「01 月忌」カテゴリーアーカイブ

0-01月忌(一覧)

  1月に亡くなった人々
没年 名前 よみ 享年 備考
02 1994 日詰忍 ひづめ・しのぶ 91 広島県被団協理事。1955年皆実原爆被害者の会会長。原水爆禁止広島母の会の活動、機関紙「ひろしまの河」。<別記
02 2011 林幸子 はやし・さちこ 81 原爆詩「ヒロシマの空」の作者。「林幸子さん遺影登録 広島祈念館」(『中国新聞』2018.6.7 西本雅実の紹介記事)
03 2000 山口勇子 やまぐち・ ゆう 83 児童文学者。『広島県現代文学事典』(三浦精子執筆)。1982年3月25日、平和親善センターで面会。三宅・網岡両氏、同席。別記
04 1969 高野源進 たかの・げんしん 73 広島原爆被爆時の広島県知事。広島原爆被爆時の広島県知事。参考文献:安藤福平「原爆被災と行政」(国際平和拠点ひろしま構想推進連携事業実行委員会(広島県・広島市)編『広島の復興経験を生かすために 廃墟からの再生 第3巻 ひろしま復興・平和構築研究事業報告書』2017年)
04 2010 山口彊 やまぐち・つとむ 93 三菱重工業長崎造船所設計技師。広島と長崎で被爆。
04 2015 金子一士 かねこ・かずし 89 船舶会社に勤めていた19歳の時入市被爆。広島県被団協理事長。「本川小学校平和資料館」(1988年5月開設)の開設前に面談。「金子一士さんを偲び意志をつぐ会」(2015年5月16日、広島国際会議場)に参列。<金子一士さんを偲び遺志をつぐ会
04 2016 ヨシダ・ヨシエ よしだ・ 86 本名:吉田早苗。出典:岡村幸宣「ヨシダ・ヨシエさんを悼む 「原爆の図に新たな命」」(『中国新聞』20160119)。本名=吉田早苗=よしだ・さなえ、美術評論家。『戦後前衛所縁荒事十八番』(ニトリア書房、19720805)
05 2000 伊藤サカエ いとう・さかえ 88 日本原水爆被害者団体協議会代表委員。広島県被団協理事長。広島県呉市生まれ。広島市鶴見橋で建物疎開作業の勤労動員中に被爆。矢野町議会議員、同町婦人会長などを歴任。「伊藤サカエさんを語る会」(広島市原爆被害者の会主催、2013年4月16日。4回目の「先人を語る会」)
05 2012 林光 はやし・ひかる 80 作曲家。1971年合唱曲「原爆小景」。「反核・日本の音楽家たち」の呼びかけ人」。
06 1998 安江良介 やすえ・りょうすけ 62 岩波書店社長。大江健三郎の広島取材を編集者として支える。1998年8月15日、日本ジャーナリスト会議広島支部「8・15不戦の夕べ」で講演「戦後民主主義とヒロシマ」。
07 1989 裕仁 ひろひと 87 追号:昭和天皇。宮内庁ホームページhttp://www.kunaicho.go.jp/
07 1996 岡本 太郎 おかもと ・たろう 84 芸術家。メキシコで制作した壁画「核の神話」の広島市への誘致運動が起こる。
08 1975 山田節男 やまだ・せつお 76 広島市長。1969年ハマーショルド記念国際平和賞受賞。[70ヒロシマ会議]。『山田節男追想録』。<別記>
08 1994 サマヴィル、ジョン・M・ 88 米国の哲学者。『平和のための革命』(ジョン・サマヴィル、芝田進午訳、岩波書店、19741216)
09 1978 久保良敏 くぼ・よしとし 64 [51広島大学平和問題研究会理事(皆)]。広島大学名誉教授。産業社会心理学専攻。被爆直後の人間の心理を初めて学問的に分析。遺された資料を一時預かる。
09 1885 藤井日達 ふじい・にちだつ 99 日本山妙法寺の山主。1982年の国連軍縮特別総会に参加するなど平和運動に貢献。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。『毒鼓(どっく)』(藤井日達、わせだ書房、1961.5.10)。『写真集 撃鼓宣令』 (柏樹社、19850528) http://nipponzanmyohoji.net/
09 2005 小川修三 おがわ・しゅうぞう 81 『小川修三博士を偲んで』(小川修三先生追悼文集発行呼びかけ人、200606)
10

 

1951

 

仁科芳雄 にしな・よしお 61

 

