広島学講座(創価学会) 1989年2月~
| 第1回 | 1989年2月 | 広島県民俗学会常任理事 | 神田三亀男 | 途上採集からみた広島学 | 
| 第2回 | 1989年3月 | 中国新聞社論説主幹 | 大牟田稔 | 平和のための広島学 | 
| 第3回 | 1989年4月 | 広島女性史研究会代表 | 北西英子 | ヒロシマの女たち | 
| 第4回 | 1989年6月 | 比治山女子短期大学助教授 | 宇野憲治 | 竹西寛子の「管弦祭」を読む | 
| 第5回 | 1989年9月 | 広島ユネスコ協会会長 | 河村盛明 | ひろしま文学紀行 | 
| 第6回 | 1989年12月 | 広島大学文学部助教授 | 岸田裕之 | 戦国時代の領主連合 | 
| 第7回 | 1989年12月 | 広島大学教育学部助教授 | 町博光 | 今、広島弁がおもしろい<上> | 
| 第8回 | 1990年3月 | 毎日新聞広島支局記者 | 小松健一 | ヒロシマを取材して | 
|  |  |  |  |  | 
| <以下未入力> | 
| 出典:http://www.pv-hiroshima-soka.jp/activity/lecture/backnumber/ | 
 
	 
	
	
	
	
		
		青年平和文化講座(創価学会) 1973年~
http://www.pv-hiroshima-soka.jp/activity/lecture/backnumber/
 
| 年月 | 講師 | 肩書(当時) | テーマ | 
| 197308 | 原田東岷 | 外科医 | ヒロシマの外科医として | 
| 197404 | 伊藤満 | 創価大学教授 | 人権と平和 | 
| 197608 | 熊田重克 | 中国新聞論説副主幹 | 現代における核の状況 | 
| 197608 | 丸山益輝 | 広島大学教授 | 広島の青年の役割 | 
| 198003 | 今堀誠二 | 広島女子大学学長 | 私にとってのヒロシマ | 
| 198004 | 畑博行 | 広島大学教授 | 日本と平和主義 | 
| 198007 | 高橋昭博 | 原爆資料館館長 | 私の被爆体験と広島の心 | 
| 198203 | 熊田重克 | 中国新聞論説主幹 | 広島と沖縄を結ぶ想像力 | 
| 198302 | 豊永恵三郎 | 広島電機大学付属高校教諭 | 朝鮮・韓国人被爆者と私達 | 
| 198308 | 深川宗俊 | 歌人 | 朝鮮・韓国の被爆者 | 
| 198310 | 伏見康治 | 元日本学術会議会長 | 地平から平和の巨塔を | 
| 198404 | 日隈健壬 | 広島修道大学教授 | 21世紀の広島が見える | 
| 198408 | 北西允 | 広島大学教授 | 反核・平和運動の状況と展望 | 
| 198503 | 磯野恭子 | 山口放送テレビ制作部次長 | 生命(いのち)の鼓動を伝えて | 
| 198504 | 山田浩 | 広島大学教授 | これからの平和問題と私達 | 
| 198603 | 片岡徳雄 | 広島大学教授 | いま、教育の原点を考える | 
| 198706 | 川本義隆 | 原爆資料館館長 | 世界のヒロシマ 使命と責任 | 
| 198709 | 大野允子 | 児童文学作家 | あなたへのメッセージ | 
| 198711 | 秋葉忠利 | 広島修道大学客員教授 | ヒロシマの心と広島に住む若者の役割 | 
| 198802 | 小倉桂子 | HIP代表 | 一人の力が平和の万波に | 
| 198805 | 二宮皓 | 広島大学助教授 | 世界のなかのヒロシマ | 
| 198809 | 目瀬守男 | 岡山大学教授 | 地域活性化と青年の役割 | 
|  |  |  |  | 
|  |  |  |  | 
	 
	
	
	
	
