「03 ヒロシマNGO」カテゴリーアーカイブ

ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会

ヒロシマ・フィールドワークの歩み

1994年以来、広島平和記念公園およびその周辺を巡るヒロシマ・フィールドワークを年に1回実施してきた。

2003年以降は、平和公園周辺に住んでおられた方をお招きし、かつての町の様子を証言していただいて、その後一緒にその町の跡を巡ることとした。

出典:『証言 町と暮らしの記憶 中島本町・材木町・水主町』(編集:ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 中川幹朗)(発行:2017年8月5日=ピカから26297日)

関連文献(広島平和記念資料館「平和データベース」を「キーワード:ヒロシマ・フィールドワーク」で検索した結果

書名 著者 出版者 出版年
’93修学旅行 日本福祉大学付属高等学校第2学年 日本福祉大学付属高等学校 1993/9/1
広島・大久野島への旅-被害と加害の挟間 ’93広島修学旅行研究集録 名古屋大学教育学部附属中学校3年生編 名古屋大学教育学部附属中学校 1994/2/21
平和と交流1999年版(平成10年度事業) 広島平和文化センター 広島平和文化センター 2000/2/10
証言原爆で消えた町から ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 2007/1/26
証言町と人の記憶 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 2010/5/5
消えた町 記憶をたどり 絵と証言 森冨茂雄 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 2011/8/5
2014年度 第21回ヒロシマ・フィールドワーク(チラシ) ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 2014/7/27
証言記憶の中に生きる町 中島本町・材木町・天神町・猿楽町 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 2015/5/3
証言 生きている町 原爆で灼かれた材木町・中島本町 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 2016/5/3
証言 江波に生きる 大岡貴美枝さんの語る暮らし・戦争・原爆 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 2016/9/17
証言 町と暮らしの記憶 中島本町・材木町・水主町 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 2017/8/5

 

広島県動員学徒犠牲者の会(略年表)

広島県動員学徒犠牲者の会 1957年2月17日

略年表

Y M D NEWS1
57 02 04 広島県動員学徒犠牲者の会結成準備委員会、広島県庁で開催。
57 02 17 「広島県動員学徒犠牲者の会」結成大会、広島県庁で開催(約100人参加)。動員学徒も軍人・軍属なみの国家補償を要求すると宣言。
57 05 31 広島県動員学徒犠牲者の会、「友の会だより」を創刊。
57 10 20 広島県動員学徒犠牲者の会、第1回動員学徒慰霊法要を光道会館で挙行。終了後、平和公園供養塔に参拝。
58 07 06 広島県動員学徒犠牲者の会、第2回動員学徒慰霊法要を広島市寺町・本願寺別院で挙行。終了後、原爆病院の患者を見舞う。
59 04 12 広島県動員学徒犠牲者の会、第3回定期総会を広島女学院講堂で開催。
60 08 06 中山マサ厚生大臣、広島市内の旅館で県動員学徒犠牲者の会・県身体障害者団体連合会など県内23団体の陳情を受ける。広島市、原爆総合医療研究所の設置を要望。
66 06 20 準軍属広島遺族の会(1958年5月、援護法改正期成同盟会を改称)、解散総会をあげ、広島県動員学徒犠牲者の会に合流。([動員学徒誌])
69 04 09 広島県・長崎県動員学徒犠牲者の会交歓会、長崎市国際文化会館で開催。
73 08 20 広島県動員学徒犠牲者の会の代表3人、首相官邸で二階堂官房長官に、遺族・傷害者の恩給などの改善を陳情。
78 11 07 広島・長崎の動員学徒犠牲者の会、島原市で交流大会。
80 01 10 「広島県動員学徒犠牲者の会」理事長沖本喜夫、死去。
91 08 06 広島県動員学徒犠牲者の会、広島市平和公園の慰霊碑前で第35回原爆追悼式と供養会(約500人参列)。
94 04 17 広島県動員学徒犠牲者の会、動員学徒の50回忌法要を進徳学園で挙行。約400人が参列。
95 08 06 広島県動員学徒犠牲者の会、追悼式を平和公園の動員学徒慰霊碑前で挙行。約300人が参列。
97 08 06 広島県動員学徒犠牲者の会、動員学徒追悼式を挙行。約500人が参列。

 

日本文化平和協会(1947年9月28日)