物理学者。岡山県生まれ。理化学研究所で1943年に原爆開発のための「二号研究」を発足させる。被爆直後の広島・長崎で調査。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。<別記予定>。『広島県史 原爆資料編』に関連資料を収録。
10 1967 パールRadhabinod Pal 71 インド人法律家。東京裁判でインド代表判事を務める。彼の原爆慰霊碑の碑文についての発言をめぐり論争が起こる。『日本無罪論』、『平和の宣言』。
11 1966 大原博夫 おおはら・ひろお  71 衆議院議員。広島県会議員、同議長。広島県知事。広島県医師会長。『大原博夫伝』(大原博夫追想録編集委員会、1971.3.20)
11 1998 レイノルズ、アール れいのるず 87 広島の反核運動の先駆者で米国の人類学者。1960年、広島女学院客員教授。参考サイト=「バーバラ・レイノルズ」、「年表 レイノルズ夫妻」、「広島平和科学研究所
11 2015 カートライト、T 90 米軍B24爆撃機の元機長。広島で捕虜となった同僚を原爆で失う。出典:『中国新聞』20150116(金崎由美・記)
11 2020 八杉康夫 やすぎ・やすお 92 戦艦大和の元乗組員で生還者。広島の救援活動で入市被爆。著書『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』(八杉康夫著、栗野仁雄<構成>、ワック、20021208)
12 2021 半藤一利 はんどう・かずとし 90 作家。日本近現代史を対象とした。
12 2019 市原悦子 いちはら・えつこ 82 俳優。映画「黒い雨」(今村昌平監督)に出演。
13 2000 赤松俊子 あかまつ・としこ 87 →丸木俊。『広島県現代文学事典』
13 2000 丸木俊 まるき・とし 87 画家。疎開先の浦和市から広島に入市し被爆。夫・位里と『原爆の図』全15部を制作。世界平和文化賞(1953年)、国際童画ビエンナーレのゴールデンアップル賞(1971年)、朝日賞(1995年)などを受賞。
13 2016 広瀬方人 ひろせ・まさひと 85 長崎被爆者。
14 1992 於保源作 おぼ・げんさく 87 広島市医師会副会長。被爆者の癌の疫学的研究の草分け。広島原爆障害研究会。『面影 原爆ガンと取組んだ町医者 於保源作』(小川加弥太・於保信義編、渓水社、1993.1.14)
15 1983 大西良慶 おおにし・りょうけい 107 京都、清水寺貫首[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]1981年、7月、京都の宗教家らと「核兵器廃絶アピール」発表。[82推進連絡会議呼びかけ人]
15 1984 中津泰人 なかつ 『慟哭・川柳句集』(中津泰人、19740725)。串かつ川柳会主宰。1973年に呉原爆被爆者友の会結成、同会会長。
15 1988 マクブライド、ショーン 83 アイルランドの政治家。1974年ノーベル平和賞、77年レーニン平和賞受賞。1977年広島市でのNGO主催の被爆問題国際シンポジウムに参加。
15 2005 松江澄 まつえ・きよし 85 1959年に日本共産党初めての県議。元広島県原水禁常任理事、元統一労働者党議長。
16 2002 いぬいとみこ いぬい・とみこ 77 本名乾富子。児童文学者。「いぬいとみこさんとヒロシマ 「体験」の壁執念の取材」(『中国新聞』2002.1.22 石井伸司記)。『広島県現代文学事典』(三浦精子執筆)
18 2015 御庄博実 89 →丸屋博
18 2015 丸屋博 まるや・ひろし 89 1945年8月8日、広島入市。詩人(御庄博実)。広島共立病院名誉院長。
18 2015 丸屋博 ピカに灼かれて―被爆体験記(広島医療生活協同組合原爆被害者の会) | ヒロシマ遺文 (hiroshima-ibun.com)
ピカに灼かれて 第28集 終刊号 2005年7月15日
丸屋博『ヒロシマ随想 医師として被爆者として』
20 1974 ブランデン、エドモンド・ 77 英国の詩人。1948年広島訪問。広島市立中央図書館前に詩碑(1975年8月3日建立)。『広島県現代文学事典』(植木研介執筆)。
20 1990 田淵昭 たぶち・あきら 83 元広大医学部付属病院長。胎内被爆小頭症の調査に尽力。
20 2019 北西允 きたにし・まこと 93 「生きて 政治学者 北西允さん」(『中国新聞』2013年4月9日~27日、15回連載、担当:編集委員・西本雅実)。<別記
21 2008 浜本万三  はまもと・まんそう 87 広島県選出の元社会党参院議員。1974年に初当選し、通算3期。『花は想う人の側に咲く 浜本万三回顧録』(浜本万三、広島大学文書館(編)・現代史料出版・東出版(出版)2009.1)<別記
22 1994 灘尾弘吉 なだお・こうきち 94 江田島市出身。元衆議院議長。『灘尾弘吉先生追悼集』(中国新聞社メディア開発局出版部/編集協力、1996.12)
22 2018 河内光子 こうち・みつこ 86 広島女子商業学校2年の時、学徒動員先の広島貯金支局で被爆。御幸橋の救護所ので様子が松重美人撮影の写真に残る。出典:『読売新聞』20120805、『中国新聞』20180209、『朝日新聞』20180210(宮崎園子・記)
23 2008 相原秀次 あいはら・ひでつぐ 98 日本映画社の企画部員として広島・長崎への原爆投下直後から記録映画の製作に従事。
久保田明子「広島における原爆被災の映像と相原秀二資料について」
23 2011 喜味こいし きみ・こいし 83 漫才師。「喜味こいしさんを悼む 上方漫才の正道歩む」(権藤芳一記)「戦争やったらあかん 被爆体験とつとつと」(岩崎秀史記)(『中国新聞』2011.1.26)
23 2012 栗原真理子 くりはら・まりこ 76 被爆詩人・栗原貞子の長女。広島女学院大学の栗原貞子記念文庫開設に尽力(『朝日新聞』20120125)
24 2018 香川龍介 かがわ・りゅうすけ 85 画家。(『中国新聞』20180210)
25 1986 吉川清 きっかわ・きよし 74 「原爆 1号」と呼ばれ、被爆者運動に尽力。[原爆被害者の会代表者]。<別記
25 1994 森滝市郎 もりたき・いちろう 101 京都帝国大学卒。広島高等師範教授を経て広島大学文理学部教授。1953年から原爆孤児を支える精神養子運動を展開。広島県被団協理事長。広島大学。自宅で面識、資料閲覧。<別記
25 2011 石田忠 いしだ・ただし 94 一橋大名誉教授・社会学、元日本原水爆被害者団体協議会専門委員)。<別記
25 2023 林紀子 はやし・としこ  81 元アナウンサー。元参議院議員(2期)。日本共産党。宇吹メモ=1990年5月15日午後2時、 共産党国会調査団来所(=広島大学原爆放射能医学研究所)。林紀子、児玉健次など12人。宇吹助手が応対。
26 2019 葉佐井博巳 はさい・ひろみ 87 広島大名誉教授。広島の原爆被爆時、広島一中2年生。学徒動員先の兵器製作所(現廿日市市)できのこ雲を目撃。翌日に入市被爆。被曝線量推定方式を見直す日米合同研究グループの日本側座長。2002年、新しい推定方式「DS02」をまとめる。<別記「被爆建物等継承方策検討委員会」(広島市が1991年7月24日に設置)で同席。
27 2003 川村智治郎 かわむら・としじろう 96 明39(1906)年滋賀県生まれ。広島高等師範学校・広島文理科大学卒業。京都帝国大学理学部講師、広島文理科大学助教授等、広島大学理学部教授、同理学部長を経て、昭和41(1966)年、広島大学第3代学長。広島大学長に就任。両生類研究者、カエルの染色体の分析研究。広島大学附属両生類研究所所長。第52回日本学士院賞受賞。元広島文理科大学(旧広島大学理学部1号館)の保存を考える会(設立:1995年1月7日)会長<別記
27 2005 竹内武 たけうち・たけし 77 広島平和会館。
29 1986 鈴木直吉 すずき・なおきち 90 1948年広島県立医科大学教授。広島大学医学部教授。「鈴木直吉先生の御逝去を悼む」(片岡勝子記、『(広島大学)学内通信』1985.3.25)<別記
29 2013 熊田重邦 くまだ・しげくに 92 広島女子大学教授、広島県史編さん室室長、広島県立文書館館長<別記
30 2016 亀本和彦 かめもと・かずひこ 69 小学校・高校の同級生。「祖母も伯母もその日路面電車に乗っていて被爆し、また、父も翌日軍務で広島市街地に入って被爆」(彼のブログより)
31 2018 吉田治平 よしだ・じへい 95 845年8月6日の広島壊滅を福岡で聞く。軍命令で神奈川へ向かう途次の5日、上幟町の実家跡を掘り返す。1950年に広島自由労組を結成。1977年失対労働者100人の証言『わしらの被爆体験』を編む(西本雅実「評伝・吉田治平さん」『中国新聞』2018.2.9)<別記予定>
31 2023 久留島恵一 くるしま・けいいち 94