		
		原爆被害者証言のつどい
1982年8月6日
久保浦寛人「『原爆被害者証言のつどい』について」(ヒバクシャ-ともに生きる1号)抄
一九八二年八月六日、三十七回の原爆の日を迎え広島で行なわれた原水爆禁止世界大会の関連行事の一つとして私達は、「原爆被害者証言のつどい」を開催いたしました。被爆体験者五十名の出席をいただき、全国から三○○人に及ぶ一般の参加者を迎え、約四時間にわたって、証言及ぴ被爆実体の継承のための対話集会をひらき、非常に強い反応をいただく事ができました。当日、不自由な身体を押して、このつどいに参加して下さった被爆者の皆さん、また、その被爆体験を熱心に聞いて下さった市民の皆さん、本当に有難うございました。小さくともいい、社会のために何かができたと言う心の張りと湧き出た力は、きっと将来に向っての活動の展開に大きな勇気付となったのではないかと思います。皆さんとともに有意義な一日を過す事ができた事を心からよろこんでおります。
この証言のつどいは、「原爆被害者相談員の会」を母体とし、その中の一部会として新しく誕生した被爆体験者グループでございます。今回の行事は、「相談員の会」は勿論、「被爆者家庭訪問をすすめる会」あるいは、「平和を語る青年のつどい」の方々によって構成された、証言のつどい実行委員会の支援を受けて開催したものでございます。「証言のつどい」などと言えば如何にも固苦しく聞こえますけれども、実際には全く逆で、草の根運動を目指し、市民の方々どなたでも気軽に参加していただける、肩の凝らない、くだけた茶の間の座談会と言うイメージとしました。十人から十五人の小グループを一単位として編成し、素朴で率直でしかも真剣味のある対話集会を心掛け、被爆者と参加者のふれあいをも大切にしながら、被爆体験について自由な討議を重ね、真実を十分汲み取っていただけるよう工夫したつもりでございます。今や反核運動は大きなうねりとなって世界にその輪を拡げつつありますが、まだまだその実体は認識されているとは言えません。戦後すでにご三十七年を経て被爆者は次第に高令化し、その数も年とともに減少の一途を辿りつつあります。戦争を知らない世代への転換 期を控えて、被爆体験の若い世代への継承は今を置いて二度とチャンスはないだろうと思います。私達は今強くあせりを感じております。
年表
| Y | M | D | NEWS1 | 
| 83 | 08 | 06 | 原爆被害者証言のつどい、広島市で開催。「原爆被害者証言のつどい」実行委員会主催、約300人参加。 | 
| 84 | 08 | 05 | 原爆被害者証言のつどい、広島市で開催。 | 
| 84 | 11 | 13 | 第5回「原爆犠牲者にささげる音楽の夕べ」(8月6日於広島市)実行委員会、同「夕べ」収益金の一部を「原爆被害者証言のつどい」に寄贈。 | 
| 86 | 04 | 26 | 「原爆被害者証言のつどい」、アリス・ハーズ平和賞を受賞。同「つどい」は、1982年に、原爆被害者相談員の会の呼びかけで発足。 | 
| 87 | 08 | 06 | 「原爆被害者証言のつどい」(原爆被害者相談員の会など主催)、広島市で開催(約 500人参加)。 | 
| 87 | 11 | 21 | 被爆者グループ「原爆被害者証言のつどい」、中曽根前首相句碑撤回運動を進めていくことを決定。 | 
| 88 | 08 | 06 | 原爆被害者証言のつどい(原爆被害者相談員の会など主催)、広島市で開催(約350人参加)。 | 
| 89 | 04 | 17 | 「原爆被害者証言のつどい」、広島赤十字・原爆病院NO被爆病棟を保存するよう同病院に要請書を送付。 | 
| 89 | 07 | 15? | 原爆被害者相談員の会、8月6日の「原爆被害者証言のつどい」での証言のビデオ保存を決定、ビデオ撮影作業などのボランティアを募集。 | 
| 89 | 08 | 06 | 「原爆被害者証言のつどい」(原爆被害者相談員の会など主催)、広島市で開催。全国の高校生・大学生ら(約300人)、30人の被爆者による体験談を聴取。 | 
| 89 | 12 | 11 | 原爆被害者相談員の会、会報「ヒバクシャ―ともに生きる」第八号(B5,76ページ)を発刊。8月6日に開催された「証言のつどい」特集を収録。 | 
| 91 | 08 | 06 | 8・6原爆被害者証言のつどい、広島YMCAで開催(約300人参加)。28人の被爆者が、被爆体験を発表。 | 
| 92 | 05 | 21 | 原爆被害者証言のつどい、県被団協など8団体、富重守広島赤十字・原爆病院長に会い、部分保存でも同病院の旧本館を残すよう申し入れる。[原爆遺跡] | 
| 93 | 08 | 06 | 原爆被害者証言のつどい、広島YMCAで開催。26人の被爆者の体験談を約500人が聴取。 | 
| 95 | 07 | 16 | 広島市竹屋公民館、「碑めぐりウオーク」を実施。久保浦寛人「原爆被害者証言のつどい」代表が解説。約20人が参加。 | 
| 95 | 08 | 06 | 原爆被害者証言のつどい、広島YMCAで開催。27人の被爆者が証言。350人が参加。14回目。 | 
| 95 | 08 | 10? | 原爆被害者相談員の会(「被爆者とともに」)・原爆被害者証言のつどい(「ForアスSHOGEN」)・広島医療生協原爆被害者の会(「ピカに灼かれて」)、それぞれ記録集や原爆体験記を出版。 | 
| 96 | 08 | 06 | 原爆被害者相談員の会など、原爆被害者証言のつどいを広島YMCAで開催。 | 
| 96 | 08 | 06 | 「原爆被害者証言のつどい」、広島YMCAで開催。約270人が27人の被爆者の体験を聴く。全体会で舟橋喜恵広島大学教授がウクライナ・キエフ市でのチェルノブイリ原発事故被災者の聞き取り調査の結果を報告。 | 
| 98 | 08 | 06 | 原爆被害者相談員の会、「ヒバクシャと語ろう原爆被害者8・6証言のつどい」、広島YMCAで開催。被爆者26人の体験を小グループに分かれ、約200人が聴取。 | 
 
