしまった。 | ||||
今からの一、二年間は、原水爆時代を終らせるチャンスであるとともに、原水爆戦争のピンチともいえる。 | ||||
本書が政治技術を中心として、運動の展開をあとづけることにしたのは、正しい政治路線の発見に、ささやかながらも資料を提供したいと考えたからである。 |