 

音戸高校時代に指導を受けた先輩教員。「呉を中心とした軍事基地の現状」(ビラ「米軍・自衛隊 基地調査告発全国交流呉集会の集まろう!!」(1975年)

12月忌(一覧)

12月忌(一覧)

没年 名前 よみ 享年 備考
02 2009 平山郁夫 ひらやま・いくお  79 『広島県現代文学事典』(西原大輔pp.415-417)。画家。平山郁夫美術館。資料年表:平山郁夫
03 1976 澤崎嘉衛 さわさき・よしえ 72 『組織活動ひとすじに~澤崎嘉衛先生を偲ぶ~』(社団法人広島県地区衛生組織連合会、1977.12.4)
03 2013 山口氏康 やまぐち・うじやす 91 『ヒロシマもう一つの顔』(山口氏康、青弓社、1986.4.9)。1971年広島市議。以後3期。
04 1980 アメラシンゲ、  あめらしんげ 67 アメラシンゲ、ハミルトン・シャーリー
1977年広島・長崎の平和式典に参加した元国連総合議長、死去。スリランカ出身。
05 1975 田辺勝 たなべ・まさる 69 広島県被団協(原水協系)理事長。広島県立工業学校の教師の時、動員学徒指導中の安芸郡海田町の工場から救援にかけつけ被爆。『読売新聞』・『中国新聞』1975.12.6~8  田辺勝
05 1999 葉室潔 はむろ・きよし 81 本名:谷原多郎。米モンタナ州生まれ。1968年広島市バレエ協会会長。「原爆主題に創作バレエ」(『中国新聞』1999.12.7)
05 2008 加藤周一 かとう・しゅういち 89 評論家。日米原子爆弾影響合同調査団の一員として広島入り。立命館大学国際平和ミュージアム(1992.5.19設立)初代館長。加藤周一
09 2009 村中好穂 むらなか・よしほ 84 日本共産党広島県委員会名誉県委員。2010年3月13日、「村中好穂さんをしのぶ会」(『赤旗』2010.3.14)資料年表:村中好穂
09 2022 北川建次 きたがわ・けんじ 87 1935年生。広島大学教育学部教授、附属東雲中学校長。資料年表:北川建次。
10 1963 大田洋子 おおた・ようこ 60 [原爆被害者の会東京協力会世話人]。第4回女流文学賞(1952年)、文化人会議昭和29年度平和文化賞。『広島県現代文学事典』(岩崎文人執筆。pp.233-234)資料年表:大田洋子
10 1963 高田 静雄 たかだ・ しずお 54 砲丸投げのオリンピック(1936年ベルリン)選手。中国配電本店(勤務先)で被爆。長女千鶴子(広島女学院高女2年)は動員先で被爆し死亡。資料:西本雅実「被爆オリンピアンの視点」(『中国新聞』20180716)。19090305生
10 2001 江戸屋猫八 えどや・ねこはち 80 本名:岡田八郎。「江戸屋猫八さん死去 物まね名手 広島で被爆 後遺症・‥高座で体験語る」(『中国新聞』2001.12.11)江戸屋猫八(3代目)
11 1988 任都栗司 にとぐりつかさ 91 『任都栗司資料目録(原爆被爆者援護関係)』(広島市公文書館、19880630)。元広島市議会議長。任都栗司
13 2003 清水栄 しみず・さかえ 88 京都大学名誉教授。「清水栄日記 昭和20・8・6~12・7」(『広島県史 原爆資料編』pp.521-551)。清水栄
14 2014 松尾尊兊 まつお・たかよし 85 日本近現代史研究者。
15 1997 関寛治 せき・ひろはる 70 元広島大学平和科学研究センター長。関寛治
15 2001 島原帆山 しまばら・はんざん 100 山流尺八演奏家。重要無形文化財保持者(人間国宝)。広島市名誉市民。広島被爆者。原爆投下翌日、衛兵をしていた八本松町(現東広島市)の海軍弾薬庫からトラックで広島市内へ。『中国新聞』2001年8月3日付。『竹韻一路 人間国宝島原帆山』(島原帆山、新芸術社、1990.5.8)。佐伯好郎墓前で島原帆山の尺八演奏。 島原帆山
15 2007 山瀬明 やませ・あきら 81 『山瀬明さんを偲んで』(2008.2.2)=「故山瀬明さんを偲ぶ会 於.光徳会館」での配布資料。山瀬明
16 1988 小磯良平 こいそ・りょうへい  85 洋画家。19030725生。1950年8月予定の広島市平和祭(直前に中止)のポスター原画を制作。小磯良平
16 2008 竹下虎之助 たけした・とらのすけ 84 広島県知事(1981-1993年)。「評伝竹下前広島知事」(『中国新聞』20081217、桝田勲・記) 竹下虎之助