8・6原爆被害者証言のつどい
| 回 | 年 | 備考 | 
|  |  |  | 
|  |  |  | 
|  |  |  | 
|  |  |  | 
| 39 |  |  | 
| 40 | 2021 |  | 
| 41 | 2022 | コロナ禍、全体会は中止、午後「被爆者の証言」のみ実施。 | 
| 42 | 2023 |  | 
|  |  |  | 
止
	 
	
	
	
	
		
		広島原爆被害者問題ケースワーカー研究会
1975年11月日設立
私たち広島で被爆者福祉に従事するケースワーカーは、1975年11月、被爆者相談を充実させるために広島原爆被害者問題ケースワーカー研究会を発足させ、被爆者のおかれている実態、被爆者のかかえる問題を解決するためのケースワーカーの役割・方法について検討を重ねてきました。その一環として、1977年8月に開催された「NGO国際シンポジウム」の社会科学調査に参加し、30人の被爆者の生活史調査を行ないました。この調査から、原爆が人間にもたらした「いのち・くらし・こころ」にわたる全体破壊の深刻な実相を知らされ、生命をおかされながらも、被爆者として生き抜こうとする被爆者の姿から生きることの尊さを教えられました。そして、被爆体験を語ろうとしない被爆者、語ることのできない被爆者の数多いことを知り、被爆者にかわって、被爆の実相を人びとに伝えることの責任を強く確認しあいました。
1978年12月、広島で開催された第1回原爆問題総合研究会において、ケースワーカーの立場から”原爆孤児であり、ガンとたたかう被爆婦人の苦悩”を報告し、今もなお生命を、そして心をおかしっづけている原爆被害の持続性、それに苦闘しながら、なお被爆者として生きようとする姿は、多くの人びとの感動を呼びました。そしてその報告がきっかけとなって、広島のケースワーカーによる生活史調査をもとにしたこの証言集が生まれました。
出典:「はしがき」(『三十五年目の被爆者』)
 