日本文化平和協会(JCPA) 1947年9月28日発会式

会長:長田新広島文理大学長、副会長:マクミラン女学院教授、佐伯好郎。(『中国新聞』19470928)。

略年表

年月日 事項
194707 前史=長田新(広島文理科大学学長)・長谷信夫(医師)ら広島在住の文化人が、日本文化平和協会の設立を計画。意図=同年5月3日に施行された新憲法の「戦争放棄を条文のみにとどめ」ないため、広島市を文化都市として建設。具体的な構想=「ノーベル平和賞と同じような広島平和賞」、「マンハッタンの浜にき然とそびえる平和シンボル-平和の女神の像を模造し、広島城跡に建立。今は世界平和攪乱の罪で天の制裁としてあとかたもなくなった軍閥横行の地を清め、平和の芽ばえを守護する意味」。(『中国新聞』7月9日)。
19470928 発会式
194711 第1回文化講座(中国新聞社と共催)。講師:天野貞祐第一高等学校校長。会場:広島女学院講堂(13日)、文理科大学・高等師範学校(14日)。
19480204 文化国家建設広島学生大会。会場:爆心地近くの元護国神社前広場
19480220 平和の歌」の入選発表
19480403 大山郁夫(早稲田大学教授)講演会。会場:広島女学院講堂
19480831 『恒久平和論』の出版。
19480908 広島文理科大学長長田新「世界平和への道」を掲載(『中国新聞』)
19480918 『中国新聞』が紹介。「恒久平和への精神的な分野を開拓しようと企画し昨春来着手」
194905 田辺耕一郎の書評(『書評』1949年5月)=カントの永久平和論を批判し。世界連邦(世界共和国)の理念を高く掲げた。

 

 

  恒久平和論長谷信夫(編)(日本文化平和協会、19480831)

 

目次

 

絶対的平和論と相対的平和論 矢内原忠雄
世界平和のために 原随園
平和国家の理念 天野貞祐
平和日本とユネスコ 森戸辰男
恒久平和論 長田新
装幀 南薫造

 

 

 

中国新聞労働組合新聞研究部

中国新聞労働組合新聞研究部 1969年7月23日発足

略年表

年月日 事項
前史
19591005 「新聞討論集会」(中国地連主催、岡山市)。テーマ:「新聞はこれでよいのか」「新聞批判にどうこたえるべきか」。講演:「読者と新聞」(広島大・今堀誠二)など。中国労組から平岡敬委員長ら5人が出席。参加者約400人。
19610905 中国労組として初の新研集会「中国新聞をよりよくするために」。参加者約20人。大牟田稔委員長報告後、八・六紙面の検証など。
19690723 中国新聞労働組合新聞研究部発足
出典 『中国新聞労働組合50年史』(同編集委員会、19970829)

 

広島文学資料保全の会(1987)

広島文学資料保全の会活動日記(抄)

出典:『広島に文学館を 広島の心を21世紀に伝えよう!』(編集人:尾津訓三・池田正彦 発行人:好村冨士彦、1999年4月30日)

年月日
1987 ヒロシマに関わる文学資料の調査、収集・保存、そのための施設建設を求め、広島市長への<要請>署名運動。発起人11人=磯貝英夫、今堀誠二、大原三八雄、北西允、栗原貞子、好村冨士彦、四国五郎、立川昭二郎、深川宗俊、松元寛。発起人の呼びかけに応じた、被爆者、文化人、学者、市民72人は参道呼びかけ人として活動に参加。
 2月  仮称「広島の文学資料の保全をすすめる会」を結成(代表者:広島大学学長・沖原豊)。幹事・事務局を選出し、要請署名と活動資金を訴える活動にとりかかる。

広島婦人問題研究会

広島婦人問題研究会 1974年発足。代表世話人:中村朋子。

参考資料:『未来を拓く ひろしまの女性 1983』(広島婦人問題研究会、1984年3月21日)

目次

 山代 巴 私の歩んだ道
中村 朋子 山代巴研究と私たち -中間報告-
今中 保子 近代日本女性史と広島の婦人 -備後の女性を中心に-
  内田 千寿子 原爆を語る場を求めて
 永見 和子 福山の母親運動
山代巴年譜
戦後広島県婦人の動き(1945~1955)
編集後記-広島県婦人問題研究会の紹介にかえて-

 

 

広島文団連50年誌

『ヒロシマの青春 飛翔―広島文団連50年誌―』広島県文化団体連絡会議「50年誌」編集委員会、20121215刊

目次

御庄博実(丸屋博) 文団連50年を思う 広島県文団連 代表委員
高橋正志 文化で生きる力を 文化団体連絡会議(全国文団連) 事務局長
一、文団連50年の歴史 1.前史 2.広島県文化会議結成から文団連へ 3.70年代~80年代 4.90年代から今日まで
<ぶんだんれんトピックス> ◆昭和21年、横川劇場で観た◆「河」◆原水禁文化集会と文団連◆峠三吉碑前祭◆第一学習社労組闘争支援◆平和とうろう集会◆「ヒロシマの夜打つ太鼓」◆ヒロシマ学習
二、加盟団体の結成と今日(結成年順)
1954 広島合唱団
1954 国鉄広島ナッパーズ (前身から)
1956 広島映画サークル協議会
1959 劇団月曜会
1960 広島市民劇場 (前身から)
1964 広島詩人会議
1965 広島県美術会議
1965 日本民主主義文学同盟広島支部
1967 日本ジャーナリスト会議広島支部
1967 青年法律家協会広島支部
1972 広島映画センター
1987 音楽センターひろしま・太鼓センターひろしま
1992 ひろしま音楽鑑賞協会
三、資料 1.文団連5年譜、2.文団連歴代役員、3.物故役員の経歴、現在の役員、文団連加盟団体一覧
亀岡恭二 あとがき 事務局長
編集委員のひとこと