16 2017 早坂暁 はやさか・あきら 88 海軍兵学校在学中に終戦。被爆直後の広島の惨状を目撃。脚本家・作家。「夢千代日記」シリーズなど。「市民が描いた原爆の絵」 を陶板画の碑にして広島市内に建立する運動を提唱(『中国新聞』2002.2.22)。『広島県現代文学事典』(森本穫執筆。Pp.404-405) 早坂暁
17 1992 アンデルス・ギュンター あんでるす 90 『橋の上の男 広島と長崎の日記』(ギュンター・アンデルス、篠原正瑛訳、朝日新聞社、 1960.8.1)。『ヒロシマわが罪と罰 原爆パイロットの苦悩の手紙』(クロード・イーザリー、ギュンター・アンデルス、篠原正瑛訳、筑摩書房)。
18 2015 藤田雄山 ふじた・ゆうざん 66 広島県知事。1993年11月~2009年11月。 藤田雄山
19 1979 丸山益輝 まるやま・ますてる 60 1966年広島大工学部教授。同大平和科学研究センターの設置・運営に尽力。1979年12月19日中国・南京で死去。広島大学大学教育研究センター長。
19 2012 中沢啓治  なかざわ・けいじ 73  漫画家。『「ヒロシマ」の空白 シリーズ 昭和とはなんであったか』(中沢啓治、日本図書センター、1987.8.25)。『広島県現代文学事典』(小西清美pp.384-385) 中沢啓治
20 1983 武見 太郎 たけみ ・たろう 79 日本医師会会長や世界医師会会長を歴任。『戦前戦中戦後』(武見 太郎、講談社、19820310)
20 1983 渡辺鼎 わたなべ・かなえ 93 広島大学文学部長。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起)]。原水禁世界大会(1955年)開催に貢献。 渡辺鼎
20 2023 植木 研介

うえき・けんすけ

79 広島大学名誉教授。1990年代に広島市平和公園のレストハウスの保存を訴える。資料年表:植木 研介。
21 1997 片岡脩 かたおか・おさむ 65 グラフィック・デザイナー。旧制広島一中1年生の時、原爆に被爆。「被爆者デザイナー故片岡脩さん制作平和ポスター託す 広島市立大に106枚(田原直樹記者)」(『中国新聞』2008.7.26) 片岡脩
21 2004 今西祐行 いまにし・すけゆき 81 児童文学作家。『広島県現代文学事典』(山元隆春執筆。Pp.212-214) 今西祐行
22 1994 乙羽信子 おとわ・のぶこ 70 女優。映画「原爆の子」に出演。1978年1月新藤兼人と結婚。 乙羽信子
22 2000 千田夏光 せんだ・かこう 76 作家。『赤旗』に小説「終焉の姉妹」を連載。 千田夏光
22 2004 山本良雄 やまもと・よしお 87 『ヒロシマを生きる』(山本良雄、19980920)大津市被爆者友の会 277
23 1985 三村明 みむら・あきら 84 映画撮影監督。被爆直後、米戦略爆撃調査団の映画班に加わる。『聖林からヒロシマへ 映画カメラマン・ハリー三村の人生』(工藤美代子、晶文社、1985.2.22) 三村明
23 2008 平田嘉三 ひらた・かぞう 83  文部省初等中等教育局教科書調査官。広島大学教育学部教授。1980年12月15日、家永教科書裁判第一次訴訟第二審で国側証人として出廷(東京高裁)。「洗礼という言葉には、人を祝福するニュアンスがあり、原爆という悲惨な事実を示すにはなじまない。教科書では主観的・比喩的表現は避けた方がいい」。(浪本勝年「第1次教科書訴訟控訴審の審理過程」)。 平田嘉三
23 2018 大田堯 おおた・たかい 100 元日本教育学会会長。「平和・軍縮教育-3つの視点- 大田堯 121」(『世界の平和・軍縮教育 1982年国際シンポジウム報告書』WCOTP、日教組報告書編集委員会編、勁草書房)大田堯 
24 1951 木原一郎 きはら・いちろう 67 戦後初の広島市長。 木原一郎
24 1986 松下正寿 まつした・まさとし 85 元立教大学総長、元参議院議員。核禁会議議長。1957年に特使として渡英、英に核実験中止を訴え。 松下正寿
25 2007 井内慶次郎 いない・けいじろう 83 旧制広島高、東京大法学部を卒業。1947年に文部省(現文部科学省)に入り、大学局長などを経て、78年から80年まで事務次官。藤居平一追悼集に寄稿。
26 1925 レツル、ヤン れつる 45