宇吹に届いた「研究会のご案内」に見る研究会開催状況
| 時 | ところ | 報告者 | 内容 | 
| 19800216 | 広島市民病院 | 若林節美 | 研究会活動をふりかえって―ケースワークにおける生活史把握の意味の模索 | 
|  |  | 三村正弘 | 原子爆弾被爆者対策基本問題懇談会取り組みについて | 
| 19800322 | 広島市社会福祉センター | 富岡啓子 | レポート報告(栗原淑江”被爆者にみる原爆体験の思想化”、石田忠”<原爆>と人間”―社会調査における生活史把握の意義”) | 
|  |  | 三村正弘 | 被爆者相談のための問答集について | 
|  |  | 石田明 | 35周年の節目にたって―全国孤老の調査についての問題提起<全国被爆教師の会会長> | 
| 19800426 | 広島市社会福祉センター | 大野勇夫 | 生活史調査と医療福祉援助<淑徳大学> | 
|  |  | 石田明 | 35周年の節目にたって | 
| <以下の発信者は「広島原爆被害者問題ケースワーカー研究会」から「広島原爆被害者問題研究会」に変化> | 
| 19800628 | 社会福祉センター | 高橋文枝 | 事例研究「助成孤老被爆者と面接」<神田山荘> | 
|  |  | 石田明 | ユネスコ世界軍縮教育会議報告「被爆者問題研究の継承の課題」<平和教育研究所> | 
| 19800726 | 社会福祉センター | 阿左美信義 | 被爆者援護法制定の意義及び動向について<広島法律事務所弁護士> | 
|  |  | 牧村美枝子 | 老人ホームで生活する原爆孤老の面接から<桧田病院ケースワーカー> | 
| 19801018 | 広島市民病院 | 三村正弘 | 研究発表「未解放部落の被爆者」<福島生協病院> | 
|  |  | 正田恵子 | 事例研究「地域で生活する原爆孤老」<放射線影響研究所> | 
| 19801220 | 社会福祉センター | 塚本弥生ほか | 「被爆者援護法はどうあるべきか」―基本懇答申の評価と課題―<塚本弥生(広島市民病院)・江崎須賀子(広島市民病院)・若林節美(広島原爆病院)> | 
|  |  |  | その他「1980年をふりかえって」 | 
| 19810221 | 社会福祉センター | 江崎須賀子 | 民間被爆者相談事業について(広島市民病院) | 
|  |  | 三村正弘 | 同上<福島生協病院> | 
|  |  | 塚本弥生 | 事例研究「認定却下に対し異議申し立てをしたマキさんの事例」(広島市民病院) | 
| 19800328 | 社会福祉センター | 加藤礼子 | 認定申請に伴なう問題点について<広島赤十字病院> | 
|  |  |  | 民間被爆者相談事業について | 
| 19810418 | 社会福祉センター | 田村和之 | 被爆者援護法の法的意味について<広島大学総合科学部> | 
|  |  | 伊藤直子 | 中央相談所の相談事業と課題<相談員> | 
|  |  |  |  | 
|  |  |  |  | 
 
 
 
	 
	
	
	
	
		