三、資料、3.物故役員の経歴

名前 生・没年 経歴
大月洋 1960-1973 広島演劇鑑賞会事務局長、広島県文団連副議長
中川秋一 1910-1980 「夕刊ひろしま」記者、皆実町二丁目青年連盟結成に参加、民主主義科学者協会会員、広島県労働組合協議会議長、劇団「八月座」結成に参加、前進座広島後援会会長、広島県文団連代表委員
土屋清 1930-1987
柿手春三 1909-1993
山下正人 1924-1995
堀博自 1921-1996
植田知基 1934-1997
村上忠人 1917-1996
水原肇 1934-2004 読売新聞記者、日本ジャーナリスト会議広島支部代表幹事、広島県文団連代表委員
下村仁一 1918-2008 広島県美術会議幹事長、アンデパンダン展全国実行委員長、広島平和美術展代表、広島県文団連代表委員
深川宗俊 1921-2008 反戦詩歌人集団結成に参加、広島県平和のための文化会議幹事長、峠三吉詩碑建設委員会委員長、短歌研究会「青史」代表、広島県文学会議幹事長、広島県文団連代表委員
新江義雄 1947-2009 日本のうたごえ全国協議会常任委員、(有)音楽センターひろしま役員、広島県文団連常任委員

 

広島県文化団体連絡会議略年表

広島県文化団体連絡会議(略称:文団連)略年表

年月日 事項
196911 広島県文化会議第4回総会。広島県文化団体連絡会議に名称変更。22団体が加盟。
197109 文団連呉支部を結成
197203 文団連ニュース第1号発行。
197203 文団連機関誌「ひろしま」創刊号発行
197701 文団連ニュース復刊(第6号)
19780212 文団連第4回総会。会則改正
19821003 ~5日。第11回文団連全国交流集会。テーマ「平和と文化」。会場:広島市・寿殿。
19820124 第11回文団連全国交流集会記録集
 19830401  文団連ニュース(第52号)
 19830601   文団連ニュース(第53号)
19930307 三吉忌碑前祭ー峠三吉没後四〇年。ところ:平和公園・峠三吉碑前
 20121215  『ヒロシマの青春 飛翔―広島文団連50年誌―』発行。
20170212 広島文団連「2017ヒロシマ学習 ”ヒロシマ文化”の過去・現在・未来~ヒロシマ郷土史家の思い~」。講師:宇吹暁、会場:小劇場「アッカー」(広島市中区榎町)。参加者34人。

 

広島文学協会

広島文学協会 1950年発足

機関誌 『広島文学』

巻号 発行年月日 備考(出典・所蔵など)
『原爆被災資料総目録第4集』(以下『総目録第4集』)。広島平和記念資料館所蔵(以下「原資」)
1-1創刊号 19511115 『総目録第4集』「原資」
3(10月) 19571005 『総目録第4集』「原資」
3-2(2月) 19530201 「原資」「ピカ」
3-3(3月) 19530301 「原資」「ピカ」
3-4(5月号) 19530420 「ピカ」
3-5(8月) 19540901 「ピカ」
4-1(9月) 19540901 「原資」「ピカ」
3-5(9月号) 19540901 「ピカ」
8月号 19550815 「ピカ」、宇吹蔵
6-1(新年) 19560101 「原資」「ピカ」
6-2(春季) 19560405 「原資」「ピカ」
6-3(夏季) 19560801 「ピカ」
7-1(秋季) 19561120 「ピカ」
19580410 広島文学協会ニュースNO.15
8-1(秋季) 19580915 「ピカ」
9-1(通関5) 19590510 「ピカ」

 

