秦野裕子

秦野裕子

没年月日 読み 享年 備考
19920417 はたの・ひろこ 1952年生。1975年広島大学教育学部心理学科卒業後、原医研資料センターに勤務。広島大学事務官。職場の同僚。

『新研ニュース No.11』(中国新聞労組新研部、1984年3月21日刊)図1

はたの02

はたの02b

遺稿

広島大学原爆原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センタ-の新聞切り抜きの現状と課題

広大原医研 秦野裕子

広島大学原医研原爆被災学術資料センタ-(以下、センター)の新聞切り抜きは、1967年頃から始められた。当初は、地元の中国新聞を中心に、被爆者問題についての主要記事をピックアップしておく程度の収集だった。1975年からは、中国・朝日・毎日・読売・長崎新聞の5紙を対象に、被爆者・被爆問題についての記事を網羅的に収集している。

原爆被爆以後、被爆者・被爆問題は、社会問題として、継続して報道されてきた。被爆者の個人情報から、国・地方自治体による被爆者対策、8月6日を中心にした慰霊行事、原爆ドームに代表される被爆遺跡問題、原爆をテーマにした映画・演劇などの文化活動、平和教育等々、様々な角度から取り上げられ、記事にされている。このような多岐にわたる

報道は、その「間口」の広さから、被爆問題を考えていく上での「入門書」としての役割を担うことができる。反面、新聞報道の性格上、その内容の詳細さなどの点では、いわゆる「第一次資料」には劣る。例えば、被爆者行政の当事者である国・県・市が作成する行政資料、あるいは原水禁団体が発行する原水禁大会資料などとは比較にならない。このようなことから、従来、新聞切り抜きの資料としての価値を低く評価する傾向があった。しかし、新聞記事は、それらの「第一次資料」の「索引」として有効に機能するものである。また、被爆問題は現在も進行中の社会問題であり、今なお日々新たに展開している。これらの新しい情報を得るには、新聞はまさに最適の情報源である。さらに、新聞は、報道記事にとどまらず、連載・企画記事として、「原爆・戦争・平和」について、夏場を中心に積極的に紙面に盛り込み、被爆問題についての世論喚起に大きな役割を果たしてきている。このように、新聞は、被爆問題を考えていく上で必要不可欠な資料である。

さて、広島市では資料センタ-以外にも、原爆問題に関心を持つ機関や図書館などで切り抜きを実施している機関がある。広島市平和文化センター・資料保存会・広島市中央図書館広島資料室・中国新聞社・放射線影響研究所・広島原爆障害対策協議会(原対協)などである。このうち、広島資料室は、1976年3月で収集を中止している。分類・保存については、資料保存会・広島資料室・放影研では内容別の分類はされておらず、切り抜き記事は日付順にスクラップブックに貼付されている。平和文化センター・中国新聞社・原対協では独自の分類表によって分類・整理している。対象にしている新聞は、資料保存会では中国・朝日の2紙、原対協では、各記事毎に、中国・朝日・毎日・読売のうちから適当な1紙を選び、採録するという方法をとっている。他機関では中・朝・毎・読と日経などを対象にしている。資料保存会・広島資料室では、個人が収集した新聞スクラップの寄贈を受け、それをもとに収集を開始している。しかし、これらの個人の資料は掲載紙名・日付などが不明のものが多く、資料としての有効性に欠ける。また、広島資料室以外の機関では、主として内部資料として収集・保存さ れており、一般利用者向けのレファレンスの態勢は整っていない。センターでも、切り抜き開始当時は内部資料として用いられていたが、1975年から系統的な収集が開始され、以来15年にも及ぶ収集によって、切り抜き資料の有用性は次第に高められており、外部からの利用も増加している。さらに、センターでは、切り抜き記事をもとに作成した「年表」を冊子にまとめ、広島市内外に配布するという情報サービスの態勢を整えている。また、後に紹介するように、被爆問題記事は地元のニュースとして、広島版に掲載されることが多い。新聞というマスメディアであっても、地方版となると、配布は県内・市内に限られており、他地域には届きにくい。各新聞社が発行している縮刷版でも、地方版は入手も困難である。このような観点から、センターでは、地元紙のほか朝日・毎日・読売から記事を収集している。加えて、同じ被爆地である長崎市の新聞も取り寄せ、長崎側の情報も収集し、より有用性の高い「資料」となることを目指している。広島市にある国立の機関として、被爆地であるという利点を最大限に生かして情報を細大漏らさず収集し、集まった情報を被爆地だけに閉じこめることのないよう に、他地域にも広く提供していきたい考えている。

以下に、センターの新聞切り抜き業務を紹介し、併せて、今後取り組むべき課題について整理してみようと思う。

-新聞切り抜き資料の紹介-

1.切り抜き資料の形態と分類

該当記事は、半年毎の切り抜き作業実施時にまとめて切り抜かれ、A4またはA3判の台紙に貼付される。台紙には切り抜き記事の掲載年月日・掲載紙名・分類番号が記入される。それらの切り抜きは、テーマによって分類され、バインダーにファイルされる。分類項目及び各項目の切り抜き枚数は、表1の通りである。
分類表は、切り抜き開始当初から便宜的に用いていた分類をもとに、中国新聞社などの分類表を参考に作成したものである。利用者にとって、捜したいテーマに沿って分類されていれば都合が良いが、そういう場合ばかりではない。例えば、昨年1990年韓国大統領の訪日とともに話題になった韓国人原爆犠牲者慰霊碑の記事は、分類表のⅡ-25「朝鮮人被爆者」ではなく、Ⅱ-73慰霊祭・碑に分類されている。また、同年8月に、広島市在住の朱碩氏が「被爆朝鮮人教師の戦後史-歳月よ!アリランよ!」を出版したが、それもⅡ-25ではなくⅡ-83「出版」に分類されている。このように切り抜き記事の多くのものは、複数の分類項目に関連しており、そのうちの1つに分類するのは、無理な面もある。担当者としては、分類に優先順位を付け、それに従っているのだが、利用者には不便で、利用しにくい場合も多いと思う。被爆問題の大きな流れを把握するのに役立つ分類を念頭に、作業を進めたいと考えている。また、6.「利用・検索について」の項で紹介するように、パソコンによる複数の分類番号の入力・検索で、これらの分類の欠点を克服するよう努力している。

2.バインダーを開いてみると・・・
センターの切り抜きに対して、具体的イメージを持っていただくため、バインダーを開いて紹介してみる。例として、Ⅱ-13「遺骨」のバインダーを開き、ファイルされた切り抜き記事の日付・紙名・記事見出しを列挙してみる。
・1990. 8.23 被爆者の遺骨千体眠る?旧陸中国 軍馬焼却炉跡見つかる 似島
・1990. 8.23 似島の元陸軍馬匹検疫所 被爆者1000人の遺骨なお?・・  朝日 広島版
・1990. 8.23 似島の原爆犠牲者遺骨 45年ぶり発掘調査へ 広島市 読売
・1990. 8.23 旧陸軍の焼却炉跡発 被爆者の遺骨1000人分眠る? 長崎
・1990. 8.24 被爆者遺骨調査へ 似島の旧陸軍検疫所跡 毎日 広島版
・1990. 9. 1 原爆犠牲者を発掘 似島で7日から 読売 広島版
・1990. 9. 3 1000人の遺骨埋まる? 7日から発掘調査 似島の陸軍検疫所跡 中国 広島版
・1990. 9. 4 似島の検疫所跡地で遺骨発掘へ準備作業 朝日 広島版
・1990. 9. 7 被爆者1000人の遺骨に「光」 広島市似島で発掘調査   朝日
・1990. 9. 8 骨片など40点発掘 被爆者遺骨調査始まる 中国

このように、見出しを追っていくだけで、被爆から45年を経た1990年の時点でも、被爆問題は決して過去の出来事、解決済みの事ではないことが判る。いわゆる「戦争を知らない世代」の人々でも、被爆問題に取り組もうとすれば、これらの切り抜きの集積から「現在の問題」としてのテーマを見いだすことができる。また、上記の切抜き10件のうち5件は広島版に掲載されたものである。先にも述べたように、原爆問題は、地元のニュースとして、広島版に掲載されることが多い。

3.「被爆問題年表」の作成
センタ-では、新聞記事をもとに、1977年より「被爆問題年表」を作成している。1986年9月からはパソコンによるデータ・ベース化を行なっている。年表は図1のような形式で、M=月、D=日、NEWS=事項、CODE=分類番号、PAPER=掲載紙名・掲載月日がそれぞれ入力される。「年表」は、1月毎にまとめられ、センター発行の冊子「資料調査通信」に収録される。

4.「被爆問題年表」紹介
以下に、「資料調査通信」91号に掲載した今年1月の「被爆問題年表」の一部を紹介する。

1991年
1. 4 中国新聞社、広島都市圏住民意識調査結果を発表。それによると、被爆都市の行動として、46%が「核兵器廃絶の訴え」、37%が「被爆者の援護と被爆者援護法の制定」を指摘。
1. 4 米ネバダ州ラスベガスで、核実験禁止国際集会開催(20カ国の海外代表を含め約1500人参加)。7日からの国連本部での部分的核実験禁止条約改定会議に向けて開催。
1. 5 「広島文学資料 新収資料展」、広島市中央図書館で開催(20日まで)。丸木俊の鉛筆画「峠三吉像」・峠三吉の詩「8月6日」などを展示。
1. 6 「中曽根句碑はいらない!広島連絡協議会」代表者会議、広島市で開催。句碑の撤去を求める署名が1万人に達したことなどを報告。
1. 7 朝日新聞社など、チェルノブイリ原発事故の被災者救援のため「朝日チェルノブイリ救援募金」を開始。被災者の受け入れには、広島県・市、広大原医研などが協力。
1. 8 韓国原爆被害者協会の辛泳洙会長、海部首相の訪韓に関連して声明を発表。日本政府が在韓被爆者援護のための拠出金40億円を一括無条件で支払うよう要求。
1. 9 北海道の江川善次教諭ら、来広し、平和教材作成のため取材を開始。「ヒロシマを語る会」の被爆者原広司の案内で原爆資料館などを見学。
1. 9 広島・長崎両市長、国連の部分的核実験禁止条約改定会議で、世界平和連帯都市市長会議の代表として発言。広島市長、自らの被爆体験を紹介し、核実験の全面禁止を訴え。
1.10 原爆被害者相談所、被爆者手帳交付申請のための被爆証人捜しの1人を公表。
1.10 長崎市長、米ワシントン市のホワイトハウスを訪れ、大統領の長崎訪問を文書で要請。
1.10 日本被団協、米とイラクの外相会談が不調に終ったのを受け、「武力行使はヒロシマ・ナガサキの悲劇につながり絶対反対」との電報を米・イラクなどに打つよう、全都道府県の被団協に要請。
1.10 原水禁国民会議、米・イラク外相会談が不調に終ったのを受け、「広島・長崎に原爆を投下した時と同じ論理が見える」と米を批判する緊急アピールを発表。
1.- 長崎市、北米在住被爆者を対象に実施している渡日治療を、南米在住被爆者にも実施する方針を決定。3月に1人を招請の予定。

以上、少し長くなったが、1991年1月10日までの事項の一部を紹介した。数の多さに驚かれたのではないだろうか。原水禁・平和運動、原爆文学、韓国人被爆者問題、平和教育、被爆証人捜し、平和都市、在米被爆者問題など、多岐にわたる事象が今なお生起している。また、記憶に新しい「湾岸戦争」を懸念する被爆地からの動きや、チェルノブイリ原発のヒバクシャに対するヒロシマからの救済活動など、従来の「被爆問題」の枠を越えた新たな展開も見られる。月別の事項の件数は表2に示した通りである。それによると、1986-1990年の5年間で、年間2000件前後の事項を採録している。このうち、慰霊行事・原水禁大会などが開催される7・8月の合計が、年間の約三分の一を占めている。

5.社説・投書等

社説・投書、コラム、連載記事についても「年表」と同様に、データ・ベース化を実施している。社説・投書・連載については一年分をまとめて「資料調査通信」で紹介している。社説・連載については中国・朝日・毎日・読売・長崎新聞の他、政党紙(自由新報・社会新報・週間民社・公明新聞・赤旗)についても調査し、公明・赤旗については必要記事を切り抜き・保存し、それ以外のものは原紙で保存している。さらに、広島・長崎以外の地域での「原爆報道」について探るため、1986年より国会図書館所蔵の全国主要地方紙50紙を対象に、7.8月掲載の社説・連載の調査を実施している。1986-1990年に掲載された連載記事の件数は表3に示す通りである。

6.利用・検索について

以上、紹介してきたように、資料センタ-の新聞切り抜きは、切り抜きファイルとパソコン入力データの二本立てで整理されている。ある特定のテーマについて調べる場合はファイルの利用が適しており、「年表」では時系列を追って被爆問題全般について概観できる。また、入力データでは、パソコン機能を利用した検索ができる。「年表」の事項には、3つの分類番号が与えられており、実際の切り抜きファイルへの分類は第1番目の分類番号によって分類されているが、パソコンでは第2番目、3番目の分類番号の事項も検索できる。また、事項の中に含まれる単語=キイワードでの検索もできる。複数のキイワードの組合せ、あるいは分類番号とキイワードとの組合せも可能である。例えば、Ⅱ-102「映画・演劇」とキイワード「黒い雨」を組み合わせると、映画「黒い雨」に関する事項を検索できる。このようにパソコン機能を利用すれば、従来のテーマ別分類の欠陥を補うことができる。但し、それらの事項を掲載した切り抜き記事を見ようとすれば、第1番目の分類番号と、年月日によって、切り抜きファイルから捜し出さねばならない。第2・3分類で検索した場合、あるいは分類番号と キイワードの組合せなどで検索した場合には、必ずしも同一分類番号のファイルに分類されていないこともあるので、現状では実際の記事を捜し出す作業が煩雑になるという欠点がある。

7.「資料調査通信」について

「資料調査通信」は1981年8月に創刊され、センターで受け入れた文献・図書資料と、「被爆問題年表」を中心に紹介している。新聞関係では、先に紹介した社説・投書、連載記事の他に、新聞記事ならではの今日的な話題を取り上げて、「トピック」として紹介している。例えば、「国連軍縮週間」(1981年10月号掲載)・「『老人保健法』と原爆医療法」(1981年12月号)・「反核・軍縮の決議・意見書・宣言を採択した途方議会一覧」(1882年3月号)・「ビキニ被災30周年-新聞記事によるビキニデーの変遷」(1984年3月号-5月号)・「厚生省の被爆者実態調査結果の報道」(1987年5月号)・「新聞記事による被爆韓国人・朝鮮人問題年表」(1990年2・3・4月号-7月号)などである。「通信」は、原則として毎月発行され、広島市内・外の120余の関係機関・個人に送付している。
-今後の課題-

1.資料整理に関して
「被爆問題年表」のパソコン入力は、1982年まで完了している。さらに、1977-1981年(「年表」は作成済み)については逐次入力していく予定である。1976年以前については、「年表」の作成から取り組まねばならない。センター所蔵の1967-1976年分の切り抜き枚数は約1万枚に上り、これらを年表化していく作業はかなりの人手と時間を要することから、現在まだ未着手の状態である。しかし、現在の資料を生かすためにも、今後はさらに過去にさかのぼって資料を整理していくことが大きな課題である。
次にそれらの資料の検索システムについても改善の余地がある。6.「利用・検索について」の項で言及したように、現在のシステムでは、入力デ-タと切り抜きファイルが必ずしもスムーズに対応しない場合がある。これに関しては、現在開発の進んでいる光ディスクの利用で、かなりの改善が期待できる。光ディスクに限らず、飛躍的に進歩している情報管理システムに対して、迅速に対応していく態勢を整えることも大きな課題として挙げられる。
また、切り抜きファイルは新聞記事を切り抜き、台紙に貼付したもので、台紙で補強しているため強度の面では現在にところ、十分使用に耐え得る。しかし、新聞紙は劣悪な紙質の再生紙であることから、長期にわたる保存は難しい。従って、将来的には切り抜きのマイクロ・フィルム化などの対策が必要となってくる。

2.利用面での改善
資料センタ-では、これまでのところ、一般の図書館のようなレファレンスやコピーサービスといったサービスシステムが確立されていないという状態であった。しかし、センターの設立の当たっては、被爆者・市民らの「広島に原爆被災の資料センタ-を」との世論が大きな役割を果たしたという経緯があり、センターとしては、これらの被爆者・市民の声に積極的に応えて行かねばならない立場にある。また、被爆問題の社会性という側面から、センター所蔵の資料は、大学内だけでなく、広く一般に活用されるものである。現在でも、6月から8月にかけて、マスコミ関係者、一般の研究者・学生など多数に利用されているが、今後はさらに、被爆地からの情報発信の場として、資料閲覧スペースの整備、コピーサービス・システムの確立などが望まれる。また、入力データについて、パソコンネットワークを利用すれば、より広範囲に手軽に情報の提供が行えることになる。このような機器の導入も併せて検討している。

[中略]

