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故議員砂原格君に対する追悼演説

故議員砂原格君に対する追悼演説

出典:『第68回国会 衆議院 本会議 第31号 昭和47年5月23日』

  • 002 船田中

    ○議長(船田中君) 御報告いたすことがあります。  議員砂原格君は、去る八日逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。  同君に対する弔詞は、議長において去る二十一日贈呈いたしました。これを朗読いたします。   〔総員起立〕  衆議院は多年憲政のために尽力しさきに逓信委  員長運輸委員長の要職にあたられた議員従三位  勲二等砂原格君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞  をささげます     —————————————  故議員砂原格君に対する追悼演説

  • 003 船田中

    ○議長(船田中君) この際、弔意を表するため、大原亨君から発言を求められております。これを許します。大原亨君。   〔大原亨君登壇〕

  • 004 大原亨

    ○大原亨君 ただいま議長から御報告がありましたとおり、本院議員砂原格君は、去る五月八日逝去されました。まことに痛恨の念にたえません。
     私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、つつしんで哀悼のことばを申し述べたいと存じます。
    (拍手)
     顧みれば、昭和二十年八月六日午前八時十五分、広島市に史上最初の厚子爆弾が投下され、ただ一発のこの原爆によって全市は一瞬の閃光とともに灰じんに帰し、未曽有の惨状が現出いたしたのであります。このとき、砂原さんは爆心地にほど近い自宅において被爆され、建物の下敷きとなり、文字どおり九死に一生を得られたのであります。あなたは口にこそ出されなかったが、あなたのからだは、その後終生放射能の恐怖にさらされることになったのであります。
     砂原さんは、それに加えて宿痾の糖尿病が悪化して、本年初めから東京において入院加療し、さらに三月中旬からは被爆者治療の権威である郷里の広島赤十字病院に移って治療に専心しておられました。しかし、私が、去る三月、病院にお見舞いしたときには、奥さまと差し向かいでおいしそうに食事をしておられ、「もうだいじょうぶだよ」と言って、病人とも思えぬほど元気であり、かたい握手をして別れたのであります。また、最近は、再起を期して病院の廊下で歩行練習もされ、「六月になったら東京に行くんだ」と言われていたとのことであります。その御様子から、私はあなたが登院される日の近いことを信じ、心からお待ちしていたのでありますが、五月八日夜、だれもが思いもかけなかった病状の急変を来たし、奥さまの手を、しっかりと握ったまま、生けるがごとく大往生を遂げられました。主治医は、あなたの生命を断った要因に原爆症があったことを指摘されましたが、私は、原爆の悲惨さに思いをいたし、深い悲しみとともに強い憤りを抱かずにはおられません。  私は、昭和三十三年本院に議席を得て以来十四年余になりますが、この間五回にわたる選挙を通じて砂原さんと相争ってまいりました。互いに党派を別にし、主義主張を異にしておりましたが、庶民的政治家としての砂原さんに対し、心からの尊敬の念を抱き、あなたを相手として戦うことを誇りとしていたのでありまして、いまここに砂原さんの急逝にあい、私は、いまさらのように人生の無常を感ずるとともに、心から痛惜の念を覚えるものであります。(拍手)
     砂原さんは、明治三十五年四月、広島県高田郡白木町の農家にお生まれになりました。高等小学校を卒業後一たん農業に従事されましたが、独立独行の志かたかったあなたは、広島市に出て、幾多の辛酸をなめつつ未来への模索を続けた末、二十二歳にして土木建築事業を興し、事業家としての第一歩を踏み出されました。その後事業は次第に拡大され、やがて砂原組をはじめ各種の分野で幅広く活躍されることになりました。その間、広島商工会議所副会頭にもあげられ、地方産業界の指導的役割りを果たされたのであります。
     砂原さんが地方政界に入られたのは昭和十七年でありました。あなたは、時のいわゆる翼賛選挙に憤慨をし、持ち前の反骨精神から、敢然として広島市会議員の選挙に非推薦で立候補し、初当選をされたのであります。以来、市会議員として、その庶民性と実行力をもって市政の推進にこん身の熱意を傾け、多くの業績をあげられたことは、広島市民周知の事実であります。
     そして、昭和二十年八月六日、突如としてあの原爆に襲われたのであります。戦後十六年間にわたって広島市長であった故濱井信三氏は、その著書「原爆市長」の中で、「焼け跡にもようやく秋の気配が動きはじめた。八月の終りから九月の初めにかけて身に傷を受けず、火傷もしなかった人たちが、次々に倒れていった。被爆直後から市役所に出て来て、さかんに活躍していた市会議員の砂原格氏も姿を見せなくなった」と書いていますが、砂原さんもついに原爆症のため病床に伏すのやむなきに至りました。原爆のため肉親を失い、みずからも脱毛や歯ぐきよりの出血などの重症におちいりましたが、不屈の砂原さんは、よくこれを乗り越えて再び不死鳥のように立ち上がり、地元町内会長、消防団長をはじめ市会議員として、混乱の極にあった市民の救済に挺身をされました。
