2月に亡くなった人々
日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
01 | 1973 | 長岡省吾 | ながおか・しょうご | 71 | 広島大学理学部[学研調査]。被爆時、広島文理科大学嘱託として山口県に地質調査で出張中。翌日入市。被爆資料収集に努めた(初代広島原爆資料館長)。<別記> |
01 | 1997 | 河合幸尾 | かわい・ゆきお | 広島女子大学元教授。原爆被害者相談員の会代表。宇吹所蔵資料=「故・河合幸尾先生をしのぶ会」(19970405広島県民文化センター)資料 | |
01 | 2003 | ネルソン、リチャード | ねるそん | 77 | 広島原爆投下機エノラ・ゲイの無線士(出典:『中国新聞』20030208) |
02 | 2013 | 山岡ミチコ | やまおか・みちこ | 82 | 被爆証言者。「山岡ミチコさん 被爆し 渡米治療」(『中国新聞』20130201、田中美千子記)http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=8665 |
04 | 1980 | 佐々木雄一郎 | ささき・ゆういちろう | 63 | 被爆記録写真を撮り続けた広島の写真家。[69原爆被災資料広島研究会]。『原爆三十年』(広島県編・刊)の挿入写真の選定・編集でお世話になる。 |
05 | 1991 | ペドロ、アルぺ | ぺどろ | 被爆当時、長束修道院院長。出典:『中国新聞』20110428(増田咲子記者) | |
06 | 1989 | 甲斐英男 | かい・ひでお | 広島県史編さん室の上司。<別記> | |
06 | 2012 | 重松逸造 | しげまつ・いつぞう | 94 | 放射線影響研究所元理事長。 |
07 | 1971 | 尾形静子 | おがた・しずこ | 44 | 広島市広瀬国民学校で勤務中被爆。『広島県大百科事典』(森下弘執筆) |
07 | 1987 | 小西ノブ子 | こにし・のぶこ | 80 | 反戦被爆者の会会長。 |
08 | 1961 | 雑賀忠義 | さいか・ただよし | 67
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広島高等学校教授の時被爆。英文学者。1957年広島大学を定年退官。広島平和公園にある原爆慰霊碑の碑文の作者。 |
08 | 1997 | 小谷鶴次 | こたに・つるじ | 84
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広島大学名誉教授。政経学部教授時代に世界連邦建設運動にかかわる。 |
08 | 2015 | 栄久庵憲司 | えくあん・けんじ | 85 | 工業デザイナー。<別記予定> |
09 | 1982 | 加藤新一 | かとう・しんいち | 81
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広島市在住の被爆者。[52広島平和問題談話会](日本国際連合協会広島支部局長)。第1回国連軍縮特別総会に参加。 |
09 | 1996 | 小笠原基生 | おがさわら・もとお | 69
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記録映画監督。「ヒロシマ・原爆の記録」、「ヒロシマ・母たちの祈り」などを監督。 |
10 | 2012 | 宇根利枝 | うね・としえ | 93 | 「宇根利枝さんが死去 慰霊碑に献水 半世紀以上 93歳」(『中国新聞』20120212、田中美千子記) |
10 | 2018 | 松原美代子 | まつばら・みよこ | 85 | 12歳の時、建物疎開の作業中に爆心地から約1.5キロで被爆。<別記予定> |
11 | 1985 | 村上忠敬 | むらかみ・ただよし | 77 | 広島大学高師教授。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。広島大学名誉教授。1970年4月~74年3月、広島女学院大学長。1968年~83年、核禁広島県民会議議長。在韓被爆者のための医師団派遣などに尽力。[70ヒロシマ会議] |
11 | 1990 | レイノルズ、バーバラ | れいのるず、ばーばら | 74
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米の平和運動家。1951年に来広し、18年間広島市に滞在、1962年に広島・長崎平和巡礼団を組織するなど平和運動に貢献。 |
11 | 1992 | 殿敷侃 | とのしき・ただし | 50
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環境アーチスト。3歳の時、広島で被爆し、両親を失う。 |
13 | 1970 | 近藤寿治 | こんどう | 被爆時、広島文理科大学学長(兼高師校長)として出張中。後日入市[広島大学] | |
16 | 1994 | 小佐々八郎 | こささ・はちろう | 88 | 日本被団協顧問。長崎原爆被災者協議会会長などを歴任。藤居平一氏の紹介で自宅を訪問。 |
17 | 2011 | 黒川万千代 | くろかわ・まちよ | 81 | 国際平和運動家。<別記予定> |
18 | 2011 | 尾糠政美 | おぬか・まさみ | 18 | 被爆写真家。<別記予定> |
18 | 2012 | 庄野直美 | しょうの・なおみ | 86 | 九州帝国大学理学部1年のとき入市被爆。宇吹追悼文あり。<別記> |
20 | 1979 | 金子弥吉 | かねこ・やきち | 山口県被団協初代会長。 | |
22 | 1968 | 名越史樹 | なごや・ふみき | 7 | 白血病で死亡。<別記予定> |
22 | 1998 | 荘司雅子 | しょうじ・まさこ | 台湾出身。奈良女子高等師範学校卒業後、1935年広島大学教育学科に入学。長田新の勧めなどでフレーベル研究。 | |
22 | 2019 | 加納実紀代 | かのう・ | 78 | 出典:高雄きくえ「加納実紀代さんを悼む 銃後の加害と被害問う」(『中国新聞』20190226) |
24 | 2011 | 藤平典 | とうへい・のり | 82 | 日本原水爆被害者団体協議会代表委員。 |
24 | 2021 | 児玉健次 | こだま・けんじ | 87 | 広島大学文学部在学中の1956年8月に開催された8・6学生平和会議(1956年8月5~7日)の実行委員長<別記> |
26 | 1955 | 今堀恭子 | いまほり・きょうこ | 43 | 被爆当時広島市女教諭。広島文理科大学の第1回女子卒業生。今堀誠二・元広島大学総合科学部長の姉。 |
26 | 1968 | 浜井信三 | はまい・しんぞう | 62 | 広島市長。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起)]。[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。<別記予定> |
26 | 2002 | 鎌田定夫 | かまた・さだお | 72 | 長崎平和研究所長。<別記予定> |
26 | 2003 | 藤原彰 | ふじわら・あきら | 歴史学者。<別記予定> | |
26 | 2019 | 見崎進 | みさき・すすむ | 92 | 第五福竜丸元乗組員。 |
27 | 1987 | 亀井文夫 | かめい・ふみお | 78 | 映画監督。被爆者を描いた「生きていてよかった」(1956年)などを制作。<別記> |
27 | 2003 | 小田 丕昭 | おだ・ひしょう | 92 | 洋画家。出典:寺本泰輔「原爆抽象画秘めた鋭さ 小田 丕昭氏を悼む」『中国新聞』20030227 |
28 | 1986 | パルメ、オロフ | ぱるめ・おるふ | 59 | スウェーデン首相。暗殺。1981年に、「軍縮と安全保障に関する独立委員会」委員長として、来広し、原爆資料館などを見学。 |
28 | 2015 | 松谷みよ子 | まつたに・みよこ | 89 | 児童文学作家。 |
30 | 1985 | 中野好夫 | なかの・よしお | 81 | 英文学者。原水禁運動などに尽力。[82推進連絡会議呼びかけ人]。学生時代の友人の父。 |