『アカハタ』の中の原爆被害

『アカハタ』(日本共産党機関紙)の中の原爆被害(者)

1950.4.13 
広島に平和擁護委 谷本牧師 教えられる米の反戦運動
(中国総局発)6日、大山郁夫氏を囲む「平和懇談会」で広島平和擁護委員会」が結成されたが、世話人になった谷本牧師は、ジョン・ハーシーの「ヒロシマ」で世界的に有名であり、先日1年余のアメリカ視察から帰ったカトリック広島上流川の牧師さんで、この懇談会の席上「私も宗教家として平和運動に身を捧げていますが、もっと地についた民主的な平和運動にしなければならない、そのため勤労者を中心とした平和擁護の運動と緊密な連絡をとってやりましょう」との意見をのべ、さらに現在アメリカでたたかっている平和運動の一端を
「カトリック、プロテスタント、クエーカーをはじめキリスト教の中から良心的戦争反対熱が非常に起っている、とくに学生に間では世界国家建設運動(U・W・F)国際反戦同盟(W・R・I)とか戦争防止協会などに加盟して戦争に反対してたたかっている。スワスモアー大学できいた話ではアメリカでも戦争をこばんで投獄された学生が多く、現在でも5、6名の学生が投獄されている、沢山な税金がとられ、これが軍備に使われることに反対してたたかっています」
と語った。
なお第一回世話人会は15日、広島市流川カトリック教会でひらかれることになった。
1950.5.12
”原爆の日”8月6日を反戦デーに 広島青年平和運動に立つ
(中国総局発)世界民青連から「原爆最初の犠牲者である広島の青年諸君から全世界の平和愛好者に原爆・水爆中止のための署名運動をよびかけるよお努力していただきたい」との要請がきた。これにたいし、民青団広島地区委員会はただちにこれに答え、広島全青年の総力を結集して原爆記念日の八月六日を反戦斗争デーに決定、反戦大デモンストレーションを行なうよう決定した。また、国内における署名運動を平和投票の形式で原爆反対のスローガンを要求の中に入れる、なお広島造船青年部は5月はじめ青年部委員会で反戦旗を青年部旗に決定、近く民青団とともに原爆中心地で平和投票をおこなう。
1950.5.20
世界に報道さる 広島・長崎 青年の平和アピール
去る4月21日から3日間東京で開らかれた青年祖国戦線結成大会に広島代表として参加した全商工長沢昭二(22)大金属空海田義則(25)広島造船高木栄(24)民青団広島望月久枝(21)広島県学連熊谷頼忠(23)の5君および長崎県代表の長崎造船楠本浩(21)山下安雄(22)の2君は、広島で原爆をうけ長崎で家族を失った民青団書記長佐々侃君と連名で、世界民青連にたいし、原爆の体験を通じて世界の青年は平和のためにけっ起せよと別記のよおなアピールを送った。このアピールは全文が去る12、13両日のモスクワ放送で全世界に報道されたが15日世界民青連書記局から左の手紙が祖国戦線事務局宛にとどいた。
「原爆の廃墟の中から全世界の青年諸君に訴たう」(要旨)・世界民青連の手紙[略]
1950.5.27
胸痛む原爆の傷痕 広島市の平和投票
(中国総局発)民青団広島地区委員会を中心とした原爆都市広島の平和投票はその後ずっとつずけられている。原爆の中心地に近い市内八丁堀の署名場には毎日黒山のよおな人があつまり「原爆の日の惨状」を写した数枚の写真をじっと見つめ、緊張した顔に「うちの子供も死にました」と戦争に対する心からのにくしみを平和投票にあらわしてゆく。署名運動は広船、全商工、全逓をはじめ労組青年部を中心に大きく発展、20日現在すでに数千名にのぼっており、8月6日の反戦斗争デーを目標に働く全市民の署名を集めようとすすめられている(写真は原爆傷に苦しむ赤ちゃん母親「原爆の日の惨状」の写真から)
1950.6.1
原子爆弾禁止せよ 長崎 青年団体が運動起す
(長崎支局発)広島についで第二発目の原子爆弾の洗礼を受けた長崎市でも、平和擁護委員会のストクホルム・アピールにこたえ青年層が中心となり原子爆弾禁止運動にのり出した。長崎市では長崎造船労組青年部、民青団などで、代表を中央の青年祖国戦線結成大会に送ってから急速に具体化し、長崎三菱4工場青年協議会、高島炭坑労組青年部、民主青年団の会合で、原子爆弾禁止運動を中心に広く結集することが決議され各青年団体に原子爆弾反対準備委員会の名前で広く呼びかけた。26日には午前十時から長崎市丸尾町漁業会館で第一回の準備会が開かれ、長崎造船、三菱電気、三菱精機、日通、全逓各青年部代表、地域青年団、共産党など約18万名を代表する11団体の代表30名が集まり、次のことを決定した。
一、組織の性格は連絡準備会とし、各参加団体の自主性を尊重するとともにそれぞれの活動に対して相互批判の自由を認める
二、名称は取りあえず「原爆反対運動連絡協議会準備会」とする。
三、今後の行事としては
(1)ストックホルム・アピールによる署名運動をやる
(2)原子爆弾体験者の手記を広く集めて出版する
(3)原子爆弾体験者の座談会を開きその速記録を出版する
(4)世界の平和愛好者に対し原爆禁止のアピールを出す
なお29日の長崎地区労主催「自由党をほおむる人民大会」に原爆反対連絡準備会の名前で長崎造船青年部から原子爆弾禁止運動を提案することがあわせて決議された。
1950.6.21
「屍の街」合評会 原爆使用に身をもって抗議する世界最初の記録
松田[解子] こんど「屍の街」がでて、各方面でたいへんな反響を呼んでいます。作家の大田[洋子]さんは広島に疎開するまで私の家の近くに住んでおられ、今になってみれば、まるで原爆をうけにわざわざあちらまでゆかれたみたいです。近ごろではまたずいぶんからだが弱り、科学者にいろいろ研究材料を提供されているそおですが、痛々しいことです。いま新しい戦争が刻々と迫り、一方ではストックホルム・アピールが、世界中の人々に原爆禁止を訴たえている最中ですし、今日はこれを読んだ職場婦人のみなさんに正直に感想を話し合いたいと思います。[以下略]
1950.6.26
二世兵士まで署名 ”わだつみの声”出演者たちが 日劇前で平和投票集め
[前略]
「原子爆弾で石がガラスのよおにとけるのです」と爆心地広島から持ってきた石をみせながら説明すると、戦災孤児でくつみがきをやっている****君までいっしょになって署名かく得のお手伝い、丸の内署の巡査や二世の米兵まで署名、1時間もたたぬうちに1500枚があつまった。[以下略]