日 |
没年 |
氏名 |
読み |
享年 |
備考 |
01 |
19610301 |
手塚良道 |
てづか・よしみち |
72 |
広島文理科大学教授(漢文学)の時被爆。「奇怪な火焔」<被爆場所:爆心より2000米、当時の住所:白島中町72-1、広島文理科大学教授、55歳>(『原爆体験記』広島市民局社会教育課編、広島平和協会刊、19500806)pp.81-85。 |
01 |
20030301 |
藤田進 |
ふじた・すすむ |
|
参議院議員5期、第2代総評議長、大阪工大摂南大学総長・理事長。 |
01 |
20040301 |
飯島宗一 |
いいじま・そういち |
81 |
広島大学学長(1969~1977年)。追悼記=庄野直美(『中国新聞』20040305)、来栖武士郎(『中国新聞』20040327)、高木新(『朝日新聞』20040330)。 |
01 |
20110301 |
クラウス・ルーメル |
|
94 |
1937年に来日。イエズス会の長束修練院<広島市安佐南区>で被爆。 |
01 |
20140301 |
アラン・レネ |
|
91 |
フランス・ヌーベルバーグとなった映画監督。「24時間の情事(ヒロシマ・モナムール)」(1959年) |
01 |
20180301 |
佐藤行通 |
さとう・ぎょうつう |
99 |
日本山妙法寺僧侶、社会運動家。『日本中が私の戦場 平和を求める宗教者の手記』 (東邦出版社、1970730) |
01 |
20190301 |
大井健二 |
おおい・けんじ |
72 |
[退任教員の履歴と業績]大井健二(『広島国際研究 2012』第18巻、広島市立大学国際学部、2012/11/30) |
02 |
19800302 |
安井郁 |
やすいかおる |
72 |
[原水爆禁止世界大会日本準備会事務総長]。日本原水協顧問。『道-安井郁 生の軌跡』(「道」刊行委員会編、法政大学出版局、1983/08/06) |
03 |
19890303 |
岸本吉太 |
きしもと |
|
広島市で写真店経営(被爆者)。被爆直後から被爆の惨状を撮影し続け、1981年に原爆資料館に写真を寄贈。広島原爆被災撮影者の会のメンバー。 |
03 |
20000303 |
伊東壮 |
いとう・たけし |
70 |
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員、元山梨大学学長。広島市生まれ。広島一中3年の時、動員先の兵器工場で被爆。東京・国立被爆者の会の結成に参画、東京都原爆被害者団体協議会事務局長、日本被団協事務局長などを歴任。江種則貴「評伝」(『中国新聞』2000.3.6)、本田雅和「惜別」(『朝日新聞』2000.4.12) |
03 |
20090303 |
伊藤明彦 |
いとう・あきひこ |
72 |
長崎の入市被爆者。長崎放送記者だった1968年、担当したラジオ番組をきっかけに被爆者の声の証言の収録を始める(高見浩太郎=共同「この人」『中国新聞』20080621)。石井みちこ「伊藤元記者をしのぶ」(『中国新聞』20090308投書欄)<参照:原爆ジャーナリスト> |
04 |
19870304 |
北村西望 |
きたむら・せいぼう |
102 |
彫刻家。長崎市の「平和祈念像」の制作者。 |
04 |
20170304 |
長友啓典 |
ながとも・けいすけ |
77 |
グラフィックデザイナー。2010年に「ヒロシマ・アピールズ」を制作。参照:HIROSHIMA APPEALS ARCHIVES http://hiroshima.jagda.or.jp/appeals.html |
05 |
19710305 |
山本正房 |
やまもと・まさふさ |
72 |
中国新聞社長(1958年9月~)、同会長(1969年11月~)。『山本正房追悼録』(1971.8.15) |
05 |
19720305 |
神田周三 |
かんだ・しゅうぞう |
78 |
洋画家。広島で被爆。広島平和美術展設立に参加。(『広島県大百科事典』岡本隆寛・記) |
05 |
19780305 |
島本正次郎 |
しまもとしょうじろう |
92 |
広島県被団協理事。『理容生活六十五年』(島本正次郎、1966/08/06) |
05 |
19910305 |
内田恵美子 |
うちだ・えみこ |
|
広島大学原医研事務官。職場の同僚<投稿> |
06 |
19730306 |
バック、パール・ |
ばっく、ぱーる |
80 |
アメリカの小説家。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。<投稿> |
06 |
20050306 |
栗原貞子 |
くりはら・さだこ |
92 |