     翌二十一年には市会議長の要職につかれ、焦土と化した広島市の復興に全力を傾注し、また、昭和二十二年からは県議会にも議席を占めて、戦後の復興と民生の福祉増進に尽くし、県民の信望を大いに集められたのであります。(拍手)
     そして、昭和二十七年十月、第二十五回衆議院議員総選挙が行なわれるや、あなたは、祖国の再建と郷土広島の復興のため努力したいとの決意を固め、激戦の広島県第一区から勇躍立候補し、みごと当選の栄を獲得されたのであります。(拍手)  本院に議席を得られた砂原さんは、長年地方政界においてつちかわれた経験と、あくまでも庶民の生活に根ざした実際的感覚をもって国政に当たられ、その活躍ぶりは独自のものがありました。
     昭和三十五年には、第二次池田内閣の通商産業政務次官に就任をされ、中小企業の振興、特に零細企業について、商工会の制度創設に尽力をされました。昭和三十八年には、同じ池田内閣の厚生政務次官となり、みずからの貴重な体験に基づいて原爆被爆者対策に積極的に取り組み、また当時から、「街に緑を」と提唱するなど、公害問題に対して先駆的な考えを示されました。
     本院においては、運輸、商工、逓信、建設その他各委員会の委員あるいは理事となって、各方面にわたり幅広い活躍をされました。そして、逓信委員長あるいは運輸委員長の要職にもあげられ、よくその重責を果たされたのであります。
     しかしながら、砂原さんの本領は建設行政にありました。特に、通路問題については、実務を知悉した経験とその卓越した実行力をもって貴重な意見を吐き、欠くことのできない権威として、つとに同僚議員の認めるところでありました。「近代的な交通網の整備は、その国の発展の証左であり、国民の生活や生産を向上させる基本である。」これは、道路の重要性がなお実感として受け取られていない当時からの国土開発に対する砂原さんの政治信念であり、砂原さんが政治生命をかけて提唱してこられたところであります。
     昭和四十一年には、国土開発縦貫自動車道建設法の改正案が成立しましたが、砂原さんは、この法律の制定あるいはまた道路建設の実施にあたって、献身的な努力をいたされました。  最近におきましても、本州四国連絡橋公団法案の制定あるいは道路整備五カ年計画の推進に、陰ともひなたともなって努力をされたのでありまして、この間の砂原さんの尽力は高く評価されなければなりません。(拍手)
     それにつけましても、砂原さんが執念を燃やしておられた地元の中国縦貫自動車道あるいは中国横断道が完成半ばにして急逝されたことは、砂原さんにとって大きな心残りであったでありましょう。
     自由民主党にあっても、道路調査会副会長として、また政務調査会審議委員として、党の政策の立案推進に大きな発言力を持っておられたのであります。
     かくして、砂原さんは本院議員に当選すること前後六回、在職十四年八カ月に及び、この間国政に残された功績はまことに偉大なものがあります。
     思うに、砂原さんは真の大衆政治家であり、きっすいの政党政治家でありました。「政治は、足と真心だ。これに尽きる。奉仕の気持ちで三百六十五日、足を使わなければだめだ」、あなたはこれを政治活動の基本姿勢とし、いたずらに理想に走らず、常に大衆に接し、大衆の心の中に政治の方向を求めてこられました。「困った人があったらまず救済の手を差し伸べ、理屈や法律はそのあとについてくればいいではないか」と言いつつ、はだで感じ取った真実を黙々として現実の政治の上に具現してこられたのであります。そして、時にその政治姿勢に向けられる批判も甘受し、断固としてわが道を歩み続けられたのでありますが、私は、そこにこそ大衆政治家砂原格君の真骨頂があったと信ずるものであります。(拍手)
     砂原さんは、裸一貫から身を起こし、あらゆる辛酸をなめながら、不撓不屈の信念を堅持して、独立独歩、よく今日を築かれました。世人は、そのあなたを立志伝中の人、あるいはまた、その風貌も加えて、今太閤と評しております。しかし、私は、砂原さんが、人生の試練に直面するごとに、それをみずからを高めみがくかてとし、大衆を愛する至情に転化し、政治家としての、また人間としての形成に昇華してこられたことにこそ、惜しみない敬意と拍手を送りたいと思うのであります。  あなたの訃報に接し、広島のお宅には次々と弔問客が訪れたのでありますが、その中には、砂原さん直筆の手紙の束を両手にしっかりと握りしめ、ぼう然として涙にくれながら霊前にただずむ一市民の姿も見られたのであります。(拍手)それはまさに、みずからを顧みず寸暇をさいて世のため人のためをはかってこられた砂原さんをいたむにふさわしい情景でありました。
     御年七十歳。あなたの生命のともしびは静かに消えて、平和の象徴としてよみがえった広島の地において永遠の眠りにつかれたのでありますが、その全生涯をただ一筋に大衆にささげられたあなたのみたまは、多くの人たちの胸中に不滅の灯としていつまでもいつまでも燃え続けていくことでありましょう。  現下、内外の情勢は激しい流動を続けております。このときにあたり、庶民の中から生まれ、常に庶民とともにある砂原さんのごとき政党政治家を失いましたことは、返す返すも残念なことであり、まことに大きな損失と申さなければなりません。  人の値打ちは棺をおおうてきまる。いま私は、病床で最後の握手をかわしたときのあなたのがんじょうでしかもあたたかい手のぬくもりをしみじみと感じつつ、砂原さんの人となりをしのび、その功績をたたえ、心から御冥福をお祈りして、追悼のことばといたします。(拍手)