原水爆禁止広島母の会

原水爆禁止広島母の会 1959年9月1日第1回準備会

第5回世界大会に参加した婦人たちの中には,大会の中で明らかにされた安保条約改定の危険性に触発され,日常的な学習や活動を通じて大会の決議やアピールを実践する恒常組織をつくろうという気運が生まれた。1959(昭和34)年9月1日に広島市平和記念館で開かれた国際一斉行動広島中央集会を機に第1回準備会を持ったが,この時は労組の婦人部代表も参加しており,組織の上でむずかしい論議が出てまとまらなかった。その後,数度の会合の結果,個々の婦人の自発的組織として原水爆禁止母の会が発足した。
母の会は,1960(昭和35)年6月2日,広島県母親連絡協議会など七つの婦人団体とともに,広島県・市当局および県・市議会に安保批准阻止・国会解散を要求した声明書を提出するとともに,広島市内でビラを配布した。また,同年8月8日には,広島地区働く婦人連絡協議会・広島子供を守る会などとともに広島市ではじめての母親大会を開催した。「生命を生みだす母親は生命を育て生命を守ることをのぞみます」との横断幕を掲げた会場(国鉄職員会館)には,150人が参加,(1)子どもと教育,(2)暮らしについて,(3)平和問題,(4)地域婦人と働く婦人の結びつき,の4分科会に分れて討論を行った(「中国新聞」1960年8月8日)。
1961(昭和36)年6月14日の平和行進の広島出発にあたっては,「しろがねもこがねも玉も何せんにこの子の上に原爆を落すな」との歌を幼児の絵と一緒に書いたプラカードをみどり色のリボンで首からつるして参加した。こうした街頭活動の一方で,1961(昭和36)年4月には機関誌の発行を申し合わせ,6月14日の平和行進の日に『ひろしまの河』を創刊した(前田とみ子「原水爆禁止広島母の会の活動について」)。
母の会の会員のほとんどは,原爆でても,原爆によって象徴される徹底した非人間性こそすべての悪の根源であリ,人間性を大切にすることが平和と愛の始めであるという点で一致していた。機聞紙『ひろしまの河』は,創刊号(発行日は6月15日となっている)で,原爆孤老(山口勇子)・原爆未亡人(正田篠枝)を取りあげたのをはじめ,次表のように,原爆被害をめぐる諸問題をさまざまな角度から提起した。

『ひろしまの河』は,持続的な原爆手記発表の場でもあった。上田篠枝は,第1号に「私の苦悩と寂寞」と題して,自らの被爆記を寄せるとともに,第4号には,夫の兄弟の消息を伝えた手記「被爆の系譜」を寄稿した。第5号の手記特集以後,毎号数人の被爆手記の掲載をつづけ,第15号(1967年8月1日)までに掲載手記数は37点にのぼった。

ひろしまの河 NO.1(1961年6月15日発行)

タイトル 著者
原爆孤老 山口勇子
歌集「小さき旗」から 南雅子
私の苦悩と寂寞 正田 篠枝
歌集「さんげ」から 正田篠枝
16年後の2人の娘からの手紙 升川貴志栄
未だ癒えず 油井善子
9回の手術を受けて 小玉満子
広島・現代の救済 栗原貞子
原爆慰霊碑めぐり
(1)石田学園の巻、(2)市立女学校の巻
小西信子
(原水協通信)より
=殖える核保有国今年こそ実験停止を
(原水協通信)より
=盛んなイギリスの平和大行進
詩・平和公園にて 八島藤子
老人に腰かけを
原爆17回忌
広島と死神
あとがき

 

各号発行年月日

発行年月日 発行年月日 発行年月日 発行年月日
19610615 19621201 11 19650101 16 19720720
19610801 19630501 12 19650801 17 19730725
19611001 19630806 13 19660301 18 19740725
19611201 19631220 14 19660801 19 19750725
19620801 10 19640425 15 19670801

 

『ひろしまの河』の主要掲載記事

号数 発行年月日 記事
1 19610615 原爆十七回忌に捧ぐ
2 19610801 座談会「被爆体験と今日の私たち」出席者=永瀬清子・林田みや子・西隅幸枝・日詰しのぶ・斉藤冨美江・森滝市郎・山口勇子・小西信子・升川貴志栄・藤井ゆり
座談会「原水爆時代の文学をめぐって」出席者=中川国雄・荏原肆失・小久保均・大原美耶雄・増原正・浜野千穂子・深川宗俊・小西信子・栗原貞子
3 19611001 米・ソ核実験抗議特集号
4 19611201 特集:被爆地の原水禁運動はどうあるべきか
5 19620801 被爆十七年の市民感情の方向-ABCCを中心に、 今なおつづく広島:手記八編
6 19621201 岩国基地:わたしたちのまわりは米軍基地にとりまかれている
7 19630501 原爆孤児あゆみグループのこと
8 19630806 八月特集号
9 19631220 特集:故峠三吉詩碑建設記念
10  19640425
11  19650101
12  19650801
13  19660301
14  19660801
15  19670801
16  19720720  復刊一号<原爆体験の今日的課題>
17  19730725  原爆体験特集号
18  19740725  援護法制定の悲願をこめて
19 19750725  思出の疎開児童紙芝居