詩人・歌人・評論家。『広島県現代文学事典』(川口隆行・記)。広島原水禁常任理事 http://www.gensuikin.org/gnskn_nws/0505_1.htm<投稿> |
06 |
20240306 |
児玉正昭 |
こだま・まさあき |
|
広島県史編さん室勤務時期の宇吹の上司。 |
06 |
20240306 |
五百籏頭眞 |
いおきべ・ まこと |
|
政治学者 、 歴史学者 (日本政治外交史)。広島大学勤務期に面識あり。 |
07 |
19840307 |
浅田常三郎 |
あさだ・つねさぶろう |
85 |
物理学者。『町人学者 産学連携の祖 浅田常三郎評伝』(増田美香子編、毎日新聞社、20080419) |
08 |
19960308 |
下江武介 |
しもえ・ |
92 |
広島県被団協理事。<投稿予定> |
08 |
20010308 |
田畑茂二郎 |
たばた・しげじろう |
89 |
京大名誉教授。原爆投下は国際法違反と鑑定。 |
08 |
20180308 |
大田萩枝 |
おおた・はぎえ |
96 |
1942年、広島県立病院勤務。核戦争防止国際医師会議(IPPNW)第9回世界大会(広島)で被爆体験を語る。西本雅実「大田萩枝さん死去 被爆医師 救護に奔走」『中国新聞』20180402)。 |
09 |
19520309 |
松田重次郎 |
まつだ・じゅうじろう |
77 |
梶山季之著『松田重次郎』(時事通信社、1966/02/25)<投稿> |
10 |
19530310 |
峠三吉 |
とうげ・さんきち |
36 |
[52広島平和問題談話会](新日本文学会広島支部長)。[原爆被害者の会幹事]。広島県西条国立療養所で死亡。(『広島県大百科事典』大原三八雄・記)『広島県現代文学事典』(川口隆行・記)<投稿> |
10 |
19920310 |
久保仲子 |
くぼ・なかこ |
64 |
愛媛県原爆被害者の会会長。藤居平一聞き書きに登場。原爆死没者慰霊碑 |
11 |
20190311 |
諏訪了我 |
すわ・りょうが |
85 |
浄土真宗本願寺派浄寶寺前住職。<投稿予定> |
12 |
19720312 |
モリス、アイラ |
もりす・あいら |
68 |
フランス在住の米国人作家。「広島憩いの家」の生みの親。妻エディタとともに広島市特別名誉市民(1967年4月)。(『広島県大百科事典』田辺耕一郎・記) |
12 |
19840312 |
渡辺嶺男 |
わたなべみねお |
63 |
元広島大学原医研から鳥取大学医学部教授。コンピューターによる被爆者の疫学研究。1976年12月、78年11月、79年12月、81年12月に原医研で講義。ネットワークの概念について学ぶ。 |
13 |
19510313 |
原民喜 |
はら・たみき |
45 |
詩人・小説家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)1919年広島高師附中入学。慶応義塾大学に進む。千葉から郷里の広島に疎開中被爆。東京・西荻窪で鉄道自殺。広島市本通り商店街の商店で原時彦氏(民喜の甥)に被爆時民喜が所持していた手帳を閲覧させていただく。 |
13 |
19930313 |
渡辺千恵子 |
わたなべ・ちえこ |
63 |
長崎原爆乙女の会を結成。映画「生きていてよかった」に藤居平一に抱かれて外出した映像あり。 |
14 |
19960314 |
木村一治 |
きむら・もとはる |
|
『核と共に50年』(木村一治、築地書館、1990.10.18)<投稿> |
14 |
20010314 |
芝田進午 |
しばた・しんご |
70 |
哲学者。反核文化論を提唱。広島大学教授(1976~93年)。担当する平和科目での講義(2コマ)を依頼される。<投稿> |
15 |
19880315 |
モリス、エディタ |
もりす・えでいた |
|
小説家・平和活動家。夫アイラとともに広島市特別名誉市民(1967年4月)。『広島県現代文学事典』(植木研介・記) |
16 |
19890316 |
太田司朗 |
おおた・しろう |
85 |
元広島大学助教授。元エリザベト音楽大教授。広島平和記念公園の「平和の時計塔」から流れる「平和の時計塔の歌」の作詞・作曲者。 |
17 |
19980317 |
下程勇吉 |
したほど・ゆうきち |
|
1904年10月6日 – 1998年3月17日 広島県安佐郡戸山村生。1924年3月広島県立第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。1927年3月広島高等学校(文科乙類)卒業。
1930年京都帝国大学文学部哲学科卒。1937年京都府立医科大学予科教授。1947年、京都大学助教授、「天道と人道 二宮尊徳の哲学」で、文学博士(京都大学)を取得。1948年京都大学教授。教育学部創設に参加し1951年から学部長。「京大原爆展」調査の中で名前を知る。その後親族の結婚式で面識。 |