		原爆被害者相談員の会 1981年6月13日発足
若林節美「原爆被害者相談員の発足と1年間のあゆみ」
(「ヒバクシャ-ともに生きる1号」所収)より
一九八○年十二月十一日、原爆による苦しみをなめ尽くしてきた被爆者は、原爆被爆者対策基本問題懇談会の意見書(以下、意見書)を期待と不安の中で、じっと待っていた。
それは、被爆者のみならず、被爆者援護や核廃絶を願う人々にとって、被爆者援護法が制定されるか否かは、日本の将来、ひいては人類の未来が問われるという重大な関心事であった。
しかし、報告された意見書は、国の戦争責任を回避し、原爆の被害を矮小化し、そしてあいまいな国家補償論で、三十五年間にわたる被爆者の苦渋に満ちた歴史に意味を与えず、逆に、被爆者に衝撃を与え、生きる意欲を奪ってしまうものであった。
年の瀬も迫る中、日常的に被爆者に接するソーシャル・ワーカー(以下、ワーカー)は、被爆者の悲しみ、怒りを見すごすことはできず、二十人の被爆者の怒りの声を、厚生大臣宛に直訴状として届けた。
震える手で直訴状をつづった老被爆者は、「夫と娘の死にようはひどいものでした。苦しんで、苦しんで……。生きる支えだった息子は、九年間生きましたが、白血病で狂うようにして死にました。たった一人残された私は、あとどれだけ生きられるかわかりません。この死を無駄にしないで下さい。」と訴えた。しかし、この被爆者は長年願い続けてきた援護法の日の目を見ないまま、意見書の衝撃と寒さのため、一ケ月後に他界してしまった。
こうした二十名の被爆者の怒りと抗議の声は政治の前にはむなしく、私たちの小さな灯は、意見書を乗り越える取組みへと燃えていった。
 被害者相談員の会の発足
一九八一年六月一三日、専門ボランティアによる原爆被害者相談が広島市内でスタートした。
これは、不当な意見書を乗り越えるために約半年をかけて産み出された、私たちの唯一の方法であり、運動であった。
今日、被爆者の高令化にともない、被爆者の問題は、複雑かつ深刻化し、とりわけ、被爆者援護の遅れは、被爆者のくらしや、こころの再建を非常に困難にしてきた。
この被爆者の問題に対し、行政や、各関係団体、各機関で相談事業が行なわれてきたが、今日の被爆者の切実な要請に応えるためには、一層、相談事業を強化しなければならず、しかも、専門的知識と経験を生かした総合的、かつ継続的な相談事業が求められていた。
それは、谷間で苦しむ被爆者のために、広く相談窓口を設け、被爆者の直接相談に応じながら、被爆者がかかえる現行二法の問題点、及ぴ、その被害の実態を科学的に究明し、しかも被爆者が被爆者として主体的に生きるための条件を整えていくという内容であった。
しかし、この相談事業の中心的役割を担わなければならないワーカーにとって、これほど重要な課題を目指すには、余りにも荷が重すぎ、不安は隠し切れなかった。
使命感と不安の中で、ワーカー、弁護士、研究者、教師、団体職員、市民等によって原爆被害者相談員の会が発足し、被爆者相談が取り組まれていった。こうして、過去五年にわたる原爆被害者問題研究会活動、NG0国際シンポジウムでの生活史調査、そして「三十五年目の被爆者」の出版等、ねばり強い活動経験が、さまざまな不安を一つ一つとり除き、次のような多くの成果と教訓を残した。
参考
| 年月日 | 事項 | 
| 197511 | 広島原爆被爆者問題ケースワーカー研究会 | 
| 198208 | 原爆被害者証言のつどい | 
| 198212 | ヒバクシャ-ともに生きる1号 | 
| 1981~ | 年表:原爆被害者相談員の会 | 
|  |  | 
|  |  | 
 
 
	 
	
	
	
	
		
		ヒロシマ・フィールドワークの歩み
1994年以来、広島平和記念公園およびその周辺を巡るヒロシマ・フィールドワークを年に1回実施してきた。
2003年以降は、平和公園周辺に住んでおられた方をお招きし、かつての町の様子を証言していただいて、その後一緒にその町の跡を巡ることとした。
出典:『証言 町と暮らしの記憶 中島本町・材木町・水主町』(編集:ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 中川幹朗)(発行:2017年8月5日=ピカから26297日)
関連文献(広島平和記念資料館「平和データベース」を「キーワード:ヒロシマ・フィールドワーク」で検索した結果)
| 書名 | 著者 | 出版者 | 出版年 | 
| ’93修学旅行 | 日本福祉大学付属高等学校第2学年 | 日本福祉大学付属高等学校 | 1993/9/1 | 
| 広島・大久野島への旅-被害と加害の挟間 ’93広島修学旅行研究集録 | 名古屋大学教育学部附属中学校3年生編 | 名古屋大学教育学部附属中学校 | 1994/2/21 | 
| 平和と交流1999年版(平成10年度事業) | 広島平和文化センター | 広島平和文化センター | 2000/2/10 | 
| 証言原爆で消えた町から | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2007/1/26 | 
| 証言町と人の記憶 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2010/5/5 | 
| 消えた町 記憶をたどり 絵と証言 森冨茂雄 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2011/8/5 | 
| 2014年度 第21回ヒロシマ・フィールドワーク(チラシ) |  | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2014/7/27 | 
| 証言記憶の中に生きる町 中島本町・材木町・天神町・猿楽町 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2015/5/3 | 
| 証言 生きている町 原爆で灼かれた材木町・中島本町 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2016/5/3 | 
| 証言 江波に生きる 大岡貴美枝さんの語る暮らし・戦争・原爆 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2016/9/17 | 
| 証言 町と暮らしの記憶 中島本町・材木町・水主町 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2017/8/5 | 
 