原爆遺跡年表
(原爆ドーム)
58 06 - 広島市が総理府などに依頼した観光診断の報告書がまとまる。それによると、原爆ドームは永久保存すべきと言明。
60 12 01 日本原水協主催の「原水爆禁止、被爆者激励大会」で、広島県・市原水協が原爆ドーム取り壊し反対の緊急動議を提出し、満場一致で採択。
60 12 02 日本原水協代表、原爆ドーム保存を広島市に要請。
61 08 - 建築学の京大名誉教授近藤泰夫、原爆ドームについて緊急に調査・補強工事をすべきであると警告。
63 10 - 広島商工会議所、同会議所新築工事に伴う原爆ドームへの影響調査を広大工学部に依頼。
64 04 11 広島市、原爆ドームが風化現象によって自然崩壊の危険が強いと、ドーム西側の民家1戸に立ち退きを指示。
64 06 - 丹下健三東大工学部教授、来広し、原爆ドームの保存策を考えて欲しいとコメント。
64 07 13 映画監督市川昆ら、東京オリンピックの記録映画撮影のため来広。国内でのトップシーンに原爆ドームを使うことを計画。
64 07 21 原爆ドームの存廃をテーマにしたラジオドラマ「ドームの歌」(NHK広島放送局製作)、放送。
64 12 22 社会・共産党系など11の平和団体代表、浜井広島市長に原爆ドームの永久保存を要請(分裂以来初の共同行動)。市長、保存の意向を表明。
64 44 26 広島市原水協、原爆ドームを永久保存すべきとの方針を決定。
65 01 01 広島折鶴の会、原爆ドーム保存募金運動を開始(15日まで)。
65 01 06 広島折鶴の会、原爆ドーム保存募金と署名簿を広島市長に提出。
65 02 11 広島市、原爆ドーム保存調査費100万円を計上。
65 03 29 京大名誉教授近藤泰夫、広島市長に、原爆ドーム保存を要請する要望書を提出。要望書は湯川秀樹ら8人の連名。
65 07 02 広島市、広大工学部に依頼して原爆ドームの基礎調査を実施。
65 08 06 テレビ番組「現代の映像“ドームの20年”」(NHK)、放送。
65 09 - ソ連の子供たちから、原爆ドーム保存を訴える手紙が広島市長に届く。
65 11 15 広大工学部佐藤重夫教授、原爆ドームは補強すれば保存できるとの中間報告を発表。
66 07 11 広島市議会、「原爆ドーム保存の要望」を満場一致で決議。
66 07 20 「原爆資料保存会」、広島市に、原爆ドーム保存募金約7万円を寄贈。
66 07 24 広島市被団協(田辺勝理事長)、広島市での被爆者集会で、原爆ドームは市費で永久保存の方策をとるよう要求する方針を決定。
66 07 - 広島市、原爆ドームを一般からの募金で保存することを検討中。
66 08 01 広島市、原爆ドームを保存し、工事費4000万円を募金でまかなうことを決定。6 08 02 高梁市の老人グループ、中国新聞社に原爆ドーム保存募金を寄託。
66 08 06 広島市、「原爆ドーム保存の訴え」を発表し、募金活動を開始。原爆ドーム保存募金事務局を設置。
66 08 16 広島市議会の共産党議員団、原爆ドームを市費で保存するよう広島市に申し入れ。
66 08 17 広島市長、市議会各派代表者会議で、原爆ドームの保存募金を決めた経緯について説明。
66 08 17 広島市議会で、市が決めた原爆ドーム保存募金について、議会側に説明がなかったなどの批判が続出。このため募金要領なども未定のまま。
66 08 22 女優吉永小百合ら、広島市に原爆ドーム保存募金を寄贈。
66 08 - 「広島折鶴の会」、東京で開催中の総評定期大会に、原爆ドーム保存募金に協力を要請するメッセージを送付。
66 08 - 広島市の原爆ドーム保存事務局の体制が整わず、募金体制が足踏み。
66 09 - 9月広島市議会で、原爆ドーム保存募金問題について論議されず、募金活動進まず。
66 10 06 広島市議会の各派代表者会議で、原爆ドーム保存募金に対する結論持ち越し。
66 10 17 インドの国際法学者パール博士からの原爆ドーム保存募金が、広島市に届く。
66 10 21 広島市長、11月1日から原爆ドーム保存募金を実施すると発表。
66 10 28 広島市議会、原爆ドームを文化財保護法による国の史跡指定を受け、永久に保存する運動を進めることを決議。
66 10 - 広島市、原爆ドーム保存募金への協力を呼びかける英文の趣意書を、国内に先立ち、26カ国に発送。
66 10 - 原爆ドーム保存募金として103件・86万円余が寄せられる。
66 11 01 広島市の原爆ドーム保存募金、開始。67年2月末まで、目標額4000万円。
66 11 05 総評、原爆ドーム保存募金について、広島市長らと協議。1000万円の募金を約束。
66 11 07 実践倫理宏正会、原爆ドーム保存募金に100万円を寄付。
66 11 11 原爆ドーム保存の街頭募金スタンド、市役所など4ヵ所に設置。
66 11 13 原水禁国民会議の代表、インドでの「戦争の危険に反対する国際会議」で原爆ドーム保存募金への協力を呼びかけ。
66 11 14 自民党県連、原爆ドーム保存募金に10万円を寄付。自民党県議団48人も一人1000円ずつ募金。
66 11 21 米のヒロシマ・ピースセンター協力会から、原爆ドーム保存募金18万円が届く。海外からの募金第一号。
66 11 22 世界平和アピール七人委員会、建設相に原爆ドーム保存募金への政府の協力を要請。
66 11 25 広島市で開催中の世界連邦西日本大会で、原爆ドーム保存募金への協力を付帯決議。
66 11 25 呉市の呉港高校生徒会、原爆ドーム保存募金に協力。この他、油木町の中学生、呉商業高校生徒、賀茂郡入野中学校生徒・島根県大和中学校生徒、船越小学校生徒、安佐郡原小学校生徒、尾道工業高校、三原東高校生徒らも協力。
66 11 28 広島市、自民・社会・民社・公明等150団体を招いて、原爆ドーム保存募金の趣旨説明をし、協力を要請。
66 12 03 日本原水協、原爆ドーム保存募金運動に積極的に参加することを決定。
66 12 06 日本原水協代表、広島市長に、原爆ドーム保存募金運動への協力を申し入れ。
66 12 09 社会党、党大会で、原爆ドーム保存決議を満場一致で採択。
66 12 19 中国新聞社、原爆ドーム保存募金に金一封を寄付。
66 12 - 原爆ドーム保存募金に、497件500万円余が寄せられる。
66 12 - 広島市、国からの公園整備補助を断念し、原爆ドーム保存の補修費を、全額募金で集めることを決定。
67 01 27 中国国税職員組合、原爆ドーム保存募金に寄金(約9万円)。
67 01 30 広島市長ら、原爆ドーム保存の街頭募金を実施(1時間で約3万円)。
67 01 - 元NHK会長、英紙タイムズに、原爆ドーム保存募金への協力を要請。
67 02 13 広島市長、上京し、平和アピール7人委員会に、ドーム保存募金への協力を再要請。
67 02 19 広島市のボーイスカウト・被爆者団体など(130人)、ドーム保存の街頭募金を実施(23万円余)。広島市長も参加。
67 02 25 島根大学平和委員会など、ドーム保存の街頭募金を実施。
67 02 25 広島市長、上京し、都内で、ドーム保存の街頭募金を実施(27日まで)。43万円余が集まる。
67 02 26 ドーム保存募金、2000件、1300万円。
67 02 27 広島市、2月末で終了する予定だったドーム保存募金を、目標額の4000万円が集まるまで延期することを決定。
67 02 28 広島市、ドーム保存募金を集計。2680件、1666万円余。
67 02 - 東京都の会社員、ドーム保存のための社内募金を実施 。
67 02 - 社会奉仕グループ「広島国際青少年協会」、ドーム保存の街頭募金を毎日実施(3月2日までで、募金額90万円を越える)。
67 02 - ドーム保存募金、低調。2月末までの目標額4000万円に対して、現在高は1000件、800万円。
67 02 - 原爆ドーム保存募金に、連日100万円以上の寄付が届く。
67 03 02 広島県婦協、ドーム募金65万円を広島市に寄付。この他、国泰寺高校・高田郡の老人クラブ・安佐郡の児玉病院などからも寄付。
67 03 03 広島市、市議会に、原爆ドーム保存第一期分補強工事費3000万円を追加提案。
67 03 03 広島市、原爆ドーム保存のための第一期補強工事費3000万円を広島市議会に提案。
67 03 05 尾道ロータリークラブ会長、ドーム保存募金に10万円を寄付。
67 03 05 府中市の青年ら、同市内で、ドーム保存の街頭募金を実施。
67 03 06 原爆ドーム保存募金、3000万円を突破。
67 03 08 広島県知事、県議会で、ドーム保存募金に対して、募金運動の成功を念願するとの態度を表明。積極的関与の考えは無し。
67 03 08 岩国市東小学校生徒ら、ドーム保存募金に寄付。この他、賀茂郡の酒造会社・御調中学校生徒・三次市十日市小学校生徒・竹原市竹原中学校生徒・山県郡の殿賀小学校生徒・世羅郡の西大田中学校生徒・賀茂郡の高屋中学校生徒らも。
67 03 09 広島市、ドーム保存の補強工事を前に、接着剤の注入テストを実施。建設省建築研究所部長ら、視察。
67 03 11 テレビタレント永井智雄ら、東京で、ドーム保存の街頭募金を実施(4万6千円余)。
67 03 12 広島県原水協・県被団協など、平和記念公園で、ドーム保存の街頭募金を実施(1万7千円)。
67 03 13 原爆ドーム募金、目標の4000万円を達成。14日、募金を終了。
67 03 14 浜井広島市長、原爆ドーム募金が目標の4000万円に達したので募金を終了すると発表(7364件、4025万円)。
67 03 - 松江市、原爆ドーム保存募金に協力し、市民に一人一円募金を呼びかけ。
67 03 - 国会議員の一部、原爆ドーム保存募金に協力することを決定。
67 08 05 原爆ドーム保存工事、完成し、完工式開催(山田広島市長ら約500人参加)。
67 08 05 広島市の原爆ドーム補強工事の完成式、開催(山田広島市長ら、約500人参列)。全国からの募金額は668万円(目標額4000万円)。
68 12 02 広島市、原爆ドーム保存募金運動の母体となった「原爆ドーム保存協力会」(会長、山本広島商工会議所会頭)を解散することを決定。
70 04 05 原爆ドームの設計者である故ヤン・レツルの血縁者から、ドームの写真を送ってほしいとの手紙が広島折鶴の会に届く。
72 08 - 広島市の藤本為吉、原爆ドームの噴水口の人面像を保管。
75 08 05 原爆ドーム(旧産業奨励館)、建設以来60年を迎える。85 07 - 岡山大学近藤義郎教授、原爆ドームを国の史跡として保存するよう呼びかけ。
86 02 - 日本考古学協会、原爆ドームを国の特別史跡に指定するよう求める運動を開始。100団体に賛同署名を求める文書を送付。
86 03 08 広島折り鶴の会、日本考古学協会の原爆ドームの特別史跡指定運動に呼応して、広島市で署名運動を開始。
87 01 22 広島市、原爆ドームを20年ぶりに補修することを決定。
87 07 11 「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」、原爆ドームの保存調査を開始。
87 11 04 「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」、一部補修の必要があるとの調査結果を発表。
88 01 20 「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」、原爆ドーム補修工事の工法などを決定。
88 03 - 外務省、日本が批准の準備をしている「世界の文化遺産・自然遺産保護条約保護条約」の指定遺産として原爆ドームを検討中。
88 08 - 「広島折鶴の会」、原爆ドームの設計者ヤン・レツルのめいに被爆写真集などを寄贈。
88 10 06 広島市、1989年秋に原爆ドーム補修工事を実施することを決定。補修費用を全国募金で調達することを検討中。