砂原格

砂原格

すなはら・かく 19020403生19720508没 享年70歳 『砂原格追想録』(砂原格先生顕彰会・会長森本亨、1978.5.8)

資料年表:砂原格<作業中

年月日 事項 メモ
1902
0403 誕生
1952
0425 『藤野七蔵氏追懐録』(広島瓦斯)
砂原格「産業界の巨星」445
0920 『川よとわに美しく 詩集』(米田栄作著、第二書房)
砂原格「跋」
1954
0625 『ながれ』(村上哲夫著)
砂原格:信用は真実、真剣 <318~320頁>
1965
0330 『砂原組40年史』
1972
0508 死亡
1974
0120 『高田郡史 下巻』
「砂原格」< 518頁>
1978
0508 『砂原格追想録』(砂原格先生顕彰会・会長森本亨)
1995
0301 『砂原組70年史』

 

渡辺忠雄

渡辺忠雄

わたなべ・ただお 18980715生19800506没 享年81歳 元広島市長(1955~59年)。

資料年表:渡辺忠雄<作業中

年月日
1898
0715 山県郡大朝町生まれ。
1928
** 弁護士開業
1946
0411 ~460622衆議院議員(日本自由党)。公職追放。
1955
0430 広島市長選挙。当選。5月2日就任、1959年5月1日退任。
0730 臨時市議会「原子炉導入については世界の科学的水準が高い国々ではすべて原子炉の平和利用の試験が行われ、実用化の段階に入っているので日本だけ、広島市だけが原子力の平和利用に狭量であってはならない。適当な時期に受け入れる気持ちである」
0806 広島市平和記念式典。平和宣言。
1007 第7回広島建設促進協議会、参院議員会館(東京)で開催。渡辺市長の提案で同協議会規約「平和記念都市建設の促進をはかる」を「産業都市建設の促進をはかる」に変更し、協議会の新発足を決める。
1123  原水爆禁止広島県民協議会発足。代表委員7名の一人にに選ばれる。
 1956
0103 中国新聞紙上で柴田重暉市議会議長と対談。「選挙で公約したように私は従来の『平和都市建設』をさらに進めて『産業都市建設』へすべての施策をもっていきたい」
0215 原水爆禁止広島市協議会の結成大会、広島市公会堂で開催。会長に渡辺市長。
0705 広島市、米から帰国した原爆乙女8人を招き、市社会館で渡辺市長を囲み座談会。
0806 広島市平和記念式典。平和宣言。
0928 渡辺市長の平和宣言に米ハワイ・ホノルル市長から返書。
1012
1015
1022
1956
0207
0806
1959
04 広島市長選挙。落選
1978
0508 『砂原格追想録』
渡辺「情熱に燃え実行型の士」pp.55-57
1980
0506