 

産業奨励館(原爆ドーム)を設計したチェコ人建築家。「ヤン・レツルの年表」pp.218-220(『レツルの黙示録』オルガ・ストルスコバ、佐々木昭一郎監訳、NHK出版、1995.7.20) レツルの黙示録
26 1972 トルーマン、ハリー・S・ とるーまんHarry S.Truman 88 アメリカ合衆国第33代大統領(1945~1953)。民主党出身。原爆投下を指令。 トルーマン
26 1978 畠中敬恵 はたなかよしえ 58 きのこ会会長。山代巴の紹介で面会。
28 1957 浦廉一 うら・れんいち 62 『浦廉一博士を偲びて―その小伝』(故浦廉一先生追悼事業会、1958.12.28)。広島高等師範学校教授(東洋史)の時被爆。
28 2013 吉川生美 きっかわいきみ 92 三次市出身。爆心地から約1・6キロの現広島市中区西白島町で被爆。夫は、「原爆1号」と呼ばれた吉川清。資料年表:吉川生美
29 1968 久富達夫 ひさとみ・たつお 情報局次長(1945.4~8.22)。<松前重義「終戦に導いた原爆の報告」(『久富達夫』(久富達夫追想録編集委員会<出版共同社内>、同刊行会、1969.12.15、pp.288-290>)
30 1975 稲富 栄次郎 いなとみ・えいじろう 78 広島文理科大学助教授の時被爆。教育哲学会会長。『世紀の閃光』(稲富 栄次郎著、銀のの鈴広島図書発行、19491220)。『広島原爆記 未来への遺書』(稲富 栄次郎著、講談社、19730801)。稲富栄次郎
30 1983 矢吹憲道 やぶき・ 80
30 1988 ノグチ・イサム のぐち 84 日系米国人の彫刻家。広島市の平和大橋などを設計。イサム・ノグチ
30 2014 ドレイゴ、カレリア どれいごかれりあ 93 白系ロシア人。父が広島女学院の音楽教師。牛田の自宅で被爆。
31 2022 郭貴勲  くぁく・くぃふん 98 韓国原爆被害者協会名誉会長。

松本卓夫

 松本卓夫

まつもとたくお 19生
19861128没
原爆被爆時の広島女学院院長。1948年9月~50年1月、渡米。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。1964年に広島・長崎世界平和巡礼団団長として各国を歴訪。

 

参考資料 平和巡礼
文献 原爆体験と世界平和
(『その日の広島-キリスト者の原爆体験』所収)
『関西学院史紀要』第9号(2003年3月24日発行 A5版244頁)
[シリーズ・関西学院の人びと] 神田 健次5.松本卓夫6.谷本 清
年表

 

 

1947/8/– 米でも8月6日に「広島デー」。松本卓夫広島女学院長に友人の米人宗教家から連絡
1948/1/– 米教育界から広島女学院に留学の招請状。松本卓夫院長にも被爆状況の講演依頼 出 典(新聞掲載日など):
1950/1/8 1948年9月以来、渡米し平和講演などしていた広島女学院の松本卓夫院長が広島帰着 出 典(新聞掲載日など):
1964/1/17 広島・長崎世界平和巡礼団の広島関係メンバー決まる。松本卓夫元広島女学院長、志水清広島大原医研教授ら15人 出 典(新聞掲載日など):
1964/4/16 第2回広島・長崎世界平和巡礼団が広島出発。広島市平和記念館で結団壮行式。団員40人が2カ月をかけ欧米、ソ連など8カ国を回る。松本卓夫団長(元広島女学院長)が「原爆という共通の苦悩を背負っ
1964/7/4 1964/7/6 市民 広島・長崎世界平和巡礼団が広島市の平和記念館で市民への帰国報告集会。松本卓夫団長が「巡礼団は世界平和のためのタネまきだった。今後はその成長と収穫を繰り広げなければならないと痛切に感
1964/7/6 広島・長崎世界平和巡礼団が広島市の平和記念館で市民への帰国報告集会。松本卓夫団長が「巡礼団は世界平和のためのタネまきだった。今後はその成長と収穫を繰り広げなければならないと痛切に感
1970/6/22 米市民に核兵器の廃絶と世界平和を訴える「広島・長崎平和使節団」(団長、松本卓夫広島ワールド・フレンドシップ・センター館長、6人)が羽田を出発 出 典(新聞掲載日など):06・23
1970/8/2 訪米中の広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長)がミネソタ州セントポールの教会で原爆慰霊式 出 典(新聞掲載日など):08・3夕
1970/8/3 訪米中の広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長、6人)が国連で記者会見。松本団長「原爆の無差別殺害は正当化できない犯罪である」。会見に先立ち、リーゼン・ニューヨーク市長らと懇談 出 典(新聞
1970/8/22 全米で核兵器の廃絶と世界平和を訴えた広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長)の6人が帰国。6月22日に日本を出発し、米の50余りの都市を訪問 出 典(新聞掲載日など):08・22夕
1970/8/30 全米で核兵器の廃絶と世界平和を訴えた広島・長崎平和使節団が広島市の平和記念館で報告会。松本卓夫団長「今回の使節団は個別に行動し、小さな集会に主眼を置き平和を訴えた。25周年というこ
1971/7/17 1964年、広島・長崎平和巡礼団の一員としてトルーマン米大統領に会見した松本卓夫団長が、中国新聞のインタビューで「原爆投下を命じた責任者の口からは、通りいっぺんの返事しかなかった。