	 
	
	
	
	
		
		広島県動員学徒犠牲者の会 1957年2月17日
略年表
| Y | M | D | NEWS1 | 
| 57 | 02 | 04 | 広島県動員学徒犠牲者の会結成準備委員会、広島県庁で開催。 | 
| 57 | 02 | 17 | 「広島県動員学徒犠牲者の会」結成大会、広島県庁で開催(約100人参加)。動員学徒も軍人・軍属なみの国家補償を要求すると宣言。 | 
| 57 | 05 | 31 | 広島県動員学徒犠牲者の会、「友の会だより」を創刊。 | 
| 57 | 10 | 20 | 広島県動員学徒犠牲者の会、第1回動員学徒慰霊法要を光道会館で挙行。終了後、平和公園供養塔に参拝。 | 
| 58 | 07 | 06 | 広島県動員学徒犠牲者の会、第2回動員学徒慰霊法要を広島市寺町・本願寺別院で挙行。終了後、原爆病院の患者を見舞う。 | 
| 59 | 04 | 12 | 広島県動員学徒犠牲者の会、第3回定期総会を広島女学院講堂で開催。 | 
| 60 | 08 | 06 | 中山マサ厚生大臣、広島市内の旅館で県動員学徒犠牲者の会・県身体障害者団体連合会など県内23団体の陳情を受ける。広島市、原爆総合医療研究所の設置を要望。 | 
| 66 | 06 | 20 | 準軍属広島遺族の会(1958年5月、援護法改正期成同盟会を改称)、解散総会をあげ、広島県動員学徒犠牲者の会に合流。([動員学徒誌]) | 
| 69 | 04 | 09 | 広島県・長崎県動員学徒犠牲者の会交歓会、長崎市国際文化会館で開催。 | 
| 73 | 08 | 20 | 広島県動員学徒犠牲者の会の代表3人、首相官邸で二階堂官房長官に、遺族・傷害者の恩給などの改善を陳情。 | 
| 78 | 11 | 07 | 広島・長崎の動員学徒犠牲者の会、島原市で交流大会。 | 
| 80 | 01 | 10 | 「広島県動員学徒犠牲者の会」理事長沖本喜夫、死去。 | 
| 91 | 08 | 06 | 広島県動員学徒犠牲者の会、広島市平和公園の慰霊碑前で第35回原爆追悼式と供養会(約500人参列)。 | 
| 94 | 04 | 17 | 広島県動員学徒犠牲者の会、動員学徒の50回忌法要を進徳学園で挙行。約400人が参列。 | 
| 95 | 08 | 06 | 広島県動員学徒犠牲者の会、追悼式を平和公園の動員学徒慰霊碑前で挙行。約300人が参列。 | 
| 97 | 08 | 06 | 広島県動員学徒犠牲者の会、動員学徒追悼式を挙行。約500人が参列。 | 
 
	 
	
	
	
	
		