(原爆遺跡)
69 01 17 広島市の堀川町の久保田本店の煙突、取り壊し工事、開始。煙突上部は広島平和記念資料館に保存。
69 03 - 広島市の「縮景園」に薬草園、開園。被爆したエノキも同園で保存。
70 06 - 広島市教委、基町地区の再開発で破壊される恐れのある旧陸軍輜重隊倉庫・陸軍病院門柱などを、保存するよう広島市に要請。
71 01 25 広島市の住友銀行広島支店、老朽化で取り壊し工事を開始。同支店の「死の人影」は、切り取られて広島平和記念資料館に移設。
71 12 - 広島市基町で、旧護国神社の鳥居の礎石の1つを発見。
72 02 - 広島郵政局局舎(昭和8年建設、広島市東白島町)、建て替えの検討を開始。
72 09 - 旧被服支廠(出汐町)の赤レンガべい、原爆資料館に移設。
73 03 13 御幸橋(昭和5年建設)、取り壊し工事開始。
73 03 - 常盤橋(昭和2年建設)、取り壊し工事開始。
73 04 - 中国郵政局の建て替えで、同局の被爆アオギリ、広島平和記念公園に移植。
73 05 11 相生橋(昭和7年建設)の架け替え、決定。
73 07 30 元安橋、欄干の親柱・石灯ろうなどが欠落したまま放置される。
74 02 - 山陽記念館(昭和9年建設)、荒れ放題のまま放置され、改築の見通しも立たず。
74 07 - 旧燃料会館(大正年間に建設、中島町平和記念公園内)、老朽化のため取り壊しが決定。
76 01 - 旧陸軍被服倉庫、周辺住宅の除去で全容を現し、存廃についての論議が始まる。
76 04 30 基町住民による「基町明治会」、旧陸軍被服倉庫と柳の木の保存を、広島市に要請。
76 06 23 広島市、旧陸軍被服倉庫の保存問題について検討を開始。
76 06 - 広島県被団協(森滝市郎理事長)、旧陸軍被服倉庫の保存運動に乗り出すことを決定。
76 07 - 映画監督楠木徳男ら、旧陸軍被服倉庫を記録する映画の撮影を開始。
76 09 - 広島市、市営アパート建設の計画を練り直し、基町大クスの木の保存を決定。
76 09 - 広島逓信病院の旧病棟(昭和10年建設、東白島町)の取り壊し、開始。
77 01 13 広島市、旧陸軍被服倉庫の撤去を決定。「被爆当時と外形が異なり被爆の惨状を残す建物としての保存は適当でない」との見解。
77 04 - 広島城公園のユーカリ(樹齢80年)、異常寒波で葉枯れ。
77 08 06 舟入公園の老松3本(樹齢60ー70年)、護岸工事のため切り倒し。
77 10 12 相生橋の架け買え工事、開始。
77 11 - 広島市、相生橋の親柱を保存することを決定。
78 07 - 広島地方貯金局、移転に伴い、取り壊しが確定。
78 04 - 広島市役所本庁舎外壁のケロイドの塗り替え工事、開始。
79 04 - 広島市、原爆遺跡選定会議を設置。
78 06 01 旧陸軍被服倉庫の取り壊し、開始。
79 01 - 広島市基町太田川沿いの大エノキ(樹齢約100年)、河川改修工事のため切り倒し。一部は原爆資料館で保存。
79 06 - 広島市立基町小学校児童ら、基町本川沿いのエノキの保存運動を開始。
79 09 17 広島市の「原爆遺跡選定会議」、初会合(原田東岷・庄野直美ら市民代表14人出席)。
79 10 16 広島市の原爆遺跡選定会議、原爆遺跡説明板設置予定地7ヵ所を選定(島病院・広島駅・万代橋・御幸橋など)。
80 01 - 旧被服廠(出汐町)の保存検討中。
80 01 28 原爆遺跡選定会議、「原爆遺跡」として説明板を設する10ヵ所を最終決定(島病院・旧革屋町・広島駅・元安橋・旧中国軍管区司令部・広島赤十字病院・広島大学本部・袋町小学校・原爆ドーム・市役所)。
80 06 10 広島市、架け替え工事中の相生橋のデザイン募集を開始(130点が応募、一席作品は該当無し)。
80 08 08 広島市が、似島に、レクリエーション施設を建設する計画を進めていることが判明。
80 08 20 広島県原水協、広島市に、似島の原爆遺跡保存を要望。
80 09 - 自治体問題研究所・広島研究会、広島市の似島へのレクリエーション施設建設計画について批判。
80 09 - 相生橋の記録映画「生まれ変わる相生橋」(中国地方建設局製作)、完成。
80 09 05 公明党広島県本部など、広島市の似島へのレクリエーション施設建設計画に対して、充分な事前調査を広島市に要望。
80 09 09 社会党広島市議団など、似島のレクリエーション施設建設予定地を視察。
80 09 15 平和を語る青年の集い、似島の原爆遺跡などを見学。
80 12 02 広島市、市役所本庁舎の建て替え計画で、新庁舎のデザインをコンペ方式で採用することを決定。
81 01 27 広島市、「原爆被災説明板」第1号を設置し、原爆ドーム前で除幕式(広島市長ら約50人参加)。
81 04 23 広島市、新庁舎の入選設計を決定。原爆遺跡として玄関石段などを保存することを決定。
81 06 25 新庄の宮神社のクスノキの枝、切り落とし。
81 07 25 旧相生橋の橋げたの一部、被爆資料として広島原爆資料館で展示。
81 11 20 広島市、原爆被災説明板を新たに10ヵ所設置することを決定(1980年に続く第2弾)。
81 11 21 元安橋の欄干の一部、元安川左岸で36年ぶりに発掘。
81 12 28 万代橋の架け替え工事、終了。旧橋の親柱を橋のたもとに保存。
81 12 19 相生橋の新橋のデザイン、決定。
82 01 - 袋町小学校の校舎(大正11年建設)の壁の塗り替え、実施。
82 02 - フコク生命ビル(昭和11年建設)の取り壊し、開始。
82 04 - 旧広島中電話局の庁舎(昭和3年建設)の取り壊し、開始。電通遺族会、被爆タイルの保存・慰霊碑建立などを要望。
82 05 - 広島市の矢野公民館、旧広島中電話局の被爆タイルを用いて平和教育活動を計画。中国電通局・電通遺族会も協力。
82 06 23 中国電通局、旧広島中電話局の跡地に、被爆タイルを用いて慰霊碑を建立することを決定。
82 07 08 旧広島中電話局の被爆タイル、広島原爆資料館に寄贈される。
82 08 04 相生橋の平和記念公園に通じる連絡橋の架け替え工事が終了し、開通。
82 09 - 広島市、旧陸軍糧秣支廠(明治44年建設、宇品)を郷土資料館として保存することを決定。
82 09 11 広島市教委、解体修理中の広島東照宮(1648年建立、二葉の里)について、市民向け説明会を開催。
82 09 18 「似島平和遺跡を保存する会」、似島の原爆遺跡の保存などを広島市に要望。
83 02 03 広島市の新庁舎建設に伴い、庁舎の取り壊し作業開始。
83 08 20 旧陸軍糧秣支廠の改修工事、開始。
83 09 - 牛田浄水場の予備ポンプ室(大正13年建設)が、「水道資料館」として保存されることが決定。
83 11 02 相生橋の架け替え工事、終了し、完成式開催(約400人参加)。
83 10 - 山陰合同銀行広島支店(昭和11年建設、立町)、老朽化のため取り壊し決定。
83 10 26 横川橋(大正12年架橋)の架け替え工事、開始。
84 03 - 旧相生橋の親柱、平和記念公園内に復元し、説明板を設置。
84 10 - 広島市役所の桜の木、新庁舎完成後も現在の場所に残されることが決定。。
84 05 17 御幸橋(昭和6年建設)の架け替え工事、開催。
84 04 - 工兵橋(明治22年建設)の改修、決定。
84 05 - 広島県、旧広島県港湾事務所の保存問題について検討中。
84 08 - 原爆資料館、被爆樹木の選定・保存方法の検討などを開始。
84 08 - 広島市中区役所、被爆樹木についての情報収集に協力を呼びかけ。
84 08 21 基町の被爆エノキ(旧第二陸軍病院跡地)、台風で倒壊。同エノキは、基町小学校生徒らが平和学習の一環として保存運動を推進。
84 08 24 広島市、台風で折れた基町のエノキの保存作業を開始 。折れた幹は平和教育教材・研究資料として提供。
84 09 03 安田女子高校生徒ら、広島城内の被爆ユーカリの保存策を求める要望書を広島市に提出。
84 09 - 鶴見橋のヤナギ(樹齢約120年)、台風で亀裂が入り南区役所が保護作業を実施。
84 09 - 広島県高校生平和ゼミナール、台風で倒れたエノキの枝などを全国の平和資料館などに送付。
84 09 - 大阪府の小学生から、台風で倒れたエノキを見舞う手紙が届く。同小学生らは、5月に修学旅行でエノキを囲んで平和学習。
84 12 20 中国電力本店2号館(昭和4年建設、小町)、老朽化ため取り壊し開始。
84 10 - 広島市中区役所へ、被爆樹木26本の情報が寄せられる。
84 10 - 被爆翌年に広島城跡にあった被爆ヒイラギが、大竹市で保存されていることが判明。
84 12 04 広島県被団協(佐久間澄理事長)など、被爆遺跡である現庁舎を保存するよう求める陳情書を提出。
85 01 25 広島市役所の本庁舎の取り壊し、決定。
85 01 26 広島県原水協など、広島市役所本庁舎の取り壊し決定に対して、広島市に抗議。
85 02 - 広島市平和文化センター、被爆建物の写真撮影作業を実施中。
85 03 - 広島市役所の被爆桜、新庁舎の建設に伴い移設され、残された1本が開花。
85 05 11 旧陸軍糧秣支廠を改造した広島市郷土資料館、完成し開館。
85 04 30 広島市議会、現本庁舎の部分的な保存方法を検討する協議会を発足させることを決定。
85 05 16 広島市役所の新庁舎、完成し、定礎式開催。
85 05 16 広島市、旧庁舎の一部を平和学習教材として全国の小・中学校に寄贈することを決定。
85 05 20 広島市原水協、新本庁舎の定礎箱に被爆資料を入れることや、現庁舎の保存などを要望。
85 05 - 広島市立基町小学校生徒ら、1984年に台風で倒れた被爆エノキの新芽を確認。
85 05 28 広島市、旧慈仙寺の墓石に、「原爆遺跡」であることを示す説明板を設置。
85 06 - 広島東照宮の石積みに、被爆経緯を記した「原爆誌」が設置される。
85 06 12 広島市議会の庁舎検討委員会、初会合。
85 07 - 広島市役所の桜、新庁舎建設のため、一時移転。
85 07 21 広島市役所本庁舎親子スケッチ大会、開催(「市庁舎を保存させる会」主催、約80人参加)。
85 08 15 広島市議会の旧庁舎検討協議会、旧庁舎を取り壊し、正面玄関の石段と地下室の一部のみを保存することを決定。
85 08 19 千葉県我孫子市被爆者の会代表、広島市役所旧庁舎の被爆敷石を展示するため、広島市に譲渡を申し入れ。(兵庫県美方郡なども申し入れ。)
85 08 - 広島電鉄、被爆電車156号を全面修理し、動態保存する方針を決定。
85 08 30 広島市、旧本庁舎の壁の一部を切取り保存・展示することを決定。
85 10 07 広島市役所旧本庁舎の解体工事、開始。
85 09 - 広島地方気象台の移転に伴い、気象台本館の保存を求める声が高まり、陳情・署名運動など開始。
85 11 09 横川橋の架け替え工事、終了し、開通式開催(広島市長ら450人出席)。
85 11 28 広島市役所旧庁舎の敷石、我孫子市の被爆者団体と兵庫県美方郡温泉町などに寄贈。(このほかにも、譲渡の申し出が相次ぐ。)
85 12 10 広島市、市役所新庁舎の玄関前広場の整備計画を決定 。旧庁舎の地下室を被爆資料展示室とすることなどを計画。
86 07 02 構内整備のため、倉掛小学校に一時移植していた広島市役所の被爆桜、同構内に植え戻し。同小学校には被爆桜の苗木を寄贈。
86 05 06 工兵橋の改修工事、終了し、開通。
86 09 11 御幸橋の取り壊し作業、開始。広島市、親柱と飾り柱の保存を決定。
86 10 - 「中区の文化を考える会」日本銀行広島支店を保存し、文学館などに利用するよう求める運動を開始。
86 11 - 「頼山陽先生遺蹟顕彰会」、頼山陽記念館を復元することを決定。
86 11 - 比治山のクロマツ(樹齢約300年)、枯死。
86 12 27 御幸橋の被爆石、東京都葛飾区に寄贈され、平和モニュメントにされることが決定。
87 01 - 広島市、広島気象台を「気象資料館」保存することを決定。
87 02 - 広島市、元安橋の架け替えを計画。
87 04 - 広島市役所の被爆桜、移植後初めて市役所構内で開花。
87 04 08 旧広島文理大の被爆タイル壁、説明板を付けて広大理学部正面玄関に設置。
87 04 25 旧中国逓信局のアオギリ(1973年に平和記念公園に植え替え)の枝が折られているのが発見される。
87 06 11 広島市立本川小学校の東側校舎(昭和3年建設)の解体工事、開始。校舎の一部を保存し、「平和資料室」として利用する計画。
87 06 - 広島市、旧燃料会館(現在の平和記念公園レストハウス)の建て替えを検討中。
87 06 27 旧逓信局のアオギリが、枯死寸前であることが判明。
87 08 - 広島逓信病院の庭で被爆したヒマラヤ杉、健在。
87 08 - 広島城跡発掘調査で、被爆の跡を残す礎石などを発見。
87 09 21 広島市、広島地方気象台の被爆庁舎の保存について検討する委員会を開催。
87 12 - 国前寺本堂・庫裏(1656年建立)、広島市の重要文化財に指定される。
87 12 - 広島地方気象台、新庁舎へ移転。現庁舎は気象資料館として利用することを計画。
88 03 - 旧中国逓信局で被爆したアオギリの二世作り、広島市植物公園で実施。
88 09 28 広島銀行銀山町支店(昭和12年建設)、建て替えのため解体作業を開始。
88 04 - 旧広島市庁舎の被爆石、1989年にオープンする市現代美術館の玄関前広場に敷設。
88 04 - 広島市平和記念公園の被爆アオギリ、広島県の「花と木の百選」に選定される。
88 05 - 広島駅構内のこ線橋(大正14年建設)が被爆遺跡であることが判明。
88 06 - 鶴見橋の被爆ヤナギ、同橋の架け替えのため一時移植される。
88 09 - 日本銀行広島支店の移転、決定。
88 05 - 基町の被爆エノキ、新芽が出ず枯死の心配される。福岡県の小学生ら、エノキを切らないよう広島市に手紙を送付。
88 09 - 旧広島地方気象台の建物を活用した「気象資料館」の基本構想、決定。
88 10 - 御幸橋の欄干のデザイン、決定。旧橋を模したデザインで飾り柱などを復元。
88 10 - 料亭「佐々木別荘」(明治の建築)、都市再開発のため建て替えが決定。
88 11 11 「中区の文化を考える会」、日銀広島支店の保存を求めて署名運動をすることを決定。
88 11 28 旧広島貯金支局(昭和12年建設)の解体作業、開始。被爆タイルなどは原爆資料館に寄贈。
原爆遺跡年表[解題]

秦野裕子(広大原医研)
新聞は、「原爆遺跡」について、様々な機会に多種多様の報道をしてきた。広島大学原医研資料センター所蔵の新聞資料によって作成したのが「原爆遺跡年表」(1958年ー1988年)である。この年表をもとに、「原爆遺跡」について概観し、取り組むべき課題などについて考えてみたい。
(ドーム保存について)
広島市で「原爆遺跡」について考える場合、まず第一に挙げられるのが「原爆ドーム」であろう。1989年のドーム保存募金の全国的な盛り上がりは記憶に新しい。しかし、このドームにしても、初めからこのような「遺跡」の代表として確固たる位置を占めていた訳ではない。以下に新聞報道によるドーム存廃の論議を紹介していく。
1958年に、ドーム存廃について、「市民の意見は半々 撤去論“悲劇を売物にするな” 保存論“忘れられない象徴”」(中国)という見出しで特集記事を掲載している。同記事では撤去論として「あのままドームを残して原爆の威力を伝えるにはあまりにも貧弱だ。外国人にもあの程度の被害かと誤認されたくない。」との当時の広島市議会議長任都栗司の意見を紹介している。また、広島財界の指導者の意見として、「ドームを観光の一助にするという考えは悲劇を売物にするのと同じことだ。」との意見を紹介している。さらに、60年には「存廃論議される“原爆ドーム”」(中国・夕)との見出しで特集されている。撤去論として上記の他に、「いつまでも不快な記憶を留めたくない。」「市の美観をそこなう。」などの理由を挙げ、被爆者の中にも撤去論者は多いようだと報じている。これに対する存置論として、「平和のシンボルとして置くべきだ。」「戦争の惨禍を忘れないためにも必要。」との意見を紹介している。さらに、田宮虎彦、大江健三郎、ロベルト・ユンクら著名人の存置論も紹介し、「存置論者 外部関係に多い」との見出しを付している。このような中で、浜井広島市長は、「積 極的に壊す気はないが、存廃はすべて世論にしたがって決める。」との見解を表明し、補強費1000万円のねん出も困難と財政面での苦労も訴えている。この時点では、広島市さえも、ドーム保存について確固たる方針を持っていなかった訳である。しかし、1960年12月1日には、広島市で行なわれた日本原水協主催の「原水爆禁止、被爆者激励大会」で、原爆ドーム取り壊し反対の緊急動議が満場一致で採択されている。これを受けて翌日、日本原水協代表は、広島市に保存を訴える要請書を提出したが、市側は、「検討中」とのみ回答している。
京大近藤泰夫名誉教授は、翌年1961年8月に来広し、原爆ドームが「非常に危険状態に陥っている。」と指摘している。「一日も早く専門的な調査をし補強工事をすべき」で、「これ以上放置できない限界にきている。」と警告を発したが、市は、危険防止のため周囲に金網をめぐらしてあることや、工事費に多額の費用を要するとの理由で、依然、調査にさえ着手しない。
1963年10月、電車通りをへだてた向いの広島商工会議所のビル新築に伴って、同会議所が、原爆ドームへの工事の振動の影響調査が実施される。この時にも浜井広島市長は、「ドームにはサクが張ってあるので大丈夫ではないか。」とのんきな意見を吐いている。さらに、「私としてはドームを補強してまで保存する価値はないと思う。」とコメントしている。ところで、同月6日のコラムはドームについて、「永久保存」・「即刻取り壊し」・「成行き任せ」の3つの意見があると紹介している。遺跡の存廃論議において、「成行き任せ」というのは、何とも奇妙な意見だが、同コラムは「複雑な両論にはさまれていずれにも決めかねている。」と広島市の「成行き任せ」論を説明し、振動の影響調査では、一応崩壊の心配はないとの結論を得ている。しかし、64年4月には、ドーム西側の民家に自然崩壊の危険が強いと立ち退きを指示た。
・保存への動き
1964年11月に広島市原水協(会長・浜井広島市長)は、原爆ドームは永久保存すべきとの方針を決定し、県原水協総会に、1965年の被爆20周年記念行事としてドーム保存運動を起こすことなどを提案する。翌月12月には分裂以来初めて、社会党・総評系、共産党系、保守・民社党系の3原水禁団体を含めた11の平和団体が大同団結し、広島市にドームの永久保存を要請した。これに対して、浜井広島市長は、「来年度予算案に調査研究費を計上して専門家に保存方法を研究させる。」と答えている。広島市は、被爆後19年にして初めてドーム保存の意志を表明した訳である。被爆20周年に当たる65年には、1月から広島折鶴の会がドーム保存を訴える署名と募金運動を開始する。また、広島市観光協会も、同月広島市に、ドーム保存の要望書を提出している。このような動きの中で、市はやっとドームの強度調査費100万円を計上する。この時点でのドームの保存状態は「昨年春には降り続いた春雨がしみ込んで正面4階部分のヒビが大きく割れ、近くでビル工事も始まったため、内部に30数本のワイヤーや補強サクを取り付けて自然崩壊を防いだ。」(65.2.12中国)という状態で、崩壊寸前だったことがうかが える。3月は、
1961年にもドーム保存について早期補修を進言した京大近藤泰夫名誉教授が、再び来広し、広島市長にドーム保存の要望書を提出する。要望書は湯川秀樹・丹下健三ら8名の連名であった。同教授は、「小っちゃな地震でもすぐこわれるほど危険な状態になっている。」と、ドーム補修が緊急を要することを強調た。さらに、同教授は中国新聞に「原爆ドームの保存を訴える 建築学上もむずかしくない」(4.30)との一文を寄せた。その中で、西ベルリンの戦災を受けた教会の修復の例を引き、ドーム保存の意義を訴え、また、建築学の専門家として、ドーム補修が技術的に可能であると発言している。新聞投書欄に、「原爆ドーム撤去せよ」(65.5.4)との投書が掲載されたのがきっかけで、7・10・12・13日とそれに対する反論が次々と掲載され、投書欄にも「5月1日以降、原爆ドーム保存を求める投書8通。撤去を求める投書は既掲以外にはありません。」(5.13)という状況で、保存を求める意見が主流となっていく。
こうして、65年7月に、市の依頼を受けた広大工学部が基礎調査を開始するが、市は、この調査結果によって、存廃についての結論を出す考えであった。広大佐藤重雄教授は、接着剤で固めれば半永久的に保存でき、費用は約4000万円と報告した。これを受けて、広島市長は、「保存することになろう。」と発言している。
・保存決定と募金運動
66年7月11日、広島市議会は、「原爆ドーム保存の要望」を満場一致で決議する。その内容は、「原爆ドームを完全に保存し後生に残すのは、原爆でなくなった20数万の犠牲者と世界の平和を願う人たちにたいして広島市議会が果たす義務の1つである。ドーム保存について万全の措置をとるようにすべきだ。」というものであった。市長は、同月「一般募金で、保存工事に着手する方法を検討する。」と発言している。さらに、8月1日には、市幹部会議で、ドーム保存と、工事費を募金でまかなうことを決定する。その理念として、「戦争のない世界にする反省の起点としてドームを保存し、これを平和な未来建設の出発点とする。」とし、「その意味で一般募金は意義がある。」としている。この時点では、浜井市長は、「原爆ドームは時点を高くし、視野を広げれば保存するのが当然ということになる。募金は私の責任でする。募金方法はもう少し検討するが、十円募金は協力団体がしてくれれば別だが市がする考えはない。」との見解を披露している。市は、当初8月6日からの募金開始を企図していたが、議会側から募金実施について事前に相談がなかったことや募金計画がずさんであるとの批判が相次 ぎ、趣意書の作成や発送などもできず、運動は凍結されたまま2カ月余が空費された。この間の市と議会との確執は、「宙に浮く原爆ドーム保存 一部に募金中止論 市長選とからませて」(9.30中国)、「感情的対立の様相」(10.5同)などの見出しで報道されている。このような対立の中で、市長は議会の意志決定を待たず、11月1日から募金開始を決定し、趣意書の発送なども開始する。開始時にはこのようなつまずきがあったが、総評・平和七人委員会・自民党県連・日本原水協・社会党など幅広い層からの支持を得て、期限の2月末を13日延長したものの、3月13日に目標の4000万円を達成した。浜井市長は、14日に募金終了を発表するが、以後も募金が相次ぎ、結局目標を大きく上回る6800万円余(68.2.22)が集まった。保存工事は4月10日に着工し、8月5日に完工式を挙行した。浜井前市長は、同式の中で、「募金が目標を達成できたのは、ヒロシマを繰り返すなという悲願が世界に燃え続けていることを証明した。このドームは戦争の悲惨な事実を刻みつけている。」と述べている。
・20年後の再補修
広島市は、1967年の補修から20年を経て、87年1月にドーム再補修を計画し、同年設置された「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」の調査結果をもとに、89年秋にドーム補修工事を実施することを決定する。2億円の工事費について、市長は、募金で行なうことは「昭和42年当時、募金をした人の気持ちに反することでもあると思う。」と、消極的な姿勢を示していた。しかし、市民団体などの募金実施の要望を受けて、89年2月には2億円のうち1億を市費で、残り1億を募金でという折衷案を打ち出す。募金は5月1日にスタートし、初日には、当初募金に消極的だった荒木市長も街頭に出て募金を呼びかけた。12月25日の締め切りまでに募金総額は3億7000万円を超え、市長は「今後ともドームの永久保存に努める。」とのコメントを発表する。
・67年から87年
1967年にドーム保存を決定するまでは「原爆被害の過小評価になりかねない。」・「思い出したくない」など、様々な理由でドーム撤去を唱える人もいた。それらの意見も、一概に否定されるべきものではなく、それなりの根拠を持つものであった。しかし、87年の再補修の際には、ドームの永久保存は前提で、少なくとも撤去論を持ち出す人はいなかった。これは、20年の間に、ドームが撤去論を乗り越えるだけの働きをしてきたことを証明する。広島市民はもとより、平和学習の修学旅行生、内外の観光客・政治家・文化人らに、ドームは、その被爆体験を言葉を越えて語りかけ、戦争・平和について考えるよすがとしての役目を果たしてきたのである。そのようなドームを、今後も永久に保存していこうと、広島市民のみならず日本国内また海外の人々が決意を新にし、その熱意が89年の補修募金4億円となって結実した。しかし、我々は、67年当時には、ドームすら、撤去しようとしたことがあることを忘れてはなるまい。また、その論拠をも思い返してみる必要がある。美観・経費・原爆被害の過小評価・・・等。現在、我々は再び、そのような理由を挙げて、残り少ない「原爆遺跡」を取り壊そうとし ているのではないか。
もし、67年の時点でドーム撤去を決意していたとしたら・・・。その跡地に近代的ビルを建てていたとしたら・・・。平和都市ヒロシマの役割を我々はドームなしで果たせていただろうか。

