ヨハネ・パウロ二世
よはね・ぱうろ | 19200518生20050402没 | 享年84 | 4月2日(日本時間3日)。1981年2月25日広島訪問。<『教皇訪日公式記録 ヨハネ・パウロⅡ世』主婦の友社、19810402><資料年表:ヨハネ・パウロ二世 > |
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ヨハネ・パウロ二世
よはね・ぱうろ | 19200518生20050402没 | 享年84 | 4月2日(日本時間3日)。1981年2月25日広島訪問。<『教皇訪日公式記録 ヨハネ・パウロⅡ世』主婦の友社、19810402><資料年表:ヨハネ・パウロ二世 > |
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森亘
もり・わたる | 19260110生 20120401没 | 享年86歳 | 元東京大学総長。原爆死没者慰霊等施設基本構想懇談会座長。 |
原爆死没者慰霊等施設基本構想懇談会
昭和60年 | 1985年 | 10月 | 厚生省が原子爆弾被爆者実態調査において、死没者に関する調査を初めて実施 |
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平成2年 | 1990年 | 厚生省が原爆死没者に対する弔意の表し方について検討を開始 | |
平成3年 | 1991年 | 国が原爆死没者慰霊等施設基本構想懇談会を設置 |
出典:祈念館について | 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 (hiro-tsuitokinenkan.go.jp)
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山西義政
やまにし・よしまさ | 19220901生20200401没 | 享年97 | (株)イズミ(広島県広島市、山西泰明社長)創業者。1997年、個人コレクションを中心に泉美術館を開設。 |
資料年表:山西義政<作業中>
年月日 | ||
19220901 | 誕生 | |
19970427 | 泉美術館開館。山西義政の個人コレクションをもとに出発。 | |
20110819 | 写真展「復興の記憶」。~9月19日 。 | |
20180728 | 「ヤミ市から立ち上がった広島商人」<記憶から紡ぐあのころの広島>(『広島市被爆70年史 映像編』) | |
20200401 | 死亡 | |
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久保田訓章
くぼた・のりあき | 生20190331没 | 享年86 | 1973~2017年広島東照宮宮司。名誉宮司。二葉の里歴史の散歩道ブラッシュアップ研究協議会会長。広島・長崎宗教者平和会議に参加。 |
資料年表:久保田訓章<作業中>
年月日 | ||
1996 | ||
0806 | 「序文( 広島県宗教連盟前々理事長・広島東照宮宮司 久保田訓章)」( 『広島県宗教連盟「戦後五〇年」誌-平和と慰霊・追悼の歩み』所収) | |
2004 | ||
0313 | 久保田訓章「「五年後」に感じて…」(『雲雀 第4号 2004.03.13』、広島花幻忌の会) | |
2005 | ||
0416 | 久保田訓章「原民喜「五年後」に感じて」(『わが昭和史 続編 中学入学60周年記念誌』)中学入学60周年記念アカシア41期会「記念誌編集発行委員会」) | |
2009 | ||
0805 | 「原民喜文学碑 境内に建立へ 広島東照宮」(『中国新聞』桑島美帆・記者) | |
2010 | ||
0321 | 「文学碑計画の久保田宮司 記憶 後世に残したい」(『中国新聞』梅原勝己・編集委員) | |
0608 | 「原民喜文学碑 市長が揮強へ 東照宮宮司ら依頼」 (『中国新聞』明知隼二・記者) | |
0726 | 「被爆直後のメモ 一節刻む 原民喜の追憶碑除幕 東照宮」(『中国新聞』新田葉子・記者)<除幕式:20100725> | |
2011 | ||
0931 | (『中国新聞』) | |
2012 | ||
0726 | (『中国新聞』) | |
2013 | ||
0213 | 「 宗派超え平和考える 広島・長崎宗教者会議」(『中国新聞』山本乃輔)<今年で28回目> | |
2014 | ||
0805 | 二葉の里歴史の散歩道ブラッシュアップ研究協議会(7社寺・広島市など)主催行事:7社寺が「平和の灯」(平和公園)から採火した約千本のロウソク点火。今年で3回目。(『中国新聞』20140730、川手寿志) | |
2015 | ||
0309 | ||
0520 | ||
0625 | ||
0804 | ||
0810 | ||
2019 | ||
0331 | 「久保田訓章氏死去」(『中国新聞』0401) | |
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ジョン・ハーシー