 

高橋和巳

高橋和巳

たかはし・かずみ 19310831生19710503没 享年39歳 作家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)<投稿>

資料年表:高橋和巳<作業中

年月日 事項 備考
1931
0831 大阪市浪速区で誕生。
1949
07 京都大学文学部(旧制)入学。
1965
1130 『憂鬱なる党派』(河出書房新社)
1967
06 京都大学文学部助教授。
1969
03 大学闘争の最中、学生側を支持して京都大学文学部助教授を辞職
0615 『京大闘争 京大神話の崩壊』(京大新聞社編・京大全共闘協力、三一書房)
「大学問題をめぐって」ティーチイン(大学変革委員会 講師:高橋和巳)
学生H:僕は4回生ですが、今現実的に卒業や大学院入試がせまっていて、どうしようか迷っています。現実の問題として入試中止といった事態も起こりかねない時に、先生や闘争を組んでいる諸君は一体どんな展望を持っているのか。卒業や入試をひかえた者のことも考えてほしい。
1110
1971
0503 死亡。享年39歳。
0705 『文芸臨時増刊 高橋和巳追悼特集号』(河出書房新社)
1130 『高橋和巳作品集3 憂鬱なる党派』(河出書房新社)
1976
 0115  『わが解体』(河出書房選書)
 1978
 1201  笠原伸夫「高橋和巳論 暗鬱志向の原拠」(『現代思想12月号』青土社)

布川弘

布川弘

ぬのかわ・ひろし 1958**生20190927没 享年61歳 山形県生まれ。広島大学大学院総合科学研究科教授。広島市被爆70年史編集研究会で同席。

著書:『“近代都市”広島の形成』(吉川弘文館、2018年)

はじめに(勝部眞人)
1 近代日本の秩序形成(近代日本社会における「外来」と「在来」の構造的な連関;歩兵第四十一連隊の福山転営と市制施行への動き;戦間期国際秩序構想と日本―太平洋問題調査会における論議を中心として;国際平和運動における新渡戸稲造と賀川豊彦の役割)
2 片隅から見た日本の近代(「片隅」に込めた意味;広島藩における海防の端緒と砲術;戦争と神機隊;救民の構想と軍事;武一騒動;成立した新政府への対抗;第五師団の成立;片隅から見た現在)
世界の片隅からの視座(勝部眞人)

 

 

宮本顕治

宮本顕治

みやもと・けんじ 19081017生20070718没 享年98歳 日本共産党中央委員会議長、幹部会委員長、中央委員会議長。

資料年表:宮本顕治<作業中

年月日 事項 出典など
C=『中国新聞』
1908
1017 山口県光市生
1958
0811 広島―東京平和行進と長崎―広島―東京自転車平和リレー、六郷橋(東京の入り口)到着。浅沼稲次郎(社会党)・宮本顕治ら出迎え。 C
08 日本共産党中央委員会書記長
1964
0902 宮本書記長、赤旗紙上でソ連共産党へ、部分核停条約締結について「帝国主義者に譲歩と妥協をあえてした」と反撃。 C
1017 宮本書記長、「中国の核実験は祖国の防衛だけでなく、アジアにおける核戦争を防止するための防衛的な措置」と声明。 C
1967
1213 畑中政春(日本原水協代表理事)・吉田嘉清(事務局長)、山本幸一社会党書記長・宮本共産党書記長をそれぞれ訪れ、被爆者援護法実現への協力申入れ。 C
1968
0611 宮本共産党書記長、山本幸一社会党書記長に「原水禁運動統一問題での協議」を申入れ。山本幸一書記長、了承。12日、社会党、組織の根本に関する問題を政党レベルで話し合うことは政党の干渉になると、協議を断ることを決定。 C
1969
0804 第15回原水禁世界大会本会議開会総会(広島県立体育館)。宮本書記長があいさつ。広島県庁で記者会見。統一問題について語る C
1970
07 日本共産党幹部会委員長
1973
0705 宮本委員長、国会内で記者会見。「今後は社会主義国の核実験でも反対する」。 C
1977
0127 宮本委員長、記者会見。原水禁運動統一問題について総評とのトップ会談で一致点が確認されれば統一は可能と語る。 C
0315 宮本委員長、記者会見。原水禁運動統一問題にとって被爆国際シンポジウムが開かれることしはチャンスと語る。 C
0704 宮本委員長、広島市で記者会見。統一大会反対の動きを批判。 C
1982
07 日本共産中央委員会議長
1984
1217 日ソ共産党の宮本議長とチェルネンコ書記長、モスクワで会談。核廃絶に向け両党の協力をうたった共同声明。 C
1985
0505 『核兵器廃絶への道』(新日本出版社)
2007
0718 宮本顕治没
2015
0501 県立山口図書館、戦後70年企画で山口ゆかりの文学者(宮本元共産党議長ら5人)が戦争体験を題材にした小説など展示。~8月27日。