出典:その日の広島-キリスト者の原爆体験(新教出版社編集部編、新教出版社、1965年7月31日)
翌年の二月には、牛田山の校地にバラックの校舎と講堂とを建てて、はじめて学院自体の設備で授業を行ない、二年後には、上流川町の校庭に、やや校舎らしい建築をし、大講堂を加えた。市内の諸学校の中で、このように復興し得たのは広島女学院が最初であった。当時の文部大臣森戸辰男氏はわざわざ東京から来て、鄭重な祝辞を述べて下さった。
この建設が一応完成したころ、わたしの容体がまた悪化し出したので、米国メソジスト教会世界伝道局の招きにより渡米療養をすることになった。わたしは、被爆者にして渡米した最初の日本人であったため、かなり好奇の的になり入院中はモルモット扱いされて、いろいろの治療を実験的に試みられた。しかし、どうやら一カ月余にわたる治療のおかげで健康を回復しえたのであるが、その後一カ年半の長きにわたって、ほとんど米国全土を旅行し、諸教会、諸学校、またいろいろの文化団体の招きを受けて、原爆の経験を語り、平和を訴えて回った。
このような非人道的な戦争や手段を今後絶対に防止し、真の世界平和を実現しなくてはならないことを痛感し、平和運動を促進している人々や団体が数多くあることは、周知のとおりである。
とくに、広島および長崎の被爆者たちは、彼らの悲惨な体験から、ノー・モア・ヒロシマを訴える使命を痛感し、昨春、世界平和巡礼団を組織し、北米、カナダ、英国、フランス、東西ドイツ、およびソヴィエト・ロシアの諸国をニカ月半にわたって歴訪し、講演、座談、論議、合同研究を試みた。総勢四○名(通訳者として同伴した一二名の学生を含めて)であったが、抽象的な一般論でなくて痛切な被爆の体験に基づいて訴えたので、聴く人々に非常な感銘を与えた。また、社会の各層を代表する多種多様の者たちを網羅した巡礼団であったことも、特色があり有意義であったと思う。農家の主婦あり、保育院の保母あり、労組の主事、文筆家、新聞記者、学校長、教員、仏僧、医者、科学者といった顔ぶれであり、したがって諸外国のそれぞれのグルーブと懇談し意見の交換をする便宜を得た。
事実、この巡礼団の目的は、あわれなお涙ちょうだい式の泣きごとを述べ歩くことではなく、諸外国の人々と研究的に語りあい、どうしたら戦争を防止し平和を促進しうるかについて意見を交換することにあったのである。したがつて、われらの同志科学者は、しばしば、フランスやアメリカの知名な物理学者たちと個別的に対談したし、わたしはたびたぴキリスト教指導者たちとの会合に臨んだし、医者たちは先方の医師会の人々と医学的方面からの合同論議に参加するという方法をとった。もとより、大きな講演会を催して大衆に訴えることもした。ニューヨーク市力-ネギー・ホールに約三千人を集めての講演会、パリの公会堂における盛大な平和強調の会、モスクワのゴリキー記念公園内で数千の聴衆を迎えての大会など、その著しい例であった。知名の士との面接も有意義であった。米国元大統領トルーマン、カナダ外相バウル・マーティン、国連事務総長ウ・タント、ベルギー王バウドワンのかたがたとの面談は、単に儀礼的なものではなかったと思う。ワシントンの国会議事堂内で、上院下院議員がたとかなりつっこんだ論議を試みたが、これまた効果的であったと信じる。諸大学での率直な議論は痛快でもあった。巡礼旅行の全行程中で行なった会合は約五百回にのぼった。ラジオ、テレビなどには数十回もひっぱり出されたが、これらのマス・コミをとおして、わたしたちは数百万の人々に語りかけることができたと言えよう。

1942年 4月 松本卓夫が、院長兼専門学校長、高等女学部長として就任。
1943年 4月 高等女学部は高等女学校令による「広島女学院高等女学校」として、文部省によって認可を受け、松本院長が校長を兼ねた。
1945年 8月 6日午前8時15分、広島に原爆投下。生徒・教職員330余名の犠牲者を出し、校舎、施設のいっさいを失った。
1945年10月 牛田国民学校の一部を借用して授業を再開。
1946年 2月 牛田山の校地にバラック校舎を建築、授業を継続。
1947年 4月
新制中学校発足。高等女学校は中学校3年と高等学校3年に改編されることとなり、当時の高女1年生は、そのまま「広島女学院中学校1年生となった。
1947年 8月 上流川校地(現上職町)に仮校舎と講堂、寄宿舎を建てて、牛田の校地より復帰。
1948年 4月 新制高等学校発足(普通科科、英語科、家庭科)。
1948年 8月 高等学校木造校舎、東校地の西南側に建築。
1949年 4月 新制大学発足。牛田校地に大学英文学部英文学科開学。
1950年 4月 牛田校地に短期大学部家政科開学。