ハーシー、ジョン | 19140617生19930324没 | はーしーJohn Hersey | 78 | 広島のルポルタージュ「ヒロシマ」の著者。2002年の広島市の平和宣言(秋葉市長)に著書『ヒロシマ』が取り上げられる。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)。 |
資料年表:ジョン・ハーシー<作業中>
年月日 | ||
19140617 | 誕生 | |
20020806 | 秋葉広島市長、平和宣言で著書『ヒロシマ』に言及。「ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』や**さえも忘れられつつあります」 | |
19930324 | 死亡。享年78歳。 | |
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『河村郷四追想録』(河村郷四追想録編纂委員会、19860315)
内容<作業中>
部 | 著者 | タイトル | |
海塚義郎 | 序にかえて | ||
写真集 | |||
1 | 少年期より青年期へ | ||
2 | マツダと河村さん | ||
3 | 広島テレビと河村さん | ||
4 | スポーツと河村さん | ||
5 | 河村さんと社会活動 | ||
6 | 河村さんへのレクイエム | ||
荒木武 | 教育への熱い想い―河村さんとの語らいの中で | ||
遺族の方々より | |||
栗村良周 | 兄を偲ぶ | ||
松元寛 | 仕事の中に心を見ていた人 | ||
中西忠彦 | 義父河村郷四の思い出 | ||
河村瑠璃<妻> | 追憶 | ||
河村郷四年譜 | |||
あとがき | |||
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資料年表:川本義隆<作業中>
年月日 | 事項 | 備考 |
1974051 | 「脱出生徒の記録(昭和21年春広島一中第2学年のころ記す)」 『ゆうかりの友』(広島県立一中被爆生徒の会) | |
「(1氏名)川本義隆、(2勤務先)広島市役所、3(出身校)、4(被爆当時の学級)第1学年12学級、(住所)広島県佐伯郡大野町****」 pp.39-42 | ||
19840301 | 「講演 (広島平和記念館館長) 川本義隆」(『平和を願う念仏者の集い 第1回-核兵器廃絶へ向けて 記録集(58.7.9)』(浄土真宗本願寺派安芸教区教化推進協議会)) pp.6~11」 | |
19850415 | 「平和を誓う場 資料館 川本義隆」(『子どもたちに平和な未来を―平和への願い第2集―』(生活協同組合ひろしま平和部会)) | |
19860301 | 「ヒロシマを語る 川本義隆 2」(『平和へのねがい 第6号』原水爆禁止西宮市協議会、西宮市編) | |
19860801 | (制作日)被爆者証言ビデオ(広島平和文化センター) | |
20020331 | 肺がんのため広島市中区の病院で死去、69歳。 | |
20090101 | 「被爆体験記」川本義隆ほか(広島平和記念資料館)<広島平和文化センター被爆体験証言者で、証言講話を引退した人のプロフィール・体験記をファイルしたもの(啓発担当の平和学習で紹介していたもの等)> | |
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資料年表:福島菊次郎<作業中>
年月日 | |||
19210315 | 福島菊次郎誕生。 | ||
19610801 | 「被爆者の苦悩みつめる福島菊次郎の写真集「ピカドン』」(『中国新聞(夕刊)』平岡敬・記) | ||
1963 | (写真)ヒロシマみやげをつくるのもひと苦労。福島菊次郎氏撮影。<『「原爆一号」といわれて ちくまぶっくす36』(吉川清、筑摩書房、19810724)所収> | ||
196608 | 福島菊次郎「原爆白書」(『アサヒカメラ』) | ||
19750806 | 福島菊次郎(下関出身のフリーカメラマン)写真展「30年目のゲンバク―放射能遺伝傷害の恐怖」、ギャラリー「アメリア」(東京)で開催。 | C | |
19820701 | 福島菊次郎「ヒバクシャの戦後」<『原爆展 忘れまい、この惨禍』(朝日新聞東京本社企画部 )所収> | ||
19870830 | 『戦争がはじまる 福島菊次郎全仕事集』(福島菊次郎、社会評論社) | ||
19890722 | 写真家福島菊次郎の写真展「天皇の戦争責任とヒロシマ」、広島市で開催(小西のぶ子記念館主催、24日まで)。 | C | |
199508 | 反原発団体「原発いらん!下関の会」主催「反原発写真展」下関市の旧英国領事館で開催。福島菊次郎らの写真。 | C | |
19950921 | 東京都写真美術館(主催・会場)「核―半減期(広島・長崎の写真)」 | ||
19990806 | 原爆・原発・差別などを写した社会派写真家・福島菊次郎の作品を常設展示する写真資料館、下関市内に開館。 | C | |