 

長田三郎

長田三郎

おさだ・さぶろう 生19940205没 享年74 父は長田新。

資料年表:長田三郎<作業中

年月日
誕生
 臨時徴収現役兵として、南支(かつての中国南部)で敗戦を迎え捕虜収容所に収容され復員。
 長野県上田市へ移住
  1983
 0430 「 燕」 長田三郎16
 『反戦のこえ 詩集2』(戦争に反対する詩人の会)
 1985
0213 「歴史をくりかえさないために 」 長田三郎
『信州白樺 長野新特集』第61・62・63号
 1987
第1回  上田平和音楽祭。
 第4回から第6回まで実行委員長
 上田市はやはりすごかった: てんこ盛り人生 (way-nifty.com)
 1990
0101 「ヤシガニ」 長田三郎 18
『稜線 季刊詩誌 No.33 冬』(稜線の会、 1990.1)
 0701  「原爆の子をめぐりて」
 『わだつみのこえ90号』(日本戦没学生記念会)
 1992
0720  『燕 長田三郎反戦反核詩集』(稜線の会)
1994
0205 長田三郎死亡
07 『稜線』51号 長田三郎追悼
0701 長田三郎「『原爆の子』と長田新」
1.だまって死んでしまえるものか
2.映画「ひろしま」
3.広島子どもを守る会
4.8月6日
5.平和の砦を築くために
出典:『占領下の広島 反核・被爆者運動草創期のものがたり』
2000
1001 鈴木初江「わが心友、長田三郎」 4
出典:『火幻』第44巻169号
 2011
 1231  「長田三郎との出会い」
 出典:『君たちに捧げる  『原爆の子』(岩波版) 出版六〇周年記念』(中村巖)
2019
1119 『原爆の子』と長田三郎氏
出典:『原爆の子』と長田三郎氏 (fc2.com)

『原爆の子』の父長田新

『「原爆の子」の父長田新 子どものしあわせと平和のために生涯をささげた日本のペスタロッチー』(川島弘著、本の泉社、2014/08/06)

内容

部章
生い立ちから学生時代まで 13
1 生い立ち 14
日に新たなり 14/父と母 15/小学校時代 18/小石を拾いながら 20/諏訪中学校 21/「寮雨」 23/三輪先生との出会い 24/文武両道 25
2 高等師範学校時代 28
広島高等師範学校へ 28/初めて教壇に立つ 30
3 大学時代 32
京都帝国大学へ 32
日本のペスタロッチー 35
1 澤柳政太郎の片腕として 36
研究助手 36/新しい学校づくり 38/結婚と妻義子 41
2 ペスタロッチー研究にうちこむ 43
再び広島へ 43/ペスタロッチー運動を開始 44/ペスタロッチーにひかれて 45/厳しさと優しさ 新の講義 46
3 川井訓導事件 49
松本の小学校の教室で 49/その後の川井と長田新 51/信念の人 52
4 世界的ペスタロッチー研究者に 53
文学博士に 53/「すべてを他人のためにし おのれには何ものも」 54/山里の子どもたちを見つめて 57/暗い時代へ 59
子どものしあわせと平和を守るために 61
1 戦時中の長田新 62
非国民とののしられ 62
2 原子爆弾 64
運命の日、八月六日 64/五郎父を救う 65/被服廠の看護所で 68/五郎の親孝行 70
3 広島大学の誕生 72
広島文理科大学長に 72/新制広島大学 73/激務からの解放 74
4 『原爆の子』出版 76
新たな決意 76/『原爆の子』たち 77/オート三輪に乗って 79/書きたくない、思い出したくない 81/泣き出してしまう女学生 83/出版を決意 85/岩波書店の勇気 86/プレスコードをのがれる 88/平和のためのバイブルに 89
5 『原爆の子』の反響とその意義 92
海の向こうからも 92/おさえきれぬ感動 93/一生消えない傷を背負って 98/『原爆の子』の意義 101/『原爆の子』の世界へ 102/「原爆の子友の会」 104/消えた体験原稿 107/運命的な偶然 109/ペスタロッチー全集の完成 111
6 平和運動の先頭に立って 114
日本子どもを守る会の結成 114/原爆孤児精神養子運動 117/その死 やはり新も 121/別れを惜しむひとびと 122/『原爆の子』の父を喪って 124/ペスタロッチーのもとへ 125
あとがき いまなぜ長田新か 128
あとがきに添えて 執筆の経験と謝辞 135/資料補足 140/長田新(1887~1961)紹介 147/
【おもな参考資料】 149/長田新 略年譜(長田五郎監修) 152/長田新 主要著作 157