次に、「原爆遺跡年表」を見ていく。この年表で、取り壊し・撤去が確認されたのは、「死の人影」のあった住友銀行・中国郵政局・御幸橋・常盤橋・相生橋・旧陸軍被服倉庫・舟入公園の老松・「生めましめんかな」の舞台になった旧広島貯金支局・広島市役所・万世橋・フコク生命ビル・旧広島中電話局・山陰合同銀行広島支店・横川橋・中国電力本店2号館・本川小学校東側校舎・広島銀行銀山町支店など17件にも及ぶ。銀行などの企業、官公庁の建物、橋などが次々に広島市街から消されていった。この時期は、ほぼドームの第1回の補修から第2回補修が実施されるまでの期間に当たる。次々に建て替えられていく多くの建物・橋などは、被爆後補修を重ねながら、使用されてきており、「原爆遺跡」であると同時に銀行・学校などの建物であるという二面性を待っているわけである。老朽化した建物は居住性・美観などの面で劣り、時には危険ですらある。「遺跡」という側面を無視して、建物・橋としての機能を優先させれば、「老朽化」-「建て替え」ということになってしまう。そのような例として、「市役所」の例を検討してみる。

(市役所の場合)
広島市は、1980年12月に、昭和3年に完成した市役所本庁舎を、手狭で老朽化が激しいとの理由で、取り壊し・建て替えることを決定する。この決定がなされた時にも、「また消える“被爆証人”」(80.12.3朝日)との記事の中で、「被爆の事実をかき消すかのような新しがり屋には怒りさえ覚える。」と、詩人栗原貞子の批判が取り上げられている。81年4月にはコンペ方式による新庁舎のデザインの入選作が決定され、原爆遺跡として正面玄関の石段・縁石などを保存することが計画されている。83年2月には、東側の三階建ての庁舎が取り壊され、新庁舎の建設が始まる。84年、新庁舎の建設が進むにつれて、老朽化の激しい本庁舎の存廃が話題にされる。新聞報道にも、「保存か撤去か 原爆“証人”ぜひ いや美観損なう」(84.4.21)との見出しで取り上げられている。その中で、撤去論として「全部取り壊した方がすっきりする。」との美観重視論、「原爆遺跡としては原爆ドームがあるので、金をかけてまで保存しなくても・・・」との意見などを紹介している。それに対して、「傷ついた市民も避難した場所。利便性や美観論だけで壊さないで欲しい。」との職員OBの意見、「古い本庁舎は、市 役所を訪れた外国人らの目にも奇異に映るはず。そこで荒木市長が残した意味を話せば、世界平和の訴えも説得力を増す。」との社会党議員の保存論を紹介している。この時点では、市も「保存にかかる費用や利便性、市民感情などを総合的に判断し、本年度中に存廃に着いて結論を出したい。」と態度を保留している。同年12月に広島県被団協(佐久間理事長)などの市民団体が、広島市に庁舎保存を陳情した際には、市は補修費が高額(13億円)であることなどを理由に、保存に消極的な態度を表明している。翌年1月25日に、広島市長は、本庁舎は取り壊し、玄関石段など被爆の傷跡を明確に残す部分だけを保存する方針を発表する。これに対して、市民団体は、翌日、「被爆地の市長自らが原爆遺跡の破壊を決めたことは、世界の反核・平和の世論に水をさし、市の基本方針である“被爆の実相の普及”に矛盾する」との抗議文を提出している。さらに、2月28日には、市議会で、自民党議員が市側に再考を求めている。このような声を受けて、市は、庁舎の正面玄関石段などの部分的保存を検討し、5月には庁舎の一部を被爆遺跡として全国の平和団体・学校などに寄贈することを発表する。この時には、 すでに庁舎の9月取り壊しが決定されている。県被団協などは5月20日に、3回目の庁舎保存の申し入れをする。
6月には、市議会の「旧庁舎検討協議会」が、①正面玄関の石段・敷石を残す(経費3800万円)、②石段と地下室の一部を残す(同1億1800万円)、③一階部分を縮小して保存する(9300万円)の3案を提示した。8月に、結局②案の採用を決定し、10月には、庁舎の解体工事が開始される。ところで、市が、5月に庁舎の一部譲渡を発表して以来、全国の小中学校・自治体などから申し入れがあり、平和学習教材や平和の碑建設に利用されることになった。翌年1986年2月までには、約30件の申し込みが寄せられ、被爆都市の庁舎への全国的な関心の高さを示している。
このように、市役所庁舎は、結局取り壊されてしまった訳である。これは、市側が、「原爆遺跡」としてより庁舎としての機能を優先させた結果であるが、この他にも市民団体などによる保存運動がドームの時ほど盛り上がらなかったことが指摘される。庁舎保存を申し入れたのは県被団協などの限られた団体で、ドームの場合のような禁・協・保守団体の大同団結は見られなかった。また、市が本庁舎の取り壊しを決定した1985年1月から取り壊し工事の開始される10月までに中国・朝日・毎日・読売各紙に寄せられた庁舎保存を求める投書は1件のみであったことは、市民の関心の低さをうかがわせる(「広島市本庁舎永久保存を望む」1.29中国)。
市庁舎取り壊しに関しては、逆に、市側の対応に目新しいものがあった。調査の石畳などの寄贈呼び掛けである。北海道から九州まで約30件の申し込みがあり、兵庫県美方郡で、「夢千代日記」の被爆二世夢千代像の台座、千葉県八千代・野田両市、東京都中野区の平和記念碑などの他、平和教育教材・展示資料として譲渡された。市の関係者は、「反核を願う動きが広がっているあかし」とコメントしている。
市庁舎は、謂わば市の「表玄関」である。広島市を訪れる内外の政治家・要人を迎えて、その表玄関に「原爆遺跡」を配することは、市が発する平和への提言を単なる美辞麗句で終わらさず、その影響力を高めた筈である。また、外来者だけでなく、被爆の記憶が年々薄らいでいく我々広島市民に対してもその存在は重い警鐘となり得たのではないだろうか。保存に多額の費用を要するとの理由で庁舎を撤去したのは正しい選択だったのだろうか。保存に要する費用13億円は、85年に開館した広島市郷土資料館改修費と同額である。政令指定都市広島にとってその額は無理な額であったのだろうか。被爆40周年だった1985年に、市民の間に庁舎保存についての論議がいま一つ盛り上がらなかったことが悔やまれる。

(「原爆遺跡」の転用-旧陸軍糧抹支廠・旧広島地方気象台・日銀広島支店)
次に、「原爆遺跡」を改修し、転用した例をみていく。
広島市は、82年9月に、旧陸軍糧抹支廠を改修し、郷土資料館として保存することを決定する。同支廠は明治44年の建物で、れんが造りの外壁をそのまま残し、市重要文化財にも指定されている。85年5月には、江戸以降の歴史・生活資料など約300点を展示して開館した。建設費は約13億円であった。
広島地方気象台は、1987年の移転が決定され、「江波地区社会福祉協議会」・「中区の文化を考える会」が、1985年に「平和学習ができる博物館施設として、市が跡地を取得して整備してほしい。」と、市に陳情した。市は、これを受けて、「広島市博物館資料調査収集検討委員会」で検討を開始する。同委員会の広島大工学部鈴木充教授は、「被爆の証人として極めて貴重だ」と発言している。87年1月には「気象資料館」として保存されることが決定され、1990年に、開館している。
これらは、被爆建物を補修し、「資料館」に転用した例であるが、いずれも「原爆遺跡」としての意義を特に強調している訳ではない。また、展示内容も、それぞれ郷土の歴史資料や気象に関する資料と、直接原爆をテーマにしたものではない。(但し、気象資料館の一室は、被爆の被害をそのまま残し、平和学習用として利用されている。)他都市には見られない貴重な被爆建物を再生したのだから、その意義を際立たせる工夫がなされてもよいのではないだろうか。例えば、日本銀行広島支店の場合である。前出の「中区文化を考える会」は、88年10月、同支店の保存を求めると同時に峠三吉などの原爆文学を中心にした文学館としての利用を提唱している。これに対して、日銀は、「跡地は売る方針」としながらも、「市民らの署名運動が起これば県や市と相談しなくてはならないだろう」との見解を表明している。もし、これが実現すれば、「原爆遺跡」を再生・利用した初の原爆文学を中心にした資料の展示館として、内外の注目を集めることになるだろう。これは、遺跡の保存という観点からだけでなく、原爆をテーマにした文学・演劇・映画・絵画などの芸術分野にとっても重要な課題である。 被爆以来、我々は、原爆をテーマにした創作活動から多くの成果を得ている。峠三吉・井伏鱒二・原民喜らによる文学作品、「原爆の子」・「はだしのゲン」・「黒い雨」などの映画、平山郁夫・増田勉・丸木位里・俊らの絵画、東松照明・福島菊次郎らの写真、細川俊夫・芥川也寸志らの音楽作品など、枚挙に暇がない。さらに、毎年8月6日を中心に放送される原爆番組も数多い。このように分野は様々だが、一貫して原爆をテーマにした作品群がある。「原爆遺跡」とともに、これらの芸術分野の作品の収集・整理・保存なども、我々の責務である。このような多くの作品が、一堂に集められ、展観できるとしたら、その迫力は個々の作品の持つ力を倍加するに違いない。また、それらの作品群の「容れ物」として、日銀広島支店のような「原爆遺跡」が使われるとしたら、それは被爆地ヒロシマが誇り得る「モニュメント」になるに違いない。

(被爆樹木と平和教育)
「原爆遺跡年表」に見られるように、広島市には被爆した樹木が残されている。広島市は、79年に河川改修工事のため、そのうちの1本である太田川左岸堤防の大エノキを切り倒す。しかし、皮肉なことに、それがきっかけとなって基町小学校の生徒らによる別のエノキの保存運動が開始されることになる。同校生徒が世話をしているエノキの前の立て札には、「原爆は罪のないエノキまで見苦しい姿にした きょうまでほんとによく生きてきた 生命の力強さと尊さを知ったかわいそうなエノキ 基町に住む私達はこの木を守っていく義務がある 基町小学校児童会」と記されている。84年には、台風でエノキが倒壊し、台風シーズンを前にせん定を怠っていた市の姿勢に批判の声が起き、市は、遅ればせながら、エノキの保存作業を開始する。折れたエノキの幹の部分は、平和教育教材や研究資料として提供され、寄贈を受けた県高校生ゼミナールはそれらを全国6カ所の平和施設に送付する。また、修学旅行で来広した大阪などの小学生らは、このエノキをめぐって基町小学校生徒と交流を続けている。
倉掛小学校では、同校庭に一時移植されていた市役所の被爆桜を植え戻す際には、同校生徒らの要望で、接き木した桜の“二世”を贈っている。同小学校でも、木の根元に被爆の由来を書いた立て札を立て、平和教育の教材として活用されている。88年には、同小学校で、初めて“二世”の桜の花が咲いたことが報道されている。
平和記念公園に移植されていた被爆アオギリは、被爆の語り部沼田鈴子らによって、修学旅行生らに感銘を与えてきたが、87年には木が弱り始め、市は、植物公園で“二世”作りを開始している。88年7月には、二世アオギリの誕生が確認され、市は修学旅行生らに苗木を贈ることを計画中である。
このように、被爆樹木は平和教育に活用され、広島は勿論、広島を訪れる全国の修学旅行生が平和に着いて考えるきっかけとなっている。しかし、先の基町のエノキも、89年2月には枯死が確認されるなど、その数はだんだんと減っていくことが予想される。また、被爆樹木であることが知られていなかったり、個人の所有の樹木もあるため、保護されていない場合もある。行政による被爆樹木の総点検と、樹木の保護・二世作りなどがなされる必要がある。

献花(4月)

献花(4月)

DSC07512
ぼけ(木瓜) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家
 DSC07502 - コピー
むすかり 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家
 DSC07503
スノーフレーク 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家
 DSC07504
さくらそう(桜草) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家
 DSC07505
?? 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家
 DSC07508
ふきのとう 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家
 DSC07510
スイセン(水仙) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家
 DSC07513
チューリップ 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家
 DSC07517
イチゴ(苺) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家
 DSC07520
サンシュユ(サンシュユ) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家
 DSC07522
タンポポ(蒲公英) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家
 DSC07523
さくら(桜) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家
DSC07526
さくら(桜) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家
DSC07527
レンギョウ(連翹) 撮影日時 2018.4.2 撮影場所:実家
 DSC07552
スミレ(菫)  撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家
DSC07554
はなにら 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家
DSC07558
カラスノエンドウ(烏野豌豆) 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家
DSC07563
ダイコン(大根)  撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家
DSC07569
??  撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家
DSC07570
ハナズオウ  撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家
DSC07575
ヤマブキ(山吹)  撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家
DSC07581
ヤマブキ(山吹)  撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家
DSC07573
ショカツサイ(諸葛菜) 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家
DSC07586
ショカツサイ(諸葛菜)  撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家
DSC07587
アスパラ 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家
DSC07590
スナックエンドウ(豌豆)  撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家
DSC07592
もも(桃) 撮影日時 2018.4.5 撮影場所:実家
 DSC07598
つつじ(躑躅) 撮影日時 2018.4.7 撮影場所:実家
DSC07599
つばき(椿) 撮影日時 2018.4.7 撮影場所:実家
DSC07601
サクラソウ? 撮影日時 2018.4.7 撮影場所:実家
DSC07879
??撮影日時 2018.4.12 撮影場所:実家
DSC07881
モクレン(木蓮) 撮影日時 2018.4.12 撮影場所:実家
DSC07885
ナノハナ(菜の花) 撮影日時 2018.4.12 撮影場所:実家
DSC07886
 撮影日時 2018.4.12 撮影場所:実家
DSC07892
シャガ 撮影日時 2018.4.12 撮影場所:実家
DSC07896
ボタン(牡丹) 撮影日時 2018.4.12 撮影場所:実家
DSC07913
?? 撮影日時 2018.4.12 撮影場所:実家
DSC08003
** 撮影日時 2018.4.15 撮影場所:呉市・灰が峰
DSC08011
** 撮影日時 2018.4.15 撮影場所:呉市・灰が峰
DSC08042
ジャスミン 撮影日時 2018.4.19 撮影場所:自宅
DSC08044
君子ラン 撮影日時 2018.4.19 撮影場所:自宅
DSC08045
スズラン?撮影日時 2018.4.19 撮影場所:自宅
DSC08047
チューリップ 撮影日時 2018.4.19 撮影場所:自宅
DSC08051
ハルノノゲシ() 撮影日時 2018.4.19 撮影場所:自宅付近
DSC08053
ビワ(枇杷) 撮影日時 2018.4.19 撮影場所:実家
DSC08056
?? 撮影日時 2018.4.19 撮影場所:実家
DSC08072
?? 撮影日時 2018.4.19 撮影場所:自宅付近
DSC08075
?? 撮影日時 2018.4.19 撮影場所:自宅付近
DSC08207
オダマキ 撮影日時 2018.4.22 撮影場所:自宅
DSC08214
つつじ(躑躅)  撮影日時 2018.4.22 撮影場所:実家
 DSC08215
撮影日時 2018.4.22 撮影場所:実家
DSC08205
ボタン(牡丹) 撮影日時 2018.4.22 撮影場所:実家
DSC08220
こでまり 撮影日時 2018.4.23 撮影場所:実家
DSC08222
ふじ(藤) 撮影日時 2018.4.23 撮影場所:実家
 DSC08225
モッコウバラ  撮影日時 2018.4.25 撮影場所:自宅
DSC08244
ナルコラン(鳴子蘭)  撮影日時 2018.4.25 撮影場所:実家
DSC08248
ミニトマト  撮影日時 2018.4.25 撮影場所:実家
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市)