20110615 | 「被爆者の苦悩みつめる福島菊次郎の写真集「ピカドン』」<『時代と記憶 メディア・朝鮮・ヒロシマ』(平岡敬、影書房)> | ||
20120806 | C | ||
20121110 | C | ||
20130201 | C | ||
20130827 | C | ||
20130901 | C | ||
20141019 | C | ||
20150620 | C | ||
20150708 | C | ||
20150714 | C | ||
20150924 | 福島菊次郎死去 | ||
20150926 | 「反原発・反戦貫く 関係者悼む 福島菊次郎氏が死去」(道免雅良・井上龍太郎) | C | |
20150927 | 「天風録」 | C | |
20150930 | 那須圭子「福島菊次郎さんを悼む」 | C | |
20151001 | 『論』写らなかった戦後 私たちが読み取る番(佐田尾信作・論説主幹) | C | |
20151121 | C | ||
20151223 | C | ||
20170626 | 『ピカドン ある原爆被災者の記録』(福島菊次郎著、復刊ドットコム) | ||
20220710 | 「書評 福島菊次郎」あざなえる記憶」(那須圭子) | C | |
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資料年表:パール・バックとヒロシマ(主な出典『中国新聞』)
年月日 | |
19461120 | 『アジヤの友へ アメリカ人の生活と国民性について』(翻訳者:石川欣一、発行所:毎日新聞社、配給元:日本出版配給株式会社) |
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1949/1/– | 米講演旅行中の広島流川教会の谷本清牧師から近況報告。「ワシントンでメソジスト教会などの協力の下に『広島を世界平和のメッカに』の運動を始めた。パール・バック氏、ジョン・ハーシー氏らの協力も得ている」 |
1949/3/23 | ニューヨークでヒロシマ・ピース・センター協力会が結成。「土曜文学評論」のノーマン・カズンズ主筆、パール・バック氏、スタンレー・ハイ氏(リーダーズ・ダイジェスト主筆)、ハリー・カーン氏(ニューズ・ウィーク主筆)らが中心(「広島原爆とアメリカ人」) |
1951/5/5 | 米の作家パール・バック女史が中国新聞社の創立60周年を祝い祝辞。「広島の記憶はアメリカ民衆の良心から永久に消え去ることはないでしょう。広島という名称は平和をもたらすための私たちのシンボルとなりつつあります」 |
1952/8/6 | 中国新聞を通じ8月6日メッセージ。ノーマン・カズンズ、マービン・グリーン、パール・バック、アルフレッド・パーカー、フロイド・シュモー、エメリー・アンドリュース、ウィリアム・デビン、メアリー・ジョーンズの各氏 |
1952/12/– | 米国整形外科学会からABCCテーラー所長を通じ広島県医師会に、「広島、長崎に原爆症治療班を1年の予定で送りたい。受け入れ態勢はどうか」との非公式問い合わせ。真杉静江さんら東京の作家グループがパール・バック女史を介し故ルーズベルト大統領夫人に働き掛けた結果 |
1955/6/19 | 原水爆禁止世界大会広島準備会がパール・バック女史、ジョン・ハーシー氏、キュリー夫人、アラゴン氏、サルトル氏、郭沫若氏ら70人に大会招請状を発送 |
1955/12/10 | パール・バック、バートランド・ラッセル氏らで構成するスイスの人権アカデミー(本部ジュネーブ=1950年6月発足)が広島、長崎両市へ「原爆被災が平和運動の発端になった」とメダルを贈呈 |
1958/4/11 | 米核政策健全化委員会がニューヨーク・タイムズに著名47人の連名で、「太平洋上の核実験を停止させるためアイゼンハワー大統領に訴願書を提出する。国会議員、編集者、放送機関にも訴える」との意見広告。同委員会は前年11月、作家、牧師、教育者などの有志で結成、ノーマン・カズンズ氏が臨時議長に就任。その後、参加者はルーズベルト夫人、パール・バック女史、仏の作家アルベール・カミュ氏など多彩に |
1965/10/3 | 広島市宇品町の広島「憩いの家」で、「被爆者の集い」1,000回記念祝賀会。参加人員延べ5万3,000人。1964年、パール・バック女史、バートランド・ラッセル博士ら国際的文化人約2,000人をメンバーとする国際協力委員会広島ハウス財団(事務局ニューヨーク)が発足、2カ月に1度の割で被爆者救援の定期便 |
1967/12/23 | ニューヨークの「広島憩いの家国際協力委員会」から広島市宇品町の広島「憩いの家」に被爆者救援金10万円が届く。「憩いの家」設立者のアイラ・モリス夫妻、バートランド・ラッセル卿、パール・バック女史ら |
1973/3/6 | パール・バック女史が米バーモント州ダンビーの自宅で死去。80歳。 |
小説「大地」で知られる米作家でノーベル文学賞受賞者のヒロシマ・ピース・センター運動、精神養子運動などを支援