		日本文化平和協会(JCPA) 1947年9月28日発会式
会長:長田新広島文理大学長、副会長:マクミラン女学院教授、佐伯好郎。(『中国新聞』19470928)。
略年表
| 年月日 | 事項 | 
| 194707 | 前史=長田新(広島文理科大学学長)・長谷信夫(医師)ら広島在住の文化人が、日本文化平和協会の設立を計画。意図=同年5月3日に施行された新憲法の「戦争放棄を条文のみにとどめ」ないため、広島市を文化都市として建設。具体的な構想=「ノーベル平和賞と同じような広島平和賞」、「マンハッタンの浜にき然とそびえる平和シンボル-平和の女神の像を模造し、広島城跡に建立。今は世界平和攪乱の罪で天の制裁としてあとかたもなくなった軍閥横行の地を清め、平和の芽ばえを守護する意味」。(『中国新聞』7月9日)。 | 
| 19470928 | 発会式 | 
| 194711 | 第1回文化講座(中国新聞社と共催)。講師:天野貞祐第一高等学校校長。会場:広島女学院講堂(13日)、文理科大学・高等師範学校(14日)。 | 
| 19480204 | 文化国家建設広島学生大会。会場:爆心地近くの元護国神社前広場 | 
| 19480220 | 平和の歌」の入選発表 | 
| 19480403 | 大山郁夫(早稲田大学教授)講演会。会場:広島女学院講堂 | 
| 19480831 | 『恒久平和論』の出版。 | 
| 19480908 | 広島文理科大学長長田新「世界平和への道」を掲載(『中国新聞』) | 
| 19480918 | 『中国新聞』が紹介。「恒久平和への精神的な分野を開拓しようと企画し昨春来着手」 | 
| 194905 | 田辺耕一郎の書評(『書評』1949年5月)=カントの永久平和論を批判し。世界連邦(世界共和国)の理念を高く掲げた。 | 
|  |  | 
 
 
| 恒久平和論長谷信夫(編)(日本文化平和協会、19480831) | 
|  |  | 
|  |  | 
 
目次
 
|  |  |  | 
|  | 絶対的平和論と相対的平和論 | 矢内原忠雄 | 
|  | 世界平和のために | 原随園 | 
|  | 平和国家の理念 | 天野貞祐 | 
|  | 平和日本とユネスコ | 森戸辰男 | 
|  | 恒久平和論 | 長田新 | 
|  | 装幀 | 南薫造 | 
 
 
 
	 
	
	
	
	
		
		中国新聞労働組合新聞研究部 1969年7月23日発足
略年表
| 年月日 | 事項 | 
| 前史 |  | 
| 19591005 | 「新聞討論集会」(中国地連主催、岡山市)。テーマ:「新聞はこれでよいのか」「新聞批判にどうこたえるべきか」。講演:「読者と新聞」(広島大・今堀誠二)など。中国労組から平岡敬委員長ら5人が出席。参加者約400人。 | 
| 19610905 | 中国労組として初の新研集会「中国新聞をよりよくするために」。参加者約20人。大牟田稔委員長報告後、八・六紙面の検証など。 | 
|  |  | 
| 19690723 | 中国新聞労働組合新聞研究部発足。 | 
|  |  | 
|  |  | 
| 出典 | 『中国新聞労働組合50年史』(同編集委員会、19970829) | 
|  |  | 
 
	 
	
	
	
	
		
		広島文学資料保全の会活動日記(抄)
出典:『広島に文学館を 広島の心を21世紀に伝えよう!』(編集人:尾津訓三・池田正彦 発行人:好村冨士彦、1999年4月30日)
| 年月日 |  | 
| 1987 | ヒロシマに関わる文学資料の調査、収集・保存、そのための施設建設を求め、広島市長への<要請>署名運動。発起人11人=磯貝英夫、今堀誠二、大原三八雄、北西允、栗原貞子、好村冨士彦、四国五郎、立川昭二郎、深川宗俊、松元寛。発起人の呼びかけに応じた、被爆者、文化人、学者、市民72人は参道呼びかけ人として活動に参加。 | 
| 2月 | 仮称「広島の文学資料の保全をすすめる会」を結成(代表者:広島大学学長・沖原豊)。幹事・事務局を選出し、要請署名と活動資金を訴える活動にとりかかる。 | 
|  |  | 
|  |  | 
|  |  | 
|  |  | 
|  |  | 
|  |  | 
	 
	
	
		
					 
	
		
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。