 

献花(3月)

献花(2019年3月)

dav
サクラソウ 撮影日時:2019年3月1日 撮影場所:自宅
DSC00943
サンシュユ(山茱萸) 撮影日時 2019.3.1 撮影場所:実家
DSC00946
? 撮影日時 2019.3.1 撮影場所:実家
DSC00939
菜の花 撮影日時 2019.3.1 撮影場所:倉庫
 DSC01009
? 撮影場所:実家 撮影日時:2019.3.9
DSC01036
? 撮影場所:自宅から実家へ向かう路傍 撮影日時:2019.3.11
DSC01039
? 自宅から実家へ向かう路傍 撮影日時:2019.3.11
DSC01041
? 自宅から実家へ向かう路傍 撮影日時:2019.3.11
DSC01113
スノードロップ 場所:実家 撮影日時:2019.3.16
DSC01117
クリスマスローズ  場所:実家 撮影日時:2019.3.16
DSC01119
ハナニラ  場所:実家 撮影日時:2019.3.16
DSC01124
?  場所:実家 撮影日時:2019.3.16
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市)

 

献花(2018年3月)

DSC07328
うめ(梅) 撮影日時 2018.3.1 撮影場所:自宅
DSC07405
クリスマスローズ 撮影日時 2018.3.24 撮影場所:実家
DSC07461
しだれざくら(枝垂れ桜) 撮影日時 2018.3.26 撮影場所:実家
DSC07468
タラの芽 撮影日時 2018.3.26 撮影場所:実家
DSC07470
ハクモクレン(白木蓮) 撮影日時 2018.3.26 撮影場所:実家
DSC07480
サンシュユ(山茱萸) 撮影日時 2018.3.26 撮影場所:実家
DSC07486
スミレ(菫) 撮影日時 2018.3.26 撮影場所:自宅
DSC07499
シンビジウム 撮影日時 2018.3.26 撮影場所:自宅
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市)

献花(2月)

献花(2月)

2019年
DSC00637
プリムラ・マラコイデス 撮影日:20190202 場所:自宅
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市)
2018年
ph20180205s
小菊  撮影日・場所:2018/2/5 実家
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市)

 

献花(1月)

献花(1月)

2021年
DSC03872
ロウバイ(蝋梅)  撮影日:5日、場所:実家
2019年
DSC00544
ウメ(梅) 撮影日:7日、場所:自宅
DSC00526
ロウバイ(蝋梅)  撮影日:1日、場所:実家
DSC00534
キク(菊)  撮影日:1日、場所:実家
DSC00535
ハボタン(葉牡丹)  撮影日:1日、場所:実家
DSC00539
センリョウ(千両) 撮影日:1日、場所:実家
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市)
2018年
DSC06754
棕梠の実 撮影日:21日、場所:実家
0105
ろうばい(蝋梅) 撮影日:5日、場所:実家
0104
蕗の薹(ふきのとう) 撮影日:2日、場所:実家
0102a
すいせん(水仙)撮影日:2日、場所:実家
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市)

 

 

3月忌(一覧)

3月忌(一覧)

没年 氏名 読み 享年 備考
01 19610301 手塚良道 てづか・よしみち 72 広島文理科大学教授(漢文学)の時被爆。「奇怪な火焔」<被爆場所:爆心より2000米、当時の住所:白島中町72-1、広島文理科大学教授、55歳>(『原爆体験記』広島市民局社会教育課編、広島平和協会刊、19500806)pp.81-85。
01 20030301 藤田進 ふじた・すすむ 参議院議員5期、第2代総評議長、大阪工大摂南大学総長・理事長。
01 20040301 飯島宗一 いいじま・そういち 81 広島大学学長(1969~1977年)。追悼記=庄野直美(『中国新聞』20040305)、来栖武士郎(『中国新聞』20040327)、高木新(『朝日新聞』20040330)。
01 20110301 クラウス・ルーメル 94 1937年に来日。イエズス会の長束修練院<広島市安佐南区>で被爆。
01 20140301 アラン・レネ 91 フランス・ヌーベルバーグとなった映画監督。「24時間の情事(ヒロシマ・モナムール)」(1959年)
01 20180301 佐藤行通 さとう・ぎょうつう 99 日本山妙法寺僧侶、社会運動家。『日本中が私の戦場  平和を求める宗教者の手記』 (東邦出版社、1970730)
01 20190301 大井健二 おおい・けんじ 72 [退任教員の履歴と業績]大井健二(『広島国際研究 2012』第18巻、広島市立大学国際学部、2012/11/30)
02 19800302 安井郁 やすいかおる 72 [原水爆禁止世界大会日本準備会事務総長]。日本原水協顧問。『道-安井郁 生の軌跡』(「道」刊行委員会編、法政大学出版局、1983/08/06)
03 19890303 岸本吉太 きしもと 広島市で写真店経営(被爆者)。被爆直後から被爆の惨状を撮影し続け、1981年に原爆資料館に写真を寄贈。広島原爆被災撮影者の会のメンバー。
03 20000303 伊東壮 いとう・たけし 70 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員、元山梨大学学長。広島市生まれ。広島一中3年の時、動員先の兵器工場で被爆。東京・国立被爆者の会の結成に参画、東京都原爆被害者団体協議会事務局長、日本被団協事務局長などを歴任。江種則貴「評伝」(『中国新聞』2000.3.6)、本田雅和「惜別」(『朝日新聞』2000.4.12)
03 20090303 伊藤明彦 いとう・あきひこ 72 長崎の入市被爆者。長崎放送記者だった1968年、担当したラジオ番組をきっかけに被爆者の声の証言の収録を始める(高見浩太郎=共同「この人」『中国新聞』20080621)。石井みちこ「伊藤元記者をしのぶ」(『中国新聞』20090308投書欄)<参照:原爆ジャーナリスト
04 19870304 北村西望 きたむら・せいぼう 102 彫刻家。長崎市の「平和祈念像」の制作者。
04 20170304 長友啓典 ながとも・けいすけ 77 グラフィックデザイナー。2010年に「ヒロシマ・アピールズ」を制作。参照:HIROSHIMA APPEALS ARCHIVES http://hiroshima.jagda.or.jp/appeals.html
05 19710305 山本正房 やまもと・まさふさ 72 中国新聞社長(1958年9月~)、同会長(1969年11月~)。『山本正房追悼録』(1971.8.15)
05 19720305 神田周三 かんだ・しゅうぞう 78 洋画家。広島で被爆。広島平和美術展設立に参加。(『広島県大百科事典』岡本隆寛・記)
05 19780305 島本正次郎 しまもとしょうじろう 92 広島県被団協理事。『理容生活六十五年』(島本正次郎、1966/08/06)
05 19910305 内田恵美子 うちだ・えみこ 広島大学原医研事務官。職場の同僚投稿
06 19730306 バック、パール・ ばっく、ぱーる 80 アメリカの小説家。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。<投稿
06 20050306 栗原貞子 くりはら・さだこ 92 詩人・歌人・評論家。『広島県現代文学事典』(川口隆行・記)。広島原水禁常任理事 http://www.gensuikin.org/gnskn_nws/0505_1.htm<投稿
06 20240306 児玉正昭 こだま・まさあき 広島県史編さん室勤務時期の宇吹の上司。
06 20240306 五百籏頭眞 いおきべ・ まこと 80 政治学者 、 歴史学者 (日本政治外交史)。防衛大学校長(第8代)。広島大学勤務期<経学部助教授、広島大学法学部助教授>に面識あり。
07 19840307 浅田常三郎 あさだ・つねさぶろう 85 物理学者。『町人学者 産学連携の祖 浅田常三郎評伝』(増田美香子編、毎日新聞社、20080419)
08 19960308 下江武介 しもえ・ 92 広島県被団協理事。<投稿予定>
08 20010308 田畑茂二郎 たばた・しげじろう 89 京大名誉教授。原爆投下は国際法違反と鑑定。
08 20180308 大田萩枝 おおた・はぎえ 96 1942年、広島県立病院勤務。核戦争防止国際医師会議(IPPNW)第9回世界大会(広島)で被爆体験を語る。西本雅実「大田萩枝さん死去 被爆医師 救護に奔走」『中国新聞』20180402)。
09 19520309 松田重次郎 まつだ・じゅうじろう 77 梶山季之著『松田重次郎』(時事通信社、1966/02/25)<投稿>
10 19530310 峠三吉 とうげ・さんきち 36 [52広島平和問題談話会](新日本文学会広島支部長)。[原爆被害者の会幹事]。広島県西条国立療養所で死亡。(『広島県大百科事典』大原三八雄・記)『広島県現代文学事典』(川口隆行・記)<投稿
10 19920310 久保仲子 くぼ・なかこ 64 愛媛県原爆被害者の会会長。藤居平一聞き書きに登場。原爆死没者慰霊碑
11 20190311 諏訪了我 すわ・りょうが 85 浄土真宗本願寺派浄寶寺前住職。<投稿予定>
12 19720312 モリス、アイラ もりす・あいら 68 フランス在住の米国人作家。「広島憩いの家」の生みの親。妻エディタとともに広島市特別名誉市民(1967年4月)。(『広島県大百科事典』田辺耕一郎・記)
12 19840312 渡辺嶺男 わたなべみねお 63 元広島大学原医研から鳥取大学医学部教授。コンピューターによる被爆者の疫学研究。1976年12月、78年11月、79年12月、81年12月に原医研で講義。ネットワークの概念について学ぶ。
13 19510313 原民喜 はら・たみき 45 詩人・小説家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)1919年広島高師附中入学。慶応義塾大学に進む。千葉から郷里の広島に疎開中被爆。東京・西荻窪で鉄道自殺。広島市本通り商店街の商店で原時彦氏(民喜の甥)に被爆時民喜が所持していた手帳を閲覧させていただく
13 19930313 渡辺千恵子 わたなべ・ちえこ 63 長崎原爆乙女の会を結成。映画「生きていてよかった」に藤居平一に抱かれて外出した映像あり。
14 19960314 木村一治 きむら・もとはる 『核と共に50年』(木村一治、築地書館、1990.10.18)<投稿
14 20010314 芝田進午 しばた・しんご 70 哲学者。反核文化論を提唱。広島大学教授(1976~93年)。する平和科目での講義(2コマ)を依頼される。<投稿
15 19880315 モリス、エディタ もりす・えでいた 小説家・平和活動家。夫アイラとともに広島市特別名誉市民(1967年4月)。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)
16 19890316 太田司朗 おおた・しろう 85 元広島大学助教授。元エリザベト音楽大教授。広島平和記念公園の「平和の時計塔」から流れる「平和の時計塔の歌」の作詞・作曲者。
17 19980317 下程勇吉 したほど・ゆうきち 1904年10月6日 – 1998年3月17日 広島県安佐郡戸山村生。1924年3月広島県立第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。1927年3月広島高等学校(文科乙類)卒業。
1930年京都帝国大学文学部哲学科卒。1937年京都府立医科大学予科教授。1947年、京都大学助教授、「天道と人道 二宮尊徳の哲学」で、文学博士(京都大学)を取得。1948年京都大学教授。教育学部創設に参加し1951年から学部長。「京大原爆展」調査の中で名前を知る。その後親族の結婚式で面識
17 20020317 後藤陽一 ごとう・よういち 88 広島大学名誉教授。恩師・道重哲男の恩師投稿
18 19940318 天野卓郎 あまの・たくろう 68 広島県史編さん室。職場の上司。(投稿
19 20170319 今田洋子 いまだ・ようこ 73 1歳の時、母に背負われ入市被爆。広島平和記念資料館でピースボランティア。「シュモーに学ぶ会」代表。「今田洋子さん死去 シュモーに学ぶ会代表 私が広島の思い伝えなければ」(『朝日新聞』20170321 岡本玄・記)
20 19650320 峠和子 とうげ・かずこ 56 峠三吉の妻。
20 20170320 肥田舜太郎 ひだ・しゅんたろう 100 被爆当時、広島陸軍病院所属の軍医。日本原水爆被害者団体協議会原爆被爆者中央相談所理事長などを歴任。(投稿
21 19980321 竹内千代 たけうち・ちよ 90 ワールド・フレンドシップ・センターの創立メンバー。平和を願う友の会代表。
21 20020321 高木昌彦 たかぎ・まさひこ 76 元大阪大学医学部。カザフスタンで医療ボランティア活動。
21 20180321 吉田嘉清 よしだ・よしきよ 92 平和運動家。元原水爆禁止日本協議会代表理事。『人間銘木 藤居平一追想集』に寄稿。
22 20050322 丹下健三 たんげ・けんぞう 91 建築家。
23 19930323 芹沢光治良 せりざわ・こうじろう  96 小説家。『広島県現代文学事典』(村上林造・記)
23 20170323 佐古美智子 さこ・みちこ 85 原爆による心身の傷を歌った「ほほえみよ還れ」の作詞者。渡米治療。(出典『中国新聞』20170324)
24 19930324 ハーシー、ジョン はーしーJohn Hersey 78 広島のルポルタージュ「ヒロシマ」の著者。2002年の広島市の平和宣言(秋葉市長)に著書『ヒロシマ』が取り上げられる。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)。<投稿
24 20140324 新堀 通也 しんぼり・みちや 92 教育学者・社会学者。「大学研究者の履歴書
」、「新堀通也(しんぼりみちや)先生【全6回】(広島大学・武庫川女子大学名誉教授)」、『新堀通也、その仕事』(新堀通也先生追悼集刊行委員会編 東信堂、2015)
25 20140325 シェル、ジョナサン しぇる、じょなさん 70 2000、2007年に広島を訪問。パネリストを務める。2002年の広島市の平和宣言(秋葉市長)に著書『地球の運命』が取り上げられる。
26 19940326 山口誓子 やまぐち・せいし 92 俳人。『広島県現代文学事典』(山下航正・記)
26 20190326 萩原健一 はじわら・けんいち 68 俳優・歌手。広島大学原爆放射能医学研究所でロケしたNHKドラマ「されど、わが愛」(19950805放映)に出演。撮影当日(19950419)、宇吹の研究室が彼の休憩所になる。
28 19850328 河村郷四 かわむら・さとし 82 第23代広島商工会議所会頭。『河村郷四追想録』(河村郷四追想録編纂委員会、19860315)
30 19950330 ダーリング、ジョージ だーりんぐ 89 George B. Darling. 1957年~1972年原爆傷害調査委員会(ABCC) 所長。米国学士院が招聘した時、エール大学の人類生態学教授。http://www.rerf.or.jp/glossary/darling.htm
30 20140330 四国五郎 しこく・ごろう 89 『広島県現代文学事典』(西原大輔・記)。広島市広報課所蔵の写真調査でお世話になる。
31 19900331 山田信蔵 やまだ バーバラ・レイノルズに日本語を教えたのが縁で、1964年に第2回世界平和巡礼に参加。
31 20020331 川本義隆 かわもと・よしたか 69 広島平和記念資料館館長(1983年4月~1993年3月)。<資料年表:川本義隆
31 20190331 久保田訓章 くぼた・のりあき 86 広島東照宮名誉宮司。<投稿

内田恵美子

内田恵美子

うちだえみこ 1942年 19910305没 広島大学原医研事務官。

 

内田恵美子著
「図書・資料紹介 原爆被災資料総目録第四集=占領期文献の発刊」(『ヒロシマ・ナガサキの証言第13号 ’85冬』広島・長崎の証言の会1985.2.20)
『図書館反核平和通信』準備号No.2 1985.9.14<下記
19850914b
19850914
追悼文
宇吹暁(原爆放射能医学研究所)「内田恵美子さんの御逝去を悼む 」(『広大フォーラム』23期2号No.289 1991.5.20)

 

月忌(凡例)

月忌(凡例)

*ここでは、宇吹(サイト作成者)が知己を得た人々のうち、すでに鬼籍に入られた方々を紹介します。

*生前に直接お会いすることはないが、私のヒロシマへの取組の中で、資料を通して大きな影響を受けた方々も含まれています。

*死亡が新聞などの死亡欄や人物事典で確認できた死亡年月日をもとに、月忌ごとにまとめます。

 

竹内釼

 

