原爆供養塔小史
1947年(昭和22年)8月6日、前年に引き続いて慈仙寺鼻の戦災供養礼拝堂で広島宗教連盟主催のもとに慰霊祭が執行された。慰霊祭は、午前7時に仏式から始まり、キリスト教、教派神道、神社庁式の順に正午まで続いた。
1949年のこの行事の式次は広島市戦災死没者供養会が発行した「広島市戦災死没者慰霊祭執行について」と題する案内状により詳細に知ることができる。これによれば、8月6日午前6時半から7時半の1時間、宗教連盟主催の行事を行ない、平和式典開催時間(8時15分-9時15分)の中断後、9時半に再開、新教(プロテスタント)、天理教、浄土宗、旧教(カトリック)、日蓮宗、真宗本派、真宗大派、真言宗、曹洞・臨済宗の各派の順にそれぞれ1時間ずつ法要を執行し、午後6時半に終了することになっている。この行事は、平和祭の中断した50年にも執行されており、平和記念日の諸行事の中で、翌年から現在まで開催され続けている唯一のものである。
原爆被爆直後、広島から重傷者約2、000人が宇品港から海上約6キロメートル沖の似島の陸軍検疫所に送られた。7日朝までの死亡者約400人は、火葬に付されたが、相ついで死亡した約1、500人の死体は、火葬が間に合わず、同島南岸の横穴と露天の防空壕に土葬されていた(「中国新聞」47年10月14日)。
1947年9月25日、広島市議会は、「広島市戦災死歿者似島供養塔」(千人塚)の建設費30万円を可決し、似島に眠る無縁仏を弔うこととした。発掘作業は、9月下旬から開始され(この時行われた放射能調査では、掘り出された骨から放射能が検出された)、11月13日、供養塔の除幕式および追悼法要が、日本宗教連盟広島県支部と広島市戦災死没者供養会の共催で死没者遺家族約300人の参列のもとに開催された。翌48年の平和記念日からは、宗教連盟広島県支部と広島市戦災死没者供養会が、中島の供養礼拝堂と似島供養塔の両所で慰霊祭を行なうようになり、54年まで続けられた。
1950年3月、それまで宗教連盟とともに慰霊祭を行ない、戦災供養塔を管理していた広島市戦災死没者供養会が、政教分離を求めるポツダム政令にもとづいて広島市の管理からはずされることになった(「中国新聞」55年2月15日)。そこで、同年5月、これに代わる民間団体として広島戦災供養会が結成された。同会は、分散している無縁仏を一か所に納骨するための堂の建設や戦災死没者名簿作製、祭祀法要の執行などを計画し、50年11月8日につぎのような請願書を広島市長に提出した。
現在市内数ケ所にある戦災者の遺骨は約30万柱あるが、これを一ケ所に集め明年の8月6日には、この新納骨塔で戦災供養を行ない霊を慰めたい。場所は、広島城、大本営跡の西側で、建設に要する費用約500万円を県および市で負担し、この納骨堂の傍らへ平和会館(仮称)を建設し、平和に関する研究所、図書館、会議場などを設けてもらいたい。 (「中国新聞」50年11月9日)
この請願書を付託された市議会の建設委員会は、同地が文化財保護法の適用を受けているので、使用を認めず、現在地への再建を認めた。しかし、市当局は、中島公園を平和記念公園として建設する計画から、墓地と同性格の納骨堂の公園内建設に難色を示し、この問題は停滞状態を続けることとなった(「中国新聞」53年11月25日)。
原爆犠牲者の遺骨については、講和条約発効前後から、大きな社会問題となっていた。新聞には、つぎのような動きが取り上げられている。
年 | 事項 |
1951 | 2月20日、山口県熊毛郡伊保庄村専唱寺で保管されていた元陸軍病院跡で発掘された1、288柱の遺骨が広島県世話課と復員連絡局広島支部に引き取られる。 |
1953 | 3月24日、中島供養塔[戦災供養塔のこと]で合同慰霊祭を執行。終了後、原爆死没者分1,232柱は、中島供養塔に、外地戦没者分56柱は、比治山納骨堂に納骨。 |