資料年表:広瀬ハマコ

資料年表:広瀬ハマコ<作業中

 年月日
1905
0215 誕生
 1969
 0806  『濱井信三追想録』(濱井信三追想録編集委員会)324
広瀬ハマコ「浜井市長をしのぶ」
1973
0401 『夏雲 広島女学院原爆被災誌』(広島女学院教職員組合)
広瀬ハマコ「発刊に寄せて」
 1974
 1120  『広島女学院と共に 広瀬ハマ子先生文集』( 広瀬院長退任記念事業委員会)
 1976
0501 『平和文化』 創刊号(広島平和文化センター)
広瀬ハマコ「財団は何をなすべきか?」
0715 『山田節男追想録』422 (広瀬ハマコ「身についた紳士道」)
1977
0301 『あやめ』第23号(広島女学院中学生徒会・広報委員会)
大正十一年卒業 広瀬ハマコ「女学生時代を回想して」 20
1978
0101 『平和文化』9号(広島平和文化センター)
新春談論:広瀬ハマコ(広島女学院大学理事長)
1986
1001 『広島女学院と共に百年』(広島女学院同窓会)
「百年誌の刊行にあたって…同窓会名誉会長広瀬ハマコ」
1988
0424
610  『わたしたちの広島女学院』(ユングフラウ代表 今西美代編、溪水社 [渓水社])
 その1 大正時代の広島女学院教育 ゲスト 広瀬ハマコ 3
1989
0730 『山陽路の女たち 続』(広島女性史研究会、ドメス出版)
武田ミキ 「「教育は平等」信念を貫く」
1991
1001 『広島女学院百年史』
「N・B・ゲーンスの広瀬ハマコ宛書簡(昭和2・11・17)」 713
「創立六十五周年記念式並びに院長就任式挨拶」 広瀬ハマコ 744

資料年表:川手健

資料年表:川手健<作業中

年月日
1932
0213 誕生
1942
広島県立第一中学校入学。
1945
0806 学徒動員された東洋工業で被爆。翌日、入市。
 1946
 広島県立忠海中学校(旧制)へ転校。
1947
広島県立忠海中学校4年修了。広島高等学校理科(甲)入学。
 1948
1952
1101  川手健「七年後の廣島」(『新日本文学』)
1953
0625 『原爆に生きて 原爆被害者の手記』(原爆手記編纂委員会、三一書房)
川手健「半年の足跡」=「原爆被害者自身の口から全世界に向って原爆の惨禍と平和の必要を訴えるその意義は大きい。原爆の投下が世界史的な大事件であるなら、その被害者が立上がって原爆の反対を叫ぶこともまさに世界史的な出来事である。このことの重要性についてはまだまだ本当に考えている人は少ない様に思う。」
1954
 0215  『風のように炎のように-峠三吉追悼集』
 1955
0109 川手健「原爆被害者の青年クラブのこと」(『われらのうたの会』第3号)
1960
0428 死亡
 1985
 0428  川手健を語る会。広島県民文化センター。
1995
0806 『川手健を語る』(川手健を語る会編、ウイウド・岡本智恵子)
 2010
 1220 「川手健」(『広島県現代文学事典』<小宮山道夫・記>)