没年 名前 よみ 享年 備考
01 1974 竹内釼 たけうち・けん 1890年1月6日、福岡県生。

略歴

年月日 事項
1980.1.6 福岡県に生まれる。
1915. 旧制第5高等学校(熊本)を経て、東京帝国大学医科大学医学部卒業。
1916. 陸軍軍医中尉に任官。近衛師団に配属。
1919. 陸軍軍医学校外科主任教官となる。
1926. ドイツ留学(2か年)。帰途渡米視察。
1940. 中国派遣(約1年)
1939. 広島日本赤十字病院新設のため責任者となり、設立と共に初代院長となる。
1945.8.6 院長室にて執務中被爆、二昼夜人事不省、6ケ所骨折の重傷。
1947 昭和天皇御訪広に際し、広島被爆の状況について御前講演。
1948 広島日本赤十字病院再建復興なり、辞職。
1974.8.1 逝去。
出典:『竹内釼画集』(竹内辰五郎、2005年3月)

<宇吹メモ>「廃墟に立てば去りがたし」(『月刊中国 8月号』中国新聞社、1946年8月)に被爆時の体験を記す。

08月忌(一覧)

 8月に亡くなった人々
没年 名前 よみ 享年 備考
01 1974 竹内釼 たけうち・けん 1890年1月6日、福岡県生。1939年広島日本赤十字病院新設のための責任者、設立と共に初代院長。1945年8月6日、院長室にて執務中被爆、二昼夜人事不省、6ケ所骨折の重傷。<竹内釼
02 1989 鈴木喜代治 すずき・きよじ 88 日本映画社の原爆被災記録映画作り(生物植物調査班)に参加。
02 2017 磯野恭子 いそのきょうこ 83 34年ラジオ山口(現山口放送)にアナウンサーとして入社。のちディレクターとして,「聞こえるよ,母さんの声が…原爆の子,百合子」「祖国へのはるかな旅―ある中国残留婦人の帰国」など,戦争と平和をテーマにしたドキュメンタリーを制作。63年民放局初の女性取締役に就任。広島県出身。広島大卒。<ヒロシマの女たち・続
03 2015 阿川弘之 あがわ・ひろゆき 94 日本の小説家、評論家。広島県名誉県民。日本芸術院会員。日本李登輝友の会名誉会長。文化勲章受章。『広島県現代文学事典』(高木伸幸・記)<資料年表:阿川弘之
05 1990 桧垣益人 ひがきますと 94 元日本被団協代表委員(1970-81年)。広島駅地下道で被爆。1961-84年、広島県被団協事務局長。<資料年表:桧垣益人
06 1948 大塚惟精  おおつか・いせい  62  原爆被爆時の中国地方総監。『中国地方総監府誌 原爆被災記録』(刊行委員会、19720806)
 06  1945 粟屋仙吉  あわや・せんきち  48  被爆時の広島市長。津上毅一『粟屋仙吉の人と信仰:原爆にたおれた広島市長』待晨堂、1966年。
06 1945 森喬以 もり・たかもち 広島市立造船工業教諭として生徒を引率中、被爆死。
07 1945 李鍝 い・う 韓国人犠牲者慰霊碑(1970年4月10日除幕)の碑文。『すぎた歳月』(李方子、1973年)。『資料・韓国人犠牲者慰霊碑』(ピカ資料研究所など編、碑の会刊、1989.8.5)、『昭和天皇実録』。<資料年表:李鍝
09 1973 大月洋 おおつきひろし 67 民衆劇場。お宅で面談、資料閲覧
09 2000 田沼肇 たぬまはじめ 74 1950年、法政大学大原社会問題研究所に就職。64年同大学教授。93年退職し名誉教授に。日本原水協代表理事。<資料年表:田沼肇
10 1945 高木敏子 たかぎ・としこ 34 広島地方裁判所検事の妻。市内雑魚場町の家屋強制疎開後の跡片付づけにとりかかる前に被爆。『広島原爆犠牲者高木敏子追想録』(高木尊之編集発行、19730810)
10 1988 清水幾太郎 しみず・いくたろう 81 社会学者。原爆孤児精神養子運動に協力。<資料年表:清水幾太郎
12 1987 増本量 ますもと・はかる 金属物理学者。東北大学名誉教授。日本金属学会会長。広島県安芸郡矢賀村(現:広島市東区矢賀)出身。『増本量伝』
12 2006 小林文男 こばやし ・ふみお 72 中国研究者。アジア経済研究所主任調査研究員、広島大学名誉教授。<資料年表:小林文男
12 2015 明田弘司 あけだ・こうし 92 写真家。「戦争から復員後の48年、広島市内で写真展を開業。仲間とヒロシマ・フォト・クラブを結成。写真家の名取洋之助から広島の復興を記録するよう助言され、市民生活や街の活気を撮り続けた」(『中国新聞』2015.8.13)。<資料年表:明田弘司
14 1989 長岡弘芳 ながおかひろよし 57 本名:奥村弘芳。原爆文献研究家。『広島県現代文学事典』(大西昭・記)
15 1989 源田実 げんだみのる 84 広島県加計町出身。1941年第1航空艦隊参謀、真珠湾攻撃を立案、指導。1954年航空自衛隊に、1959年空将で航空幕僚長。1962年退官、参議院全国区で当選、以後4期、自民党国防部会長などを歴任。
15 1996 丸山 真男  まるやま・ まさお  82  政治学者、思想史家。東京大学 名誉教授 、 日本学士院 会員。<資料年表:丸山 真男
16 1945 丸山定夫 まるやま・さだお 44 俳優。日本移動演劇連盟桜隊を引率して慰問巡回中、広島で被爆。『俳優・丸山定夫の世界』(菅井幸雄編、未来社、19890806)
16 1945 手島守之輔 てしま・もりのすけ 31 竹原生まれ。県立第二中学校卒、東京美術学校油画科。8月1日臨時召集先の広島連隊で被爆、死亡。
16 2004 沖原豊 おきはら・ゆたか 79 広島大学長(第7代、1985年5月21日~)。教育学者。『解題:沖原豊関係文書目録』(執筆:酒井真)。
16 2023 中西巌 なかにし・いわお 93 旧被服支廠の保全を願う懇談会会長(初代)。『赤レンガ倉庫は語り継ぐ 旧広島陸軍被服支廠被爆証言集』(旧被服支廠の保全を願う懇談会、2020/03/01)
17 1991 田辺耕一郎 たなべこういちろう 87 「広島憩いの家」事務局長。1957年に開設された被爆者のための「憩いの家」を管理運営。『広島県現代文学事典』(岩崎清一郎・記)。憩いの家で面談、資料閲覧。資料年表:田辺耕一郎
18 1958 熊田秀雄 くまだ・ひでお 54 金光教御幸教会初代教会長。『御幸教会五十年史 改りのあゆみ五十年―第一部―初代熊田秀雄の求道と布教』(熊田信道、金光教御幸教会、1986.5.9)〈内容
18 1974 奥 久登 おく ひさと 93 広島県内の小学校長,県商工水産課長,広島市助役,県信用購買販売組合連合会長などを歴任。昭和17年衆議院議員(日本進歩党)。戦後,広島信用金庫理事長,県教育委員長。『奥久登先生 思い出の記』(佐々木勲編、広島信用金庫・広島大学東雲同窓会・広島県農業協同組合連合会関係諸団体・広島県安芸郡坂小学校同窓会刊、19640505)
21 1945 園井恵子 そのい・けいこ 33 『園井恵子・資料集 原爆が奪った未完の大女優』(岩手県松尾村、1991.3.31)
21 1986 四竈一郎 しかまいちろう 広島市基督教連盟委員長[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会](日本キリスト教団広島協会牧師)。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。元広島県原水協代表理事( 被爆者)。
21 2002 近藤幸四郎 こんどうこうしろう 69 広島県被団協事務局次長、広島被爆者団体連絡会議事務局長、元日本被団協代表理事などを歴任。<資料年表:近藤幸四郎
22 1971 正木亮 まさきあきら 1892年3月25日広島県の玖波村生まれ。広島控訴院検事長時代に原爆被爆。
24 1945 仲みどり なか・みどり 36 東大病院で死亡(毎日新聞)。移動演劇 桜隊 に所属。公演先の広島市で被爆。<資料年表:仲みどり>
25 19450825 岡田二郎 おかだ・じろう 40 広島県立第二高等女学校の音楽教師。広島市南観音町で被爆。「岡田二郎に70年ぶり光 原爆に散ったバイオリニスト あす広響演奏会で紹介」(『中国新聞(富沢佐一・客員編集委員記)20150804』
25 1991 松前重義 まつまえしげよし 90 東海大学総長。広島調査団長として被爆直後に入市。<資料年表:松前重義
25 1995 御園生圭輔 みそのおけいすけ 82 終戦時、陸軍軍医学校教官として広島原爆の被害調査に当たる。<資料年表:御園生圭輔
26 2014 孫振斗 そん・じんどぅ 87 韓国人被爆者訴訟の原告の草分け<資料年表:孫振斗>
28 1983 山内敕靖 やまうち・ただやす 65 広島ガス社長。期間:19710226-19820628。<資料年表:山内敕靖
28 2017 羽田孜 はた・つとむ 82 内閣総理大臣(1994年4月28日~6月30日)
29 2010 森田俊男 もりた・としお 89 教育研究者。平和・国際教育研究会代表。<資料年表:森田俊男
30 1995 上栗頼登 かみくり・よりと 76 東広島市の児童養護施設「広島新生学園」元園長。<資料年表:上栗頼登
30 2017 谷口稜曄 たにぐち・すみてる 88 長崎被爆者。
 31  1945 中島光風  なかじま・こうふう 国文学者・歌人。広島高等学校教授。広島市上流川町の自宅で被爆。 『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)
 31  2005  ジョセフ・ロートブラット ろーとぶらっと  96  ポーランド 生まれの イギリス の 物理学者 、 平和活動家 。

 

栗原貞子

くりはら ・さだこ 19130304生20050306没 享年92
詩人・歌人・評論家。『広島県現代文学事典』(川口隆行・記)。広島原水禁常任理事 http://www.gensuikin.org/gnskn_nws/0505_1.htm

著書

書名 出版社 出版年月日
黒い卵 詩歌集 中国文化発行所 19460830
私は広島を証言する-栗原貞子詩集 詩集刊行の会 19670715
どきゅめんと・ヒロシマ24年-現代の救済 社会新報 19700420
詩集 ヒロシマ・未来風景 詩集刊行の会 19740330
ヒロシマの原風景を抱いて 未来社 19750731
ヒロシマというとき 三一書房 1976
核・天皇・被爆者 三一書房 19780715
未来はここから始まる-ヒロシマ詩集 詩集刊行の会 19790401
反核詩集 核時代の童話 詩集刊行の会 19820321
核時代に生きる-ヒロシマ・死の中の生 三一書房 19820815
黒い卵 占領下検閲と反戦・原爆詩歌集(完全版) 人文書院 19830720
栗原貞子詩集 土曜美術社 19840715
詩と画で語りつぐ 反核詩画集 ヒロシマ 詩集刊行の会 19850315
栗原貞子詩、吉野誠画
反核詩集-核なき明日への祈りをこめて 詩集刊行の会 19900731
問われるヒロシマ 三一書房 19920630
栗原貞子詩集 忘れじのヒロシマわが悼みうた 詩集刊行の会 19970630

資料

 資料
『栗原唯一追悼 平和憲法の光りをかかげて』(栗原貞子編、詩集刊行の会刊、19801115)
栗原貞子「文明の野蛮を憂う」(『朝日新聞 論壇』1995.8.4)
 事項
 谷本清平和賞(第3回 1990年)受賞
 栗原貞子生誕100年記念展示(広島市立中央図書館、2013)

都築正男

都築正男(つづき・ まさお)略歴

1892(明治25)年10月20日 兵庫県姫路市に生まれる。
1913(大正2)年7月1日 第一高等学校卒業
1917(大正6)年12月6日 東京帝国大学医科大学医学科卒業
1917(大正6)年12月19日 海軍中軍医
1923(大正12)年4月1日 海軍軍医学校選科学生。東京帝国大学大学院入学
1925(大正14)年2月16日 東京帝国大学助教授、高等官5等に叙せらる。歯科口腔外科研究のため満2年間ドイツ・アメリカ合衆国に留学。
1929(昭和4)年2月6日 東京帝国大学教授(歯科学講座担当)
1934(昭和9)年3月31日 歯科学講座を免ぜられ、第2外科学講座を担任。
1936(昭和11)年9月10日 アメリカ合衆国へ出張。
1939(昭和14)年11月15日 海軍軍医少将に任ぜらる。12月21日、海軍予備役編入。
1940(昭和15)年6月14日 ドイツへ出張。

 

1946(昭和21)年8月3日 文部教官を免ぜらる(海軍将官のため公職・教職追放)。
1947(昭和22)年7月16日 都築正男を原子爆弾傷害調査委員会より解任。
1952(昭和27)年10月10日 東京大学名誉教授
1954(昭和29)年9月30日 日本赤十字社中央病院長。同社輸血研究所長。
1958(昭和33)年9月17日 姫路市初の名誉市民の称号を贈られる。
1958(昭和33)年月日 西独赤十字功労章。
1959(昭和34)年7月2日 日本放射線影響学会初代会長。
1960(昭和35)年6月日 発病。
1961(昭和36)年4月5日 死去。

出典:『都築正男研究業績目録 1925-1960-都築正男大人命20年祭』(広島市史編纂室編、都築正和発行、19810405)

著書

書名コード 書名 編著者 発行所
54023301 医学の立場から見た原子爆弾の災害 都築正男 医学書院
81033104 広島新史・資料編Ⅰ-都築資料 広島市(編) 広島市
81040501 都築正男研究業績目録 1925-1960-都築正男大人命20年祭 広島市史編纂室 都築正和

 

論文

Y M D ZASSIMEI TITLE メモ
45 10 01 日本医事新報 原子爆弾による広島市の損害に就いて 5P以下欠
45 10 01 総合医学 所謂「原子爆弾傷」に就いて-特に医学の立場からの対策 ゲタバキ部分あり。「昭和20年9月8日米国原子爆弾損害調査団を案内して広島市へ向ふ時記す」
54 01 25 日本週報 赤十字精神で原爆を禁止せよ
54 06 広島医学 外科臨床の立場から考察した原子爆弾傷、特にその後遺症状に就て
54 08 思想 歐米に於ける原子力と放射能障害との問題
54 08 改造 キューリー夫妻を訪ねて
54 08 外科 (座談会)放射能症の権威に聞く-ビキニの灰をめぐって 都築正男・中泉正徳・筧弘毅・清水健太郎・石川浩一・柳壮一
54 08 05 思想 欧米に於ける原子力と放射能障害との問題
54 10 15 日本医師会雑誌 慢性原子爆弾症の診断と治療について
54 11 中央公論 水爆傷害死問題の真相
54 11 01 日本医師会雑誌 放射能障害について
54 11 15 日本医師会雑誌 原爆熱傷後の瘢痕異状に対する皮膚移植成形術について
54 12 保健医学雑誌 放射能障害の予後について
55 01 自警 医学的に見た原水爆の災害 「原水爆禁止運動資料集第4巻」の情報。
55 02 東京医学雑誌 広島長崎の被爆とビキニの被灰
55 04 平和 原子力医学のために
55 08 01 婦人朝日 特集・原子力とはどういうものか-女性として知りたい疑問のかずかず 崎川範行・武谷三男・都築正男(解答者)
55 11 学術月報 生物学並びに医学領域の話題と感想
56 04 01 世界 原水爆と放射能禍
56 08 学術月報 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会に出席して
57 01 学術月報 原子放射線影響調査に関する国連科学委員会第2回会議に出席して
57 04 総合医学 核爆発に伴う人工放射性物質の影響-国際連合科学委員会を中心として
57 05 01 世界 核爆発と放射能
57 06 学術月報 原子放射線影響調査に関する国連科学委員会第3回会議に出席して
58 02 学術月報 わが国における放射能影響調査の研究体制について-問題点提起ならびに討 都築正男[座長]
58 02 学術月報 国連科学委員会について
58 05 学術月報 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第四回会議に出席して
58 08 10 週刊朝日 (徳川夢声連載対談)問答有用 都築正男・徳川夢声
58 09 学術月報 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第5回会議に出席して
58 10 国連評論37-10 国連科学委員会に関する報告
58 12 日本臨床外科医会雑誌 原子爆弾傷害の本態とその後遺症
59 03 学術月報 「原子力時代の人類への放射線影響に関するシンポジウム」について
59 07 学術月報 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第6回会議に出席して
59 07 学術月報 ICRP新勧告の意義
59 11 01 原子爆弾後障害研究会講演集[第1回] 原子爆弾による障害の研究経過について(総括講演)

 

平和記念資料館メルマガ第98号(2011/ 9/ 1)

 

平和記念資料館メルマガ第98号(2011/ 9/ 1

最近、研究過程で作成した過去の資料を整理中、「広島大学原医研新聞切抜きの分類別枚数(1975~81年分)」とのタイトルのデジタルデータを見つけた。そして二つのことを思い出した。

その一つは、私の提案が原因で、「原発」関係の記事の収集が1982年から取りやめとなったことである。1975~81年分の切り抜き枚数総計は、12507枚、うち「核軍事」(3221枚)と「核平和利用」(3083枚)に分類されている枚数の合計は6304枚で全体のほぼ半数を占めている。原爆放射能医学研究所では、原爆被害に関する資料を収集対象としていたので、私には、限りある予算・人員を考えれば、この二つの分類に属する記事収集を中止するのはやむを得ないと主張した。

もう一つは、広島の眼科医・杉本茂憲先生(故人)との出会いである。チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)から2ヶ月あまり後に先生が原医研に来所、この事故関連の新聞記事の閲覧を希望された。要望された資料は収集対象としていないことを伝えると、非常に残念がられた。そして、ヒロシマの蓄積をこの被災者に生かすことはヒロシマの医師の使命と力説されたのである。被爆者医療に情熱を注ぐと同時に、世界にも目を向ける医師の存在に直接触れる ことのできた貴重な体験であった。