 

石井金一郎

石井金一郎

いしい・きんいちろう 19220402生19670621没 享年45 [52広島平和問題談話会](広島女子短期大学助教授)。[54世界平和集会世話人(発起)]。元広島大学教授。日本原水協専門委員。

資料年表:石井金一郎<作業中

年月日
1922
0402 誕生
1960
0825 『戦後日本の国家権力』(現代史研究会、三一書房)
1965
 0520 『 現代憲法読本』(法律文化社)
1967
0621

 

川手健

川手健

かわて・たけし 19310213生
19600428没
広島市大手町生まれ。県立忠海中学校在学中に広島の工場に動員中被爆。広島高等学校理科を経て広島大学文学部を専攻。1952年、原爆被害者の会を結成。東京都内で自殺。29歳。

資料

文献
19521101 川手健「七年後の廣島」(『新日本文学』)
19530625 『原爆に生きて 原爆被害者の手記』(原爆手記編纂委員会、三一書房)
19540215 『風のように炎のように-峠三吉追悼集』
19550109 川手健「原爆被害者の青年クラブのこと」(『われらのうたの会』第3号)
19950806 『川手健を語る』(川手健を語る会編、ウイウド・岡本智恵子)

資料

川手健=「原爆被害者自身の口から全世界に向って原爆の惨禍と平和の必要を訴えるその意義は大きい。原爆の投下が世界史的な大事件であるなら、その被害者が立上がって原爆の反対を叫ぶこともまさに世界史的な出来事である。このことの重要性についてはまだまだ本当に考えている人は少ない様に思う。」
(「半年の足跡」、『原爆に生きて』、三一書房、1953年、所収)

佐々木禎子

佐々木禎子

ささき・さだこ 19430107生
19551025没
2歳の時、広島市三篠町で被爆。1955年1月9日、発病。同年2月21日、広島日赤病院に入院(広島市幟町小学校6年生)。4月幟町中学校に進学するが、登校不能。入院中折り鶴を製作。10月、亜急性リンパ性白血病で死去。享年12歳。

参考

広島平和をきずく児童・生徒の会
原爆の子の像(折鶴の子の像)
広島折鶴の会
資料
広島市原対協被爆生存者(児童生徒)調査表(1956年1月10日現在)(1956年2月~3月実施) 出典:『広島原爆医療史』601頁
文献(原爆の子の像関係)
千羽鶴 原爆の子の像の記録(豊田清史、昭森社)  1958/08/06
はばたけ千羽鶴(豊田清史、 筑摩書房) 1982/07/30
悲しみの千羽鶴(田清史、創樹社) 1991/07/10
折り鶴の子どもたち 原爆症とたたかった佐々木禎子と級友たち(那須正幹・作 高田三郎・絵  PHP研究所  ) 1984/07/02
現代日本朝日人物事典(長岡弘芳執筆)

 

9月忌(一覧)