1952 | 7月4日、金輪島で原爆犠牲者の遺骨29柱が見つかる。7月10日、坂村に160体以上の遺骨が眠るとの情報。29日、千田町で42体、31日、二葉山麓で52体発掘。これらの内、引取り手の無い遺骨506柱が、中島の供養塔に合祀されることになり、8月5日、納骨法要を供養会主催で執行。 |
1953 | 2月、市内己斐西本町の善法寺に数百の無縁仏のあることが判明。8月6日、安芸郡府中町、龍仙寺の遺骨143柱を広島市に移管。 |
1954 | 4月19日、県病院職員の遺骨66柱を中島供養塔へ移す。 |
こうした動向は、納骨場所としての原爆供養塔建設問題に新たな進展をもたらした。1954年、広島市は、建設から8年を経過し、くち果てた姿になっている戦災供養塔の再建を検討するため、広島市供養塔建設対策委員会(委員長:坂田修一助役)を設置した。5月29日に初会合が開かれ、以後協議を重ねたが、50年当時と同様の問題から、なかなか結論に達しなかった。55年2月14日に開催された第5回委員会で、原爆供養塔の敷地は、市民感情と既成事実を尊重して、現在地を可とするとの市長への答申を決定した。一方、広島戦災供養会も、6月3日の理事会で原爆供養塔再建問題を協議し、荘厳なものを条件に市に一任し、再建資金45万円を市に寄付することを決定した。これを受けた市は、予算150万円で8月6日までに再建することとした。
原爆供養塔(設計は市立浅野図書館設計者の石本喜久治が担当)は、6月15日の地鎮祭を経て、7月20日に完成した。8月4日に、似島(約2,000柱)、己斐(約500柱)などの遺骨が移管、収納され、5日に完工式と開眼法要が挙行された。また、広島戦災供養会も、原爆供養塔の建立に合わせて供養塔北側に新塔婆を建立し、8月5日、開眼法要を執行した。塔婆に使用された木は、宮崎県の有志から寄贈された160年の古杉で、周囲3尺、高さ33尺、重量4トンという大きなものであった。
広島市社会課は、1957年にかけて、市内および市周辺の遺骨の掘り起こしと移管を行ない、遺骨の収納をほぼ終了し終えた(「中国新聞(夕刊)」61年8月13日)。しかし、遺骨は、その後も、市内の工事現場から発見されたり、被爆直後犠牲者の収容作業に当たった人々の証言などにより新たに発掘された。特に71年に広島市が実施した似島での発掘作業では、220体分という大量の遺骨が発掘された。こうした遺骨は、その都度、原爆供養塔に収納されている。現在、氏名の判明している948人の遺骨と、約7万人の無縁仏の遺骨が納められている。
原爆供養塔開眼を目前に控えた1955年8月1日、原爆供養塔の氏名判明遺骨2,432人の氏名が市の社会課によって公表された。これらの名簿の公表は、それぞれ関係者の大きな関心をあつめた。
被爆30年の1975年、広島市は、原爆供養塔に納骨されている犠牲者の遺骨の名簿を全国に送付することとし、7月28日から全国3,379の市町村あてに発送を始めた。この名簿は、55年に初めて公表され、68年に始まった名簿公開の会場で閲覧に供されていたが、広島市が積極的に全国に働きかけたのは初めてのことであった。その背景には、戦後30年経過し、遺家族や関係者が全国に散在しているとの判断があった。名前や収集場所の分かっている遺骨は2,432柱であったが、このうち、91年までの名簿公開で1,487人の遺骨の身元が判明した。
1985年、広島市が、市内の区役所、出張所、公民館に、一枚の紙に印刷した名簿を掲示したところ、12月下旬までに16家族が遺骨を引き取り、26家族が名乗り出るなどの成果があった。このため、広島市は、名簿の全国公開を、被爆40年の85年にふたたび実施することとした。85年7月3日、全国約890の自治体に「原爆供養塔納骨名簿」(1,080人分)を発送し、同月15日から10月31日まで全国一斉に掲示してもらうよう依頼した。全国公開は、この年以後、毎年実施されるようになった。91年には、948人分の名簿が発送された。