       元広島大学原爆放射能医学研究所 宇吹 暁(うぶき さとる)

0-01月忌(一覧)

  1月に亡くなった人々
没年 名前 よみ 享年 備考
02 1994 日詰忍 ひづめ・しのぶ 91 広島県被団協理事。1955年皆実原爆被害者の会会長。原水爆禁止広島母の会の活動、機関紙「ひろしまの河」。<別記
02 2011 林幸子 はやし・さちこ 81 原爆詩「ヒロシマの空」の作者。「林幸子さん遺影登録 広島祈念館」(『中国新聞』2018.6.7 西本雅実の紹介記事)
03 2000 山口勇子 やまぐち・ ゆう 83 児童文学者。『広島県現代文学事典』(三浦精子執筆)。1982年3月25日、平和親善センターで面会。三宅・網岡両氏、同席。別記
04 1969 高野源進 たかの・げんしん 73 広島原爆被爆時の広島県知事。広島原爆被爆時の広島県知事。参考文献:安藤福平「原爆被災と行政」(国際平和拠点ひろしま構想推進連携事業実行委員会(広島県・広島市)編『広島の復興経験を生かすために 廃墟からの再生 第3巻 ひろしま復興・平和構築研究事業報告書』2017年)
04 2010 山口彊 やまぐち・つとむ 93 三菱重工業長崎造船所設計技師。広島と長崎で被爆。
04 2015 金子一士 かねこ・かずし 89 船舶会社に勤めていた19歳の時入市被爆。広島県被団協理事長。「本川小学校平和資料館」(1988年5月開設)の開設前に面談。「金子一士さんを偲び意志をつぐ会」(2015年5月16日、広島国際会議場)に参列。<金子一士さんを偲び遺志をつぐ会
04 2016 ヨシダ・ヨシエ よしだ・ 86 本名:吉田早苗。出典:岡村幸宣「ヨシダ・ヨシエさんを悼む 「原爆の図に新たな命」」(『中国新聞』20160119)。本名=吉田早苗=よしだ・さなえ、美術評論家。『戦後前衛所縁荒事十八番』(ニトリア書房、19720805)
05 2000 伊藤サカエ いとう・さかえ 88 日本原水爆被害者団体協議会代表委員。広島県被団協理事長。広島県呉市生まれ。広島市鶴見橋で建物疎開作業の勤労動員中に被爆。矢野町議会議員、同町婦人会長などを歴任。「伊藤サカエさんを語る会」(広島市原爆被害者の会主催、2013年4月16日。4回目の「先人を語る会」)
05 2012 林光 はやし・ひかる 80 作曲家。1971年合唱曲「原爆小景」。「反核・日本の音楽家たち」の呼びかけ人」。
06 1998 安江良介 やすえ・りょうすけ 62 岩波書店社長。大江健三郎の広島取材を編集者として支える。1998年8月15日、日本ジャーナリスト会議広島支部「8・15不戦の夕べ」で講演「戦後民主主義とヒロシマ」。
07 1989 裕仁 ひろひと 87 追号:昭和天皇。宮内庁ホームページhttp://www.kunaicho.go.jp/
07 1996 岡本 太郎 おかもと ・たろう 84 芸術家。メキシコで制作した壁画「核の神話」の広島市への誘致運動が起こる。
08 1975 山田節男 やまだ・せつお 76 広島市長。1969年ハマーショルド記念国際平和賞受賞。[70ヒロシマ会議]。『山田節男追想録』。<別記>
08 1994 サマヴィル、ジョン・M・ 88 米国の哲学者。『平和のための革命』(ジョン・サマヴィル、芝田進午訳、岩波書店、19741216)
09 1978 久保良敏 くぼ・よしとし 64 [51広島大学平和問題研究会理事(皆)]。広島大学名誉教授。産業社会心理学専攻。被爆直後の人間の心理を初めて学問的に分析。遺された資料を一時預かる。
09 1885 藤井日達 ふじい・にちだつ 99 日本山妙法寺の山主。1982年の国連軍縮特別総会に参加するなど平和運動に貢献。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。『毒鼓(どっく)』(藤井日達、わせだ書房、1961.5.10)。『写真集 撃鼓宣令』 (柏樹社、19850528) http://nipponzanmyohoji.net/
09 2005 小川修三 おがわ・しゅうぞう 81 『小川修三博士を偲んで』(小川修三先生追悼文集発行呼びかけ人、200606)
10

 

1951

 

仁科芳雄 にしな・よしお 61

 

物理学者。岡山県生まれ。理化学研究所で1943年に原爆開発のための「二号研究」を発足させる。被爆直後の広島・長崎で調査。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。<別記予定>。『広島県史 原爆資料編』に関連資料を収録。
10 1967 パールRadhabinod Pal 71 インド人法律家。東京裁判でインド代表判事を務める。彼の原爆慰霊碑の碑文についての発言をめぐり論争が起こる。『日本無罪論』、『平和の宣言』。
10 2025 堀場 清子 ほりば ・きよこ 94 詩人 、 女性史 研究者。戦争と平和を考える詩の会会員。
11 1966 大原博夫 おおはら・ひろお  71 衆議院議員。広島県会議員、同議長。広島県知事。広島県医師会長。『大原博夫伝』(大原博夫追想録編集委員会、1971.3.20)
11 1998 レイノルズ、アール れいのるず 87 広島の反核運動の先駆者で米国の人類学者。1960年、広島女学院客員教授。参考サイト=「バーバラ・レイノルズ」、「年表 レイノルズ夫妻」、「広島平和科学研究所
11 2015 カートライト、T 90 米軍B24爆撃機の元機長。広島で捕虜となった同僚を原爆で失う。出典:『中国新聞』20150116(金崎由美・記)
11 2020 八杉康夫 やすぎ・やすお 92 戦艦大和の元乗組員で生還者。広島の救援活動で入市被爆。著書『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』(八杉康夫著、栗野仁雄<構成>、ワック、20021208)
12 2021 半藤一利 はんどう・かずとし 90 作家。日本近現代史を対象とした。
12 2019 市原悦子 いちはら・えつこ 82 俳優。映画「黒い雨」(今村昌平監督)に出演。
13 2000 赤松俊子 あかまつ・としこ 87 →丸木俊。『広島県現代文学事典』
13 2000 丸木俊 まるき・とし 87 画家。疎開先の浦和市から広島に入市し被爆。夫・位里と『原爆の図』全15部を制作。世界平和文化賞(1953年)、国際童画ビエンナーレのゴールデンアップル賞(1971年)、朝日賞(1995年)などを受賞。
13 2016 広瀬方人 ひろせ・まさひと 85 長崎被爆者。
14 1992 於保源作 おぼ・げんさく 87 広島市医師会副会長。被爆者の癌の疫学的研究の草分け。広島原爆障害研究会。『面影 原爆ガンと取組んだ町医者 於保源作』(小川加弥太・於保信義編、渓水社、1993.1.14)
15 1983 大西良慶 おおにし・りょうけい 107 京都、清水寺貫首[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]1981年、7月、京都の宗教家らと「核兵器廃絶アピール」発表。[82推進連絡会議呼びかけ人]
15 1984 中津泰人 なかつ 『慟哭・川柳句集』(中津泰人、19740725)。串かつ川柳会主宰。1973年に呉原爆被爆者友の会結成、同会会長。
15 1988 マクブライド、ショーン 83 アイルランドの政治家。1974年ノーベル平和賞、77年レーニン平和賞受賞。1977年広島市でのNGO主催の被爆問題国際シンポジウムに参加。
15 2005 松江澄 まつえ・きよし 85 1959年に日本共産党初めての県議。元広島県原水禁常任理事、元統一労働者党議長。
16 2002 いぬいとみこ いぬい・とみこ 77 本名乾富子。児童文学者。「いぬいとみこさんとヒロシマ 「体験」の壁執念の取材」(『中国新聞』2002.1.22 石井伸司記)。『広島県現代文学事典』(三浦精子執筆)
17 2025 黒瀬真一郎 くろせ・しんいちろう 83 学校法人広島女学院理事長など歴任。<資料年表:黒瀬真一郎>
17 2023 土井作治 どい・さくじ 92
18 2015 御庄博実 89 →丸屋博
18 2015 丸屋博 まるや・ひろし 89 1945年8月8日、広島入市。詩人(御庄博実)。広島共立病院名誉院長。
18 2015 丸屋博 ピカに灼かれて―被爆体験記(広島医療生活協同組合原爆被害者の会) | ヒロシマ遺文 (hiroshima-ibun.com)
ピカに灼かれて 第28集 終刊号 2005年7月15日
丸屋博『ヒロシマ随想 医師として被爆者として』
20 1974 ブランデン、エドモンド・ 77 英国の詩人。1948年広島訪問。広島市立中央図書館前に詩碑(1975年8月3日建立)。『広島県現代文学事典』(植木研介執筆)。
20 1990 田淵昭 たぶち・あきら 83 元広大医学部付属病院長。胎内被爆小頭症の調査に尽力。
20 2019 北西允 きたにし・まこと 93 「生きて 政治学者 北西允さん」(『中国新聞』2013年4月9日~27日、15回連載、担当:編集委員・西本雅実)。<別記
21 2008 浜本万三  はまもと・まんそう 87 広島県選出の元社会党参院議員。1974年に初当選し、通算3期。『花は想う人の側に咲く 浜本万三回顧録』(浜本万三、広島大学文書館(編)・現代史料出版・東出版(出版)2009.1)<別記
22 1994 灘尾弘吉 なだお・こうきち 94 江田島市出身。元衆議院議長。『灘尾弘吉先生追悼集』(中国新聞社メディア開発局出版部/編集協力、1996.12)
22 2018 河内光子 こうち・みつこ 86 広島女子商業学校2年の時、学徒動員先の広島貯金支局で被爆。御幸橋の救護所ので様子が松重美人撮影の写真に残る。出典:『読売新聞』20120805、『中国新聞』20180209、『朝日新聞』20180210(宮崎園子・記)
23 2008 相原秀次 あいはら・ひでつぐ 98 日本映画社の企画部員として広島・長崎への原爆投下直後から記録映画の製作に従事。
久保田明子「広島における原爆被災の映像と相原秀二資料について」
23 2011 喜味こいし きみ・こいし 83 漫才師。「喜味こいしさんを悼む 上方漫才の正道歩む」(権藤芳一記)「戦争やったらあかん 被爆体験とつとつと」(岩崎秀史記)(『中国新聞』2011.1.26)
23 2012 栗原真理子 くりはら・まりこ 76 被爆詩人・栗原貞子の長女。広島女学院大学の栗原貞子記念文庫開設に尽力(『朝日新聞』20120125)
24 2018 香川龍介 かがわ・りゅうすけ 85 画家。(『中国新聞』20180210)
25 1986 吉川清 きっかわ・きよし 74 「原爆 1号」と呼ばれ、被爆者運動に尽力。[原爆被害者の会代表者]。<別記
25 1994 森滝市郎 もりたき・いちろう 101 京都帝国大学卒。広島高等師範教授を経て広島大学文理学部教授。1953年から原爆孤児を支える精神養子運動を展開。広島県被団協理事長。広島大学。自宅で面識、資料閲覧。<別記
25 2011 石田忠 いしだ・ただし 94 一橋大名誉教授・社会学、元日本原水爆被害者団体協議会専門委員)。<別記
25 2023 林紀子 はやし・としこ  81 元アナウンサー。元参議院議員(2期)。日本共産党。宇吹メモ=1990年5月15日午後2時、 共産党国会調査団来所(=広島大学原爆放射能医学研究所)。林紀子、児玉健次など12人。宇吹助手が応対。
26 2019 葉佐井博巳 はさい・ひろみ 87 広島大名誉教授。広島の原爆被爆時、広島一中2年生。学徒動員先の兵器製作所(現廿日市市)できのこ雲を目撃。翌日に入市被爆。被曝線量推定方式を見直す日米合同研究グループの日本側座長。2002年、新しい推定方式「DS02」をまとめる。<別記「被爆建物等継承方策検討委員会」(広島市が1991年7月24日に設置)で同席。
27 2003 川村智治郎 かわむら・としじろう 96 明39(1906)年滋賀県生まれ。広島高等師範学校・広島文理科大学卒業。京都帝国大学理学部講師、広島文理科大学助教授等、広島大学理学部教授、同理学部長を経て、昭和41(1966)年、広島大学第3代学長。広島大学長に就任。両生類研究者、カエルの染色体の分析研究。広島大学附属両生類研究所所長。第52回日本学士院賞受賞。元広島文理科大学(旧広島大学理学部1号館)の保存を考える会(設立:1995年1月7日)会長<別記
27 2005 竹内武 たけうち・たけし 77 広島平和会館。
29 1986 鈴木直吉 すずき・なおきち 90 1948年広島県立医科大学教授。広島大学医学部教授。「鈴木直吉先生の御逝去を悼む」(片岡勝子記、『(広島大学)学内通信』1985.3.25)<別記
29 2013 熊田重邦 くまだ・しげくに 92 広島女子大学教授、広島県史編さん室室長、広島県立文書館館長<別記
30 2016 亀本和彦 かめもと・かずひこ 69 小学校・高校の同級生。「祖母も伯母もその日路面電車に乗っていて被爆し、また、父も翌日軍務で広島市街地に入って被爆」(彼のブログより)
31 2018 吉田治平 よしだ・じへい 95 845年8月6日の広島壊滅を福岡で聞く。軍命令で神奈川へ向かう途次の5日、上幟町の実家跡を掘り返す。1950年に広島自由労組を結成。1977年失対労働者100人の証言『わしらの被爆体験』を編む(西本雅実「評伝・吉田治平さん」『中国新聞』2018.2.9)<別記予定>
31 2023 久留島恵一 くるしま・けいいち 94

 

音戸高校時代に指導を受けた先輩教員。「呉を中心とした軍事基地の現状」(ビラ「米軍・自衛隊 基地調査告発全国交流呉集会の集まろう!!」(1975年)

12月忌(一覧)

12月忌(一覧)

没年 名前 よみ 享年 備考
02 2009 平山郁夫 ひらやま・いくお  79 『広島県現代文学事典』(西原大輔pp.415-417)。画家。平山郁夫美術館。資料年表:平山郁夫
03 1976 澤崎嘉衛 さわさき・よしえ 72 『組織活動ひとすじに~澤崎嘉衛先生を偲ぶ~』(社団法人広島県地区衛生組織連合会、1977.12.4)
03 2013 山口氏康 やまぐち・うじやす 91 『ヒロシマもう一つの顔』(山口氏康、青弓社、1986.4.9)。1971年広島市議。以後3期。
04 1980 アメラシンゲ、  あめらしんげ 67 アメラシンゲ、ハミルトン・シャーリー
1977年広島・長崎の平和式典に参加した元国連総合議長、死去。スリランカ出身。
05 1975 田辺勝 たなべ・まさる 69 広島県被団協(原水協系)理事長。広島県立工業学校の教師の時、動員学徒指導中の安芸郡海田町の工場から救援にかけつけ被爆。『読売新聞』・『中国新聞』1975.12.6~8  田辺勝
05 1999 葉室潔 はむろ・きよし 81 本名:谷原多郎。米モンタナ州生まれ。1968年広島市バレエ協会会長。「原爆主題に創作バレエ」(『中国新聞』1999.12.7)
05 2008 加藤周一 かとう・しゅういち 89 評論家。日米原子爆弾影響合同調査団の一員として広島入り。立命館大学国際平和ミュージアム(1992.5.19設立)初代館長。加藤周一
09 2009 村中好穂 むらなか・よしほ 84 日本共産党広島県委員会名誉県委員。2010年3月13日、「村中好穂さんをしのぶ会」(『赤旗』2010.3.14)資料年表:村中好穂
09 2022 北川建次 きたがわ・けんじ 87 1935年生。広島大学教育学部教授、附属東雲中学校長。資料年表:北川建次。
10 1963 大田洋子 おおた・ようこ 60 [原爆被害者の会東京協力会世話人]。第4回女流文学賞(1952年)、文化人会議昭和29年度平和文化賞。『広島県現代文学事典』(岩崎文人執筆。pp.233-234)資料年表:大田洋子
10 1963 高田 静雄 たかだ・ しずお 54 砲丸投げのオリンピック(1936年ベルリン)選手。中国配電本店(勤務先)で被爆。長女千鶴子(広島女学院高女2年)は動員先で被爆し死亡。資料:西本雅実「被爆オリンピアンの視点」(『中国新聞』20180716)。19090305生
10 2001 江戸屋猫八 えどや・ねこはち 80 本名:岡田八郎。「江戸屋猫八さん死去 物まね名手 広島で被爆 後遺症・‥高座で体験語る」(『中国新聞』2001.12.11)江戸屋猫八(3代目)
11 1988 任都栗司 にとぐりつかさ 91 『任都栗司資料目録(原爆被爆者援護関係)』(広島市公文書館、19880630)。元広島市議会議長。任都栗司
13 2003 清水栄 しみず・さかえ 88 京都大学名誉教授。「清水栄日記 昭和20・8・6~12・7」(『広島県史 原爆資料編』pp.521-551)。清水栄
14 2014 松尾尊兊 まつお・たかよし 85 日本近現代史研究者。
15 1997 関寛治 せき・ひろはる 70 元広島大学平和科学研究センター長。関寛治
15 2001 島原帆山 しまばら・はんざん 100 山流尺八演奏家。重要無形文化財保持者(人間国宝)。広島市名誉市民。広島被爆者。原爆投下翌日、衛兵をしていた八本松町(現東広島市)の海軍弾薬庫からトラックで広島市内へ。『中国新聞』2001年8月3日付。『竹韻一路 人間国宝島原帆山』(島原帆山、新芸術社、1990.5.8)。佐伯好郎墓前で島原帆山の尺八演奏。 島原帆山
15 2007 山瀬明 やませ・あきら 81 『山瀬明さんを偲んで』(2008.2.2)=「故山瀬明さんを偲ぶ会 於.光徳会館」での配布資料。山瀬明
16 1988 小磯良平 こいそ・りょうへい  85 洋画家。19030725生。1950年8月予定の広島市平和祭(直前に中止)のポスター原画を制作。小磯良平
16 2008 竹下虎之助 たけした・とらのすけ 84 広島県知事(1981-1993年)。「評伝竹下前広島知事」(『中国新聞』20081217、桝田勲・記) 竹下虎之助
16 2017 早坂暁 はやさか・あきら 88 海軍兵学校在学中に終戦。被爆直後の広島の惨状を目撃。脚本家・作家。「夢千代日記」シリーズなど。「市民が描いた原爆の絵」 を陶板画の碑にして広島市内に建立する運動を提唱(『中国新聞』2002.2.22)。『広島県現代文学事典』(森本穫執筆。Pp.404-405) 早坂暁
17 1992 アンデルス・ギュンター あんでるす 90 『橋の上の男 広島と長崎の日記』(ギュンター・アンデルス、篠原正瑛訳、朝日新聞社、 1960.8.1)。『ヒロシマわが罪と罰 原爆パイロットの苦悩の手紙』(クロード・イーザリー、ギュンター・アンデルス、篠原正瑛訳、筑摩書房)。
18 2015 藤田雄山 ふじた・ゆうざん 66 広島県知事。1993年11月~2009年11月。 藤田雄山
19 1979 丸山益輝 まるやま・ますてる 60 1966年広島大工学部教授。同大平和科学研究センターの設置・運営に尽力。1979年12月19日中国・南京で死去。広島大学大学教育研究センター長。
19 2012 中沢啓治  なかざわ・けいじ 73  漫画家。『「ヒロシマ」の空白 シリーズ 昭和とはなんであったか』(中沢啓治、日本図書センター、1987.8.25)。『広島県現代文学事典』(小西清美pp.384-385) 中沢啓治
20 1983 武見 太郎 たけみ ・たろう 79 日本医師会会長や世界医師会会長を歴任。『戦前戦中戦後』(武見 太郎、講談社、19820310)
20 1983 渡辺鼎 わたなべ・かなえ 93 広島大学文学部長。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起)]。原水禁世界大会(1955年)開催に貢献。 渡辺鼎
20 2023 植木 研介