9月に亡くなった人々

 日  没年  名前 よみ 享年
01 2002 林重男 はやし・しげお 84 写真家。文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会に参加、広島と長崎を撮影。<資料年表:林重男
02 1994 門秀一 かど・しゅういち 79 核禁広島県民会議初代議長。広島大学名誉教授。西洋倫理哲学専攻。<資料年表:門秀一
02 1999 尾津訓三 おづ・くんぞう 65 劇作家。広島で被爆。「追記 だれよりも願った地域演劇の復興」(『中国新聞19991102』田原直樹・記)<資料年表:尾津訓三
02 2017 土山秀夫 つちやま・ひでお 92 元長崎大学長。2009年2月28日に面識。<16時半~、広島(代表:難波健治)・長崎(代表:峠憲治)の報道関係者の交流会。会場:長崎新聞社。19時~懇親会。>宇吹の質問および意見<平和教育、平和行政、市民運動、医学者の動向、IPPNW、パグウォッシュ会議>に丁寧な応答。
03 2018 オマール、サイド さいど・おまーる 19 マラヤ(現マレーシア)の王族。 南方特別留学生。興南寮(広島市大手町)で被爆。<資料年表:サイド・オマール51.pdf (hiroshima-u.ac.jp)
04 1965 シュバイツァー、アルベルト・ 90 1952年度のノーベル平和賞受賞。
1962年6月30日、赤道直下のランバレネの病院で森瀧市郎氏の訪問を受ける。出典:http://www.ne.jp/asahi/nozaki/peace/data/gen_moritaki.html 森瀧宅で、当時のアルバムを前にこの時の話を聞く(宇吹)
04 2009 大山広司 おおやま・ひろし 91 元広島県議会議長、元全国都道府県議会議長会会長。『広島県議の半世紀 : 五人の知事に相まみえて : 大原博夫氏・永野巌雄氏・宮澤弘氏・竹下虎之助氏・藤田雄山氏』(大山広司・述、大平泰・記、溪水社、2005)1918生
05 1998 堀田善衛 ほった・よしえ 80 小説家。『広島県現代文学事典』(山根繁樹・記)<資料年表:堀田善衛
06 1998 黒沢明 くろさわ・あきら 88 映画監督。「生きものの記録」・「八月の狂詩曲」で核問題を取り上げる。
07 2020 岩佐幹三 いわさ・みきそう 91  修道中学在学中、被爆。1953年金沢大学教官となり同大名誉教授。1960年「石川県原爆被災者友の会」を設立。日本被団協事務局次長(2000年)・同会代表委員(2011年)<資料年表:岩佐幹三
08 1981 湯川秀樹 ゆかわひでき 74 1949年日本人として初のノーベル物理学賞受賞。[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。「世界平和アピール七人委員会」メンバーとして平和運動にも尽力。[70ヒロシマ会議]<資料年表:湯川秀樹
10 2014 坂井義則 さかい・よしのり 69  1945年(昭和20年)8月6日広島原爆被爆直後に広島県三次市で誕生。父は被爆者。1964年東京オリンピックの開会式で聖火リレーの最終ランナー。
11 2019 粟屋憲太郎 あわや・けんたろう 75 日本近現代史研究者。著書に『東京裁判への道』など。1944年 6月11日生<資料年表:粟屋憲太郎
14 2010 大道あや だいどう・あや 101  絵本作家。本名:大道アヤコ。丸木スマ母、丸木位里は兄。19090411誕生。
15 1990 土門拳 どもん・けん 80 写真家。1958年に被爆者を写した写真集「ヒロシマ」を発表。『広島県現代文学事典』(20101220)<田中裕之・記><資料年表:土門拳
15 2010 秋信利彦 あきのぶ・としひこ 75 放送ジャーナリスト。中国放送(RCC)ディレクター・記者・常務取締役歴任。きのこ会。1935生。<資料年表:秋信利彦
18 2011 小野増平 おの・ますへい 64 中国新聞社入社(1970年4月)、ニューヨーク支局長(1990年8月)・東京支社長(2002年2月)・編集局長(2005年)、広島経済大学メディアビジネス学科教授 (2007年9月)を歴任。(広島大学文書館<解題:小野増平関係文書目録>)
19 2002 好村冨士彦 こうむら・ふじひこ 71 広島文学資料保全の会代表。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)『考えるとは乗り越えることである―好村冨士彦遺稿・追悼集』2003<資料年表:好村冨士彦
20 1976 升川貴志栄 ますかわ・きしえ 78 原水爆禁止広島母の会会長。<資料年表:升川貴志栄
20 1981 竹下健児 たけした・けんじ 55 放射線物理学者。1945年学徒動員先の長崎で被爆。1965年広島大学原医研教授。
21 2011 辺見じゅん へんみ・じゅん 72 広島女学院創立120周年記念2006年度企業懇談会・講演会(会場:リーガロイヤルホテル)講演会:辺見じゅん「生きるための自分力」。並んで挨拶。宇吹:大和ブーム批判に取り組んでいることを伝えると自著『女たちの大和』(ハルキ文庫、2005年)を挙げて切り返えされる。
21 2017 森本順子 もりもと・じゅんこ 85 オーストラリア在住の絵本作家。広島女学院高女在学中に被爆。
22 2010 橘祐典 たちばな・ゆうてん 77 本名:橘裕彦(ひろひこ)。映画監督。原爆記録映画「にんげんをかえせ」など。
23 1954 久保山愛吉 くぼやま・あいきち 40 第5福龍丸無線長。1954年3月1日にアメリカが南太平洋ビキニ環礁で実施した水爆実験で被曝。<資料年表:久保山愛吉
24 2015 福島菊次郎 ふくしま・きくじろう 94  写真家。<資料年表:福島菊次郎
27  1983 バーチェット、ウィルフレッド・ 72 ジャーナリスト。広島の被爆のもようを世界に最初に報道。<資料年表:バーチェット
27 2019 布川弘 ぬのかわ・ひろし 61 広島大学大学院総合科学研究科教授。広島市被爆70年史編集研究会で同席。
28 1986 谷本清 たにもと・きよし 77 日本基督教団広島流川教会牧師。教会で面談。
[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。原爆乙女の米での手術実現などに尽力。86アキバ・プロジェクト」で来日した米記者、被爆牧師死去の記事(60行余)を掲載。AP通信を通じて米の各メディアに配信。[69原爆被災資料広島研究会]。『広島県現代文学事典』<田中裕之・記>19090627生。<資料年表:谷本清
28 1991 中本 たか子 なかもと・ たかこ 87 小説家。1927年上京、『女人芸術』誌に参加。1941年蔵原惟人と結婚。<資料年表:中本 たか子
28 1991 佐久間澄 さくま・きよし 80 広島県原水協理事長・同県被団協理事長。広島大学構内で被爆。お宅で面談、資料を閲覧。<資料年表:佐久間澄
28 2023 小河原正己 おがはら・まさみ 83 1940年山梨県生まれ。NHKプロデューサー。<資料年表:小河原正己>

 

佐久間澄

佐久間澄

 

さくま・きよし 19910928生19910928没 享年80
 広島大学名誉教授。広島県原水協理事長・同県被団協理事長。広島大学構内で被爆し、原水禁運動に貢献。広島大学。お宅で面談、資料を閲覧

資料

 死亡記事  1991年9月29日付、中国・朝日・読売・長崎・赤旗
 追悼文  庄野直美(広島女学院大学名誉教授)「佐久間澄氏を悼む 核兵器廃絶に尽力」(掲載新聞不明)

佐久間澄さんをしのぶ会

日時 1992年12月26日
会場 広島国際会議場・ダリア(広島平和公園内)
資料 会への案内(呼びかけ人:)
式次第
遺族礼状
宇吹宛佐久間書簡(8月26日付)
報道 不明紙、赤旗