17 |
20020317 |
後藤陽一 |
ごとう・よういち |
88 |
広島大学名誉教授。恩師・道重哲男の恩師(投稿) |
18 |
19940318 |
天野卓郎 |
あまの・たくろう |
68 |
広島県史編さん室。職場の上司。(投稿) |
19 |
20170319 |
今田洋子 |
いまだ・ようこ |
73 |
1歳の時、母に背負われ入市被爆。広島平和記念資料館でピースボランティア。「シュモーに学ぶ会」代表。「今田洋子さん死去 シュモーに学ぶ会代表 私が広島の思い伝えなければ」(『朝日新聞』20170321 岡本玄・記) |
20 |
19650320 |
峠和子 |
とうげ・かずこ |
56 |
峠三吉の妻。 |
20 |
20170320 |
肥田舜太郎 |
ひだ・しゅんたろう |
100 |
被爆当時、広島陸軍病院所属の軍医。日本原水爆被害者団体協議会原爆被爆者中央相談所理事長などを歴任。(投稿) |
21 |
19980321 |
竹内千代 |
たけうち・ちよ |
90 |
ワールド・フレンドシップ・センターの創立メンバー。平和を願う友の会代表。 |
21 |
20020321 |
高木昌彦 |
たかぎ・まさひこ |
76 |
元大阪大学医学部。カザフスタンで医療ボランティア活動。 |
21 |
20180321 |
吉田嘉清 |
よしだ・よしきよ |
92 |
平和運動家。元原水爆禁止日本協議会代表理事。『人間銘木 藤居平一追想集』に寄稿。 |
22 |
20050322 |
丹下健三 |
たんげ・けんぞう |
91 |
建築家。 |
23 |
19930323 |
芹沢光治良 |
せりざわ・こうじろう |
|
小説家。『広島県現代文学事典』(村上林造・記) |
23 |
20170323 |
佐古美智子 |
さこ・みちこ |
85 |
原爆による心身の傷を歌った「ほほえみよ還れ」の作詞者。渡米治療。(出典『中国新聞』20170324) |
24 |
19930324 |
ハーシー、ジョン |
はーしーJohn Hersey |
78 |
広島のルポルタージュ「ヒロシマ」の著者。2002年の広島市の平和宣言(秋葉市長)に著書『ヒロシマ』が取り上げられる。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)。<投稿> |
24 |
20140324 |
新堀 通也 |
しんぼり・みちや |
92 |
教育学者・社会学者。「大学研究者の履歴書
」、「新堀通也(しんぼりみちや)先生【全6回】(広島大学・武庫川女子大学名誉教授)」、『新堀通也、その仕事』(新堀通也先生追悼集刊行委員会編 東信堂、2015) |
25 |
20140325 |
シェル、ジョナサン |
しぇる、じょなさん |
70 |
2000、2007年に広島を訪問。パネリストを務める。2002年の広島市の平和宣言(秋葉市長)に著書『地球の運命』が取り上げられる。 |
26 |
19940326 |
山口誓子 |
やまぐち・せいし |
|
俳人。『広島県現代文学事典』(山下航正・記) |
26 |
20190326 |
萩原健一 |
はじわら・けんいち |
68 |
俳優・歌手。広島大学原爆放射能医学研究所でロケしたNHKドラマ「されど、わが愛」(19950805放映)に出演。撮影当日(19950419)、宇吹の研究室が彼の休憩所になる。 |
28 |
19850328 |
河村郷四 |
かわむら・さとし |
82 |
第23代広島商工会議所会頭。『河村郷四追想録』(河村郷四追想録編纂委員会、19860315) |
30 |
19950330 |
ダーリング、ジョージ |
だーりんぐ |
89 |
George B. Darling. 1957年~1972年原爆傷害調査委員会(ABCC) 所長。米国学士院が招聘した時、エール大学の人類生態学教授。http://www.rerf.or.jp/glossary/darling.htm |
30 |
20140330 |
四国五郎 |
しこく・ごろう |
89 |
『広島県現代文学事典』(西原大輔・記)。広島市広報課所蔵の写真調査でお世話になる。 |
31 |
19900331 |
山田信蔵 |
やまだ |
|
バーバラ・レイノルズに日本語を教えたのが縁で、1964年に第2回世界平和巡礼に参加。 |
31 |
20020331 |
川本義隆 |
かわもと・よしたか |
69 |
広島平和記念資料館館長(1983年4月~1993年3月)。<資料年表:川本義隆> |
31 |
20190331 |
久保田訓章 |
くぼた・のりあき |
86 |
広島東照宮名誉宮司。<投稿> |