うえき・けんすけ

79 広島大学名誉教授。1990年代に広島市平和公園のレストハウスの保存を訴える。資料年表:植木 研介。
21 1997 片岡脩 かたおか・おさむ 65 グラフィック・デザイナー。旧制広島一中1年生の時、原爆に被爆。「被爆者デザイナー故片岡脩さん制作平和ポスター託す 広島市立大に106枚(田原直樹記者)」(『中国新聞』2008.7.26) 片岡脩
21 2004 今西祐行 いまにし・すけゆき 81 児童文学作家。『広島県現代文学事典』(山元隆春執筆。Pp.212-214) 今西祐行
22 1994 乙羽信子 おとわ・のぶこ 70 女優。映画「原爆の子」に出演。1978年1月新藤兼人と結婚。 乙羽信子
22 2000 千田夏光 せんだ・かこう 76 作家。『赤旗』に小説「終焉の姉妹」を連載。 千田夏光
22 2004 山本良雄 やまもと・よしお 87 『ヒロシマを生きる』(山本良雄、19980920)大津市被爆者友の会 277
23 1985 三村明 みむら・あきら 84 映画撮影監督。被爆直後、米戦略爆撃調査団の映画班に加わる。『聖林からヒロシマへ 映画カメラマン・ハリー三村の人生』(工藤美代子、晶文社、1985.2.22) 三村明
23 2008 平田嘉三 ひらた・かぞう 83  文部省初等中等教育局教科書調査官。広島大学教育学部教授。1980年12月15日、家永教科書裁判第一次訴訟第二審で国側証人として出廷(東京高裁)。「洗礼という言葉には、人を祝福するニュアンスがあり、原爆という悲惨な事実を示すにはなじまない。教科書では主観的・比喩的表現は避けた方がいい」。(浪本勝年「第1次教科書訴訟控訴審の審理過程」)。 平田嘉三
23 2018 大田堯 おおた・たかい 100 元日本教育学会会長。「平和・軍縮教育-3つの視点- 大田堯 121」(『世界の平和・軍縮教育 1982年国際シンポジウム報告書』WCOTP、日教組報告書編集委員会編、勁草書房)大田堯 
24 1951 木原一郎 きはら・いちろう 67 戦後初の広島市長。 木原一郎
24 1986 松下正寿 まつした・まさとし 85 元立教大学総長、元参議院議員。核禁会議議長。1957年に特使として渡英、英に核実験中止を訴え。 松下正寿
25 2007 井内慶次郎 いない・けいじろう 83 旧制広島高、東京大法学部を卒業。1947年に文部省(現文部科学省)に入り、大学局長などを経て、78年から80年まで事務次官。藤居平一追悼集に寄稿。
26 1925 レツル、ヤン れつる 45

 

産業奨励館(原爆ドーム)を設計したチェコ人建築家。「ヤン・レツルの年表」pp.218-220(『レツルの黙示録』オルガ・ストルスコバ、佐々木昭一郎監訳、NHK出版、1995.7.20) レツルの黙示録
26 1972 トルーマン、ハリー・S・ とるーまんHarry S.Truman 88 アメリカ合衆国第33代大統領(1945~1953)。民主党出身。原爆投下を指令。 トルーマン
26 1978 畠中敬恵 はたなかよしえ 58 きのこ会会長。山代巴の紹介で面会。
27 2007 川島孝郎 かわしま・たかお 1937年大連生まれ。広島大学教育学部卒。共著『岩波DVDブック Pesce Archives 平和ミュージアム』
28 1957 浦廉一 うら・れんいち 62 『浦廉一博士を偲びて―その小伝』(故浦廉一先生追悼事業会、1958.12.28)。広島高等師範学校教授(東洋史)の時被爆。
28 2013 吉川生美 きっかわいきみ 92 三次市出身。爆心地から約1・6キロの現広島市中区西白島町で被爆。夫は、「原爆1号」と呼ばれた吉川清。資料年表:吉川生美
29 1968 久富達夫 ひさとみ・たつお 情報局次長(1945.4~8.22)。<松前重義「終戦に導いた原爆の報告」(『久富達夫』(久富達夫追想録編集委員会<出版共同社内>、同刊行会、1969.12.15、pp.288-290>)
30 1975 稲富 栄次郎 いなとみ・えいじろう 78 広島文理科大学助教授の時被爆。教育哲学会会長。『世紀の閃光』(稲富 栄次郎著、銀のの鈴広島図書発行、19491220)。『広島原爆記 未来への遺書』(稲富 栄次郎著、講談社、19730801)。稲富栄次郎
30 1983 矢吹憲道 やぶき・ 80
30 1988 ノグチ・イサム のぐち 84 日系米国人の彫刻家。広島市の平和大橋などを設計。イサム・ノグチ
30 2014 ドレイゴ、カレリア どれいごかれりあ 93 白系ロシア人。父が広島女学院の音楽教師。牛田の自宅で被爆。
31 2022 郭貴勲  くぁく・くぃふん 98 韓国原爆被害者協会名誉会長。

松本卓夫

 松本卓夫

まつもとたくお 19生
19861128没
原爆被爆時の広島女学院院長。1948年9月~50年1月、渡米。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。1964年に広島・長崎世界平和巡礼団団長として各国を歴訪。

 

参考資料 平和巡礼
文献 原爆体験と世界平和
(『その日の広島-キリスト者の原爆体験』所収)
『関西学院史紀要』第9号(2003年3月24日発行 A5版244頁)
[シリーズ・関西学院の人びと] 神田 健次5.松本卓夫6.谷本 清
年表

 

 

1947/8/– 米でも8月6日に「広島デー」。松本卓夫広島女学院長に友人の米人宗教家から連絡
1948/1/– 米教育界から広島女学院に留学の招請状。松本卓夫院長にも被爆状況の講演依頼 出 典(新聞掲載日など):
1950/1/8 1948年9月以来、渡米し平和講演などしていた広島女学院の松本卓夫院長が広島帰着 出 典(新聞掲載日など):
1964/1/17 広島・長崎世界平和巡礼団の広島関係メンバー決まる。松本卓夫元広島女学院長、志水清広島大原医研教授ら15人 出 典(新聞掲載日など):
1964/4/16 第2回広島・長崎世界平和巡礼団が広島出発。広島市平和記念館で結団壮行式。団員40人が2カ月をかけ欧米、ソ連など8カ国を回る。松本卓夫団長(元広島女学院長)が「原爆という共通の苦悩を背負っ
1964/7/4 1964/7/6 市民 広島・長崎世界平和巡礼団が広島市の平和記念館で市民への帰国報告集会。松本卓夫団長が「巡礼団は世界平和のためのタネまきだった。今後はその成長と収穫を繰り広げなければならないと痛切に感
1964/7/6 広島・長崎世界平和巡礼団が広島市の平和記念館で市民への帰国報告集会。松本卓夫団長が「巡礼団は世界平和のためのタネまきだった。今後はその成長と収穫を繰り広げなければならないと痛切に感
1970/6/22 米市民に核兵器の廃絶と世界平和を訴える「広島・長崎平和使節団」(団長、松本卓夫広島ワールド・フレンドシップ・センター館長、6人)が羽田を出発 出 典(新聞掲載日など):06・23
1970/8/2 訪米中の広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長)がミネソタ州セントポールの教会で原爆慰霊式 出 典(新聞掲載日など):08・3夕
1970/8/3 訪米中の広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長、6人)が国連で記者会見。松本団長「原爆の無差別殺害は正当化できない犯罪である」。会見に先立ち、リーゼン・ニューヨーク市長らと懇談 出 典(新聞
1970/8/22 全米で核兵器の廃絶と世界平和を訴えた広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長)の6人が帰国。6月22日に日本を出発し、米の50余りの都市を訪問 出 典(新聞掲載日など):08・22夕
1970/8/30 全米で核兵器の廃絶と世界平和を訴えた広島・長崎平和使節団が広島市の平和記念館で報告会。松本卓夫団長「今回の使節団は個別に行動し、小さな集会に主眼を置き平和を訴えた。25周年というこ
1971/7/17 1964年、広島・長崎平和巡礼団の一員としてトルーマン米大統領に会見した松本卓夫団長が、中国新聞のインタビューで「原爆投下を命じた責任者の口からは、通りいっぺんの返事しかなかった。

出典:その日の広島-キリスト者の原爆体験(新教出版社編集部編、新教出版社、1965年7月31日)
翌年の二月には、牛田山の校地にバラックの校舎と講堂とを建てて、はじめて学院自体の設備で授業を行ない、二年後には、上流川町の校庭に、やや校舎らしい建築をし、大講堂を加えた。市内の諸学校の中で、このように復興し得たのは広島女学院が最初であった。当時の文部大臣森戸辰男氏はわざわざ東京から来て、鄭重な祝辞を述べて下さった。
この建設が一応完成したころ、わたしの容体がまた悪化し出したので、米国メソジスト教会世界伝道局の招きにより渡米療養をすることになった。わたしは、被爆者にして渡米した最初の日本人であったため、かなり好奇の的になり入院中はモルモット扱いされて、いろいろの治療を実験的に試みられた。しかし、どうやら一カ月余にわたる治療のおかげで健康を回復しえたのであるが、その後一カ年半の長きにわたって、ほとんど米国全土を旅行し、諸教会、諸学校、またいろいろの文化団体の招きを受けて、原爆の経験を語り、平和を訴えて回った。
このような非人道的な戦争や手段を今後絶対に防止し、真の世界平和を実現しなくてはならないことを痛感し、平和運動を促進している人々や団体が数多くあることは、周知のとおりである。
とくに、広島および長崎の被爆者たちは、彼らの悲惨な体験から、ノー・モア・ヒロシマを訴える使命を痛感し、昨春、世界平和巡礼団を組織し、北米、カナダ、英国、フランス、東西ドイツ、およびソヴィエト・ロシアの諸国をニカ月半にわたって歴訪し、講演、座談、論議、合同研究を試みた。総勢四○名(通訳者として同伴した一二名の学生を含めて)であったが、抽象的な一般論でなくて痛切な被爆の体験に基づいて訴えたので、聴く人々に非常な感銘を与えた。また、社会の各層を代表する多種多様の者たちを網羅した巡礼団であったことも、特色があり有意義であったと思う。農家の主婦あり、保育院の保母あり、労組の主事、文筆家、新聞記者、学校長、教員、仏僧、医者、科学者といった顔ぶれであり、したがって諸外国のそれぞれのグルーブと懇談し意見の交換をする便宜を得た。
事実、この巡礼団の目的は、あわれなお涙ちょうだい式の泣きごとを述べ歩くことではなく、諸外国の人々と研究的に語りあい、どうしたら戦争を防止し平和を促進しうるかについて意見を交換することにあったのである。したがつて、われらの同志科学者は、しばしば、フランスやアメリカの知名な物理学者たちと個別的に対談したし、わたしはたびたぴキリスト教指導者たちとの会合に臨んだし、医者たちは先方の医師会の人々と医学的方面からの合同論議に参加するという方法をとった。もとより、大きな講演会を催して大衆に訴えることもした。ニューヨーク市力-ネギー・ホールに約三千人を集めての講演会、パリの公会堂における盛大な平和強調の会、モスクワのゴリキー記念公園内で数千の聴衆を迎えての大会など、その著しい例であった。知名の士との面接も有意義であった。米国元大統領トルーマン、カナダ外相バウル・マーティン、国連事務総長ウ・タント、ベルギー王バウドワンのかたがたとの面談は、単に儀礼的なものではなかったと思う。ワシントンの国会議事堂内で、上院下院議員がたとかなりつっこんだ論議を試みたが、これまた効果的であったと信じる。諸大学での率直な議論は痛快でもあった。巡礼旅行の全行程中で行なった会合は約五百回にのぼった。ラジオ、テレビなどには数十回もひっぱり出されたが、これらのマス・コミをとおして、わたしたちは数百万の人々に語りかけることができたと言えよう。

1942年 4月 松本卓夫が、院長兼専門学校長、高等女学部長として就任。
1943年 4月 高等女学部は高等女学校令による「広島女学院高等女学校」として、文部省によって認可を受け、松本院長が校長を兼ねた。
1945年 8月 6日午前8時15分、広島に原爆投下。生徒・教職員330余名の犠牲者を出し、校舎、施設のいっさいを失った。
1945年10月 牛田国民学校の一部を借用して授業を再開。
1946年 2月 牛田山の校地にバラック校舎を建築、授業を継続。
1947年 4月
新制中学校発足。高等女学校は中学校3年と高等学校3年に改編されることとなり、当時の高女1年生は、そのまま「広島女学院中学校1年生となった。
1947年 8月 上流川校地(現上職町)に仮校舎と講堂、寄宿舎を建てて、牛田の校地より復帰。
1948年 4月 新制高等学校発足(普通科科、英語科、家庭科)。
1948年 8月 高等学校木造校舎、東校地の西南側に建築。
1949年 4月 新制大学発足。牛田校地に大学英文学部英文学科開学。
1950年 4月 牛田校地に短期大学部家政科開学。

 

石井金一郎

石井金一郎

いしい・きんいちろう 19220402生19670621没 享年45 [52広島平和問題談話会](広島女子短期大学助教授)。[54世界平和集会世話人(発起)]。元広島大学教授。日本原水協専門委員。

資料年表:石井金一郎<作業中

年月日
1922
0402 誕生
1960
0825 『戦後日本の国家権力』(現代史研究会、三一書房)
1965
 0520 『 現代憲法読本』(法律文化社)
1967
0621

 

川手健

川手健

かわて・たけし 19310213生
19600428没
広島市大手町生まれ。県立忠海中学校在学中に広島の工場に動員中被爆。広島高等学校理科を経て広島大学文学部を専攻。1952年、原爆被害者の会を結成。東京都内で自殺。29歳。

資料

文献
19521101 川手健「七年後の廣島」(『新日本文学』)
19530625 『原爆に生きて 原爆被害者の手記』(原爆手記編纂委員会、三一書房)
19540215 『風のように炎のように-峠三吉追悼集』
19550109 川手健「原爆被害者の青年クラブのこと」(『われらのうたの会』第3号)
19950806 『川手健を語る』(川手健を語る会編、ウイウド・岡本智恵子)

資料

川手健=「原爆被害者自身の口から全世界に向って原爆の惨禍と平和の必要を訴えるその意義は大きい。原爆の投下が世界史的な大事件であるなら、その被害者が立上がって原爆の反対を叫ぶこともまさに世界史的な出来事である。このことの重要性についてはまだまだ本当に考えている人は少ない様に思う。」
(「半年の足跡」、『原爆に生きて』、三一書房、1953年、所収)